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九州南東部の続百名城巡りです。日本百名城の97番に選ばれている鹿児島城は、慶長6年(1601年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後、維新後の廃藩置県まで島津氏の居城でした。別名、鶴丸城です。

2018暮、九州南東の続百名城(5/20):12月7日(5):鹿児島城(1):鶴丸城跡碑、内堀

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2018/12/07 - 2018/12/09

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

九州南東部の続百名城巡りです。日本百名城の97番に選ばれている鹿児島城は、慶長6年(1601年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後、維新後の廃藩置県まで島津氏の居城でした。別名、鶴丸城です。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • 知覧城の見学を終え、2箇所目のお城巡りの鹿児島市の中心部にある『鹿児島城』に到着しました。園裏山の城山の光景です。今回は6カ所の続百名城巡りが主目的ですが、1箇所だけ日本百名城の鹿児島城にも立ち寄りました。別名鶴丸城です。

    イチオシ

    知覧城の見学を終え、2箇所目のお城巡りの鹿児島市の中心部にある『鹿児島城』に到着しました。園裏山の城山の光景です。今回は6カ所の続百名城巡りが主目的ですが、1箇所だけ日本百名城の鹿児島城にも立ち寄りました。別名鶴丸城です。

  • 城山の頂上に見えていた枯れ木の光景です。火災に遭った期のようですが、まだ生命を保った木のようでした。城山は、シラスでできた丘陵で、標高 107メートルです。明治10年(1877年)の西南戦争の激戦地となったところです。現在は公園になっていますが、全域が国の史跡で天然記念物です。

    城山の頂上に見えていた枯れ木の光景です。火災に遭った期のようですが、まだ生命を保った木のようでした。城山は、シラスでできた丘陵で、標高 107メートルです。明治10年(1877年)の西南戦争の激戦地となったところです。現在は公園になっていますが、全域が国の史跡で天然記念物です。

  • 同じく、所々に紅葉の木もあった城山の光景です。先程よりは、西側の光景になるようです。クスノキ、シダ、サンゴジュなど、確認されたものだけで600種以上の亜熱帯植物が自生し、遊歩道沿いにそれらの植物を観察することができます。この区域にあった上之山城の城郭部は破壊されて残っていません。

    同じく、所々に紅葉の木もあった城山の光景です。先程よりは、西側の光景になるようです。クスノキ、シダ、サンゴジュなど、確認されたものだけで600種以上の亜熱帯植物が自生し、遊歩道沿いにそれらの植物を観察することができます。この区域にあった上之山城の城郭部は破壊されて残っていません。

  • 二の丸址にあった、楠の大樹の光景です。公称『77万石』の大名の城としては天守などや高石垣などは築かれず、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で『不思議』と評しています。これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされ、その代わりに、中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を採っていました。

    二の丸址にあった、楠の大樹の光景です。公称『77万石』の大名の城としては天守などや高石垣などは築かれず、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で『不思議』と評しています。これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされ、その代わりに、中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を採っていました。

  • 『鶴丸城二之丸跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。二の丸は、藩主の世子や隠居宅があった場所と紹介されていました。また、明治10年(1877年)、西南戦争時の官軍の攻撃により、二の丸は二百数十年の歴史を閉じたと紹介されていました。

    『鶴丸城二之丸跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。二の丸は、藩主の世子や隠居宅があった場所と紹介されていました。また、明治10年(1877年)、西南戦争時の官軍の攻撃により、二の丸は二百数十年の歴史を閉じたと紹介されていました。

  • 『薄墨桜』のタイトルがあった説明看板の光景です。岐阜県の本巣村(現本巣市)から寄贈された桜ですが、開花させるために苦労をされているようでした。鹿児島県と岐阜県の繋がりは、江戸時代の木曽三川の治水工事の薩摩義士に遡るようでした。現在は、御楼橋再建の木材でも関係を持っているようです。

    『薄墨桜』のタイトルがあった説明看板の光景です。岐阜県の本巣村(現本巣市)から寄贈された桜ですが、開花させるために苦労をされているようでした。鹿児島県と岐阜県の繋がりは、江戸時代の木曽三川の治水工事の薩摩義士に遡るようでした。現在は、御楼橋再建の木材でも関係を持っているようです。

