2018/11/17 - 2018/11/17
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今回の旅の目的は日本百名城の一つ、金山城跡。最初に太田市金山地域交流センターに寄って、そこから、けっこう傾斜のある山すそをどんどん上って行きます。
中腹の駐車場に出てからは広いなだらかな道を歩けるので、太田市金山地域交流センターから駐車場までの方がむしろ険しいですね。
ところで、太田は、鎌倉幕府を倒したことで知られる新田義貞の出身地。新田義貞なんて、遠い過去の歴史上の人物というイメージですが、意外にも太田には今でも新田の荘という雰囲気があちこち色濃く残っていて、ちょっと驚くようなところがあるんですよね。
この金山城も、文明元年(1469年)、新田一族であった岩松家純が築城したもの。その後、享禄元年(1528年)、戦国時代の下克上により城を奪った由良成繁・国繁親子の時代は、後北条氏、上杉氏、武田氏、佐竹氏といった大勢力の狭間にあって、厳しい局面の連続。そして、その狭間の中で、天正12年(1584年)には、後北条氏の城となりますが、小田原征伐後は廃城へ。北関東の混沌とした勢力争いの真っただ中に置かれた城だったということが言えると思います。
城跡の石垣は規模もありますが、けっこう精巧な造りで今でもそんなに傷んでいない。戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説がこれで覆されたとされるほどの石垣です。ほか、「日ノ池」「月ノ池」という大きな溜池まで備えられていて、この城に籠れば何の心配もないといった用意周到さ。雄大さに加えて、かなりの内容も伴う名城跡です。
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太田駅から金山城跡は、約4キロ弱。
徒歩で行ける範囲なんですよね。
市街から、この道をまっすぐだし、道も分かりやすいでしょう。 -
万徳は、太田駅から金山城に向かう途中。大光院の手前です。
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朝早くから「くさもち」の幟が出ていたので寄ってみました。奥の方ではおばちゃんたちが忙しそうに作業していて、活気がありますねえ。
私は、大きめの田舎まんじゅうをいただいてみましたが、もっちりとした皮に甘い餡子がとってもいい。ちょっと出来過ぎみたいにおいしいですね。大和芋を仕込んでいるらしくて、それって上用饅頭と同じじゃないですか。それなら、田舎まんじゅうじゃなくて高級まんじゅう。おいしいに決まってます。 -
これは、大光院。
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この寺は、慶長18年(1613年)、徳川家康が先祖とする新田義重を祀るために創建。
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その住職は、寺の通称でもある「子育て呑龍」。子供が間引かれて殺されていた時代、それらの子どもを弟子として引き取って育てたという人物です。
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ただ、この日は、境内で関東菊花大会を開催中。
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大輪の菊だけでなく、小菊の懸崖仕立てや千輪咲きから盆栽のような小さな作品に、それらを組み合わせた庭まで。
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菊祭りみたいなものは、あちこちありますが、なんか技がキレキレ。ちょっと一味違う菊のような気がしました。
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それにしても、家康のお声掛かりで建てられた寺は今でも境内には威厳が漂って、
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イチオシ
太田では一番大きな寺でしょう。
広い境内では銀杏の大木も色づいて美しい眺めでした。 -
ほか、境内には、上州太田七福神めぐりも。ここ大光院は、弁財天ですが、金龍寺(毘沙門天)、玉巌寺(福禄寿)、永福寺(寿老人)、曹源寺(布袋尊)、受楽寺(大黒天)、長念寺(恵比寿神)の11キロの太田市内コース。漫画チックにイラストされた七福神の幟がなかなかかわいらしいと思います。
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大光院からさらに進むと金龍寺。
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こちらは新田義貞ゆかりの寺で、越前国藤島で戦死した義貞の菩提を弔うために創建されたもの。後に、金山城主、横瀬氏の菩提寺ともなりました。
しっかりした石段を上がると七福神の石像前に寺の由緒書。 -
本堂の堂々とした構えも見応えありだと思います。
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金山城跡を訪ねる前に。
太田市金山地域交流センターというか、これは史跡金山城跡ガイダンス施設。 -
展示・解説は、新田一族であった岩松家純による築城から、下克上により城を奪取した由良成繁・国繁親子まで。ただし、由良氏はその後の後北条氏、上杉氏、武田氏、佐竹氏から秀吉の北条攻めほか。大勢力に翻弄されるという大激動。詳しい説明もあって、この地が戦いに明け暮れていたことがよく分かります。歴史の場面場面を美しいジオラマで表現したり、展示の工夫もなかなかいいと思います。
