2018/04/11 - 2018/04/15
6748位(同エリア11182件中)
明石DSさん
2018/4.11.11:55
「トラ トラ トラ」:機内より真珠湾を望む
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ハワイ・オアフ島
真珠湾を訪ねる
2018:平成30年4月11日(水)~4月15日(日)
3泊5日
はじめに
67才、38回目の海外旅行はハワイ・オアフ島。真珠湾を見に行く旅だ。HISを利用して3泊5日「価格に自信、ハワイ5日間」。ツアーで一番安い日時を選ぶ。一人部屋追加料金含め(¥100,200)と「ダイヤモンドヘッド・ハイキング&パールハーバープラン(¥17,600)」を合わせて¥117,800円。それに食事代や土産(ネット購入8千円ほど)を含めて15万円ちょっととなった。
敗れたとはいえ日本史に燦然と輝く大東亜戦争。その劈頭の戦いとなった帝国陸軍:マレー半島上陸からの快進撃と帝国海軍:真珠湾攻撃。この旅に先立ち関係本を読み真珠湾攻撃と大東亜戦争を改めて考えた。
読んだ本の一冊に「真珠湾攻撃総隊長の回想」淵田美津雄自叙伝がある。その中に興味深い一節があった。戦後米国人記者から真珠湾攻撃総隊長として質問攻めにあっていた淵田が、ある日三人の黒人兵に郵船ビルのバーに連れて行かれ、そこにいる多くの黒人兵から大歓迎を受けた。
「何故歓迎されるのか?」といぶかしがる淵田に黒人兵から「真珠湾空襲を誰が一番喜こんだと思うか?」との問い掛けがあった。「真珠湾で小気味よく白人の横面をなぐり飛ばしてくれた。我々黒人は溜飲を下げた。そのお礼にサービスする。日本人との交歓は禁止なので、こんな楽屋裏で我慢してくれ」とのことだった。
当時の世界情勢は白人絶対優位の世界であり、有色人種国家のほとんどは植民地下にあった。日本だけが白人列強に伍してギリギリのせめぎ合いの中踏ん張っていた。そんな日本を白人たちはどう思っていたか?想像力があれば誰しも分かるはずだ。この真珠湾攻撃も米軍はジャップごときに出来るはずもないと舐めていた。
まさに乾坤一擲の開戦であり戦い敗れたとはいえ先人たちは世界を大きく変えた。誰が何と言おうが私は敗戦のその日までの日本と日本人に万感の敬意を表す。
しかし敗戦後の日本国と日本人の性根は底なし沼に沈んでいくかのように腐り始めた。真珠湾攻撃から77年、もう何がまともで何がおかしいのかさえ分からなくなっているように思う。
日本人としての誇りを取り戻し、子孫の為に日本と言う国を立て直せ!
これは旅行記にあらず。わが能書き也。
思いのままを書き連ねる。同じ事を百回でも千回でも。
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目 次
(1) 4月11日(水)関空~ハワイへ、ハワイ出雲大社
(2) 4月12日(木)ダイヤモンドヘッドと真珠湾へ
(3) 4月13日(金)ホノルルタワー・ワイキキビーチ観光
(4) 4月14日(土)15日(日)ホノルルから午後帰国へ
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
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真珠湾攻撃
真珠湾攻撃への航跡図
空母6 戦艦2 重巡洋艦2 軽巡洋艦1 駆逐艦9
昭和16年11月26日8時、南雲機動部隊は
ハワイへ向けて単冠湾を出港した
他:特殊潜航艇5隻 未帰還5隻 戦死9 捕虜1 -
海軍航空隊:真珠湾への進入路
第一波 艦戦43、艦爆51、艦攻89、計183機
第二波 艦戦36、艦爆81、艦攻54、計171機
未帰還機29機 損傷74機 戦死55 -
初夢フェア2018 価格に自信!ハワイ5日間
1名様【旅行代金】59,800円 一人参加ゆえ【請求金額計】100,200円
「ダイヤモンドヘッド・ハイキング&パールハーバープラン(¥17,600)」
合計 ¥117,800円なり
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1日目:4月11日(水):晴れ
出発・関空からハワイ・オアフ島へ
2018.平成30年4月11日(水)
■「3泊5日の旅」:いざ出発!
今年の最初の海外旅行は当初ロシアで開催のサッカー“W杯”観戦ツアーのつもりだったが料金予想を知って早々に諦めた。格安弾丸ツアーもあるはずだがそこまでの情熱も体力もなくテレビ観戦にした。
そして「何処に行こうか?」と考えていた時に、HISの「初夢フェア2018 価格に自信!ハワイ5日間」をネットで見つけ「良し!真珠湾を見に行こう」と1月10日にネット予約をした。
料金は
【旅行代金】59,800円 × 1名様
【日本国内空港使用料】2,730円 × 1名様
【一人部屋追加代金】30,000円 × 1名様
【現地税】7,360円 × 1名様
【諸税等】310円 × 1名様
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【請求金額計】100,200円
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択捉島単冠(ひとかっぷ)湾に集結
千島列島南部 沖縄本島のおよそ2.7倍
日本固有の領土 いつの日か必ず取り返す
http://88231173.blog.fc2.com/blog-date-201302.html
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■真珠湾への道
ハワイ観光と言っても「真珠湾:パールハーバー」を見に行くのが主目的だが、一昔前は芸能人が年末年始に押しかけ海外旅行の象徴のような「一体ハワイってどんなとこ?」一度は行っておこうという興味本位もあっての旅だった。結果・・・やっぱり一人で行く場所ではなかった。
三泊五日といっても正味まるまるは二日、出発当日は午後11時25分(発)のエアアジア「D7002便」なので初日は無きに等しい。真珠湾攻撃はあまりに有名でそれなりに知っているのと老いて体力気力衰えてなのか下調べも進まず。出発間際になってやっと集中して資料作りをした。
旅立ちのその日(水曜日)、いつものように午前中は卓球教室に行く予定だったが前日の10日、二ヶ月に一度参加している卓球の試合初戦(個人戦)で治り掛けていた左足太モモの肉離れが再発し教室は休んだ。
http://pingpong.sports-hyogo.com/#
試合は初戦は痛いながらも「3:1」で勝ったが二戦目は「2:3」のフルセットで敗け、3戦目は「3:2」で勝利するも三つ巴で得失点率2位となり8部から7部への昇格ならず。かくして左足太モモの痛みで不安を抱えてのハワイ出発となる。
