2018/04/11 - 2018/04/15
3410位(同エリア11182件中)
明石DSさん
真珠湾を見に行く朝、準備完了
ハワイ時間、5時59分
77年前の12月7日午前6時 6隻の空母から
第一波攻撃隊順次発艦、6時15分183機
旗艦赤城の上空で進撃隊形整う いざゆかん!
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ハワイ・オアフ島
真珠湾を訪ねる
2018:平成30年4月11日(水)~4月15日(日)
3泊5日
2日目:4月12日(木):晴れ
ダイヤモンドヘッドと真珠湾へ
2018.平成30年4月12日(木)
■“ダイヤモンドヘッド”へのハイキング
真珠湾を見に行くツアーの出発の朝、5時にスマホのタイマーを掛けて目を覚ました。スマホは何もしないのに勝手にハワイ時間になっているので助かる。情けないが枕が変われば寝れないという旅には不向きな私なので、睡眠導入剤は旅の友、大概飲んで寝る。
朝風呂に入り、朝食サービスはないので日本から持って来ていたパンを食べ6時に出発準備完了。部屋を出る時ドアノブに掛かっている札を裏返し(白紙)て表ドアノブに掛けて出た。私としては部屋から出たので「いつでも掃除して」のつもりだったが夕方戻って来たら部屋はそのままだった。
「えっ?何で」と一階に降りてフロントで尋ねたら、スマホの翻訳機能を使って若い米人女性スタッフが「あなたは無効にしました」とかの翻訳表示を見せてくれた。最初は何のことか?と、思ったが、札を裏返して掛けていたので「部屋に入るな」との意思表示だと思われたようだ。納得、バスタオル等を持って来てくれた。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
608号室 左側 ドアノブの札
ドアノブに掛かっていた札を裏返し(白紙)掛ける
これが“あだ”となり部屋は掃除がされていなく
無論タオルやバスタブの交換もなくそのまま(泣) -
長~い連節バスが走っていた
鉄道がないので必要なのか?
そのオアフ島に鉄道が開業予定
http://www.thutmosev.com/archives/59514046.html
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■“ダイヤモンドヘッド”ハイキングへ向かう
まだ待ち合わせまだ時間があるのでホテル周辺の朝の散歩。ハワイの歩行者用信号機は人が渡れる時は人の姿で白色灯(日本は緑灯)。人が横断禁止は赤の手のヒラ形灯火(日本は人型)。来て見て初めて知る。こんな違いも面白い。
集合場所はGateway Hotelの隣にある「ホリデーインエクスプレスホテル玄関前」。6時25分前に迎えの車が到着、中にはツアー同行者であろう二人の同年配夫婦が乗っていた。「おはようございます」と挨拶を互いに交わして着席。次のピックアップ場所に移動したら、今度は夫婦であろう若い男女が無言で乗って来た。
以上5名で最初の目的地“ダイヤモンドヘッド”へ向かった。6時36分登頂への出発点に到着し、ここから頂上までは歩き。ハワイと言えばワイキキの浜辺と“ダイヤモンドヘッド”の写真が目に浮かぶ。そうか俺は67才にして等々二昔前の憧れのハワイに来たのか・・・と。
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20150804/211522/ -
早朝のカラカウア通り
昭和16年12月7日の日ノ出時刻は6時30分
淵田美津雄総隊長が機内で太平洋の旭日を目にし
「グロリアス・ドーン(Glorious dawn)」と英語で唸った
まさに「栄光の夜明けだ!」 -
歩行者 横断禁止は赤い手のひら灯
渡れる時は人の姿で白色灯
所変われば品変わる -
私が申し込んだパールハーバーツアー
①US$¥156(¥ 17,600) -
“ダイヤモンドヘッド”登り口
-
オアフ島には、これだけの戦力と有力情報があったが米軍は日本を舐めていた
『真珠湾攻撃当日オアフ島は世界一の要塞群であり
加えて陸軍2個師団が配備されていた』
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■オアフ島は強固に要塞化されていた
「オアフ島要塞」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A2%E3%83%95%E5%B3%B6%E8%A6%81%E5%A1%9E
オアフ島の真珠湾は軍港としての条件を満たしていた。しかし一つだけ致命的な弱点があった。それは外洋から湾までが平地で、外洋から真珠湾の中を直接、砲撃することが出来ることである。その防御として要塞と砲台が多数構築された。
「①ルジャー地下要塞(ダイヤモンドヘッド)」「②パレット要塞 (オアフ島南西部)」「③デラッシー要塞(ワイキキ)」「④カメハメハ要塞 (真珠湾、ヒッカム空軍基地周辺)」
オアフ島は、これら『要塞群と多数の砲台で守られており、戦艦を圧倒できる16インチ砲を備えた砲台もあり、水上艦船での接近は不可能だった。』
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12141678437?__ysp=44Kq44Ki44OV5bO244Gu6KaB5aGeIOegsuWPsA%3D%3D
アメリカ極東陸軍司令官のダグラス・マッカーサー少将曰く
『真珠湾はアメリカが太平洋にもっていた最も強力な軍事基地だった。基地の防衛陣は高射砲陣地、アメリカの持つ最も優秀な航空機、それに高度に防備された飛行場と警報設備を備え、さらにアメリカ太平洋艦隊に守られていた。』
オアフ島を強固な要塞化することによって盤石の防御態勢を整え、日本など脅威とも思っていなかった米軍が日本軍の奇襲により、たった数時間で『米西戦争と第一次世界大戦の3倍の死傷者を被り、約30万トンの艦船が戦闘不能になり、太平洋戦域の2/3の航空機が戦闘不能になった』
その当時まだまだ欧州戦線に重きを置いていた米国の「寝た子を起す」結果となったこの真珠攻撃と、その成功後に陸軍との連携もなく、あまりに突出し過ぎた海軍の拡大戦略が日本敗北の最大要因だと思っている。
ゆえに真珠湾攻撃には疑問であり、山本五十六海軍大将を私は名将と評価しない。それでも痛快だ。しかし米国人と米軍にとって、これ以上の屈辱とショックは米国誕生以来のことではないだろうか? 今もトランプ大統領がツイッターで投稿したように「リメンバー・パールハーバー」は米国人の胸に刻み込まれている。当時の慌てぶりを知りそう思う。 -
真珠湾攻撃の朝 米軍兵士たちの思い
「これはナチが計画し、日本人に指導したに違いない」
「ヒトラーによる世界制覇作戦の一環だ」
「敵機の中には翼にカギ十字のマークをつけたのがいた」
「超低空でやってきた飛行機の操縦席に、われわれは確かにドイツ人の顔を見た」
当時、世界一の要塞島をコテンパンにやっつけたのは日本軍だ!
武器弾薬兵士の数が敵と同じくらいで、日本軍が負けたのは
海戦ではミッドウェー海戦等々あるのだろうが・・・。陸戦では
今まで私が調べたり、知り得たなかではゼロだと思う -
バレット要塞指揮所・兵舎・倉庫
http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/hawaiioahu/area11.html#site01 -
この案内図を見れば、ここはルージャー要塞射撃指揮所であり
ハイキング道は四層の射撃指揮所への道だというのが分かる
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■頂上を目指して
麓から標高232mの山頂へとハイキング道を歩き始める。『登山ゲートが開いているのは朝6時~18時までで、最終入場は16:30。入場料は1人1ドル』。私が上り始めたのは午前6時半過ぎなのに、すでに下山者とも行違う。
山頂の方向を仰ぎ見れば沢山の人たちが登っている様子が見える。さすが人気の“ダイヤモンドヘッド”。この登山道は明治41年、日露戦争勝利の3年後に整備された軍用道。
http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/hawaiioahu/area22.html
“ダイヤモンドヘッド”は『明治41年(1908年)から「ダイヤモンドヘッド」の要塞化が開始され、明治42年(1909年)までに山頂の岩盤をくり貫いて、4層の構造を持つ「射撃指揮所」が建設された。』
たかが標高232mと言っても体重73キロを上に上にと押し上げて行くのはしんどい。雲はそこそこあったがまあまあ天気も良くハイキング日和。登るにつれて眺めも良くなり外輪山の周囲がはっきり見えて来た。
登山道はジグザグ道で整備されハイキングには最適、といっても初めての歩きは先が分からないのでしんどい。見上げれば山頂はず~と上に感じる。降りてくる人は日本人も多いのだろうけど出会いたくない〇〇人や他のアジア系もいるはず。
その他いろんな国の人とすれ違っているのだろう。すれ違いざまに国が感知できるセンサーがあれば面白いのに。移動手段の飛躍的進歩で人の移動と混じり合いは抑えることは出来ないようだ。異人種異民族交流は大いに賛成だが、混じり合っての共生は動物の本能として忌避し、危惧する私だ。子々孫々はどう生きるのか?
