2001/03/10 - 2001/03/21
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kokotoririさん
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大学1年が終わった春休み、念願のバックパック旅行に行ってきました。
小学生の頃から憧れていた「ひとり旅」がついに実現した瞬間でした。
あのときの感動は、20年近くたった今でも忘れられません。
この旅行用に、2万円のフィルムカメラを買いました。仙台駅東口の電気屋さんでした。
ワクワクして買いに行ったら、お店のお兄さんが、カメラについて熱く語ってくれました。
当時デジカメは出たばかりで少し高かったのです。
「パソコンをお持ちでないのならフィルムでいいと思います」と彼は教えてくれました。
彼とは長く話し込んだのを覚えています。
ふと、一緒に来た友達を待てせていることに気がつき、周りをみわたしたら、お店のお兄さんから
「長々と喋ってしまいごめんんさい」と、本当に申し訳ないようすで謝られました。
いいえ。僕はカメラの話を聞いて本当に楽しかったのです。
本当です。
こうした行為で相手に意思を示すことがあるのだと、このとき初めて知ったような気がします。
フィルムということもあり、それほどたくさんは撮っていません。
新しい街に着くたびに楽しくて楽しくてグルグルと街を歩いていました。
撮る時間も惜しかったのです。
宿で一緒になった日本人と、その日あったことを報告しあう。そこで面白そうな話があれば、次の日、自分も行ったり、宿で意気投合した人と一緒に行ったりしました。
大学に入り、人付き合いがあまり得意でないと感じていた僕も、このときばかりは、いろんな人と楽しく接することができました。
生まれて初めて「生きてるって楽しい」と思えた瞬間でした。
残されたつたない写真で当時を振り返ります。
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神戸港を発つ。正午発だった。中国籍の「新艦真号」という船だったと思う。
片道2万円で48時間かけて上海に向かうものだった。
(https://www.shinganjin.com/)
山形から神戸までは、青春18切符を利用した。
夜行で移動しても、ぐっすり眠れたし体力的にはまったく問題がなかった。
山形の高校から関西の大学に行った3人が集まってくれた。
わざわざ山形から関西を選ぶだけあって、みんな自分の意思を大切にする、魅力的なやつらばかりだった。
ボウリングでは、最後に僕がストライクを決めて逆転勝ちしてゲーム代をおごってもらった。
さらにカラオケに行って、最後はみんなで関大近くのアパートに泊まった。
こらから未知の世界に飛び込もうとしている僕を、みんなすごくうらやましがっていた。
山形での閉塞感にさいなまれていた僕は、関西で楽しく過ごす彼らがうらやましかった。
でも、そのうらやましさは、もはやどこか遠くに存在するものだった。
僕は、ただただワクワクしていた。
ついについに僕はひとり旅に出るのだ!という興奮の中にいた。 -
日付は3月13日。
山形の高校入試が確か3月10日とかで、ギリギリまで塾講師と家庭教師のバイトをしていた。
山形の生活は、本当に本当に閉塞感との戦いだった。
実家と大学とバイト先の往復。
部活がバイトに変わっただけ。
高校の生活とあまり変わらなかった。
高校との違いは、友達がいないこと。
親しい友人はみな、東京に出て行った。
山形大学に通う人たちとは、どうも馬が合わなかった。
「大学で何をしたい?」と聞くと
「別に」「遊ぶ」
そんな答えがほとんどだった。
僕が「世界中を旅行したい」というと
「すごい!」「えらい!」と絶賛された。
その度に僕は嫌な気持ちになった。
大学でバックパッカーデビューする学生など五万といる。
すごいことなど何もなかった。
こんなことで驚いて欲しくなかった。
ただただ僕は同じような思いを持った仲間が欲しかった。誰かと共感したかった。
でもそれは、この大学では難しいようだった。
「どんな職業に就きたい?」と聞くと
「公務員」「銀行員」
そんな答えがほとんどだった。
19歳の僕は公務員と銀行員にだけはなるまい、と思っていた。
当時の僕にとって、安定は敵だった。刺激こそが求めるものだった。
山形大学とは、安定を求める人が多く通う大学なのかも知れなかった。
彼らとはあまりわかりあえないのだ、と思うようになった。
そもそも大学とはそんなものなのだろうけど、やはり僕は、行くべき大学に入っていないことは明らかだった。
僕はあまり人と話さなくなった。
人間関係を狭くすることでしか、自分を保つことができなかった。
