2018/10/04 - 2018/10/04
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frau.himmelさん
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前回は何ともやりきれない思いで「万世特攻平和祈念館」の旅行記を書きました。祖国のためにと願って、死を覚悟して大空に飛び散った若き特攻隊員たちのことでした。
今回の旅行記も同じように、二度と祖国の地を踏めないかも知れないとの思いで、幕府の命に逆らって大海原に乗り出した若き留学生たちを取り上げます。
しかし、留学や視察を終えて無事帰国した若者たちは、様々な分野で明治維新後の近代国家造りに貢献するのです。
あるものは「日本電信の父として」、またある者は大阪経済の要となり、またある者は鉱山事業の近代化に尽力し、またある者はアメリカに渡り「ぶどう王」に、ある者は東京大学(現)の初代校長、ある者は初代文部大臣、ある者はサッポロビール創設に携わり、ある者は・・・・・・並べたらキリがありません。
前回の、祖国のために死しか選択肢がなかった特攻隊員の旅行記に比べて、今回の留学生たちの成功話は、調べるのも書くのもとても楽しい作業でした。
-
万世特攻平和記念館を後にして友人宅へ。
「鹿児島に来ているのに素通りはないでしょう!水臭いわねー」と言ってくれる友人の家に一晩お世話になります。
友人宅はほんとに居心地がいいんです。
伺う度にちょっとずつ変化があって、それを探すのも面白い。
このキス人形の置物、前になかったよね? -
庭の隅のキノコの群生、食べられるような気もするけど、毒キノコだったら怖いのでそのままにしてあるのだそう。
写真右の大きな柑橘系は「ポメロ」という名前で、文旦みたいなものだとか。
友人宅にお邪魔すると、庭の隅々まで見回るのが楽しい。 -
翌日。
今日は夕方の飛行機で帰ります。
その前に、昨日見残した いちき串木野市の「薩摩藩英国留学生記念館」を訪れます。
友人夫婦も一緒に行ってくれるとのこと、友人の車に同乗して出かけます。
車の窓から、まだ刈り取りが終わっていない黄金の稲穂がとても眩しい。 -
「小松帯刀公墓地」の案内板。
NHK大河ドラマ「篤姫」では小松帯刀役は瑛太さんでしたね。
瑛太さんは「西郷どん」では大久保利通役を演じていますね。 -
この奥を登っていくと、小松帯刀のお墓があるのです。
2008年大河ドラマ名残りの篤姫と小松帯刀の撮影用スポットがまだ残っています。 -
2011年にお墓参りをしました。当時の写真です。
小松帯刀も西郷どんや大久保利通などと同時代を生き、明治維新に大きく関係した人物です。 -
串木野の海が見えてきました。
ソテツの街路樹が海岸線に沿って並んでいます。 -
ここが目的地。
近代日本黎明の地、「薩摩藩英国留学生記念館」。
10時開館ですが、9時40分ごろ着いたらちょうど団体さんが特別に入館するところで、早めに一緒に入館することができました。
館内の写真を撮っていいですか?と訊いたら、資料などはご遠慮くださいとのこと。
今回いろんなところで留学生たちを目にしておりますし、また館内で図録を買い求めましたので、それらを元に彼らの軌跡を辿っていきたいと思います。 -
城山観光ホテルで目にしたちらし。
「薩摩藩英国留学生150周年」
1865年に彼らが英国に渡ってから2015年は150年の記念の年にあたります。 -
「維新ふるさと館」にもありました。
「薩摩スチューデント西へ」。
彼らの軌跡を映像で紹介していました。 -
維新ふるさと館で見た留学生たちの集合写真。
彼らはどこでも人気者でした。 -
鹿児島駅前の「若き薩摩の群像」。
今を遡ること約150年前。
19名の若き薩摩藩士が国禁を犯し決死の覚悟で英国へと旅立ちました。
彼らは広く世界を見聞し、帰国後、あらゆる分野で日本の近代化や国際化に貢献しました。 -
鎖国時代の留学生
-藩命で海外渡航の禁を犯した19名ー
なにやら物騒な言葉・・・。 -
留学生のプロフィールを見てください。
実名の横に、留学にあたっての変名欄があり、別名が記されています。
例えば、左下の(実名)森有礼、(変名)沢井鉄馬、になっています。
鎖国時代、幕府は海外渡航を固く禁じていたので、薩摩藩は偽名で、それらしき辞令を出して出港させたということです。
万が一、密航が幕府に発覚しても、藩命に背いて脱藩し勝手に海外へ向かったのだと、薩摩藩は言い逃れができるからだそうです。 -
留学生プロフィール。
最年少13歳の長沢鼎から、最年長は34歳の新納久修、松木弘安(寺島宗則)まで。
どうしてそこまでして、薩摩藩は若き藩士たちを英国に送りたかったのか?
