2017/03/30 - 2017/04/01
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Giorgio Bianchiさん
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イタリア留学前に軽くローマに行ってみました。イタリアは二度目ですが、ローマは初めての旅行です。ローマから電車ですぐのアンツィオという港町にも行きます。ローマでは専門分野のファシスト政権期の史跡巡りを中心に周りました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- エミレーツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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ローマまでは成田からドバイ経由でエミレーツで向かいました。
ドバイ国際空港 (DXB) 空港
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ローマ・フィウミチーノ空港に到着!ここからレオナルド・エクスプレスでテルミニ駅まで向かいます。
フィウミチーノ空港 空港
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あっという間にローマに到着。宿泊先のHotel Corot(三ツ星)にチェックインします。ローマ滞在中はここに泊ります。
コロト ホテル ホテル
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さて、まずはローマ・ラ・サピエンツァ大学へ。ローマ大はファシスト政権期の建築の代表例とされており、ピアチェンティーニを中心に多くの合理主義建築が作られています。
大学都市 (ローマ ラ サピエンツァ大学) 散歩・街歩き
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一通りローマの大学都市を見学してから、地下鉄に乗りチネチッタへ。1937年にムッソリーニによって建築された映画撮影所「チネチッタ」。ヨーロッパでも特に大きな映画撮影所で、イタリアでは現在でも最大です。
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チネチッタ見学後、近かったのでアッピア街道の水道橋公園へ。
ローマらしい景色ですね。ローマ水道橋公園 広場・公園
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あっという間に1日目は終了。帰り際にNeko Romaという漫画屋さんに行って来ました。結構品揃えが良いので、イタリア語翻訳された漫画が欲しい人は是非行ってみてはいかがでしょうか。
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2日目です。この日は朝からローマから程近いアンツィオという町に向かいます。FS線のネットゥーノ行きに乗って約1時間程度の距離です。
テルミニ駅 駅
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アンツィオに到着!アンツィオは第二次世界大戦時の連合軍の上陸作戦で有名な町で、夏季にはローマっ子たちが海水浴に訪れる町です。
また、ローマ皇帝であるネロとカリグラの出身地としても知られていますね。
それと、忘れてはいけないのは海鮮料理!ここは獲れ立ての魚介を使った海鮮料理がローマよりお安く食べれます。 -
アンツィオの海です!ここに連合軍が上陸し、防衛側のドイツ軍やRSI(イタリア社会共和国)軍と死闘を繰り広げたわけですな...
RSI海軍のMAS艇隊やフォルゴーレ空挺連隊などの活躍も有名です。 -
こちらは皇帝ネロの別荘「ヴィッラ・インペリアーレ」です。イタリア中にあるネロの別荘の一つですね。出身地であるだけあって結構広い!
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皇帝ネロの銅像。
見る角度によってポーズが変わる不思議な像です。
ちなみに同じ出身地の皇帝カリグラの像はありません... -
こちらはアンツィオ上陸作戦博物館です。
第二次世界大戦時の1944年に起こった、上陸しようとする連合軍(アメリカ・英国・カナダ)と防衛する枢軸軍(ドイツ・RSI)が戦った、「アンツィオの戦い」に関する博物館です。入館料は無料。 -
内部にはアンツィオの戦いに関する様々な軍装品が展示されています。
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RSI海軍「デチマ・マス」のバルバリーゴ海兵大隊。
RSI関係の展示もちょいちょいあります。嬉しい限り。
適当に見ていたら博物館の人がパンフレットをくれて軽く話をしてくれました。 -
博物館の見学を終え、港の方に向かいます。
港にはアンツィオの戦いの慰霊碑が建てられていました。比較的新しそうですね。 -
ジェラート!3月末だけど結構暑かったので。
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定食?20という手ごろなお店を発見したので昼食はここに。
"Da Antonio al Porto"というお店で、トリップアドバイザーでの評価も中々高いです。英語話せるスタッフもいるので安心。 -
アンティパストその1。タコとポテトのソテー美味しい!