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さて、基礎知識をゲットしたところで。
金山城への登り口は、この施設の裏。 -
けっこう傾斜のある山すそを
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ここからどんどん上って行くことになります。
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これが中腹の駐車場。
ここまでがけっこうきついですね。
ただ、逆にここを上らないと金山城の山城としての迫力は分からないかもしれません。 -
ここに金山城ハイキングコースの案内板。
コースは、金山城の駐車場から本丸跡の間辺り。遊歩道がそれなりに整備されていますが、木柵道は途中崩れたりしている部分もあって、そこは要注意。木柵道を辿らなければ、気持ちのいい山間道で、シーズンであれば安心して紅葉が楽しめます。 -
ただ、私は車も通れるアクセス道を歩きます。
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なだらかな道なので、これは安心。楽勝ですね。
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城跡の遺構が少しづつ現れてきましたね。
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と、ムム。
これが大手虎口ですね。 -
イチオシ
しかし、このしっかりと精巧に造られた石垣は何でしょう。
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これは山城といった粗野なイメージではない。
天守閣もない時代の城ですが、これほどのものだったとは。。 -
イチオシ
上杉謙信の攻撃を5度も撃退したとされる名城ですが、
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なるほどそれにふさわしい凄味を感じますよ~
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イチオシ
奥に造られた日ノ池は直径17m。
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ここもしっかりと石垣、石敷きで囲まれて、かなり手を掛けたもの。城主の豊かな財力までが感じられると思います。
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ここは、大手虎口の頂上。奥に見える銅像は中島飛行機の創業者です。中島飛行機は、現在の太田の象徴、スバルのルーツにあたります。
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ここはちょっとした展望所になっていて、
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太田市街をはるかに遠く見渡せます。
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イチオシ
さらに奥が本丸跡。新田義貞を祀る新田神社もあるので、そちらの方に進みます。
その手前にあるのが、樹齢800年といわれるニレのご神木。迫力もあるし、何より格好いい。魅力的な姿の神木です。 -
これが新田神社。
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傍らには本丸跡の杭。
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金山城主の系図は、そのまま新田一族の系譜。
その後の由良国繁の系譜は北条家が滅びてからも徳川幕府のもとで生き残り、7000石の家として存続しました。
これで金山城はおしまい。市街の方に戻りましょう。 -
山田屋本店は、金山城に行く途中気が付いていましたが、まいだ開いていなかったんですよね。今の時間だと開いていました。
群馬のソウルフード、焼まんじゅうのお店です。バリバリのようでいろんな賞を取ったお店。 -
イチオシ
いただいてみると。。
パリパリ感のある饅頭に濃厚な甘い味噌だれがたっぷり。むむ。これはうまい。まさに最高ランクの焼まんじゅうではないですか。たぶん、これまで私は30軒以上は食べていると思いますが、久しぶりにいい店に出会ったような気がしました。 -
ここからは、B級グルメチェック。
新虎菓子店は、同じ並びにあるちょっと老舗の和菓子屋さんです。 -
お菓子の他に赤飯なんかも置いてあって。ピカピカ光っておいしそうだったので、それにしてみました。お菓子屋さんの赤飯。おいしくないはずはないのですが、その期待どおり。丁寧に炊き込まれた味を存分に楽しみました。
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まめやは、小さなサンドイッチのお店。小さな町でサンドイッチの専門店って、なかなか潔いですよね。
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品ぞろえはそこそこ。というかフルーツ系もあるし、これなら十分。一番人気のたまごサンドをいただきましたが、しっかりした味わい。ご主人のまじめさが伝わってくるようでした。
