2017/08/06 - 2017/08/09
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Rolleiguyさん
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北部オーストリア、ヴァルトフィアテル地方は、ドナウ川沿いのヴァッハウ渓谷の北側に位置しており、中世からの城が集中している場所です。
11世紀にキュンリング候の下で森林が開墾され、この一帯への入植者が増加したために、防御の目的でかなりの数の築城が行われたことと、ドナウ川からボヘミアへの物流ルートとして重要な役目を負っていたからです。
この地方には2009年とそれ以前にも来たことがありますが、今回は以前内部を見学出来なかった城をじっくり見ることと、周辺の修道院や、この地方の特産品であるケシ産品、それと第一次世界大戦勃発の契機となった、ハプスブルクのフェルディナント皇太子の居城である、アルトシュテッテンを訪れることです。初日は大雨となりましたが、一日かけて5か所を見学しました。
(追記)
フェルディナントが名乗ったホーエンベルクという家名の由来を追記しました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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最初に訪れた修道院ツヴェットル(Stift Zwettl)は、この地方ヴァルトフィアテルのツヴェットルの町にある、シトー会で3番目に古い修道院であり、1138年に、この地域を治めていたキュンリング侯爵から、ウィーン郊外にあるハイリゲンクロイツ修道院の、姉妹修道院として寄進された。その静謐な佇まいは、訪れる人を強く印象付けます。修道院としては名の知れた存在ですが、主要観光ルートからやや外れた場所にあるため、訪問者は少なく、今回は3度目の訪問でしたが、いつに変わらぬ、静かで、心の安らぎを与えてくれる場所でした。
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建物は薄く明るいクリーム色で、重々しさは感じませんが、背後に聳えている教会堂は見事なバロック建築です。
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中庭と言うには広すぎるくらいの中央部の広場。
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修道院には少年合唱団があり、この建物の一角を使用しているようです。
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修道院によく見られる回廊。後期ロマネスクと初期ゴシックの様式です。
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石の回廊
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回廊を外から見たところ
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「オーストリアの城と修道院」(Burgen und Kloester in Oesterreich)という
本では、このツヴェットルの修道院の塔は、国内でもっとも美しいと記されています。こうした建築美や芸術における美の判断基準は、私にはよく分かりませんが、素人が見てもこの塔(教会)の完成度が、非常に高いものであることが感じられます。 -
教会堂のステンドグラスの窓。
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丁度ミサの時間でしたので、後ろで静かにしていました。
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修道士の日課は決められており、俗世界の私にそうした生き方が出来るとは思いませんが、このような写真用のものがありましたので、少しだけ修道士の外見を
真似てみました。所詮外見だけですが、修道院にこのようなものがあるのは驚きでした。 -
「一緒にお祈りしましょう。修道士は噛みつきません」と書かれていました。
修道院が社会から隔絶された存在ではなく、祈りを共有したいという思いを
示しているのかもしれません。とても共感しました。 -
1138年の修道院設置からほぼ900年になります。建物の維持には大変な資金が必要でしょうが、ヨーロッパの修道院への公的財政支援は、19世紀を境に非常に限定的となり、多くの修道院が立ち行かなくなりました。ツヴェットルの主な収入源は、今では来訪者からの見学料と、修道院ショップでの販売によっているとのことでした。1938年にオーストリアがドイツに併合された時に、修道院の土地800ヘクタールが、陸軍の演習地として強制的に買収されたことも、財政的な影響を与えたようです。
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次に向かったラポッテンシュタイン城(Burg Rappottenstein)は、その壮大な規模と、自然の中に突然現れたような存在感、700年以上にも亘り、一度も攻め落とされたことがなかったという堅固な造り、その結果、ロマネスク、ゴシック、ルネサンスと、いくつもの時代の特徴を備えたものとなったことなどから、オーストリアの城の中でも知られた存在となっています。
城はボヘミア王オットカル(オタカル)II世に従っていた、キュンリング伯爵のものでしたが、1278年ハプスブルク王ルドルフI世がマルヒフェルトの戦いで、オットカルを破り、キュンリングは追われて、以後はハプスブルクの支配に移りました。城の所有者はその後何回か替わり、1664年以来アーベンスペルク伯爵で、現在もその家系の所有になっています。 -
この城は保存状態が非常に良いため、不便な場所にも拘わらず見学者が多いようで、夏場は10時から17時まで1時間おきにガイド付きで見学出来るようになっています。
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この城の特徴は、自然条件を利用し、基礎となっている花崗岩の岩を、城の外壁と一体化させている、堅固な構造です。
