2018/08/05 - 2018/08/05
181位(同エリア898件中)
Bachさん
2日目午前中は萩市内観光です。
萩は津和野と同様、西の小京都といわれますが、津和野は石見国・津和野周辺の中心地として栄えた4万石の城下町に対して、萩は中国地方を治めた毛利元就の孫である毛利輝元が山口地方の居城として防長二州(現在の山口県)の中心として栄えた36万石の城下町で、現在の人口も津和野7,400人に対して萩は47,000人で田舎の城下町と都会の城下町という感じですが、鎌倉時代築城の津和野城に対して萩城は江戸時代に入ってからなので、寺院も室町時代の永明寺があるなど歴史の古さは津和野にあります。
萩の観光は、「明治日本産業革命世界遺産」と、「明治維新150年」で明治維新で活躍した偉人の生家巡りになりますが、世界遺産では8県11市にわたる23の遺産の内、5遺産が萩にあり、反射炉、造船所跡(美須ケ鼻)、製鉄遺跡(大板山たたら)、城下町、松下村塾、明治維新では吉田松陰の門下で薩長同盟を結んだ木戸孝允(桂小五郎)、倒幕の奇兵隊を結成した高杉晋作、尊王攘夷運動のリーダー久坂玄瑞、初代総理大臣となった伊藤博文、近代軍隊の基礎を確立し総理大臣も務めた山形有朋、総理大臣として日露戦争で勝利した桂太郎、第1次世界大戦後の難局にあたった寺内正茸毅、総理大臣として普通選挙による最初の総選挙を実施した田中義一、その後も山口県出身の総理大臣は岸信介、佐藤栄作(岸信介の弟・沖縄返還でノーベル平和賞)、現在の安倍晋三(岸信介の孫)と8名を排出し全国トップです。
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萩市内観光は、萩反射炉から入って、松陰神社・松下村塾から伊藤博文旧宅、松陰誕生地から野山獄・岩倉獄跡を経由して北の総門、北門屋敷、萩城跡から萩キリシタン殉教者記念公園、明倫館あたりに車を停め、木戸孝允旧宅、円政寺、久坂玄瑞進撃像、高杉晋作立志像・誕生地など城下町散策の約3時間半のコースです。
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萩反射炉(世界遺産):幕末の1855年建造。
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軍備増強のため建造しようと萩藩が反射炉があった佐賀藩に派遣し伝授を申し入れるも断られたためスケッチのみで設計製造されたという。
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反射炉は金属溶解炉。旧来の大砲に代わる鉄製の洋式大砲をつくるため、佐賀藩が最初に完成、薩摩、伊豆韮山、水戸、萩が続いた。
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反射炉で残っているのは伊豆の韮山と鹿児島の集成館とここの3基だけ。
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この反射炉は実験的に建設された試験炉で、本式の反射炉の建設は、技術面、資金面などから断念されたという。
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後方の燃焼室で焚いた炎や熱を天井に反射させ、前方の溶解室に置いた金属を溶かす構造で、炉内を高温に保つため高さ11mの高い煙突で空気を大量に取り入れるようになっている。これによって鉄に含まれる炭素と酸素を結合させ二酸化炭素を排出し鉄に含まれる炭素の量を減らし「硬くてもろい鉄」を「柔らくて粘りのある鉄」に変えるのがこの炉の特徴。
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後側。
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日本の産業技術を今に伝える貴重な遺産。
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郡司鋳造所遺構広場:大砲を造っていた鋳造所を産業遺構として復原した公園。上部に鉄を溶かす窯、下部中央に大砲の鋳型がある。
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鍋や梵鐘の鋳造と同時に造られていた西洋式大砲
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発掘調査によって分かった鋳造技法の復元図。
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江戸前期に大量の青銅製大砲を鋳造していた郡司家の鋳物所を復原した郡司鋳造所遺構広場。
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2000年に大規模な発掘調査が行われた。
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松陰神社入口:一の鳥居
吉田松陰を祭神とする神社 -
大きな絵馬に吉田松陰先生と松下村塾の塾生が書かれる。
今年は犬の絵と、戌年生まれの山県有朋。 -
吉田松陰歌碑:「親おもふ こころにまさる親こころ けふの音つれ 何ときくらん 寅二郎」。これは1859年、安政の大獄で江戸の獄中にあった松陰が萩の父と叔父、兄に宛てた手紙の中に書かれており「永訣の歌」とも呼ばれる。歌碑の字は松陰の直筆の手紙の字を写して刻まれたもの。寅二郎は通称。
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松陰神社の傘みくじ:傘を開くと運が開くというカラフルなおみくじで、大吉なら「快晴」、吉は「曇」など書かれている。
