2018/04/06 - 2018/10/24
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サンフランさん
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仙洞御所、青蓮院、南禅寺本坊、金地院本坊、滋賀院門跡、大徳寺方丈、正伝寺、二条城二の丸庭園、清水寺成就院庭園、蓮花寺、伏見奉行所の石を利用して作庭された御香宮庭園、高台寺庭園、小堀遠州作の庭づくりの庭師であった賢庭が作庭した醍醐寺庭園など小堀遠州の庭園を見続けてきた。
明らかに遠州作と史実に基づいている庭園、寺伝により遠州作とされるも確証のない庭園、遠州風としてのこった庭園、それぞれすこしづつ異なる趣で、...
再び小堀遠州の庭園跡を確認するために再び仙洞御所に出かけました。残っているとされるのは、北池と南池の間にある出島。当初の面影はここだけなのか? 仙洞御所は後水尾上皇のお住まいであったが、何回も火災にあい焼失している。
宮内庁は桂離宮の作庭には小堀遠州は直接関与していないとしている。「遠州の影響を受けた工匠、造園師らの技と智仁親王及び智忠親王の趣味趣向が高い次元で一致して結実した成果であろう」(宮内庁パンフレット)としている。これはたぶん庭園史家の森蘊(おさむ)氏の意見を採用したものと思われる。宮元健次氏は著書の中で智忠親王が第2期工事に着手した際に関与が可能であったと論じている。確かに第2期工事で造成された部分には遠州好みの意匠が集中していて、ルネッサンスの西欧的手法が多く採られている。
智仁親王は後陽成天皇の御子であるが、後陽成天皇の御子のなかに専れを受けた親王がいたという。その証拠に桂離宮には織部灯籠(キリシタン灯籠)が7基あるという。
5月22日
桂離宮への再び、第2期工事で造成された部分を特に、またその石を見に、......
残念ながら織部灯籠の確認は2基しかできなかった。でも清水寺成就院にもある木橋が見つかった。1時間あまりの宮内庁のツアーでは桂離宮のすべてを見ることは難しい。行くたびに新しい発見がある。
10月24日
7つあるという織部灯籠(キリシタン灯篭)をなんとか見つけられないものか、今回は事前に調べて、ガイドさんにもその旨も言っておいた。
春、釈迦の誕生日に西大谷、西本願寺の法要が行われる。法要に合わせて面会所書院が公開される。伏見の朝霧志摩之助の作庭になるという。この庭園は一度見てみたかった。三神山を表す枯山水の庭! 中島と右奥の築山には数えきれない蘇鉄が植えられている。これは小堀遠州作の庭ではないか?
調べてべていたら奥嵯峨の清凉寺にも小堀遠州の庭園があるというので出かけてみた。うーん、これは違うだろうと寺伝を否定したい庭であった。残念
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
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4月6日
3度目の仙洞御所訪問
今回は小堀遠州の庭園跡を確認するためにやってきました。
今になって気が付いた
大宮御所の前にも小庭がある。 -
北池のあたりは当初は女院御所であったとされている。借景には東山が使われている。これは遠州好みの設計だ!
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阿古瀬渕と六枚橋
このへんは仙洞御所創設以前の場所らしい。紀貫之の屋敷跡を御所に組み込んでいる。ただし橋は六枚の平石を組み合わせているもので、かけられたのはだいぶ後ではないだろうか? -
南池と北池は当初つながっていなかった。
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このあたりの直線は当時のものではないか?
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後水尾院御所および東福門院御所の指図
「遠州の設計した庭園を施工したのは与四郎という庭師である。仙洞御所も与四郎の手によるものである。天皇は与四郎に褒美として賢庭の名を与えた。」(宮元健次、 京都の名庭を歩く) -
小堀遠州作庭当時の指図
中島と矩形の護岸が特徴であった。
仙洞御所は後水尾上皇の時代に作られた上皇の住まいである。後水尾院が仙洞御所に住まわれたのは、譲位した1629年から1年後の1630年から1680年の間で、女院御所も含めた火災のため4時期に分かれる。仙洞御所は同じ場所に再建されている。当初の仙洞御所は1627年に小堀遠州を作事奉行として造営は1630年まで続いた。庭園は建物より遅れて幕府は1634年に小堀遠州に作庭を命じている。北岸以外は直角に折れ曲がるきり石の護岸が造られ、築山を持つ中島が中央に設けられている。(飛田範夫 京都の庭園) -
待合室にかけられた古図の額
どうやらこれは初期のものではないようだ。 -
旧女院御所の護岸?