岩盤を貫くまさに要塞トンネルを通り抜け、急な階段を登り上に上に歩く。そして螺旋階段を登ったらハーロウ砲台の観測所に出る。観測用窓から外洋を見張り近づく敵戦艦に対して砲台からの射撃を指揮する。明治時代からハワイの米軍の仮想敵は日本?それとも他にも??
オアフ島に作られた砲台は『実戦では1度も使われず、昭和25年(1950年)に廃止された。』とのこと。国土国民を守るには莫大な金が掛かる。無駄に見えても無駄ではない。守ることが何より大事だ。それが出来るか否かは、国民の気概と国力の有無が全て。独立自尊こそ絶対であり奴隷も従属も絶対嫌だが、戦後日本は従属している。 -
頂上へ向かって歩き始める
“ダイヤモンドヘッド”の名前の由来は
『火口付近の方解石の結晶をダイヤモンドと間違え
「ダイヤモンドヘッド」と名付けたといわれる』
今となってはピッタリの名前だなあ・・・。 -
あのてっぺんが展望台、あそこまでここから歩くのか?
先はまだまだ遠そうだ。でも人の歩く速さにいつも驚く
平坦道なら4キロを約1時間、4キロって相当な距離だから
30分後にはあの上に立つ、73kgを支えて運ぶ足は凄い -
小さなデジカメのズームで写す
すでに展望台には大勢の人が
ハワイ観光に来てここに来ない人はおかしい
そんな人は「怠け者か?」「足が悪いか?」
観光より買い物にしか興味ない人だろう -
外輪山に囲まれて火口内を歩いているのが良く分かる
オアフ島“ダイヤモンドヘッド”を歩く自分
未だに海外旅行をしている自分が不思議になる -
みんな朝早く起きて来たのだろう
降りてくる人も次々から次へと
すれ違いざまの挨拶はほぼ皆無 -
アジア系と思える人も沢山いた
すれ違う人たちの
人種・国を瞬時に見極めるセンサーはないのか -
明治41年、日露戦争勝利の3年後に整備された軍用道
満ソ国境に日本軍が構築した要塞は素晴らしい物ばかり
海拉爾要塞・東寧要塞・虎頭要塞・勝山要塞・黒河要塞
雄々しき時代の日本国と日本人が羨ましい -
階段を下りてくる人たち、上る私
人種と差別は、まるで決まり文句だが
差別出来ない、差別しないのが日本人だ
だが好き嫌いは当然だがある、素直な感情だ
感情と差別は別次元であり、感情は自由だ!
○○人と〇〇人には嫌悪感しかなく国交断絶を願う! -
この螺旋階段を上がると観測所に出る
大昔に建立された教会にも螺旋階段がある
良くぞ考え良くぞ作った螺旋階段 -
ハーロウ砲台の観測所
日本軍は真珠湾の戦艦群を航空攻撃で破壊したが
堅固に要塞化されたオアフ島への上陸占領は難しい -
敵艦隊が近づけば陸上に備えた砲台から
戦艦砲並みの大砲で狙い撃ちされる
尖閣諸島に自衛隊を即刻配備しろ
国土を守るには覚悟が必要だ
その覚悟と準備こそが平和を保てる -
展望台は四層になった射撃指揮所の天井部分(監視所)
6時36分にスタートして7時6分 30分経過
下から見上げた時、「あんなとこまで・・・」と思ったが
景色を見ながら、写真を撮りながらで
30分でここまで移動した。足は凄い!
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■“ダイヤモンドヘッド”展望台に立つ
ハーロウ砲台観測所の上層に指揮所(入れない・未公開)があり、その上が監視所。現在は展望台になっている。その展望台へと続く階段を登って山頂に到着。ガイドに言われていたように普通に歩いて30分で着いた。山歩きなどしない私には楽とは言えない行程だった。
展望台からの眺めは絶景であり、オアフ島に来るならこの場に立たないともったいない。東方向にはココ・クレーターと呼ばれる小高い丘が正面に見える。西方向は写真で馴染のワイキキの浜辺とホノルル市街を一望する風景が広がっていた。
遠くには真珠湾もあるのだろう。今から77年前この空に日本海軍航空隊の零戦 九九艦爆 九七艦攻が襲い掛かり白人共の鼻をへし折った。それがその後の世界を変える一撃となったのは間違いない。
山頂に私が立ったのは午前7時8分、昭和16年12月7日のこの時間、攻撃隊総隊長:淵田美津雄中佐は指揮官機の真ん中座席に座乗し真珠湾に近づいていた。操縦席には松崎大尉、後部電信席には水木徳信一等飛行兵曹が乗っていた。
しかし下は雲に覆われ島に近づけどオアフ島が視認出来ずにいた。当時レーダーはなく指揮官機にだけ「クルシー」と呼ぶ米国製のラジオ方位探知機が取り付けられていた。淵田は『その名称が「クルシー」なので「苦しい」時に使えとのシャレかとあまりあてにしていなかったのであるが、今は少し苦しいからいじってみようと思い立った。』
『レシーバーを耳にして、スイッチを入れダイヤルを廻すと軽快なジャズが高い感度で入って来た。電波はまさにホノルル放送局である。操縦席の松崎大尉に「ホノルル放送の電波をキャッチした。今から無線航法でゆく。操縦席のクルシーの指示計は作動しているか?」「ハーイ、針は5度左に出ています」「その通りだ。針路をその針に乗せて行け!」「ハーイ」』
淵田は機上でホノルル放送の電波を受信しコースに確信を持てホッと一息とある。オアフ島を視認したのは7時35分、初弾は7時55分。機中での「ハーイ」という部下の返答が今まさに戦場に向かうなかでの余裕と、ギスギスした上下関係ではない同志としての人間関係を感じる。戦友と親友は次元が違う。究極の極限の中で己のすべてを互いに晒しあうのが戦友だ。
今日は雲が覆っているところもあるが真珠湾上空は青空も広がっている。集合時間のこともあるので展望台で景色を眺めたのは10分程、7時19分、下山にかかった。息切れしながら登って来る様々な国籍・体系の老若男女とすれ違いながら下りは楽勝といっても25分ほど掛かって出発点に戻る。来てよかった登って良かった、大満足のハイキングである。 -
東方向を望む 正面遠くの小高い山はココ・クレーター
歩いて上らないと見えない風景
写真を幾ら見ても味わえない
この場にたってこそ感じるものがある -
7時19分、真珠湾方向を写す
77年前の12月7日午前7時19分、淵田中佐はまだオアフ島を視認出来ず
今日も上空には雲があるが、その時もオアフ島に近づくまで雲の切れ目なし
機上でヤキモキしていた淵田中佐の目にカフク岬上空で海岸線が見えた -
松崎大尉の声が伝声管から聞こえて来た
「隊長、ガラスが曇って見えにくいですから、風防を開きます」
「ハ~イ」と、私が返事すると、一陣の風が吹き込んで来た
その時バサッとなにやら白い物が風防をこすりながら飛び去った
松ちゃん(松崎大尉)曰くつきのそのマフラーを目であとを追うと
マフラーの彼方に真珠湾が見えて来た。「隊長、真珠湾が見えます」
かくして真珠湾攻撃の火蓋は切られた -
『炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機』
総隊長:淵田美津雄中佐は、この三人乗り九七式に搭乗していた
「操縦者:松崎三男大尉」「偵察員:淵田美津雄中佐」「電信員:水木徳信一飛曹」
http://kitabatake.world.coocan.jp/rikukaigun36.html -
ツアーゆえに集合時間が気になり
午前7時55分、真珠湾への初弾投下の前に下山となった
攻撃は大成功に終わったが、日本軍戦死者は64名。 -
四層の射撃指揮所:四層目(写真)に指揮官がおり全般の指揮をとる
三層目:螺旋階段から入ったところ(ここだけが公開)
一層目、二層目は、「ワイキキ」に建設された
「デラッシー要塞(ランドルフ砲台・ダドリー砲台)」に対する射撃指揮を行った。
http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/hawaiioahu/area22.html#site02 -
岩盤をくりぬいたトンネルはまさに要塞のなごり
いまは世界の観光地ハワイ、“ダイヤモンドヘッド”
100年という単位は恐ろしく全てを変える -
“ダイヤモンドヘッド”ハイキングの所要時間は1時間10分
我が人生二度とこの地を踏むことはないだろう
でも自宅周辺でも歩いたことのない道多し -
四層の射撃指揮所
赤い線で示されているのが公開コース
螺旋階段を登って観測所に入った -
愛国ガイド“Hさん”の車に乗って
観光説明というより愛国の語り部だった
私には納得の内容で安心して聞いていた
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真珠湾に向かう
そしてまた違うガイドが運転するフォードの車に乗り替わり真珠湾へと向かう。私が申し込んだHISのツアーは「①ダイヤモンドヘッドハイキング+デラックス・パールハーバー(海軍カレー付き!)¥17600円」 。他にも似たようなツアーがあって、各種ツアーが混合で移動するのでややこしかった。途中で同行者がコロコロ変わる。
そしてこの車の運転手であり名物ガイドは“Hさん”(男性)だった。同世代?と言えば失礼になるかもだが、背は高くないが引き締まった身体の愛国者。最初からツアー終了まで戦後の自虐史観に洗脳された日本人の覚醒を促すための熱烈な語りだった。
真珠湾攻撃後のハワイ在住の日系人の苦労、そして日系人部隊:第442連隊活躍の数々、2017年ホノルル国際空港の名前となったダニエル・イノウエ氏の話、東郷平八郎とニミッツの関係等々終始一貫して日本人なら琴線に触れるであろう話に聞き入った。