  • 二之丸跡から眺めた東方面の光景になるようです。枯れたハスの葉が覆い尽くしたお堀と石垣の光景です。鹿児島城は、北に本丸、南に二の丸が位置していましたが、単純な構造で防御には問題のある『屋形造』の城でした。このため、裏山である城山を籠城のための『後詰めの城』としていました。

    二之丸跡から眺めた東方面の光景になるようです。枯れたハスの葉が覆い尽くしたお堀と石垣の光景です。鹿児島城は、北に本丸、南に二の丸が位置していましたが、単純な構造で防御には問題のある『屋形造』の城でした。このため、裏山である城山を籠城のための『後詰めの城』としていました。

  • 真っ赤なサルビアの花の光景です。ブラジル原産のシソ科アキギリ属の草本です。使われることはあまりないようですが、『ヒゴロモソウ(緋衣草)』の和名を持ちます。ハーブのセージの仲間です。

    真っ赤なサルビアの花の光景です。ブラジル原産のシソ科アキギリ属の草本です。使われることはあまりないようですが、『ヒゴロモソウ(緋衣草)』の和名を持ちます。ハーブのセージの仲間です。

  • 薄いピンクと、白色の『セキチク(石竹)』の花です。花弁の切れ込みが浅いので、『ナデシコ(撫子)』ではないようです。ナデシコ科ナデシコ属の多年草です。葉が竹に似ていることから、この名がついたといわれます。

    薄いピンクと、白色の『セキチク(石竹)』の花です。花弁の切れ込みが浅いので、『ナデシコ(撫子)』ではないようです。ナデシコ科ナデシコ属の多年草です。葉が竹に似ていることから、この名がついたといわれます。

  • 同じく、赤色の石竹の花の光景です。原産は中国で、日本には平安時代までには渡来していたようです。世界各地で多くの品種が育成され、現在では、アメリカナデシコなどとの交配品種が栽培の主体となっているようです。

    同じく、赤色の石竹の花の光景です。原産は中国で、日本には平安時代までには渡来していたようです。世界各地で多くの品種が育成され、現在では、アメリカナデシコなどとの交配品種が栽培の主体となっているようです。

  • オレンジ色のマリーゴールドの花の光景です。キク科コウオウソウ属(マンジュギク属)のうち、草花として栽培される植物の総称とされます。原種は、アメリカ大陸の熱帯と温帯にかけて約50種が分布します。

    オレンジ色のマリーゴールドの花の光景です。キク科コウオウソウ属(マンジュギク属)のうち、草花として栽培される植物の総称とされます。原種は、アメリカ大陸の熱帯と温帯にかけて約50種が分布します。

  • 濃い紫色のパンジーの花の光景です。スミレ科スミレ属の植物です。スミレもしくはサンシキスミレから分化したものと考えられ、サンシキスミレの亜種と分類されることもあります。

    濃い紫色のパンジーの花の光景です。スミレ科スミレ属の植物です。スミレもしくはサンシキスミレから分化したものと考えられ、サンシキスミレの亜種と分類されることもあります。

  • 英名で『アン イングリッシュージャパニーズ ディクショナリ』、和名で『薩摩辞書之碑』と記された石碑の光景です。下部に『上海・1869』の文字もありました。慶応元年(1865年)、薩摩藩士の高橋新吉と前田献吉と前田正名の3人が藩庁から資金を借り、明治2年に中国の上海で開成所版の英和辞書を翻刻したものです。当時2000部出版されたようです。

    英名で『アン イングリッシュージャパニーズ ディクショナリ』、和名で『薩摩辞書之碑』と記された石碑の光景です。下部に『上海・1869』の文字もありました。慶応元年(1865年)、薩摩藩士の高橋新吉と前田献吉と前田正名の3人が藩庁から資金を借り、明治2年に中国の上海で開成所版の英和辞書を翻刻したものです。当時2000部出版されたようです。

  • 『薩摩辞書之碑』の中の辞書の部分のズームアップ光景です。英語熱の高まる当時、薩摩辞書として非常に珍重されました。高橋新吉(後の勧業銀行総裁)らは出版の益金で米国遊学をしたとされます。この碑は彼らの業績を称え、昭和56年(1981年)3月に鹿児島市によって建立されました。<br />

