2018/05/28 - 2018/05/28
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mirilinさん
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マイレージが切れちゃう!!ってことで、急遽決めたソウル旅行。
韓流スターのファンミなどで、既に4回訪れているソウルですが、市内から出たことがなかったこともあり、今回は郊外に行ってみようと思い、世界遺産「華城」と「行宮」のある「水原」に行ってみることにしました。
ま、ハマった韓流ドラマの舞台が水原市だったこともあります(笑)
そんな、適当な動機での水原訪問でしたが、全長5.7kmの城壁に囲まれ、四方に壮大な門を構える「水原華城」は、とても壮大。城壁ウォークは、混雑もなくのんびりと歩くことができるので、ソウルの雑踏に疲れた時にはちょっと足を伸ばしてみるのに最適な場所でした。
(実は初日の昨日、雑踏を歩きすぎて朝から既に少々疲れてました…)
城壁は歩いて一周することが出来るのですが、結構なアップダウンもあり、季節先取りの夏日で日差しがきつかったこともあって、約半周を歩いてギブアップ。また次の機会に残りを歩くことにしました。
まずは、ソウル出発から最初に行った「水原華城」の中にある「華城行宮」の様子から…
後半の城壁ウォークの様子はこちら:ソウルをちょっと離れて世界遺産「水原華城」に行ってみました~ その2
https://4travel.jp/travelogue/11459110
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
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水原には、地下鉄でも国鉄でも行けるのですが、海外に行ったら絶対「列車」に乗りたい私は、国鉄を選択。(ま、時間も半分ですし)
ソウル駅8:40発京釜線のITX-Sammaeul 1031(特急セマウォル号)で水原に向かいます。 -
国鉄のソウル駅は、屋根がガラス?なのでとても開放的で明るい雰囲気です。
この隣にある旧駅舎(今は使われていません)は、東京駅と同じレンガ造りの重厚な雰囲気なので、新旧でガラッと違った雰囲気です。 -
駅弁屋さん発見!
あれ?Hotto Motto?
ホットモットって言えば、日本では持ち帰り専門のお弁当屋さんですよね。
のり弁とかシャケ弁とかから揚げ弁当とか(笑) -
でも、売ってるものは、ちゃんと韓国っぽいものですね。
韓国の「食」は色合いが綺麗です。 -
私たちを水原へ連れてってくれるITXセマウォル号が入ってきました。
韓国の新幹線KTXに次ぐ特急です。なかなかカッコイイですね~ -
定刻8:40にセマウォル号はソウル駅を出発!
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ちょっと奮発して、1等車に乗ってみました。
予約は、もちろん日本から出発前にインターネット予約です。
いや~本当に便利になりましたよね~
韓国もポルトガルもイタリアも、どこでもコタツに入りながら予約できるんですから(笑)
30分しか乗らないのに、1等に乗るのは勿体無いっちゃ勿体無いのですが、いつも1等と2等両方乗ってみることにしているので…
ということで、1等は、広いシートの2-1席です。 -
はい、9:11水原到着です。
30分しか乗らないんですから、すぐ着いちゃいます。
通勤で乗っている電車の方が長いですわ。
車窓の風景も特筆すべきものはありません。 -
地下鉄ならソウル中心部から1時間、特急で30分の位置にある水原。
ものすごく都会です。
この4番出口を出て左に進むと観光案内所があり、もちろん日本語でも対応してくれます。
私たちも地図を貰いに行きましたが、丁寧に、乗るバスの番号が印刷された紙までくれました。 -
バス乗り場も、観光案内所の前でわかりやすいのですが、バスがひっきりなしにやってきて、みんな争うように乗り込み慌ただしく出ていくという風景におじけづいた私たちは、となりの優良タクシー乗り場からタクシーで「水原行宮」に向かいました。
時間的に通勤時間だったのか、なかなかの渋滞でしたが、15分ほどで到着です。 -
タクシーを降りるとドーンと鳥居の拡大版のような門がありました。「紅箭門」というそうですが、大きな広場を抜けて「ここからが行宮だよ」と示しているのでしょうか。
水原の「華城行宮」は、韓国の行宮の中でももっとも規模が大きく、美しいといわれています。1796年(正祖20年)、朝鮮第22代の正祖大王が水原に華城を築城したあと、八達山東部の麓に建立されました。もともと1789年(正祖13年)水原の新邑治を花山から八達山に移転するときに、官衛として使われていた建物だったそうですが、それを拡大して、行宮として完成させたものだそうです。
