2018/10/03 - 2018/10/03
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frau.himmelさん
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10月はいろんな行事が一度に重なり、大変忙しい月でした。
旅行記の方も、早く次に進まなければ~と気ばかり焦るものの一向に手を付けられず・・・。
NHK大河ドラマ「西郷どん」もいよいよ佳境に入ってまいりましたね。
西郷らの働きで江戸城は無血開城され、元号は明治と改められました。
登場人物の服装も今までの髷や羽織・袴から、洋装に一転します。
新しい日本の夜明けです。
しかし西郷と大久保は政治的意見の食い違いから袂を別つことになるのです。
そして西南戦争へと、壮絶な戦いの火蓋は切って落とされました。
先々週から(?)、ナレーターの西田敏行さんが、西郷隆盛と愛加那の息子で後に京都市長に就任した西郷菊次郎役で登場しました。
さて、私の旅行記の方もドラマが終了しない前に仕上げてしまわなければ・・・。
-
次なる「西郷どん」の追っかけの地は、「西郷隆盛洞窟」。
城山観光ホテルより車で数分下ったところにあります。
政府軍に追われた西郷隆盛が、最後にこの洞穴に籠もり陣頭指揮をとった場所です。 -
-
ここに説明文があります。
それによりますと、
「1877年(明治10年)9月24日、午前4時、政府軍の城山総攻撃が始まりました。
城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は何重もの柵をめぐらし、その数40,000。
死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。
この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫った縞の単衣に白い兵児帯。
ゆっくりと岩崎谷を下ります。
その時流れ弾が西郷の腰に命中。
別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです」 -
西南戦争というのは、不平士族の反乱が相次ぐ中、西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑発によって引き起こした暴動が始まりです。
首謀者の引き渡しか全面戦争か?
その結論を出したのは「おはんらにやった命」という西郷の一言でした。
2月15日、ついに挙兵。
熊本で政府軍と激しい攻防戦を繰り返すも、近代兵器の前に敗退。
7か月に渡る大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えたのです。 -
どうしてこんな展開になったのか、歴史を元に戻します。
江戸城無血開城を成し遂げた西郷隆盛。
その心の中には戊辰戦争で多くの犠牲者を出してしまった罪にさいなまれます。
明治2年、職を捨て下野し、薩摩で穏やかな隠居生活の日々を過ごしていました。
西郷隆盛の写真:城山観光ホテル展示より -
城山観光ホテルの展示の中に、そのころ西郷隆盛が息子菊次郎に宛てた手紙がありました。
菊次郎は1869年に西郷家へ引き取られていますので、それ以前の手紙です。
上段が直筆コピー、下段が現代文に訳した文章です。
「・・・私はこれからは旅もしないと考えているので、必ず上国してください。・・・この頃病気がちで、とても長く生きながらえるのは覚束ない、生きているうちに一遍は逢いたいものです。跡になってからは必ず悔いを残すので・・・。」
父親の情愛に溢れたとってもいい手紙です。 -
しかし新政府はそんな西郷を放っておきませんでした。
廃藩置県により、旧武士の特権を奪われた士族が全国各地で反乱を起こしており、大久保や岩倉の新政府は西郷の力を必要としたのです。
新政府に呼び戻された西郷は、明治4年(1871年)復職し、いくつかの要職を兼務しました。
さらに大久保や木戸孝允ら岩倉使節団の外遊中には、明治天皇の片腕となり留守政府を守りました。