昭和16年秘匿の上で過酷な訓練を続けて来た海軍航空隊の面々及び機動部隊の全乗員は、秘かに集結した択捉島単冠(ひとかっぷ)湾において11月22日、南雲司令長官より真珠湾空襲を伝達され皆が喝采を上げたそうだ。その様子が目に浮かぶ。 -
栄光の帝国海軍 南雲機動部隊 単冠灣に集結す
いざ真珠湾へ! 旗艦 赤城
空母6隻 戦艦2隻 重巡洋艦2隻 軽巡洋艦1隻 駆逐艦9隻 -
明石海峡大橋のライトアップを右手に見て
国道2号線をポートアイランドに向かって走る
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■関空へ
平和とは似非平和であってもありがたきかな。とはいえ国家の存亡を賭して戦いの場に挑む高揚を我は露も知らず。果たしてどちらが幸福なのか?どちらが生まれた甲斐があるのか?「似非でも良い」「今が良い」と心の奥底の答えは決まっている。でも面白くない。惨めに過ぎる。
出発前の写真を我が家で嫁に写してもらい、そのデジカメ画像を見て「こんな“オジン”俺ちゃうやろ~!」「いやそうやで、そんなんや、そのままや」と、いつもながら家内に冷たく言い放たれ溜息。
車にトランクを積み自宅出発は午後6時22分。国道2号線を東進しライトアップされた明石海峡大橋を右に見てポートアイランドへ向かう。
今回も関空へのアクセスは駐車場何日でも無料の“ベイ・シャトル”。到着は午後7時32分。なんと初めて乗り場傍の駐車場に一台空きがありそこに停めることが出来た。往復¥3,000円のチケットを購入、復路も使用できることを祈る。
8時出航の便に客はまばら、赤字を思うが潰れずにいてもらいたい。天気まあまあなれど風強く波高し、船は大きく上下し波が船底を叩きつけ木の葉のように翻弄される。
酔わないように中央部に座った。自然の前に人間の力などいかに儚いものか?それでも人はあくなき挑戦をして立ち向かう。こんなちっさい人間がよくもまあ・・・ホンマに凄い。 -
ポートアイランド “ベイ・シャトル”駐車場
たまたま一台の空きが出て初めて直近の駐車場に停める -
ベイ・シャトル”待合室で午後8時発を待つ
乗客はゼロではない。いつも誰かいるのが不思議? -
船に乗り バスに乗り 飛行機に乗る
ハワイまでの道遠し -
関空に着き、船乗り場からターミナルまでのバスに乗る
健康だからこそ旅が出来る 何てラッキーなことか! -
泉州銀行で2万円を両替 183ドル≒109
手持ちと合わせて300ドル 帰国時残金6ドル
約3万2千円何に使ったのかなあ・・・
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■関空に到着
関空国際線乗り場4階ターミナルに出発2時間以上前の9時前に到着したのに、すでにエアアジアの搭乗手続きは始まっており長蛇の列だった。先に両替をとHISの割引券があった泉州銀行で2万円両替。米ドル183ドルと若干のお釣り。手持ちと合わせて300ドルほどを持って行く。帰国時の残金は6ドルと小銭だけ。
機内持ち込み可能なトランクだったが行きは早く出ても早く帰れないので預けた。さすがにLCC(格安航空)でのハワイ行き、ビジネスorファーストクラスに乗る客は別にして普通はまず安さで選ぶ。我生涯を通じて普通でない人になれず。最早人生最終盤この先もまずその見込みはない。“宝くじ”一等当選だけが不可能を可能にする。
搭乗口は39番、座席は29A。窓側とのこと「やったァ~!上空から真珠湾を拝めるぞ!」。長時間のフライトでトイレ行きもままならないが、それより窓から真珠湾に突入する気分が味わえる。
これぞ今回の旅の醍醐味であり今回の私の旅のハイライトでもある。昭和16年12月7日(日) ハワイ時間午前7時55分「急降下爆撃隊がフォード島ホイラー飛行場へ250kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となった」
窓側座席になったのは天の恵みだ。開戦初日の攻撃は大成功だが「第1航空艦隊の航空機搭乗員、戦死55名」「第6艦隊(潜水艦部隊)の特殊潜航艇搭乗員、戦死9名(捕虜1名)合計64名or65名」が戦死した。
その中には攻撃中に被弾し僚機に燃料漏れの手信号を送り、部下を母艦への帰投進路に向けたあと手を振って別れを告げ自らは引き返してカネオヘの飛行艇格納庫に突っ込み自爆した飯田大尉(海兵5番で卒・28才没)もいる。米軍はこの行為を称賛し四散した遺骸を棺に納め丁重に埋葬している。
エースパイロットとして戦後生き残り「修羅の翼」を記した角田和男中尉は著作の中で飯田大尉のことを『私の十一年半の海軍生活の中でただ一人だけ、この人とならいつ、どこで死んでも悔いはないとまで心腹していた士官だった』と書いている。その角田が飯田大尉の自爆を聞き、列機はどうだったのか?と疑問と不安を感じた。
それは『当時の私たち搭乗員の心情では、自分の隊長が自爆すれば、列機も当然後を追って自爆すると信じていたからである』とし、後になって飯田大尉の列機二番機:厚見峻一飛曹、三番機:石井三郎二飛曹も共にその日未帰還になっていたことを知った。角田の不安は的中していた。言葉にならず、是非を越えた絆がある。
その他にも蒼龍艦爆(二人乗り)隊の丸山賢治三飛曹と桑原秀安二飛曹もカーチス(水上機母艦)に体当たりし散華した。平野崟一飛曹(零戦)も被弾しカメハメハ要塞(Fort Kamehameha)の兵器庫の前に突入している。彼らの三倍生きてる我。
飯田大尉のことは聞いたことはあったが、丸山・桑原・平野・厚見・石井飛曹、その他戦死者の年齢も経歴も何も知らない。戦争を回避することに最大限の努力は必須だが戦争は「悪」でなく犯罪でもない。
国土や国民の命・財産を守り、民族の誇りと名誉を掛けて戦うことは人としての責務であり最も崇高なことだ。日本に英雄綺羅星の如くあり、しかしそのほとんどは誰も知らず。罪なり。
真珠湾攻撃当日の米軍戦死者は2345名、米西戦争・第一次世界大戦合わせての戦死者数より多い。ハワイの民間人の死者68名は日本軍の意図した攻撃ではなく巻き添えや味方米軍高射砲弾の落下によるものだそうだ。
米国白人の屈辱は想像できる。そして黒人や有色人種の喝采も想像できる。人はみんな感情で動く、理性理屈はすべて誤魔化しだ。 -
ハワイ行きエアアジアのカウンターは未だ長蛇の列
D7001便 運命を共にする乗客たち -
最近の日本人はマスク姿が多いけど
http://zapzapjp.com/52996287.html
私自身は着用したことがない・・・ことはないけど 記憶にない
日本人の潔癖性なのかも?だが、これは普通ではない異常だ! -
昭和16年12月7日 真珠湾 日本軍かく戦えり!
