2001/03/22 - 2018/03/29
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kokotoririさん
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大学1年が終わった春休み、念願のバックパック旅行に行ってきました。
小学生の頃から憧れていた旅がついに実現した瞬間でした。
あの感動は、20年近くたった今でも忘れられません。
ベトナム戦争跡地を見たい、と思いました。
ただ、ベトナムの航空券が高かったので、中国まで船で行って、陸路でベトナムに入ることにしました。
神戸→上海→広州と移動しました。
(その様子はこちら
https://4travel.jp/travelogue/11435768)
この旅行記は、広州→桂林→雲南省昆明 です。
残されたつたない写真で当時を振り返ります。
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広州のドミトリーで。
ここで一緒になった人たちで、夜連れ立ってご飯を食べに行き、宿に戻ってからは車座になってビールを飲んだ。
このとき僕は、たいてい他の日本人よりも若かったのだけど、みんなに敬語で話しかけられた。
実年齢がわかると
「19には見えない。25ぐらいに見える」と口を揃えた。
たぶん、悩んだ量だけ見かけの歳は早く進む。
メガネはなくしたので、つけていない。 -
どこかの公園。
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広州の博物館
英語の説明があるが、ほとんどわからなくなった。
国立大の学生がこの程度の英語がわからないのか、と悲しくなった。 -
2001年。ビルもけっこう建っている。
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上下ユニクロ。
メガネ調達後。
言葉が通じなくても、筆談でメガネを調達できた。
確か、三千円くらいだったと思う。 -
博物館
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サッカー場あるんだな
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東屋
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1人だったのになぜこんな写真があるのか?
きっと道行く人に頼んでいたのだろう。
おそらく、そうやって誰かと話すきっかけをさがしていたのだと思う。 -
園児がゴーカートの順番を待っていた。
すごく楽しそうだった。 -
イチオシ
子供がめちゃくちゃ楽しそう。
中国の大きな印象の一つ。
子どもに限らず中国人は、本当に楽しそうに笑った。
大人も子供のように屈託なく笑う。
そんな笑顔に心を掴まれた気がした。
今思えば、自分もそんな風に笑いたい、と思ったのが留学のきっかけだったのだと思う。 -
イチオシ
にーはおトイレ。しきりがない。
しゃがんだところに排水口があるのが見えるだろうか。
定期的に水が流れて、一斉にたまったウンコが動きだす。
いろんな色や形のウンコが流れいていく。
茶色といってもいろんな茶色が、ウンコと言ってもいろんなウンコがあることを、客観的に観察することができる。
日本人は、にーはおトイレについて「あり得ない」という。
用を足すという行為は、誰かに見せるのものではない。それはそうだ。
でもしかし。
にーはおトイレは確かに、見る気になれば見れるけど、
でもしかし、中国人は誰も見ていない。
なぜ好きこのんでわざわざ、他人が用を足しているところを見るのだ?という感じ。
実際、僕が体験したとき、並んでいる人は僕を見ていた。
でも僕が用を足してるのを見ているのではなく、いつ僕がいなくなるかのを見ているのだった。
そういう意味で、誰も僕のことを見ていない。
だから僕は、にーはおトイレが全く気にならない。
にーはおトイレは、中国でも少しずつ、その姿をけしつつあるという。 -
メガネや。
度数が合わず交換にいったついでに撮影。
言葉の通じない僕に対し、特に左側のおばちゃんがとても親切にしてくれた。
まるで自分の息子に接するみたいに。
厳しい値段交渉が終わると、ころっと友好的になる。
中国人民の懐の深さ、というべきか。
まさに、カルチャーショック。
「写真を撮ろう」というとおばちゃんはメガネを外した。 -
なので僕も、メガネを外した。
-
広州から桂林へ移動。
バスの車窓から。
時折「あの人は何をしてるんだろ?」という、不思議な光景が見える。
確か、まる1日かかったと思う。
人1人やっと横になれるスペースで、起き上がる高さはない。
一晩中バスの轟音が響き渡る。
この直前、広州駅に向う途中、荷物を運ぶ客引きにあった。
19歳、元野球部。体力には自身があった。
荷物を運んでもらう必要など全くない。
「5元で運んでやる」というようなことを言っている気がする。
僕は強気で断った。
「不要(ブーヤオ)」
60がらみのおじさんは引き下がらない。
「4元!!」
1元ならいい、とばかりに「1元」とだけ答える。
少しずつ値段が下がっていく。
彼は意を決したように
「2元でいい!!」
でも僕はそもそもそんなサービスいらない。
すると彼は
「1元でいい!!」と僕の言い値を受け入れた。
別に運んでもらう必要もないのだけど、と思いながら荷物を渡す。
彼は笑顔で荷物を受け取った。
彼の顔は、汚れてカラカラに乾いていた。