しかし帰国した大久保らと外交問題で対立し、再び下野し、明治6年(1873年)鹿児島と名を改めた故郷に戻ります。
写真は西郷洞窟の前の西郷どんの銅像。
台座には「せごどん」と彫られています。 -
鹿児島に帰った西郷は私学校を創りました。
城山観光ホテルの展示物に私学校の説明文がありましたので、丸写しします。
「明治政府に辞表を提出し、帰郷した西郷さんの後を追い、数百人の若者が鹿児島へやってきた。
西郷さんは陸軍士官養成のため、幼年学校・銃隊学校・砲隊学校の3校からなる私学校を設立。
後にこの組織が政府の脅威となり、西南戦争の引き金となる事件が起こってしまう。」 -
洞窟の中には「目で見る西南戦争始末記」三十六景展示場がありました。
西南戦争とは、政府軍と西郷率いる薩摩軍が戦う国内最後の内戦です。
西南戦争の戦場となったのは九州の鹿児島県・熊本県・宮崎県・大分県。
戦力は政府軍6万に対し薩摩軍3万。
戦死者は両軍合わせて14000人。その四分の一が西南戦争最大の激戦地・田原坂で亡くなりました。
それらの絵巻がこの洞窟の中に展示されています。
ざっと見てまいりましょう。 -
私なりに説明文を付けていますが、間違い勘違いも多いと思います。ご指摘くださるとうれしいです。
(下の絵)政府は西郷の創った私学校に脅威を感じていました。
そこで鹿児島に保管されている武器・弾薬を他へ移そうとしました。
当然怒ったのは私学校生徒たち。
夜、火薬庫を襲い、武器弾薬を掠奪しました。
(上の絵)
郷里鹿児島に帰り穏やかな日々を送っていた西郷どん。
大好きな犬との散歩中に、弟小次郎より、弾薬掠奪事件と西郷暗殺計画が練られていることを知らされる。 -
2月15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発した。
西南戦争のはじまりです。
2月17日、西郷本隊も加治木・人吉を経て熊本へ向かう。 -
2月20日夕、薩軍は植木で乃木希典少佐率いる連隊に遭遇し、連隊旗を奪う。
-
熊本城に到着した薩軍に政府軍の偵察隊が発砲し、西南戦争の実戦の火蓋は切って落とされた。
薩軍、熊本城を包囲する。 -
包囲された熊本城、外部との連絡を遮断される。
伍長谷村圭介は夜半熊本城を抜けだし、乞食に身をやつし、第14連隊乃木少佐の元にたどり着き任務を果たす。
薩軍、激戦の末敗れる。 -
田原坂の攻防。
17日間もの激戦、薩軍奮闘するも大勢の死傷者を出して敗れる。 -
田原坂と言えばこれ。
「馬上ゆたかな美少年」「民謡:田原坂」
雨は降る降る人馬は濡れる、
越すに越されぬ 田原坂、
右手に血刀左手に手綱、
馬上豊かな 美少年、
春は桜 秋ならもみじ、
夢も田原の 草枕、
草を褥に夢やいずこ、
肥薩の天地 秋さびし -
3月4日、吉次峠で西郷の片腕とも言える篠原国幹が戦死するも、政府軍を撃退する。
-
政府軍は八代・須口に上陸する。
応戦した薩軍と一進一退の戦いだったが、増援を得た政府軍に押し返される。
黒田清隆中将、伊東祐清海軍中将、高島鞆之助大佐などの政府軍の名前がみえる。 -
薩軍女子隊、官軍兵の中に進撃する。
実際に薩軍で女子部隊が編制されていたのか、史実の裏付けはないそうです。
西南戦争錦絵の人気題材だったとか。 -
田原坂で敗退した薩軍は人吉へ逃れ、人吉の永国寺に陣を構え、再起を図ろうとします。
-
人吉滞在中、西郷隆盛は、青井阿蘇神社で戦勝祈願と閲兵式を行い、剣舞などの神楽を奏するとともに、相撲大会を盛大に開催し、士気を高めたそうです。
-
薩軍と政府軍の壮絶な戦い。
陣営を置いていた永国寺と人吉城は焼け落ちる。
西郷の人吉滞在は1か月にも及びました。 -
簗瀬(球磨郡神瀬)で、政府軍と戦闘。
-
人吉から逃れた西郷軍は延岡の和田越で壮絶な戦い。
最後の激戦地。
西郷が指揮をとったが、味方の軍は政府軍の1割程度。
和田越も政府軍に占拠される。
ついに西郷、解散令を出す。 -
夜も明けぬ午前4時、西郷に従う者600名。
宮崎県内の山岳地帯を敗走した。 -
官軍は横川・加治木・吉松などに兵を配備し、西郷軍を阻止しようとするも失敗。
-
私学校を政府軍に占拠されていたため、政府軍を奇襲して私学校を奪取する。
そしてもはや300余の西郷生き残り隊は城山に籠城する。 -