真珠灣攻撃当実の日本海軍機から撮影されたフォード島周辺
黒い点は飛行中のゼロ戦 -
カネオヘの飛行艇格納庫に突っ込み自爆した飯田房太大尉 没年28才
飯田大尉の列機二番機:厚見峻一飛曹 三番機:石井三郎二飛曹
飯田隊長の後を追い二機共にその日、自爆し未帰還
「真珠湾攻撃部隊一覧」
http://kitabatake.world.coocan.jp/rikukaigun36.html
https://ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/entry-12232702993.html -
飯田房太大尉の遺体を埋葬する合衆国海軍兵士
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飯田大尉突入地点に建立された記念碑
二番機厚見峻一飛曹 三番機:石井三郎二飛曹
隊長に続いた二人は一体どんな青年だったのか? -
角田和男中尉(享年94才)
支那事変からゼロ戦搭乗員として最前線で戦い続け
特攻要員になるも奇跡的に生きて終戦を迎えた
真珠湾で自爆した飯田大尉を尊敬していた
角田和男(著)「修羅の翼」は感動の名作 -
カーチス(水上機母艦)
蒼龍艦爆隊の丸山賢治三飛曹 桑原秀安二飛曹が
急降下爆撃隊 九九式艦上爆撃機(二人乗り)で
対空砲火で機が損傷しカーチスに体当たりし
クレーンとアンテナを破壊した -
平野崟1飛曹の搭乗機
空母「赤城」第1次攻撃隊 第2制空隊第1小隊2番機・平野崟1飛曹
制空隊は零式艦上戦闘機(ゼロ戦) 一人乗り
第1次攻撃に参加した空母「赤城」零戦隊唯一の未帰還機 -
エアアジアX D7001 搭乗口はNo39
空港では搭乗口に来るとホッと一息
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■ハワイへ飛び立つ
午後9時前に関空に入りホノルル行きの39番搭乗口前に来たのが午後10時半頃、窓側座席に午後11時着席。さあこれから長~い機内での我慢が始まる。機内は見渡す限り人人で空席らしきは確認できず。私の横は20~30代と思しき二人の日本人女性が座ったが言葉を交わしたのは一度トイレに立った時の「スミマセン」だけだった。
もっともっと昔は隣席の人に話しかけることも多かったが、もう数年前からこちから話し掛けることはしなくなった。何もかもが面倒なのだ。座席モニターがなく機内ではひたすら老眼鏡を掛けて資料を読んで時間を潰す。疲れたら目を閉じ眠る。3時間くらい経過し窓外を見れば日ノ出なのか水平線上がオレンジ→白→水色→紺と美しいグラデーション状になっていた。
そして離陸4時間くらいして思いがけず嬉しいことがあった。ツアー料金に含まれていたのか機内食の予約がされていた。隣席の女性たちも同じHISツアー仲間なのか三人に配られたので気兼ねなく食べることが出来、大いに気分転換になった。格安航空といえども予約など関係なく料金を少しアップしてでも機内食は全員に出して欲しい。
デジカメ時間をホノルル時間に変更する。ハワイと日本との時差はマイナス19時間。時差の簡単計算は「日本時間+5時間-1日」4月12日午前4時42分が4月11日午前9時42分になる。日付変更して前日に戻るのは初めての経験。腕時計も巻き戻して現地時間に合わせた。 -
定刻 23:25分(発)
搭乗口前は乗客で一杯 ハワイへ行く人帰る人
それぞれの事情で今ここにいる -
見渡す限り空席はないようだった
ハワイへと、この日この便を選んだ者たち -
夜明け間近 美しい
空で空を見る -
エコノミーで長時間の空の旅
どんな食事でも気分転換になる
他にも、より快適に過ごせる工夫はないのかなあ? -
ホノルル到着20分前
真珠湾が近づけど雲海に阻まれ海面が見えず
焦りながら祈る気持ちで窓外を見つめてた
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■真珠湾が見えた! トラ トラ トラ(我奇襲に成功せり)の発信
そして食事から2時間が経過し着陸態勢のアナウンス後も見えるのは雲海ばかり。私にとってこの旅のハイライトになる機上からの真珠湾の眺望が「どうなることか?」とハラハラしていたが機は高度下げ雲の下になった午前11時47分頃にオアフ島バーバース岬、そして真珠湾が見えて来た。
淵田美津雄中佐が第一波攻撃隊の先頭で九七式艦上攻撃機(三人乗り)の中央席で昭和16年12月7日午前7時30分過ぎに操縦席の松崎大尉に「下を見ろ海岸線だ」「ハーイ海岸線です」「松崎大尉、ここはカフク岬の上空だ。今から右に変針して、海岸線に沿うて島の西側に廻れ」「ハーイ、右に変針します」
「隊長、真珠湾が見えます」「ウン、見える。針を南に変えて、バーバース岬にもって行け」・・・淵田:「私は双眼鏡をとって真珠湾を注視した。予想通り戦艦8隻、ジーンと熱いものがこみ上げて来くるのを覚えた」・・・後部席の電信員、水木兵曹を顧みて「水木兵曹、総飛行機あてに発信、全軍突撃せよ」
「時は12月7日午前7時49分であった。ここまで持って来れば、あとの戦果を見届けんでも、飛行機隊の腕には自信がある。よし報告を急ごう・・・と、私は思った」「水木兵曹、甲種電波で発信、我奇襲に成功せり」「ハーイ、隊長、トラトラトラの発信、赤城了解しました」
時に午前7時53分、全軍突撃を下令してから4分後であった。このトラトラトラの発信は、東京の大本営も、広島湾の戦艦長門でも直接受信したそうだ。かくして対米戦争の火蓋は切られた。ふ~んそうだったのか、我奇襲に成功せりの発信は、攻撃前に出していたのか・・・。