深いしわが刻まれているが、最初の印象よりも、もっと若いのかもしれない。
彼は僕に話しかけていたが、何を言っているかはさっぱりわからなかった。
おそらく「外国から来たのか?中国は楽しいか?」というような感じだったんだと思う。
歩いていると、同じ仕事をしているおじさんたちとすれ違う。
何か会話を交わしている。
僕のリュックを背負った彼は、人差し指で「1」を作った。
「いくらで請け負った?」
「1元だよ」という感じなんだろう。
すると同僚は「えーっ!!」という表情になり、とがめるように、さげすむように僕を見た。
「いくらなんでも安すぎるよ、兄さん!!」という感じなのだろう。
「そんなこと言われても…」と僕はふてくされたような気持ちになった。
でも、リュックを背負った当の本人は、全く意に介していない様子で、駅に着くと
「気をつけろよ!」とばかりに僕を送ってくれた。 -
桂林についてからは、ドミトリーに部屋を取り、とりあえず寝た。
そして、「桂林についたら鍾乳洞を見なきゃ」と現地のおっちゃんに言われ、一応ツアーに参加。 -
イタリア人と中国人観光客と。
イタリアンはめちゃくちゃ明るかった。 -
「鍾乳洞なんて日本も中国も同じだろ?」という思いが消えず。
全然面白くない。 -
-
イタリアンの夫婦。
おばちゃんがとても優しかった。
あんまり優しいもんだから、夫が不機嫌になっていた。
おばちゃんは19歳の男に優しい。とても。
世界共通なのかも知れない。 -
桂林の川をクルーズ。
-
広州の宿で一緒になった日本人が
「桂林の川クルーズは、まさにドラゴンボールの世界!!」と
ものすごく興奮して教えてくれた。
「絶対行ったほうがいいよ!!」 -
でも、僕には退屈でしかなかった。
退屈なデッキの上で「ドラゴンボールの世界」をすすめてくれた日本人の話を思い出していた。
確か、法政とか駒沢とか、関東の大学に通っている学生だった。
2人とも茶髪だけど、頭皮のほうは黒髪が目立っていた。
彼らは熱っぽい話し方で、「騙された話」をした。
中国人とどこかの飲み屋で「意気投合」し、彼が案内するマッサージ屋に行ったという。
いわゆる「本番」をすすめられたが、それは断ったそうだ。
「それはやっちゃいけない、とマジ断ったんだ」と彼らは誇らしげに語った。鼻息が見えそうだった。
「意気投合した中国人」含めた3人が、それぞれの店の女の子とデレデレしながら筆談していたのだという。
そこに違う中国人が入ってきた。
「乱入中国人」と「意気投合中国人」が何やら激しくやりあっている。
「乱入中国人」が高額な料金を請求してきたという。
それに対し、「意気投合中国人」が怒って反論する。「大事な日本の朋友だ!」
「意気投合中国人」が身を呈して奮闘してくれたおかげで、「それなりの金額」で交渉もまとまった。
おかげで茶髪学生2人を含む3人は、法外な値段を払わずに事なきを得た。
茶髪学生2人は、「意気投合中国人」に感謝して別れた。
「僕たちのために値段交渉してくれてありがとう」。
後日、茶髪学生2人は真実を知る事になる。
全く同じ経験をした日本人と、違う宿で偶然出会ったからだ。
「意気投合中国人」の名前も、使われている店も全く同じだったのだ。
もちろん「意気投合中国人」も「乱入中国人」もぐるだった。
そこで彼らはこう理解した。
「騙された事を知り警察などに届けられるのは面倒だ。
本当に騙す事に長けている人は、騙した上で感謝もされる。」
日本で生活している人間には、考えもつかない技術だった。
騙す事に全力を尽くす人たちに囲まれると、我々日本人は騙されている事にさえ気がつかない。
僕たちは、ドミトリーの庭で、青島ビールを飲みながら、前のめりで今にも倒れこんでしまいそうなぐらい熱っぽく語る彼らの話に、興奮しながら耳を傾けていた。
彼らと同じように、倒れこんでしまいそうなほど前のめりになって。 -
観光客のクルーズより、ああいう船に乗って、民衆の生活を覗きたい、と思った。
-
船で料理が出され始めると、中国人観光客の宴会が始まった。
料理はおいしくなかった。
「料理人魂」みたないのは全く感じられない「ザ・観光地の料理」という感じがした。
ほどなくしてカラオケが始まった。
中国人のがなり声が響くと船内にはいられなくなり、デッキに上がった。
同じような風景がひたすら続いていた。
美しい景色に中国人のカラオケが響き渡っていた。
早く帰りたかった。 -
デッキでつまらなそうにしていると、
例のイタリアン夫人が「写真を撮ってあげる」と言いだした。
彼女もまた船内にはいられなくなってデッキに上がってきたようだった。
僕は提案を断った。
彼女は
「なぜだ?」と聞く
「自分の写真など見てもつまらないからだ」と答えると
そんなのは理由にならない、とばかりに強引に僕にポーズをとらせた。
写真を撮り終えると、彼女はとても満足そうだった。 -
ツアーでパチリ。
左隅の中国人は、とても紳士的だった。
今思えば、どこかの社長さんなのだろう。
右端が現地のガイドさん。
彼女の英語は聞き取りやすかった。
僕がデッキで暇そうにしていると、近づいてきて話しかけてくれた。
たしか、「学生なのか?」「何を勉強しているのか?」といった身の上話をしたんだと思う。
「これから文化人類学を専攻するんです」。
そして彼女は、小さな小船にいる人を指して
「マイノリティーだ」と言った。
「あなた、マイノリティーに興味があるんでしょ?」
僕はキョトンとした。
「マイノリティーって何?」
今度は彼女がキョトンとした。マイノリティーも知らないの?というふうに。
そして紙切れを探して「少数民族」と書いてくれた。
「中国語ではこう言うけど、これでわかるかしら?」
そして「シャオシューミンズー」と発音した。
少数民族か!