我慢して我慢してお金を貯めた。貯め続けた。
僕は沈黙を守った。本ばかり読んでいた。
そうすることでしか、自分の自我を守ることができなかったのだと思う。
「今は我慢するときだ」そう自分に言い聞かせ続けていた。
でもついに、それがついに報われる時が来たのだ。
僕は、ようやく自分の夢をかなえるときがきたのだ。
船に乗る前に、トラベラーズチェックを買わねばならなかった。
旅行指南書は何度も読み込んでいたから、「ひとり旅にはトラベラーズチェック」というのはわかっていたが、いかんせん、山形で買える場所はなかった。
港近くの銀行に入った。
発行されたチェックに自分の名前を書いていると、担当してくれた行員のおばちゃんが「どこに行くの?」と聞いてきた。
業務以外のことを話しかけられて少し驚いて見上げると、おばちゃんは元気な孫をながめるような優しい微笑みで僕を見ていた。
僕は「船で中国に行って、そこからベトナムに行くんです。タイまで陸路でいければいいなあと思っています。きちんと決めていなんです」と簡単に答えた。
でも、誇らしげに。
行員のおばちゃんは、にっこりと笑って「いいわねぇ」と言ってくれた。
僕はうれしくなって笑った。
おばあちゃんに自慢すして褒められた幼稚園児みたいな気分だった。
見知らぬおばちゃんからも見送ってもらえるほど素晴らしい旅に出るのだ!とさらに誇らしい気持ちになった。
こんな風に、自分に正直に笑顔になれるのは、当時珍しかったと思う。
あのときのおばちゃんの表情が忘れられない。
なんでこんなにうれしかったのだろう。
今思えば、僕は、自分の母親にもこうした態度をとってほしかったのだと思う。
だから、20年前の行員のおばちゃんのあの笑顔が、今でもはっきと、記憶に残っているのだと思う。
船の中は退屈だった。
船は一番安い2等の部屋だった。
2等のベッドにはカーテンがついていた。
1日目は、どのベッドもカーテンが閉まっていた。
他の乗客もみな、ずっと寝ているようだった。
僕も、前日は友人たちと深夜まで遊んでいたのでしばらく寝て過ごした。
寝るしかやることがなかった。
しかし、寝ることもできなくなると、
地球の歩き方「中国」も一通り読んだ。
肝心の泊まるところは決めていなかった。
「地球の歩き方」を一通り読んで、泊まる場所はなんとかなるだろうと思った。
少しずつ、周りの客も起き出した。
僕らは、ポツリポツリと話し始めた。
聞けば、
僕と同じように1泊目の宿も決めずに無計画に船に乗った人ばかりだった。
みんな関西弁だった。
「僕は山形の学生です」なんていうのは珍しがられた。
でも、当時の僕は、彼らが求めるような山形話、東北話をすることなどできなかった。
不器用で会話が苦手だった僕も、これから旅が始まるワクワク感は続いていた。
互いが持っているワクワク感で、雰囲気はとてもよかったと思う。 -
2日目の朝起きてカーテンを開けると、海の色が変わっていた。
うわっ!外国だ…
雰囲気が全然違う!!
カーテンを開けて目に飛び込んできた景色の前に、どんな言葉も無力だ、と思った。
待ちに待った「外国」の瞬間だった。
色が違う。
空気が違う。
何かも違う。
自分の常識が常識でなくなる瞬間。
何度もなんども鳥肌が立った。
僕は救われた気がした。
ここなら自分が存在してもいてもいいような、そんな不思議な安心感があった。
自分は生きていていいのだ、何かそういう思いが腹の底から湧き上がってくるような喜びだった。 -
これがあの長江か…
教科書の中の文字でしかなかったものが、今目の前にあった。
つまらない日常ばかりを見ていた僕の目は、今あの、長江を見ているのだ!!
見ているどころか、浮かんでいるのだ!!
ときおり船で釣りをしているおじさんが見えた。
商船が行き交うなか、のんびりと釣り糸を垂らしている姿もまた、僕を理由もなく感動させてくれた。 -
中国入国には、このときはまだビザが必要だった。
山形でビザを取得するには、旅行社に申し込まなければならず、1万円ほどかかるらしかった。
しかし、船内で、即日ビザを発給してくれるという。たしか6,000円だったと思う。
しかも、1泊目の宿も手配してくれた。1泊1,000円のホテルだった。
写真を見たら、シャワーもバスもついているという。お湯も出る。
手続きしたのは、坊主頭の50手前ぐらいの男性で、厳格な印象を受ける人だった。
「地球の歩き方」でさんざん騙され話を読んで警戒していたけれど、この人なら大丈夫だろう、ビザ発給をするような公的機関が紹介するわけだし。
宿泊先を何も決めていなかった僕は、ホテルもお願いすることにした。
部屋はツインだった。
気がつくと、僕と同じようにビザついでにホテルを頼んだ人と同じ部屋だった。
えっ?マジで?そんな説明全然なかった…
で誰と?
