2018/06/04 - 2018/06/04
446位(同エリア3594件中)
ベームさん
詩仙堂から白川通に降りてタクシーを拾い金戒光明寺へ。
その後一旦京都駅前に戻り昼のあとバスで金閣寺へ。
写真は金閣と鏡湖池。
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー 新幹線 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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金戒光明寺右下、金閣寺左上。
詩仙堂から白川通を南へ。 -
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)。通称くろ谷(くろだに)さん。知恩院とならび浄土宗七大本山の一つ。
1175年、比叡山で修業を終えた法然がこの地黒谷に草庵を結び念仏道場を開いたのが始まり。光明寺と称したが、のち後光巌天皇より金戒の二字を賜り金戒光明寺と呼ぶようになった。パンフレットより。 -
この寺が有名なのはそんなことより、幕末時、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)の京都守護職の本陣がここだったことでしょう。
文久3年(1862)、攘夷派浪士が暴れ乱れる京都の治安維持と御所警備のため幕府は会津藩主松平容保に京都守護職を命じた。当初容保は固辞し、家臣たちも「薪を背負って火を消そうというようなもので、お家の一大事」と諌める。がついに徳川家への報恩の念が勝り容保は守護職を引き受ける。
松平容保は金戒光明寺をその本陣と定め会津藩士1000人をもってその任に当たった。京都の治安維持のためそれだけでは足りず、新撰組をも配下に使うことになる。新撰組の活動は京都の治安維持に効あったと云われる。
千人もの兵士を常駐させるにはそれなりの大きな施設が必要で、金戒光明寺が適当だったのでしょう。 -
容保はまず朝廷と幕府の融和を図り、次いで不満浪士の鎮撫策として鎮圧だけではなく、その意見も聞くという剛柔両様策を進める。
1867年11月幕府の大政奉還、王政復古をへて1868年1月鳥羽伏見の戦いで幕府軍は破れ、京都は長州・薩摩藩の支配することとなった。慶應4年(1868)京都守護職は廃止されます。
朝敵の汚名を受け会津戦争に敗れた会津藩士の運命は歴史の示すように悲惨なものでした。 -
京都守護職と新撰組の結びつきは次のようです。
1863年、幕府は将軍家茂上洛警護のため浪士組を結成した。主要メンバーは有名なところでは清河八郎、近藤勇、芹沢鴨、土方歳三など。
入洛ご清河と近藤らの間に意見の対立があり清河ら多くは江戸に帰るが、近藤、土方、芹沢らは京都残留を望み、名を新撰組と改め京都守護職の配下に組み入れられることになる。 -
説明板。
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鳥羽伏見の戦い等で亡くなった会津藩士350余名が葬られています。
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伽藍配置。
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参道を行くと石段の上に見上げるような大きな山門があります。
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当初1400年頃の建設だが応仁の乱で焼失、1860年再建されたもの。
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山門。
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額、「浄土真宗最初門」は後小松天皇宸筆だそうです。
法然上人の教えがここから始まったことを示すものです。 -
御影堂/大殿。
法然上人75歳の像を祀っています。
昭和9年焼失し昭和19年の再建。 -
法然上人75歳の御真影。
パンフレットより。 -
御影堂。
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同。
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説明板。
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梵鐘。
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山門を内側から。
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同。
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阿弥陀堂。
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当寺で一番古い建物で、1605年豊臣秀頼により再建。
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境内の仏像。
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同。
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会津藩殉難者墓所。
鳥羽伏見の戦い他で亡くなった会津藩士352名が弔われています。
パンフレットより。 -
墓地。
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松平なにがしの名があります。会津松平家の一族でしょう。
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金戒光明寺全景。
パンフレットより。 -
一旦京都駅前に戻りました。
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京都タワー。
下のビルも含め高さ131m、京都一です。昭和39年完成。
エッフェル塔もルーヴルのガラスのピラミッドも時と共に周りに馴染んでいきました。京都タワーもそうなってきているようです。 -
駅前の地下街ポルタ。
修学旅行生のおみやげの物色で賑わっていました。 -
ポルタ。
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同。
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どこで昼にしようか。
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ここでラーメンを食べました。
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旅館からは修学旅行生たちがぞろぞろ。皆ポルタに潜り込んでいきます。
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これから旅行代にセットになっていたバス一日乗車券を使います。
京都市民は観光客の異常な増加で市民の足であるバスの混雑でひどく迷惑をこうむっているそうです。対策の一つとして最近バスの一日乗車券を500円から600円に値上げし、一方地下鉄・バス一日券を値下げして乗客の分散化を図っています。 -
バスで金閣寺へ。東本願寺前を通ります。
今回私たちが乗った限りでは観光客による混雑、大きなキャリーバッグの持ち込みなどの光景は見られませんでした。シーズンはずれの好い所でしょう。 -
東本願寺。
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車内の行先表示。
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烏丸通りを北上中。
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四条烏丸。
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観光地ならではの行先表示。