まさに僕が見たいものだった。
「彼らの生活を見たい」というと
彼女は顔をしかめ、見る価値などないといわんばかりに
「とても貧しい」と切り捨てた。
この日、何度も見た表情だった。
彼女は、ツアー中、一通り中国語での説明が済むと、僕やイタリア人向けに英語で丁寧に説明してくれた。
優秀なガイドだったのだと思う。
気遣いもあり、イタリアンおばちゃんも満足そうだった。
しかし、ツアー中、客が写真を撮ろうと足を止めると、決まって顔をしかめた。
イライラしているのが伝わってきた。
何にイライラしているんだろう?
しばらく観察した後に聞いてみた。
「You don't like waiting, do you? 」
彼女は僕の目をしっかりと見た上で、ゆっくりと頷いた。 -
「ドラゴンボールの世界」は街の中でも
-
思い出のお茶。
広州駅近くで道に迷った僕は
「広州駅はどこですか?」と中国語で書いた紙を持って突っ立っていた。
すると、紙を読んだある人が立ち止まって説明しだした。
「中国語はわかりません」
するとその人は英語で話し始めた。流暢で聞き取りやすい英語だった。
そして僕を案内してくれた。
マクドナルドでおごってくれもした。
「なぜそんなに流暢に英語が話せるのか?」と聞くと
「英語が好きで、毎日英字新聞を読んでいるのだ」と答えた。
兄弟がいるといった。
僕が「一人っ子政策じゃなのか?」と聞いてもうまく伝わらない。
そこで僕は「一人っ子政策」と紙に書くとすぐにわかってくれた。
「これ日本語なのか?中国語と一緒じゃないか!!
英語の次は日本語勉強しようかな!!」とうれしそうに話した。
例の、中国人特有の子供のような笑顔だった。
確か、「制度が始まるぎりぎりで兄弟ができたからセーフだったのだ」というような趣旨のことを言っていたと思う。
初めての中国での長距離バス移動だったが、この人がバスのスタッフに直接話をつけてくれた。
おかげで僕は1人席に陣取ることができた。
別れ際に「バスの中で飲んで」と、このお茶をくれた。
そして、バスが出発するのを待つことなく去っていった。
筆談は、楽しい。
でも中国語ができる今は、ベトナムの老人ぐらいとしか筆談を楽しめないだろう。 -
中国人女性は、女性同士腕組みをして歩く。
この時期は、ラッパズボンが流行っているらしかった。
ラッパズボンの腕組み女性二人組。
いろんなところで見かけた。
女性同士の仲の良さは、日本人はかなわないな、となんとなく感じた。
というか、日本人ほどよそよそしい民族も珍しいのかも。 -
常に人だかりができている見世物屋さん
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足場は竹。
この技術、学びたい。
日本の足場、高すぎる… -
桂林のバス乗り場。
ここから雲南省昆明へ。
確か、まる2日とかかかる大移動だった。 -
ガソスタ
ひたすら移動。
バスでは、中国人乗客がひたすらひまわりの種を食べては床に捨てていた。
通路はごみためのようになっていた。
通路をはさんだ僕の隣は、若い中国人カップルだった。
角刈りの誠実そうな男性と、細い目をした女性だった。
ずっと2人で寄り添い合っていた。
でも僕はずっと1人で、話し相手もいなかった。
2人がうらやましかった。 -
朝、目がさめるとどこか田舎の小さな市場のような場所に停まっていた。
降りることはできなかった。 -
ひたすら田舎を走り続けた。
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川の水で洗濯する少数民族の姿は、最初はとても新鮮にうつった。
しかし、彼らにとって当たり前の行為は、見慣れるとだんだんと僕の中でも当たり前になっていった。 -
美しい景色が続く。
でも、「美しい景色はもういい」と何度も思った。 -
車窓から
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車窓から
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動物をよく見かけた。
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工事のダラダラさ加減がまた、カルチャーショックだった。
よく怒鳴られて育った私には、信じられない光景だった。 -
このバスに1人で揺られていると、とても寂しい気持ちになった。