えっ?あの人?マジ?
その人は、女性だった。40歳手前くらいだったろうか。
やせた短髪の人で、女っけというものをまったく感じさせない人だった。
勇ましく弾むように歩き、朝食をやけにおかわりするので印象に残っていた。
何か、悲壮感をまとった人でもあった。
僕はその人に対して、「全てを失ってとりあえず旅に出てきた」という印象を勝手に抱いていた。
相部屋と知り、「えっ?」とお互い無言になった。
見知らぬ男女が同じ部屋で寝るのか?
しかも、ツワモノ揃いの船で一番目立っていたこの人と?
でも僕は「これが中国か」と思い、受け入れることにした。
別に何が起きるわけでもない、ただ一晩眠るだけなのだ。
相手もそう思っているようだった。
僕ら二人は、お互い言葉通じる日本人同士であるにも関わらず、無言のまま相部屋を受け入れた。 -
相部屋の1人が
「どこに泊まるの?」と聞いてきた。
僕が
「領事館が手配しているホテル」と答えると
「そんなのあるのか」と驚いていた。
「知らない女性と相部屋」と白状すると、もっと驚いていた。
「しかも何回もおかわりするあの女性」とたたみかけると、今度は同情してくれた。
彼は「プージャン飯店」なる場所に泊まるつもりだと言った。
「上海と言えばプージャン飯店だよ」
少し得意げだった。
その得意げがなんかこっちまでうれしくなる。旅ってそういうものなのだ。
もう1人の人は、丸めた地球の歩き方を凝視しながら
「ほこうはんてん(浦江飯店)、いうんですかね?バックパッカー御用達らしいんですわ」と関西弁で答えた。
得意げの彼は
「あー、プージャンプージャン。一緒に行こう」と誘っていた。
そして彼は、プージャン飯店の良さについて教えてくれた。
中国のデポジット制度についても教えてくれた。
鍵を借りる時はお金を渡す。鍵を返せばお金も戻って来る。
この制度をわかっていないと、最初騙されたんじゃないかと不安になったりトラブルになったりする。
でも心配ない。
お金は返ってくる。
僕も2泊目はプージャンにすることにした。
街らしき中にこ汚い船。 -
少しずつ近づいてきた。
-
税関を抜けて埠頭を歩く。
上海タワーの手前に積まれたゴミ。
ああ、これが中国の景色なんだな、と直感的にそう感じた。
そして僕は、相部屋のホテルに向かった。確か、彼女と一緒にタクシーで向かったのだと思う。
そして、そのタクシー代は彼女が出してくれたように記憶している。 -
道路渡り待ちの人々が強気。
-
道路を渡る人民の強引さがものすごく新鮮に映った。
-
中国に行くと、右折車にびびる。
-
南京路。右に写っているのは、同じ船に乗っていた日本人。
右の水色の人は僕に「あ、藤井たかし」と失礼な感じで発言した。前の人はとてもバツの悪そうな顔をした。
この中の1人とは、広州でもばったり会って、ご一緒した。 -
南京路。
-
バンドのあたりからの上海タワー
-
華やかな道もちょっと裏通りに入ると、上海の庶民の姿を見れた。
「あ~見たいのはこれこれ」という感じ。
猥雑な感じがとても楽しかった。
船で同室だった2人に誘われ、上海観光へ。
彼らはすでに、プージャンに荷物を置いてきたあとのようだ。 -
食堂。
-
雑技団を見に来た。
プージャンを紹介してくれた左の彼は、ユーラシア大陸を横断するんだと言っていた。 -
瞬間を撮影するのはとても難しい
シャッターが遅かった -
これは早すぎた
-
次の日、僕は1人で歩いた。
-
上海タワー前で。
このとき着ていた思い出のジャケット、先日メルカリで売れた。 -
人民ファッションも新鮮にうつった。
夜このあたりを一人で歩いていると、突然英語で話しかけられた。
「君の靴はとてもかっこいいね!!日本で買ったのかい?」
これはまさに、「地球の歩き方」に書いてあった詐欺の実例だった。
彼はこうしていったい何人の日本人を騙してきたのだろう。
僕が「I'm Korean」というと