その真珠湾が左手方向に見える。小さなデジカメ動画のスイッチを押したまま窓に額をこすりつけるように真珠湾を見続けた。きっと周囲の乗客には「変な“オジン”」と思われていたと思う。フォード島が見えた。翼が邪魔なのと双眼鏡もないので停泊する軍艦の姿も分からなかったが全体はなんとか分かった。
オアフ島が確認出来たのは午前11時47分頃、そして着陸直前、真珠湾が見えなくなったのが午前11時58分。この間の11分で十二分にこの旅の満足感に浸ることが出来た。「我も真珠湾奇襲に成功せり」・・・今日の天気と29A窓側座席を与えてくれた天の配慮に心から感謝する。 -
第一攻撃隊:ハワイ時間7日午前7時30分
淵田中佐:「松崎大尉、ここはカフク岬の上空だ。
今から右に変針して、海岸に沿うて島の西側へ廻れ」
「ハーイ、右に変針します」
「隊長、真珠湾が見えます」
「ウン、見える。松崎大尉、針を南に変えて、バーバース岬にもって行け」 -
真珠湾間近
淵田中佐(九七式艦上攻撃機 三人乗り 松崎:淵田:水木)
「私は風防を開いて座席に立ち上がった。
一番近いところにいる赤城水兵爆撃隊第一中隊第二小隊長の
岩井健太郎大尉がニコニコして、手を振って挨拶した。
どの銀翼も、朝陽を一杯に受けて輝いている。
私は丹念に、それを一機ずつ数える。
第一波空中攻撃隊百八十三機、一機の落伍もない。」
トラ トラ トラ -
やったァ~!雲が切れた
オアフ島が見えた
あれがバーバース岬か -
真珠湾が見えたぞ! そうかこれが真珠湾か
淵田中佐:午前七時四八分
「私は双眼鏡をとって真珠湾を注視した。
いる、いる、三脚マスト、籠マストの戦艦どもである。
私は一つ、二つ、三つ・・・と、目で追って胸で数える。
予想通り、戦艦八隻、全力の在泊であった。
私はジーンと熱いものが、込み上げて来るのを覚えた」 -
淵田隊長機
敵の対空砲火は、水兵爆撃隊先頭の第一中隊に集中する。
高度はわずか三千米である。
私は、これはやられるわいと思った。
ピシリッと音がして、飛行機がグラリと揺れた。
松崎大尉(操縦)が聞いて来た
「隊長、どこをやられましたか」
水木兵曹(電信)が答えた
「左舷胴体後部に弾片があたって穴をあけました。
操縦索が切れて、ストランド(鉄製のワイヤー)一本でもっています。
補強しようにも手が届きません」
「松崎大尉、操縦索が切れかけている。急激な操作をやるなよ」
「ハーイ、心得ました。今のところ操縦に異常ありません」
「ヨーシ」 -
機上から真珠湾を一望することが出来た満足なり!
日米決戦!大東亜戦争は日本人にとって誇りだ
日米開戦は米国が仕掛けたことであり米軍も想定内だった
なれど日本軍を見くびり、米軍は事前情報多々あれど準備せず
白人支配の世界に渾身の一撃を加えた。痛快なり! -
ダニエル・K・イノウエ国際空港
(旧名称はホノルル国際空港)
イノイエは21才の時、442連隊少尉としてイタリア戦線で
ドイツ軍との戦闘において勇敢に戦い右腕をなくす
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■イノウエ空港に着いた
「ダニエル・K・イノウエ国際空港」に午後12時無事に着陸し私のハワイ旅行のハイライトも早々に終わった?
イノウエは第二次世界大戦で日系人部隊の第442連隊戦闘団の士官として小隊を率いヨーロッパ戦線で戦い右腕を失った。右腕を失ったことで戦後、当初目指していた医学から政治の道に進み日系人初の上下両院議員となった。
空港建物は古びた感じで世界最強米国の顔とは思えず。近い将来私は米本土に足を踏み入れることがあるのか?今まで大統領選挙投票権ナシの米国「自治領:サイパン」と「準州:グアム」には行ったが、アメリカ合衆国の州には初めて入ることになった。
ハワイは私が9歳の1959/昭和34年8月21日アメリカ50番目の州になった。飛行機から降りウィキウィキ・エキスプレスというバスに乗ってメーンターミナルへ。
入国審査に時間が掛るのでは?と覚悟していたが、さにあらず両手指の指紋と顔写真を撮られるがあっと言う間というくらいスムーズだった。“おっちゃん”審査官に日本語で「何日滞在?」と聞かれ「ファイブディズ」と答えた自分に苦笑い。
トランク受け取り場所に着いたらすでにトランクは出ていた。そうか・・・バスに乗ってメーンターミナルに着くまでの時間が長かったからなのか。床に並べて置いている沢山のトランクの中から探すのに一苦労。そして案内所で教えてもらって「HISカウンター」に辿り着いた。
初めてのハワイ旅行、英語も話せず。なので少し不安はあったが・・・結論「そうかこれがハワイか」というくらい日本人旅行者にとって至れり尽くせりのリゾート地だった 。
HISツアー参加の何人かの同乗者と一緒に空港から小型バスでスタッフの説明を聞きながらワイキキに向かう。 -
11日の夜中に日本を発ち、11日のお昼にハワイに着いた
日付変更線を越えるのは初めてでなんかおかしい
これを時差ボケというのだろうけど -
ウィキウィキ(WIKI WIKI)・エキスプレスに乗ってターミナルへ
-
空港のHISの案内カウンターに到着
ツアーでの旅行はホント助かる
これで一安心 -
この小型ワゴン車に乗って市内へと向かう
中で説明を聞いたけど・・・いつもながら良く分からない -
二昔前まで「憧れのハワイ!」だったと思うけど
今では誰もが来れるハワイになった
「へぇ~これがハワイか・・・」と車窓の景色を眺めながら -
ロイヤル・ハワイアンセンター
https://goo.gl/maps/AT6ZfKp9GZF2
ここがハワイ滞在中の私の行動拠点になった
ワイキキが私にとってのハワイ
