2018/12/07 - 2018/12/09
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旅人のくまさんさん
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九州南東部の続百名城巡りです。日本百名城の鹿児島城は、江戸時代初期に島津忠恒によって築かれた上山城跡である城山と、その麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城です。平城や山城とする見解もあります。
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鹿児島城の内堀と石垣の光景です。別名の『鶴丸城』は、二の丸にあった御殿の形状が、鶴が羽を広げたようであったことによります。廃城後の二の丸跡には、鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っています。
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同じく、鹿児島城の内堀と石垣の光景です。明治34年(1901年)以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、第二次大戦後は鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室として使用され、現在の本丸跡には鹿児島県歴史資料センター黎明館が建ちます。
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この一角は、蓮にとっての土壌が適しているのでしょうか、大きく育った葉が、緑色を残していました。現地ガイドさんの話しですと、今年だけでなく、毎年のことのようです。
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お堀に面した石垣の北東角になります。鬼門に当たるため、角石が切り欠かれていました。陰陽道では、鬼が出入りする方角として北東(艮:丑と寅の間)の方位を『鬼門(きもん)』とし、鬼門とは反対の、南西(坤:ひつじさる)の方角を『裏鬼門(うらきもん)』として忌み嫌っています。
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餌付けをされているのでしょうか、足音を聞きつけたのか、大きな野鯉が口を開けて岸辺によって来ました。野鯉は、飼養されているコイよりも力が強く、そのため鯉釣りでは、仕掛けを特に丈夫に作ります。練り餌を用いた『吸い込み釣り』や、『ぶっこみ釣り』、『浮き釣り』が基本とされます。もちろん、お堀の鯉をつってはいけません。
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振り返って眺めた、枯蓮が生い茂ったお堀と木橋の光景です。本丸北門の橋になるようです。御楼門に通じる橋ではないようです。
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角に切り花期があった、本丸石垣の北東角方面の光景になるようです。この位置からの眺めですと、石垣の傾斜具合もよく分かりました。薩摩藩初代藩主の忠恒(家久)の実父の義弘は、海岸に近いこの地は防御に問題があり、城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していたと伝わります。
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内堀の周りをを三分の1から、半分近くは歩いてきたようですが、まだまだな台石垣は続いていました。徳川家康は、薩摩征伐は行わず、薩摩藩は外様大名として存続を許されることとなりました。このため、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはありませんでした。
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あちらこちらに大きな鏡石が配された石垣の光景です。遊び心でしょうか、両手を広げた人の姿にも似た石積部分がありました。苔の生え具合は、石室で異なっているように見えました。築城から数百年後、幕末の薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり増した。イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど、砲弾の脅威に曝されることになりました。
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この場所は橋ではなく、内堀の上に石垣を積み上げた通路が築かれていました。お堀の水は、その下の水路を潜っていたようです。黎明館方向に向かうことができる通路だったようです。
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この辺りでは、お堀の水は水位が下がっていました。水位が下がったとみるより、堀底の地盤が高くなっていたようです。修復工事用らしい黒い土嚢が、お堀を埋めるように積み上げてありました。
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『薩摩義士碑』があった場所付近の光景です。『薩摩義士』は、江戸時代、美濃国の揖斐川、長良川および木曽川の三川の治水難工事に、多大の犠牲を払って従事した薩摩藩の人々のことです。『宝暦治水の義士』とも呼ばれます。
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正面から見上げた、『薩摩義士碑』の光景です。宝暦3年(1753年)12月、江戸幕府老中・西尾忠尚は、薩摩藩に命じて濃尾地方の木曽川、長良川、揖斐川の三河川の治水事業に当たらせました。これは幕府の、参勤交代と同様、雄藩に余裕を持たせないための政策手段でもありました。
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イチオシ
『薩摩義士碑』のズームアップ光景です。濃尾地方の三河川は、その流域が今日の長野、岐阜、愛知、三重、滋賀の5県に亘り、とりわけそのうち南北15里、東西2里では多くの本支流が交錯し、非常に困難な事業でした。そのうえ寛保年間以後、11年間にわたって洪水が頻発した時期でもありました。幕府の厳命、督促は猶予がなく、薩摩藩は死力を尽くしてこれに当たりました。
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更にズームアップした、『薩摩義士碑』の前に手向けられた黄色の菊の花の光景です。藩主島津重年の命により、家老平田靱負正輔、大目付伊集院十蔵久東らが工事を担当し、留守居山沢小左衛門盛福、普請奉行川上彦九郎親英らとともに、美濃国大牧村を本陣として、宝暦4年(1754年)2月から工事に着手し、5月22日ひとまず工事を中断しました。
