2015/09/10 - 2015/09/13
440位(同エリア813件中)
明石DSさん
3泊4日
7:11
プリモーリエ初めての朝食はここで
どんな朝食なのか?予備知識なく座る
ウェイトレスではなく何故か?ウェイターばかり
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2日目:9月11日(金):晴れ
ウラジオストク散策とシベリア鉄道体験乗車
2015/平成27年9月11日(金)
■ウラジオストク二日目の朝!
我が家の目覚めと同じ6時前くらいに目が覚めた。といっても旅に出れば睡眠導入剤(レンドルミン)の世話になる。目覚めて一番の心配は天気だったが予想に反しカーテンを開ければ薄曇もあったが青空が広がっていた。万歳!
宿泊は朝食付き。午前6時から10時まで、7時頃に部屋を出てモーニングを食べに行った。バイキングではなく、メニューは喫茶店のモーニングサービスと同じ。ロシア人はあまり挨拶をしないのか?折角「おはようございます」のロシア語「ドーブラェ ウートラ(Доброе утро!)」を使おうと思っていたがレストランのお兄さんたちに言えず。
席に着いたらすぐにオレンジジュースを持って若い男性ウェイターが注文を聞いてくれた。「アメリカン」「コンチネンタル」「ミルク」「ベジタリアン」「フレンチ」の五つのメニューの中から選ぶ。最初に書いてあったアメリカンを選び紅茶を頼む。ハム・タマゴ・ポテト・トースト二枚(薄切り)の朝食で味も日本と変わらず満足。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
バイキングよりこっちの方が良い
日本の喫茶店のモーニングサービスに似たり
ロシア人には少ないかもだが、私にはちょうど -
金曜日の朝
レストランから窓の外を写す
歩道が広い、駐車違反はないのか? -
ホテル・プリモーリエの一階ロビー
-
部屋はそんなに広くはないが文句はない
三日間快適に過ごせた -
バスタブもあってお湯も出た
いつも安ホテルばかりなので
これなら十分良い部類になる -
531号室からの景色はヨーロッパと言い難し
右奥の茶色の建物は水とジュースを買ったコンビニ -
道路工事の現場風景は発展途上国なり
軍事兵器は作れても自動車もまともに作れず
軍事技術を民生技術に転用するのが下手なのか?
それとも軍事技術も見掛け倒しなのか?
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■朝食後の散歩
朝食を食べた後、一端表に出て外の外気温を確認した。寒くなく天気も快晴。もう一度部屋に戻って今回の旅唯一のオプショナルツアー「ウラジオストク市内散策(半日プラン)(ウォーキング)」(4時間1名¥13,500円)の待ち合わせ時間の9時まで少し時間があるので散歩に出た。目指すはウラジオストク駅。
http://www.jic-web.co.jp/op_tour/travel/vvo.html
昨日の夜ここに来たので周囲の雰囲気はまだまだ実感としてない。明るい金曜日の朝、一応長袖シャツだが明石との気温の違いは感じなかった。ホテルを出たら道路は配管工事なのか掘り起こしていた。軍事大国ロシアだが道路工事を見れば発展途上国の工事現場のようだった。
駅前に道を隔ててレーニン像が立っている。東西ベルリンの壁が1989/平成元年崩壊し、翌1990東西ドイツが再統一。そしてそのまた翌年1991/平成3年にはソ連邦がゴルバチョフの辞任と共に解体された。戦後の東西冷戦期に生まれ育った私にとって資本主義と共産主義の対立の構図は揺ぎ無いと思っていたのに「崩壊はあっけなかった」と言う印象だった。
そしてソ連邦が解体され多くの独立国家が一気に誕生したことが驚きだった。「へェ〜こんなに多くの国があったのか・・・」。今もってそれらの国々の歴史も使用言語もよく分らない。ロシア語は無論使うのだろうが、それぞれの国で母語はあるのか?と。
皇帝と貴族と農奴の国も嫌だが、共産主義だけは絶対拒否する。ただ「平等」というのは空疎な地獄。公平平等の平等は「機会の平等」をおいて他になし。オギャと誕生した瞬間に差は歴然とある。時も国も親も選べず人は誕生する。「差」を無くすのはあり得ず。差こそすべての活力の源だ。歴然とした「差」こそそこに公平平等がある。
ソ連が瓦解しロシアとなりスターリンの銅像は旧ソ連邦で多くが撤去されたようだが、レーニン像はまだロシア各地に残っているらしい。それに未だに遺体は保存処理をされレーニン廟に安置されている。エジプトのミイラと同じ発想なのか?土に返れない死後とは現世で行った罰であろう。これでは輪廻転生も叶わず。
そのレーニン像の前で日本からの高齢女性二人と出会った。私同様カメラを手に朝の散歩のようだった。彼女たちは私たちと同じ飛行機でウラジオストクに到着し、二泊後にシベリア鉄道全線走破しモスクワから帰国のツアー客だった。どこの旅行社か聞かなかったが費用は100万円を越えているとのこと。同じシベリア鉄道でも開方式寝台」なら安い。でも高齢者は豪華旅行でないと無理だ。
http://www.jic-web.co.jp/tour/eastrussia/pdf/knx2_2259_22510.pdf
駅前から復路は別の道を歩いてホテルに戻った。路面電車の跡なのか?廃線がアスファルトに埋没している道もある。「中村角K・K」の中古トラックもそのままウラジオストクで活躍中。きっとこの会社の人も知らないだろう。日本車ばかり・・・。
ウラジオストクに滞在中の三泊四日韓国車「現代」「起亜」の車を一台も見なかったのが不思議でもあり気分は良かった。ロシアとは距離も近く朝鮮半島との歴史的繋がりも長い、そして今も韓国・中国はロシア観光にビザ不要とのこと。そんな関係なのに車はロシア人が忌避なのか?ゼロではないだろうが私の見る限りなかった。
ウラジオストクの日本車の右ハンドルは輸入車。左ハンドルはロシア国内生産の日本車。ウラジオストクにもトヨタ・マツダの二社が現地工場を作っている。ガイドの“M君”が以前日本の中古車販売に携わっていたそうで車の車種も含めてメチャ詳しかった。彼曰く「ウラジオストクの車は95%日本車」 -
レーニンよ愚かなり
皇帝・貴族・農奴の階級社会に嫌悪し皇帝を倒し
社会主義革命を成したが、社会主義共産主義政権こそ
更なる階級社会と独裁政権の下恐怖社会を作った -
正面奥がウラジオストク駅
路面電車の名残なのか線路が残っている
ロシア人ガイド曰く「車は95%日本車」 -
「中村角K・K」
http://www.nakamurakaku.co.jp/
中古トラックはそのまま走っている
部品の供給はなくても大丈夫なのか?
