2012/02/05 - 2012/02/09
989位(同エリア1870件中)
明石DSさん
早朝のベイシャトル待合室
今日も皆さんどこかにお出かけのようだ
帰国後、ベイシャトルが民事更生法の手続きに入ったニュースを目にした。
でも「H21年、22年共に黒字」で、閉鎖はないとのこと
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1日目:2月5日(日):晴
関空〜マニラ
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2012/平成24年2月5日(日)
■午前5時半過ぎに我が家を出発
日曜日の朝、61歳26回目の海外旅行は、真冬の日本から暖かい?暑い?フィリピン・マニラへ。2004/平成16年から何となく年二回の海外旅行を目標にしてきた。そして今年で8年目を迎える。まあこれも身体健康、家内安全・国家まずまず安泰だからこそのことだと感謝。
朝5時の目覚ましが鳴る前の4時50分に眼が覚め、朝風呂で体を温め仏壇に手を合わせ無事の帰国を祈念す。何度行っても海外は不安が先立ち飛行機も怖い。5時半過ぎに家内の「じゃあ気をつけてね。もう一度寝なおすわ」との見送りをうけて車でポートアイランドへ向った。
日曜日の早朝、2号線はガラガラで早く着きすぎ、途中ポートアイランドで車中休憩して果物(オレンジ・りんご半分・バナナ一本)を食べ、新聞を読み、6時40分ベイ・シャトル(高速船)乗り場に到着。
関空まで“ベイ・シャトル”を使えば駐車料金が何日停めても無料で魅力だが、便数が1時間一本なのでバスにしようか?と、いつも迷う。朝早いので車で行くことを選んだ。早朝にも係わらずそこそこの人が出発を待っていた。7時15分(発)大阪湾を一直線、関空に向って双胴船は走る。さあ、マニラへ行くぞ!
- 旅行の満足度
- 5.0
-
10年後もこの船に乗って関空へ行こう
20年後もこの船に乗って関空へ
30年後も・・・ふふふフ -
大阪湾に陽が昇る
あ〜美しいなあ
一服の絵画だ -
やっぱり国際便は2時間前に来るのか
まあ遠い所に移動するのだから、時間が掛るのは当然だ
はるか海の彼方に3時間ほどで行けるのだから
「行列が長くて待つのがしんどい」は罰当たりなり
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■関空到着
eチケットを持ってフィリピン航空のカウンターに行く。9時55分(発)の2時間前で、受付が始まったばかりなので長い行列を作っていた。やっぱり海外への飛行機便は離陸2時間前にみんな集合が普通なのか。行列の最後方に並び運命を共にする人たちを観察する。
フィリピン人も多いようだけど日本人が多い、そしてそれ以外の国籍も。顔とパスポートの色を見比べながら「やっぱり」と納得したり「ホンマにか?」と疑ったり「もう日本に来なくていいぞ」と思ったり。自分の番が来るまで「人間ウォッチング」で時間つぶしをするのもいつものことである。
荷物はリュック一個預ける物なし。座席は窓側を頼んで、チケットをもらい出国ゲートへ向う。空港手続きは何度来ても、いつも初めての如く緊張しながら手荷物検査、そして出国審査を経て40番ゲートに到着。
搭乗までの1時間ほどを資料や「地球の歩き方」を広げて見る。でもでも「地球の歩き方」を出して見るのは、ちょっと恥ずかしいのはなんでやねん?
