2018/09/17 - 2018/09/17
375位(同エリア648件中)
ドクターキムルさん
- ドクターキムルさんTOP
- 旅行記7569冊
- クチコミ134件
- Q&A回答247件
- 7,142,275アクセス
- フォロワー40人
三春台にある小学校が太田小である。明治6年(1873年)5月の開校であるから、この先にある久保山墓地が造られる前年に開校したことになる。道路沿いに建つ校舎からは大きな小学校に見えたが、児童数が260人、6学年10クラスしかないというから、戸塚区辺りなら小規模校で、40代の若い校長である場合が考えられようか。
ここから坂を下りた大岡川沿い上流(西側)には南太田1~4と京急の南太田駅があり、Y校(横浜商高)と道路を挟んで南太田小が並んでいる。明治8年(1875年)に「太田校」に改称されたと校史に載っている。この地は明治の初めには久良岐郡太田村だったのだ。これまで、何10年もの間、南太田の町の北に太田の町があるのだろうとぼんやりと思っていたのだが、大田村があったのだ。それにしても、横浜開港後、人口が増加して墓地が足りなくなって、久保山の山中を明治7年(1874年)に墓地として整備している。その山に連なる三春台の丘の上に、明治の初期には多くの人が住んでおり、小学校が村内の東福寺境内に開かれたということのようだ。そういえば、久保山墓地に隣接する岩井町は「岩井原」という地名のようで、中学校や町内会に「岩井原」の名が付いている。三春台や庚台(かのえだい)のように「台」が付くのは時代が下がってからなのか?桜ヶ丘(保土ヶ谷区)などがあり、「台」の前は「丘」だったのか?そういえば、久保山墓地に隣接して南には「清水が丘」がある。
おそらくは、久良岐郡太田村の南側に「南太田」の地名が残ったが、村名としてあった「太田」は地名としては消滅し、僅かに小学校名に名を留めているということのようだ。
(表紙写真は太田小)
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
ドクターキムルさんの関連旅行記
東神奈川・保土ヶ谷・弘明寺(神奈川) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
5