テーマパークに入場するが如くなり
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■ロイヤル・ハワイアンセンターにて
HISの拠点のあるロイヤル・ハワイアンセンター3階に到着。
日付変更線を越えての移動で何が何だかピンと来ないままオアフ島観光の中心部に着いた。出発と同じ11日(水)のお昼・・・か。ホテルへのチャックインもせず、時差ボケを感じる余裕もなく、ここからのいきなりの自由時間。分かっていたけど、さあどうしよう?から始まった。
今日の私の観光予定は、「ハワイ出雲大社」と、その近くにあるはずの「カメハメハ大王像」と「イオラニ・パレス」・・・「どうやって行こう?」と、分からぬまま現地に来たがHISのサービス「LeaLeaトロリーバス」がすべてを解決してくれた。「ふ~ん、ハワイにはこんな便利なものがあるのか!」と。
https://www.his-j.com/tyo/tour/hawaii/only_trolley.html
結局ハワイ滞在中の一人移動は歩き以外はすべてこのバスを利用した。バスに乗って出かける前に、まず昼飯を食べようと2階に降りた。そこには「フードコート」すなわち『セルフサービス形式の食事のための屋台共有スペースを提供する屋内型広場』がある。
やはり私の感覚はアメリカといえばファーストフード。ファーストフードといえばハンバーガーだったが、けっこうな行列が出来ていたので、並んでいる人が少ない店を選んだ。Pho Factory(フォーファクトリー)という店でベトナム料理。
そうか・・・ラーメンに見えたのはフォーだったのか、その時はベトナム料理の店だと知らなかった。私が頼んだのは鶏肉料理10.9ドル(1188円、1ドル≒109円)とコーラで合計¥12.14ドル(1300円)。量は多いけどやっぱり日本より割高感はする。味はまあまあだったけど全部食べ切れず。
腹ごしらえをし、ハワイ出雲大社へ向かう。HISの案内カウンターで教えてもらい一階のバス乗り場へ。沢山の人がコース別に並んでバスを待っていた。私が並んだ「ダウンタウンライン」が一番人が多かった。
http://www.lealeaweb.com/trolley/downtown.html -
「H.I.Sホノルル支店」
http://www.lealeaweb.com/
ロイヤル・ハワイアンセンター3階
滞在中何度ここに来たことか 来るたびに
無料ドリンクバーでジュースやコーヒーを飲み
小休止をして また出掛ける 心強く有難い場所 -
ハワイ初の食事は ロイアル・ハワイアンセンター2階にて
待っている人の少ない店がここだった
ベトナム料理の店だとは知らずに
https://tabelog.com/hawaii/A6001/A600101/60000326/ -
ロイアル・ハワイアンセンター2階のフード・コート
セルフサービス形式の店が並んでいる
注文し席を確保し、呼ばれるのを待つ -
Fride Rice(チャーハン)\10ドルとソーダ水\1.5ドル
写真の見た目より実際は量が多い 食べきれず捨てる -
早速観光へと向かうが今自分がどこにいるのか?ピンと来ず
“レアレアトロリー”ってのがホンマに便利だった
ハワイ出雲大社参拝へ いざ出発”! -
バスはほぼ満席で出発
走り出したらすぐに帽子を脱がないとヤバイのが分かった
早速ハワイ観光スタートとなる
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■ハワイ出雲大社参拝へ
午後2時13分、レアレア(LeaLea)トロリーバスは出発。長時間の飛行機の疲れや時差ボケもあり夢うつつで右も左も何も分からないまま、とりあえず座席に座った。気分はさっきまで明石にいたのにいきなりハワイ。瞬間移動で何が何だかわからぬまま目をパチクリしている
バスにはガイドさんがいて観光案内をしてくれる。ガイドは日本人の60代とおぼしき女性。座って最初に言われたのが「帽子が飛ぶので脱いでおくように・・・」だった。バスが走り出してその言葉にすぐに納得。突風のような風が時折来る。
初のハワイ、オアフ島。「ふ~ん、これが芸能人が集まり、みんなが憧れるハワイなのか」と、そしてガイドさんがカイウラニ通りに立つ「プリンセスカイウラニ像」の説明で「明治天皇の甥御さんとの縁談話があり、もし結婚されていたらハワイは今と違ったハワイになっていたかも・・・」との話しが印象に残った。
「一体それは何なのか?」と帰国後ネット検索したらその時の顛末が分かった。『カラカウア王の提案』によれば・・・。
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/hawaii.html
(抜粋)
『日本人によるハワイへの移民は、何と開国して間もない明治元(1868)年に始まっていたのです。それ以降も日本移民は年々増加し、明治23(1890)年にはハワイ総人口の何と40%が日本移民と言う迄になっていたのです。
そして、カラカウア王が日本人を選んだ理由はもう一つありました。当時のハワイには日本移民だけでなく、アメリカ本土からやって来た白人もかなりいました。しかし、彼らはハワイのめぼしい農地を次々と手に入れ、安い労働力(主に日本移民)を奴隷の如く酷使して莫大な富を得ていました。
更には、ハワイの政治に迄口を出す程に増長していたのです。カラカウア王からすれば、よそからやって来たにも拘わらず、我が物顔でのさばる白人資本家よりも、安い賃金にも我慢し勤勉実直な日本移民に好意を抱いても不思議ではありません。カラカウア王はそんな日本移民を見込んで、新たな「ハワイ人」にしようとしたのではないでしょうか?』