飛行機はフィリピン航空「PR 407」エアバス社製、座席は2:4:2。出発は定刻9時55分より遅れて10時18分。ほぼ満席と思える407は関空を離陸した。座席「No・41K」はちょうど翼の上で窓側といえど眺めはすこぶる悪し。マニラに近づいてもほとんど下界の眺望・遠望は良くなかった。零戦からの眺めを彷彿することは出来なかったのが残念至極。
離陸後30分ほどで食事が配られた。「ビーフorチキン?」と聞かれてチキンを頼む。その後、入国カード・税関申告書が配られ「地球の歩き方」に入国カードの見本はあったが、税関申告書の書き方で分からない部分があったのでスーツ姿の隣の中年男性Yさんに教えを乞う。Yさんはタイとマニラに会社があり、毎月くらい10日前後の出張を重ねている人だった。
しばしYさんにフィリピン情報を聞く。「食事は醤油味もあり、タイよりも口に合う」「蚊取り線香を使ったことはない」「フィリピンの平均月収は2〜3万円ほど」「人件費は、タイ>フィリピン>中国」「フィリピン人はタイ人に比べて怠け者」等々いろいろ教えてもらった。
帰国後にネットで検索したら、フィリピンの失業率は「2009/34%」というのもあり、政府発表の一桁数字は当てにならないようだ。そして月収も地方によっては1万円もあり、交通事故での死亡も10万円の示談金が可能ともある。収入や失業率、その他の情報もどこまで正確なのかよく分からない。
『外務省資料:面積299,404平方キロメートル(日本の約8割)。7,109の島々がある。』
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/philippines/index.html
100以上の民族で構成されている国だし、生活・経済レベルも地域によって多種多様だろう。そんなフィリピンを詳しく知るのはとりあえず今の私には無理だ。 -
ほぼ満席のマニラ便
横の座席のYさんにフィリピン情報を教えてもらい
時間の経過も早く、大いに参考になった -
確かに窓側の席だが、翼が邪魔で視界が悪い
それに翼がもぎ取れないかと心配になる
そんなことを思う私はおかしいのか? -
格安料金なのに
みんなと同じ食事を食べれてありがたい
一体みんな幾らの料金でこの飛行機に乗っているのだろう
もしかしたらもっと安い料金で搭乗している人も? -
アラヤット山も見えず、マニラに到着す
下の川はパッシグ川だろう ?
真冬から真夏へ、体はすぐに適応する? -
さあ、マニラに着いた
出迎えはちゃんと来てくれているだろうか?
暑さはどんなものだろう
いろいろな思いを胸に一歩を踏み出すぞ! -
空港到着後一斉に荷物を降ろす
みんなマニラで何をするのだろう
一期一会/会者定離、不思議なり
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■マニラへ第一歩
13時20分、マニラ「ニノイ・アキノ空港」到着。時差−1時間。
日本時間午後2時20分なので、4時間ほどのフライトだった。初のフィリピン、マニラに到着。到着前に機内で「天候は晴れ、気温は31℃」とのアナウンスがあった。飛行機を出たらさすがにムッとした暑さを感じたが、そんなに嫌な感じはしない。寒いより暑い方が私の身体は喜んでいる。臭いの不快感もない。
そのまま前の人について行ったが、出国までの手続き等の印象は「あっけなく楽勝」だった。「えっ、これでええの?もう出てしまったのか」であり、次に「ちゃんと迎えのガイドに出会えるのか?」との心配になった。でも、それも心配する間もなく名前を呼ばれ、次にまたあっけなく空港の外へ。
空港内のガイドと空港からホテルまでのガイドが違う。なにもかもがあっけなくて空港で両替することも忘れていた。
今回のマニラツアーは「(株)エス・ティー・ワールド」/http://stworld.jp/
去年のグアムは「H・I・S」だったが、両方とも安くて便利だった。空港からホテルまでのガイドはMさん。30〜40代くらいのスペイン系美人。Mさんからもらった案内書には「アティックツアーズ・マニラ支店」と書かれていた。実情は良く分からんけど、四泊五日マニラの旅は問題なく快適だった。
空港玄関でMさんが携帯で車を呼び、その車に私一人が乗った。さっき空港内での掲示板には私含めて三名の名前が書かれていたが、それぞれ違うツアーとホテルのようだ。車に乗り込んで出発したのが1時49分。
空港到着後、飛行機から降りて(13時30分)、審査ゲートを通過し20分足らずで迎えの車の中に坐っているとは??車の待ち時間が5分くらいは少なくともあったので、初のフィリピン入国はホンマにあっという間の出来事だった。
Mさんに両替したいと言ったら「ホテルに行く途中で両替所に寄るから」ということだった。そして走り出して5分ほどで路肩に停まって運転手が交渉してくれるというので座ってまっていた。着いたばかりでマニラのことは何も分からなかったし、すぐに運転手が手招きしてくれて、その店に入り「2万5千円」の日本円を出した。
「1万円=5515ペソ」で合計¥14030ペソとなった。
「1ペソ≒1円80銭」。まあ、ややこしいから1ペソ≒2円、1000ペソ≒2000円と思っておこう。 -
空調が効いているのか?暑さはそんなに感じない
入国手続きもあっけなく終わる -
この二人が空港内ガイド
二人とも明るく、さい先良し!