西郷が最後の5日間を過ごした洞窟。
1877年(明治10年)9月24日、午前4時政府軍城山総攻撃が始まりました。
城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。
これを囲む政府軍は何重もの柵をめぐらし、その数40,000。
死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出ました。 -
政府軍による城山への総攻撃が始まりました。
流れ弾で負傷した西郷は別府晋介に言った。
「晋どん、もうここらでよかろう」。
別府晋介の介錯の大刀が振り下ろされた。
時に西郷49歳。
薩軍戦死者5.000 官軍戦死者6,800 -
西郷どんの最後となった壮絶な西南戦争を絵巻で勉強しました。
次の西郷ゆかりの地ではどんなドラマが待っているか・・・。 -
南洲翁洞中記念碑
洞窟のそばには「南洲翁洞中記念碑」が立っています。
記念碑というよりお墓みたいです。 -
次なる西郷どん追っかけの地は、鹿児島市加治屋町。
近くの駐車場にレンタカーを停めて、住宅地に囲まれた小さな公園のようなところにやってまいりました。 -
ここが西郷どんが生まれた「西郷隆盛生誕の地」なのです。
-
小高く石が詰まれ、その上に石碑が乗っています。
その石碑には「西郷隆盛君誕生之地」と彫られています。
石碑の先のマンション、ベランダにお布団が干してあるのがなんとも庶民的。
子供のころの西郷どんがこういうところで近所の腕白仲間と遊んでいた様子が覗えます。 -
時代をにらんだウドメサア
-身体も目玉も大きかった西郷さんー
「大きくたたけば大きく鳴る。小さくたたけば小さく鳴る」と土佐の坂本龍馬を驚かせた薩摩の「ウドメサア」(目の大きな人のこと)西郷隆盛の器量の大きさは、彼が生まれ育った下加治屋町の郷中教育によって培われたといわれています。
1827年(文政10)西郷は下級武士の家の7人兄弟の長男として誕生(海軍大臣を務めた従道は三男)貧しい生活の中で藩校造士館に通い、次第に下加治屋町郷中の少年たちのリーダーとして頭角を現します。
鹿児島の街には独特の若者組織があり、町ごとに区切られた郷中という単位で少年たちが集まり、厳しくしつけられるのです。
西郷は13歳の時、右腕を負傷し武芸はあきらめましたが、その分勉学に励み、二才頭(にせがしら)として郷中の仲間の人望を集めました。
西郷の指導者としての有能さは、この郷中から多くの偉人が育ったことからもうかがえます。
17歳で郡方書役助という地方役人となり、農村を周り、農政についての意見をまとめました。
これが後に英明藩主といわれた島津斉彬の目に留まり、やがて日本を舞台に活躍する足掛かりとなったのです。 -
西郷隆盛の石碑の隣には、ちょっと小さめの「西郷従道誕生之地」の碑が立っています。
従道は西郷家の三男で隆盛の弟です。天保14年(1843)にこの同じ地で生まれました。
戊辰戦争に参加し、維新後は陸軍をつくることに力を尽くしました。のちに海軍に移り、わが国最初の元帥・海軍大将、初代海軍大臣となりました。
西南戦争では政府軍に加わり、兄隆盛とは敵対しました。 -
西郷隆盛生誕の地の石碑とちょっと離れたところに、西郷従道邸庭園跡庭石が置かれています。
東京目黒区にあった西郷従道邸が公園として整地されることになり、目黒区から従道ゆかりのこの地に寄贈されたものだそうです。
その庭園はもともと兄隆盛の隠居所にするために従道が購入したものだとか。
西南戦争での兄の死で弟のその思いは叶いませんでした。 -
実は私にとっても目黒区(目黒区と渋谷区の境界にあります)のこの公園は思い出の地なのです。
私は前に代官山に住んでいまして、私宅からこの西郷山公園(と呼んでいました)はとても近かったのです。
旧山手通り沿いにある西郷山公園は高台に位置し、眼下に見える街の風景や、夕方になると夕日がとても美しかったことを覚えています。
よく子供たちを連れて遊びにいったなーー。 -
ちなみに、盟友大久保利通の生誕の地もこの近くにあります。
今回は行きませんでしたが、2012年に訪れた時の写真がありました。
石碑の形も大きさもほとんど同じです。
