2025/11/02 - 2025/11/02
1103位(同エリア1298件中)
きみちゃんです。さん
- きみちゃんです。さんTOP
- 旅行記32冊
- クチコミ600件
- Q&A回答1件
- 59,089アクセス
- フォロワー2人
この旅行記のスケジュール
2025/10/23
-
電車での移動
大阪駅9:06出発→(新快速)→野洲→(快速)→安土10:23t到着
-
徒歩での移動
安土駅前10:40出発→(徒歩)→セミナリヨ公園11:00到着
-
徒歩での移動
セミナリヨ公園11:10出発→(徒歩)→百々橋11:20到着
-
徒歩での移動
百々橋11:25出発→(徒歩)→安土城大手道入口11:35到着
-
徒歩での移動
安土城大手道入口11:35出発→(徒歩)→摠見寺12:40到着
-
徒歩での移動
摠見寺12:45出発→(徒歩)→安土城大手道入口→(徒歩)→信長の館13:10到着
-
徒歩での移動
信長の館14:10出発→(徒歩)→安土駅14:40到着
-
電車での移動
安土駅14:52出発(普通)→山科→(新快速)→大阪駅16:13到着
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
戦国武将の中で最も華やかな印象がある織田信長公の夢のあとを訪ね日帰り旅行しました。歳を重ねて来て徐々に足腰の衰えを感じるようになったので動けるうちに階段が多い安土城を訪ねてみようと思ったのがキッカケです。JRを利用して9:06に大阪駅を出発すれば新快速と快速を利用すれば10:23に安土に到着します。安土城下を巡り、安土城に到着したのは11:35でした。入場料を払って安土城の急こう配の階段を上って天主台跡まで行きました。先日の登山の疲れが取れていないせいか?、意外に手強い階段でした。下山は唯一当時の面影が残る摠見寺(そうけんじ)の三重塔と二王門を見て下山しました。続いて10分あまり歩いて信長の館に到着しました。ここは安土城についての説明映画が上映され、その後に再現された豪華絢爛な安土城天主閣の最上部が見られます。上映時間は事前に確認しておくのがよいと思います。その後は安土駅まで徒歩で移動し帰阪しました。信長公の夢を見ることができたように思う一日でした。(注)この順序と逆に信長の館で先に安土城の知識を頭に入れて安土城を訪れるのもよい方法と思います。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 3.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
-
大阪駅から新快速(大阪~野洲)、快速(野洲~安土)を乗り継ぎ、約1時間半で安土に到着しました。駅前ではさっそく信長公の像が出迎えてくれました。右手の指している方向は上洛を目指した信長公らしく京を指しているのでしょうか?
織田信長公像 名所・史跡
-
安土駅にある観光案内所で情報収集しました。先に信長の館に行き安土城の映画を観て細かな知識を頭に入れてから安土城に行くのがよいか、午前中の比較的涼しい時間帯に安土城に登るのがよいか悩むところでした。結論は後者の案で城下を散策して午前中に安土城に登ることにしました。
-
途中、朝鮮人街道という石碑を見つけました。江戸時代に大阪や京都から来た朝鮮通信使が通行した道のようです。近江八幡、安土、能登川を通り中山道に繋がっているそうです。
-
開運と厄払いの神様として信仰されている彦根神社の鳥居の手前で右折し、セミナリヨ史跡公園、百々橋、安土城を目指します。
-
セミナリヨ史跡公園です。1581年に織田信長公の援助を得て設立された日本初の神学校です。安土城とともに本能寺の変後に焼失してしまいました。その跡地が公園として残されています。
セミナリヨ跡 名所・史跡
-
イタリア人宣教師オルガンチノが織田信長公の支援を得て設立されたことが書かれています。西洋の学問を学んだ若者が日本文化に影響を与えました。
-
当家は太郎冠者と名乗った中世以来のこの地の豪族でした。この家の傳蔵近家と常楽寺の馬次郎が織田信長公の面前で竹をねじり合う力比べを行い、信長公は彼らの技量に感嘆し、傳蔵近家は土俵の上に東から上がったので東家の姓を西から上がった馬次郎に西家の姓を与えたそうです。入口にこのような説明がありました。
-