人との交流の良否が、旅のすべてを決する
そうか人生もか・・・
それには他に求めず、まず己をか、ごもっとも。 -
マニラ空港からMさんとホテルへ向かう
Mさんはスペイン系で美人 -
マニラには小さな両替店がいたるところにある
ジプニーと両替店の多さに驚いた
「FEB]の看板の店で両替した
24時間オープン -
メトロ・マニラ(マニラ首都圏)の人口は1,155万人
東京23区とおなじく
マニラ首都圏は17の市で構成されている
やはり東京と同じように人と車で溢れていた -
30階3000号室が私の部屋だった。
鍵は開けにくく閉めにくい
へぇ〜、消化器があったのか
今気がついた
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■マカティ・プライム・タワーホテル
マカティ市にあるホテルに着いたのが午後2時15分頃、空港から20分ちょっとでホテル到着となった。
Mさんにもらった案内ツアーに「夕食&ニューハーフショー」があった。タイのニューハーフショーの感動が今一度かも?と、2名様以上¥85ドル、一人だと¥120ドル。料金は高かったが、その場でモニカさんに頼んだ。そして午後5時15分に、ホテルロビーで待ち合わせということとなる。
ホテル名は「マカティ・プライム・タワーホテル=“MPT・ホテル”」
ネットの口コミ情報などではマニラの安宿となっている。確かに見た目も古いし、二基のエレベーターの待ち時間もあるけど、泊まるには十分だった。
部屋は30階の3000号室。最上階は35階。
滞在型マンション風で、泊まり客というより住人?と感じる人たちが多かった。ダイニングキッチン・リビング・寝室とあり眺望は抜群。
クーラーの音はうるさいが、ほとんど不使用だったので問題なし。部屋も綺麗と言えないが、関空⇔マニラ:四泊五日送迎込み、合計¥62,950円の格安ツアーで文句は言えない。シャワーの湯量は満洲の安宿と比較していつでも十二分に豊富で勢いも良い。 -
ドアを開ければ広いリビング
30階は今までで最高階かも -
ダイニング
冷蔵庫はちゃんと冷えます -
でっかいダブルベッドが一つ
コーナーが下までガラス張り
カーテンを開ければ絶景だけど
カーテンがちゃんと開けれなかった -
浴槽はないがシャワーは絶好調!
歯磨き、歯ブラシはなし
バスタオルは毎日交換
マカティ・プライム・タワーホテル
http://youtu.be/ylZJlZGJDv4 -
35階建て、“MPT・ホテル”
ホテルを出て西に100メートルほど歩けば
マカティー通りに出る
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■ネルソン(ニルソン/ニールソン)・タワーへ
午後2時50分、空港に到着後1時間半でホテルから、徒歩でマニラ市内の戦跡めぐりに出発となる。目的地は“MPT・ホテル”から歩いて行けるはずの「ネルソン・タワー」・・・山下奉文大将がこの第14方面軍司令官として、昭和19年10月6日、このマニラに赴任した時のネルソン飛行場の空港管制塔跡。
グーグルアースで確認していた道を歩いて行った。まずはホテルを出て西に歩き、一つ目の交差点を左に曲がってマカティ通り(Makati.Ave)を南(南西)に歩く。
そのまま歩けば、右手に公園がありその一角にネルソンタワーがあるはずだった。目的地を探し当てることに集中し、その他の景色をゆっくり見る余裕もなくひたすら歩く。「そんなに遠くはないだろう」「もうすぐ公園が右手に見えて来るはずだ・・・」と思いつつ。 -
ジプニーはマニラの象徴だ
色とりどの彩色がほどこされ
見てるだけも面白い
一度も乗れなかったけど -
たまたま車のいないマカティー通り
ホテルから南に向って歩いている
もうすぐパセオ・デ・ロハス通り(Paseo.De.Roxas.Ave)と交わる -
マカティー通りとパセオ通りが交わる交差点
このパセオ通りがネルソン飛行場の滑走路跡の一つ -
アヤラ三角庭園(Ayala Triangle Gardens)
ネルソン飛行場
「アヤラ通り」と「パセロ通り」
V字滑走路間の三角地帯がこの庭園 -
1896/明治29年、図書館として建設されたとのこと
その後、国際空港の管制塔
今は本屋のようだった
マカティー通りから本屋の玄関を写す
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■ネルソンタワー(NIELSON TOWER:ネルソンorニルソン飛行場管制塔跡)
あったあった!