歴史を少し振り返りましょう。 -
日本を強くしなければ西欧列強の植民地にされてしまう、と危惧していた薩摩藩主・島津斉彬の突然の死去。
その後を島津久光(国父)が事実上の実権を握ります。
西郷隆盛は反りの合わない久光から島流しにされ、奄美大島で隠遁生活を送っていました。この頃ですね、2番目の妻・愛加那と結婚したのは。
そのころ故郷薩摩や日本の政局は大きく動いていました。
西郷の力が必要とされ、大久保の力添えもあって、西郷は薩摩に呼び戻されます。
しかし久光の命令に素直に従わない西郷は、再び沖永良部島に流刑になります。 -
西郷が流刑中の1862年9月、生麦事件が勃発します。
馬に乗った英国人4人が、こともあろうに島津久光の行列の中を横切ろうとしたのです。
怒ったのは薩摩藩士、無礼な英国人に斬りかかり、そのうち1人の英国人が死亡するのです。
この行列の中には小松帯刀や松方正義もいたそうです。
松方コレクションの松方幸次郎は正義の三男です。 -
生麦事件の賠償を請求する英国。
それを無視し続ける薩摩藩。
1863年8月、業を煮やした英国艦隊がついに薩摩湾に侵入。
薩英戦争が始まりました。 -
薩摩藩と英国の軍備の差は歴然。
薩摩藩は砲台を設け大砲で応戦するも、英国の最新式アームストロング砲は何倍もの威力を発揮し、歯が立ちません。
(右は薩摩の砲弾、左は英国艦隊のアームストロング砲弾。記念館図録より) -
薩摩藩城下は火の海になり、斉彬が心血を注いだ集成館も大きな被害を受けました。
しかし薩摩軍もよく頑張りました。
英軍にとっていろいろな悪要素が重なったとはいえ、英国軍は大きなダメージを受けました。そして、これ以上無益な戦いを続けても、双方とも得にはならないと考えました。
特に薩摩にとってはこの戦いで、英国の軍事力や科学技術の凄さを目の当たりにし、それらを導入する必要性を痛感しました。
薩英の間で和解が成立し、親密な関係が生まれました。
写真:島津忠義主催で開催された仙巌園でのイギリス公使歓迎レセプション、「絵入りロンドンニュース」に掲載。 -
ところで皆様、「五代様」ってご存じですか?
駅前の「若き薩摩の群像」で中央に座っている人物です。
NHK朝ドラ「あさが来た」の広岡浅子(テレビでは波瑠さん)を陰になり日向になり支えてきた五代友厚(テレビではディーブ・フジオカさんが演じました)、大阪経済の基礎を築いた人物です。 -
もっと拡大しましょう。
薩摩藩の武士の息子として生まれ、西郷隆盛より8歳年下、同じ「郷中教育」を受けています。
彼は尊王だ攘夷だと薩摩藩が揺れ動いていたころ、長崎の出島で西洋文化や技術を学んでいました。
そのころ知りあったのがスコットランドの商人グラバー(1838-1911)、長崎の有名なグラバー邸のグラバーです。 -
薩英戦争の終結には五代友厚が少なからず関わっているのです。
英軍艦が拿捕した船に乗っていのは五代友厚。
捕虜になった五代は、英国軍が薩摩に上陸しても、勇敢な薩摩隼人と戦ったら苦戦は避けられないよ、と進言したのです。
その言葉に、これ以上戦っても良いことはないと悟った英国軍は、賠償金を取って終わらせた方がいいと考えました。
双方の意見が一致した段階で、薩摩藩は幕府から立て替えてもらって賠償金を支払いました。
生麦事件賠償金受領書(集成館資料より) -
欧州のような産業の近代化の必要性を痛感した薩摩藩、五代は薩摩の有望な若者を欧州に派遣することを提案します。
時は海外渡航を禁止していた鎖国時代。
選ばれた15名の若者と4名の引率者はそれぞれ偽名で、目的を偽っての密航でした。
引率者の中には五代もいました。 -
薩摩藩の命運を担った19名の薩摩藩士たちは、1865年4月17日、串木野羽島港から決死の出発をしました。
羽島港には碑がたっています。 -
係員やツアーの方と一緒に記念館のテラスに出てまいりました。
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「薩摩スチューデント出発の地」の碑
「1865年(元治2年)4月16日午後3時ごろ、長崎居留のトーマス・B・グラバーが手配した機帆船オースタライエン号が沖合に姿を見せる。
留学生たちは世話になった羽島の人々に別れを告げ、眼下の瀬の左側先端あたりから小舟でオースタライエン号に向かった。
翌17日早朝、同船は香港に向けて出港。