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二条城まえを通過。
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二条城。
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千本通りと今出川通りの交差点千本今出川。左折して今出川通りに。
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同。
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この行先表示、気に入りました。
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突き当り、嵐電北野白梅町駅を右に曲がるともうすぐ金閣寺です。
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金閣寺到着。
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パンフレット。
正確には「鹿苑寺」というお寺ですが、金箔を貼られた舎利殿「金閣」があまりにも有名で「金閣寺」と呼ばれます。
足利義満の山荘北山殿だったがその死後遺言により夢窓国師を開山として寺になった。寺名も義満の法号鹿苑寺殿の2字をとり鹿苑寺と名付けられた。
臨済宗相国寺派の禅寺です。金閣寺、銀閣寺とよく対比されますが、ともに相国寺
の塔頭で足利歴代将軍が創建、いわば兄弟寺みたいなものです。 -
参道。
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境内案内図。
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鹿苑寺境内図。
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人は少ないようですが総門を入ると観光客でごった返していました。
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総門。
境内入口です。 -
拝観料を払うとこんな大きなお札を貰えます。入場券替わりです。
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鐘楼。
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庫裏。
坊さんたちの居住部分です。 -
途中で折れた様な異様な大木。
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金閣が見えました。
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池は鏡湖池。
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何とも美しい眺めです。
足利義満は金閣を中心とした庭園で極楽浄土を現世に現わそうとしたと云われます。 -
手前の島は葦原島。
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一層は寝殿造り。
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二層と三層は漆の上から純金の箔が貼ってあり、屋根は椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねたこけら葺きです。
昭和61~62年にかけ昭和の大修復が行われ、金箔の貼り替え、漆の塗り替えが行われています。 -
池の周りを周遊できます。
池には葦原島などいくつかの島や諸大名の献納した畠山石、細川石ほかの名石が配され、衣笠山を借景とした庭園は室町時代の代表的な池泉回遊式庭園で、国の特別史跡及び特別名勝に指定されています。 -
池沿いに金閣の裏側に回ります。
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鏡湖池。
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同。
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池沿いの建物。
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金閣の裏側です。
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やはり池を前景にした眺望のほうが優れていますね。
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右に突き出た建物は「漱清(そうせい)」。
厠とも釣り場とも船着場とも。 -
金閣、実は比較的新しいものなのです。70年近く前の事で、ご記憶の方も少ないと思います。勿論私もそんなことがあったような程度の記憶です。
昭和25年(1950)、21歳の寺の学僧の放火により国宝だった舎利殿(金閣)が炎上し全焼、足利義満の木像(国宝)など貴重な文化財が失われた。金閣寺放火事件です。 -
動機は社会や寺に対する不満、自己コンプレックスなどが取りざたされましたが不明です。本人は裏山で自殺を図ったが未遂に終わり、母親は警察の事情聴取の後保津川に身を投げ自殺しました。
舎利殿は昭和30年、前にもまして美しい姿に再建されました。 -
焼け落ちた金閣。ウイキより。
小説三島由紀夫の「金閣寺」、水上勉の「五番町夕霧楼」に放火事件について描かれています。 -
金閣の裏の岡には遊歩道があり周遊できます。道沿いにいろいろ尤もらしい名前を付けたものがありました。
銀河泉。
足利義満がお茶をたてるのに使った水。 -
巌下水(がんかすい)。
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足利義満が手洗いに使った水。
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金閣寺垣。
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龍門瀑(りゅうもんばく)と鯉魚石(りぎょせき)。
鯉の滝登りを表しているそうです。 -
鯉魚石。
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?
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安民澤(あんみんたく)/池。
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安民澤。
小島に立つのは白蛇の塚。白蛇は古くから水神様として信仰されていました。 -
白蛇の塚と安民澤。
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今まで2回金閣寺を訪れていますが、金閣を見るだけで引き返していました。裏山をめぐったのは初めてです。
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休憩所。
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不動堂。
本尊は伝弘法大師作、石不動明王。鹿苑寺で最も古い建物。 -
同。
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京都の老舗が屋台を出しています。
文の助茶屋。 -
大安。
そういえば千枚漬を土産に買うのを忘れた。 -
郵便局も出張サービス。
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では世界遺産金閣寺を後にします。
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最後にパンフレットより金閣と鏡湖池、庭園の全景。
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