2017/08/06 - 2017/08/09
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Rolleiguyさん
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比較的長かったスイス・オーストリアの旅行も今日が最終日。
20年以上ご無沙汰しているウィーンの東、スロバキアに隣接しているハインブルクの町と、その北方にあるオイゲン公の城シュロス・ホーフ、そして
1278年のハプスブルク・ルドルフI世(ドイツ王)と、ボヘミア王オタカルII世(ドイツ名ではオットカル)との運命の分れ道となった古戦場マルヒフェルトを訪ねました。ハプスブルクの600年余の歴史は、負ければその後がなかっただろう戦でしたので、ここだったのかという思いを起こさせる場所です。
観光地とはなっていないので、誰もいませんでしたが、古に思いを馳せて静かに時を過ごしました。オタカルII世は日本では話題になることもありませんが、今回の旅行で、オーストリアのいろいろな所に、オタカルの関わりがあったことを知ったのは意外でした。歴史を知れば知るほど、訪問先への
興味が湧きました。 汲めども尽きぬ泉のようなものかもしれません。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ウィーン郊外、東に続く道は両側が開けて、目的地ハインブルクの背後にあるブラウンベルクが、一番左のポプラの樹の根本近くに見えます。
東や南に向かう方が、西や北に行くときよりも気分が晴れやかになります。
ここもそんな気分で運転しています。 -
興を殺ぐ風力発電設備。今はそんなことを言ってはいけないのでしょうね。
この州の所要電力は100%風力で賄っているそうです。人口30万人足らずの小さな州なので可能なのでしょう。 -
ハインブルクの地図。ドナウの岸辺にあり、街の東(地図では上方向)に眺望抜群のブラウンベルク(山)があります。この山が、カルパチア山脈の最も西側に当たり、これより西はアルプスになります。
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ブラウンベルクから街の中心部を見たところ。右手前にある教会が、ハイドンが聖歌隊員として経験を積み、ウィーンのシュテファン大聖堂聖歌隊員にリクルートされた教区教会です。
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西の方向に目を転じると、彼方にウィーン周辺の山が見えます。
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下の道路はブラチスラバに向かう道路です。
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ハインブルクの町を見下ろす場所には城跡が見えます。
最初は、バーベンベルク家が築きました。 -
この城は、12世紀にデュルンシュタインの城に幽閉されていた、イングラントのリチャード獅子心王の身代金を使って拡張されたとのことで、その後、後で触れるボヘミア王オタカルII世が更に増築しました。
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ドナウ川を遡る船。クルーズ船のようで、かなり大きな船でした。写真の上方真ん中寄りに、次に向かうシュロス・ホーフ宮殿が見えます。
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大きな船なのに、乗客が少ないように見えました。勿体ない。
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その後ろからも船が来ます。
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ハインブルクの街自体はじっくり見学した記憶はないのですが、ブラウンベルクには何度も来て、ドナウ川を見下ろしながら飽きずに時を過ごしたものです。
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蛇行するドナウ川。大きな船だと操縦も難しそうですし、すれ違うのも怖そうですね。川にかかる橋は、この後行くマルヒフェルトに通ずる道です。こんなに近付いていいのかなと思います。3隻目の船の向きからして、ここで面舵一杯といったところでしょうか。
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霞んでいますが、ドナウ川下流にブラチスラバの城が見えます。今はどうなっているか知りませんが、東欧改革の直前まで、市内には購買欲をそそるようなものはなく、城もがらんどうで、入れ物だけ見るという趣でした。
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ブラウンベルクは、ギリシャ・ローマ時代にバルカン半島を中心に王国を建てたイリュリア人の居留地(紀元前900-300年)で、その後ケルト人の城塞があったが、紀元6年にローマ人に滅ぼされたと記されています。