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ダス・メールは、太田駅からもほど近い辺りの小さなパン屋さん。
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18品目野菜と雑穀のシャキシャキサンドをいただきました。なるほど、名前の通り、ごぼうとかの野菜が瑞々しくて、本当にシャキシャキですね。体にいいものを食べたという満足感が湧いてくるようなパンでした。悪くないです。
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で、昼飯は、こちら旬菜茶房 美川へ。中心部からは少し外れですが、車で乗り付けるお客さんがポツポツ見えて、それにつられて入った次第。
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店内は和の雰囲気がいいですね。
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いただいたのは、人気の日替わりランチ。一人でも個室に通されて、ハタハタのから揚げや豚の角煮などしっかりした内容。
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これで最後にコーヒーも付いて1000円とはとってもお得。
ごちそうさまでした。 -
ところで、太田駅の東側には歩ける範囲でいくつかの古墳があって、女体山古墳もその一つ。住宅地が切れた平地の中にこんもり小山のような古墳がありました。
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円丘に小さな方形の張り出しをつけるという帆立貝形古墳の形式ですが、眺めただけではよく分かりません。なお、全長106mは帆立貝形古墳としては全国で3位。国の史跡にも指定されています。
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その奥の天神山古墳は、全長210mの前方後円墳。東日本で全長が200mを超すのはここだけ。国の史跡にも指定されています。
造られたのは、古墳時代中期の5世紀前半から中期頃。出土品等からもヤマト王権との関係が窺われることから、それを後ろ盾にして東毛の首長が西毛の首長を圧倒し、上毛野地域全体の支配を確立したことを示す古墳とされるよう。古墳の多い群馬県ですが、それらを総括するような位置付けの古墳だと思います。
ただ、古墳はかなり土が流されていて、なだらかな形状。なので、大きさはあっても見た目の迫力はイマイチのような気がします。 -
太田はスバルの企業城下町ですが、この伊勢屋はスバル本社の向かい側。
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ここにスバルの車を象った最中があって、それが太田の名物にもなっています。やっぱり、車を象ったというのが珍しいところ。ただ、それに興味がなければなんのことはない。普通の最中です。
ここで、この日はいったん終わったんですが、もう少し太田の紹介をしないと何だか中途半端。以前行ったもう一つのエリアを紹介して、太田の総括をしてみたいと思います。 -
もう一つのエリアというのは、世良田の近郊。
世良田駅前に自転車置き場があって、ここで無料レンタサイクルをやっています。世良田駅の周辺には新田義貞の新田荘遺跡が点在していて、これを回るにはここでレンタサイクルを借りるしかありません。レンタサイクルの管理は、自転車置き場の隣りのうちが委託を受けているようで、そこに申し込むと手続きをしてくれます。 -
この周辺は太田市世良田町。新田氏から分かれた徳川氏発祥の地ということで、いくつかの史跡がありまして、長楽寺もそのひとつ。
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承久3年(1221年)、世良田義季の開山。この世良田義季は、得川義季との言って、徳川氏の祖にもあたる人物。
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江戸時代に入って、あの天海が派遣され、復興に尽力することとなりました。
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境内には、勅使門・三仏堂・太鼓門などの遺構が残っています。
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隣りの世良田東照宮は、徳川発祥の地、世良田の歴史公園の中。
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世良田東照宮は、元々は、長楽寺と一体だったのですが、明治の神仏分離令で切り離されたようです。
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駿河国久能山から日光東照宮へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿こちらに移し、創建されたのが始まり。当時の長楽寺は、天海が住職ですし、大変な威光があったのではないかと思います。
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新田荘歴史資料舘も、長楽寺、東照宮などと並んで歴史公園の一角。