車の修理工場は目に付かず -
8:53
ホテル・プリモーリエの玄関
(1964年築、2004年改築)
ウラジオストク駅まで徒歩5分 -
「地図No11」ウラジオストク鉄道駅
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■¥13,000円オプショナルツアー。四時間散策(歩き)スタート
ホテルに戻り約束どおり9時にやって来た“M君”と4時間の散策コースのスタートになる。まず最初にすぐ近くの銀行に両替に行った。要領は“M君”がいるので安心。整理券を取ってしばし待ち個室の中に入って3万円の両替。パスポートを提示し、この時は日本円「3万円=¥15,960ルーブル」。
先月モスクワで“G先生”に両替してもらったのは、日本円「3万円=14,490ルーブル」。一ヶ月で「15960−14490=¥1,470」3千円くらいの差になった。為替変動で金儲けする能力があれば楽に金が稼げるなァ〜・・・。将来仕事できなくなればこういった稼ぎも無理ない範囲で上手くやれば楽しいかも。生きている限り何でも良いから稼ぎたい。年金受給は生保と同じだ。
銀行からウラジオストク駅に入りプラットホームに下りる。ホームには蒸気機関車の展示とウラジオストク⇔モスクワまでの距離「9288km」が記された距離標(キロポスト)が立っていた。中国人観光客の一団が交互に記念写真を撮っている。この光景はどこに行っても中国人観光客の変わらぬ姿である。
ウラジオストク駅は1893/明治26年開業。同年6月に「陸軍中佐:福島安正、単騎シベリアを横断し、ウラジオストクに無事到着」。その6年後の明治32年石光真清もこの地に足を下ろした。
抜粋
『ロシア人でさえマイナス50度の極寒期のシベリアを横断した者がいない中、福島は幾度も命を落としかけながらも任務を遂行しました。そして出発から488日目にして、前人未到のシベリア横断を成功させたのです。この報せは全世界を駆け巡り、後進国だった日本人が成功させたことで欧米人を驚愕させました。』
ウラジオストクと日本との関わりが昔からあったことを今更ながら思う。今まで極東は意識外にあった。何もかもが自分にとって新たな発見であり、石光真清四部作がそのきっかけになっている。
“M君”に「短くても良いからシベリア鉄道に乗ってみたいので切符を買って欲しい」と頼んだ。切符を購入したのはウラジオストク駅の北隣にある空港行きの「アエロエクスプレス:Аэроэкспрэсс」の切符売り場。片道15分ほどの三つ目の駅「フタライェ エリチカ:Вторая речка」の切符を購入してくれた。
ウラジオストク駅午後4時発。往復切符の料金は¥44ルーブル。戻りの時間を聞いても窓口の女性は「ここでは分らないから向こうの駅で聞いて」とのことで「えっ、そんなことあるの?切符販売の窓口に時刻表もないのか?」と驚いたが、これがロシアなのだろう。 -
「地図No11」ウラジオストク鉄道駅
-
?9:40
銀行で両替のあと、まず来たのは浦潮駅
1899/明治32年、石光真清もこの浦潮に来る
1904/明治37年、日露戦争勃発5年前
その浦潮に2015/平成27年9月我も来たりハハハ -
1893/明治26年開業
モスクワ⇔9288km⇔ウラジオストク
日露戦争の最中1904年9月全線開通
ちなみに日本列島の長さ約3000km -
明治26年6月福島安正中佐単騎シベリアを横断し
ウラジオストクに無事到着
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-860.html
約1万4千キロにおよぶ単独騎馬旅行を貫遂
実に490日にかけての偉業で
その間に乗りつぶした馬は20頭を超えた -
1912/明治45年、与謝野晶子が夫:鉄幹を追ってパリへ行く
妻がいた鉄幹と不倫(22才)、そして結婚、鉄幹の子を12人生んだ
一人は早世するも11人を育てながら歌人、作家、思想家として活躍した
夫の収入少ない時、晶子は来る仕事をすべて受け家計を支えた
子を産み育てた!ホンマ偉いなァ〜!女性の鏡だ!
私は結婚の有無は関係なく健康ならば
子を産み育ててこそ女性として認める -
中国人観光客一団のお通り
ロシア入国、中国、韓国はビザ不要とのこと、北鮮は?分らない
何で日本人はビザが必要なのか?平和条約未締結だからか?
北方四島も千島列島も日本固有の領土だ。即刻返せ! -
キロポストの横に立つ人
中国人よ、いつまでもボサーと立つなよ
邪魔だけど一緒に写しておく -
「浦潮旧日本人街散策マップ」:表紙
この地図を手にしてウラジオストク市内を歩き回る
http://urajionihon.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=10480465
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■「地図No8」旧横浜正金銀行へ
両替と切符を購入し、ウラジオストクの散策開始。散策は旅行前に「日本・ウラジオストク協会」から送付してもらった「浦潮旧日本人街散策マップ」が全てであり、そのマップに紹介されている日本人ゆかりの史跡・建物をこの目で確認することが今回の私の旅の目的だった。
駅前のアレウーツカヤ(Алеутская)通りを北に向かって歩き最初の見たのはマップの「No8」旧横浜正金銀行(1918〜1924年)。1918/大正7年日本軍のシベリア出兵と時を同じくウラジオストクに支店を開設した。当時ウラジオストク経由の輸出は大連経由よりも大幅に上回っていたが1922/大正11年日本軍のシベリア撤兵を受け1923年輸出融資業務を停止。1924/大正13年ハルピンに移管した。
現在この建物は、「国立アルセーニエフ博物館」として使われている。アルセーニエフはロシアの探検家で黒澤明監督が彼の著書「デルス・ウザーラ」を映画にしている。
映画を出発前にDVDを借りて見た。シベリアの先住民ゴルド族の猟師、デルス・ウザラの生き方態度にアルセーニエフと探検隊員たちは感銘を受ける。家族もなく一人で大自然の中で生き抜く人間に「金も物も不要」であり欲得栄達等々とは無関係に生きる人間の姿なのだろう。映画としてはたいしたことない。
この博物館には午後に入ったがこの時は外観の写真を写しただけ。 -
地図に旧跡を表示しそれに関しての説明書きがある
この地図のお陰で浦潮市内観光は有意義なものになった -
地図に旧跡を表示しそれに関しての説明書きがある
この地図のお陰で浦潮市内観光は有意義なものになった -
アレウーツカヤ通りにある高級マンション
https://www.google.co.jp/maps/@43.1143541,131.8818164,3a,75y,327.48h,96.67t/data=!3m6!1e1!3m4!1sfeWCvlQ2PTuIjzKoomkgfQ!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
ガイドの“M君”の説明では
昔、共産党幹部たちが住んでいた
浦潮で初めてエレベーターの付いたマンション -
「地図No8」旧横浜正金銀行
-
「地図No8」旧横浜正金銀行
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「No8」旧横浜正金銀行(1918〜1924年)
今は「国立アルセーニエフ博物館」
1918/大正7年 日本軍シベリア出兵に合わせて支店開設
1922/大正11年日本軍撤兵の二年後閉鎖、ハルピンに移管
今も中国に日本企業は沢山進出しているが
果たして10年後の2025/平成37年 中国は如何に? -
「地図No1」旧日本総領事館に行く
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■「地図No.1」旧日本総領事館に行く
アレウーツカヤ通りを右折してスヴェトランスカヤ(Светланская)通り(ソ連時代:レーニンスカヤ街)を東に歩き、革命戦士広場の前を左折。オケアンスキー(Океанский)通り(旧キタイスカヤ通り)を北に歩けばすぐの所、西側に「地図No1」の旧日本総領事館が今もその勇姿を留めている。
建物にはロシア国旗が翻っていた。1914/大正3年古い木造建築は壊され、建築家「三橋四郎」の設計監理によってギリシャ式の現在の建物の建設が始まった。2年後の1916/大正5年完成したが、完成の前年1915/大正4年11月5日、三橋は完成を待たずこのウラジオストクで亡くなっている。享年48歳の働き盛りの若さだ。「建築家・三橋四郎設計竣工作品」
http://fkaidofudo.exblog.jp/tags/%E4%B8%89%E6%A9%8B%E5%9B%9B%E9%83%8E/
現在この建物は沿海地方の裁判所として使用されている。内部に入っていないが外観は今も見事に美しい。しかし玄関脇の歴史的建造物の日露両国の説明文には『1916年フョドロフV・Aの設計に基づき建設、ロシア連邦の法律により保存されている。富山ウラジオストク会:2006年』と書かれてあった。何故?三橋四郎ではなくフョドロフの設計 に基づきとなっているのか?