完全アウェイ、という感じ。
バスの騒音がすごいので、夜、眠れないと(昼もずっと横になっているのでなかなか寝付けなかった)、僕は大声で歌った。
「ミスチル」を歌った。「マイラバ」を歌った。
そして「ふるさと」を何度も歌った。 -
-
イチオシ
真ん中にうつっているのはトイレ。
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トイレからの眺め。
僕が使用したトイレの中で、一番心地よく用を足せるトイレ、と認定しています。
マイナスイオン出まくりの中で、出しまくりです。 -
動物との共生。
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昆明着。
長かかった。
ここで初めて「移動とは疲れるものだ」とわかった。
このお店で餃子を食べた。
店先で餃子を包んでいたのを見て餃子が食べたくなった。
母親がお店で小さな子供を見ながらやっていて、リラックスできる雰囲気があった。
水餃子ではなく「焼いてくれ」と筆談でお願いした。
二つ返事でOKだった。
席を立って、餃子を包んでいる様子を眺めていると「やってみるか?」というふうな仕草をした。
全く自信がない僕は遠慮したが、フレンドリーなお店だった。
そんなお店で、ビールと一緒に餃子を食べると、長距離移動の疲れがとけていくような感覚になった。 -
昆明駅近くにある、4人部屋のドミトリー。
テーブルのある広いロビーがあり、ビールを飲みながら手紙を書いた。
2日間、誰とも喋らずにいると、書くという行為が救いになった。
ビールを飲むことで、「饒舌」になることもできた。
宿泊した部屋は、彼と2人だった。
彼は、チベットで買ったという民族衣裳を着ていた。
「どんな旅をしてきたのか?」と聞くと、日本でのバイク旅行の話をしだした。
マシンガントークだったのをよく覚えている。
長期休みがとれると、長野県の山奥にバイクで向かい、ずっとキャンプしているのだ、といった。
1週間ぐらい誰とも話さないで一人きり。
僕が話すと、すべて自分の話に変換してしまうタイプの人だった。
朝、僕は宿を変えるためにリュックを背負って移動した。 -
昆明市内の市場で。
市場の鳥串を買った。
どの地方でも鳥串が変えた。
日本よりもずっと長い串で、安くおいしかった。
昆明の鳥串は真っ赤だった。
でも、みんな平気な顔で食べていた。
そう、赤いだけ赤いけど、別に辛くはないのだ。
そういう香辛料なのだ。
と思って食べた。
…
…
うおーーーーー!!!
次からは、ジェスチャーで
「赤いのを払ってくれ!!」とお願いしてから食べた。
それでもすごく辛かった。
ちなみに僕は、辛さには強い。 -
移動したドミトリー。
「ロンリープラネット」に掲載されている宿だったので、西洋人だらけだった。
この頃になると、ひとり旅にも慣れてきていた。
「宿を決める前には、トイレ・シャワー・泊まる場所等をきちんと確認してから決める」という大原則を忘れてしまっていた。
チェックインしてから共同トイレに行くと、モノが山盛りだった。
夜は、というか朝まで西洋人が大音量で音楽をかけパーティをしていた。
部屋は日本人と北京から来た中国人が一緒だった。
日本人の彼は
「葉っぱやらないの?雲南きた意味ないじゃん」と言った。
北京の彼も、僕が葉っぱをやるつもりがない事を知ると、非難じみた目で僕を見た。 -
近くのレストランの裏口。
若い娘がおしゃべりしながら作業をしていた。
鳥の内臓を取り除く作業。
スーパーの鶏肉しか知らない僕には新鮮だった。
「こっち見て」という意思を伝えても絶対に見てくれなかった。
恥ずかしいらしかった。 -
昆明の街並み。
確かこれは駅前だったと思う。 -
-
-
市場で。
ドラゴンフルーツは、見たことがない果物だった。
ぜひ食べてみたかった。
確か500グラムいくら、で売っていたのだが、1個だけ売ってもらった。
ジェスチャーで、ここで食べたいのだ、と伝えた。
すると店のおじさんが「撮ってやる」。 -
さらにパパイアも。
「地球の歩き方」に書いてある通り、ナイフは拭いてもらった。
ただ、拭いたその雑巾が清潔なのか?は、誰にもわからなかった。 -
奥さんが撮られるのを嫌がると、旦那が
「俺を撮れ!!」とばかりに変わってくれた。
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