http://www.us-lighthouse.com/life/japanese-american/442nd-special-unit.html
http://www.us-lighthouse.com/life/japanese-american/daniel-inouye.html
ハワイ真珠湾戦跡巡りの最初はフォード島へ。フォードアイランド・ブリッジを渡って島に入る前に車内での検問があり、日系の高齢男性が検問に来たが日本人の顔を見渡してOK。昔も今も重要な米軍基地であることに変わりなくテロへの警戒は怠りない。
太平洋航空博物館は真珠湾攻撃での損傷を免れた2つの航空機格納庫内とフォード島管制塔から構成されている。まず当時No37水上機格納庫であった「太平洋航空博物館(Pacific Aviation Museum)」へ。
https://twitter.com/PacAviation_J?ref_src=twsrc%5Etfw&ref_url=https%3A%2F%2Fjp.pacificaviationmuseum.org%2F
ここでは“ダイヤモンドヘッド”朝のハイキング終了後、真珠湾に来る途中にピックアップした人たちとはツアーの種類・料金も若干違うようで、私は一人で日本語音声ガイドを持っての見学となる。格納庫博物館に入ったらすぐ目の前に我らが零戦が輝いていた。この零戦はエンジンは米国製だが今も飛行可能とのこと。
そして12月7日西開地重徳(にしかいち しげのり)一飛曹(21才)がニイハウ島(ニイハウ島事件)に不時着した零戦の残骸の展示もある。西開地一飛曹は第二次攻撃隊として母艦「飛龍」から飛び立ちカネオとベローズ基地攻撃に参戦した。
その攻撃中に、同じく第二波で空母「蒼龍」から発艦した飯田房多大尉機と二番機:厚見兵曹機のカネオ基地への自爆攻撃を目撃している。その直後、飛び上がって来た米軍「P51」9機と空中戦をし日本側はあっと言う間に4機を撃墜。そのうちの一機を西開地一飛曹が撃墜している。
空中戦で被弾し帰投困難になった西開地は、万一の場合の不時着場所として決められていた、白人不在のニイハウ島へ不時着した。24時間以内の潜水艦の救助があることを信じ海岸で待った。しかし潜水艦の救助なく、不時着から6日後の13日、西開地は島民に殺害され匿ってくれた日系人:原田義男は自決した。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52578
館内には各種米軍機とともに『1942年4月の日本本土に対するドーリットル空爆にて使用されたものと同型のB-25B爆撃機』もあった。展示は真珠湾の全体模型・大きな床図もあり“ゆっくり”見たかったがツアーの宿命で駆け足見学。帰国後デジカメ写真を見ながら思い出す。
グアムやサイパンでも感じたが、米国の戦跡保存、戦史等々の取り扱いは支○○鮮とは対局で、対戦国にもそれなりの敬意を感じる。今も世界のどこかで国益を守る為に戦い続けている米国であり米軍だ。軍隊軍人はいつも国民の誉れであり尊敬の対象でなければ立派な国とはなれず、立派な国民も存在し得ない。金と物だけに執着する商人国家に名誉はない。 -
日系人部隊442連隊の活躍
東郷平八郎とニミッツ元帥との関係
https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/18442629.html
真珠湾ツアーは“Hさん”のガイドであれば更に有意義となる -
真珠湾 フォード島
http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/hawaiioahu/pic125052.html
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“Google・Map”より
グーグル・マップ・アース・ストリートビュー・YouTube
これらを無料で提供してくれることに唖然茫然
そして今や世界を席巻し、金儲けに繋げている
もはや情報はすべて彼らの手にありなすすべもナシ? -
太平洋航空博物館パールハーバー
右側、赤白ストライブの高い方は「船舶用管制塔」
左奥の白い建物3,4階が「航空管制塔」と1,2階は消防署
1938年建造:現在は使われていない(映画撮影で使用)
http://chigusa.imaokas.com/issue/591
「リメンバーパールハーバー」・・・・か
それほどの衝撃を米国・米軍・米国民に与えたのだろう -
当時の格納庫「No37」が太平洋航空博物館(本館)
太平洋航空博物館パールハーバー
https://hawaii.navi.com/miru/27/ -
日本が誇る零式艦上戦闘機 ゼロ戦
日本の撃墜王は「岩本徹三海軍中尉」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9C%AC%E5%BE%B9%E4%B8%89
支那事変から真珠湾攻撃、そして戦後へと生き抜いた
特攻への志願を忌避し、戦い抜くも39才病没
202機の撃墜(単独80機以上)
陸軍航空隊では上坊良太郎陸軍大尉、支那事変から活躍
B29を10~12機撃墜(不確実を含め) 合計76機
戦後に生き抜き航空自衛隊退官 96才没
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%9D%8A%E8%89%AF%E5%A4%AA%E9%83%8E -
トラ トラ トラ !
『1941年12月7日朝7時54分、つまり真珠湾攻撃の1分前の映像の再現』
真珠湾攻撃初弾:7:55分 坂本明大尉 端鶴隊がホイラー基地に爆弾投下
戦艦への初弾は、7:57分 空母赤城「艦攻」 村田繁晴少佐機の放った魚雷が戦艦ウェストバージニアに命中 初の水柱を上げる -
展示の零戦はソロモン島で発見され復元された
エンジン以外は、すべてオリジナルで飛行可能
『西開地重徳一飛曹の機体番号「BⅡ-120」を記入、塗装色も同じ』 -
真珠湾攻撃
第一波攻撃 艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機
第二派攻撃 艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機 -
艦戦・艦爆・艦攻の違い
http://www.imabaya.com/kankore/neko/?p=531 -
ドーリットル空襲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AB%E7%A9%BA%E8%A5%B2#cite_note-トール95-18
1942年(昭和17年)4月18日アメリカ陸軍
指揮官ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25双発爆撃機16機
空母「ホーネット」より発進
東京、横須賀海軍工廠、横浜、名古屋、神戸、大阪等を空襲する
真珠湾奇襲の報復だろう・・・・敵ながらあっぱれだ
16機の搭乗員のその後
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11165987131?__ysp=44OJ44O844Oq44OD44OI44Or56m66KWyIOaNleiZnDjlkI3jga7lh6bpgYc%3D -
ドーリットル空襲で使われた「B-25」双発爆撃機と同型
作戦を立案指揮した「ジミー・ドーリットル中佐」は
戦後シェル石油副社長になり1993/平成5年96才没 -
ニイハウ島事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
①:真珠湾攻撃第二派 空母「飛龍」から飛び立った西開地重徳一飛曹(21才)
②:不時着して1週間後の零式艦上戦闘機二一型, BII-120零戦
③:西開地を助けようとして命を落とした日系二世、原田義雄(39才) -
ニイハウ島で不時着の朽ちた西開地機の残骸
潜水艦の救助を頼みに事前の予定通りニイハウ島に不時着
島民に拳銃と書類を奪われ原田の協力を得て取り返そうとし
それを阻む島民との争いの渦中で二人は命を落とした
『零戦パイロットかくまった夫死去、妻は恨み言残さず』
http://hawaii-road.com/news/2008/12/25/20081225/ -
「F4F-3 ワイルドキャット」 グラマン艦上戦闘機
太平洋戦争初期に零戦と戦った戦闘機
零戦より頑丈だが運動性能に劣り、当初空戦では苦戦したが
「一撃離脱戦法」「編隊空戦(サッチ・ウイーブ等)」を考案
徐々に「零戦」と互角の戦いをするようになった。
「F4F-3」
http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main03/weaponusnfighterf4f/f4f.html#f4f-3 -
トムキャットの同型機
映画「トップガン」で使われた「F-14A」の改修機「F-14D」
日本は金勘定で国産戦闘機の開発を絶対に断念するな!祈る!