周囲の外壁は窓のない構造になっており、攻城が非常に難しい城です。 -
城は、農民戦争(1597年。ドイツ農民戦争よりも遅い時期)、カトリックの軍による攻城(1619年)、30年戦争の時のスウェーデン軍による攻撃(1645年)と、3回攻められましたが、全て跳ね返しました。カトリックの軍による攻撃があった時期は、城主がプロテスタント側についていたためで、その後はハプスブルクと同じカトリックの城主になりました。
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花崗岩と一体化された外壁。
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左の人がガイド。見学者は私たち以外はオーストリア人だけでした。
ガイドの人の頭が非常に小さいのに驚きます。8頭身? ヨーロッパの貴族の家系には、こうした小頭の人がよく見られると、どこかで読んだ記憶があります。
この人も城の持ち主の一族なのかも。 -
実用一辺倒ではなく、このようなデザイン上の余裕がいくつか見られました。
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分厚い壁に開けられた銃眼
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内側からだとこのように見えます。
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こちらは実用一辺倒。
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城主は、この城の居住区域を快適で、堂々とした様式にしたいと思い、このような3階構造のルネサンス様式にしたようです。
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これは描いたのではなく、漆喰が乾く前に掻き取る方法によるもので、エンガディンで見かけたスグラフィットと同じ技法です。
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簡素ですが余裕のある広さです。
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このようなベビーベッドが、こうした戦闘用の城にあるのは初めて見ました。
居住を前提とした城だったのでしょう。お城で育った赤ちゃんは、どんな子供になったのでしょうか。 -
こうした居住区画を広く取れたのも、この城の規模の大きさを示しています。
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鎖帷子に包まれた骸骨。本物か、とガイドに聞いたら作りものだとのことでした。
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武器蔵の展示
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鎧は右も左も防御機能は同じだと思っていましたが、右側(右利きの場合)は剣や槍を振り回すために、動きやすくなっていて、その分防御機能が落ちていることを初めて知りました。下に書いたように、この城はこうした鎧の弱点を攻めやすく構築されています。
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ちょっと不気味。
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秤のような代物
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石で出来た砲丸。結構な大きさであり、これを撃ち出す大砲はかなりの大きさだったでしょうが、大砲は展示されていませんでした。
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文字が掠れていてよく読めませんが、城主とその支配地の紋章のようです。
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現在の所有者のご先祖様である、オットー・フェルディナント・グラーフ・フォン・アーベンスペルク・ウント・トラウン(1677-1748)という長い名前の伯爵。
軍歴が記してあります。元帥にまで昇進し、フランツ・ヨーゼフ皇帝の時代になって、オーストリアの歴史で最も優れ、勲功のあった4人の元帥の一人と認められ、ウィーンにあるマリア・テレジアの記念碑に、馬に跨った銅像が建てられました。 -
こちらはもう少し前の先祖、エルンスト伯(1608-1668)。
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城は、8つの塔と5つの防御陣から成っており、攻撃側はどこから攻めても、最ももろい右半身(防具の弱点)を、城側に曝すように造られているのだそうです。
そう言えば、城門は左端にあり、時計回りに城の中に入るようになっています。 -
死角が無くなるように造られているのだそうです。
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これは、深い井戸のようになっていて、捕虜をロープで下まで降ろし、秘密を白状するまで、食事も水も一切与えなかったそうです。そのため「飢餓の塔」
(Hungerturm)と呼ばれていたとのこと。白状しなかった捕虜は死後も底に放置されたそうです。 -
見た目には拘らないようで、お化粧直しなどはしないのでしょう。
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このルネサンス様式のアーチは、1574年に造られたと記されています。
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内部には鹿のトロフィーが一杯飾られていました。
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これは何に使ったのか不明です。脱穀機かそれとも洗濯機?