鹿児島が生んだ二人の大偉人、どちらにも差をつけてはいけないという考慮の結果でしょうね。 -
無二の友を敵としても
-近代国家建設に命をかけた大久保の苦悩ー
大久保内務卿が庁舎に入ると、雑談はやみ、あたりは水を打ったように静まり返った・・・・。
子煩悩な私生活とは裏腹に、政治家としての大久保利通は厳格さにも凄みがあったといわれています。
幕末激動期に西郷との絶妙のコンビで明治維新を成し遂げ、新政府樹立後は天才的な政治手腕で近代国家の建設に着手。親友西郷と真っ向から対立しても、その信念を貫き通しました。
大久保は、1830年(天保元年)下級役人ながら琉球館付役を勤め、学識豊かな利世(子老)を父として高麗町で生まれ、まもなくこの下加治屋町に移りました。
3つ年上の西郷とは薩摩独特の郷中教育の中で、兄妹以上の信頼で結ばれていました。
15歳で記録所書役助として出仕。
お由羅騒動では、父が遠島、利通も謹慎となりどん底の暮らしを体験します。
その後、島津斉彬が藩主となり復活。
斉彬亡きあとも、藩の実権を握った久光に信頼され、精忠組のリーダーとして薩摩藩を倒幕の中心勢力に育てあげたのです。
西郷を嫌った久光を説得し、流刑地から呼び戻したのも大久保の力といわれています。 -
西郷や大久保が生まれた下加治屋町、江戸時代から明治時代にかけて活躍した多くの政治家、軍人などの著名人を輩出している地です。
ここに偉人が地図があります。
西郷兄弟や大久保利通の他にも大山巌(後述)、東郷平八郎(連合艦隊司令長官)、山本権兵衛(海軍大臣、内閣総理大臣。西南戦争の時は派遣されていたドイツ軍用艦で航行中だった)、高島鞆之助、井上良馨など、西南戦争で敵味方に別れて活躍した人の名前が目白押しです。
その他にも村田新八(西郷と共に島流しにあい、西郷に殉じて城山で自害した)、篠原国幹(西郷の信頼を一身に受けた寡黙な指揮官、西南戦争で戦死・前旅行記)などもこの近くで生まれています。
これらの偉人たちは子供のころ、ガキ大将の西郷と共に、近くの甲突川で一緒に「鰻取り」をした仲なのでしょうか(笑)。 -
どうしてこんなに多くの偉人たちがこの地で輩出したのか?
先ほどからしばしば出てくるキーワード『郷中教育』に秘密が隠されているようです。
郷中教育とは薩摩藩の独特な青少年教育であり、地域ごとに自発的に実践された集団教育のことです。 -
結構厳しい日課が決められています。
鰻取りも郷中教育の一環なのですね。 -
テレビでは、子供たちが、的に向かって大声を出しながら、何度も何度も木刀を振り下ろしている場面がありました。
これは薬丸示現流という薩摩で生まれた古式剣術なのだそうです。
仙巌園にその展示がありました。 -
典型的な下級武士の武家屋敷と間取り
-
武家屋敷の前には、「西郷どん」の撮影スポットパネル。
-
甲突川。
歴史に残る錚々たる偉人たちが子供のころ、この川で「鰻取り」など川遊びをしたのでしょうか。 -
なんしゅうばし。
南洲とは西郷隆盛の別名(号) -
維新ふるさと館。
入場料300円払って中に入ります。写真撮影はOKでした。 -
中に入ると、まず目につくのは西郷隆盛、大久保利通、島津斉彬、そして小松帯刀。
小松帯刀は、2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」で人気を博しましたね。
活躍しましたね。小松帯刀役は、今回「西郷どん」で大久保利通役を演じている瑛太さんでしたね。
そういえば、2008年の篤姫役は宮崎あおいさんでしたが、今回は北川景子さん。
「西郷どん」と「篤姫」、ほとんど同時代のドラマだけに、役をあれこれ考えながらテレビを見ると面白いです。 -
維新三傑と言われた西郷隆盛、大久保利通、そしてマッサンこと玉山鉄二さん演じる「木戸孝允」。
木戸孝允は最初「桂小五郎」で出ていたのでしたね。 -
左から、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の像
-
郷中教育が生んだ薩摩の偉人「大山巌」。
天保13(1842)年~大正5(1916)年。
父親同士が兄弟なので、西郷隆盛とはいとこにあたります。
特に西郷の弟従道と親交が深かったようです。