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松下村塾(世界遺産):1842年松陰の少年時代、叔父である玉木文之進が開いたのが始まりで、当時からこの場所にあり、建物も幕末に建てられたものがそのまま残っている。
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松陰もここで学び、27歳でこの塾を継承し、わずか1年余りで明治維新の原動力となる多くの逸材を育てた。
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藩校の明倫館は武士の子しか入れなかったが、松下村塾は身分の隔てなく受け入れ費用も無料。
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松陰は個々の才能を見抜く眼を持ちそれぞれの長所を伸ばす教育で、一方的に教えるのではなく一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。
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久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、木戸孝允(桂小五郎)、吉田稔麿、山田顕義など、幕末に活躍した志士や明治日本をつくった人、内閣総理大臣まで、松下村塾で学んだ人物の写真を飾っている。
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最初は8畳の小屋を改築して講義をしていたが塾生が増加したため左側の10畳半の部屋を増築し講義室とした。
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8畳の講義室には吉田松陰の石膏像と肖像画、机が置いてある。
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境内にはもう一つ吉田松陰の生まれ育った家がある。杉家に生まれた松蔭は、叔父の吉田家を継ぐために養子となり、苗字を吉田と改めた。
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この家は吉田松陰の妹・杉文が主人公となった2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」でたびたび登場していた。
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吉田松陰幽囚(ゆうしゅう)ノ旧宅:ここは、元からこの地にあった松陰の実家、杉家の旧宅で、密航に失敗した松陰は江戸の牢から萩の野山獄に収監され、その後ここの3畳半の一室に幽囚の身となる。
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松陰はこの住宅の中にある幽囚室で謹慎して、読書や著述に励みながら家族や親せき、近隣の子弟たちを集めて孟子などの講義を始め、これがのちの松下村塾での指導の原点になった。
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吉田松陰が閉じ込められていた部屋「幽因室」:わずか3畳半という狭い部屋。
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松陰神社:吉田松陰を祀る神社として明治23年(1890年)に建立。創建当時は、杉家による吉田松陰の小堂だったが、伊藤博文らの働きかけで1907年、県の社格としての神社創設が許可された。
人間が神様になるのは菅原道真、平将門などあるが、伊藤博文だから出来たのかも。 -
松陰は、安政の大獄で29歳で刑死したが、松陰の思想、志は深く教え子たちや後世の人々の胸に留め置かれ、学問の神様として信仰が厚い。
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松門神社:現在の本社竣工に伴い、旧社殿を移築して隣に建てられた。
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御祭神は松陰の門下生52柱と遺書「留魂録」を処刑直前に松陰から託された沼崎吉五郎を合わせた53柱からなっている。
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「留魂録」は死の直前門下生へ書き綴った最後の教訓で、門下生の間でまわし読みされ、志士たちの明治維新への行動力の源泉になったと言われている。
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小・中対象の「松陰塾」の「自立学習の祖」を刻銘した顕彰碑
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松陰神社の社格は「県社」:神社社格のトップは伊勢神宮、官社(国管轄)、諸社(府>県>藩>郷>村)、東京世田谷の松陰神社は府社。
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伊藤博文旧宅と別邸:松陰神社から徒歩5分ほど歩いたところにある。
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伊藤博文が14歳から14年間過ごしここから松下村塾に通った木造茅葺き(補修中)の住宅と、東京の別邸が隣り合わせに並んでいる。
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風呂場と便所が屋外にある典型的な下級武士の住宅で、明治元年(1868)博文が28歳で新政府に出仕するまでの14年間をここに住んだ。
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別邸はもともと品川にあった別宅の一部を明治40年1907年移築したもの。