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城内への入り口は城の規模からすると意外なほど小さくなっています。
これでは大勢の敵が突入するのは大変でしょう。 -
岩と壁が一体化されているのがよく分かります。
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牢獄の見学に行く一行。
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これも飢餓の塔と同じく捕虜を閉じ込めた穴だそうです。
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冬にこんな牢獄に閉じ込められたら絶望的になったでしょう。
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上から見下ろすと気が付きましたが、城に付き物の跳ね上げ式のゲートではなく、2つの塔が防御を容易にするように造られています。この城は、いろいろな時代に
手を加えられたそうで、この2つの塔はルネサンス時代のものだそうです。 -
岩と一体化されているため、城自体の美観は損なわれていますが、防御面での堅固さがよく分かる造りです。
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この門は、城が最初に造られた時の一番古い部分にあります。
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以下4枚の写真でも、城の基盤が如何に堅固なものかが見て取れます。
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じっくり見学が出来ました。夏には城内でコンサートも行われるそうですが、
一度聴いてみたいものです。 -
次は30分ほど走ったところにある、ケシの村(Mohndorf)です。
途中で道に迷ったら、丁度お巡りさんが道角に立っていたので、行き先を言って
教えてもらいました。村のシンボルはケシの実。 -
ケシショップには、ケシの実から作ったケシ油、ケシクッキー、ケシチョコレートなどいろいろありました。日本では見られない物が多く、買いたいという気分になりましたが、荷物が多くなりそうだったので、少しだけ買いました。
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ケシの種も売っていましたが、日本で栽培が認められているのかどうか、分からなかったので、買いませんでした。
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これはケシとは関係なさそうな焼物ですね。
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今日の最終目的地アルトシュテッテン(Artstetten)に着きました。ここまで来るとドナウ川はすぐ近くです。城主だったフランツ・フェルディナントは、息子を亡くしたフランツ・ヨーゼフ皇帝の甥にあたり、皇位継承者となりました。しかし、ハプスブルクの皇位継承者に求められた原則、ヨーロッパの現在の、またはかつての国王の家系の王女を妃とすることに反して、ボヘミアの地方貴族の娘で、宮廷に仕えていた女性との結婚を望み、フランツ・ヨーゼフ皇帝の不興を買いました。結局、フェルディナントに子供が生まれても、ハプスブルクを名乗ることはせず、子供の皇位継承権も放棄するという文書に署名して、漸く結婚を認められました。
このハプスブルクの結婚原則は、1999年に当主のオットー・ハプスブルク(最後の皇帝カールの長男)が廃止するまで続いていたそうです。今では、その条件でお相手を探すことは事実上困難になっており、廃止になったようです。現在の当主カールも時代の流れだと言っています。この城は、現在世界中に約600人いるとされる、ハプスブルク家の末裔の集まりの会場になっているそうです。 -
これは、フェルディナントと妃のゾフィーが、サラエボで暗殺された時に乗っていた乗用車です。(但し、レプリカ。本物はウィーンの軍事史博物館にある)
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フェルディナントの肖像画。城内には沢山の写真や資料が展示されていて、非常に興味深い内容でした。時間をかけて見学したいと思いました。
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フェルディナントの前後のハプスブルク皇帝の系図。フェルディナントには子供が3人いましたが、先の文書によりハプスブルクを名乗ることなく、皇位はフェルディナントの弟の息子であるカールが継承しました。ハプスブルク帝国の終焉により、カールの在位期間はごく短いものとなりました。カールは早く亡くなりましたが、妃のツィタは1989年に亡くなるまで、皇后としての威厳を保ち続けたとのことです。ツィタの葬儀はハプスブルクの伝統に従って行われ、葬儀の模様はオーストリア国営放送で実況中継され、私も見ました。
ご参考まで。https://www.youtube.com/watch?v=KLEsV8wLB90 -