薩摩スチューデントたちの長い旅が始まったのである。」(碑より) -
眼下に薩摩スチューデントたちが小舟で乗り出した海が見えます。
左側の瀬のあたりから出発して、沖合にはグラバーが手配したオースタライエン号が待っていたのです。 -
彼らはどんな気持ちで出航したのでしょうか。
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留学生の航路図。
イギリスへ向けて出発した一行は、各停泊地で初めて目にする西洋文化にカルチャーショックをうけます。
無数のガス灯に光り輝く香港の夜景。
舗装された煉瓦敷きの道路、建ちならぶ西洋風の建物。
また陶製便器を洗面器と勘違いしたり、炎天下で食べる冷たいアイスクリームに感激したり、目の前で別れのキスを交わす夫婦に驚いたり・・・
新鮮な体験の連続でした。 -
そして上陸したスエズでは、蒸気機関車に乗車。
大きな鉄の塊が疾走する姿は彼らには驚異として映りました。
彼らは、見るものすべてが新鮮な驚きで、母国の大きな遅れと富国強兵の必要性を痛感しました。
留学生記念館テラスより -
薩摩スチューデントたちは4隻の船を乗り継ぎ、2か月かけて英国のサウサンプトン港に到着しました。
当時のサウサンプトンの地元新聞記事には、日本からの留学生19名が乗っていたと書かれているそうです。 -
薩摩スチューデントたちは、サウサンプトンで断髪したり、ひげを剃ったり、洋服をあつらえたりして、ジェントルマンに変身します。
その後ロンドンに向かい、産業革命後の好景気に湧く大都市に驚くのです。 -
ロンドンでは鉄工所を見学したり、蒸気で動く農業機械を使って作業している大農場を見学します。
プリタニア鉄工所
イギリスで最先端の農業機械を生産していた鉄工所。(図録より) -
農園ではトラクターを見て驚いた留学生たち。
しかしその操作が意外と簡単なことを見破り、カタコト英語で質問して試運転に挑戦しました。
そして素早くその操作を理解し、器用に運転して、関係者を驚かせました。
そのことが地元の新聞に掲載されました。 -
ロンドンに到着した薩摩スチューデントたちは、あらゆる分野で先進的な勉学に勤しみました。
また視察員として同行した4名(新納、寺島、五代、堀孝之)は、先端技術の視察や産業機械の買い付けなどの活動に邁進しました。
イギリス関係者も彼らを積極的に応援してくれました。
そして充実した時は流れていきました。
写真は「いちき串木野市ガイドブック」より。 -
この絵の中に長州ファイブという一群が描かれています。
薩摩スチューデントより一足早く清国(中国)経由でロンドンに派遣された長州藩士5人がいたのです。
その中には伊藤博文や井上馨もいました。
あるとき薩摩スチューデントたちは長州ファイブの訪問を受けました。
国内では犬猿の仲だった薩長でしたが、遠い異国の地で交流を重ねていくうちに、もはや尊王だ攘夷だといがみ合っている場合ではない、藩と言う垣根を超えて、日本の将来を共に考えて行こう、という固い絆に結ばれていきました。
テレビ「西郷どん」でこんな場面がありましたね。
薩長同盟が難航しているときに、イギリスに渡った長州と薩摩の留学生たちが一緒に写っている写真をみた薩摩の西郷や大久保、長州の桂小五郎(木戸孝允)らが、
遠い異国では、長州も薩摩もなく日本という一つの国の民として助け合っているのだ、薩長両藩も彼らを見習って力を会わせて日本のために尽くしていこうと、めでたく『薩長同盟』が締結されたのでした。 -
留学や視察を終えて帰国した若きスチューデントたちは様々な分野で、近代国家の国造りの中核を担うことになります。
私が興味を持った人物を何人か取り上げてみます。
まず最年少で渡英した長沢鼎。 -
長沢鼎
スチューデントたちの集合写真。
前列右端に座っている、若者と言うにはあまりにも幼すぎる小さな子供。
最年少の13歳で渡英しました。
ロンドン大学に入学する年齢に達していないので、グラバーの実家に預けられ、その後カリフォルニアに渡り「ぶどう王」「ワイン王」と呼ばれ、生涯をアメリカで終えます。 -
寺島宗則
島津斉彬の側近として仕え、薩摩スチューデントの中で最年長。
引率者としてだけでなく、視察員として西欧の紡績機械、兵器などの購入や貿易の交渉などで積極的に活動しました。
「日本の電気通信の父」と呼ばれています。 -