グーグルアースで下見をした通り、公園がありネルソン・タワーがあった。
山下大将は「マレーの虎」と表され、シンガポール陥落を成した有能な指揮官でありながら、その後活躍の場を与えられず満洲に左遷されていた。そして、昭和19年も後半、サイパン・グアムが玉砕し、フィリピンへの米軍上陸真近になって山下大将に、この過酷な任が急遽与えられた。
「山下奉文」福田和也(著)によれば・・・。
『フィリピンに到着した山下は憤怒した。そう伝えられている。占領後、三年以上たっているというのに、戦備らしい戦備がない。主要戦略地点の要塞化はもとより、物資輸送のための鉄道の整備、道路の拡充、米軍の迎撃を想定した軍事拠点もまったく作られていない。ゲリラの活動で治安は最悪だった。』とある。
山下奉文大将は、この飛行場に昭和19年10月6日初めて降り立ち再び故国の土を踏むことなく、ルソン島で終戦まで戦い抜き、昭和21年2月23日、ロス・バニョスで絞首刑に処せられた。(享年61)
山下将軍マニラの第一歩が、このネルソン飛行場だった。今、V字滑走路はアラヤ通り(Alaya.Ave)とパセオ通り(Paseo.De.Ave)となり、高層ビルが建ち並び、商業の中心でマニラ最大のショッピングセンター街ともなっている。1944/昭和19年10月の景色は如何に?
このネルソン・タワーはV字滑走路の中央に立ち、管制塔から正面に向って左手側が「アラヤ通り」、右手が「パセオ通り」となっている。私は「マカティ通り」と「アラヤ通り」を勘違いしていたのを帰国後に気づいた。だからその時は「滑走路がこの方向にV字なのに管制塔の正面が何でこっちに向いているのか?」と不思議に思っていたが、帰国まで気付かず。
その時は、マカティー通りが旧滑走路だと思っていた。写真や動画を写し頭上に飛行機が飛び立つ姿を想像しながらマカティー通りの歩道を歩いていた。「あ〜ァ、今更しょうがないけど・・・」だからアラヤ通りの標識を見て歩いたのは確かだが写真は残念ながら写していない。
陸海軍けんか列伝「山下奉文陸軍大将」
http://blog.goo.ne.jp/oceandou/c/87beb364f1ba5e2ff9929d569be46c01/1 -
ここから見れば見事に管制塔だ
管制塔から正面を向いて
左側:アラヤ通り
右側:パセオ通り
上記通りが昔、V字滑走路だった -
アラヤ通り(Alaya.Ave)
パセオ通り(Paseo.De.Ave)
昭和19年10月6日、山下奉文大将来る
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陸軍大将:山下奉文のフィリピンでの戦い
山下奉文陸軍大将は、大東亜戦争を通じ最大の激戦地となり、50万人にも及ぶといわれる戦死者を出したフィリピンでの戦いにおいて、終戦まで玉砕を許さず。敵の軍門に下ることなく戦い抜いた将軍である。
太平洋戦争緒戦においてはマレー作戦で快進撃を成功させ難攻不落と言われたシンガポールを陥落し「マレーの虎」と謳われた名将でありながら、その後即座に満洲に左遷され活躍の場を与えられることはなかった。
しかし敗色濃厚となった昭和19年9月フィリピンの第14方面軍司令官に任ぜられ、9月30日皇居にて天皇陛下拝謁後、10月6日マニラに到着した。時に米軍がレイテ島に上陸をする10月20日のたった二週間前のことである。
だが、その到着時点での第14方面軍司令官の立場は、南方軍総司令部の隷下に属し、航空部隊と艦船に対しての指揮権もなかった。
南方軍総司令部及び大本営は、台湾沖航空戦の誤報をもとに戦況を読み誤り、そしてレイテ島に上陸してきたマッカーサーを追い落すことにこだわったのかレイテ島での米軍との決戦を命じた。山下大将はレイテ島は狭くて持久戦も成り立たず兵と資材を浪費するだけだと当初から見抜いていた。