    『薩摩辞書之碑』の中の辞書の部分のズームアップ光景です。英語熱の高まる当時、薩摩辞書として非常に珍重されました。高橋新吉(後の勧業銀行総裁)らは出版の益金で米国遊学をしたとされます。この碑は彼らの業績を称え、昭和56年(1981年)3月に鹿児島市によって建立されました。

  • 見事な切込み接ぎの石垣の光景です。石材の色と大きさが揃い、表面加工も均一に施してありました。『鹿児島と石の文化』の紹介です。鎖国時代、長崎を通してヨーロッパから石造文化が伝わったため、九州で盛んに石橋が造られたようです。その他に、当時の技術でも加工しやすかった『溶結凝灰岩』が広く分布していることで石の文化が形成されたようです。

    見事な切込み接ぎの石垣の光景です。石材の色と大きさが揃い、表面加工も均一に施してありました。『鹿児島と石の文化』の紹介です。鎖国時代、長崎を通してヨーロッパから石造文化が伝わったため、九州で盛んに石橋が造られたようです。その他に、当時の技術でも加工しやすかった『溶結凝灰岩』が広く分布していることで石の文化が形成されたようです。

  • 小さなお堀で泳ぐニシキゴイ(錦鯉)の光景です。黒以外の鯉を色鯉(イロゴイ)、赤い鯉を緋鯉(ヒゴイ)、特に観賞魚として色彩や斑点など、体色を改良されたものを錦鯉(ニシキゴイ)と呼びます。

    小さなお堀で泳ぐニシキゴイ(錦鯉)の光景です。黒以外の鯉を色鯉(イロゴイ)、赤い鯉を緋鯉(ヒゴイ)、特に観賞魚として色彩や斑点など、体色を改良されたものを錦鯉(ニシキゴイ)と呼びます。

  • 同じく、小さなお堀で泳ぐニシキゴイ(錦鯉)のズームアップ光景です。日本の新潟県で品種改良や養殖が進み、国内各地への移入や海外輸出が進みました。『生きた宝石』、『泳ぐ芸術品』とも呼ばれます。2004年の新潟県中越地震により、旧山古志村をはじめ一時は壊滅的な被害を受けました。

    同じく、小さなお堀で泳ぐニシキゴイ(錦鯉)のズームアップ光景です。日本の新潟県で品種改良や養殖が進み、国内各地への移入や海外輸出が進みました。『生きた宝石』、『泳ぐ芸術品』とも呼ばれます。2004年の新潟県中越地震により、旧山古志村をはじめ一時は壊滅的な被害を受けました。

  • 『アコウ』の樹名が記された名札の光景です。『アコウ(榕、赤榕など)』は、クワ科イチジク属の半常緑高木です。幹は分岐が多く、枝や幹から多数の気根を垂らし、岩や露頭などに張り付きます。新芽は成長につれ色が赤などに変化します。大木でした。

    『アコウ』の樹名が記された名札の光景です。『アコウ(榕、赤榕など)』は、クワ科イチジク属の半常緑高木です。幹は分岐が多く、枝や幹から多数の気根を垂らし、岩や露頭などに張り付きます。新芽は成長につれ色が赤などに変化します。大木でした。

  • 鹿児島の石の文化紹介の続きです。現在の地質学的な石の分類では次の通りです。<br />?上部加久藤火砕流堆積物(30万年前):小野石、郡山石<br />?下部加久藤火砕流堆積物(30万年前):小山田石、入来石<br />③吉野火砕流堆積物(50万年前):花棚石、たんたど石<br />④花野火砕流堆積物(70万年前以前):河頭石

    鹿児島の石の文化紹介の続きです。現在の地質学的な石の分類では次の通りです。
    ?上部加久藤火砕流堆積物(30万年前):小野石、郡山石
    ?下部加久藤火砕流堆積物(30万年前):小山田石、入来石
    ③吉野火砕流堆積物(50万年前):花棚石、たんたど石
    ④花野火砕流堆積物(70万年前以前):河頭石