科学技術・自主独立の気概・精神の劣化は取り返しがつかない
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■復元格納庫「No.79」
https://jp.pacificaviationmuseum.org/exhibits/restoration.html
博物館格納庫「37」と復元格納庫「79」の間に各種ジェット戦闘機の屋外展示がありその中に映画「トップガン」で使われた「F-14A」の改修機「F-14D」、通称トムキャットがある。
79格納庫では2016年から5年の予定で南太平洋で発見された真珠湾攻撃での日本の主力機でもあった九七式艦上攻撃機(中島B5N)の完全復元を目指している。
http://aloha.town.net/hawaiinow/atnnews/%e4%b8%ad%e5%b3%b6b5n%e3%81%8c%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%8f%e3%83%bc%e3%83%90%e3%83%bc%e3%81%a7%e5%be%a9%e5%85%83%e9%96%8b%e5%a7%8b/40884/04/25
「79」は真珠湾攻撃を耐え忍び現存している。窓ガラスには今も弾痕跡が無数にあるそうだ。その時、弾痕跡のことは知らず確認せずじまいだった。
希少価値の高い航空機が復元展示されている場所だが、戦争には興味があってもこういった物には「カッコいいなあ」「凄いな」と思うだけで知識はない。
この格納庫で思いもかけない「フライング・タイガース」の展示があった。
在米日本大使館員の手違いで起きた宣戦布告前の攻撃を米国は日本を卑怯とばかりに非難しているが、米国は支那戦線において「フライング・タイガース」を使い真珠湾攻撃前の昭和16年年7月23日、日本爆撃計画を米国大統領が承認している。
http://rekisi.amjt.net/?p=193
これは、『(抜粋)10月1日までに、350機の戦闘機と150機の長距離爆撃機を中国に供与して、中国の基地から神戸、京都、大阪の三角地帯と横浜、東京地区の産業地域を爆撃する計画だった。「アメリカの方が先に宣戦布告をせずに、日本との戦争状態に突入した」と、客観的な資料からも断言できるのです。』
「国vs国」の戦端が開かれる時の「宣戦布告」など大した意味はない。それまでに敵対関係が生じ緊張度が増し、互いに準備をしている。その機を伺いながら自国にとってベストのタイミングを考えて攻撃にはいる。ナチスドイツも第二次大戦時あちこちで口火を切ったがほとんど宣戦布告などしていない。負ければ勝者によってそれが非難の対象になるだけだ。
復元格納庫と呼ばれるだけにスクラップ同然の日本の「九七式艦上攻撃機」や「B-17」の機体が格納庫内に置かれていた。いずれ復元修復され空を飛ぶようになるのだろう。米国の大国としての余裕、誇りや男のロマンを感じる。羨ましいなァ。子供がオモチャを好きなように大人も目を輝かせる。
博物館(37)の横には真珠湾攻撃時、最初に無線で警報を発した当時の管制塔も現存している。このフォード島は今も海軍が使用『太平洋戦闘能力センターがあり、演習や訓練、戦闘シミュレーションに利用されている』
デジカメ時間では1時間程この辺りで見学し、10時40分頃「戦艦ミズ―リ号」へ向かった。 -
復元格納庫から頭を突き出した「B-52 戦略爆撃機」
「運用開始:1955年」「運用状況:現役」・・・凄い
『2018年時点の計画では2050年代までの運用が予定されており
2052年まで続けば前例のない100年間配備され続けた航空機となる』 -
今日は2018/平成30年4月12日(木) 午前10時15分
今から77年前
ハワイ時間 1941/昭和16年12月7日(日) 午前7時57分~
この空を日本の艦戦・艦攻・艦爆機が舞った
我、大東亜戦争を賛美する。日本史上に輝く大事なり
良くぞ開戦に踏み切り、良くぞトコトン戦い抜いた -
フライング・タイガースの説明
『アメリカ軍人は、日米開戦前偽装し中国へ行き戦闘行動に従事していた」
実際に日本軍と戦火を交えたのは、1941/昭和16年12月20日、中国の昆明での戦い
①:指揮官:クレア・シェンノートン少将
アメリカ義勇兵部隊〔AVG〕
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/aircraft/zerosen6.htm#0 -
「フライング・タイガース」のP40 「鱶(ふか)の口」
100機の戦闘機 100名のパイロット 200名の地上要員(米義勇兵)
死闘!加藤隼戦闘隊 VS フライングタイガース
http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2012/08/vs-a01d.html -
「B-52 戦略爆撃機」のコクピット
ベトナム戦争では「死の鳥」と恐れられたB-52
その名前は世界中、多くの人の脳裏にあるはず
今後この爆撃機が実戦に使われることが有るのか? -
軍事マニア・戦闘機マニアには感激の展示だろう
そしてここは復元格納庫と言われるだけに
どの機も空を飛べるのではないかと思うほど美しい -
この時は「日本機の残骸があるなァ」・・と、だけだった
帰国後、南太平洋で発見された「九七式艦上攻撃機」と知る
この場で数年掛けて復元させるようだ
アメリカの底力と軍事に対しての熱意を感じる
https://flyteam.jp/news/article/62459
日本もかってはそうだった。敗戦までは
軍事国家であり、故に植民地とならず -
復元を待つ「B-17 戦略爆撃機」
第六海軍航空隊飛行隊長兼分隊長の小福田少佐 曰く
『一般的にいってB-17とB-24は苦手であった。
いわゆる自動閉鎖式防弾燃料タンクのため、
被弾してもなかなか火災を起こさなかった
尋常一様の攻撃ではなかなか落ちなかった。』 -
復元格納庫の青色窓ガラスのあちこちに
当時の日本軍機による機銃掃射の弾痕跡がある
白い窓ガラスは完全に割れて取り替えているもの -
日本軍機の攻撃で破壊された格納庫
まさか、日本軍がここまで攻めて来るとは
情報が山ほどありながらも現実になるとは夢にも思わず・・・か
『「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか』
ジェームズ・B・ウッド(著)茂木弘道(訳)を読めば
戦い方によっては十分に勝算はあったと思う。無念なり -
ミズーリ号は、私には戦艦「大和」だった
大鑑巨砲は過去となりしもロマンは不滅だ
「大和」「武蔵」を建造した日本は凄い!
