2018/11/12 - 2018/11/14
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ペコちゃんさん
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南九州の旅・3日目は、日南海岸。
堀切峠 ⇒ 道の駅フェニックス ⇒ サンメッセ日南 ⇒ 鵜戸神宮とレンタカーで回り、最後は飫肥(おび)の街を散策して、宮崎空港から夜のANA便で羽田に戻りました。
「九州の小京都」と言われる飫肥の街は、天正15年(1588)以降、明治初頭までの280年、飫肥藩主・伊東氏が治めた城下町。
飫肥城は明治時代に取り壊されましたが、大手門などが復元され、街中にも往時の雰囲気が残っており、一度訪れたかった所です。
今回は1日目が曇・小雨でしたが、2日目・3日目と天気にも恵まれ、2泊3日の南九州旅行を楽しむことが出来ました。
写真は、日向灘に面した断崖の岩窟内に鎮座する鵜戸神宮の本殿。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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<3日目>
ホテルで朝食の後、宮崎駅近くのレンタカー店へ。
昔は、宮崎駅と線路が宮崎市の東西方向の交通を遮断していましたが、1993年に新駅舎と高架化工事が完成し、便利になりました。
宮崎駅から、今朝散歩した宮崎大橋へと続く高千穂通りには、ヤシの木が南国の雰囲気を漂わせています。 -
日南海岸に向けて、9時に出発。
今日は天気も良く、ワシントン椰子の街路樹を見ながらのドライブは、最高! -
10時前に、青島の少し南にある「堀切峠」へ到着。
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駐車場に車を停めて、海岸の方に向かいます。
日南海岸で人気の堀切峠は、整備された観光地ではなく、自然の絶景が見られるポイント。 -
展望台の周りには、大きなフェニックスが青空に大きな葉を広げ・・・
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足元には、「鬼の洗濯板」が続く海岸線が広がっています。
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鬼の洗濯板に激しく打ち寄せる波。
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こんな景色を眺めていると、宮崎はいい所だな~と思います。
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堀切峠から南へ約1kmにある「道の駅 フェニックス」に立ち寄り。
建物1階は売店、2階はレストランと展示コーナー、3階は展望フロア。 -
2階に上がると、「読売巨人軍 宮崎キャンプ60年」の写真展を開催中。
キャンプ地を訪れた一般の人達が撮った写真を展示していました。 -
これは、1983年にキャンプを訪れた長嶋さんが藤田監督・王助監督と談笑する、報知新聞提供の写真。
私は巨人ファンではありませんが、長嶋さんは別格です。 -
道路を渡って展望スポットへ。
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青島と同じように「鬼の洗濯板」が続く日南海岸。
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フェニックスを見上げると、何と花が開いたツワブキが同居・・・珍しい光景です。
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道の駅フェニックスから国道220号線を走り、風光明媚なカメラスポット「いるか岬」で小休止。
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荒波が打ち寄せるこの辺りは、鬼の洗濯板というより洗濯岩。
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でも、眺めは南国ムードいっぱい。
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次に向かったのは、日南海岸の丘の上にある「サンメッセ日南」。
ここは、1996年にオープンした「太陽と南洋浪漫」のテーマパークで、一番の目玉は7体のモアイ像です。 -
南太平洋の東部、チリ領のイースター島にあるアフ・トンガリキ遺跡は、1960年のチリ沖大地震により破壊されますが、日本企業の資金援助とクレーンの提供により再建され、1992年から3年かけて15体のモアイ像も復元されました。
イースター島の長老会は、修復チームの希望に応えて世界で初めてモアイの復刻を許可し、サンメッセ日南にアモイ像が建立されました。
なお、イースター島の石は持出し禁止のため、福島県白川村の同じ凝灰岩を使用して制作されました。(修復作業の写真はHPより) -
広いサンメッセ日南の園内は、山の斜面を利用しており、登り下りが結構激しいので、ラウンドカーを借りて周ることにしました。