女院御所の庭は中島のない池が中心であった。これは当時の日本庭園としては画期的なことだったらしい。上の図を見ると女院御所の庭も矩形の直線的な護岸が設けられている。 -
この山は当初の島の一部と思われる。
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でもこちらも進入禁止
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島の一部の片鱗がうかがえる
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苔地ではなく西洋式の芝が植えられている。これは西欧の影響とみるべきであろう。
「後陽成天皇は宣教師に小堀遠州に西欧文化を伝えるように命じた。1613年、遠州に西欧手法が伝えられ、それ以降、遠州が担当した宮廷庭園にはルネサンス・バロックの庭園テクニックが用いられている」(宮元健次、 京都の名庭を歩く) -
出島は当初の中島の一部と言われている。
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この出島のみが当初のの面影なのか?
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この出島をじっくりと飽きるまで観察する。確かに出島の護岸の石は違う?
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その当初の仙洞御所の古図には従来の宮廷庭園には見られない花壇もあった。古文書によれば花壇にはひまわり、コスモスなどのヨーロッパの花々が咲いており噴水があり約30センチの水をまきあがたという。女院御所にも同様に花壇があり、池には中島がなかった。これは日本庭園の伝統を否定していた」(宮元健次 京都の名庭を歩く)
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この橋は当初のものか? この辺りには池に突き出た茶屋が建てらえていたらしい
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この大きな石の護岸はその突き出た茶屋を支えていた土台だろうか?
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当初はヨーロッパ風の矩形の池であった。家主の後水尾上皇はこれを好まなかったらしい。御所が火災で焼失した後の再建には、「焼けた石を取り外し」池を広げて、大きな州浜を設けている。
これがその州浜 -
醒花亭(せいかてい)の前にある庭園
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ここに台座がない織部灯篭? が立っている。
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さらにその前にある小山
ガイドによれば上皇はここに立ち、望遠鏡!で祇園祭を見ていたという! -
5月11日
再び桂離宮へ
宮内庁は現在、遠州作を否定している。たぶん森氏の意見を採用したものと思われる。
庭園史家の森蘊(おさむ)氏は遠州作を否定、八条の宮ご自身の設計と主張している。それは
1.小堀家譜の記載がない。
2.小堀遠州は江戸にいて工事にかかわるのは無理
3.1642年で64歳、高齢であった。1647年に没。
4.徳川と宮廷の対立で遠州は関与できず。
桂離宮は1624年第1期工事が完了
1629年 智仁親王逝去
1641年智忠親王が第2期工事に着手、古書院を修復、中書院を増築、松琴亭、笑意軒、外腰掛、卍亭を造営
また、宮元健次氏は桂離宮についてもこのように書いている。
1.第2期造営は前田家と智忠親王の婚儀に合わせたもので、遠州は前田家の茶道建築顧問であった。
2.第2期造営時時(1642年7月~9月)まで、遠州は明正院御所の造営のため京都に滞在していた。同時に桂に関与するのは可能
3.遠州の配下として明正院御所の襖絵を描いた狩野探幽、尚信、安信は桂の襖絵を描いている。同じ一団の遠州が桂に関与しないというのは考えにくい。
4.遠州は智忠親王と対面した記録がある。(宮内庁書院)
5.第2期造営とみられる個所に遠州好みの意匠が集中して、遠州以外に知りりえない西欧手法が数多く指摘できる。
6.こほう庵、南禅寺方丈、前田家の金沢城茶室は全く現場には訪れることなく造営された。現場に立ち会うことなく作られた庭園などは数多い。
7.小堀家譜には大徳寺方丈など遠州作が明らかにもかかわらず、記載がない作品は多い。
8.桂宮覚書留によれば智忠親王が将軍より離宮建設費を賜っていることから第2期工事は幕府公認である。よき約束をしたといい、この約束が遠州、狩野3兄弟の派遣を意味する可能性が高い。」(宮元健次 京都の名庭を歩く)
資金は加賀100万石の加賀藩から出されたものとガイドは説明するが、
「桂野宮覚書留」には、「徳川将軍から大判1000枚分の金で作られた分銅3個が与えられそれでできた」と書かれている。(久保秀次 桂御所)
「徳川と宮廷の対立で遠州は関与できず。」ともいえないであろう。但し、桂のこの地は、近衛家の領地であったが、師と仰いだ古田織部が桂の地を離れたゆえ、智仁親王は一時期、豊臣家の養子のなった人物で、徳川に仕えた遠州はに直接の関与は明らかにしたしたくはなかったのではないだろうか。
遠州の影響を受けた人物としては妙蓮寺庭園を作庭した玉淵坊があげられているらしい。 -
10月に入って再び桂離宮へ
今まで何回を通っているのに気が付かなかった離宮の池への水の取り入れ口 -
江戸中期の桂離宮古図
どうやらこの古図は第2期工事のあとのようだ。
ガイドは桂川と繋がっていて舟遊びをされたと説明!