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■戦艦ミズーリ号へ行く
1945年9月2日東京湾横須賀沖に停泊していたミズ―リ号艦上で降伏文書の調印式が行われた。
向かって正面:艦首を左に係留された戦艦ミズ―リ号があり、その前にニミッツ元帥(Chester William Nimitz, Sr. 1885年2月24日 - 1966年2月20日 没81才)の銅像が立っている。ニミッツ元帥は1905年5月少尉候補生の時、バルチック艦隊撃滅の祝賀会で東条平八郎に出会う機会があり感銘を受けている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%84#ニミッツと東郷平八郎
ガイドの“Hさん”が東郷とニミッツの関係について熱く語ってくれた。ニミッツは日本の敗戦後、朽ちかけていた戦艦三笠の修復保存に尽力している。『1961年(昭和36年)5月27日に無事「三笠」の復元完成開艦式が行われた際アメリカ海軍代表のトーリー少将は、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真を持参し、三笠公園の一角に月桂樹をニミッツの名前で植樹している。』
戦艦ミズ―リ号までの幅広の参道両側に勝利を今も讃えるかかのように星条旗がずら~と並べられている。その星条旗の間を歩いて向かう。今日は特別なのか?いつもこんな感じなのか?白黒黄色と人種の坩堝のような人の行列だった。
日本が勝っていればこれが戦艦大和であり一体世界はどんな世界になっていたのか?戦後日本人のなかには敗戦までの日本がまるで天皇を利用し軍事独裁政権であったかのように批判し「日本が負けて良かった」と言う歴史家・知識人・一般人が沢山いるが私はそんなこと死んでも思わない。
そんな戦後日本人は自虐を善とし、綺麗事を言い連ね先人を貶め自己満足する性根の腐った輩だと断ずる。日本が勝利し大日本帝国今も健在で世界をリードする立場なら、きっと現在世界よりも素晴らしい世界があると信じる。私の敗者の定義は何度も言うが「戦うべき時に戦わない者が敗者だ。」負けて悔いず、勝敗は時の運もある。
それには誰にも同意を求めず。ゆえにその理由を説明する気もないが心底そう思う。「負けて良かった」「負けた方が良かった」という理由も様々あるが反論の価値なく議論する気もない。ただそんな奴らを無視する。
終戦後73年、ミズーリ艦上でウロウロ見学する敵味方の老若男女多し。先人よ良くぞ戦ってくれた。敵であった米国がこれだけの規模で戦跡を保存し、米国人の多くがこの地を訪れている。それだけ歴史的大戦争だった。空母対空母の洋上決戦は軍事大国多々あれど日米の太平洋での戦いだけだ。
https://matome.naver.jp/odai/2144093547773287601
でっかい白人男女の見学者と一同に会してミズ―リ甲板を歩く。身体がデカくても銃弾には勝てない。ざまあみろだ。今度戦う時あれば日本人の真骨頂を見せてやる。その真髄は“神風特別攻撃隊”にあり。散華した多くの若き英霊が日本人の魂を未来永劫導いてくれる。そして敵はその恐怖から逃れることは出来ない。いざとなったら・・・だ。
マッカーサーは戦争初期コレヒドール島から部下を置いて家族同伴でオーストラリアに脱出した。マッカーサーの脱出後指揮官となったウェンライト中将とシンガポール陥落時のパーシバル中将は共に開戦早々日本軍捕虜となり台湾・満洲などで捕虜生活を送った。その二人をマッカーサーは9月2日、調印式にこの船にわざわざ招いている。
そしてその後の戦犯裁判でマッカーサーの、まさに復讐裁判によって日本側の将軍だったフィリピンでの本間雅晴中将、シンガポールとフィリンピンでの山下奉文大将を処刑している。もし日本が勝者ならこんな恥知らずな復讐はしない。マッカーサーは真の軍人ではない。
戦艦大和 「64,000トン 全長:263m 全幅:38.9m 最大速力:27.46ノット」
戦艦ミズ―リ「45,000トン 全長:270.4m 全幅:33m 最大速力:33ノット」
このミズ―リ号に『昭和20年4月11日午後、特攻機(爆装零戦)1機が低空飛行で右舷甲板に突入した』・・・その痕跡が残っている。
2011/06/06
『カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 』
その時の搭乗員は誰だったのかを検証する様子をNHKがドキュメント番組として制作している。
カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 1/4
https://youtu.be/xevONalys-c
カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 2/4
https://youtu.be/0IEx6gHmgBE
カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 3/4
https://youtu.be/WFz7JlM0cow
カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 4/4
https://youtu.be/e0Bp9q4Gjyw
この時の特攻機の搭乗員は・・・。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/konadad-sinpuu.htm
『調査の結果、鹿屋航空基地を出撃した第五建武隊の石野節雄二等兵曹(19才)機であったと判明した(同時に突入した同じく第五建武隊石井兼吉二等兵曹(22才)の可能性もある。突入できなかった機は対空砲火により撃墜された)。』
戦艦ミズ―リの砲身に突き刺さった零戦の機関銃が搭乗員特定の鍵となった。機関銃は零戦52型の機関銃であることが判明し、この零戦52型で当日特攻発進したのが鹿屋基地 だけだった。ミズ―リ艦上の痕跡そばには石野節雄二等兵曹とその家族の写真の展示があった。
「手厚く水葬したミズーリ号艦長」
https://youtu.be/70ci5ii0lv4
“神風特別攻撃隊”への私の思いは、2012/平成24年にフィリピンのマバラカットの戦跡を巡った時に記している。
https://4travel.jp/travelogue/10657224 -
ニミッツ元帥は東郷元帥を本物と認めていた
本物は本物を間違うことなく認識する
戦後日本は偽者が脚光を浴び本物は極右とされる
本物とは超現実主義者だ、綺麗事は皆を苦しめる -
左右に星条旗の立ち並ぶ中を歩く、これが国家だ
戦争放棄などという考えられない馬鹿げた憲法を護持し
国軍を否定し日の丸・君が代を否定する日本人は日本を捨てろ -
ハワイにはみんな遊びに来ていると思っていたが
この真珠湾に多くの見学者がいるのに正直驚いた -
戦艦大和「64,000トン 全長:263m 全幅:38.9m 最大速力:27.46ノット」
戦艦ミズ―リ「45,000トン 全長:270.4m 全幅:33m 最大速力:33ノット」 -
どうしてこんな大勢の人が迎えてくれるのか?
人件費もいるだろうに、でもなんかカッコいい -
戦艦大和ここにあり!
