2018/06/14 - 2018/06/14
48位(同エリア104件中)
naoさん
奈良県吉野郡東吉野村鷲家(わしか)は、和歌山と松阪を結ぶ和歌山街道(伊勢南街道)と、宇陀から東熊野街道へ通じる道が交差する交通の要衝に位置する町で、和歌山街道が和歌山藩主の参勤交代路として使われたことから、本陣や脇本陣をはじめ旅籠屋が並ぶ小さな宿場町が整備され、伊勢詣での旅人や行商人の往来で賑わいました。
和歌山街道と東熊野街道へ通じる道が交わる三叉路には、文政11年(1828年)に建てられた道標が残っており、南面に刻まれている『右いせ 江戸 左はせ 大坂 道』の文字から、江戸を指す道標としては最西端に位置するものだと言われています。
東吉野村小川を含む鷲家一帯は、幕末の動乱期に、土佐脱藩の吉村虎太郎、刈谷脱藩の松本奎堂、備前脱藩の藤本鉄石らが結成した尊王攘夷の急進派、「天誅組」の終焉の地としても知られています。
黒船来航などによる幕末の動乱期、徐々に権威を失いつつあった江戸幕府に対抗して、京都の公卿や長州藩を中心に朝廷を推し立てる尊王攘夷派が起こり、孝明天皇の勅命をもって幕府に攘夷を迫るとともに、賀茂神社と石清水八幡宮へ二度の行幸を行い、朝廷の権威を世に示します。
これら尊皇攘夷派の動きに賛同する吉村虎太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら「天誅組」は、文久3年(1863年)8月、大和国(春日大社)への三度目の行幸の詔が発せられると、天皇の甥である公卿中山忠光とともに行幸に先んじて大和の五條で挙兵し、天皇政治による新しい統一国家の建設を目指して五條代官所を襲い、江戸幕府倒幕の第一声をあげます。
しかし、倒幕につながる動きに反発していた薩摩藩と会津藩は、これを阻止するため朝廷内で政変を起こし、尊皇攘夷派の公卿と長州藩らを京都から追放して孝明天皇の行幸中止を断行します。
孝明天皇の行幸を待っていた「天誅組」に届いたのは行幸中止の知らせで、大義名分を失った「天誅組」は一日にして逆賊と化し、朝廷や幕府から討伐の命が下されました。
徹底抗戦の道を選んだ「天誅組」は各地で戦いを繰り広げながらも、総攻撃をかけられて十津川から大峰山系を越えて下北山村へと敗走を続け、川上村を経て小川まで逃げ延びてきたものの、陣をしいて待ち構えていた幕府軍に斬り込んだ決死隊を皮切りに、9月27日に吉村虎太郎が討たれたのを最期に天誅組は遂に壊滅させられてしまいました。
同じ幕末の動乱期に活躍した坂本龍馬や新撰組のような華やかさはないにしても、一切の私欲を捨て、己の信念に従って散っていった「天誅組」の行動こそが、やがて訪れる明治維新の導火線になったことは疑う余地はありません。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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東吉野村鷲家の手前にある天誅組終焉之地碑。
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吉村寅太郎の辞世の句碑。
戦を前に、壮絶な心の内を吐露しています。 -
天誅組終焉之地碑の奥には、吉村虎太郎が最初に葬られた場所を意味する「原えい処」があります。
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吉村虎太郎は、ここから少し下流の薪小屋に潜んでいたところを津藩に密告され、捕らえられてしまいます。
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「死に際に士道を辱めない」とする武士の本懐を果たすため、潔く自決を申し出ますが・・・
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これを許さなかった津藩士の銃弾により無念の最期を遂げてしまいます。
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天誅組終焉之地碑からしばらく北に走って、東吉野村鷲家にやって来ました。
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鷲家にも「天誅組」の足跡が残っています。
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この辺りは、和歌山と松阪を結んでいた・・・
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和歌山街道沿いの町並みです。
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街道筋を彩る満開のサツキ。
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鷲家もバスが唯一の公共交通機関になります。
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こちらは吉村虎太郎を捕らえた津藩の陣所跡です。
ここで和歌山街道と別れて、集落内の道を歩きます。 -
集落内の道に入ったとたんに・・・
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道幅が狭くなるので・・・
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一般車両の通行がガクンと減ってしまいます。
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サツキの蜜を求めて、蝶々が飛びまわっています。
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こちらの町家は、自然木をくり抜いた植木鉢を並べておられます。
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こちらは何かの作業場のようです。
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屋根を同じトタン板で葺いた、2階建ての町家と・・・
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厨子2階建ての町家が並んでいます。
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鷲家の町並みです。
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東吉野村で非業の戦死を遂げた15人の天誅義士の内・・・
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松本奎堂と藤本鉄石をはじめとする6人が眠る湯の谷の墓所です。
