2018/11/21 - 2018/11/21
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ドクターキムルさん
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小田急伊勢原駅の階段踊り場にある観光案内所でパンフをもらい、大山へ向かうバスの中で案内地図を見てみると、「(伝)大友皇子の陵」とあるので驚いた。また、「日向路マップ」には「大友皇子の墓」とある。
天智天皇の皇子・大友皇子は壬申の乱(天武元年(672年))で天智天皇の弟・大海人皇子(後に即位し、天武天皇)と争って敗れた。明治3年(1870年)に諡号を贈られ、弘文天皇として認められたが、即位したかどうか定かではない。明治10年(1978年)に宮内庁により滋賀県大津市御陵町にある長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)に弘文天皇陵が治定されている。宮内庁上の形式は円丘で遺跡名は「園城寺亀丘古墳」となっている。なお、壬申の乱の敗戦後、弘文天皇は妃・子女を伴って密かに東国へ逃れたとする伝説があり、愛知県や神奈川県や千葉県に弘文天皇に関連する史跡が幾つか残っている。その一つである。
大友皇子の墓があるのは石雲寺(日向薬師(日本三大薬師の一つ)近くに)である。「(伝)大友皇子の墓」の方が分かりやすいだろう。少なくても、「弘文天皇の陵」はあり得るが、「(伝)大友皇子の陵」はおかしいだろう。伊勢原市では名所や史蹟には看板を立てている。ここ日向渓谷では名所・史蹟の前にその看板を立てている。しかし、ここの「<伝>大友皇子の墓」の看板は「徒歩5分」も離れた場所に立てられており、また、「日向の文化財めぐり」の地図は日向川の向きが逆転しており、場所が分かり難くなっている。橋の袂にある「大友皇子の墓 5分」道標を見付けてようやくその場所の見当が着いた。
地方の教育委員会や観光課、観光協会などにありがちな、おかしな表記や分かり辛くなってしまっている案内看板で無駄な時間を費やしてしまった。
長等山前陵は、大津市役所のすぐ裏に位置(https://4travel.jp/travelogue/10505148)し、3階の職場フロアの窓から御陵を見下ろすことができる。陵としては有り得ない立地になっている。
宮内庁が管理しない・する墓・陵であれ、いづれも疑問が残る。これは負けた側であるから仕方がないか。
(表紙写真は(伝)大友皇子の墓)
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「にじますつり バーべキュー」看板。
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「御所入口 森のコテージ 5分」の道標。この地に「御所」があったのか?
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T字路。その先に橋が。
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「<伝>大友皇子の墓」の看板。
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「日向の文化財めぐり」。
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看板の裏に広がる広場に石積。
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看板の裏に広がる広場。
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看板の裏に広がる広場のここにも石積。
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日向川。
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看板の裏に広がる広場の端に看板。
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「関東ふれあい(の道)」。太田道灌・日向薬師のみち。
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広場。
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日向川。
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「大友皇子の墓 5分」道標。橋を渡るのだ。
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橋を渡るとまた広場。夏季の駐車場。
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「史跡 (伝)大友皇子の陵墓」と「大友皇子の墓 3分」の道標。
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山道(旧道か?)を暫く進むとコテージ。
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「(伝)大友皇子之陵」。ようやく陵墓か。
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「(伝}大友皇子陵」(平成8年(1996年)銘)。
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(伝)大友皇子の墓。
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「お知らせ
文化財の適正管理の為 「石造五重塔」本体は石雲寺境内に移設し、当地にはレプリカを設置しました。」 -
五輪塔。従者の墓?
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五輪塔。
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五重石塔。
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横に古木。
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