園内の上部にあるこの階段は「太陽の階段」。 -
太陽の階段を上った、園内で一番高い所にある「地球感謝の鐘」。
神道・仏教・キリスト教など17の宗教団体の代表の人達から資金を拠出してもらい、地球への感謝を表現するために建立されました。
前掲のパンフレットに描かれていますが、春分の日と秋分の日の年2回、朝日が7体ある真ん中のモアイ像から、「天空の塔」と「太陽の階段」をかけ昇り、頂上の鐘に届くように設計されているそうです。 -
「地球感謝の鐘」を少し下ったところにあるヴォワイアン像。
ヴォワイアンとは、「見る人」という意味で、一緒に写真を撮りたくなる、ユニークな像です。 -
ヴォワイアン像の下にあるのは「天空の塔」。
春分・秋分の日、この階段から展望台に続く線上が太陽の道筋になる訳です。 -
斜面に設置された1体のモアイ像。
その近くに、カラフルな7体の像が設置されています。 -
このカラフルなアート作品は「モアイと海をみるヴォワイアン」。
上にあった2体の仲間ですが、こちらはモアイと同じ7体で、高台からモアイと日向灘を見ています。(今井 祝雄(のりお)作、2012年) -
ヴォワイアンの反対側は「太陽の丘 蝶の地上絵」・・・円の真ん中には石造りの塔があり、日時計になっています。
ここからは、太平洋の広がる日南海岸がよく見え、水平線が素晴らしい! -
丘から見たモアイ像。
因みに、イースター島のモアイ像は海を向いていますが、サンメッセ日南のモアイは本物と同じ方角を向いているため、海を背にしています。 -
ラパヌイ語で「モ」は未来、「アイ」は生きる・・・すなわちモアイとは「未来に生きる」という意味です。
7体の顔や大きさは違いますが、それぞれにご利益があるとされ、左から仕事運、健康運、恋愛運、全体運(夢が叶う)、結婚運、金運、学力運・・・その中で、左から3番目の恋愛運と右から2番目の金運のモアイが特に人気だとか。 -
世界で唯一、許可を得て完全復刻されたモアイ像は、高さが5.5m、1体の重さは18~20トンの石像彫刻・・・間近で見ると、本当に大きい!
因みにこのモアイ像は、震度9の地震や風速60mの台風にも耐えられるそうです。 -
「モアイ広場」から丘を見上げると、右に「天空の塔」、左にレストランやギャラリーなどがある「センタープラザ」、その手前に「モアイと海をみるヴォワイアン」の像があります。
もっとゆっくりしたかったのですが、11時半を過ぎていたので、次の「鵜戸神宮」へ向かいます。 -
日向灘に突き出た鵜戸崎岬にある「鵜戸神宮」は、安産・育児・縁結び・漁業や航海にご利益があり、宮崎県屈指のパワースポットとして人気の神社・・・本殿は洞窟の中にあるため、階段を下りて参拝に行くという、珍しい「下り宮」です。
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観光バス用の駐車場に車を停め、トンネルをくぐったり、坂を下ったり上ったりして、結構歩きました。
この石段は、鵜戸山の参拝路として、江戸時代には既にあった815段(上り438段、下り377段)の「鵜戸山八丁坂」。
後から分かったのですが、海岸沿いの道を進むと、神社入り口にも駐車場所がありました。 -
八丁坂から本殿を守護しているように見える「神犬石(いぬいし)」。
鵜戸神宮の創建は不詳ですが、第十代崇神天皇の御代(紀元前97~30年)という説もあります。 -
日向灘の絶景を見ながら、最初にくぐるのは朱塗りの色鮮やかな「神門」、その先に「楼門」が見えます。
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左手に「社務所」を見ながら「楼門」の方へ。
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宮崎の真っ青な空と紺碧の海に映える、朱塗りの「楼門」。
二階部分には、毎年、神職の方が描く大きな干支の絵馬が掲げられ、参道入り口を守っています。(今年の絵馬は「戌」) -
楼門をくぐると左手に稲荷神社がありますが、こちらは帰りに参拝しました。
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参道の右側には日南の海が広がり、奇岩もみられます。
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朱色の「千鳥橋」。
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千鳥橋の先にある「玉橋」。
この橋に続く石段を下りて、社殿へ・・・神社としては珍しい「下り宮」の形となっています。 -
社殿前には岩にぶつかる激しい波しぶきと、トルコ・カッパドキアのような奇岩。
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石段を下りて鳥居をくぐると、そこは神秘的な世界。
日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5m、広さ約300坪の岩窟内に社殿は鎮座しています。 -
朱塗りの色鮮やかな社殿・・・こんな岩窟の中に、こんな荘厳な建物を建てるとは!