確かに「X小舟所」という建物が書かれている。
表門ー御幸門から中門への直線に伸びたアクセスは第3期工事で成されたためここには書かれていない。門はあるが松林が書かれている。桂川沿いにも -
今まで見過ごしていた船泊が美幸道の左側にあった!
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紅葉の馬場は直線的に松琴亭へと向かっている。この先には橋が架かっていたと思われるが、上の古図には書かれていない。
先細りになっていて遠近感が強調されている」(宮元健次 京都の名庭を歩く) -
蘇鉄山へ上がってくる飛び石の置き方は、...
石が次第に大きくなるパスペクティブ -
大きい石へと飛び石が変わっている。
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「この飛石が桂離宮で最大の飛び石」と今日のガイドは説明した。
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蘇鉄山
蘇鉄はどうしても遠州に結びつく。このあたりは間違いなく第2期工事で拡張された場所だ。
「蘇鉄は宣教師がポルトガルの植民地ゴアなどからの献上により日本にもたらされたもので、遠州好みの植栽として知られる」(宮元健次 京都の名庭を歩く) -
二重桝形手水鉢の脇には小さな石灯籠があり、手前には大きな踏み石があります。
この石は遠州好みであるといわれている。ガイドのそのように説明する。 -
台座のない灯篭
織部灯篭? -
くの字の石と手水鉢、灯篭がこのような奥行きで置かれている。
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外腰掛の前にくの字の飛び石が置かれている。
これも遠州好みではないか? -
外腰掛から行の延段がつづく
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再び土に埋まった灯篭を発見
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中央のふくらみは織部灯篭の特徴らしい。これで十字を表しているキリシタン灯篭であろう。1基目
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1基目の右側は池の水の取り入れ口だったらしい。今はどうしているのか?桂川の水位が下がっているのでくみ上げないと池には入れられない。
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二基目は州浜の先の池のたもとにある。これまでは5月の訪問時に見つけていた。
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竿のふくらみはわかりやすい。
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2基目
この竿の部分にかラテン語で何か書かれているらしい。
ここまでは5月の訪問時に確認していた。 -
これも基礎のない竿が直接埋められている。
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卍亭の前にも1基灯篭がある。
桂離宮全体では24基の灯篭があるそうだ。 -
池に目をやれば今まで気が付かなかった木橋があるではないか! その左手の芝地も西欧的なにおいを感じる。
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振り返ってみると2基目のふくらみが確かめられる。
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3基目は中島にあった。
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これは前回見過ごしていた。確かに膨らみがある。
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4期目は松琴亭の前の船着き場にあるという。これだろうか?
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この矢じりの先のような飛び石がそれだということを書いている方がいた。
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なるほどなるほど! 膨らんでいるがほんのわずか!
これは見過ごしても仕方がない。 -
灯篭ばかり観察している。今のところは比較的小型
これは気が付かなかった!賞花亭へ上がる途中にある。 -
5基目は?
どうやらこれらしい! -
角度よく見れないが確かに丸くなっている。
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なぜか園林堂(おんりんどう)へのアクセスは正方形の飛び石に変わった。
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今まで見過ごしていた園林堂前の手水
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飛び石が45度!
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園林堂
灯篭はここは春日燈籠が置かれている。 -
園林堂から土橋を渡って
雪見燈籠が左手に -
園林堂へ外部からののアクセスにこの桜の馬場は創られたのではないだろうか?
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今回のガイドはこの延段を説明していた。確かに一つ一つの作事が素晴らしい。これは自然石で構成する草の延段。
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園林堂も第2期工事で建てられたものであろうか?