この旧キタイスカヤ通りと旧ペキンスカヤ通り(現在 アドミララ・フォキナ通り:Адмирал фокина)の角(現在地)に1876/明治9年日本貿易事務館が開設された。当時の日本国内は、西南戦争(明治10年)一年前で10月には「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」と士族の乱が起こり騒然としていただろう頃である。1907年日露戦争勝利二年後明治40年に日本領事館となり、そのまた二年後1909/明治42年に総領事館に昇格した。
石光真清がロシア語留学のためにウラジオストクに初めて降り立ったのは1899/明治32年8月(31歳)。『当時この都市は鉛色の空のもとに疎らに広がった淋しい港町で、商人はほとんど清国人であり、労働者は大部分が韓国人であった』とある。真清は一ヶ月余このウラジオストクで過ごし留学先のブラゴベシチェンスクに向かっている。 -
「地図No.1」旧日本総領事館に行く
①浦潮旧日本人街散策マップ(1~4)
https://youtu.be/cTWWwliTqsg -
1914/大正3年古い木造建築は壊され
二年後の1916/大正5年この建物が完成した
第一次世界大戦(1914-1918)の渦中 -
玄関には一対の鳳凰の彫像が今も残っている
-
旧日本領事館の不可解な表示
三橋四郎の設計監理によって建てられたはずなのに
何故か?
「フョドロフV・Aの設計に基づき建設」とある
三橋が完成を待たず前年に亡くなったからなのか? -
木造時代の日本総領事館
石光真清が最後にウラジオストクに来たのは1919/大正8年3月
フランスに亡命するA.N.アレクセーエフスキー(アムール州長)と
一緒にブラゴベシチェンスクから浦潮に来て埠頭から彼を見送った
ならば真清も新装の総領事館を目にしたはずだ -
「地図No6」旧朝鮮銀行
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■「地図No6」旧朝鮮銀行
この建物向かい側角に「地図No6」旧朝鮮銀行。この旧朝鮮銀行も「函館日ロ交流史研究会」の2012/平成24年のウラジオストク訪問記で、この建物の写真が「旧デンビー商会」と明記され、祖父が働いていたというお孫さんが『その領事館の反対側の角に元デンビー商会の建物があった。』と書いている。
旧朝鮮銀行なのか?それとも旧デンビー商会なのか?ウラジオストクの日本人の間では有名な日本通の「モルグン・ゾーヤ先生」の案内で一緒に周っている人たちのHPに写真と共に紹介されている。
http://inbound.exblog.jp/20102231/
どちらが正解なのだろう?ゾーヤ先生は散策マップ編纂に携わった方でありマップでは旧朝鮮銀行となっている。
「函館日ロ交流史研究会」にメールで問い合わせたら以下の返信を頂いた。
http://hakodate-russia.com/main/book/book-2005/
『デンビー商会の建物であったことは、複数のウラジオストクの郷土史研究者の方から説明を受けており、間違いはないはずです。ただし、ロシア革命の影響で、デンビー商会の経営は行き詰まります。そのため手放した可能性はあると思います(没収の可能性は薄いと思います)。従って、1918年以降は朝鮮銀行として使われたとしても、不思議ではありません。』
なるほど・・・それで納得した。この建物は元々デンビー商会の物だったが「1918/大正7年〜1930/昭和5年」まで朝鮮銀行として使われていたのだろう。これもまだ確かなことは分らないが、一つの建物が「元デンビー商会」「旧朝鮮銀行」と紹介されている理由が分った。
その西隣に「地図No5」旧杉浦商店があるが、この時は何故か?見逃してしまい後ほど戻って写真を撮った。この時はガイドの“M君”のペースで私はまだ浦潮市内の東西南北の位置関係不明だった。
朝鮮銀行浦潮支店(1918/大正7年〜1930/昭和5年)は日本軍のシベリア出兵(1918〜1922)で浦潮派遣軍との間で積極的に業務を行い日本軍撤退後も継続して業務を営み1930年には朝鮮銀行全体の10%の利益を生むまでになっていた。しかしその年の暮れ、ソビエト政権の監査によって密貿易・違法為替操作を指摘され閉鎖となった。
そして1936/昭和11年11月に「日独防共協定」が締結。それに怒ったスターリンがウラジオストク在留日本人男性をことごとく拘引、流刑し、日本女性はビザ更新を停止、夫を残して日本へ帰国する。半世紀を経て1991/平成3年ソ連邦解体、ウラジオストクの対外解放は翌1992/平成4年であった。その間ウラジオストクは閉鎖都市として日本人が立ち入ることはなかった。
貿易事務館開設が1876/明治9年、日独防共協定締結が1936/昭和11年。ウラジオストクでの日本人の活躍は主にその間の60年となる。旧朝鮮銀行は今もそのままの外観で使われているが中味は不明? -
「地図No6」旧朝鮮銀行 -
旧総領事館と道を挟んで向かいに建つ旧朝鮮銀行
この建物が「函館日ロ交流史研究会」のHPで
「旧デンビー商会」の建物と紹介されていた
http://hakodate-russia.com/main/book/book-2005/
元々「デンビー商会」であり1918年から「朝鮮銀行」
「浦潮 デンビー商会」でヤフー検索したら
下記の旅行記(1918/大正7年)があった
『この少年の父親ゲ・ア・クラマレンコとカムチャッカで鮭工場を経営する
「デンビー商会」二代目アルフレッド・デンビー(文中ではデムビ氏)
は共に有力な漁業者として知られています』
「十五歳の露國少年の書いた 勘察加(カムチャッカ)旅行記」
http://www.geocities.jp/lib_takataro/travel0.html -
「地図No10」旧浦潮日報編集部
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■「地図No10」旧浦潮日報編集部
“M君”が次に案内してくれたのは、日本総領事館と同じ通り(オケアンスキー通り)北方向にある「地図No10」旧浦潮日報編集部。
https://www.google.co.jp/maps/@43.1178242,131.8862687,3a,75y,344.04h,103.48t/data=!3m6!1e1!3m4!1srkI8xZcInyTNfNdO7z2vaQ!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
当時の建物の写真がはっきりしていないので地図の説明通りオケアンスキー通りとセメノフスキー通りの交差点角にある建物が、当時のままなのか?分らない。この地に浦潮日報編集部があったのだろう。
第一号は1917/大正6年12月9日とある。2月・10月とロシア中心部で革命が起き浦潮在留日本人の誰もがその後の情勢に関心があったはずだ。1931/昭和6年まで発行されていた。やはり日本軍シベリア撤兵以後、赤化したソ連での暮らしは日本人にとって難しくなり在留邦人も急速に減少した。 -
「地図No10」旧浦潮日報編集部
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旧浦潮日報編集部
『「浦潮の日本人商店・企業」1915/大正4年−1922/大正11年』
この地図を見ればこの建物には
茂利洋行・菅生商店・竹馬巌商店・日露実業の名前もある
http://www.jp-club.ru/wp-content/uploads/2010/12/jstores.pdf -
10:59
スナイパーという銃砲店に入る
https://www.google.co.jp/maps/@43.115173,131.8886236,3a,75y,30.98h,96.99t/data=!3m6!1e1!3m4!1s9bRRz9csORvoniGE30tv3A!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja"
軍人が持つような自動小銃まで売っている
ロシアでは一般人でも普通に買えるのか?