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アンティパストその2。ムール貝(コッツェ)のスープ。
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アンティパストその3。カニクリームコロッケ。
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プリモ。ペスカトーラ。
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プリモその2。量多いなぁ。
イカの手ごねパスタ。 -
セコンド。イカとイワシのミックスフライなど。
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食後のコーヒー。ふぅ、満腹です。
このボリュームで€20イタリア全体で見てもやはり安いと思います。 -
昼食を終えてアンツィオを出発、ローマに帰ります。
そしてヴァチカンへ。
うーん、やっぱ結構混んでますね。バチカン市国 史跡・遺跡
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ヴァチカン前のコンチリアツィオーネ通りは、時のファシスト政権が教会(ヴァチカン)との和解の為に造った大通りです。ファシスト政権期のローマ改造の代表例の一つですね。
元々は建物が密集してましたが、それを全部取り壊しました。大胆。コンチリアツィオーネ通り 散歩・街歩き
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32番バスに乗って、「フォロ・イタリコ」へ。
ここは元々ファシスト政権期に造られた複合スポーツ施設で、かつては「フォロ・ムッソリーニ」と呼ばれていました。入り口にはバリッラ少年団を率いたリッチ(RSI政権期にはGNR総司令官)が建設を指揮した、「ムッソリーニのオベリスク」が聳えています。よく壊されなかったなぁ。
カッラーラ産の大理石を使っているそうで。
この施設は1960年のローマオリンピックでも重要な役割を果たしています。フォロ イタリコ スタジアム・スポーツ観戦
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この「フォロ・イタリコ」、至る所にあるファシスト政権期の名残が凄い!モザイク画も凄いです。感動....
意外にもあまり荒らされていませんし。フォロ イタリコ スタジアム・スポーツ観戦
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ファスケス(ファシズムの象徴)を持っている像もいました。
この「大理石像のスタジアム」では子どもたちがサッカーをしていました。フォロ イタリコ スタジアム・スポーツ観戦
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続いて3日目。朝のスペイン広場。
昼間は多くの人でにぎわうスペイン広場も朝は人がほとんどいません。スペイン広場 広場・公園
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初代ローマ皇帝アウグストゥスの霊廟。
ローマ帝国崩壊後は寂れていましたが、「古代ローマ帝国の再興」をプロパガンダに掲げるファシスト政権によって整備が勧められ、周囲の建造物は取り壊され、元の霊廟の姿を取り戻しました。
しかし、完全な修復の終了の前にイタリアが敗戦したことにより、以後は資金不足で未だに修復が完了していません....アウグストゥス帝の廟 モニュメント・記念碑
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アウグストゥス廟近くはファシスト政権期の名残が多いです。これはその一部。
アウグストゥス帝の廟 モニュメント・記念碑
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1944年の「ラゼッラ街爆殺事件」の舞台となったラゼッラ街の現在。
アルデアティーネの虐殺に繋がる一連の事件の発端になった事件です。
ボルツァーノ出身のドイツ系イタリア人らから成るドイツ軍がこの通りを行進していた際に、パルチザンが仕掛けた爆弾が爆発して多くの兵が死傷しました。この事件の報復として、ヒトラーは報復としてドイツ軍にイタリア人らの殺害を命令。かつてファシスト党幹部であったユダヤ人のフィンツィ(休戦後は抵抗運動に参加)や、ムッソリーニ逮捕を実行したフリニャーニ大佐ら等も含め、多くの人々がアルデアティーネの洞窟で虐殺されました。
つまり、イタリア人(パルチザン)がイタリア人(ドイツ軍)を殺し、イタリア人らが殺害される原因となってしまった、いわば「パルチザンの黒歴史」でした。故に、イタリアではよくあるパルチザンの石碑がここにはありません。消し去りたい過去なのでしょうか...。 -
朝の大統領宮殿(クイリナーレ宮)。
王政時代は王宮として使われていた宮殿で、現在は大統領官邸。
衛兵交代を見てきました。クイリナーレ宮 城・宮殿
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トレヴィの泉。ローマの人気スポット。
朝も昼も夜も人でいっぱいです。トレヴィの泉 建造物
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パンテオン。
パンテオン 建造物
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ナヴォーナ広場。
この辺はベタな観光コースですね。ナヴォーナ広場 広場・公園
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かつては巨大なムッソリーニのファザードで飾られ、ファシスト党の事務所が置かれたブラスキ宮。
流石にあのファザードは残っておらず、現在はローマ博物館になっています。ローマの生活史の博物館ですね。ブラスキ宮 (ローマ博物館) 博物館・美術館・ギャラリー
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ヴェネツィア宮殿。
ムッソリーニの執務室が置かれた事で有名な宮殿で、かつてはヴェネツィア共和国大使館として使われていました。
ヴェネツィア広場に多くの人々が集まり、バルコニーからムッソリーニが演説をした事でも有名。日本の外相だった松岡洋右もここを訪れ、ローマ市民に挨拶をしました。