親孝行だった正祖が父親のお墓参りをしたあと、帰りに寄って休んだり、また母親の恵慶宮洪氏の宴を行ったところでもあります。建立当時は600あまりの堂があったそうですが、日本統治時代に正殿である「奉寿堂」が医療機関の慈恵医院(地方に立てた近代式の病院)として使われるようになると、ほとんどの施設が壊されてしまったとか。その後、1975年に「水原華城」の復元とともに「行宮」の復元工事も行われ、2003年に一般公開されることになりました。(ソウルナビの受け売りです) -
まずは、「新豊楼」華城行宮の正門です。
1階には3つの板門が掛かった通行門があり、2階は楼閣になっています。
韓国の時代劇を見ていると、この2階にズラーっと兵士が並んで、敵に弓を放っていたりしますよね~
「新豊」とは「国王の新しい故郷」という意味だそうで、正祖大王の水原に対する愛情が現れていると言われています。
この門の手前左側が入場券販売所です。 -
入場券を見せて「新豊楼」をくぐると、広い広場の奥にまた門が見えます。
この造りは、景福宮と同じく、宮殿建築の三門設置形式。次々と似たような門が現れる、韓国王宮の独特な作りです。
後ろに山があるあたりまで、ミニ景福宮って感じです。 -
そうそう、ここは、韓流ドラマの時代劇の撮影にもよく使われるそうで、日本でも冬ソナに次ぎ有名な「チャングムの誓い」のロケ地だったことから、主人公ふたりの人形も迎えてくれます。
この人形の間に立てば3ショットみたいになるってわけでしょうが、私は観てないのでスルーです。 -
2番目の門「左翊門」です。
「左翊」というのは「傍で助ける」という意味だそうで、すぐ後ろにある「内三門」である「中陽門」をすぐ前で助け、「行宮」を守る役割の「中三門」が「左翊門」なのです。 -
そして「左翊門」を抜けると大きな中庭が広がり、正面に「中陽門」が構えています。
「中陽門」は、正殿の「奉寿堂」をすぐ前で固く守る役割を持つ「内三門」です。
1790年(正祖14年)に完成し、中央の正門と、左右の「右夾門」、「左夾門」で構成されており、門の左右には、長い回廊を設置して、出入りを統制していたそうです。 -
最後の「中陽門」を抜けると、広い庭の中央にまっすぐ伸びる石畳の先にデーンと構える美しい建物が目に飛び込んできます。
これが王の行幸の際には正殿として使われた「奉寿堂」
1997年に復元されたものだそうです。
1795年(正祖19年)に、ここで獻敬王后(恵慶宮洪氏)の還暦を祝う宴が盛大に行われたそうです。ちなみにこの「奉寿堂」という名前は、万年の寿を願うという意味で、正祖が母親である獻敬王后の長寿を祈願して、この時に付けたんだそうです。このことからも、正祖の親を思う気持ちがうかがえますね。 -
そしてこちらが、その還暦祝いの時に振る舞われた食べ物たちを再現したものだとか。
あまりおいしそうではないですが…ね。 -
「奉寿堂」の中は、当時の様子が再現されています。
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(たぶん)正祖が座っています。
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そして、お付の兵士と尚宮が頭を下げているのは
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お后様ですね。たくさんの貢物が並べられているので、正祖のお母様惠慶宮の還暦祝いの時の再現なのかもしれません。
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あ、ここは観光名所ですから、スタンプラリーのように、各見所にはスタンプが置いてあります。
このスタンプの持ち手のところが、当時の王様の玉璽のような亀(贔屓=龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつ)になっているのが、なかなか凝っています。 -
「奉寿堂」の南側に、「長楽堂」という建物があります。
これは、1795年の王族の墓参に際して、惠慶宮の寝殿として作られたものだそうで、1794年(正祖18年)に完成したそうです。 -
「長楽堂」の扁額は、とても達筆ですが、なんとこれは正祖大王が、母である惠慶宮の長寿を願い、前漢の都である長安の宮殿、長楽宮から名をとって、じきじきに書いたものと言われているそうです。
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部屋の中では…惠慶宮と思しき方がくつろいでいらっしゃいますね。
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「奉寿堂」と「長楽堂」の裏側に回ると、こんな塔のようなものが何本も立っているのですが、これはオンドルの煙突だそうです。王様やお后様の居室は暖房完備だったようです。