現在の本殿・幣殿・拝殿が一体になった権現造の建物は、1711年に飫肥藩第五代藩主・伊東祐実が改築したもので、明治以降、何回かの改修がありましたが、岩窟内に見事に収まる建物は往時のまま。 -
拝殿に飾られた広島カープの大きな絵馬。
日南市営天福球場でキャンプを張るカープは、毎年ここで必勝祈願、そしてV3・・・霊験あらたかなようです。
カープファンの我々夫婦も、来年のV4を祈願しました。 -
洞窟の左奥にあるのは、境内社の皇子神社。
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「お乳岩」がある社殿の裏側の洞窟奥に入って行きます。
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室町時代中頃から祀られている「御霊石」。
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山幸彦との間に子宝に恵まれた豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)が出産後、海宮に戻ることになった際に、子への愛情と健やかな成長を願い、両乳房を岩に貼り付けたとされる本殿裏の「お乳岩」。
見る場所や角度によっては、岩全体が母の胸元に見えるのが不思議です。 -
洞窟内を一周し、出入り口の売店へ。
「運玉」もここで購入します。 -
社殿前の広場から海を見ると、亀のような形をした岩(亀岩)に、縄がかけられた窪みがあります。
そこをめがけて男性は左手、女性は右手で「運玉」を投げ、窪みの中に見事に入れば願いが叶うのですが・・・ -
亀石までは約5mあり、そう簡単には入りません!
願いを込めて挑戦し、見事、縄の中に落ちたのですが、石に跳ね返って海へ ” ドボン ” -
鵜戸崎岬の南側にある「鵜戸千畳敷奇岩」。
今から約1200万年前に、川によって運ばれた砂・泥・礫が海底に堆積し、隆起した後、日向灘の激しい波浪に浸食されて「鬼の洗濯岩」や「鬼の洗濯板」となったものです。 -
油津で昼食をとった後、飫肥の街へ。
飫肥は、飫肥藩伊東氏5万1千石の城下町で、武家屋敷などかつての雰囲気が良く残っており、以前から一度は訪れたいと思っていました。 -
飫肥城観光駐車場に車を停め、「飫肥城下町案内処」で案内地図を貰い、7か所の有料施設を見学できる「通行手形(共通券)」(610円)を購入して、散策スタート。
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先ず、明治2年に建てられた「豫章館(よしょうかん)」へ。
大手門の近くにあり、最後の飫肥藩主・伊東祐帰(すけより)が暮らした屋敷です。
飫肥で最も格式のある武家屋敷で、入口の門も、格式が高い「薬医門」。 -
重厚感がある主屋の玄関ですが、建物の中には入れないので、南側の庭園に廻ります。
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地元特産の飫肥杉で建てられた主屋。
L字型に6部屋あります。 -
部屋に置かれた長持には、伊東家の家紋「十曜」。
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約2,000坪の広い敷地に造られた枯山水式庭園・・・庭石や石灯籠・庭木などが巧みに配置されています。
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続いて飫肥城址へ。
この「大手門」は明治時代の初めに取り壊されましたが、昭和53年に復元されました。
大手門前の石碑には、伊東家の古い家紋である「庵木瓜(いおりもっこう)」の紋が刻まれています。 -
中に入り、城内から見た大手門。
樹齢100年の飫肥杉4本を使って作られて大手門は、木造渡櫓二階建てで、高さは12.3m。
飫肥は元々は伊東氏の所領でしたが、戦国期に薩摩・島津氏の所領となり、秀吉の時代になって再び伊東氏の所領となりました。 -
大手門の先には、桝形と城内へ続く長い石段があります。
周囲は鉄砲狭間付きの土塀で囲まれており、敵が入ると同時に、一斉射撃! -
石段を登った先にある桝形の四隅に、大きな杉の木があります。
これは、4本の杉の対角線中心に立つと、 ” 幸せパワー ” が貰えるという「しあわせ杉」。
私も対角線の真ん中に立って、両手を思いっきり広げましたが、幸せになれるかな~。 -
しあわせ杉の先にある「本丸跡」には、樹齢100年を超す飫肥杉の林が広がり、苔むした地面と飫肥杉が創り出す静寂の世界は、一休みにおススメの場所です。
飫肥杉は、藩財政の窮乏を救うため、江戸時代初期に飫肥藩主・伊東氏によって山林原野へスギの直挿し造林を始めたのが始まりです。