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ブラウンベルクは東方を遠望する場所です。
第二次世界大戦まで数百年に亘り、遥か東のカルパチア地方に住み着いていたドイツ人が、戦後追い払われて、自分たちにとっては故郷でもあった、北カルパチアの方角を眺めて望郷の念を抱き、ここに故郷の町や村の教会や城などを刻んだ記念碑を建てたのです。民族と土地の関わりはデリケートです。私たち部外者としてはそうした歴史があったことを知り、人の心の一部なりとも窺うことがせいぜいかもしれません。 -
北カルバチア地方の町や村。
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同上
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同上
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記念碑の裏側。在オーストリア・カルバチア・ドイツ郷土会による建立。
戦後ドイツに強制移住させられたドイツ人は、東部地域全体で12百万人といわれています。カルパチア地方からの数は不明ですが、数百年の定住の歴史を思うと、
ドイツに対する徹底した対応だったのだと思わされます。 -
今はブラチスラバと書かれていますが、私がウィーンに住んでいた1990年代までは、オーストリアではドイツ名のプレスブルク(Pressburg)が使われていました。ハプスブルク時代には、ハンガリーの町村名もドイツ名が併用されていたようです。
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やって来たハイドン縁りのハインブルク教区教会。生地のローラウから車で小一時間です
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ここでハイドンが聖歌隊員として賛美歌を歌ったのかと思うと、とても身近に感じられました。
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どんな田舎の教会でも、ある程度の規模になると、こうしてパイブオルガンがあります。大量生産品ではないので、ひとつひとつが異なり、メンテナンスも大変ではないかと思います。
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教会の掲示板に張られていた、この教区にある教会の礼拝案内。ドイツ語に加えて、スロバキア語でも書かれていましたので、あちらかも結構来るのかもしれません。
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教会に隣接する広場。。確認しませんでしたが、手前が「ハイドンの泉」と呼ばれている泉かもしれません。
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角度を変えて見た広場。
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ハインブルクを後にして、ドナウ橋を渡ってマルヒ川流域地方(マルヒフェルト。Marchfeld)に行きます。
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行き交う車も少ない快適な道です。
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20分ほどでショロス・ホーフに着きました。今年は、マリア・テレジアの生誕300年記念の年にあたり、特別展が催されていました。全部見学しましたが、文書類が多いため写真は撮りませんでした。
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シュロス・ホーフ(Schloss Hof)は、数々の軍功を上げた将軍として名の知られたオイゲン公の城です。 トルコとの戦争での功績により、レオポルトI世皇帝から贈られた城で、当初は狩猟用に使われていたようです。彼の名前は、プリンツ・オイゲン(Prinz Eugen)という帝国時代の戦艦や、第2次大戦中のドイツ重巡洋艦の名前としても、よく知られています。もっとも、今の若者はそこまで知らないでしょう。ドナウ川の遊覧船にも同名の船があります。
この案内図の手前方向に広大なバロック庭園がのびていますが、現在修復工事中で見学は出来ませんでした。 -
この建物は冬季にお花を育てるオランジェリーです。
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1993年ころに、一度だけ来たことがありますが、第2次大戦後の占領軍ソ連によって使われた結果、荒れ果てた城という印象だったのが、今回は、修復が進んで極めて美しい城と庭園になっていました。