でも、煙突のくせに素敵なデザインですよね。 -
「奉寿堂」の裏手には、官吏や女官の執務室がズラーと並んでいます。
中を覗いてみると… -
この内官は、何か一生懸命読んでいますね。壁には巻物もぶら下がっています。
烏帽子がずれちゃっていますが、必死なんでしょうか?(笑) -
この女官はお裁縫をしているそうです。
他にもいろんな仕事をしている方々がいましたが、省略。皆さん頑張って下さい(笑) -
これは「景龍館」という、長楽堂の外の門として使用された付属建物です。
この建物は、1794年(正祖18年)に建てられたもので、2階はすべて板敷になっているそうです。下の階には3間の板戸が作られており、「至楽門」と名付けられているため「至楽門」と書かれています。
ちなみに、「景龍」は帝王を象徴する大きな龍を意味するそうです。 -
「景龍館」の左側にあるのは、小さな「慶善門」
この門をくぐって進んでいくと、小さな広場になっていて何もないのですが、そこの小さな門をくぐると、またしても、広い広場と立派な建物が登場します。
にしても、あちこちにあるこの手の小さな門は、どれもこれも高さがとても低いんです。
当時の韓国人も身長は低かったのかもしれませんが、ドラマで見る両班(貴族)や、高官などの被っている帽子や、尚宮の髪型では、絶対くぐれません。
現在は、「頭上注意」と英語で書かれたプレートが貼られているところもありましたが…
まぁ、もし私が尚宮の髪型でも何ら問題ないですけどね。(←自称 大正時代の体系を守る会副会長…会長は相方) -
小さな門をくぐると現れるのが、この広い庭と立派な建物、「維興宅」です。
ここには、普段、「華城留守」が住んでいましたが、正祖が訪れた時には、しばらく宿泊して臣下に接見する建物でした。
広場には日時計もありました。 -
「維與宅」は、1790年(正祖14年)に建設された当初「隠若軒」と呼ばれていましたが、1796年(正祖20年)に増築されて、「維與宅」と名を変えたそうです。
その際、休息のための空間として「供宸樓」を1間追加したそうです。
1795年に正祖が訪れたときは、「維與宅」で各種行事に関する報告を受け、命令を下したといわれています。 -
「嘉魚門」という小さな門をくぐると…
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沢山の人達がお料理しているところに出ました。
そしてよく見ると「チャングムの誓い」の出演者の写真が飾られています。
どうやらこの辺りでロケをしたようですね。 -
こんな看板もありました。
日本でもNHKで何度もやっていましたね。
韓国ではたしか「大長吟(テチャングム)」というタイトルだったような・・・
「ドラマ<テチャングム>のスラッカン(水刺間=厨房)」と書いてありますね。
私も韓流ファンですが、これ見てないんですよね~
身分の低い女の子が宮廷料理の料理人から医女になり、ついには国王の侍医に昇りつめる話だったかと…
あらすじしか知らなかったんで、見てから行こうと思っていたんですが、長編なんで無理でした。 -
「維與宅」の西側には、「福内堂」があります。
ここは、行宮の内堂で、正祖が訪れたときに宿泊したところですが、普段は華城の留守の家族が住んでいた所です。
「福内堂」という名前は、「福は内から生まれるものである」という意味から、つけられたものだそうです。 -
ここには台所も再現されていて、当時の様子がわかります。
絶対にあの小さな門をくぐれない髪型の尚宮さんもいますね(笑) -
宮廷三門の一番外側にあった「新豊楼」の南側と北側…すなわち左右には、「壯勇外營」の「騎馬兵」である「親軍衛」が、100人ずつ宿衛していた建物があります。左手すなわち南側にあるのが「南軍営」、右手にあるのが「北軍営」です。
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「南軍営」には、勇ましい軍人さん(の人形)が並んでいます。
…クオリティはめちゃめちゃ低いですが…
ちなみに「北軍営」には軍人さんはいませんでした。 -
「南軍営」のすぐ西側にあるのは、「書吏庁」。
「書吏庁」は、文書の記録、受領、発給を担当する衙前たちが使用した建物です。
1975年の行幸の時には、水刺間(厨房)としても使用されたそうです。 -
同じような建物や門が迷路のようになっているので、何度も同じところを通ったりして、これがどこにあったかわからないのですがf(^^;) 、当時の楽器がたくさん収納されているところに出ました。
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この美しい楽器たちは、宮中行事で使われていたのでしょうが、どんな音色なのでしょうか?