ちなみにAK-47:カラシニコフ自動小銃は
『紛争国に行けば日本円で一万もあれば確実に買える』
・・・とのこと
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■「地図No12」ニコライ皇太子凱旋門
浦潮日報を見た後“M君”は、スベトランスカヤ通りに戻り東に向かった。歴史建造物のような建物が並ぶ中に「Снайпер・スナイパー:狙撃兵」という看板の店があり銃砲点だというので中に入った。拳銃からライフル、軍隊が持つような自動小銃まで置いていた。誰が買うのだろう?買えるのだろう?写真はダメと言われた。
ウラジオストクには路面電車があったようだが今はない。日本では駅の小型売店「キヨスク」は誰もが知っているが、ウラジオストクにはキヨスク型の小型売店が多い。“M君”曰く「知ってますか?キヨスクはロシア語ですよ」と強調していた。ウィキペディアによればトルコ語に由来しての英語とある・・・けど。
次に着いたのは金角湾を望む場所に立つ「地図No12」ニコライ皇太子凱旋門だった。日本にとっても曰く因縁のある凱旋門でもある。1891/明治24年、日本を訪れた皇太子が三重県大津で「津田三蔵巡査」(享年36歳・獄死)に斬り付けられ負傷した。津田は裁判で無期徒刑(無期懲役)となったが事件から四ヵ月後の9月29日急性肺炎で獄死している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%B8%89%E8%94%B5
そのニコライ皇太子は負傷後すぐに日本を離れてウラジオストクを訪問しシベリア横断鉄道の起工式を行った。シベリアはロシア領だったが皇太子のウラジオストク訪問はこの時が初めて。それを記念して1891年に建設されたがソビエト政権によって1920年代後半破壊された。2002/平成14年元の姿に再建されている。実際に見た凱旋門は想像よりも小さかった。「ふ〜ん、これか」だった。 -
■「地図No12」ニコライ皇太子凱旋門
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■「地図No12」ニコライ皇太子凱旋門
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大津で津田巡査に襲われたニコライ二世はそれ以降日本人を「猿」と呼んだ
イエローモンキーか、私がロシア人ならそうだろう
人前で言葉に出さなくても心の中ではそう思う
そして後年、猿と熊が戦い猿が勝った -
「地図No14」旧アムール研究協会
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■「地図No14」旧アムール研究協会
そして凱旋門すぐ横に「地図No14」の表記がある。マップの説明に二葉亭四迷がウラジオストク滞在中にいろんな人物と交流し、アイヌ研究者としても有名な「ブロニスワフ・ピウスツキ」とも友好を深めた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%84%E3%82%AD
その交流場所、読書会が『アムール研究協会「現:アルセーニエフ博物館国際展示センター」(ピュートル大通り6番)で行われた」』とある。
私は「日本・ウラジオストク協会」から送付してもらった『浦潮旧日本人街散策マップ』を手にしてウラジオストク市内を歩いた。しかしこの地図に「No2」と「No14」だけが二ヶ所に分かれて記載がある。「No2」は浦潮「本願寺布教所」と「本願寺跡」の二ヶ所というのは分る。
しかし「No14」の二ヶ所の意味が分らなかった。一ヶ所が凱旋門横の建物であり、もう一ヶ所は旧日本人小学校「地図No3」の一つ南の通り、セミョーノフスカヤ通りのディナモスタジアム近く(地図B3)に記されている。
翌日その建物を探して地図の場所に行ったが写真の建物は確認できずに帰国した。帰国後の9月16日(水)、ウラジオストク協会に尋ねたが『散策マップの内容につきまして、当協会は作成に協力はしましたが、実際に監修、作成したのはアルセーニエフ博物館と在ウラジオストク日本国大使館であるため、問い合わせはそのどちらかにしていただくのが適当と思われます』との返事が届いた。
早速翌日9月17日、在ウラジオストク日本国総領事館に電話を掛けた。ロシア人女性が出てロシア語だったが、こっちが日本語で問いかけるとすぐに彼女は日本語での応対になった。「担当に代わります」とのことで応対してくれたのは日本人男性だった。
『地図に記されている建物は一ヶ所を除き全て現地で確認出来ました。しかし「No14」が地図に二ヶ所あり、その内のスタジアムに近い場所に記されている建物が唯一確認できなかった。地図の記載場所は間違っていませんか?写真の建物はその場所に今もあのですか?違う写真が二つ地図の表裏に掲載されていますが、徳永商店とアムール地方研究協会の建物ですか?』と質問した。
電話の向こうの領事館員の返答は『地図作成時の担当者がいないので確認できないのですが、現在の地番に合致しているのは凱旋門横の建物で、そこがアムール研究協会で二葉亭四迷が交流していたところだと思います。裏面の建物の写真は「地図B3」とは地形も違うようだし分らないです』との返事だった。
「14」の説明文を読むと『これら読書会などは、アムール研究協会(現:アルセーエニフ博物館国際展示センター。ピョートル大帝通り6番)で行われた』とある。しかし凱旋門が立っているのはピョートル大帝(Петра Великого)通りではなく「ペトラ・ヴェリコヴォ通り」で地図表No14の建物(地図E4)はスヴェトランスキー横町(Светланский пер)である。
この散策マップ「No14」に掲載の二つの建物の写真は、「函館日ロ交流史研究会」のHP『2004年度沿海地方国立アルセニエフ博物館・市立函館博物館姉妹提携2周年記念企画展「ウラジオストクと函館―歴史、文化の経験―」』に建物の写真と説明文が記されている。
http://hakodate-russia.com/main/web/urajio/
それによれば「地図No14(表)」の建物は『1908年に増築された沿海州研究協会の建物 現在は国際展示会センター(アルセニエフ博物館の支部)。』と書かれ「地図No14(裏)」の二葉亭四迷の写真の下の掲載された建物は『1890年に建てられた沿海州研究協会の建物』と記されている。
1890と1908と年代は違うが、どちらも「沿海州研究会の建物」とあり、1908は増築されたある。ならば同じ建物なのか?写真では大きさが「1890(大)→1908(小)」なので建て替え?