山下の考えは敵の攻撃を受けにくいルソン島北部に強固な陣地を構築し、アメリカに持久戦を挑み台湾、沖縄、ひいては日本本土への攻撃を遅らせることこそがフィリピン作戦の要諦だと考えていた。
そんな山下の進言も受け入れられず結果的に制海権制空権のないレイテ島での戦いが全く悲惨なものとなり、引いてはフィリピン全土での戦いを地獄の戦いと変えてしまった。それでも最後まで指揮をとり終戦のその時を山下はルソン島北部プログ山中の陣地で迎えた。
そして終戦から二週間以上たった昭和20年9月2日、キアガンに降り翌日9月3日バギオに連行され降伏文書に署名した。その時も無条件降伏を拒否し停戦を米軍に受け入れさせた。ここに昭和19年10月20日から始まったフィリピンでの戦いの幕が降りた。
フィリピンでの戦いはその戦死者の膨大なことからも、そして戦いというより兵士は生き地獄の中で飢餓、傷病で亡くなった兵士が多数だったということからも山下大将に対しての厳しい評価があるが戦争と言う極限のなか、日本本土から見捨てられ絶望的な状況で、良くぞ終戦まで戦い抜いたことに万感の敬意を表す。
玉砕を許さず、その山下自身も自決の道を選ばず、自決を涙ながらに諫言する部下に対して「俺はこのルソンで、敵味方問わず多くの人間を殺している。この罪の償いをしなければならないだろう、日本に帰るなどとは夢には思っていないよ。ただ、俺がここで死んだら、責任をとるものがなくて、残ったものに迷惑をかけるだろう。だから生きて責任をとる!」 と言ったそうだ。
最後まで司令官としての責任を全うし、戦犯裁判でも法廷闘争を戦い抜いた。それが山下奉文将軍であり、その地位に値する見事な人間であったと思う。以上
2011/10/15.記
山下奉文陸軍大将マニラの戦い
http://youtu.be/1_0ch7HOaoo -
お散歩マップ
でも地図見ても分からず適当に歩く
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■グリーンベルトの散歩
ネルソン・タワー周辺をしばし散策し、ショッピング街へと歩いた。
まだ何も分からないままの散歩で、グリーンベルト・モール周辺を歩いた。日曜日だからか公園内の教会に多くの人が集っていた。やはり首都マニラは大都会でこの辺りを歩いても貧困とは無縁の風景ばかり。
そのまま散歩をしていたら歩道上で女性の二人連れに声を掛けられた。一人は若くて美人、一人はオバちゃん、道でも聞かれたのか?と思ったが、言葉が分からない。「ノウ・イングリッシュ」と言ったら「ナショナリティ?」と聞かれたので「ジャパニーズ」と言ったら、「この人日本語が少し話せる」と若い女性が言ってきた。そしてオバちゃんと日本語での会話が始まった。
「長野で13年前くらい働いていたことがある」「今も友達が日本人と結婚して日本にいる」というような話だった。そして「お茶でも飲もう」と誘われ午後4時前に道沿いの喫茶店に入った。旅の出会いも又楽しからずや・・・と。
私はホット・コーヒーを頼み、彼女たちは何かの飲み物とサラダのような物を注文した。そして「名前は?」とか「何処に泊まってる?」とか聞かれたり、簡単な日本語を聞かれたりしながら次には夕食も誘われた。
「これから予定があるから無理」と言ったら「じゃあ明日の夕食でも・・・」と言う。若い女性はスペイン系でホント美人だった。そして米国に留学経験があるといって「これはマイアミビーチで写した写真」と携帯写真を次々と見せてくれた。
サングラスを掛けまるで映画女優のようにポーズをとって。その彼女とオバちゃんは近所の友達らしい。友達?という、その二人の取り合わせは不思議だけどバッチリなのかも。何で日本のオッサンにそんな興味を持つのか?