  • この辺りも綺麗に積まれた切込み接ぎですが、左手方面の石垣には、少し膨らみや歪みなどの変形が見られるようです。『溶結凝灰岩』は、火砕流堆積物が自身の熱でくっついたものです。火砕流堆積物の上半部は空気で冷やされ、最下部の直接地面に接した部分は地面で冷やされ、溶結しません。これがシラスです。シラスと溶結凝灰岩とは、全く見かけは違いますが、兄弟です。

    この辺りも綺麗に積まれた切込み接ぎですが、左手方面の石垣には、少し膨らみや歪みなどの変形が見られるようです。『溶結凝灰岩』は、火砕流堆積物が自身の熱でくっついたものです。火砕流堆積物の上半部は空気で冷やされ、最下部の直接地面に接した部分は地面で冷やされ、溶結しません。これがシラスです。シラスと溶結凝灰岩とは、全く見かけは違いますが、兄弟です。

  • 内堀と並行に眺めた長石垣の光景です。『溶結凝灰岩』にお物理的性質などの紹介です。単位体積重量2gf/cm3、間隙率14~32%程度と軽くて空隙に富んでいますが、圧縮強度は115(軟質部)~749(硬質部)kgf/cm2と大きく、コンクリートと同程度の強度を持ちます。石橋に使われ、大型バスが通ってもビクともしません。

    内堀と並行に眺めた長石垣の光景です。『溶結凝灰岩』にお物理的性質などの紹介です。単位体積重量2gf/cm3、間隙率14~32%程度と軽くて空隙に富んでいますが、圧縮強度は115(軟質部)~749(硬質部)kgf/cm2と大きく、コンクリートと同程度の強度を持ちます。石橋に使われ、大型バスが通ってもビクともしません。

  • 現地ガイドさんが、右半分と、左半分で石積が異なっていると紹介してくれた場所の光景だったようです。以上に紹介した『鹿児島と石の文化』は、鹿児島大学理学部地学科のHPを参照させて戴きました。『2000年3月24日、最後の卒業生を送り出しましたので、このホームページはこの日をもってフリーズしました』と紹介されていました。

    現地ガイドさんが、右半分と、左半分で石積が異なっていると紹介してくれた場所の光景だったようです。以上に紹介した『鹿児島と石の文化』は、鹿児島大学理学部地学科のHPを参照させて戴きました。『2000年3月24日、最後の卒業生を送り出しましたので、このホームページはこの日をもってフリーズしました』と紹介されていました。

  • 公孫樹の黄葉光景です。緑の葉も見えましたが、既に半ばは散っていました。先ほど紹介した、鹿児島大学理学部地学科のHP、『かだいおうち』は、『日本における大学研究室ホームページの第1号です。歴史的遺産としてここにアーカイブしておきます』とも紹介されていました。『かだいおうち』は、その内のほんの一部です。

    公孫樹の黄葉光景です。緑の葉も見えましたが、既に半ばは散っていました。先ほど紹介した、鹿児島大学理学部地学科のHP、『かだいおうち』は、『日本における大学研究室ホームページの第1号です。歴史的遺産としてここにアーカイブしておきます』とも紹介されていました。『かだいおうち』は、その内のほんの一部です。

  • 歩道に散り敷いた『イチョウ(公孫樹、銀杏)』の落葉光景です。秋の黄葉や茶碗蒸しに使う銀杏で馴染み深い樹木です。約2億年前に栄え、現在まで種を絶やさずに続く歴史の古い木ですが、その仲間は絶滅し、イチョウ科の樹木はこれだけです。このため、イチョウはメタセコイアと共に『生きた化石』と呼ばれます。

    歩道に散り敷いた『イチョウ(公孫樹、銀杏)』の落葉光景です。秋の黄葉や茶碗蒸しに使う銀杏で馴染み深い樹木です。約2億年前に栄え、現在まで種を絶やさずに続く歴史の古い木ですが、その仲間は絶滅し、イチョウ科の樹木はこれだけです。このため、イチョウはメタセコイアと共に『生きた化石』と呼ばれます。

  • 『鹿児島(鶴丸)城跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。少し拾い読みしますと、築城は慶長6年(1601年)頃、背後の城山に本丸と二の丸が置かれ、麓には館造りの平城が置かれ、藩主の住居とされていたことが紹介され散ました。お堀は、その当時から、麓の平磁路時代から三方だけだったようです。末尾に『御楼門』と、姉妹県の岐阜県のことも紹介されていました。