私の推測では写真の感じからピョートル大帝通りに1890年の建物があり、1908年の建物は新に今の場所(凱旋門横のスヴェトランスキー横町)に建てられたのではと思う( 確証なし)。二葉亭四迷は皇太子凱旋門横の沿海州研究協会の建物で読書会やロシア人との交流をしたのだろう。
石光真清の四部作第二巻「曠野の花」に二葉亭四迷が登場する。二人はともに明治元年生まれの同い年。真清は1900/明治33年留学先のブラゴベシチェンスクで在留清国人がロシア軍に虐殺される「アムール川の惨劇」を現地で目の当たりにした。義和団事件の渦中でもあり、その後ロシア軍は満洲を占領して行く。
真清はロシア軍の清国人虐殺、満洲侵略を見てロシアに脅威を感じた。直後にウラジオストクから電報を受け戻る。そして軍に復帰し諜報員としての命を受けハルピンに潜入し洗濯屋を開く(1900/明治33年後半)。店は繁盛し愛琿で知り合った“お花”に店を任せてハルピンより南への満洲の諜報活動に出る。命からがらの南進潜入からウラジオストクに戻った真清は、今度はハルピンに諜報活動の拠点として写真館を開く命を受けた。
1901/明治35年8月写真館開業のためのロシアの許認可に苦労した。その写真館は“お花”が仕切る洗濯屋から四丁ほど南に無事に完工。しかし真清の正体が噂になり、それを消すために真清は写真館から離れ、またも諜報活動に出る。行き先は朝鮮の元山(ウォンサン)→城津→吉州→鏡城→富寧→会寧→鏡城→局子街→穏城→暉春→波西図→ニコリスク。
そしてほとぼりの冷めた頃ハルピンに戻る。写真館(菊池写真館:菊池正三は真清の仮名)はロシア軍の絶大な信頼を得て指定写真館の如く様相となり、大いに繁盛し必要な情報も取得出来るようになっていた。 そして洗濯屋は同じハルピン在住日本人に¥1500円で売却し、店を任されていた“お花”はその店の譲渡金とそれまでの営業益も合わせて¥4500円を真清から受け取った。
そして真清は再び南下して奉天を目指したが長春までしか行けずハルピンに戻る。そして一旦ウラジオストクへ“お花”と一緒に戻り、1901/明治34年10月 故国日本に大金を持って帰国する“お花”をこのウラジオストクの港から見送った。
“お花”は女郎として1897/明治30年、大陸に連れられて来てから4年の間、辛い商売を続けて転々と流浪し、黒龍江省の大頭目宋紀に買われて血腥い生活をしたが義和団事件のため身一つとなってハルピンの真清の許に転げ込んできた運命の女性である。 過去を清算し懐中に¥4500円の大金を携えて両親の待つ日本へ戻った。14年後の大正4年の秋、ある人からの知らせによると、しっかした農家に家庭を作り堅気に暮らしているとのことであった(曠野の花)。
ちなみに明治時代の1円を現在の貨幣価値に換算すれば「3000〜3800倍」とも1円が2万円という説もあるが、1円が3800円なら¥4500×3800=¥1千7百10万円。もし1円が2万円なら¥4500円は9千万円の大金となる。
http://matome.naver.jp/odai/2138690798463379701
真清がウラジオストックで“お花”を見送った直後の明治34年10月25日、参謀本部第一部長・伊地知幸介少将が、田中国重大尉(後の陸軍大将)を随行して秘そかに来港する。二人は下船せず、真清と武藤信義大尉(後の大将)は三日間船中で報告をした。 その場で真清は軍の職を離れて一民間人として諜報を本格的にやるようにとの依頼を受ける。
真清は明治34年12月18日帰国し郷里熊本に戻り嫁の実家に寄ったあと家族の待つ東京へ24日に到着。翌1902/明治35年2月7日満洲各地に諜報の為の写真館出店にウラジオストクに戻る。2月15日にはハルピンの菊池写真館に着いた。真清も予想外の大繁盛だったようだ。この頃から北京を本拠とする志士の一団、横川省三・沖貞助・嶋川毅三郎・長谷川四迷(二葉亭四迷)・河津政次郎・・・浪人組みが三人四人と写真館に寄宿していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B7%9D%E7%9C%81%E4%B8%89
その頃真清はロシア軍の資料を手にいれた。そして寄宿していた二葉亭四迷にその翻訳を頼んだが四迷は「こんなつまらんものは嫌だよ」と言い放った。“それでも”と頼んでも承知せず。これで四迷との交友も終わりだと思った真清だが、四、五日後に四迷が飄然(ひょうぜん)と写真館に現れ相変わらずのん気な話ばかりして、翻訳の一件はとうに忘れていたふうだったとのこと。二葉亭四迷とはそんな人物だったようだ。 -
「地図No14」旧アムール研究協会
-
「No14」だけ二ヶ所離れた所に記載されている
ニコライ皇太子凱旋門の傍にあるこの建物
上記地図上の建物の写真と同じ建物があった -
もう一ヶ所の「No14」はディナモ・スタジアム近く
セミョーノフスカヤ通りに記されている
こっちは二葉亭四迷が浦潮で滞在した場所だと思う
建物は確認できず。徳永商店は当時一等商店だった -
地図裏面には二葉亭四迷の写真と説明があり
地図表面の写真とは異なる下記の建物の写真が掲載されている
セミョーノフスカヤ通りにこの写真のような勾配はない
この写真は説明にあるように「ピュートル大帝通り」だと思う
https://www.google.co.jp/maps/@43.1145592,131.8924969,3a,75y,41.83h,84.13t/data=!3m6!1e1!3m4!1ss-6F_rm7NKquBS9-v_ZvBw!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
ペトラ・ヴェリコボ(Петра Великого:ピョートル大帝)通り
「セミョーノフスカヤ通り」に記された「No14」の場所には
四迷を招いた徳永商店の建物があったのでは(推測)
「No14」には「徳永湯」があった
フォンタンナヤ通りには「徳永旅館」もある
このあたりに四迷が滞在していたのだろう。
http://www.jp-club.ru/wp-content/uploads/2010/12/jstores.pdf -
潜水艦博物館に中国人の一団を発見
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潜水艦博物館
凱旋門の次に“M君”が案内してくれたのは、今日の散策オプショナルツアーに入っている潜水艦博物館。直ぐ近くにある。“M君”が入場券を買っていた。潜水艦の前には30人以上の中国人団体が入場を待っていた。中国人一団が入ってしばらく間を置いて入ったがまだ中に一杯いた。潜水艦の機関部は撤去して展示場になっている。
潜水艦の見学なら「呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)」と同じ場所にある「海上自衛隊呉史料館 / てつのくじら館」の方が無論段違いに見応えがある。この「潜水艦С-56博物館」はポンコツで性能も悪そうだ。
http://www.jmsdf-kure-museum.go.jp/
ソ連の潜水艦の実戦戦歴は知らない。でもこの展示潜水艦は13隻(ウラジオストクで記念艦)の撃沈戦果があるそうだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/rybachii/23602101.html
1905/明治38年5月27日バルチック艦隊を日本海軍が一挙殲滅した。以来ロシアと日本の大規模海戦はない。
潜水艦の艦内に今も独裁者スターリンの写真が飾っていた。ロシア国民は幾ら人間的に残虐非道でも“強さ”が優先されるような気がする。特に対外的には絶対の強さを前面に押し出し対峙しなければ国民の支持は得られないのだろう。そんな気がする。プーチン人気もそうだ。
中国人たちの潜水艦内での行動を見ているのが面白い。どこでもそうだがポーズを取って写真を写しあっている。ロシアと中国は国境を接し直ぐ隣なので費用も手頃なのだろう。中韓はビザも不要のようだし。北朝鮮もそうなのか?ボロ過ぎるお粗末な潜水艦を出た。 -
敵潜水艦に潜入す、お粗末なり
1905/明治38年5月27−28日:日本海海戦
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、
コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」 -
今もスターリンの肖像写真を飾っているのか?