砲術を学び、フランス留学後初代陸軍大臣に就任、日清・日露戦争の活躍で元帥となりました。
大山巌の妻は、津田塾創始者の津田梅子らと共に、岩倉使節団で12歳にして日本初の女性留学生となった「山川捨松」でした。 -
鹿児島出身の明治の功労者たち。
大山巌や西郷従道、左側には西南戦争で西郷隆盛と行動を共にした偉人たちの写真も。
その中には「晋どん、もうここらでよかろう」の別府晋介の顔も。
またこの写真の中には見えませんが、内閣総理大臣を2度も務めた松方正義(有名な松方コレクションは三男松方幸次郎)も鹿児島出身者。
多くの鹿児島出身者が近代日本の建設に大きな役割を果たしました。 -
東郷平八郎や山本権兵衛らの式服や書など。
-
世界を見ていた薩摩
昇平丸の模型、日の丸、君が代のルーツを展示。
ここで面白いと思ったのはこの軍艦{昇平丸」の模型。
幕末期、徳川幕府は大型船の建造を禁止していたため、日本で使われていた船は帆柱1本の小さな和船ばかりでした。わずかに大型と言える商船もあったが、それとて150トン程度のもの。西欧の船と比べると、ごくごく小さな小船でした。
ちなみにペリー艦隊が浦賀に上陸したときに乗っていたのは2500トンの巨大な船、いかに西欧諸国に後れを取っていたか一目瞭然ですね。
島津斉彬は西欧の船に対抗するには同じように巨大な船を持つしかないと考えました。
そこで造られたのが大砲を装備した軍艦「昇平丸」。 -
「日の丸の国旗」は、日本の船と外国の船を区別するために斉彬の提案によって作られたものだそうです。
安政元年(1854年)から使われ始めました。
まだあります。
「君が代の国家」は薩摩藩の大山巌が選んだ歌詞にドイツ人の音楽教師が曲をつけたものが基になっているそうです。
翌年には明治天皇の御前で、薩摩藩軍楽隊によって初演されたそうです。
近代国家の夜明けに薩摩藩が主となってけん引していたことがわかります。 -
それを示す面白いエピソードがあります。
1867年4月に開催されたパリ万博。
まだ徳川慶喜(テレビでは松田翔太さん)の時代、その年の10月に大政奉還がありました。
パリ万博に、薩摩藩は江戸幕府とは別に出展し、独自のブースを設けたため、幕府の権威が著しく低下しました。
しかも薩摩藩は薩摩焼など128品目を出展し、花の都パリで絶賛されました。
さらに憎いことに薩摩藩は、日本初の勲章を作り、ナポレオン三世やフランス高官に贈っているのです。
なお、パリ万博使節団の一員として薩摩藩から、西郷隆盛のしっかり者の妹・琴(テレビでは桜庭ななみさん)の夫である市来政清も同行しています。 -
パリで好評を博した薩摩焼は前回も述べましたが、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に連れてきた陶工たちが始めた焼き物です。
その後改良が加えられ、金襴手や錦手などの華麗な技法で色付けされた薩摩焼は世界で憧れの焼き物となり、広く流通していきました。
今では、世界の名だたる美術館に所蔵されている日本の焼き物で最も多いのが薩摩焼だそうです。
1867年パリ万博は日本が正式に世界にデビューした舞台。
江戸幕府も葛飾北斎の浮世絵などを出展し、日本文化に衝撃を受けたヨーロッパの人々によってジャポニスムが起りました。 -
篤姫(天璋院)の大奥での生活を再現した部屋。
2008年NHK大河ドラマ「篤姫」で使われた着物や小道具などが飾られています。 -
地下1階は映像ホール。
加治屋町の下級武士の住まい模型。
また西郷や大久保の等身大のロボットが置かれており、映像に合わせて明治維新の歴史を説明してくれる。 -
映像は、明治維新を描いたドラマ「維新への道」と 、江戸幕府の海外渡航禁止の時代、薩摩藩の命令で若い武士たちが密航してイギリスへ留学したドラマ「薩摩スチューデント、西へ」を上演していた。
薩摩スチューデントに付いては別旅行記で。 -
明治初期の応接間
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混沌としていた日本の夜明け(明治初期)の歴史を紹介しておきます。
テレビ「西郷どん」を見る際にも、歴史を頭に入れておくと、より楽しく見ることができると思います。 -