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東京の広大な住宅から往事の面影をよく残す玄関、大広間、離れ座敷の3棟を復元している。吉野杉の一枚板を使った切れ目がない大広間の鏡天井や離れ座敷の節天井、和風のシャンデリアなどぜいたくな内装が際立つ。
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隣り合う旧宅と別邸は、江戸時代に下級武士の子であった博文が、明治時代に初代の総理大臣までに昇りつめた立身出世を物語る。
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伊藤博文は、1841年現在の山口県光市の農家に生まれ、1857年に松下村塾に入り、英国公使館焼き打ちや尊攘運動に参加。1863年長州ファイブの一人として井上馨らと英国に密航留学し、明治4年(1871)岩倉使節団の一員として欧米各国を歴訪、明治18年(1885)初代内閣総理大臣になり、日露戦争後初代韓国総監となり、明治42年(1909)満州訪問の途上ハルビンで安重根に狙撃され、69歳で死亡。
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庭にある萩焼でつくられたほぼ等身大の伊藤博文の陶像
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吉田松陰誕生地:萩を一望できる風光明媚な場所。
この墓所には、玉木文之進、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿などの墓が立ち並んでいる。 -
萩藩士の二男としてこの家で生まれ、19才まで住んだ。
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現在は、大正時代に設置した間取りを示す敷石が残っている。
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松陰誕生地近くの吉田松陰と金子重輔の像:松陰が共に密航をしようと同行した弟子の金子重之輔を従えてペリー艦隊を見つめている。
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高杉晋作草庵跡:高杉晋作は1863年京都で剃髪し萩に帰国し、松陰誕生地の近くに草庵を結び、松蔭の遺著を読み嵐の前の静かな一時を過ごした。その後下関で奇兵隊を結成した。
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野山獄跡:松陰は伊豆下田で密航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた後、萩に送られ野山獄に、弟子の金子重輔は岩倉獄に入れられた。
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野山獄は上牢として武士を収容し、藩内の論争で高杉晋作や楫取素彦らも投獄された。
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岩倉獄跡:岩倉獄は下牢として庶民を収容した。
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萩城・北の総門:萩城は石垣と堀の一部が残るだけで、北、中、平安古3か所ある入口総門の一つ。
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脇度付き切妻造り本瓦葺き、高さ7mの日本最大の高麗門で平成16年復元。
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萩城は萩藩を治めた毛利氏の居城で1604年毛利輝元が指月山麓に築城した。明治7年に解体され現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、萩城跡の指月公園には旧本丸の天守閣跡、万歳橋、東園などの旧跡がある。
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萩キリシタン殉教者記念公園:キリシタン武将であった熊谷元直と天野元信の碑と、この地に流されてきた浦上キリシタンの碑と墓がある。
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江戸期に殉教した熊谷元直と天野元信の碑:熱心なキリシタンであった毛利家の重臣の熊谷元直と天野元信は、これをよく思ってなかった毛利輝元に萩城の石垣築造が2ヶ月以上遅れたことを口実に殺害された。
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浦上キリシタンの墓と記念碑:明治のキリシタン弾圧で流された3,400人中300人が萩預りになり、度重なる拷問と劣悪な環境の中で43人が殉教した。
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この墓地は、真冬に裸で括りつけられ拷問を受けた岩が使われている。
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パリ宣教会のビリヨン神父は、明治24(1891)年収容された地の裏手にあたる土地を買い求め碑と墓を建てた。
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藩校・明倫館跡:1718年に5代藩主毛利吉元が子弟教育のために建てた萩藩校跡地で2014年まで明倫小学校として使われ、その後2017年観光起点に生まれ変わった、