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『薩摩義士碑』の文字が記された標識の光景です。日本語を含めて、五か国語で記されていました。跡の4カ国語は、英語、中国語(簡略体)、台湾語(繁字体)とハングル表記でした。三河川の治水工事に戻ります。宝暦4年(1754年)9月、さらに勘定頭倉橋武右衛門が参加し、翌宝暦5年(1755年)3月28日に工事を完成しました。幕府目付牧野織部、勘定吟味役細井九郎助ら、新たに江戸から下った検使は、地元の検使とともに、同年4月16日から5月22日まで1か月余りにわたって本検分をすませました。
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格式高い姿の石灯篭の光景です。正面に『宝暦治水薩摩義士常夜灯』の文字が刻まれていました。薩摩藩は、この工事で数十万両もの莫大な経費を負担しました。幕府側の妨害工作などによる過労のため、病となり生命を落としたり、あるいは横暴な幕府側への抗議のために切腹して果てる者を多数出しました。総奉行平田靱負は工事完遂を見届け、この難事業の責任を取る形で切腹しました。第7代藩主の島津重年(1729~1755年)も後を追うように病没しました。
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観光用の道案内標識の光景です。左向きの矢印で、西郷隆盛終焉の地、西郷洞窟、城山展望台や五代友厚誕生地などが記されていました。旅行計画書には乗っていませんでしたが、運転手さんの好意で、西郷洞窟を最後に見学することができました。右向きの矢印は、これから向かう予定の黎明館と天璋院(篤姫)像が記してありました。
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『黎明館』の建物光景です。一部が工事中でしたが、後ほど入場して見学しました。『鹿児島県歴史資料センター黎明館』が正式名称です。昭和58年(1983年)10月に開館し、約35年が経過しました。
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『黎明館』の脇から眺めた、背後の城山光景です。城山には、江戸時代初期に島津藩初代藩主の忠恒によって築かれた、上山城がありましたが、今はその姿はありません。
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『黎明館』の建物のほぼ全景です。テーマ展示では、鹿児島の歴史を『原始・古代』、『中世』、『近世』、『近・現代』の四つに分け、政治・社会史を中心に編年的に展示しています。部門別展示では、『歴史』、『民俗』、『美術・工芸』の三つの部門に分け、実物を用いながら展示しています。
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現地ガイドさんが案内してくれた、オリジナルの『ギボウシ(擬宝珠)』が展示された庭の片隅の光景です。『擬宝珠』は、全体がブロンズ製ではなく、金属部分は、首に巻き付けたような円筒形でした。柱部分には、『新橋』らしい文字が刻まれていました。記憶が少し曖昧ですが、内堀に架かる橋の欄干に使われていたオリジナルの擬宝珠だったようです。
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『天璋院(篤姫)像』の光景です。『天璋院(篤姫):1836~1883年』は、江戸時代後期から明治の女性です。薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となりました。
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『天璋院(篤姫)像』のズームアップ光景です。近年、ドラマでも取り上げられました。島津本家当主で、従兄・島津斉彬の養女になり、本姓と諱は源篤子(みなもと の・あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原敬子(ふじわらのすみこ)と名を改めました。この際に『篤』』の名は君号となり、『篤君(あつぎみ)』となりました。
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少し輝くが薄れたようですが、青々と茂った『ソテツ(蘇鉄)』の光景です。ソテツ科ソテツ属の常緑低木です。その前に、左向きの矢印で『聚珍宝庫碑』の表示がありました。この聚珍宝庫碑は、島津斉彬の曽祖父にあたる島津家25代当主で薩摩藩主の島津重豪(しげひで)所縁の碑とされます。
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『志布志内城跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。築城年代は不明ですが、南北朝時代からこの地が戦乱に巻き込まれたことに伴い、城域が次第に拡充されていったようです。名前がはっきりしているのは、12世紀から救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、肝付氏と次々と城主が変わりました。守護大名・島津氏久が本拠としたこともあります。
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『志布志内城跡』の模型です。天正5年(1577年)、志布志は島津氏の直轄地となり、初代の地頭として鎌田政近が任命されました。その後も外城として重要な役割を果たしたものの、一国一城令で廃城となりました。しかし、建物が無くなっただけで、破壊はされなかったようです。南北600メートル、東西300メートル、六つの廓からなり、その間は空堀で遮る構造です。
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参勤交代の模様を表した鹿児島の城下町の光景です。鹿児島城下の様子を描いた最も古い絵図は、鹿児島県立図書館にある寛文10年(1670年)頃の『薩藩御城下絵図』です。鹿児島城下は,嘉慶元年(1387年)に築かれた清水城を中核に形成され、江戸時代に鶴丸城に移るに連れ、城下町も拡大・整備されていきました。
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天保山砲台に備えられていたボンカノン砲のレプリカの展示です。カノン砲は、砲身が長く、低弾道長距離の砲撃に適した大砲です。江戸末期の薩摩藩は、天保山砲台に150ポンドのボンカノン砲があ里、主力は18ポンドボンカノン砲と24ポンドボンカノン砲とされます。砲弾は球形弾で、射程距離は1000メートル程度とされます。
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『ボンカノン砲』のタイトルがあった説明看板の光景です。嘉永2年(1849年)に鋳造され、天保山砲台に備えられたもののレプリカと紹介されていました。口径27センチ、重さ4.8トンとも紹介されていました。
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