皇紀2675年(2015)の日本は建国以来、大虐殺の歴史はない -
魚雷発射管の前でスマホで撮影タイム
とりあえずセットを整えポーズをとって
人間観察は面白い! -
そうかこれが潜水艦博物館なるものか・・・。
百聞は一見に如かず
来て見て「なんやこんなんか」と拍子抜け -
潜水艦の傍のアンドレイ教会で挙式をしたのか?
結婚式の写真撮影をしていた
短期滞在なのに何組かの結婚式に出会った
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■「地図No5」旧杉浦商店
中央広場に戻ってきたら広場一杯に店が出て活況を呈していた。金・土の週末の二日間開かれるらしい。そこから次はフォーキン提督(Адмирала Фокина)通り「地図No5」旧杉浦商店に行き写真を撮った。
この杉浦商店の建物も帰国後この旅行記を書きながら「函館日ロ交流史研究会」のHPに「訂正します」という頁があり、そこには『右隣の2階建ての看板が掛かったのが旧杉浦商店』との説明がある。
http://hakodate-russia.com/main/letter/28-06.html
しかし明治35年発行の「浦潮案内」にこの杉浦商店の写真が「日本人一等商杉浦商店」と掲載されている。その写真の建物は二階が三階建てに増築されているがこの建物で間違いないと思うけど・・・。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767171
シベリア出兵の日本軍がウラジオストクから撤退した1922年頃までの日本人街を記した『「浦潮の日本人商店・企業」1915/大正4年−1922/大正11年』地図を見れば、この杉浦商店の並びには朝鮮銀行・大倉商事・林回漕店・倉岡商店・梅田商店・菅沼八郎商店・森商店が並び、森商店の奥は森旅館があった。
http://www.jp-club.ru/wp-content/uploads/2010/12/jstores.pdf
地図を見れば一見して分るがウラジオストクの主要な幹線道には、どの道も日本人商店が当時はひしめく様に道沿いに並んでいる。シベリア撤兵後、革命派がウラジオストクを支配しソ連化と共に日本人はウラジオストクから離れた。
その頃のウラジオストクのことは「リラの花と戦争」戸泉米子(著)を読めばよく分る。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-9976768737
帰国後この本「リラの花と戦争」を知り電子書籍を購入し読んだ。米子は9歳でウラジオストクの叔母の元に来て、その後をこの地で過ごし浦潮本願寺最後の住職の妻となる。 そして革命を経て激変するウラジオストクで子供を生み、スターリンの大粛清の悲劇に巻き込まれながらも浦潮で暮らす。
しかし日本が1936年(昭和11年)11月25日独防共協定調印後日本人男性は拘引その後流刑され、外交官を除き全員退去命令が出る。昭和12年日本女性子供たちは夫を残し日本へ帰国した。戸泉米子は生涯を日ロ親善に捧げ2009/平成21年96歳で亡くなった。 -
中央広場で「金・土」開かれている露店市場
広場は市場を開く車でぎっしり、道まで溢れている -
「地図No5」旧杉浦商店
-
「地図No5」旧杉浦商店
-
旧杉浦商店
「浦潮案内」コマ番号「19」に上記写真あり
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767171 -
明治35年(上写真)と現在の建物は、どう見ても同じ
杉浦商店は1891年には一等商店として
ロシア・ドイツの商店と肩を並べ隆盛していた
日露戦争勃発で一時閉鎖になり戦後再開したが
1908/明治41年大きな負債を抱え倒産した -
二葉亭四迷の一生」内田魯庵(著)によれば
『その頃浦塩で最も盛んに商売していたのは杉浦龍吉で、
杉浦が露国における日本の商人を代表していた。』
『徳永は新進であったが、杉浦と拮抗して
大いに雄飛しようとしていた』・・・とある -
ボグラニーチナヤ(Пограничная)通り(旧コレイスカヤ通り)を南に歩く
前方にアムール湾が開けている
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■散策を終え昼食に
旧杉浦商店からそのままフォーキン提督通りを西に歩きディナモ・スタジアム前を左折してボグラニーチナヤ(Пограничная)通り(旧コレイスカヤ通り)を南に歩く。そして海岸沿いのナーベレジナヤ(наб:堤防)通りを歩きオケアン映画館前を通ってウラジオストク駅方向に向かった。スポーツ湾に面した海岸沿いには高級高層マンションが並び立っていた。値段は如何ほど?“M君”に聞くのを忘れた。
オプショナルツアーの散策の最後は昼食で終了。そして“M君”が案内してくれた美味しいレストランは、『Bar & Grill「Brothers」』。その時は場所は分からなかったがプリモーリエホテルのすぐ傍だった。
メニューはロシアの食べ物ということでボルシチ以外は全て“M君”にお任せ。それで出てきた料理は、肉にパンにロシア餃子:ペリメニ(пельмени)。餃子は肉入りで一個食べたが旨いと思わず。残りは“M君”がお持ち帰りだった。頼んだ料理を待っている時に、日本人男女の二人連れが入ってきて店員との遣り取りに困っているようだった。
そこで“M君”が助けに入り一緒のテーブルで食べることになった。最初は夫婦なのか?と思ったが、男性は「投資家andビジネスコンサルタント」であり、また生け花の普及のために生け花師範として中国・ロシアなどで活動しているとのこと。女性は化粧品の代理店をされているようで、生け花も化粧品もどちらも“美”に通じるので揃っての活動ということなのだろう。二人は休憩のために立ち寄っただけですぐに「約束の時間だから」と出て行った。
昼食代は二人で¥3930ルーブル(¥7400)也。私は腹一杯でデザートは頼まなかったが、“M君”は遠慮なく食後のケーキを頼んでいた。最初出会った時から“M君”の胸板の厚さに驚いたが、やはり筋トレが趣味のようで学生時代は腕相撲のチャンピオンだったらしい。胸板も腕の太さも私の倍以上あった。腕相撲のコツを熱弁してくれた。懸垂も誤魔化さずに最低20回は出来るとのこと。
“M君”はイルクーツク出身でご両親ともアスリート。お兄さんも“M君”以上に逞しいとのこと。こんな連中と日露戦争で白兵戦を戦っていた。日本人も昔の人は少なくとも今より頑健だった。高砂市に暮らす祭り好きの後輩が「神輿が昔と同じ人数では担げないから担ぎ棒を長くした」と言っていた。