村橋久成
帰国後、開拓使に出仕し、日本初の冷製ビール醸造に成功します。
サッポロビール創設。 -
五代友厚
スチューデントたちの引率者だった五代友厚(「朝が来た」の五代様)は、大阪商工会議所設立。大阪経済の復興に貢献。
松村淳蔵(上野写真左)
海軍兵学校の校長として海軍教育の発展に貢献。 -
森有礼。
有名な人ですね。
初代文部大臣。教育の近代化や男女平等などに尽力。 -
町田久成。
帝国博物館(現東京国博)の初代館長。
文化財保護思想を啓蒙。 -
新納久修
高いところで手を広げているのは新納久修、留学生の団長。
イギリスの工業地帯を巡り、紡績機械や武器など買い付ける。
大島島司(支庁長)として奄美の近代化に尽力。 -
ここに紹介したのは留学生の一部ですが、なんとまあ豪華な顔ぶれなのでしょう。
まさに黎明期の偉人たち。
彼らの偉業は大きく成長し、現代に綿々と引き継がれています。
薩摩スチューデントたちのユーチューブを見つけました。
詳しく彼らの軌跡を知ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=jTPZ7s_oKIY -
薩摩スチューデントたちが羽ばたいていった大海原。
台風が近づいているとは思えない穏やかな海面です。 -
最後に、これだけは記念館の係員に許しをいただいて写真を撮りました。
「生麦事件で死亡した英国人リチャードソン」。
館内の説明をしてくださった専門の係員さんが、彼と西郷隆盛の弟信吾(後の西郷従道)が何か関係があるようなことを説明していました。
よく聞き取れなかった私は、帰り間際にもう一度質問しました。
鳥羽伏見の戦いで瀕死の重傷を負った西郷信吾は、兄隆盛の願いで駆け付けた英国人の医師に執刀してもらって助かりました。
その医師がリチャードソンを検死をしたのだそうです。
リチャードソンの死によって勃発した薩英戦争。
しかしその死が日本の歴史を変え、日本の近代化につながったことを考えると、不思議な思いにとらわれます。 -
留学生たちがひっそりと旅立った羽島の海を後にして、串木野の町を離れます。
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ちょっと早いけど、海が見渡せるオーシャンリゾート「えぐち屋」でランチをいただきます。
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ここにも「西郷どん」のポスターが。
日本全国の有名人ですから、鹿児島ではあちこちで見かけます。
ランチメニューに「西郷どんランチ」(1800円)があったのでそれを注文したら、海が時化ているので、今日はやっていないとのこと。
昨日といい今日といい、ランチには恵まれません。 -
それならば「海鮮ランチ(1650円)」。
でもこのお刺身も吹上浜で獲れたのではなさそう。
サーモン・ホタテ・エビ。
どこでもいつでも食べられるものばかり。
やはり時化の影響でしょうか。 -
鯛のアラ煮、イセエビのお味噌汁、小鉢。
コーヒーとジュースは別料金。
美味しかった。 -
道の駅「江口蓬菜館」。
毎回ここでお土産を買うのが楽しみです。
今回も、お茶や岩ノリ、つきたてのお餅、さつま揚げ、2㎏の新栗(渋皮煮を作ります)その他諸々。
さあ荷造りが大変! -
友人夫婦とお別れをして鹿児島空港へ向かいます。
途中、桜島SAに寄りました。
残念ながら台風の影響で雲が多く、桜島は顔を隠していました。 -
桜島SAでは、西郷隆盛・従道兄弟、それに大久保利通、五代友厚が私たちを待っていました。
2泊3日の私の鹿児島訪問、短かったけど、「西郷どん」追っかけの旅、黎明期の歴史的人物探索の旅は、私にとって結構実りあるものだったように思います。 -
ほんとに鹿児島はあっちもこっちも「せごどん・せごどん」。
売店には西郷どんと愛加那さんのクッキーも。
そこに書かれた文字に注目しました。
「Cangoxina」
大河ドラマ「西郷どん」の初回で、子供のころのせごどんが、島津斉彬と初めて出会った時にもらったカステラの包み紙に書かれていた文字でした。
思えばこれが大河ドラマ「西郷どん」の導入でしたね。 -
そうだ!まだ両棒餅(ぢやんぼもち)を食べていませんでした。
ぢゃんぼという名に似つかわしくない2本の棒に刺されたかわいいお団子。