彼は吐き捨てるように「何だよ韓国人か」と言い顔をしかめ去っていった。 -
道を聞いた女学生さん。
筆談で会話した。
白のセーターの子は「これから彼氏とデートなの」と言った。
右側の子は「没用男朋友」だという。
「彼氏」は「男朋友」というのだと教えてくれた。「彼氏はいないの」と。
「あなたは上海に来たばかりだが、次くるのはいつだ?」と書いてくれた。
この子は、用事があるとかで、途中で去っていった。
とても名残惜しそうだった。
その文を解読できたのは、我々が別れて数日後、ドミトリーで一緒になった大阪外国語大の学生さんに訳してもらった後だった。
その後僕は、中国に留学することになったが、これ以来、上海には行っていない。 -
バンドで。この後いろんなことが起きた。
それなのにこの1枚しかない。
この後、このあたりで見かけた西洋人に話しかけてみた。
190㌢もあろうかという、長身の人で、30代後半ぐらいだったろうか。
「どこから来たんですか?アメリカですか?僕は日本から来た旅行者です。
英語の練習をしたいのでよかったらご一緒しませんか?」
僕は見上げながら聞いた。
19歳というのは、そういうことを平気でやる年齢だ。
彼は快く同意してくれた。
タクシーを止めて、どこかに連れて行ってくれた。
しゃれた西洋風のバーだった。
彼は瓶ビールを頼み、直接飲んだ。映画のワンシーンみたいだった。
僕もそれに習った。
ハイネケンだったと思う。初めて飲むビールだった。
会話はもちろん英語でほとんど何を言っているかわからなかった。
同意を求められているような瞬間にとりあえず相槌を繰り返していた。
まるで上司に無理やり付き合わせれた3次会みたいに。
それでも彼の話は20年経った今でもいくつか覚えている。
彼の旅の話を聞いた。
彼は、「タイのビーチが最高だった」と教えてくれた。
まだまだ観光客に知られておらず、とても美しい。
「like a heaven。君もタイに行くならぜひ行くといい。」
地名を書いたメモを渡してくれた。
そして言った。
「君がそうやって積極的に出会いを求めるのはいいことだ」
バーの支払いも彼がしてくれた。
彼は2軒目にも連れて行ってくれた。
クラブだった。
西洋人ばかりが踊っていた。
20代のかわいい女の子から、40過ぎで刺青を入れたスキンヘッドのおじさんまで、いろんな人がいた。
かわいい女の子も派手なピアスをしていた。
中国人民ばかりの場所で、西洋人ばかりの場所があることが不思議だった。
曲が終わり、次の曲の前奏が始まると、踊っていた人たちは絶叫した。
待ちに待った曲が始まった、という感じだった。
クラブに馴染みのない僕には、異常な表情に映った。
外国人だからそれほど気にならなかったが、日本人ならあまりお付き合いしない人たちだった。
僕は突然居心地の悪い感じがこみ上げてきて、その場を逃げ出したくなった。
長身の彼は、相変わらずハイネケンを飲んでいた。
僕は彼に別れを告げて店を出た。
僕が突然出て行くと言いだしたので、彼は戸惑っているようだった。
でも止めはしなかった。
さようなら、ありがとう。
彼はいま、どこで何をしているだろう。
あの日、東洋人に話しかけられてバーをおごってあげたことをまだ覚えているだろうか。
そして、20年経った今でも感謝されていることを。
その後僕は一人でクラブに行った。
中国人ばかりの店で、踊っている人で混み合っていた。
そのクラブで、めがねを落とした。
大勢が踊る中で、ひとりウロウロとメガネを探したが、見つからなかった。
帰りに僕はタクシーを拾った。
紙切れにホテル名を書いて運転手に見せた。
彼は何か僕に言っていたが、僕は1年間の中国語の授業で覚えた数少ない単語のひとつ「听不憧(ティンブドン・聞き取れません)」を連発した。
彼はあきらめてタクシーを走らせた。
それらしいホテルに着いては僕は首を横に振った。
「ここじゃない」
僕は改めて、ホテル名を書いたメモを示した。
ほら、違うでしょ?