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東吉野村で非業の戦死を遂げた天誅義士たちは、このように手厚く葬られています。
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こちらは無農薬で自家栽培したきのこや川魚を食べさせてくれる食事処です。
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集落内の道を抜けて、国道166号線に出ました。
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国道166号線に面して、湯の谷の墓所の石標が立てられています。
では、和歌山街道沿いの町並みへ向かいます。 -
この交差点を左(東)に曲がると和歌山街道の町並みになります。
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こちらは先ほどの津藩の陣所跡です。
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和歌山街道と、宇陀から東熊野街道へ通じる道が交差する所に立つ道標です。
『北西面 右小川 四郷 川上 左高見 伊勢 道』、『南東面 右高見 伊勢 左古市場 宇陀 榛原 道』と刻まれています。 -
こちらの町家の前にも、常夜燈の付いた道標があります。
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こちらの道標には、『東面 右紀州 かうや 左大峯山 たかはら 道』、『南面 右いせ 江戸 左はせ 大坂 道』、『西面 右小川谷 河上 左いせ くまの 道』と刻まれています。
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和歌山街道の町並みです。
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こちらの町家は、道路との境に石積みの植え込みを設けておられます。
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こちらの町家の右角には、紀州藩本陣跡の石標が立てられています。
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鷲家の氏神、八幡神社の参道が町並みに口を開けています。
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大きなガラス戸をはめた町家です。
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鷲家川の対岸にあるのは、八幡神社の境内です。
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瓜型の虫籠窓をしつらえた町家です。
こちらの町家の向かいは紀州藩脇本陣跡があった所で、藤本鉄石らが壮絶な最期を遂げた場所だと言われています。 -
和歌山街道の町並みです。
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こちらの町家は、千本格子の内側が全て縁側になっています。
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こちらの町家は、千本格子をはめた窓と、はめてない窓を使い分けておられます。
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和歌山街道の町並みです。
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丸い下地窓がアクセントになっています。
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和歌山街道の町並みです。
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この辺りがかつて宿場町だったであろうことを想像させる・・・
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大きな町家が軒を連ねています。
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厨子2階建ての町家です。
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敷地レベルを道路面から一段高くした町家が・・・
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隣り合っています。
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よく似た2階建ての町家が向かいあっているんですが、一方は妻面を見せているのに対して・・・
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もう一方は桁行き側を見せています。
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和歌山街道の町並みを見返した光景です。
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このトタン屋根の町家から、とてもシャープな印象が伝わって来ます。
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玄関先にはたくさんの花が咲いています。
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前庭に台杉が植えられた町家です。
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こちらの町家の縁側は大きなガラス窓になっています。
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厨子2階建ての町家です。
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さて、「天誅組」の足跡をたどって東吉野村を歩いてきましたが、一切の私欲を捨て、己の信念に従って散っていった「天誅組」の行動に、強く思いを寄せてしまうこことなりました。
彼らこそ、やがて訪れる明治維新の導火線になったことは疑う余地はありません。
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