両棒(ぢやんぼ)とは武士の大小2本の刀を意味するそうです。
5本で310円(だったかな?)も -
空港近くのレンタカー屋さんで車を返却し、鹿児島空港へ。
搭乗時間まで1時間ほどあります。
「運転で緊張して疲れたな~。これは労ってもらわないと~」と夫が申します。
まあ、早い話、ビールが飲みたいのでしょう。
いつもの「YAMAKATAYA」、この時間帯はガラガラ。 -
ここにも「西郷どん」じゃなかった「西郷膳」。
前は「篤姫膳」というのがあってそれをいただいたことがあります。
主役も代替わりですね。
まだお腹はすいていませんのでこれは却下。 -
夫はもちろんビール。
それに骨付き豚肉の味噌煮。 -
鹿児島といったら「白熊」。
この涼しい10月に注文する人は少ないらしくなかなか出てこない。
催促すると、「すみませ~ん、今フルーツを切っています」。
慌てたらしく正面の顔は目玉が下に落ちて、泣いているクマさんのよう。後ろ姿、しっぽはメロン。
美味しかったです。 -
鹿児島空港でも最も端にあるLCCスカイラインで羽田に帰ります。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- ryujiさん 2018/12/20 12:38:53
- 素晴らしい!、文才に脱帽です
- こんにちは、himmelさん。 ご無沙汰しております。 今年も、あとわずか10日余りで、ホントに月日の絶つのが早いものです。 嫌になってしまうのが正直な思いです。
タイトルの旅行記を拝見です。 鹿児島歴史の旅いいですねぇ~、興味深く読ませてもらいました。 himmelさんの旅行記展開は、さすがセンスの問題ですね。 知らないことがいっぱいで勉強になりました。
小生は幕末の薩摩藩の歴史はよく解かっていませんが、唯一「生麦事件」だけは知っていたのでコメントさせてください。 小生は、この事件により倒幕・日本の近代化に歴史が大きく動いたと思っています。 個人的な感覚として、列強諸国に対して常に弱腰の幕府に対して、「あっぱれ薩摩藩」とエールを送ったものです。 この生麦事件に関して、アメリカのニューヨークタイムスはイギリス商人は薩摩藩に対して非礼を働いたと報じています。(非はイギリスにあり) 同時期この一行に、アメリカ人商人は馬から降り一礼をしていた、「郷に入っては郷に従え」と言う事でしょう。 小生は日本のサムライ魂と誇りに感激したものです。 賠償金を払わなかった薩摩藩との戦争、いわゆる「薩英戦争」はhimmelさんのおっしゃる通りです。 出しゃばった考えを述べてしまいました、お許しを。
ryuji
- frau.himmelさん からの返信 2018/12/20 21:36:20
- RE: 素晴らしい!、文才に脱帽です
- ryujiさん、お久しぶりです。
ときどきお名前を見かけては寄らせていただくくらいで、本当にご無沙汰しています。
この度はコメントありがとうございました。
それにしてもなんてまあ、最高級のうれしいお褒めの言葉。
これがryujiさんから発せられた言葉だなんて、もう恥ずかしくて穴があったら入りたいです。
今回の鹿児島歴史旅は時期もよかったのです。
ちょうど大河ドラマの「西郷どん」を楽しんでみていましたから。
この番組がなかったら歴史を系統だてて調べなかったかも知れません。「生麦事件」なんて名前は知っていたけど、薩摩藩のことだったの?とか、「薩英戦争」、えっ薩摩が英国と戦ったなんて嘘でしょう?なんて思っていた歴史音痴の私でしたから(笑)。
そうですか、アメリカの新聞はちゃんと歴史認識をした上で、英国に非があるとしたのですね。まだそのころは外国との門戸が正式に開かれていなかった江戸時代。「生麦事件」のお蔭で日本の近代化が加速したことを思えば、薩摩藩さまさまなのですね。
薩摩の英国留学生たちも、英国の新聞でいろいろ好意的に書かれていたようですが、そんなのを見るとなんとなく嬉しく思います。
旅行記では、ドイツ旅行が多いのでドイツの歴史は調べますが、明治維新ごろの西欧との交流が盛んになるころの、日本の歴史も面白いですね。
コメントありがとうございました。
年の瀬も迫ってまいりましたが、どうぞよいお年を。
himmel
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