昼食を終え“M君”と別れてホテルに戻った。午前中の歩きは、“M君”のあとに付いて歩いただけなのでウラジオストク市内の土地勘は東西南北不明。やはり一人で地図を見ながら振り返り振り返り歩かないと把握は出来ないし、自分が今何処にいるのか分らないと旅の面白さも半減する。 -
ナーベレジナヤ(наб:ナベ、堤防)通りにあるオケアン映画館
“M君”の説明を聞きながら二人でひたすら歩いた -
スポーツ湾が広がる
-
昼食はプリモーリエの直ぐ近くにある
『Bar & Grill「Brothers」』
洒落た店だったけど
https://www.google.co.jp/maps/place/The+Brothers+Bar+%26+Grill/@43.1100394,131.8772395,3a,75y,90t/data=!3m8!1e2!3m6!1s-McMK-Kf-7ms%2FVbujqttLNlI%2FAAAAAAAAPEs%2FZE_1Aw7frqw!2e4!3e12!6s%2F%2Flh6.googleusercontent.com%2F-McMK-Kf-7ms%2FVbujqttLNlI%2FAAAAAAAAPEs%2FZE_1Aw7frqw%2Fs203-k-no%2F!7i3264!8i1836!4m5!1m2!2m1!1z0JHQtdGB0YLRg9C20LXQstCwLCAzMiAoIEJlc3R1emhldmEsMzIgKSAsVmxhZGl2b3N0b2s!3m1!1s0x0000000000000000:0x6d5f8c8b1510cc29!6m1!1e1?hl=ja -
12:36
夜がメーンなのか?
昼時なのにお客は少なかった -
ロシア料理の定番「ボルシチ」
2008/平成20年5月14日「哈爾濱」のロシア料理店
そこで食べたロシア料理は凄く美味しかった
その時と比較したら残念ながら今一だった
http://4travel.jp/travelogue/10248491 -
最後に出たのがこのロシア水餃子
やっぱり「餃子の王将」の焼き餃子の方が旨い -
14:24
浦潮散策の一歩はいつも駅から始まる
古代ロシアの宮殿をイメージして作られた駅
なかなか洒落たデザインで色彩も美しい
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■一人での浦潮散策
午後1時半に“M君”と別れ一旦ホテルで小休止。午後2時半にはまたウラジオストク駅に来ていた。やはりその建物が街のどこにあるのか?位置関係が分らないと全然面白くない。地図を片手に道を確認しながら自分が今どこにいるのか分ってこそ「俺は、今ここに来ているぞ!」と思える。
駅前は広場なくバス停留所が並び折角のシベリア横断鉄道の起点も駅前はセセコマシイ。駅内部は写真はダメ?というようなことが「何かのブログ」で書いていたので、気になり堂々と撮ることは出来ず。今の駅舎は1912/大正元年、古代ロシアの宮殿をイメージして作られている。天井高く内部も美しい。
次に朝は写真だけ撮った「地図No8」旧横浜正金銀行:現在:探検家の名を冠した国立アルセーニエフ博物館に入った。まず目に入ったのは黒澤明監督:映画デルス・ウザーラでお馴染みの「虎」の剥製。ニコライ皇帝のコーナーや昔の写真もあったが説明がロシア語だけなので何も分らず。
私の興味は日本コーナーだった。日本人の写真は数多く展示されていたが写真の古さを感じるだけでロシア語の説明で皆目分らず。写真を撮って日本で調べたら「1891/明治24年函館での宣教師と日本人」「日本赤十字社から派遣されたウラジオストクで働く医者と看護婦さんたち(1918頃)」「1905/明治38年日露戦争での捕虜となったロシアの将校と日本の将校」他、日本人関連の写真が多数展示されていた。
http://hakodate-russia.com/main/web/urajio/
1994/平成6年、戸泉米子(82歳)がウラジオストク解放後四度目の再訪時、この博物館に入り「日本人コーナー」を見たら遊郭で働く女たちの写真ばかりだったそうで、その時同伴していた「哈爾賓物語 : それはウラジオストクからはじまった」の著者:杉山公子さんと一緒に博物館の館長に頼み資料を提供して三年掛けて充実した展示となったとある。折角日本関連の展示をするなら日本語の説明も併記して欲しい。 -
折角の駅も駅前があまりに風情なくガッカリもええとこ
宮殿駅とこの駅前にはギャップがありすぎる
駅前に噴水と美しい花壇があればまだしもだが
何とかしろよ! -
駅舎内は天井ドーム型で美しいけど
この椅子が木製椅子でクラッシック調であれば
どうせならもっと気合を入れて宮殿駅にしろ -
アルセーニエフ博物館(旧横浜正金銀行)玄関
②浦潮旧日本人街散策マップ(5~10)
https://youtu.be/-Bb3kqgSKnI -
アムール虎のお出迎え
『虎は死して皮を留め人は死して名を残す』
敗戦までの日本人に偉人英雄は数多(あまた)いた
戦後日本に私が尊敬する日本人は一人もいない
属国に甘んじる国民から偉人英雄は出るはずもない -
栗田(курита)医師と看護婦
左端「母・大川」記
http://hakodate-russia.com/main/web/urajio/tenji-urajio.html
1994/戸泉米子の指摘で日本人コーナーは充実したそうだ
他にも日本関係の多くの写真があったがロシア語のみ
残念ながら詳細は分らない。医者と看護婦の写真は多かった -
診察中の栗田医師、左は大川看護婦
昔は看護婦、今、看護師
やっぱり看護婦は優しい女性が良い
衛生兵は男・看護婦は女が当たり前だ -
連合国のシベリア出兵の大義名分
「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B3%E8%BB%8D%E5%9B%A3
そのチェコ軍団のウラジオストク行進/1918
チェコ軍(総勢約3万4千)のウラジオストクから
米国経由での帰国は翌1919年12月からとなる -
1918/チェコ軍団の浦潮行進
戦争があれば人生は翻弄される
人類の歴史は戦争の歴史・・・か
昭和25年生まれの私は生まれた時代が良かったのか?
米国の属国、支○○鮮に舐められての人生も贅沢なのか? -
ウラジオストクの横断歩道はツートンカラー
何で黄色と白色にするのか?
白色だけだと降雪で見難くなるから?