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このぶら下がっているブーメランみたいなのは、打楽器らしいです。
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行宮の裏山にも登ってみました。
宮殿を見下ろすのって、なかなか素敵です。
ちなみに、正面に見えているのは「得中亭」。正祖が行宮内で矢を射たところで、すべて命中したので「得中亭」と命名したそうです。なんだか単純(笑) -
山の中腹には、こんな東屋があります。
行宮の後苑に建てた東屋として「将来年老いてゆっくり休む亭」という意味の名がつけられています。1804年に世子(皇太子)に譲位して華城に行こうとした正祖の思いが込められた名前です。 -
東屋に魚の飾りがぶら下がっていました。
ちょっと不思議です。 -
東屋から見た林越しの行宮です。
この風景なんだか好きなんです。
はっきり見えないからこそ、今も華やかな韓服を身にまとった人たちが行き交っているかのような錯覚にとらわれてロマンを感じるのです。
そして…ここまでいっぱい紹介しておきながらなんですが、懸命の再建だったかもしれませんが、塗装や人形が非常に安っぽく、ほとんど映画のセットのような出来栄えで、写真で見ている分にはいいのですが、実物はあまり期待すると残念な感じなんです。同じように再建された宮殿である景福宮が見事なだけに、なんとも残念。城壁は世界遺産なのになぁ…。 -
行宮の南側、「洛南軒」の大きな庭園(というか空き地?)の先の小さな門の奥に、今まで見てきた行宮の華やかさとは正反対の、地味~な、でも造りは立派な建物が、いくつか見えます。
これは、1801年(純祖元年)に、正祖の遺志を受けて、「華城行宮」の横に作られた正祖の影殿「華寧殿」です。
「影殿」とは、亡くなった先王の肖像画を置いて、生存のときと同じように奉安しているところのことだそうで、陰膳みたいな感じでしょうか。
「華寧殿」にも、ちゃんと宮殿建築の三門設置形式になっているのですが、現在は閉ざされているため、この横っちょの小さな門からしか入れません。 -
門を入ると正面に井戸のようなものがあります。
これは、「華寧殿」で行われる祭礼で使われる「井華水」(祈祷などに使うために早朝最初に汲んだ井戸水)を汲む井戸で、「御井」とも呼ばれる「祭井」です。
まだちゃんと水が流れていました。 -
そして、この朽ち果てそうだけど立派な瓦屋根の門「南側挟門」を抜けると本殿の「華寧殿」のある敷地に入ります。
-
これは「雲漢閣」という、「華寧殿」の正殿です。
「華寧殿」は、現在、史跡第115号に指定されています。 -
内部には、正祖大王の肖像画=御真影が奉安されていました。
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「雲漢閣」の右手にあるこの建物は、「移安庁」と呼ばれる建物で、「雲漢閣」に火災など、万一の事態が発生したとき、肖像画を一時的に避難させる場所だそうです。
「雲漢閣」とは「複道閣」という屋根付きの渡り廊下のようなものでつながっています。 -
「華寧殿」の一番北の端にあるのが、「風化堂」です。
ここは「斎室」で、祭祀のときに関係者が集まった建物とのこと。
ちなみに、「風化」というのは、「社会の風俗や国の規律を正す」という意味だそうです。 -
これが外三門です。中からは内三門が閉ざされているので、ここには行かれません。一旦外に出て外側から見ることになります。
さて、「華宮行宮」に別れを告げ、いよいよ世界遺産の城壁ウォークに向かいます。
その様子は次のブログで~
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