    『鹿児島(鶴丸)城跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。少し拾い読みしますと、築城は慶長6年(1601年)頃、背後の城山に本丸と二の丸が置かれ、麓には館造りの平城が置かれ、藩主の住居とされていたことが紹介され散ました。お堀は、その当時から、麓の平磁路時代から三方だけだったようです。末尾に『御楼門』と、姉妹県の岐阜県のことも紹介されていました。

  • 城壁に段差があった部分のズームアップ光景です。 『御楼門』の再建には、4億5千万円の寄付を集めるのが必要だったようですが、既に目標を羽廻る5億円が集まったようでした。新たに発足した協議会には、実行委員会に県と鹿児島市が加わり、門の復元にかかる費用、およそ7億5000万円のうち、寄付金でまかなう分を除いた3億円を鹿児島県と鹿児島市が負担するようです。

    城壁に段差があった部分のズームアップ光景です。 『御楼門』の再建には、4億5千万円の寄付を集めるのが必要だったようですが、既に目標を羽廻る5億円が集まったようでした。新たに発足した協議会には、実行委員会に県と鹿児島市が加わり、門の復元にかかる費用、およそ7億5000万円のうち、寄付金でまかなう分を除いた3億円を鹿児島県と鹿児島市が負担するようです。

  • 『史跡・鶴丸城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。側面に『第七高等学校造士館跡』の文字が刻まれていました。『第七高等学校造士館』は、1901年(明治34年)4月、鹿児島市に設立された官立旧制高等学校で、略称は『七高(しちこう)でした。第一次高等学校令(1894)時代は、1908年制定の第八高等学校(名古屋)が最後となりました。旧制高等学校に所属する者は、全員帝国大学への進学が認められました。

    イチオシ

    『史跡・鶴丸城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。側面に『第七高等学校造士館跡』の文字が刻まれていました。『第七高等学校造士館』は、1901年(明治34年)4月、鹿児島市に設立された官立旧制高等学校で、略称は『七高(しちこう)でした。第一次高等学校令(1894)時代は、1908年制定の第八高等学校(名古屋)が最後となりました。旧制高等学校に所属する者は、全員帝国大学への進学が認められました。

  • 鹿児島(鶴丸)城の遺構は、石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地だった出丸跡、大手門との間に架かる石橋が現存しています。私学校の石垣には西南戦争の際についたといわれる弾痕が数多く残っています。現在は見学することができませんが、現在再建工事中の『御楼橋』を渡った先にも、数多くの弾痕が残る石垣を見ることができました。

    鹿児島(鶴丸)城の遺構は、石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地だった出丸跡、大手門との間に架かる石橋が現存しています。私学校の石垣には西南戦争の際についたといわれる弾痕が数多く残っています。現在は見学することができませんが、現在再建工事中の『御楼橋』を渡った先にも、数多くの弾痕が残る石垣を見ることができました。

  • 中央に『御楼門の復元想像図』が置かれた、再建工事の現場光景です。右手に『鶴丸城御楼門・2020年3月完成』の文字も見えました。ネット情報では、起工式は2018年9月6日と紹介されていました。

    中央に『御楼門の復元想像図』が置かれた、再建工事の現場光景です。右手に『鶴丸城御楼門・2020年3月完成』の文字も見えました。ネット情報では、起工式は2018年9月6日と紹介されていました。

  • 御楼門の復元想像図のズームアップ光景です。 『御楼門(ごろうもん)』は、鶴丸城とも呼ばれた鹿児島城の正門です。明治6年(1873年)の火事で焼失し、今では周囲の石垣などが残るだけとなっています。御楼門の隣りにあった『御角櫓(おすみやぐら)』と呼ばれる見張り台と,御楼門と御角櫓を繋ぐ城壁も復元されるようです。

    イチオシ

    御楼門の復元想像図のズームアップ光景です。 『御楼門(ごろうもん)』は、鶴丸城とも呼ばれた鹿児島城の正門です。明治6年(1873年)の火事で焼失し、今では周囲の石垣などが残るだけとなっています。御楼門の隣りにあった『御角櫓(おすみやぐら)』と呼ばれる見張り台と,御楼門と御角櫓を繋ぐ城壁も復元されるようです。

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