オバちゃんが日本に行っていたし、日本語もカタコトだけど話すことが出来るのでオバちゃんは日本人と話しがしたいのか?若い女性は何でも好奇心旺盛なのかも?と、思いながら、まあ夕食くらい食べに行くのも面白いかもと・・・。
「美味しいパスタの店を紹介するから」と言うので「明日の6時教会附近で会おう」とオバちゃんの携帯電話番号を聞いて、その場で私の携帯から電話をし繋がるのを確認した。
そして5時にホテルに戻らないといけないので支払いを済ませ、料金は忘れたが無論私のおごり。30分ほどで彼女たちと別れて又来た道のマカティ通りを北に歩く。そこからは道が分かったこともあってキョロキョロ町並みを見ながらホテルに戻った。
ちょっとマニラの雰囲気に慣れて一番先に感じたのが両替店の多さにビックリ。あっちにもこっちにも、まあマニラの一部しか見ていないので他は分からないけど、私が歩いた場所にはどこともあっちにもこっちにも両替店があった。
それと次にジプニーの多さ。ジプニーは小型の乗り合いバスで停留所はない。どこでも手を上げたら停まってくれるとのこと。料金は初乗り8ペソくらいで、距離によって料金が加算されるそうだ。これもカラフル・度派手・ボロから新車風まで様々、型はみんな似てるが大きさも一様ではない。エンジンは日本メーカーの物のようだが、その他国内メーカー産らしい。両替店とジプニーの多さがマニラで最初に目に付いた。
5時前にホテルに戻って準備をした。
シャワーを試しに使ったら湯量も豊富で勢いもよくてラッキー。満洲の安宿ではお湯が出ることも少なく、湯量も全然期待できないのに比べたら五日間通していつでもバッチリ。バスタブは無いけど暑いマニラなので問題ないし。 -
中は吹き抜けの回り廊下に沿ってテナントが並ぶ
どことも同じ建物形式だ
日本・満洲・マニラ、その他、私の知る限り同じで
入って見ても、あんまり面白くもない -
フィリピンは東南アジアで唯一カトリック教徒が大半
宗教とは?人を救うのか?争いの種なのか?
私の心の拠り所
万世一系男系継承による天皇陛下の存在
八百万の神
ご先祖様
我が家は真言宗
我が家には神棚と仏壇がある -
常夏のマニラには
あちこちオープンカフェがある -
私に声を掛けてくれた二人
喫茶店にて
ちょっとポーズしすぎちゃう
ボカシてるけど分かるかも -
ホテルの近くのセブンイレブン
ここらへんにも両替店はアチコチにある -
祭りに出くわす
あちこちで行われるらしい
MABUHAY:マブハイ (タガルグ語でハローの意味)
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■「夕食&ニューハーフショー」へ
時間になったのでロビーに降りようと思ってドアを閉め鍵を掛けようと思ったが掛らず・・・。何度挑戦しても駄目でフロントに電話をしようと思ったが電話も不通。すでに約束の5時15分になってしまっていた。
仕方なく再挑戦、幸い鍵が掛ったのでホッとして降りていった。やはりMさんはすでに来ていてフロントの女性と話をしていた。彼女も何度も私の部屋に電話したそうだが出ないということだった。そりゃあこっちも電話を掛けようと思ったのに不通だったから。
表に車も停まっており空港から送ってくれた運転手だった。車中でMさんにいろんなことを聞きながら、どこをどう走ったのか分からないけど途中フィリピンの祭りの風景が車窓にあった。
ガイドのMさんは・・・。
「自宅からマニラまで2時間。バスで通勤、でも慣れている」「12歳の娘と母親と三人で暮らし」とのこと。家が遠いのには驚く、ガイドの仕事は朝早くからも多く、今朝も午前4時半頃から出勤したそうだ。凄い!ホテルへの送迎も多いそうだ。今日の夜は、私が今朝申し込んだので午後8時半に終わってそれから帰宅に2時間といえば夜11時頃になるのだろう。
「日本人とは戦前は仲良くやっていた」「戦争のために日本人に対して反感を持ったけど、今は日本人は好かれている」「韓国人は人気がない。韓国人は酔うとスケベの話ばかり。試食用の食べ物もみんな食べて買わない。」「でも韓国人よりひどいのは中国人。フィリピンの今の金持ちはみんな中国人。ただみんなこのフィリピンで生まれている」「道路や建物には、英雄か大統領の名前が付いている」
「金持ち政治家ほとんど中国系、今年初めて中国のニューイヤー(春節)が休みになった」「今のアキノ大統領は、アキノの息子さん。ノイノイアキノは泥棒じゃない。生まれた時から金持ちで、お金いらないから」「アロヨは泥棒さん、アロヨさんも生まれた時から金持ちなのにもっと欲しい。良くないね」「マニラはいつも渋滞。ナンバーが奇数と偶数で日によって市内に入れない。日曜日はどっちも走れる」