西郷隆盛が好きだった「敬天愛人」の言葉を心に刻んで維新ふるさと館を後にします。
「敬天愛人」とは天を敬い(うやまい)人を愛すること。 -
-
駐車場からレンタカーを出し、次へ移動します。
-
途中で車窓から見えた大山巌生誕之地の石碑。
これも西郷や大久保の石碑と同じような大きさです。 -
そこからさらに進むと、大久保利通の像が。
-
鹿児島中央駅前。
薩摩スチューデントとして知られる「若き薩摩の群像」の写真を撮りたいと思ってやってきましたが、車を止める場所が無い。
これからの予定を考えると時間がもったいないけど、駐車場に車を入れて写真撮影をする。 -
「若き薩摩の群像」。
1865年、鎖国の禁を犯して、薩摩藩の命で17人の若者がイギリスへ旅立ちました。
彼らは帰国して、日本の近代化に大きな足跡を残しました。 -
この像を見ないことには、私の旅行記は中途半端なものになります。
別編で詳しくレポートします。 -
さあ、次へ急ぎましょう。
「西郷どん」大河ドラマ館なるものも開催されているようですが、先を急ぐ私たちはパス。 -
鹿児島駅構内では、楽しそうな出店が出ていました。
いつもの私だったら必ず立ち寄るのですが・・・。 -
駅ビルの駐車場から車を出して・・・。
レトロな市電を眺めながら、私たちは指宿方面に向けて車を走らせます。
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この旅行記へのコメント (5)
-
- 多良さん 2018/11/07 23:15:43
- ドラマを見るうえで、と~っても参考になりました!\(~o~)/
- いや~~~「せごどん」の力作2旅行記、隅から隅まで拝見させていただきました~♪
何と言う、取材力!いや~~~いちいち「そ~だったのかぁ~♪」っと納得させていただきました。
で、お立ち寄りいただいたワタシのおバカ旅行記の登場人物の「男たち」も「せごどん」のファンでして、京都の市バスの中での話ですが・・・
『それはそうと、せごどんの最後は知っているけど、大久保の最後知っている?』っとA氏が言いました。
ワタシは知っていたのですが、それを言っちゃ~ドラマへの興味が半減しちゃうのではないかと黙っていました。
すると、B氏が、
『そんなの簡単!検索しちゃおう~♪』
・・・・・あ~あ、平成・・・便利だけど、何だか夢のない時代です(^_^;)
追伸:こうしてお知り合いになれましたので、勝手ながら「フォロー」させていただきます事をお許しくださいませ。
多良
- frau.himmelさん からの返信 2018/11/08 22:24:36
- RE: ドラマを見るうえで、と?っても参考になりました!?(~o~)/
- 多良さんこんばんは。
コメントありがとうございます。
またあちらではタメ口で大変失礼しました。
つい先日同期会がありまして、いい齢をした「男たち」を、学生時代に返って多良クン、AクンBクンなんて呼んでいたものですから、ついそのノリで・・・。
でもいくつになっても社会的地位なぞ関係なく童心に帰って、○○クンって呼び合える仲間っていいですね。
>何と言う、取材力!・・・
いえいえ、あれは近くの説明プレートを写真に撮って、それを丸写ししただけです。
それに平成の便利頭脳「検索」のお蔭でもあります。
ほんと、便利になりました。これがボケ防止や脳の老化を少しでも遅らせることが出来るのなら嬉しいのですが・・。
またこの度はフォローをしてくださり、ありがとうございます。
旅行記の数だけはありますが、本当にクドい拙いものでお恥ずかしい限りです。
多良さんのように、ユーモアあふれる気の利いた言葉が私の頭能では検索に引っかからず、いつも重たい旅行記になってしまいます。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
himmel
-
- mistralさん 2018/11/05 18:47:04
- 次なる旅行記へと
- himmelさん
こんばんは。
西郷どん、追っかけの旅
himmelさんが取り組まれると、どのような旅行記になるか、
とっても楽しみにお待ちしておりましたが
期待に違わず重厚な旅行記でした!