なるほどそうか・・・。明治天皇が丁重に断った為にこの提案は実現しなかったようだが、今にして思えば残念という気がする。朝鮮併合は朝鮮人の資質を思えば痛恨の失敗であり今も腹立たしさしかないが、当時のハワイとの連邦は双方にプラスになったのではと思う。 -
プリンセスカイウラニ像
「カラカウア王の提案」というのを
ガイドさんの説明を聞いて初めて知った
ハワイとなら日本との連邦が成立してたら良かったのにと思う
『ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4』
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-178.html -
ハワイ人種別人口 日本人比率
明治32年39.7 昭和15年36.8 昭和28年40.4 こんなに多かったのか
http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/47/view/6229 -
アラ・ワイ・ゴルフ・コース
世界一混んでるコース?便利で平坦で市営で
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■ハワイ出雲大社参拝
バスはゴルフ場を右手に見ながら走り、アラモアナ・ショッピングセンターで多くが下車した。でも驚いたのはハワイ出雲大社で降りた人も多かったこと。ハワイに来て神社へ参拝する日本人観光客が多いのに「へぇ~、戦後日本人も徐々に自らのアイデンティティーに目覚めつつあるのかも」と素直に嬉しい。
そして、すでに参拝を終え、このバスを待っていた人も多くいた。ハワイ観光最初がハワイ出雲大社参拝。1906年創祀(そうし)、1904/明治37年日露開戦 1905年日露戦争勝利、その翌年にこのハワイで神様が祀られた。当時の日本と日本人はどこにおても勇気凛凛意気軒高だったろう。羨ましいの一語に尽きる。
ハワイの小銭と日本の小銭を賽銭箱に入れ、出雲大社の参拝作法に倣って「二礼四拍手一礼」をした。因みに我が家の菩提寺は正暦寺(真言宗)だが私の宗教は「八百万の神」と「ご先祖様」。
自宅には四男ゆえに先祖の位牌はないが仏壇と神棚がある。毎日朝夕神棚に礼をし仏壇の前に座って線香を立て般若心経を二度読経している。
日本人は特定の宗教の信者でなくても誰でも信仰心に溢れ、どこの国の人間と比較しても高い道徳心を持つ。その根源は「恥を知る」文化であり、万世一系男系継承による天皇陛下を戴き、その下に万民は平等の立場を得、皇族とも血縁で繋がり一つの家族の形態を成す国となり国民となった。その安心感が心の平穏を生み高貴さを保つ。
私は日本人としての誇りを問われれば、迷わず「天皇陛下と皇室の存在があること」と答える。「天皇陛下万歳」は「日本万歳」「日本人として生まれたことに感謝」と同義であり戦い死ぬ時、天皇陛下万歳と叫ぶことに私自身何らためらいも違和感もない。天皇陛下は賢帝愚帝を問わず。その存在こそに悠久の価値がある。
ハワイ出雲大社は川の傍に建ち川向うにはハワイのチャイナタウン広がっている。参拝し記念にお守りを購入した。バス待ちの間に川を渡って華埠文化廣場(Chinatown Cultural Plaza)に行った。そこはどこにもある中華の世界があった。
一軒の「復興文化藝術商店」なる店に入ったら“オバチャン”からジロジロ見られたが中国語で話し掛けるのをためらって出てしまった。今も月2回ほど中国語教室に通い一応片言は話せるのに・・・と、黙って出て来たあとに「話せば良かった」と悔いる。
バスの停留所に戻り、バスが来たので乗った。「乗り放題券」のチェックもなく、太った地元民女性ガイドのすぐ横の座席に座った。座って周囲を眺めたらなにやら雰囲気が違う。JALパック安全宣言が表示された「OLIOLI:オリオリバス」だった。そしてバスコース表示は「ダウンタウンライン」ではなく「ダイヤモンドヘッドルート」
「あれっ?しまった乗り間違った」とガイドさんに言ったら片言の日本語で「どこに行く?」と聞かれ「カメハメハ大王像」と答えると「しょうがないねえ」という顔で「OK!」と言ってくれた。よく似たトロリーバスなのでこんな間違いは良くあるのだろう。バスはレンガ造りの古い建物が並ぶ中華街を抜けて行った。 -
アラモアナのスターバックスコーヒー
この前で“レアレアトロリー”が停まったような
ここは、いつも乗降多し -
ホノルル・ミュージアム・オブ・アート・スクール
こっちがホノルル美術館だと思ったけど
美術館斜め向かいの付属の学校、 -
ホノルル・ミュージアム・オブ・アート(ホノルル美術館)
今まで多くとはいえないまでも絵画や彫刻を目にしてきたが
残念ながら感動して私の記憶に刻み込まれている作品はない -
ハワイ出雲大社参詣の日本人観光客多し
ちなみに参詣と参拝は
「参詣」=行く行為。「参拝」=拝む行為。
「参詣」も「参拝」も同義語として扱われる。
寺と神社での区別はない。
・・・とのこと -
ハワイ・テーマパーク内を巡回する“レアレアトロリー”
この時は初の利用で、その有難さをまだ実感していない -
1906/明治39年、日露戦争勝利の翌年 創祀され
1907/明治40年、神殿が竣功した
日清日露と勝利し、日ノ出の勢いの日本
そんな時代の日本人はさぞかし気分が良かっただろう -
ハワイ出雲大社の川を隔てた真向いに「華埠文化廣場」があった
シナ人は世界中に拡散し、その地域に根差し、したたかに生きる。
頼むから日本には来てくれるな!