どうみても大和だとしてか思えず
大和の主砲:口径 46cm(18インチ)最大射程約42km
ミズーリの主砲:口径40.6cm(16インチ)最大射程約37㎞
大和vsミズーリ
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1335509623 -
米国本土からなのか?白人見学者も大勢だった
真珠湾攻撃で有色人種は皆喝采した
米国民である黒人たちも溜飲を下げた -
降伏文書に署名する「日本側全権代表団」
代表は大日本帝国政府全権外務大臣:重光葵
この時、淵田美津雄中佐も随員ではないが雑役で
ミズーリ号の上甲板から乗員と共に眺めていた -
降伏文書のレプリカ展示の周囲を囲む人たち
見学風景は人種に違いをあまり感じない -
昭和20年4月11日午後、特攻機(爆装零戦)
1機がミズーリ号右舷甲板に突入する瞬間 -
特攻機突入の右舷甲板上で解説版を見たり
今も船体に残る傷跡を見てガイドの説明に聞き入る人たち -
写真は石野節雄二等曹19歳
この特攻の搭乗員を探した結果下記二人のうちどちらかと判明
石野節雄二等曹19歳 岡山県 没後少尉
or
石井兼吉二飛曹22歳 千葉県 没後少尉
敵艦に突入し氏名が判明した神風特攻隊員
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/konadad-sinpuu.htm -
ミズーリ号の40ミリ機銃に突き刺さった
特攻零戦の13ミリ機銃 -
特攻機の操縦員の遺体の一部が40mm機銃座から回収された
ウィリアム・キャラハン艦長は乗組員の反対もあったが
特攻の翌日操縦員を海軍式の水葬で弔った
ウィリアム・キャラハン艦長は兄を日本軍との戦闘で失っている -
ミズーリ号の右舷甲板に残る特攻機による痕跡
今、日本を守っているのは大東亜戦争で戦死した英霊たちだ
世界の国の人に日本軍の戦いぶりが脳裏に刻み込まれている
これからも語り継がれていく。その象徴が“神風特別攻撃隊”だ
勝利への執念と例え敗れても日本を守るため自らの命を投げだした
その一人一人の名前を知り最後を知ることが子孫の務めだろうに -
19才或いは22才の日本人青年がここに突っ込んだ
どんな気持ちであったろう・・・特攻への非難否定は自由だが
彼らの気持ちを「イヤイヤに違いない」との断定だけはやめてくれ
19才の私も死ぬのは嫌だ。だがアイツだけに行かせるのも嫌だ。
極限状態に追い込まれた時の心中を、似非平和の下で断定するな! -
ミズーリ号の艦首の向こうにアリゾナ記念館が見える
ここはやはり米国にとって「リメンバー・パールハーバー」なり
真珠湾攻撃は、米国民にとって決して忘れてはならない事なのだ -
こんな倉庫のようなところで昼食を・・・。
ハワイ観光に来た若い日本人の多くが
このツアーに参加しているのは嬉しく思う
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■昼食は海軍カレー
10時54分~11時48分 50分程の見学を終え昼食タイム。海軍カレーを倉庫のようなテーブルが並んだ食堂?で食べる。各種ツアー混合で20人くらいはいたと思う。そこでも“Hさん”の熱弁があった。442連隊の活躍と戦後日本人の自虐史観払拭のための愛国教育のような講和である。
この同行ツアーの中に旅行社業界で研修中の女性10名近くの一団もいた。その内数人は最後まで“Hさん”の話しを聞かずにテーブルを離れたがほとんどの人はじっと話を聞いていた。左翼系の人には苛立つ話だったと思うけど・・・。私にはごく当たり前の内容であり、“Hさん”のようなガイドがこの真珠湾にいてくれることは有難い。
戦艦ミズ―リ号への参道前に戦艦オクラホマの慰霊碑もある。
『第1次攻撃隊の集中攻撃を受けたオクラホマには多数の魚雷が命中し、転覆沈没した。20名の士官及び395名の兵士が死亡、行方不明となった。戦死者のうちの一人、アロイシウス・シュミット神父は第二次世界大戦で戦死した最初の従軍牧師であった。』 -
『海軍カレーは、大日本帝国海軍の糧食に由来する』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC
真珠湾で帝国海軍のカレーを食べるのは愉快なり
金曜日がカレーは週休二日制以降だったとは知らなかった
それまでは半ドンの土曜日、後片付けが簡単なので -
熱く語る愛国ガイドの“Hさん”
多くは神妙に聞いていた -
戦艦オクラホマの慰霊碑
20名の士官及び395名の兵士が死亡、行方不明となった。 -
「World War II Valor in the Pacific National Monument」
(第二次世界大戦で戦った太平洋の国の勇者の記念公園)
互いに国家の存亡を賭して戦った敵への敬意も感じた
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■驚きのボーフィン潜水艦
次はアリゾナ記念館だったが、渡し船の時間までしばらくの自由時間。私は早速足早に潜水艦「ボーフィン」を見に行った。この潜水艦が『1944年8月22日、沖縄からの学童疎開船「対馬丸」を撃沈、学童多数を含む1,476名の犠牲者が出た』とは知らなかった。日本にとっては憎き潜水艦である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E4%B8%B8
日本語音声ガイドを借りて潜水艦の内部に入った。「えっ!なんじゃこりゃあ・・・凄い!」と驚愕の一瞬だった。何に驚いたか?ピカピカだった。今も日々メンテナンスを欠かさず直ぐにも出航できそうなくらいの金属の輝きがあった。大袈裟に言えばチリ一つ落ちていないくらい。
「そうかこれが米軍か」と、軍隊への今でいうリスペクト(敬意を表す)だろう。この潜水艦内部の見学だけで米国米軍米人の魂を感じた。憎き潜水艦だが、ぜひ、是非!この潜水艦の見学を忘れずにしてもらいたい。そして何かを感じてもらいたい。ピカピカだ!
潜水艦乗組員は、極端に狭い居住スペースで多数の乗員(ボーフィン66名)が生死を共にする。一旦海に出れば運命共同体として一致団結何事も超越して事に臨まねば自らも生きて大地を踏むことは出来ず。我慢辛抱協調・・・単独行動を好む、いやそれしか出来ない私の一番苦手とすることだ。
日本海軍の潜水艦も戦果を挙げている。
日本海軍の潜水艦が沈めた連合国側の商船は184隻(907,000トン)
帝国海軍潜水艦による撃沈戦果
http://pico32.web.fc2.com/data/sensui/gekichin.htm
1位「伊号第十潜水艦」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8F%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6
2位「伊号第二十七潜水艦」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8F%B7%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6
3位「伊号第二十一潜水艦」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8F%B7%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6
ピカピカのボーフィンには素直に感動した。ロシア、ウラジオストックの潜水艦も平成27年に見学したがボーフィンとは天地の差がある。
https://4travel.jp/travelogue/11076167
ボーフィンから出ると左端の方にひっそりと回天が展示されていた。どこからここに運ばれたのか不明。屋外展示だが黒い塗装も美しい。人間魚雷「回天」と称されるようにこの真珠湾での展示説明の英語は「Suicide Torpedo(自殺魚雷)」
「回天」もその一つだが、その他にも「震洋」、人間機雷「伏竜」、人間ロケット「桜花」、「タ号試作特殊攻撃機」、特攻専用機「剣」、他「特攻兵器の種類一覧」。いろんな特攻兵器があったようだ。
https://ichiranya.com/technology/242-suicide_weapon.php
「特攻を我は賛美し誇りに思う」すべては、その時々の最善策だ。似非平和しか知らない戦後日本人の特攻批判など聞くに値せず。 「命より大切なものがある」それが日本人の凄さだと信じる。 -
ボーフィン潜水艦
1944/昭和19年8月22日
沖縄から学童疎開の児童が多数乗った対馬丸を撃沈した潜水艦
1,476名が死亡、乗組員は西沢船長以下24名が対馬丸と運命をともにした -
艦首方向から乗り込み艦尾方向を写す
1971年12月に退役し47年が経つが
いつでも出航可能の雰囲気がある -
内部に入ってビックリ仰天!
「なんじゃァ~ こりゃァ~」
あまりに磨き込まれているので目が点になる -
潜水艦内どこを見てもチリ一つない状態だった
これぞ海軍魂なのか?米軍の底力ここにあり
かっての敵だが見事なり、敬意を表す -
移民国家米国、黒人奴隷も含めて国となす
その国家の求心力は強さであり、軍隊だろう
この輝きを保っている間は米国は安泰だと思う -
この輝きが、米国民の輝きなり。羨ましい限りだ!
国家存立の根源は軍隊であり軍人にある
軍隊軍人を忌避する国に未来はない -
出航準備ヨシ!