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この城のことを知った切っ掛けは、「エリザベート」という塚本哲也の本を読んで、ハプスブルク帝国が崩壊し、皇族たちがオーストリアを去るときに、この城に宿泊したと知ったことです。荒れ果てた城でしたが、帝国末期にはまだそれなりの存在感があったのでしょう。この本は大変面白く読めました。
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優雅なシルエットになっているお城の住人。
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城の設計者は、同じくオイゲン公の居城であったウィーンのベルヴェデーレと同じ、ルーカス・フォン・ヒルデブラントです。これが宮殿への門ですが、元々は正門ではないと思われ、割と地味な門でした。
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広々としています。左の建物は乗馬訓練用のものです。
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現在、この城は、連邦政府と州政府が共同で管理しているようで、大変大きな金額を使って修復を行ったそうです。いずれ観光客が増えると思います。
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城の礼拝堂。
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広大なバロック庭園。ヨーロッパでも有数の庭園として知られていたそうです。
遥か先まで庭園が続いています。 -
スロバキア方面を望み、少し高い位置にあるため、歩くととても開放感がある場所になっています。
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現在、庭園の再建築工事が続けられていて、完成の暁にはその壮大な庭を見てみたいものです。
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どの部屋もけばけばしさがなくて、落ち着いた雰囲気でした。
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城の所有者であったオイゲン公のことが書かれていました。
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庭の噴水
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ベルヴェデーレ宮殿にも似たような石像がありますね。
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大ホール
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礼拝堂
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この城の表は地味でしたが、この庭園からマルヒ川方向に伸びる場所は、ゆとりのある設計です。
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オイゲンは子がいなかったので、資産はマリア・テレジアが継承したそうです。
オイゲンは、マリア・テレジアの結婚相手として、プロイセンの王太子フリードリッヒ(後のフリードリッヒ大王)を推しましたが、実現しませんでした。
マリア・テレジアは、後にフリードリッヒ大王にシレジアなどを奪われてしまいましたが、もし、プロイセンとハプスブルクの結婚が実現していたら、その後のヨーロッパの歴史はどうなっただろうと、想像するのは楽しいですね。 -
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立派な城と素晴らしい庭園ですが、まだ観光地としてはマイナーなのか、私が訪れた日の見学者は僅かでした。そのうちに必ずもっと知られるようになるでしょう。
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美しく手入れされていました。
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グロッテ
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城を後にして、マルヒフェルトを北上します。
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こんなところにもコウノトリが。この地方には沢山います。
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30分ほど走ってデュルンクルートの村に到着。古戦場は、この村と隣村のイェーデンシュパイゲン(Jedenspeigen)の間にあります。