「恥の文化」と「見栄と面子の文化」は相容れない -
復興文化藝術商店の内部にはあらゆる雑貨が山積みの如く
見るだけで面白い。店の“オバチャン”怪訝な顔で私を見ていた
しかし何も言わず放置してくれる。その対応こそがありがたい
その“オバチャン”と話しをすればよかったと出てから悔いる -
出雲大社前のバス停に集まって来た参拝者たち
まあこのなかには支○○鮮人はいないだろう
先輩友人その他知り合いは沢山あり付き合うが
過去を捏造し日本を貶める支○○鮮を嫌悪する
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」は人間の本音だ
建前は我慢であり辛抱であり理性はマヤカシだ -
レアレアトロリー”だと思ってこのバスに乗ってしまった
「JALPAK」と書いてあるが、その時は気付かず
いろんな巡回バスの共通の停留所が多い -
ハワイ州最高裁判所前に立つ「カメハメハ大王像」
せっかくハワイ王国を建国(1795)すれど100年持たず消滅(1893)
このアリイオラニ・ハレは「1874年建立」・・・ということは
すでにハワイは白人たちの影響下にあったのだろう
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■カメハメハ大王像とハワイ州最高裁判所(アリイオラニ・ハレ)
そして無事にカメハメハ大王像の前で降りた。カメハメハ大王は『1795年:カメハメハ1世(大王)が3つの王国に分立していたハワイ諸島を統一、ハワイ王国を建国する。』・・・か。
1795年、日本は江戸幕府将軍第11代、徳川家斉の時、家斉は『特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人をもうけたが、成年まで生きたのは半分(28名)だったと言われる。』・・・「ふ~ん、殿さんの子供でも生き残るにはこんな厳しいのか、ならば庶民の子はいかに?」
ハワイ王国は1795年に出来たが100年保てず建国98年の1893年に米国の準州となりハワイ王国は消滅した。時代を問わず、これが弱肉強食の人類世界の現実であり、どうしようも仕方がない。独立を保つにはどんな国、どんな時代でも戦い守るしかない。
日本はハワイ王国消滅の25年前の1868年江戸幕府が倒れ、明治維新によって挙国一致、日清日露と大国と戦い勝利し独立自尊を保った。しかしながら大東亜戦争敗戦によって軍隊を持たず戦争放棄の憲法を有する似非独立国に成り下がったまま戦後73年が経過した。そして今も似非を似非と思わず誤魔化し続けている。
到着日の私の観光予定は「ハワイ出雲大社」と「カメハメハ大王」と大王像と道を隔てた前にあるはずの「イオラニ・パレス」だったが、何を勘違いしたのか大王の背に建つ風格ある建物「ハワイ州最高裁判所(アリイオラニ・ハレ)」を「イオラニ・パレス(宮殿)」と思い込んでしまったまま帰国した。
大王像の写真を撮り宮殿と思い込んでアリイオラニ・ハレに入った。入場は無料だが手荷物検査があった。一階は歴史博物館のようで真珠湾攻撃後のハワイの写真の展示が多くあり「来て良かった、入って良かった」と興味津々見て回る。写真もOKだった。
お決まりの真珠湾に停泊する米海軍戦艦の爆発炎上の写真と共に、市内で燃えさかる建物の消化中の光景や、外出時にガスマスクを常備し、道路に身を隠す塹壕を掘って日本軍からの攻撃に備えたりのいろんな写真があった。
「真珠湾は世界最強の要塞」と自負し日本軍を舐め切っていたハワイの陸海軍兵士やハワイ在住米国人たちの恐怖と慌てぶりが目に浮かぶ。戦後ハワイで取材を重ねて本にした「真珠湾メモリー」徳岡孝夫(著)によれば、
72頁『日本軍の攻撃を受けながら、ある艦長は「ジャガイモでも何でもいい、手のすいている連中に投げさせろ。日本機にぶつけるんだ!」と超低空で攻撃をしてくる日本軍機に対抗するよう、部下に怒鳴っていたことが当時のUP電に出ており、その記録が今も残っているそうだ。或いは当時20歳のナンシー(女性市民)は日本軍上陸の噂に「うちには野球のバットしかなかったから、それで自衛する用意をした」と振り返っている。
日本の敗戦間近、本土決戦に備えて「竹槍で戦う」と訓練したことをバカにする戦後日本人は、いつか天罰が下る!いざとなった時、わが身や家族を敵から守る為には手段を選ばず。どんな物でも手に入る物を持って守ろうとするのが普通の親、普通の人間だ。
甲巡洋艦サンフランシスコの乗組員だったロビソン(二等通信兵)は、63才で取材に応じ宣戦布告前の攻撃に「単なるタイミングの過誤にすぎない。戦争になることは覚悟していた」「私の属する真珠湾生き残りクラブは年々数は減る一方ですが、軍人でありながら日本に怨恨を持つ者を、今まで一人も見たことがないのです」と語っている。
さすがに世界で戦争を続けている米国人は話すことにリアリティーがあり、戦後日本人のような似非平和の綺麗事や支○○鮮人のような嘘捏造による恨み言は言わない。そんなことは人として恥ずべきことだ。
アリイオラニ・ハレに展示されている攻撃後のハワイの様子の写真を見て正直痛快だった。当時のハワイ在住日系人たちのその後長きにわたる苦悩も苦労も良く分かる。それでも世界を驚愕させたであろう真珠湾攻撃は痛快だ。白人にとっては怒りであり、有色人種にとっては喝采だった。
真珠湾攻撃総隊長:淵田美津雄は戦後キリスト教の教えに目覚め「父よ、彼らを赦し給へ、その為す処を知らざればなり」と、戦争は互いの無知から起こったとし「伝道者として戦争の愚かしさ、憎しみの連鎖を断つことを訴えた。」とあるが、私にはまったく通じない。
もし世界中の人がこの教えを日々の生き方に実践すれば「敵味方もいなくなり、人類皆友達、差別なく争いなく、あるのは永遠の平和な世界?」になる。それは退屈を通り越し偽善世界か死の世界か分からない「地獄世界」だ。理想は地獄の実現であり、絶対実現しないからこその理想だ。
私の理想の世界は、皆が言う過酷な現実社会であり、差別や争い競争がある魑魅魍魎の世界だ。それでこそ夢や目標に向かって切磋琢磨し自分が磨かれ、そこに喜びも感じる。「信じる者は救われる」を否定しないし自由だが他人に押し付けるのはやめろ。
アリイオラニ・ハレ内の見学で2階にいた時、玄関にいた警備員に下から声を掛けられた。最初意味わからずだったが「クローズ」らしきで、閉館の時間だった。閉館は午後4時、なるほどデジカメ時間は15:59分とある。そこまで待ってくれた警備員に感謝!といっても内部にいたのは20分だけか。 -
法廷・・・すべては白人たちの指導監督下のものとしか思えず
イオラニ宮殿完成後は裁判所として使われた -
『弾薬庫の誘爆により原形を留めないほど破壊され着底した駆逐艦ショー』
弾薬庫が爆発し、この有様の駆逐艦がサンフランシスコで修理され
翌年8月ハワイに戻り、その後日本軍との戦に参戦した・・・とは
ショー (DD-373)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC_(DD-373) -
日本軍の真珠湾攻撃はハワイ在住の白人を恐怖に落とし込んだ
モンゴル帝国終焉から数百年がたち
地球世界では白人だけが人間だと思っていたはずが・・・