彼はいったん僕を乗せたところまで戻って、高級ホテルのボーイに聞いたりしていた。
ウロウロ、ウロウロ。
運転手は、3人にぐらいに聞いていたと思う。
ようやくホテルに着いたときには値段は40元以上になっていた。
僕は10元札だけを手渡した。
昼にタクシーを使ったとき、同距離でその程度の値段だったからだ。
運転手は一瞬動きを止めた。
何が起きたかわからないようだった。
そして、力なく笑い、10元札を受け取った。
まだ、少数民族が描かれていたころの10元札を。
ぼったくりの国中国でも僕はやっていける。
そんな自信とともに部屋に戻った。
深夜2時は確実に回っていたと思う。
見知らぬ女性と相部屋となった部屋は、やはり鍵がかかっていた。
何度かチャイムを鳴らすと、女性は鍵を開けてくれた。
もうすっかり眠りについたあとだったようだ。
しかし、彼女はいやな顔ひとつせず、さわやかな笑顔で迎えてくれた。
彼女は最初僕が話し出すのを待っていたようだが、僕にその意思がないことがわかると、また床についた。
僕は彼女と話すのが怖かった。
僕はその後、湯船にたっぷりとお湯を入れてお風呂につかった。
どこか泥臭い匂いがした。
お湯の香りまでが違う。それが外国なのだとうれしくなった。
翌日起きると、彼女はもうホテルを出るところだった。
起きて手紙を書き始めていた僕に、「さっき買ってきた」という煮卵を渡してくれた。
3個だった。
そして彼女は去っていった。
一夜をともにしたものの、互いの素性についてなんの会話も交わさなかった。
そして僕は手紙を書こうとして気がついた。
きのうのタクシーの運転手に書いて見せたホテルの名前が間違っていたのだ。
僕が間違って書いたから、彼は聞いたことのないホテルを探し、無駄に走り続けていたのだ。
そして僕は、得意げに10元札しか渡さなかった。
自分が恥ずかしかった。
運転手に申し訳なかった。
今すぐ謝りにいきたかった。
でも、彼の会社も名前も何もわからなかった。 -
クラブでめがねを落としたので、警察署にいく。道を教えてくれたおばちゃん。
-
上海のドミトリー
プージャン飯店
訳してくれた大阪外語大の学生さん -
上海から広州へ。硬臥。
真ん中のおっちゃんと楽しく筆談して過ごした。
本当にたくさんのことを聞かれた。
「学生か?」
「父親は何歳だ?俺と同じくらいだな!」
中国の旅行は、いろんな人がガンガン話しかけてくる。
だからひとり旅でも楽しくやれる。
一方で、はらわたが煮えくり返るぐらい腹たつことも必ず起こる。複数回。 -
広州着。
-
古い建物と、新しいマンションとのコンストラクトが印象的だった。
2001年、すでに広州は発展が始まっていた。 -
-
自転車すげっ!!と思ってパチリ。
-
「外国人招待所」に泊まったときに一緒だった日本人と夕飯。
みんな僕と同じで「地球の歩き方」に載っているドミトリーを探してやってきていた。広州最安値の宿泊施設でシャワーは水だったけど、英語がきちんと通じるし、街のことも詳しく教えてくれるしでとてもいい宿だったと記憶している。
みんなで連れ立って食堂に入りいろんなものを頼むと本当に安く済んだ。
広州では、肉も海鮮も何でも安く食べられた。
みんな大満足で宿に戻った後は、途中で買い込んだビールで旅の情報を交換しあった。
ビールが安いのもまたうれしかった。
日本人同士のときは、ビールはコップに注いでのんだ。
みんな「中国のビールはぬるいのがいけない」と口々に愚痴った。
でも安いし楽しいからOK.