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鎌倉幕府を滅ぼすという偉業を成し遂げながら、足利尊氏に敗れ、また、戦前は天皇への忠臣として政策的に利用された反動もあって、戦後評価がイマイチとなった新田義貞。その関係の資料を展示しています。
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全国を転戦して休む間もなかったことがよく分かる資料でしたが、
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これに従った家臣も筆舌に尽くしがたい辛酸をなめたことでしょう。
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時代に翻弄されたとはいえ、傑物であることは間違いないと思います。
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ちなみに、義貞の最期は、越前国藤島の灯明寺畷の戦い。
太平記では、義貞の行動は軽率だったとし、「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない兵士の矢で命を落とした」とその死を犬死と酷評。いずれにしても、無念の最期であったことは否めません。 -
イチオシ
続いては、総持寺。
総持寺の梵鐘が山門横にあって、ちょっとした威容となっています。 -
そもそも、新田荘は、源義家の子、源義国とその子義重が開発した荘園。
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そして、総持寺は、別名「新田館の坊」。かつてここに新田氏の館があったといわれる場所です。
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ここからは少し移動距離が長いんですが、満徳寺を目指します。
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縁切り寺と言えば鎌倉の東慶寺が思い浮かびますが、この満徳寺も東慶寺とともに縁切り寺としての権威を備えていた寺。
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満徳寺は、徳川発祥の地である徳川郷にあって、徳川氏の祖である徳川義季の開山であり、まつ、家康の孫娘千姫がここで秀頼との縁を切ったと言うことですから、その威光は大変なものだったと想像されます。
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その隆盛当時の遺構が発掘されていましたが、確かにけっこうな規模。一角には、寒牡丹園。
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なお、満徳寺は徳川家の位牌所であったのですが、その位牌は資料館の方に展示されています。
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こちらは、これも新田義貞ゆかりの明王院。
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不動堂には、二対の不動明王が納められており、そのうちの一つは新田触不動というのですが、この不動は、新田義貞の鎌倉攻めの際、山伏に身を変え、越後方面の新田一族に一夜にして触れ回ったと伝わります。
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ただ、お堂を覗いてみましたが、奥にある像なのかどうなのか。残念ながら、それはよく分かりませんでした。
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そして、ランチはこの朝日家。
この辺りは地元の特産品ヤマト芋の料理が有名なんですが、その中にあってここは一番有名なお店なんです。 -
定食をいただきましたが、1000円の値段にしては、あれこれとおかずが盛りだくさん。かなり大サービスといった感じですね。で、肝心のヤマト芋のご飯なんですが、もしかして、あの丸子宿の丁子屋よりうまいかも。ほのかに薄い塩味が麦ごはんとバッチリあって、繊細かつ芳醇な味わい。地味だけど素晴らしい出来栄えだと思いました。
なお、太田のB級グルメで外せないのは太田焼きそばの有名店、岩崎屋。
これも参考まで。
https://4travel.jp/domestic/area/kanto/gunma/isezaki/oota/tips/11468351/#contents_inner -
ここから、今度は反町館跡へ。
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ここは、新田義貞の館があったのではないかと言われるところ。周囲には水をたたえたお堀があって、
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新田義貞ではなくとも、この辺りの有力者の館があったことは確かでしょう。
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お堀の中には、反町薬師。
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ちなみに、近所で道を尋ねると反町館跡といってもわかりませんが、反町薬師というと伝わります。