取り締まりが厳しいらしく車は止まる
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■シベリア鉄道に乗車す
午後3時半頃、博物館から出て4時発のシベリア鉄道に乗るために駅に向かった。ウラジオストクの横断歩道は「黄色と白色」の交互のペイントになっている。信号機のない場所でもこの横断歩道を渡り始めたら車は大概停止する。“M君”も「ここは車が止まるから大丈夫」と言っていた。
ウラジオストク駅の横にある切符を購入した新駅舎からホーム降りて乗車する。行き先はここから三つ目の駅「フタライェ エリチカ:Вторая речка」
https://www.google.co.jp/maps/@43.1640841,131.9054494,3a,75y,298.5h,95.95t/data=!3m6!1e1!3m4!1syB4VFfF8grdBvm1AaQQ7qw!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
車両は新しそうで中も綺麗だった。ただその広さ・大きさに驚いた。「へェ〜広軌の車両ってのはこんなに広いのか・・・」と。真ん中通路で左右に三座席、乗客もまばらで列車は定刻に発車。車両がデカイということは動かすにはエネルギーは沢山必要だ。
ただデカイが良いとは一概に言えないことが実際乗ってみて良くわかる。一番よいのはお客の人数に合わせてその都度必要な大きさがベストだろう。即座に伸びたり縮んだり、広くなったり狭くなったりが可能なら・・・。乗客の立場では無駄に広くても無論OK!
“M君”は「三つ目の駅、時間は15分ほど」と言っていたが、不安は不安だった。言葉が出来ない一人旅はどうしようもない。「乗り越したらどうしよう?」「ちゃんと帰りの列車に乗れるかな?」とか、みんないらない心配だったが取り越し苦労は得意。死んでも直ならない。
二つ目の駅を過ぎて少しだけアムール湾を見ながら走ったが直ぐに到着。あまりに近く田舎の風景を見ないままフタライェ・エリチカに到着。外に出る前に出口改札に座っていた女性駅員にウラジオストク行きの時刻を聞いた。ここからウラジオストク行きは「17:40(発)」。 -
空港行き「アエロエクスプレス」の駅舎
2012/開業:ウラジオストク駅の左隣りにある
新旧駅舎が並び立つ -
シベリア鉄道初乗車
三つ目の駅・・・か、乗り過ごさないように
初はなんでも不安が先に立つ -
デカ!幅広だ、これが広軌の車両なのか・・・と
でも乗客少なければ非効率は疑いない -
左手にはアムール湾
もっと何もない田舎の景色を見たかった
何せ15分ほど、これなら徒歩の距離ムムム -
三つ目の駅にあっと言う間に到着
「ここはどこ?」っていう感じで降りた
///////////////////////////////////////////////////////////
■フタラヤ・レーチカ(Вторая Речка)駅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%AB%E9%A7%85
フタライェ エリチカに滞在可能は1時間20分。万一乗り遅れても次もありそうだしこの距離ならタクシーでも帰れる。真新しい駅舎を出て振り返って駅の写真を撮ろうと思ったら、駅名を標示した看板がない。ただ四角い建物が無造作に突っ立っているだけだ。「へェ〜、なんやねん。おもろいな」見た限りどこにも駅名標示はなかった。
駅前商店街を歩いた。バラックの店が軒を連ねて中国の市場の風情だが店主も中国人が多いようだった。大きな店舗も内部には雑多の商店が入り、まるで中国と変わらぬ雰囲気。途中音楽CDショップがあり土産にカチューシャなどのロシア民謡が入ったCDを買おうと入る。言葉は通じないが口ずさんだら直ぐに分ってくれた。感じの良いロシア人中年女性が探してくれが置いてなかった。
少し奥に歩いたら大型スーパー「レミー:Реми」があった。極東ロシアのスーパーマーケットに初潜入。ショッピングカートもちょっとデカイ、肉の塊も大きい。その他惣菜もあったし日本の麦酒も置いてあった。中の喫茶コーナーでココアを頼んで小休止。レジは大きな長方形テーブルでレジ係りが斜めに交互に座っている。両側から客が順次はいって行く。
ウラジオストク郊外「フタライェ エリチカ」での短い散策を終えて駅前広場のキヨスク横のベンチに座って高校生?のたむろしている様子を見ていた。男子グループと女子グループが別れて駄弁っていた。「シトー(何?)」って言っているのが分ったけど・・・。
この少年少女たちの先祖がシベリアを横断してこの極東に住み着いたのは何故?この若者たちの将来は如何に?ここに百年前まで日本人が沢山暮らしていた。百年は何もかも変える。百年後のここは?今ここで息をしている者は誰も存在していない。
フタライェ エリチカの短い滞在を終えウラジオストクに戻る列車に乗る。戻りの列車はボロかった。ロシア人と言っても人種も雑多なのでいろんな人が乗っている。高齢者も多く座っていた。肥満の老女が自分の身体を持て余すかのように椅子に座っている風景はロシアだ。中国の列車内のような喧騒はない。“おばあちゃん”同士の話し声はあるが大概大人しく座っていた。 -
駅舎の上から外を写す
こんなところか??? -
駅舎を出て振り返って駅を写そうとしたが
「駅名がない!」「どこにもない」
右端赤布に書かれた文字は「Аренда:家賃」
電話番号に下記に記され不動産屋の看板のようだ -
駅前にこんな市場が軒を連ねていた
店をやっているのは大概中国人のようだ -
ちょっと大きなスーパーがあったので入る
「レミー:Реми」 -
中は日本とそんなに変わらぬ風景がある
肉の塊はやっぱり大きいけど -
店内の一画にあった喫茶コーナーで小休止
120ルーブル、ココアを頼んで飲む
「味は記憶にあらず」→普通だったのだろう -
こんなレジは日本では見たことない
レジのお姉さんは座っている
幅広台の両側にお客が並ぶ -
17:35
駅に戻って来た
駅前で高校生らしき若者が
男女別グループで話してた -
プラットホームにはロシア人高齢者が
リックを担いで列車を待っていた
ロシアの年金は如何ほどなのか?
ロシアの高齢者の生活と年金事情
http://jp.rbth.com/society/2015/10/14/482667
大金持ちと貧乏人、年金は日本円1万円ちょっとのようだ
革命を経ても「差」は大。やっぱりこれがロシアの文化だろう -
戻りの列車は古かった
-
シベリア鉄道の陸橋上から金角湾を写す
//////////////////////////////////////////////////
■ホテルに戻る
駅を出てホテルに向かった。午後6時半なのに道路ではまだ配管を変えるのか?工事をやっていた。今日の昼に腹一杯食べたのでお腹が減らず、夜は部屋で日本から持ってきたパンやソーセージ、昨日買ったバナナで済ませて明日に備えて休んだ。
明日こそ旅のメーンとなる。散策マップを片手に全ての場所を制覇するつもりで歩く。歩くのが私の旅だ。今日で「浦潮旧日本人街散策マップ」の範囲は歩いて全部周れる感触を得た。明日が楽しみだ! -
18:21
金曜日夕方のウラジオストク駅前 -
道路に埋設するこの太い鋼管は何なのか?
水道管?
遅くまでやってるけど人数すくなく
工事現場の様子は今一活気がない
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