ホーエンベルク家の多分最古の紋章で、11世紀のもの。ホーエンベルク家は南西ドイツに所領があり、もともとはホーエンツォレルン家から分かれた由緒ある家系。財政的に困窮し、所領を次々に売り渡し、一部はハプスブルク家に渡った。男子の継承者が途絶えて一時断絶し、14世紀に再興されたものの、17世紀に再度途絶えてそのままとなり、20世紀になってフェルディナントがその名前を継承することとなった。前の写真の左側の紋章がフェルディナントのものであり、その一部にこの最古の紋章の一部が使われている。ヨーロッパの紋章は紋章学という研究分野もあるそうで、結婚などにより家系が分離すると、親の紋章の一部を継承して新しい紋章を作ったようです。由緒ある家系とはいえ、血統としては断絶している家系を、このように復活させて来たのですね。日本の武家もそうした例がありますが、昔は血のつながりよりも家名を重んじたのでしょうね。
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陸軍の大演習を行った時の写真だそうで、後の英国首相チャーチルが写っていると
説明文にありましたが、多分右端の人かも。撮影時期は見落としました。 -
フェルディナントとゾフィーの家系図。左側がハプスブルク、右側がホーエンベルク(ゾフィーの父母と先祖はホテーク)。中央の一番下は、長男のマクシミリアンと次男のエルンストの名前が見える。
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1914年6月12,13日に、ドイツ皇帝ヴィルヘルムII世が、フェルディナントのもう一つの居城である、ボヘミアのコノピシュテ城を訪問した際に、使われたというドイツ皇帝旗。鉄十字にGott mit uns(神よ我らと共に)と書かれており、この文言は第2次大戦中にも、ドイツ軍の兵士が着用したベルトのバックルに記されていました。フェルディナントは、そのわずか2週間後、奇しくも結婚記念日に暗殺されました。
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ヴィルヘルムII世の訪問目的は、バルカン問題、ルーマニアにおけるハンガリーの権益問題などでした。しかし、ドイツ皇帝の訪問は、そこで第1次世界大戦の開戦が合意されたという、事実ではない政治的な欺瞞がイギリスにより喧伝され、それが大戦後もチェコスロバキア政府によって利用されて、フェルディナントの子供たちの、チェコ国内の財産を没収する理由とされました。孤児となったフェルディナントの子供たちは、親故に不当にも罰せられた、と記されています。
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オーストリア・ハンガリー帝国各地の紋章。今は小国となったオーストリアも、100年前までは今の東欧に領地を持っていました。左上から時計回りに、ボヘミア、ガリツィア、シレジア、モラヴィア、ブコヴィナ(中央)。
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こちらはオーストリア国内。ニーダー・エースターライヒ、オーバー・エースターライヒ、ケルンテン、シュタイアーマルク、ザルツブルク。
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オーストリア、フォーア・アールベルク(小)、ゲルツ+グラディスカ(現在のスロヴェニアの一部)、チロル、フォーア・アールベルク(大)。
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大オーストリア勢力図
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1914年のヨーロッパ地図。帝国の最後の版図は西は現在のチェコ、北はポーランド、東はウクライナ、南はボスニアまであった。最盛期に比べると縮小していますが、それでも広大な領土でした。
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ヨーロッパの王国と国王の写真。
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これは、日本とオーストリアが修好通商航海条約の関係にあったことから、1892年にフェルディナントが来日したときの絵です。東京にはオーストリア大使館が既にあり、そこに代理大使として赴任していたハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵が、日本女性青山光子と結婚し、当時帝国の領地であったボヘミアに戻りました。
2人の間に生まれた次男が、後に汎ヨーロッパ運動の提唱者となった、リヒアルト・クーデンホーフ・カレルギー(日本名:栄次郎)です。上記の条約は明治時代に日本が結んだ条約の中で、最も日本側に不利な不平等条約であったと言われていますが、そうなったのはイギリスがオーストリアに働きかけて、間接的にイギリスに有利になるように図ったためと言われています。 -
城に付属する教会堂
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城の一角にあるホーエンベルク家の墓所。ホーエンベルク(von Hohenberg)という貴族名は、ハプスブルク家の初期の女系の出身家の名前ですが、その後ずっと絶えていたのを、フェルディナントの結婚を機に、ゾフィー妃の名前として使うことを、フランツ・ヨーゼフ皇帝が決めたのだそうです。子供たちもこの名前を名乗ることを許されました。
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墓所は非常に簡素です。