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この辺りが古戦場です。低く連なる丘を見ると、あちらから攻めて来たオタカル軍と、こちらから攻めるルドルフ軍との合戦の様子が思い浮かびます。
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少し林が見えますが、ルドルフ軍はこの辺りに伏兵を潜ませて、オタカル軍を急襲し、戦いを決したと言われています。
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左の図は1276年のオタカルの支配地域でしたが、1278年には右側に図のように、オタカルのオーストリアの領地は失われていました。それを取り戻そうとした戦です。
赤い線がオタカル軍、青い線がルドルフ軍の進軍を示します。
オタカル軍には、ポーランドの軍勢や、3日前に訪れたラポッテンシュタイン城のキューンリング候も加わりました。ルドルフ軍には、ニュルンベルクのホーエンツォレルン、ザルツブルクの軍隊も加わったそうです。 -
古戦場の記念碑。 戦いの700年記念に、1978年に造られました。
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記念碑を見上げて古のつわもの達に思いを馳せました。
オーストリアを支配したバーベンベルク朝には、男子継承者がいなくなり、オタカルII世は公女のマルガレーテと結婚することで、オーストリアの権益を手に入れましたが、オタカルの強権的な支配には、昔からの地方貴族たちは反発したようです。この結婚式が行われたのはハインブルクです。 -
「1278年8月26日、ここでハプスブルクのルドルフと、ボヘミアのオタカル(ドイツ名オットカル)が戦ったことを思い起こして」、と記されています。当時勢いのあったオタカルは、ルドルフがドイツ王に選任されたことを認めず、自分こそがドイツ王に相応しいとの思いが強かったようです。国力からすればオタカルの方がずっと勝っていましたが、オタカルが強くなりすぎることを望まない選帝侯たちは、弱小国のルドルフを選んだのです。
形勢逆転を狙ったオタカルII世は、武運つたなく負け戦となってしまいました。 -
オタカル軍は敗走し、オタカルII世は捕らえられてすぐ殺されたとのことです。
この戦いの前には、オタカルはオーストリアを支配していたので、その治世を
恨んだルドルフ軍に加勢した者による報復だとされています。
オタカルの遺体は、彼が寄進したウィーンのミノリーテン教会に30週にも亘って安置され、その後ボヘミアに帰ったそうです。今は、プラハ城に安置されています。 -
うーん。何度見ても、この地でハプスブルクのその後の長い歴史が始まったかと思うと、感慨に堪えません。オタカルII世は、領地経営のために、人口の少ないボヘミア地方に、ドイツのシュヴァーベン地方から農民や手工業者を入植させたり、
ドイツ騎士団を支援して城を築かせたりしました。ドイツ騎士団が築いた城は
ケーニヒスベルクという名前の都市になりましたが、このケーニヒ(王)とは
オタカルII世への感謝の気持ちで、ドイツ騎士団がつけたと言われています。
ケーニヒスベルクは哲学者カントの生まれた町としても知られており、第2次大戦まではドイツの飛び地東プロイセンでしたが、戦後ソ連に編入され、現在はカリーニングラードという名前になっています。 -
目を閉じると、両軍の兵士の雄たけびが聞こえてくるようでした。
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この時期は古式の中世騎士祭りがあるようです。
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この地で栽培されているのは何だろうと思いました。日本なら、オタカル米とかルドルフ饅頭などの名前がつくことでしょう。
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周囲はこのような低い丘がうねっているような広大な場所です。
辺りに人家がない分、想像を膨らませることが出来ます。
帰国のフライトの時間が迫っていたので、後ろ髪をひかれる思いでこの地を後にしました。これで旅の終わりです。
スイスから続く長い旅行記をお読みくださり、有難うございました。
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この旅行記へのコメント (8)
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- salsaladyさん 2018/01/12 11:54:58
- ~Burug(ブルグorブルク)は城の意味でしたね~
- ☆それにしてもドイツ~オーストリアには驚くほどの城が林立してますね。勿論フランスロワール側の両岸からも~昔の領主は、兎に角城を建てる事に意義があると思ってたのかしら?平民の感情からすると許せない豪華さで。。。
☆日本もそうだけど、それほど残ってないので感じないのかなあ~搾取する事と争う意識は今なお続く~see you~