西南戦争始末記、三十六景
私の訪問の折には、洞窟内部は何故か結露も酷く真っ暗でしたが、
今回himmelさんの解説もあって、よく理解できました。
旅行記に仕上げるには大変なお手間がかかったことでしょう。
大久保利通の像、若き薩摩の群像、
共に順光の時間帯の撮影のご様子で、ハッキリ写っていますね。
そして群像は次なる旅行記の導入となっていて、とっても
構成が素晴らしい!と思いました。
ちなみに夫の同窓会の折には、現NHKの会長、現鹿児島市長も
おられ、後で思うと不思議な顔合わせでした。
西郷どんのドラマは、現会長就任時にはすでに決定されていたとか。
篤姫、西郷どんと大河ドラマに取り上げられて
それだけではないのでしょうが、鹿児島は大賑わいですね。
himmelさんも書かれていますが、あの時期に活躍した沢山の
人物を輩出した地、なんだか興味深いですね。
この後串木野も、その前に指宿へ?楽しみにしております。
mistral
- frau.himmelさん からの返信 2018/11/06 22:49:43
- RE: 次なる旅行記へと
- mistralさん、こんばんは。
いつもコメントありがとうございます。
>旅行記に仕上げるには大変なお手間がかかったことでしょう。
私がフーフー言いながらやっと仕上げた1篇の旅行記ですのに、mistralさんはその間に2篇も書き上げていらっしゃる・・・。それもじっくり丁寧にお仕上げになる方で決して早い方ではないのに、いかに私がのんびりしていたか、お恥ずかしい限りです。
手間なんて・・、mistralさんのご旅行記、St.マドレーヌ教会のあの一つ一つの彫像にかけられたお手間には遠く及びません。
のちほどお邪魔させていただこうと思っていますが、ほんとに素晴らしかったです。
西郷洞窟のあの絵画、私の時も暗くて見難かったのですが、なんかムキになってバシャバシャ写真を撮ったものですから、私の性分として解明せざるを得なくなり・・・。
烏滸がましいですが、mistralさんとどこか似たところがありませんか。
ところでご主人さまの同窓会には錚々たる方がご出席なさったのですね。
もしかしてラ・○ールでいらっしゃいますか?どうりで・・・。
やはり地元ですから「西郷どん」は話題に上がりましたか。本当に鹿児島は今はセゴドン・セゴドンですね。
私もこうやって旅行記に取り上げたものですから、なんだか毎週テレビを見るのが楽しみになりました。
有難うございました。
himmel
- mistralさん からの返信 2018/11/07 07:30:21
- RE: RE: 次なる旅行記へと
- himmelさん
おはようございます。
メッセージ、有難うございました。
> 西郷洞窟のあの絵画、私の時も暗くて見難かったのですが、なんかムキになってバシャバシャ写真を撮ったものですから、私の性分として解明せざるを得なくなり・・・。
> 烏滸がましいですが、mistralさんとどこか似たところがありませんか。
そうでしたか!
私の訪問の折には、停電か何かで暗かった?かと思ってしまいました。
あの暗い中で撮影された画像から、解説までを文字にするのは、さぞかし、、、
でもhimmelさんでしたらと納得。
いつかも旅行記を書かれるにあたって、歴史書の全集?を購入されたとの記憶が。
はい、確かにhimmelさんと私、似ているかも知れません。
と申しましても私は足もとにも及びませんが。
いつも私は途中で挫折して、中途半端な説明でお茶を濁しています。
ですので、詳しく解説して下さる旅行記は大好きです。
mistral
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