僕はぬるいのはあまり気にならなかった。
広州には、北京や上海から南下してきた人と、タイなどから北上してきた人が集まるので、それぞれの楽しい旅の思い出が、そのまま相手にとって最高の旅案内となった。
話している自分がとても楽しい。聞いている相手もすごく楽しい。
最高に楽しい時間だった。
宿には、同じ船に乗って中国に来ていた人、朝英字新聞を読み込んでいる京都大薬学部の秀才くん、英語ぺらぺらだけどめがね屋で働いていて退職したという男性、東北大学の学生さん。
京都大の秀才くんは
「広州の地図いくらで買った?」と聞いてきた。
僕らは、広州駅を出たところの路上にいた同じ老婆から買っていた。
僕もだいぶ値切って買ったので、自信を持って答えた。
すると彼は、さらに安く買っていた。
上品な秀才くん、おそるべし執念。
日本人がほとんどだったけど、とても楽しかった。
この宿での2晩が、僕の旅の方向性を決定付けたと思う。 -
とりあえず1枚。
-
ドイツ人旅行者。
「Do you like Chinese?」と聞いたら、思い切り顔をしかめた。 -
左から二番目の人は、同じ船で上海に来た人で、広州の宿でばったり会った。
一緒に食事をしていると、中国人カップルに誘われ、一緒に食べた。
中国では、よくこういうことが起きた。
「どこから?へい、日本かい?一緒にどうだい?」
中国人はとてもフレンドリーで積極的。一人旅が楽しめる国。
腹立つこともたくさんあるけど。 -
魯迅記念館。
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図書館だったような…
当時珍しくインターネットが無料でできる場所だった。
違う旅行者につれられ僕はここで「ホットメール」のアカウントを作成した。 -
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この旅行記へのコメント (3)
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- palさん 2019/01/10 00:32:23
- 初々しい
- こんにちは。
海外バックパッカー旅行デビューが、鑑真丸で上海だったんですねぇ。
大変興味深く読ませていただきました。
面白いです。
相部屋が中国のおばちゃんとは、大爆笑です(^_^)///
襲われなくてよかったですねぇ。。。
これからどんな冒険になるのか、次作が楽しみです。
もう自分の旅行記を宣伝するのはよそうと思っていたのですが、、、
私もちょっと前に、バックパッカーデビュー旅行記を書きました。
1991年 戒厳令下のタイでした。。。
渡航直前にタイでクーデターが発生。。。
戒厳令が敷かれました。
キャンセル続出でガラガラの飛行機の中で、タイ語ができるバックパッカー尼さんと出会いました。
尼さんが、私のお師匠様となりました。。。
この人に出会わなかったら、きっと現地言語主義になりませんでした。。。
いまだに英語だけでいっぱいいっぱいだったかもしれません。。。
タイ語なんて聞いたこともない。
タイ文字なんて見たこともない。。。
私は、理系です(-_-)/でした。。。
そのころは、英会話さえお粗末で、Oh my God すっとこどっこい。。。
でした。。。
初めてのバックパッカー海外旅行は、カルチャーショックですよねぇ。。。
心細いけど、多くの人との楽しい出会いがありましたよね。
きっとその後の人生に多大な影響を及ぼすと思います。
1991年 戒厳令下のタイ
https://4travel.jp/travelogue/11364520
面白いです(+_+)///よ
でも、写真はありません。
フィルム時代で、カメラも持っていませんでした。。。
- kokotoririさん からの返信 2019/01/24 09:59:16
- RE: 初々しい
- palさん、返信先間違えました笑
失礼しました…
ご存知ですか?鑑真丸。
やっぱり旅の猛者はみんな知っているんですね!
言葉好きなpalさんにとっては、運命的な出会いでしたねぇ。
そういう意味で、僕は神様の存在を信じることにしています。
初めてのバックパック旅って、ホント、自分が子供のようになって全てを吸収するような感じになってしまいますよね。
まだもうちょっと書きたいと思っています。
- palさん からの返信 2019/01/27 21:21:48
- RE: RE: 初々しい
- こんにちは。
私が初めて地球の歩き方を買ったのは、1990年の中国バージョンでした。
まだ中国は外国人に解放されていな制限区域がたくさんありました。
鑑真丸は夢でしたねぇ。
船で外国に行けるなんて、あこがれましたよ。
そのころは、シルクロードにあこがれがあったんです。
インドと中国のどっちに行こうか迷って、インドに行くことにしたのですが、
インド行きのチケットを買おうと思っていた中継地のタイが、あまりにも居心地がよくて、タイに沈没しました。
タイ語のできるお師匠様とは、運命的な出会いでしたね。
その後何度かタイに行きましたが、行く前にほんの少しタイ語を勉強してグレードアップしてタイに行きました。
その後何年も何年もたって、タイ人同僚ができて、タイへの出張の機会もありました。
少しのタイ語がみんなをニッコリさせて、とても役に立ちました。
タイ語のと似ているラオスでの旅行でも、とっても役に立ちました。
初めての海外旅行はとっても記憶に残っているので、
なにかしらとっても思い出せますね。
それを文字にしているとなおさら、次から次へと記憶がよみがえってきます。
また面白いエピソードを楽しみにしています。
pal
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