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賞花亭前の手水鉢!
灰皿のように小石が詰められている。 -
賞花亭内部
ビロードの壁紙はまさしくヨーロッパのもの
ポルトガルの宣教師がもたらしたものであろう。 -
賞花亭の前に変なものがある。
灯篭だろうか? -
とんがり帽子の灯篭
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これは足元を照らす目的だろうか?
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6個目は月見台の前にある船着き場の近くとある。これだろうか?
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どうやらこれらしい。
木の陰で見落としそうだ。 -
確かに膨らみがある。
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月破楼の入り口にもまた一つ灯篭
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古書院から月破楼への飛び石
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7基目は月破楼のあたりだという。探していたらガイドさんから左よと!
垣根の隙間から7基目が見えった。 -
というよりも御輿寄のすぐ前
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古書院の御興寄へつづく真の延段
「古書院の御興寄前庭は縦横比とそれを横切る真の飛び石と呼ばれる延段が黄金比を持つ四角形で構成」」(宮元健次 京都の名庭を歩く)
真の延段は切り石のみで構成される。 -
真の延段の奥は立ち入り禁止
ガイドさんに特別の許しをいただき1ショット -
中門
御興寄は見えていない。微妙なパスペクティブ -
この1本の「住吉の松」をアイストップとして視覚のお両脇に四角く刈り込まれた生垣で遮断した亀甲岬はビスタという手法」(宮元健次 京都の名庭を歩く)
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余談ですが最近、当日参観の枠ができました。早い者勝ちです。
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4月14日
春の法要が行われている西本願寺にやってきました。
お釈迦さまの誕生日の時期に法要が行われます。 -
その法要に合わせて面会所書院が公開されます。
その庭をぜひ見たくて、...
でも撮影禁止なんです。 -
面会所の建物はかなり大きな建物です。中は二条城二の丸御殿のような一段高い間があったり、襖絵が描かれています。
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虎渓の庭
撮影禁止です。
「渓谷は虎渓を意味し湖上に配置された三島は三神山を意味する。作庭者は伏見の朝霧志摩之助とされるが、実在が証明されていない」(中根金作、京都の庭と風土)
三神山! 中島ははっきりと見える。中島と右奥の築山には数えきれない蘇鉄が植えられている! 石橋が二つ! これは小堀遠州の庭ではないか?
蘇鉄は遠州が作庭した二条城二の丸に植えられている。桂離宮の外腰掛の前にある蘇鉄山。遠州がかかわった庭に共通する。
伏見の朝霧志摩之助とは? 実在しない人物? 遠州は伏見奉行を務めている。朝霧志摩之助とは小堀遠州ではないか? 作庭者の名前を明かすことができず仮の名前を使ったようにも思える。 -
外にでると面会所には大玄関がついているのがわかる。
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いろいろ調べていたら奥嵯峨の清凉寺にも小堀遠州の庭園があるらしいことが見つかった。
-
その本堂の裏にある池泉式庭園。
これはちがう
荒れている。誰か池に落ちたのか無粋な手すりが! -
弁天堂は本堂のうしろの池に面して建っています。この写真では弁天堂が渡り廊下の窓の間から「額縁の絵」のように見えます。弁天堂は、正面柱間三間、屋根宝形造で、正面に軒唐破風が付いています。建築年代は江戸末期ごろと推定されます。弁天堂のまわりは、池遊式庭園になっています。」(清凉寺 WEB PAGE)
-
本堂の回廊を弁天堂とその庭を眺めながら方丈の建物のほうへ歩くとそこに坪庭がある。
灯篭は基礎がない
ここであろうか? -
旧大方丈は、寛永14年(1637)に消失し、現在のものは享保年間(1716-1735)の造営と伝えられます。寛永14年の類焼以前のものは六つで早世した徳川家康の息女一照院の位牌所として、家康および実母のおちかの方の寄進になるものです。方丈前の庭は、ところどころに石を置いた枯山水の平庭で、小堀遠州作と伝えます。」(清凉寺 WEB PAGE)
-
荒れている。築山が生い茂って石がどこにあるのか見えない。
-
手水鉢が手前にある。門からの飛び石も変わったものではない。四角の飛び石
これは違う。遠州作とは到底思えない。方丈は焼失後、1716-1735年の再建とあるが、小堀遠州の没後である。庭だけが焼失前の方丈のものとでもいうのであろうか?
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