真珠湾だけではなくマレー半島快進撃も含めて
黄色人種の攻撃に、しばらくは慌てふためいたのだろう -
ハワイ在住の日系人は災難だったが
真珠湾攻撃があって今の世界がある
日米決戦なくば、一体今の世界は? -
建立翌年の1875年頃のアリイオラニ・ハレ
明治8年・・・か、西南戦争2年前 -
階下の黒人警備員にもうすぐ閉館を告げられた
ここに入れて良かった -
今度は間違わずに“レアレアトロリー”に乗る
HISを利用してのハワイ観光客が多いような・・・。
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■観光を終えホテルにチェックイン
“レアレアトロリー”を待つこと30分、もっと長く感じていたけど。4時半過ぎにバスが来た。壁画を描いた通りや高級マンション街をバスから眺めながらHISの拠点でありバスの始発終点でもあるロイアル・ハワイアンセンターに戻った。
観光は無事終了で、次に近くにあるはずの「ハワイジャパンツアー」なる会社を探しに行く。出発前日くらいに「タンタラスの丘」からの景色をみたくなりツアーを探した。夜景観賞のツアーばかりだったが安くて手ごろなのがこのジャパンツアーにあった。
http://www.hawaiijapan.com/
場所はロイアル・ハワイアンセンターのすぐ近くのはずだったので探す。同じ建物内だが最近二階から三階に事務所を引っ越していたので迷った。事務所には日本人女性スタッフが二人。先客もあり電話応対もありで忙しそうだった。
http://www.hawaiijapan.com/tour/tour_search_list.php?search_name=%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%82%B9
「タンタラスの夜景ツアー、一人」というと「10ドル」と言って電話ですぐに問い合わせてくれたが「ダメ」。「花火も見ての20ドルのツアーは?」と聞いてくれたので「それでお願いします」というと再度問い合わせ「OK」とのこと。20ドルを支払い領収書兼13日(金)ツアー参加券をもらった。素早い。すぐにまた客が来た。
午後5時半、やっとホテルに向かう。トランクは直接部屋に運んでくれいているはず。ロイアル・ハワイアンセンターから歩いてワイキキ・ゲートウェイ・ホテルに向かった。“Google・Map”ルート検索によればカラカウア通りを“まっすぐ”徒歩7分。
Gateway Hotelに到着。フロントでカードキーを受け取り6階、608号室に入った。空港で渡したトランクが置かれていた。日本時間4月11日午後6時22分自宅を出発し、ハワイ時間4月11日午後5時57分に部屋に入った。この間、一体何時間がたっているのか?
『ハワイ時間から5を引いて、1日進める。』
「17:57-5=12:57」+1日=日本時間12日 午後12:57。・・・と、いうことは、5時間38分+12時間57分=18時間35分が経過している。そして日本で11日午前6時起床だから、朝起きてから今まで「18時間35分+12時間22分=30時間57分」が経過した。その間、飛行機の中で2時間ほど仮眠しただけだ。
日付変更線をまたいで旅に出たら時間の感覚もおかしくなる。今まで一番遠い海外でも西に向かっていったので日付変更線を越えることはなかった。今回のハワイは、最後まで時間の感覚はおかしいままだった。
「地球の歩き方」にはエコノミーホテルとしてGateway Hotelは紹介されているが部屋には十分満足。バスタブあり湯も豊富に出た。テラスもあり外も見える。 -
カカアコ地区のウォールアート
『「POW! WOW! HAWAII」 と呼ばれるプロジェクトは、2011年にハワイでスタート
年に1度、ハワイ内外からアーティストたちが集結し、公共の壁を使って描く』 -
「タンタラスの丘」夜景ツアーを申し込みに入る
日本人女性スタッフ2名が居た。手際いい!
あっと言う間に段取りしてくれた -
この建物三階に「ハワイジャパンツアー」がある
https://goo.gl/maps/YUkRpxpN4U82
ロイアル・ハワイアンセンターより徒歩3分 -
ハワイ到着後、ホテルに立ち寄ることなく観光へ
やっとゲートウェイホテル(Gateway Hotel)に到着 -
チェックインが重なりフロントは渋滞気味
さすが観光地ハワイなのか?
客への対応は洗練されている感あり -
我が家を出て関空→オアフ島
30時間57分経過してやっと部屋に入る
私のトランクは部屋の片隅に置かれていた -
窓からワイキキの浜辺は見えないが
この価格なら十二分に満足の部屋なり
6階608号室に三泊する -
608号室からの眺め
一体この部屋に今まで何人が宿泊し
今後何人の人が泊まるのか?その国は? -
日本食らしき店を発見し、あまり迷わず入る
少々迷うのは、「もっと他に・・・」と思うから
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■夕食を食べに
小休止をして夕飯を食べに出る。カラカウア通りを南東方向に徒歩数分のところにあった「AGU」というラーメン店。今では海外旅行に行っても、まずその国の料理を食べようとかあまり思わず、日本食の店が目についたら入る。
日本語片言の外国人店員に「お勧めは?」と聞いたら「柚子ラーメン」と言われたけど、こってりではなくあっさり味の野菜ラーメンを頼んだ。それと揚げ出し豆腐に焼き餃子一人前。飲み物は水。ハワイはどこでも水のグラスが日本よりも大きかった。味は日本と同じで美味かった。
晩飯代のレシートは「28.8ドル¥3140円」、29ドル渡そうとしたら店員に「チップが必要」と言われて「そうやった。ハワイはチップがいるんや・・・」と、38回目の海外旅行での初体験となる。レシートの下にチップ料として「15% 18% 20%」と金額が提示があった。33ドルを見せて「これでOK?」と聞いたらOKだった。
「ラーメン・揚げ出し豆腐・餃子」で日本円3500円なんて、やっぱりハワイの物価は高い。ラーメン店の二軒隣りに実弾射撃場があった。ちょっと心を惹かれたが、入らずにホテル前の公園でしばし散策し午後7時過ぎには部屋に戻る。そして風呂に入って朝早い明日に備える。
明日は6時25分集合で、『ダイヤモンドヘッド・ハイキング&パールハーバー(戦艦ミズーリ+太平洋航空博物館)ツアーUS$156.00(17,600円) 』に参加する。
今日空から真珠湾を眺め、明日真珠湾を巡って私のハワイの旅の主目的は終了となる。さあ明日は世界を驚愕させた真珠湾攻撃の現場を見に行くぞ! -
「なんじゃ、英語のメニューなど分からん」
じゃあ~、なくてローマ字読みで「豚焼きそば」
だったのにその時は気が付かず。ムムム -
ハワイの拉麺店で「揚げ出し豆腐」を食べる
美味かった。味は同じだ値段が違う -
普通に美味かったけど
値段が高い。ハワイの物価は高い
ハワイの給料と物価
https://blog.goo.ne.jp/kaycal/e/23a4fa5569b53a68f48f57a7501a8ae2
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