そしてまず夕食場所の「カーサ・アルマス(CASA ARMAS):573 Julio Nakpil street Malate」というスペイン料理店に着いた。まだ6時前で店はオープン前だったがMさんが交渉して、とりあえず店の中に入らせてもらい座席をあてがわれた。
入口を入ったすぐの窓際の四人用のテーブルに座る。白人二人が先客でカウンターに座っていただけで、他には誰もいなかった。帰国後ネットで調べてレストランがどんなレストランなのか、場所(リサール公園は北西1.2K)がどこなのか分かった。その時は狭い路地に面した「小さな店」だなあと思ったが、結構日本人旅行者が良く利用する店のようだ。
その時も日本の団体二組(8人くらいと4人)が午後6時を過ぎてから相次いで入って来た。まあそんな中で私は一人酒も飲まずひたすら食べるだけ。出された料理は、パンとスープ、その他一品+ステーキ。何か分からないけど美味かった。
最後のステーキは分厚かった。Mさん曰く「一人のツアーで料金も割高なので、それなりの料理を出してあげて」と店の人に頼んでくれたそうだ。それがステーキの厚さだったのかも?ちなみにテーブル上にキッコーマンの醤油が置いてあった。
一人でひたすら食うだけだから、出された物をさっさと食ってしまい。時間は6時半にもならずに食事タイムは終了。Mさんも運転手も外で待っていたようだが食事の形跡はなし。私がショーを見ている時にでも食べたのだろうか?聞くのを忘れた。 -
カーサ・アルマス(CASA ARMAS)で夕食を食べる
小さい店だけど結構人気店のようだ
スペイン料理 -
まだ時間が早いので店内はこんな感じ
カウンターに白人客二人
午後6時が過ぎたら次々と日本人グループが
韓国中国人でなくて幸い -
パンに何かのフライに
スープに
メーンは厚めのステーキ -
テーブルの上には
キッコーマン醤油がなるほど醤油味がベースなのか -
果物屋でりんごとバナナを買う
ここで韓国人グループが試食品を食って困らせていた
日本人にとって彼等と顔が似てるのが最大の不幸なり
我半島・大陸との国交断絶を望む
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■夕食後のブラブラ散歩
食事が終わっても、まだショーまで1時間くらいあるので、Mさんが果物を買いに付き合ってくれた。近くの大きな市場の前で車を停めてバナナとりんごを買う。そして隣の薬局でペットボトルの飲料水二本¥36ペソ。
そして車に戻ろうとしたらMさんが、私に「見て見て」と言うので、Mさんがいう方を見たら、さっきの果物屋で韓国人グループ数人が試食の果物を食べて店のオバちゃんを困らせていた。韓国人グループはニヤケタ顔で籠に入った試食の果物をみんなで食っていた。
見ても気分の悪い光景だった。ニューハーフショーも日本人より韓国からの団体旅行者が圧倒的に多かった。駐車場に大型バスが数台並んで停まっていた。日本からの旅行者は大概10人未満の少人数単位だ。
Mさんの話
「“MPT・ホテル”はタクシーの運転手も知らない。この運転手もどこ?と言っていた。私も初めて」「タガログ語で“もったいない”という言葉はある。“サアヤン”」「一番のホテルはマニラホテル。でも今は七星ホテルも出来た」「あの建物は文化センター、イメルダ夫人のお陰。でも建てる時に事故があって、何人か、7人くらいが死んだけどそのまま立てたからお墓になっている。噴水の高さでイベントの大きさが分かる。」 「タクシー乗ればドアロックをして下さい」「イメルダさんは、おばあさんだけどまだ綺麗」
まだ時間がたっぷりあるので、巨大ショッピングモール
「モールオブアジア:愛称はモア/ MOA」に案内してくれた。
午後7時頃の日曜日、沢山の人で賑わっていた。さすが1000万都市で30万都市の明石市とは違う。東京や大阪の景色もこんなのか?と思う。続々と人が歩いていた。ここには大型の観覧車もあり、それぞれの建物の入り口には男女の腰に銃を携帯した警備員が左右に立って一応のチェック?らしきものをしている。でもまあ素通り。
ちょっと中を歩いただけで、すぐにコーヒーショップで、Mさんと休憩しをしながら話を聞く。
「日本以外はマレーシアとシンガポールに観光に行った」「日本への観光はまだ普通のフィリピン人は出来ないので日本への添乗の仕事は無い」 「70歳代のフィリピン人の主人を持った日本人女性ガイドもいる」「運転できるけど車を盗まれて今は無い」「ヒュンダイは日本の車ではないですか??」・・・等々。 -
昨年の12月にオープンした観覧車