江戸時代後期に建てられたといわれる「竹相撲」発祥の地と言われていて、織田信長公が太い竹を捩じりあって男たちに力比べを行わせた神社です。
-
新宮大社には大小二つの本殿があります。そのうちの大きいほうの本殿です。木立に囲まれて素朴な感じの神社でした。
-
安土城があったころに摠見寺(そうけんじ)参詣の者と城下町を通る者を調べる番屋があったのが検子(けんね)の辻です。摠見寺へは百々橋(どどばし)を渡ると石段の参道が現れます。安土城への道は閉鎖されていますので、大手道から入城することになります。
-
安土城への登城道にかかる百々橋(どどばし)です。かっては4本の登城道があったそうですが、現在は大手道とこの百々橋を渡る道が残されています。現在の橋は昭和32年に架けられたものです。信長が安土城内に建立した摠見寺への参道でもありました。このことから百々橋が日常の登城道口であった可能性はありますね。
-
安土城址大手道横に立つ安土城址を示す石碑です。ここから少し進むと入城受付があります。
-
安土城の大手道にある入城受付です。ここを過ぎると急こう配の石段が延々と続く大手道が待っています。この石の階段は登るのは結構大変なので驚きました。
-
安土城址の全体配置図です。安土城は1576年に天下統一を目指すdして築城が始まり3年後に天主が完成して信長公は移り住みました。1582年に本能寺の変で明智光秀に倒されます。その後、光秀は一度は安土城を手に入れた形になりますが、羽柴秀吉に敗れた直後に安土城は焼失します。このような歴史と発掘調査に関して記述があります。
-
天主閣に向かう真っすぐな道が大手道です。幅は6mと書いてありましたので城を防御する面からは首をかしげる広さです。道の両側には石積みの側溝が設けられています。信長に信頼が厚い武将、前田利家や羽柴秀吉の屋敷跡があります。この武将たちが城の防御に大きな役割を果たさせたのでしょう。
-
大手道の一番下、東側にある伝羽柴秀吉の屋敷址です。ひな壇のような敷地です。城の正面の守りを固める重要な位置にあります。羽柴秀吉は信長の信頼が厚かった武将であることがわかります。
-
大手道の一番下、西側にある伝前田利家の屋敷址です。ひな壇のような敷地に書院造の主殿、厩、隅櫓など多く建物で構成されています。正面の守りを固める重要な位置にあるので、前田利家も信長の信頼が厚かった武将であることがわかります。
-
真っすぐな大手道を登り詰めると、道はジグザグ道に変わります。この辺りは階段の踏石などに使う石材は近くの山々から採石しましたが、それだけでは十分じゃなかったのでしょう。石材や墓石なども含まれていました。
-
天主台のすぐそば、一段低い場所、二の丸跡と考えられる場所に織田信長公の本廟があります。1583年に羽柴秀吉が建立し、信長愛用の太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬し本廟としました。
-
こう配のきつい長い階段をやっとのことで登り終えると、やっと天主閣址に到着しました。現在まだ発掘調査中ということもあり、立ち入り禁止になっている場所も近くにあります。
-
安土城の天主台址にある説明です。現在は礎石が残されているだけです。安土城の天主台跡は現在、2mほどの高さの石垣に囲まれた台地となっています。ここには礎石が1~2mおきに規則正しく並べられており、天主閣の地階だったそうです。
-
1576年に安土城を築城したときに信長公が自分の菩提寺として移築されたのが摠見寺です。本堂は1855年に火災により焼失しました。この三重塔の北側に礎石が残っているだけです。なお三重塔は1454年に建立されたものです。
総見寺 寺・神社・教会
-
さらに急な石段を下ると摠見寺二王門があります。三重塔とともに創建時の姿を伝えています。室町時代に建立されたもので、信長公の命で甲賀から移築されたものです。
-
信長の館にある安土城天主閣全体の模型です。縮小率は1/50です。
安土城天主信長の館 美術館・博物館
-
安土城天主閣の最上部5階6階の部分がそのままの大きさで復元されています。狩野永徳に描かせたという障壁画も復元されています。豪華絢爛とはこのことですね。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
近江八幡・安土(滋賀) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
25