- Rolleiguyさん からの返信 2018/01/12 15:05:38
- RE: ~Burug(ブルグorブルク)は城の意味でしたね?
- salsaladyさん
今日は。
お城を意味するドイツ語には、ブルク(Burg.城塞)、シュロス(Schloss。城館)があります。
ブルクは戦闘を前提としており、城内に兵隊が住んでいますが、シュロスは宮殿のような
建物で、戦闘には適していません。その他に、砦(Festung,フェストゥング)という言葉もあり、より古い時代には同義語で シュタイン(Stein)も使われました。
私の旅行記に登場する〇〇シュタインという名前の城塞や砦は、かなり古い時代から
存在していたことが多いようです。ブルク・〇〇シュタインという名前の城塞は、
もともとブルクがついていなかったのが、後世にシュタインという語義が使われなくなり、
シュタインだけでは砦や城塞のことだと、分かりにくくなって、ブルクをつけたのだと
思われます。(私の個人的推察ですが)。
民の生活を犠牲にしていたかどうかですが、城主によるのでしょう(多分)。
ヴェルサイユ宮殿や、シェーンブルン宮殿を見ると、庶民だけでなく、国民全般に
大きな負担があったのだろうなと思います。日本でも、同じだったでしょうね。
ドイツやオーストリアの城は石造りなので保存状態が良いものが多く、ひとつひとつ
楽しく見学出来るのは、旅行の楽しみを増してくれますね。
Rolleiguy
-
- cheriko330さん 2017/12/27 18:02:25
- ショロス・ホーフ ☆
- Rolleiguyさん、こんにちは。
続きまして ♪ この夏の旅行記は、とうとうこれが最後なのですね。
雄大な自然から始まり、ヴァッハウ渓谷、ウィーン、ウィーン東部の
スロバキア国境近くの町・・・等を楽しませていただきました。
お疲れさまでした。
このシュロス・ホフはオーストリア観光局のサイトで見たことが
ありますが、それで見たよりも遥かにRolleiguyさんのお写真の方が
素敵です。
こんなにきれいな宮殿は見たことがないくらいで、ちょうどお花もきれいで
特にバロック様式の庭園が素晴らしいですね。
仰るとおりに、これから観光客が増えることでしょう。
個人で行くには大変そうですが。
ここも、いろんな歴史があったのですね。ハプスブルク帝国の崩壊で
皇族の方達も滞在されたとか・・・思いを馳せると感慨深いですね。
歴史をもっと知りたいと思いました。
どの旅行記も保存版です。素晴らしいお写真ばかりで、一冊の写真集と
して出して欲しいくらいです。
いつの日か参考に、シルス・マリアやヴァッハウ渓谷、シュロス・ホフ・・
・etc へ 行ってみたいと思いました。蛇行するドナウ川も見たいですね。
次のRolleiguyさんのご旅行も楽しみにしています。
今年も一年、色々とありがとうございました。また来年もよろしく
お願いいたします。
皆さん、お揃いでよいお年をお迎え下さいませ。
cheriko330
- Rolleiguyさん からの返信 2017/12/27 21:30:06
- Re: ショロス・ホーフ ☆
- cheriko330さん、今晩は。
いつもコメントを有難うございます。今回は、旅行から帰って来てから旅行記を全部仕上げるまで4か月半かかってしまいました。一つの旅行記の作成に20時間くらいかかり、毎回ため息をつきながらでしたが、皆さまにご覧いただける喜びと、自分の旅行の記録としての意味もありますので、それなりに楽しい時間でした。写真集などと過分のお褒めに
やや恥ずかしい思いですが、嬉しいお褒めの言葉です。
今回はスイスでの山歩きに重きを置いていたので、オーストリアは駆け足的になってしまいましたが、次回はバランスを考えたいと思います。
コメントを頂く方々の旅行記を拝見して、それぞれの視点が違うのが面白いですね。みんな違ってみんないい、という金子みすずの言葉は私も好きですが、旅行記もそうですね。
また来年もよろしくお願いいたします。
よい新年をお迎えくださいますよう。
Rolleiguy
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- jijidarumaさん 2017/12/26 17:17:37
- 古戦場
- Rolleiguyさん、
今年最後のコメントです。
ハインブルクの古城がリチャード獅子心王の身代金で拡張、
ドイツ騎士団が造ったケーニヒスベルクとオタカルII世の関係、
オイゲン公の城シュロス・ホーフ、
そしてハプスブルク・ルドルフI世(ドイツ王)と、ボヘミア王オタカルII世たちの古戦場マルヒフェルトの記念碑、歴史を知れば知るほど、興味が募ります。オーストリアの古城群も一度巡りたいですね。
運命を変えた古戦場といえば、二大会戦(1806年)Schlacht bei Jena und Auerstedtイエナ・アウエルシュタットの戦い(ナポレオン戦争中の1806年10月14日、ドイツのテューリンゲン;イエナおよびアウエルシュタットで行われた戦いで、ナポレオンのフランス帝国軍と、ヴィルヘルム3世率いるプロイセン王国軍が交戦し、フランス軍が勝利した。)を思い出しました。