松陰は明倫館で若くして兵学教授を務めており、木戸孝允ともここで出会った。
水戸の弘道館、鹿児島の造士館と並ぶ全国有数の規模。 -
商店街から御成道沿いにあった「木戸孝允」像
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「山形有朋」立て看板
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プロテスタント教会にも。
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萩城下町(世界遺産):1604年長州藩毛利輝元が築城した萩城を中心に形成された城下町で、萩藩御用達の旧家、幕末に活躍した侍屋敷等の面影が残る。
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町筋とともに商家や武家屋敷の家並みの配置がよく保存され、城下町の景観を偲ぶことができる。とある。
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左から江戸屋横町、伊勢屋横町、菊屋横丁、手前は御成道
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木戸孝允(桂小五郎)の生家入口。
桂小五郎が木戸孝允になったのは、薩長同盟の頃、幕府の指名手配者になっている桂小五郎を藩の責任者とするわけにいかず、藩主毛利敬親は彼に「木戸」姓を与え、その後明治2年頃「木戸孝允」として戸籍登録したという。 -
木戸孝允は、西郷隆盛、大久保利通と並び、維新三傑の一人。
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萩藩医の長男として生まれ、17歳で藩校明倫館で山鹿流兵学教授だった3歳年上の吉田松陰に兵学を学び、松下村塾の門下生ではなかったが血気盛んな久坂、高杉、伊藤など門下生からは兄貴分として慕われた。
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生まれてから江戸に出るまでの20年間を過ごした。
池田屋事件や禁門の変などで多くの同士が亡くなる中、現実を直視する冷静さと持ち前の慎重さで生き抜き(一方で逃げの小五郎とも言われるが、要領がいいところもある)、長州の討幕のリーダーとなっていった。そして1866年坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び討幕に成功、新政権が発足すると五箇条の御誓文や廃藩置県など次々と近代国家の樹立に貢献したが西南の役の途中で病死45歳。憲法制定の夢は長州の後輩伊藤博文(初代総理大臣)に引き継がれた。 -
青木周弼(しゅうすけ)旧宅: 13代藩主・毛利敬親の侍医を務めた。幕末当時、日本屈指の蘭学医。
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円政寺(えんせいじ):高杉晋作や伊藤博文が幼少の頃遊んだといわれる木馬が残り、境内の大きな天狗の面は晋作の母親が勇気づけに利用したといわれる。
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寺なのに入口に石鳥居、境内に十二支の彫刻が施された珍しい形式の金毘羅社があり、神仏習合の形態が今でも見られる。
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久坂玄瑞(げんずい)進撃像:高杉晋作と松下村塾の双璧といわれた久坂玄瑞の像。中央公園の一角に平成27年建立。
松陰は久坂を「防長第一流の人物」であると高く評価し、自分の一番下の妹・文との結婚を玄瑞に勧め結婚している。
高杉晋作や坂本龍馬、中岡慎太郎など多数の志士たちに大きな影響を与えた。 -
晋作広場:高杉晋作立志像があり、高杉晋作誕生地の近くにある。
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銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしている。
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高杉晋作生家:幕末の革命児・高杉晋作はこの地で育った。産湯に使われたという井戸などが残る。
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高杉晋作は、1852明倫館入学、1857松下村塾に入塾し久坂玄瑞と並んで松門の双璧と呼ばれた。上海に渡航し清国が外国に浸食されている実態を見て尊王攘夷運動に加わり、1863年下関で騎兵隊を組織し坂本龍馬の仲介で桂小五郎(木戸孝允)とともに薩長同盟を締結、1867年新時代の到来を待たず肺結核で亡くなる27歳。
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田中義一誕生地:第26代内閣総理大臣。長州出身の軍人・政治家。
最初の普通選挙(総選挙)実施、治安維持法を強め共産党弾圧、張作霖爆殺事件の処理で天皇の不興を買い総辞職し、その後急死67歳。 -
菊屋横町:美しい白壁となまこ壁がつづく。
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菊屋家住宅:藩の御用商人を務めていた豪商。屋敷は江戸初期の建築で、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史がある。
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久保田家住宅:呉服商・酒造業を営んでおり、建物は江戸後期の建築。
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