ちなみに当時バルコニーに付けられていたファスケスは外されています。ヴェネツィア宮殿 (博物館) 城・宮殿
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ヴィットリアーノ。
正式名称はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂。
王政時代の建築の代表作。
内部には軍事博物館があります。ヴィットーリオ エマヌエーレ2世記念堂(ヴィットリアーノ) 建造物
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ヴィットリアーノ内部の海軍博物館にある「M.A.S.15艇」。
MAS艇とはイタリア海軍が両大戦で使用した小型魚雷艇の事で、この「M.A.S.15艇」は第一次世界大戦時にルイージ・リッツォ艇長の指揮のもと、プレムダ沖にて敵軍である二重帝国海軍「シュツェント・イストファン」を撃沈した事で知られています(プレムダ沖海戦)。ヴィットーリオ エマヌエーレ2世記念堂(ヴィットリアーノ) 建造物
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こちらは人間魚雷「マイアーレ」。
人間魚雷と言っても、日本の「回天」と違って敵艦に突っ込む自殺兵器ではなく、特殊部隊が敵艦の真下に忍び込み、爆弾を仕掛けて離脱、敵艦を撃沈する特殊潜航艇です。
このタイプは第二次世界大戦時のもので、イタリア海軍はこれを用いてアレクサンドリア港やジブラルタル港などの敵軍港を攻撃、特にアレクサンドリア港では英国の戦艦「クイーン・エリザベス」と「ヴァリアント」を撃沈する大金星を挙げました。ヴィットーリオ エマヌエーレ2世記念堂(ヴィットリアーノ) 建造物
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潜水艦「シィレー」の残骸。
ボルゲーゼ中佐の指揮のもとアレクサンドリア港攻撃を実行した潜水艦で、艦長がゼリク少佐に交代した後、ハイファ攻撃時に撃沈されました。ヴィットーリオ エマヌエーレ2世記念堂(ヴィットリアーノ) 建造物
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ヴィットリアーノには海軍博物館だけでなく、陸軍の軍旗を飾る博物館もあります。広いのでじっくり見てるとあっという間に時間が過ぎます。
ヴィットーリオ エマヌエーレ2世記念堂(ヴィットリアーノ) 建造物
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ローマはカモメが多いですね。彼ら結構獰猛です...
ヴィットーリオ エマヌエーレ2世記念堂(ヴィットリアーノ) 建造物
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ミケランジェロ・ブォナローティが作ったカンピドーリオ広場。
カンピドーリョ広場 広場・公園
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マルケルス劇場。
例によって修復事業にファシスト政権が関わっているので、ファスケスのレリーフがありました。マルチェッロ劇場 史跡・遺跡
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旧ユダヤ人地区(ゲットー)のシナゴーグ。
第二次世界大戦時にはローマを占領下に置いたドイツ軍がここに住むユダヤ人を襲撃し、絶滅収容所に移送した悲劇で知られています。
先述したアルデアティーネの虐殺でも多くのユダヤ人が犠牲になりました。
現在でもユダヤ人達が多く暮らしていて、ヘブライ語で書かれたイスラエル料理店なんかもあります。旧ユダヤ人地区 旧市街・古い町並み
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フォロ・ロマーノ。
フォロ ロマーノ 建造物
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コロッセオ。ローマの象徴ですな。
コロッセオとヴェネツィア宮殿を結ぶ「フォーリ・インペリアーリ通り」はムッソリーニが「古代ローマの象徴」たるコロッセオと「ファシズムの中心」たるヴェネツィア宮殿を結ぶ事により、視覚的に古代ローマとファシスト政権の連続性を表現する為に造られました。コロッセオ 建造物
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ラテラノ宮殿。
1929年のラテラノ条約が調印された場所です。
この条約の調印により、イタリア王国と教皇庁の長きに渡る対立が終結し、新たに「ヴァチカン市国」が独立しました。サン ジョヴァンニ イン ラテラーノ大聖堂 寺院・教会
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ピア門。
ミケランジェロ・ブォナローティが最後に作った建築であり、イタリア軍がローマに進軍した際に突入した門であります。
現在はベルサリエリの博物館が置かれていますが、この時は午後に訪れたので営業時間は過ぎていました。ピア門 史跡・遺跡
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ピア門前のベルサリエリ像。
ファシスト政権期に造られたもののようで、ムッソリーニ、ダンヌンツィオ、アオスタ侯の言葉が刻まれています。ピア門 史跡・遺跡
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ファシスト政権がローマ万博のために建設を開始した近代都市「エウル」。
結局大戦によってローマ万博は開かれる事はありませんでしたが、ファシスト政権期を代表する合理主義建築家達による建築の宝庫となりました。
こちらはアダルベルト・リーベラによる「会議場」。 -
こちらは「四角いコロッセオ」と知られる「文明労働宮」。
設計はグエッリーニ。
コロッセオを現代風に解釈して造られたものだとか。 -
おまけ。
テルミニ駅です。
ちなみに現在のテルミニ駅舎もムッソリーニ政権期に建造が開始されたものです(完成は戦後ですが)。テルミニ駅 駅
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4日目。ローマを出発し、イタロでフィレンツェに向かいます。
では、次の旅行記で。テルミニ駅 駅
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