油分が多く腐りにくい飫肥杉は、主に造船用として盛んに利用されました。 -
昭和54年に再建された「松尾の丸」。
飫肥城は昔、周囲に9つの城を配した平城だったそうで、松尾の丸はその一つ。
戦国時代は城主の跡取り息子の住まいでしたが、江戸時代になると、飫肥藩の家老だった長倉家の屋敷として使われました。 -
飫肥城復元事業で、昭和54年に建てられた「松尾の丸」。
延床面積は約240坪と広く、御座の間・御寝所・涼櫓(すずみやぐら)・茶室など20室以上の部屋があります。 -
甲冑が飾られた「玄関の間」。
下級藩士だった荒武家(左)と都甲家(右)の鎧です。 -
「二ノ間」に飾られた「川御座船」の模型。
西日本の大名は大阪に川御座船を置いて、参勤交代の時に大阪と伏見の間を淀川の水運を利用して移動したそうです。 -
12畳の「御座の間」。
座布団に座り、殿様気分で撮影もOK。 -
「御寝所」は12畳の広い部屋ですが、8畳の「二ノ間」、6畳の「三ノ間」と並ぶ続き間を合わせると26畳の間となるようです。
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京都・西本願寺にある飛雲閣の蒸し風呂を、忠実に再現した「湯殿」。
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外の給水口から水を入れ、かまどの火を燃やすと、湯殿の床下にある大きな鍋から蒸気が発生・・・現在のサウナと同じです。
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飫肥城復元事業で、大手門と共に復元された「歴史資料館」。
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藩主・伊東家ゆかりの鎧兜や資料が展示されています。
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「浅野家女乗物」(下の写真)は、伊東家11代藩主・祐民(1792~1812)の正室が、安芸広島藩・浅野家より輿入れの際に持参した駕籠。
因みに、伊東祐民は父の死去により6歳で家督を継ぎましたが、21歳の若さで亡くなりました。 -
飫肥城には当時の建物は残っていませんが、美しい石垣と枡形の縄張りや飫肥杉に包まれた旧本丸跡には、今も往時のお城の雰囲気を感じさせるものがあり、更に松尾の丸や歴史資料館なども整備されて、見応えのあるスポットでした。
城内の見学が終って大手門へ戻り、門から街並みを見ると、城下町の風情が漂っています。 -
大手門を少し下った左側にある「国際交流センター小村記念館」。
飫肥出身の明治の外交官・小村寿太郎の没後80年を記念して、平成5年に開館した施設です。 -
外務大臣として日露戦争の講和条約であるポーツマス条約を締結し、さらに幕末以来の不平等条約を改正し関税自主権を回復する功績を挙げた小村寿太郎は、飫肥の下級藩士の出身。
その遺徳を顕彰したこの記念館には、小村寿太郎の生い立ちから外相としての成果などに関する展示があります。 -
日露戦争勝利後の1905年(明治38年)、ポーツマス会議で日本全権としてロシア側の全権・ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印した小村寿太郎。
飫肥がある日南市は、ポーツマス条約を縁として、米国ニューハンプシャー州ポーツマス市と姉妹都市提携を昭和60年に結んでいます。 -
碁盤目型の屋敷割だった飫肥城下町の南側には、中級・下級藩士の屋敷や商家が建ち並んでいたそうで、このうち、「後町(うしろまち)通り」の掘割には、錦鯉が遊泳している場所があります。
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しゃがんでカメラを構えると・・・錦鯉が集まってきました。
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飫肥城下町は酒谷川(さかたにがわ)に囲まれた水郷の町で、昔は酒谷川から生活用水を引き込んでいました。
現在は、城下町の風情を活かすために、錦鯉が放流されています。 -
飫肥は「九州の小京都」と称されるだけあって、昔ながらの街並みが今もよく保存されており、多くの見所があります。
また、駐車場や案内所・案内板などもキチンと整備されており、観光客を大切にする気持ちが伝わってきました。 -
飫肥から宮崎空港へ早目に向かい、レンタカーを返却。
宮崎空港の愛称は、2014年から「宮崎ブーゲンビリア空港」です。 -
美しい花に飾られた出発ロビー。
空港のレストランで夕食をとり、宮崎に別れを告げてANAに搭乗しました。
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