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生品神社は、新田義貞が鎌倉幕府の討幕のために挙兵した地。わずか150騎の兵だったようですが、すぐに越後の一族が加わったり、その後も続々と各地の兵がはせ参じて数万の大軍に膨れ上がりました。
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境内には、挙兵600年とか挙兵650年とかの大きな石碑がいくつか立っていて、この地の意義を忘れないようにという強い気持ちを感じました。
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境内はさほど広くはありませんが気が生い茂っていて、森の中のような雰囲気です。
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ところで、新田荘の遺構が点在するこの辺りは、大間々扇状地に立地し、湧水が豊富な地域。それらが新田荘の開発に大いに貢献したのですが、この妙参寺沼は、矢太神水源と関連し、ため池100選にも選ばれたのだとか。周囲は公園としてきれいに整備されていました。
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さらに移動して、
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これは矢太神水源。けっこう遠いし、分かりにくい。何度も地元の人に道を聞きながら、最後は田んぼのあぜ道のような道を行って、やっと辿り着きました。
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水源は石田川の源流。規模はさほどでもありませんが、今でもとうとうと流れる湧水は健在です。石田川は、新田荘の開発に大いに貢献したのだそう。新田荘の豊かさを支えた遺構です。
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イチオシ
こちらは、新田義貞とともに北条氏を攻めた江田行義の館跡と伝えられる遺跡。新田荘では新田宗家の館跡と言われる総持寺や新田義貞の館跡と言われる反町館跡と並ぶ館跡。
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新田義貞が生品神社で兵をあげた時はわずか150騎。あちこちから馳せ参じて数万の大軍になったということですから、こうした館は各地に無数にあったことも想像されて面白いと思います。
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今でも堀に囲まれて、実戦的な館であったことがよくわかります。
以上で太田はおしまい。 -
世良田駅から、伊勢崎の方に移動します。
まずは、スイーツチェック。
伊勢屋餅菓子店は、何度か寄る度に今日はお餅しかありませんみたいなことがあって、お菓子屋なのにお菓子がない日があるってちょっとどうかなあと思っていたのですが、この日は豆大福があって、それをいただきました。
ところがこれが抜群にうまい。自然のままのお餅なのでちょっと固めなんですが、なんかその分、濃厚なお餅のうまさがあるような。豆も素直な固さが絶妙。それらのうまさとの組み合わせの餡子はすっきりした白砂糖の純粋な甘さのみといった感じ。これだけひねりを入れていなくて、かつ、総合的にうまいんですね。まったくもって、脱帽です。一方で、餅はどんどん固くなるので、残念ですが伊勢崎に来ないとこのおいしさは味わえないでしょう。 -
里美製菓店は、伊勢崎市内の中心部なんですが、住宅地の中。こぎれいな店構えの和菓子屋さんです。
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いただいたのは、いなか饅頭。伊勢崎市内には市内にお菓子屋さんが何軒もあってのせいか、甘さがちょっと強めのような。ただ、ここはそんなことはなくて、スタンダードな味わいかと思いました。
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親玉本店は、伊勢崎明治館の並びにある和菓子屋さん。伊勢崎でも一番大きいくらいの店構えです。
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親玉まんじゅうというのがあって、これがたぶん看板商品なんでしょう。こしあんと粒餡があって、粒餡の方をいただきました。しかし、悪くはないんですが、けっこう普通のような。特徴はないですが、想像した通りの饅頭なので、安心感はあるでしょう。
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いせさき明治館は、伊勢崎市街の中心部。この美しい建物は、伊勢崎藩の藩医だった今村家が明治45年に建てたもの。
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イチオシ
和洋折衷の洋風医院建築物ですが、今は、伊勢崎市指定文化財として保存されるとともに、内部は史料館となっています。
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そもそも。。伊勢崎は、桐生、足利と並んで織物の産地で栄えた町。群馬から栃木にかけてのエリアですが、その辺りを総称する地名が両毛です。
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豪華というか、派手な柄の着物がいくつも展示されていて、
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往時の華やかさを伝えます。
