2018/07/07 - 2018/07/14
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nichiさん
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ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアーに行きました。
ベルリンの壁記録センターです。
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イーストサイドギャラリーで、ベルリンの壁の画を楽しんだ後、Sバーンのヴァルシャウアー・シュトラーセ駅まで歩いてやってきました。
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郊外型近郊列車のSバーンと地下鉄のUバーン、さらにトラムやバスが判りやすく、うまく使い分けることができるベルリン市内の交通網。
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Sバーンで2駅、Jannowitzbrücke駅にやってきました。
ヤノヴィッツ橋駅?でしょうか??
ドイツ語は分かりません。 -
Sバーンのホームから昨日訪れたテレビ塔が見えます。
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ここでSバーンからUバーンに乗り換えます。
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Uバーンの駅は地下です。
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UバーンのJannowitzbrücke駅
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すぐにUバーンがホームに入ってきました。
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Bernauer Str.でUバーンを降ります。
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ほとんど降りた人はいなかった駅です。
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地上に出ると、こんな鉄の細い棒が建てに並んでいました。
ここは東西ドイツの国境だった場所。 -
これは、以前、「壁」があった場所を示しています。
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1961年、東西のドイツの国境だったここで、東側から西側に逃げる東ドイツ市民。
まだ壁が無かった時期です。 -
多くの東ドイツ市民が西側に逃げる当時の写真が建物の壁に掲げられています。
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ここに
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国境があり、壁がありました。
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当時の様子を示す写真が展示されています。
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この広いエリアは、壁と壁の間の部分です。
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当時の地面。
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壁と壁の間はかなり広かったことが判ります。
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当時ドイツに分断されていたころの写真です。
建物の壁面に時期と共に表現されています。
暗い歴史です。 -
今は緑豊かな綺麗な平和な公園になっていますが、以前は壁と壁の間のエリアです。
東から西に逃げた東ドイツ市民の多くが命を落とした場所です。 -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアーに着きました。
ベルリンの壁記録センターです。
左側に保存されている「壁」 -
右側にはゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアーのビジター・センター。
入場は無料。
中に入ってみます。 -
入口に、街のど真ん中にあり街を分断している「壁」の地図。
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ここを登って行きます。
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階段を上ります。
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さらに上がります。
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最上階へ。
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最上階からの景色です。
目の前に昔の「壁」が見えます。
二重の壁と監視塔が残されている、貴重な場所です。
東ドイツは1,961年に壁の建設を始めました。
この壁は西ベルリンをぐるっと囲む形で造られました。 -
東から西に壁を超えようとした人は、この監視塔から監視員によって狙撃され、200人以上の東ドイツ人が命を落としました。
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今では平和な世界が広がっています。
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ヨーロッパでは、ドイツが敗戦国になった第二次世界大戦。ポツダム協定でドイツはアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソ連の戦勝4ヵ国により分割占領され、東ドイツのど真ん中にある首都ベルリンもこの4ヵ国のそれぞれの管理地区に分割されることになりました。
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西ベルリンはアメリカ・イギリス・フランスの、東ベルリンはソ連の管理地区となりました。
やがてアメリカとソ連が対立し、1948年6月24日にソ連が西ベルリンと西ドイツとの陸路を封鎖して「ベルリン封鎖」を行うと、アメリカが6月26日から「ベルリン大空輸」で対抗し、この西ベルリン市民への生活物資の空輸作戦の成功でソ連は翌1949年5月12日に封鎖を解除して「ベルリン封鎖」は失敗に終わりました。 -
壁ができた当時(1,961年)のこのあたりの写真です。
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1965年、まだここには教会がありました。
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有刺鉄線だけでは東ドイツから西側に逃げる人を防ぐことはできませんでした。
そこで壁を作りましたが、壁一枚では東ドイツから西ドイツに脱出する市民は減らず。 -
よって、東ドイツは壁を二重に造り、その間に空間を作って脱出者を防ぐようにしました。
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その空間を作るためには、この教会は邪魔でした。
1985年、この教会は壁の為に取り壊されました。 -
1990年の同じ場所の状態です。
何とも無残です。 -
1961年8月13日午前零時を期して、深夜に東ドイツ政府は突然西ベルリンを包囲し、東西ベルリン間48キロを含む西ベルリンと東ドイツとが接する分割境界線155キロ余りの境界線の通行を一切遮断し、西ベルリン周囲の境界線から少し東ドイツ領内に入った地点に有刺鉄線を張り巡らせ、その後に巨大な壁を建設しました。
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以後東ベルリン市民の西ベルリンへの通行は不可能となり、多くの家族が不意に引き裂かれ、友人・知人とも引き裂かれました。
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そしてこの後に壁を越えて越境しようとした者が、次々と射殺されるなどの悲劇が生まれた。
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こんな物騒なものが壁と壁の間の広場に敷き詰められていました。
東ドイツから西ドイツに脱出しようとする方々はかなり痛い思いをしたことでしょう。 -
こんな物騒な時期も、、、、
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壁と壁の間のスペース。
ベルリンという大都会がこうやって分断されていきました。 -
壁ができる前、有刺鉄線がベルリンを東西に分けていたころの写真です。
東側から西側に脱出する東ドイツ市民が写っています。 -
壁にまつわる様々な展示物がありました。
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ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアーのビジター・センター。
をあとにします。 -
目の前からトラムに乗ります。
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ヨーロッパのトラムが好きな私たち夫婦です。
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