命令一下 どこでも馳せ参じる -
人間魚雷「回天」
我らが帝国海軍ここにあり
世界に200を越える国あれど
日本人にしか出来ないことだ -
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」
今の世に国賊有名人多々あれど英雄など一人もいない
二百年後の日本で、その評価ははっきりするだろう -
ぞろぞろと、こんなんにも多くの人が見学に来ているのか・・・と
ハワイ観光はワイキキの浜辺と買い物だけだろうと思ってた
それがこの場に来て、この人の多さに驚きの連続だった
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■アリゾナ記念館へ行く
アリゾナ記念館へ行く時間が迫り集合場所に向かう。まず短編映画を見てフェリーに乗り込む。映画は見たはずだがその内容は記憶にない。映画館への入場券がフェリーの乗船券でもある。
フェリーも米海軍兵士が操船し、出航前の注意なのか?制服着用の船長らしきカッコいい若い兵士が乗船客に向かってマイクで説明していた。アリゾナ記念館は沈没している戦艦アリゾナの真上に交差するように建てた慰霊施設。
アリゾナはその日「前部甲板を貫通した徹甲弾が火薬庫に達したための大爆発」を起こして一瞬にして乗組員1177名のうち1102名が戦死している。1941年12月7日、爆発沈没して今日は2018年4月12日、76年4ヶ月を経てなお「アリゾナの涙」と呼ばれる漏れ続けている油膜が確認出来た。
この真珠湾はアメリカ海軍の痛恨の場所であり、戦争の現実を常に想起させるところとして未来に継承していくのだろう。当時緊迫しているはずの日米会談を扱ったアメリカの新聞の漫画に出てくる日本人は「出っ歯でメガネを掛けいつもペコペコお辞儀をすしている」・・・そんなイメージだった。
例え日本がアジアで大きな顔をしようが、アメリカ軍から見れば敵ではないと軍人も高を括っていた。まあそういってもアメリカ人の日本人への印象は今も当時と変わらぬと思うけど。しかしこの真珠湾、アリゾナ記念館に来れば少しは日米国民、いや世界からここを訪れる人たちは日本人の底力なるものを感じるに違いない。
白人に比べれば体格もおとり見栄えも今一、私が白人ならそれだけで優位を感じる。その黄色人種が難攻不落であるはずのこの真珠湾の基地を完膚なきまでに叩きのめした。日本の日露戦勝と同じく世界中の有色人種はそのニュースに接しガッツポーズをしたに違いない。米国人である黒人も心で喝采したように。
私はこの真珠湾に来てもアメリカ人に対して何ら恥ずることはない。宣戦布告が遅れたことについて在米日本大使館の役人の不手際には腹立つが米国への後ろめたさなど何もない。戦争に元よりルールはない。戦時国際法も無意味だ。殺すか殺されるかの二者択一の究極の場面での決断と実行、そこにあるのは個々人の人間性だけだ。
敵を殺すか、自らが殺されるか?そこに個々人の人間性が出る。残虐非道の定義もない。出来ない者には出来ない。出来る者には出来る。その是非もない、それが戦争だ。それが嫌ならやるな。だが敵を殺したくないから「殺される方が良い」「奴隷になる」を選ぶ奴は単独行動をしろ。決して他者を巻き込むな。個々の選択は自由であり尊重する。
一日ここへ何回往復しているのか?知らないが、記念館から戻る人も復路船待ちの行列だった。アメリカ本土からの訪問が一番多いのかも?白人が多かった。幸い私が嫌悪する支○○鮮人は少なかったようで良かった。年々増えているそうだけど・・・。
ガイドの“Hさん”が、最近中国からのツアー客が増え、そのガイドをする中国人が真珠湾での戦いについて嘘捏造のガイドをしているので、どこの国も一律説明の禁止となったと言っていた。この真珠湾の戦跡には朝鮮人が嫌がる旭日旗があふれている。ハハハ、それだけも気分が良い。それにハングル表記もないのが良い。
この慰霊碑にはアリゾナ沈没から生き延びた乗組員が戦後亡くなった場合、本人自身が希望するか遺族の願いがあれば、遺灰が海軍ダイバーの手によってこの海中に葬られる。そのれらの方々の名前と死亡年が刻まれた大理石の碑が正面の戦死者銘板の前部左右に設置されている。「USS ARIZONA SURVIVORS INTERRED WUTH THEIR SHIPMATES」(生き残った我らも、今ここに戦友と共に眠る)
ここから船首を正面にミズ―リ号の雄姿が見える。大鑑巨砲は最早過去の遺物となりしも見事なり、こんなちっさな人間がかくも堂々たる戦艦を作り大砲を撃ち合い勝敗を決した。互いに正義と大義の名の下に、当事者となる勇気や気概はないがただ憧れる。 -
海軍ご用達のフェリーで送迎される
もうすでに慰霊の儀式は始まっている -
三人の若い兵士が操船する
出発前に中央の舵を背に兵士からの説明があった
英語で内容は不明だが、これも兵士教育の一環だろう -
アリゾナ記念館
乗組員1177名のうち1102名が死亡し撃沈され
海底に沈んだ戦艦アリゾナの上に作られている -
我々の乗って来たフェリーで戻る人たちの行列
米国本土からの観光客なのだろうか? -
日本軍の第一波攻撃で大爆発を起こしたアリゾナ
爆発のその時、相当離れていた淵田機も振動でユラユラ揺れた
「松崎大尉、右を見ろ、敵艦の火薬庫が誘爆したらしい」
松崎大尉が風防を開いて確認し、口をついて出た言葉は
「バカヤロ、ザマミロ」であった
それが戦争だ! -
今も海上に出ている戦艦アリゾナの一部
-
これが「アリゾナの涙」と呼ばれる
今も漏れ出ているオイルの油膜だろう -
大理石の壁に刻まれた1102名の戦死者名
-
その時生き残り戦後に亡くなった乗組員の名を刻む
「USS ARIZONA SURVIVORS INTERRED WUTH THEIR SHIPMATES」
(生き残った我らも、今ここに戦友と共に眠る) -
アリゾナ記念館からミズ―リ号を写す
美術館で絵画や彫刻を見てもあまり感動しないが
何故か?戦艦の雄姿に心打たれ素直に感動する -
フェリーの運航中は、行く人戻る人
こんな多い状況が普通なのか?
ここに 来て 見て 知った -
「アリゾナへの敬意」
真珠湾に米艦船が入港する時は
今も軍艦商戦問わず乗組員は甲板に立ち敬礼をする
無論、海上自衛隊の艦船も敬礼を行っている
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■日本軍の伝統を引き継ぐ唯一の組織 自衛隊
この真珠湾には戦後1980年から海上自衛隊もハワイ周辺で実施されている米国海軍主催の環太平洋合同演習(リムパック)に参加するようになり訪れている。この真珠湾に米艦船が入港する時は今も軍艦商戦問わず乗組員は甲板に立ち敬礼をする。無論、海上自衛隊の艦船も敬礼を行っている。
海上自衛隊の練度の高さは米軍にも認められている。練度の高さは海上自衛隊だけではない。無念にもいまだに日本の自衛隊は陸海空とも軍隊ではない存在に留め置かれているが、軍としてのレベルは旧陸海軍と同じく世界最高レベルだと思う。
それは私の主観ではなく、いろんなデータや米軍、他、他国軍との合同演習などを通じての評価もある。自衛隊の評価というのはネットでも数多く紹介されている。例えば元自衛官の話し。【実体験談】米軍がもう一度見たがった自衛隊の行動…ただ米軍がどうしても理解できないことも。
https://youtu.be/wgxOAtrpGHk
この動画によれば、『自衛隊の兵器稼働率は世界一、90%以上。 米軍でも70~80%』
以下動画文章よりの抜粋
『空自のパイロットは確かに「決して悪い評価ではありません」しかし友軍である米軍海からはこんな評価が出ています。空自と訓練した海兵隊いわく、「ウチの攻撃機(F/A-18)は、作戦中、敵戦闘機に襲われた場合、爆弾を投棄して離脱、ミッションアボード(作戦中止)する傾向にある。だが自衛隊の攻撃機(当時はF-1)爆弾を投棄した後、敵戦闘機に立ち向かっていく傾向にある。状況如何によっては、これは極めて危険である。」
『また陸自の訓練を見学した米軍士官いわく、「歩兵の練度は極めて高く我が軍にも比肩しうる。だが、稀に自殺的突撃を行うことは理解に苦しむ。」・・・これはカミカゼ精神なのでしょうか・・・』
自衛隊の練度の高さ強さの例は数多くある。
『米軍「日本の兵士ってどれだけ弱いん?」→3分後「もうやめてくれ!」』
https://youtu.be/eubc7tmIElU
20分程の短い滞在だったが、また次の見学者を乗せたフェリーに乗りアリゾナ記念館を後にした。毎日これだけの見学者がいるのかどうか分からないが、ハワイと言えば、遊びと買い物の観光ツアーだけかと思っていたが若い日本人も沢山来ているのに驚き嬉しかった。
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訓練・演習】平成28年度日米共同統合演習(実動演習) 活動記録(海上自衛隊)
https://youtu.be/0adf9AkimxM -
資料館の入口正面にこの大きな絵があった
真珠湾に停泊する米戦艦に九七式艦上攻撃機が魚雷を放った瞬間だ
日本人が喜び鼓舞するかのような展示に「えっ、これでいいの」と
今も世界No1の軍事力を持つ米国の油断を戒めるための真珠湾なのか
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■資料館にて