8日に乗ったけど大したことなし
こうやって見てるだけでOK -
入口には銃を携帯した警備員が配置されている
治安・雇用対策のようだ
給料はあまり良くないとのこと -
この喫茶店でコーヒーを
いろんな話を聞きフィリピンのことが少し分かった -
タイ:バンコクのニューハーフショーには感動した
ここはどうなのだろう・・・と
期待して入場する -
タイのマンボのニューハーフショーとは次元が違った
似せる努力は認めるが・・・
全部おんなじ顔だったし
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■「Amazing-show:アメージング・ショー」
http://amazing-show.com/intro.php:「Amazing-show:アメージング・ショー」
時間が来たのでMOAを出て海沿いを北に走り「ソフィテル・フィリピン・プラザホテル」の南隣にある劇場に行った。Mさんが切符を買ってくれた。
最前列の数列以外は全部自由席。天井の高い大きな劇場に客はすでに中央前から半分くらいが座っていた。通路側に一席だけ空いているところがあったので座った。隣は韓国人オバちゃんたちがずらーと並んで座っていた。
日本人旅行者も来ていたと思うけど、韓国人の団体がこんなに多いのか?と驚く。韓国通貨ウォンは日本円1円に対して14ウォンと、ここまで安くなっているのに海外旅行もさぞかし大変だろう。
「サムスン栄えて不幸になる韓国経済」三橋 貴明 (著)を読んだが、世に言う「グローバル」とはグローバル企業にとって益になるだけで、国民にとっても国の将来にとっても幸を招くものにあらず。 これだけのウォン安こそがその証だろう。サムスン?が世界を席巻?一体中味はどこの誰だ?
日本もこぞって大企業はグローバルの名の下に、外国人社員を増やし海外生産も増やしているが、その将来は日本企業ではなくグローバル企業となる。外国籍社員が多数を占め外国企業同様となれば、その中味は日本文化のない会社となる。いくら頭が良くても良い物作りは出来ない。物づくりは文化だ。会社も文化だ。
東京商工リサーチ社の調べによれば『創業百年を超える日本企業は全国で2万1千社を数えるという。欧米全体を足しても、それだけの数の超長寿企業は見つからない』・・・これこそが日本の良さであり、これを失くせば将来は暗い。
グローバルなんて糞喰らえ。会社は株主のものではなく社員の物だ。今、外国籍社員を重用し増やしている会社は長寿企業になれない。歴史が証明している。超長寿企業は日本文化の継承によってこそ成り立つ。グローバルは日本企業の終わりの始まりだ。
私の感動順位
1番:新疆ウィグルのウルムチで見た民族舞踊ショー。2番:タイのマンボのニューハーフショー
このタイのニューハーフショーの感動よ、今一度と期待して見たけど開演即諦めた。
確かに似せようとの努力は感じるけどレベルが違う。宝塚のショーのような構成もあったが、まだこれならオリジナルな出し物を考えた方が良い。高いだけで全てが出来の悪い偽者だった。出演者もそんなに美人でも可愛くもなく。タイで手術をしているとのことだったが・・・。番外なり。
9時過ぎ終演。外で待っていたMさんに「面白くなかった」と言ったら、「そうでしょう」とあっさり
車中でまたMさんの話を聞きながらホテルへ戻る
「年金は日本と同じ。私も払ってます。最近65歳からもらえる。日本の真似かも?」「フィリピンの寿命は短い」「若い時お父さんはサウジアラビアに働きに行っていた」「お父さんは、アラブ語はしゃべれるし読める」「お父さんにたまに会っている」・・・等々。 -
面白くもなく喧しいだけ
命懸けの身体改造なら、もっと芸も磨いて欲しい -
ぞくぞくと出てくるのは日本人ではない
竹島は日本の領土であり
必ずいつの日か奪還する
アメージング・ショー
http://youtu.be/f_9gg3jfyd0 -
果物ナイフ
Mさんがフロントに頼んでくれた
“りんご”はコンビニに売っていた
それもレジのすぐぞばに
みんなが普通に食べる果物のようだ
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■長い一日は終了
9時40分頃部屋に到着。
今日は午前4時50分に起きて、日本時間10時40分まで明石〜関空〜マニラと大移動し、マニラをウロウロした。長〜い一日だったが充実して楽しかった。
明日は朝9時ロビーで待ち合わせて、半日市内観光をする予定。
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