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フェルディナント夫妻の棺。ウィーン市内にあるハプスブルク家のカプツィーナー墓所は、ハプスブルクを名乗った者だけを葬るため、フェルディナント夫妻は、一緒に葬りたいという一族の希望で、こちらに葬られました。
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これは1960年のオーストリアの新聞ですが、帝国の崩壊後ハプスブルク家の財産は政府に没収されていたところ、これを返すべきだという議論が起こり、結果的に返さないという結論になったことを報じたものです。
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夕方になって霧が出て来ましたが、まだ少し時間があったので、数キロ離れた場所にある巡礼教会マリア・ターフェルルを訪れました。教会堂は霧のため写真になりませんでした。
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教会堂の内部。かなり立派なものでした。
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今日のお泊りどころ、シュロスホテル・ニーダーライトナー。2009年もここに泊まったが、城のすぐそばで、食事がとても美味しかったので、今回もここにしました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- cheriko330さん 2017/11/01 19:25:27
- アルトシュテッテン ☆
- Rolleiguyさん、こんばんは☆彡
先日からRolleiguyさんに、お詫びをしなくてはと思っておりました。
前回のスイスの旅行記で山が最後だったので、旅行記の完成などと
書いてしまい大変申し訳ありませんでした。深くお詫び申します。
そうですよね♪オーストリアも行かれていましたね。ごめんなさい(__)
オーストリアは、ウィーンとザルツブルグへ2度程行きました。
ザルツカンマーグート周辺の景色がとっても気に入っています♪
ウィーンも歩くのに丁度良い大きさで、雰囲気もとっても良いですね。
空気が自分に合うようでお気に入りの国です。
先ず、ツヴェットルの修道院の塔ですが本当に美しいです。
ファサードも美しいと思いました。大変歴史があるのですね。
修道院の中で顔出しパネルとは驚きですが、良い記念に
なりましたね。
難攻不落のラポッテンシュタイン城は、幾多の戦禍を乗り越えて
お城の内外で、どんな生活が営まれていたのかと思いを馳せると
ロマンを感じます。
アルトシュテッテンも、初めての町ですが、さすがツウで
いらっしゃいますね。
フェルディナント皇太子と聞けば、私でも分かりました。
ご夫妻は、こちらで眠られているのですね。
テレビでハプスブルク家の集まりを見たことがありますが
こちらだったのですね。
クーデンホーフ光子さんには、大変興味を持っています。
また知らない次のオーストリアも楽しみにしています。
早11月になり、今年も2ケ月ですね。
そちらは、この秋寒い日が続いていたようですが、
これから紅葉を楽しめると良いですね☆
また、おじゃまさせていただきます。
cheriko330
- Rolleiguyさん からの返信 2017/11/02 09:14:02
- RE: アルトシュテッテン ☆
- cheriko330さん
お早うございます。お詫びなんて、とんでもありません。スイスは完結しましたので、
それで一区切りになっていますので。
今回はオーストリアには4泊だけでしたので、ウィーンは実質的に1日だけの滞在になりました。時間の限られている旅行では、あれこれ詰め込むと印象が散漫になりかねないため、
見学先は絞るつもりでしたが、郊外はどうしてもあれもこれもとなってしまいました。
スイスの旅行記でも触れましたが、訪問先に関する知識が事前にあるかどうかは、とても
大切だと改めて実感しました。行き当たりばったりでの感激も、悪くないし、それ自体も
楽しいのですが、帰って来てから情報を仕入れるのでは勿体なかったと思っています。
特に、ラポッテンシュタイン城は、3度目なのに、大まかな知識だけで訪問したのは、失敗でした。この城の知識だけでなくて、当時の政治、社会情勢をもっと勉強しておけばよかったと反省しています。それに対して、アルトシュテッテンはよく知られている城でもあり、
歴史も理解していたので、充実した展示物を含めてとても楽しめました。
どなただったか失念致しましたが、4トラの旅行記に、1年も前から準備して、知識を蓄えているという方がおられて、本当に敬服したものです。
若い時分とは違うので、そうした旅行を心がければ、何倍にも楽しめることを痛感しました。
次は、そのように準備したいと思います。
クーデンホーフ光子のことは、私もとても関心があります。明治時代の、教育も十分受けていなかった女性が、ヨーロッパの貴族社会のなかで、皆に迎合するのではなく、立派な人生を歩んだと思います。 私がウィーンにいたころに東欧の変革があり、オーストリア国営放送の番組に、光子の孫にあたるバーバラ・クーデンホーフ・カレルギーというレポーターが度々登場し、祖父の汎ヨーロッパ運動を、今目の前で起きていることと重ね合わせて、
説いていたことを思い出します。
次は、ヴァッハウの旅行記の予定です。どうぞまたお出で下さいますよう。
Rolleiguy
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