フェリーから降り集合までの自由時間に資料館に入って日本語字幕の付いた映画を見た。真珠湾に潜行突入を計った9軍神として有名な特殊潜航艇「甲標的」の字幕説明に「日本は29機 5隻の小型潜水艦、66人を失っただけだった」とあった。米国は戦後世界の超大国であり、今後の戒めの為の真珠湾だろう。
館内には真珠湾攻撃の旗艦:空母「赤城」の大きな模型の展示があった。威風堂々の帝国海軍空母:赤城であり、搭乗員の写真等々が展示された資料館は日本人を鼓舞してくれる。説明の英語は分からないが日本を侮辱するような雰囲気は感じない。
“ダイヤモンドヘッド”ハイキングからスタートし、真珠湾戦跡巡りも次から次へと興奮状態で見て回った。頭の中は整理できないまま終了。午前9時半から午後3時まで5時間半充実の見学だった。
赤城を発艦した淵田中佐の乗る「97式艦上攻撃機」は真珠湾上空に到達した攻撃開始前の午前7時53分「トラ・トラ・トラ(我奇襲に成功せり)」を発信、その後戦艦メリーランドに徹甲爆弾二発を命中させる(損傷軽微)。第一波の攻撃が終わる頃第二派が戦闘に加入してきた。
第二派の指揮官:島崎少佐は午前8時54分突撃を下令。第一派帰投後も淵田総隊長機は戦闘指導と戦果確認のため単機で残った。97式艦攻の航続時間は5時間、すでに4時間半飛んでおり操縦席の松崎大尉は燃料の心配をしていたが隊長命令はやむなく、午前10時半やっと「松崎大尉、引き揚げる、帰投針路十度」の命令が出る。
しかし、その後も迷い機二機を収容しながら母艦赤城に無事帰投。整備下士官は「総隊長、燃料はかっきりでした。も少し早く帰って貰わんと危ないですよ。それに操縦索も切れかけていて、危なかったですよ」と、淵田中佐は「戦争だよ、燃料がなくたって、操縦索が切れたって、飛ぶよ」・・・と。
淵田中佐の真珠湾攻撃は午前6時15分赤城上空で進撃隊形整える。11時10分頃帰投。正味5時間ほど・・・か。私の今日の真珠湾見学も5時間なり。一次二次の真珠湾攻撃は7時45分~10時半まで、この3時間で真珠湾米軍基地は大打撃を被り“リメンバー・パールハーバー”(Remember Pearl Harbor)が永遠の言葉になった。 -
映画も日本語字幕付きで、日本軍の戦果を表示していた
9軍神として有名な特殊潜航艇「甲標的」の字幕説明
「日本は29機 5隻の小型潜水艦、66人を失っただけだった」
この真珠湾での各所において・・・見学する米国人へ
「リメンバー・パールハーバー」を思い起こさせている -
「AIRFIELDS ATTACK ON THE AIRFIELDS」
日本軍機の攻撃
「To ensuve aerial superiority the Japanese first attack Oahus
airfields to destroy military aircraft」
空中優位を確保するため日本軍は最初に
オアフ島飛行場の米軍機を攻撃し破壊した -
日系人部隊:第442連隊戦闘団
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3
『欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団は
その活動期間と規模に比してアメリカ合衆国軍事史上で
もっとも多くの勲章を受けた部隊となった』 -
真珠湾攻撃:第一航空艦隊司令長官:南雲忠一中将
旗艦、空母「赤城」の模型
ここはホントにアメリカの戦史資料館なのか?・・・と
支那の戦争記念館とのあまりの格差に驚く
この格差こそが人間のレベルの格差なり -
赤城の雄姿
『大改装後の赤城。右舷中央に巨大な曲面煙突が判別できる
左舷側艦橋を設けた日本空母は本艦と飛龍のみ。』 -
アリゾナ記念館と海底に眠るアリゾナ
-
充実の真珠湾ツアーを終えホノルル市街に戻る
同乗女性たちは旅行業界の研修のようだった
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■フォートデラッシー公園に戻る
駆け足の真珠湾の旅は終わった。私の今回のハワイの旅も終わった。午後3時、業界の研修女性6人ほどと私が愛国ガイド“Hさん”の車に乗った。バスの中で再び“Hさん”の訓話が始まった。
「戦争は人類最大の悪ですね。戦後の日本は70年以上戦争もせず平和を保っています。それは日本人の誇りです。」・・・と。
女性たちが先にどこかのホテルで降り私一人になった時“Hさん”に向かって
「国を守り家族を守る為に戦うことが悪ですか?戦争は犯罪ではないし、悪ではなく崇高なことだと思っています。戦後日本は米国の属国の立場で軍隊もなく、拉致被害者の奪還もせず。私はこの戦後70年は日本の誇りではなく、日本の有史以来恥ずべき70年だと思っています」
今まで“Hさん”の話しに同意し頷いていた私の突然の反論に「それは、そうなんですが・・・」と、それ以上私と議論しても無駄だと思ったようで黙っていた。
「戦争は悪」「戦争の無い戦後日本は誇り」・・・これは綺麗事を言う左翼の言辞であり、護憲派の主張と同じだ。“Hさん”からそれらの言葉は正直聞きたくなかった。
Gateway Hotel前のフォートデラッシー公園(Fort DeRussy Park)で“Hさん”と別れ公園を散策。元はデラッシー要塞で今も米軍管理の公園。、園内に陸軍博物館がある。
(転載)
http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/hawaiioahu/area212.html
『現在米陸軍博物館となっているこの建物は、明治44年(1911年)に完成したランドルフ砲台であった。』
http://uroneko02.com/us_m-museum.htm
ワイキキの浜辺に一昔前には要塞が築かれ砲台があった。100年という時の経過はなにもかも大きく変える。なら200年前とは恐ろしく違うのだろうけど、人はどう変わるのかなあ?
何を食べ何を夢見、何に悩み、何を恐れ、人生を送る?我思う、科学は進化すれど人は変わらず。例え背丈容貌は変われど他は変わりようなし。 -
ランドルフ砲台跡の米陸軍博物館
可愛いらしい日本軍の「九五式軽戦車」が並ぶ
一番奥は米陸軍の「M24軽戦車」 -
TUNEO TAKEMOTO 軍曹
この一葉の写真が未来に語り掛ける
こういった写真こそ戦死者の供養になる -
日本では「英雄」と言う言葉さえ今や禁句のようだ
戦後日本の最大の敵は反日日本人であり、反日メディアだ
腐り切った性根の似非日本人が良識人・常識人とされている
先人を貶める反日日本人こそ最悪であり、支○○鮮人は無視で良い。 -
フォートデラッシー公園にある米陸軍博物館
-
ハワイ到着二日目にして初めてハワイを見る
この景色こそ私の知る「憧れのハワイ!」だ
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■ワイキキの浜辺
ハワイに来て初めてワイキキの浜辺を歩いた。時は午後4時半。右手正面に“ダイヤモンドヘッド”あ~これがハワイ、これぞハワイの光景が広がっていた。でもただ浜辺を歩き目の保養にビキニのお姉さんを見ながら歩くだけ・・・。
砂浜を歩いてHISの拠点、ロイヤルハワイアンセンターに辿り着き二階のフードコートの「マハロハ・バーガー(Mahaloha Burger)」で「小さなハンバーガー」が欲しいと 「Small」と単語と手振りで頼んだら「Kids Burger(キッズバーガー)」と言うので「それ、それでOK」と頼んだ。私に恰度の大きさだったハハハ。オレンジジュースと子供バーガーで7.94ドル(\865)
そのあとまたフォートデラッシー公園に戻って、今度はやはり子供用ハンバーグでは物足らず「小倉智昭の店」でラーメンを食べた。何も知らずに食べて帰国し、この旅行記を書きながらあの「小倉」の店だったことを知る。大手テレビ局に重宝されているタレントに本物はいない。店は流行っていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E6%99%BA%E6%98%AD
歩数「30139」歩行距離「22.2km」・・・スマートフォンの歩数計を見てびっくり、そりゃあ足が棒になったけど「ほんまかいなァ~」、西明石の我が家から三ノ宮駅まで歩いて約26キロ、5時間で何度か歩いたことがある。今日ハワイで22キロも歩いたのか?
疲れたけど充実の一日だった。明日も正味の一日があるけど、もう私のハワイの旅は今日で終わってしまった。 -
快晴ではないがハワイの風景ここにあり
といっても海水パンツで海に入るわけでもなく
ただ浜辺を散歩する。真珠湾見学の高揚未だ冷めず -
ロイヤルハワイアンセンターに戻って
2階のフードコートでハンバーグを -
「小さいのを!」と言ったら
キッズを勧められた。恰度良かった -
この時は知らずに入った小倉智昭のラーメン屋
-
帰国後知る、味はそれなりに美味かった
-
朝6時から部屋に戻ったのは午後7時前
満足の一日だが“オジン”には、さすが疲れた -
スマホの歩数計を楽しみに確認する
30139歩 22.2km
ホンマかいな!
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