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これは伊勢崎銘仙とか、足利銘仙とかいわれる絹織物。この銘仙というのはデザインが命なんですね。
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群馬は富岡製糸場が世界遺産になって注目をされていますが、生糸も結局は絹織物になって初めて産業として完結する。
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川上の養蚕から製糸とともに川下の絹織物が一緒になると、産業というか文化としての全体像が一体としてイメージできるんですよね。なのに、それが群馬県内で東西に分かれる形になっているのは観光の面でもけっこうもったいない。群馬県内では川上から川下まで両方備わっているのに、とってももったいない。富岡製糸場だけでは群馬の本当の魅力が十分に発信できていないような気がします。
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イチオシ
旧時報鐘楼は、伊勢崎明治館と並んで伊勢崎のシンボル。北小学校の敷地内にあって、期待通り美しい姿で建っていました。元々は大正4年、横浜で貿易商を営んでいた地元出身の小林桂助が建てたものでしたが、現在の鐘楼は市制施行五十周年の記念に、復元されたものということです。
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伊勢崎市内にはお菓子屋さんがたくさんあって、柏屋は小さいし全然目立たないお店なので、観光客には縁遠いかも。お菓子屋さんと気が付いて、どうしようかなあと思ったのですが、こういう店に隠れた名店があることも多いので、とりあえず寄ってみることに。
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いただいたのは、鹿の子。粒粒がきれいですねえ。そして、強い甘さがとても小気味いい。スカッとしたうまさで、これは正解だったようです。
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伊勢崎の街歩きをしていてふと前を通りかかると、中ではお客さんがいっぱい。伊勢崎でこんな賑わっている店があるんでしょうか。
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思わず入ってスタミナ焼き定食を注文。するとかき揚げや小皿が付いていて、サービス満点。余裕のある店内だし、人気のわけがよく分かりました。
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伊勢崎神社は、伊勢崎のメインストリートから少し入ったところ。鎌倉幕府の有力御家人で、鎌倉幕府の草創期に活躍した三浦義澄の創建。
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訪ねると想像以上に立派な神社。ただ、それはかつて織物で栄えた伊勢崎なら当然だろうくらいに思ったのですが、しかし、それでも、本殿の彫刻とかを見るとなかなかたいしたもの。説明板があって幕末に建てられたもののようでしたが、これは見応えがあります。
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伊勢崎の市街地には、焼まんじゅうのお店が二軒あって、大甘堂もその一つ。焼まんじゅうは砂糖と味噌を混ぜたタレに特徴があるのですが、その加減にそれぞれ店の個性があります。
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ここのは、味噌の香りを大事にしたタイプ。饅頭のパリパリ感もそれなりにあるし、完成度の高い焼まんじゅうだと思います。
太田から伊勢崎。こんな感じでおしまい。少しごちゃごちゃしたかもしれませんが、群馬の観光はそうしたところをがんばってくぐらないと本当のところにたどり着けない。こんなことになるのはやっぱり致し方ないのかなと思います。おしまい。
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この旅行記へのコメント (2)
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- しょうちゃんさん 2019/06/26 10:46:47
- 金山城
- 今日は
金山城は、戦後人工的に整備されたものです。小生が子供のころとはまったく違っています。それで、築城当時の城と違っている、と批判している人(歴史家)もいます。
また、世良田東照宮にある説明、新田氏の流れを汲む徳川家、という説明も疑問視する人もいます。おそらく本当でしょう。
- たびたびさん からの返信 2019/06/26 11:04:04
- RE: 金山城
- ほ〜、そうですか。どうりで石垣がきれい過ぎると思いました。せいぜい江戸時代の感じでしたからね。しかし、かつての遺構にあまり手を入れると価値が損なわれるはず。その辺りの判断はどうだったのかは気になりますね。
徳川のルーツの件は、確かにまあ怪しいというのが一般的な見方でしょう。武家の棟梁は平家か源氏かしかない。唯一の例外が秀吉だったということになってますからね。
いずれにしても、貴重な情報ありがとうございました。
たびたび
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