また、第二次大戦後のポーランドのSchlesienシュレージェン地方におけるドイツ人引き揚げ、追放問題はいまだに後を引いていますね。Landshutランツフートでこの問題の活動をする方にあった事があります。
来年も旅行記を楽しませてください。
それでは良いお年をお迎え下さい。
jijidaruma
- Rolleiguyさん からの返信 2017/12/26 22:42:48
- Re: 古戦場
- jijidarumaさん
いくつも書き込みをしていただき有難うございます。
オタカルII世のことは、普通の歴史書には名前と簡単な説明くらいしか
出て来ないと思いますが、今回はネットでいろいろ調べて、面白くなり、更に調べるということになって、とても楽しくなりました。旅行記に書いてしまえば数行のことですが、オタカルだけで多分10時間以上費やしたと思います。受験勉強と違って、こうした調べ物は何と楽しいことかと思いました。旅行前に調べればもっと有意義なのでしょうが、行ってみて初めて知ったということもあるので、そうした出会いが旅行の楽しみでもありますね。十分な知識を備えて再訪したいと思います。
シュレージェンは戦後引きずって来た問題ですね。あそこは規模が大きかったし、歴史的にもよく知られている経緯があるので、解決が難しいと思いますが、ドイツは対外的には思い切った決断をしたと思います。
ケーニヒスベルクのある東プロイセンまでも諦めたのは、戦後処理が
完結しないと欧州でのドイツの将来に良くないという政治判断だったのでしょう。私が学生のころ(60年代後半)は、まだ戦前の領土がドイツの州として記されている地図でしたが、その後10年足らずで最終決着されたように記憶しています。ノスタルジーは消えることはないのでしょうが。
それでは良いお年をお迎えください。来年、ドイツについていろいろ
ご教示頂きたいと思います。
Rolleiguy
-
- ドロミティさん 2017/12/25 01:33:08
- メリー・クリスマス♪♪
- Rolleiguyさん、こんばんは。
スイスでのお嬢様、お孫さんとのハイキング旅から一転して、
オーストリアの歴史を訪ねる旅へ。
今年の旅はRolleiguyさんの今を楽しむ旅と過去を懐かしむ旅の
両方が満たされた旅のようにお見受けしました^^
ハインブルクもマルヒフェルトも聞いたことのない地名でしたが、
Rolleiguyさんのコメントで女帝マリア・テレジア以前のハプスブルク家
のお勉強が出来ました。
確かにRolleiguyさんのお言葉にもありましたが、歴史を知って訪れるか
否かでは、知見にも感動にも大きな差がありますね!
またホーフ城の主とお城の設計者がウィーンのベルヴェデーレ宮殿と同じ
だと知り、このホーフ城にも俄然興味が湧きました。
庭園もお写真で拝見するだけで、ここがいかに手を入れられた見事な
庭園かと言うことが見て取れます。
古戦場だった小高い丘が、刈り取られた後の様子のせいか、4トラの
旅行記で見かけるイタリアのトスカーナ地方を連想しました。
今年もRolleiguyさんのお写真で、自然の美しさや素晴らしさに出会い、
たくさんの感動をいただきました。どうもありがとうございました。
来年もまた素敵な景色をご紹介してくださいね。
どうぞよいお年をお迎えください☆ ドロミティ
- Rolleiguyさん からの返信 2017/12/25 14:18:35
- Re: メリー・クリスマス♪♪
- ドロミティさん
メリー・クリスマス。ホワイト・クリスマスではありませんが、暖かな陽光を浴びて春を待ち望むのも嬉しいものです。
旅行記がようやく完成しました。今回は5千枚撮影したので、一時はどうしようかと思いましたが、皆さまに見て頂く喜びが不精な私を後ろから押してくれました。痛切な反省は、今回の旅行は初めての場所がなかったにも拘わらず、見学している時には知らなかった歴史を、今になって学んでいることです。事前勉強のない旅行は、昔がそうだったように、結婚式当日に初めてお相手に会うようなものだと思いました。
びっくり、感激、嬉しさはあるでしょうが、それなりのお金をかけて、時間も使っているので、周到な準備と勉強がないと、底の浅い旅行になってしまうなと思いました。後から調べてそれらしく旅行記を作るのはもう止めにせねばと反省しきりです。
とは言え、ドロミティさんを始めとする沢山の方に書き込みをしていただき、とても嬉しく思いました。
あれこれパクつくのではなく、焦点を絞った旅行もいいなと思いますので、次回はその可能性も検討してみます。
例えば、オタカルII世の足跡を辿るのなどは、案外面白いのではないかと思います。ハインブルクの古城がリチャード獅子心王の身代金で
拡張されたと知っていたら、もっと興味津々で見学したのは、間違いありません。ドロミティさんの旅行記に刺激を受けて、スイス・オーストリア以外にも足を延ばしたいとも思います。
どうぞよい新年をお迎えください。来年もよろしくお願いいたします。
Rolleiguy
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