2011/10/02 - 2011/10/02
389位(同エリア691件中)
滝山氏照さん
分倍河原古戦場跡(ぶばいがわらこせんじょうあと、東京都府中市分梅町)は元弘3年(1333)5月、上野国生品神社で鎌倉幕府への反乱の兵を挙げた新田義貞(にった・よしさだ、1300~1338)が小手指ヶ原・久米川の戦いで幕府軍を打ち破り更に南下、これに対し北条氏得宗当主北条高時(ほうじょう・たかとき、1304~1333)の実弟である泰家(やすいえ、生誕不詳~1335)を総大将とする幕府軍とが鎌倉幕府の命運をかけて戦った地です。
ご承知の通り先の小手指ヶ原・久米川の戦いで新田義貞の反乱軍に敗北を喫した桜田貞国を大将とする幕府討伐軍は態勢立て直しのため一時分倍河原に撤退しますが、泰家らの援軍10万騎の到着を得て士気が上がった幕府軍は多摩川を最終防衛ラインと定め背水の陣を敷きます。
同月15日幕府軍に攻め込んできた新田軍に対し逆に打ち負かせ、義貞はこれに耐えきれず堀金(埼玉県狭山市)まで兵を引かざるを得ず結果幕府軍の勝利となります。
しかしながら敗北により憔悴していた義貞のもとに得宗家専制政治に見切りをつけた三浦義勝(みうら・よしかつ)が渋谷、河村、土肥ら相模国の豪族を統率した軍勢約6千騎を引き連れてはせ参じます。このことは幕府のお膝元である相模国で幕府から離反する御家人の状況を察した義貞は大いに勇気づけられます。
翌16日義勝を先陣とする新田軍は幕府軍を急襲、加えて主力の新田軍は三方から幕府軍を攻め立て、たまらず幕府軍は総崩れとなり敗走、勢いに乗じた新田軍はついに幕府の防衛ラインを突破して多摩川を渡ることになります。
これに対し多摩川の渡河を許した幕府軍は苦戦を強いられ、幕府の関所である「霞ノ関」(関戸)に陣を構えて最後の迎戦を試みますが新田軍の勢いを止めることかなわず防御が次々と突破されます。
次第に劣勢となるなか幕府軍総大将の北条泰家の身辺にも新田軍が迫る状況となり、泰家を逃すべく忠臣の横溝八郎や安保入道父子らが霞ノ関(関戸)に留まり必死の奮戦によって泰家は辛くも負傷ながらも這う這うの体で鎌倉にたどり着くほどの決定的な大敗を喫します。
分倍河原古戦場石碑の傍らに建っている説明板には次の如く記されています。
「 東京都指定旧跡
分倍河原古戦場
所在地 府中市分梅町5-39
指 定 大正8年10月
文永(1278)、弘安(1281)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎなき御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘3年(1333)5月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(5月11日)、さらに、久米川の戦いで優位に立った。北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(5月15日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、16日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め22日に鎌倉幕府は滅亡した。
平成10年3月 建設
東京都教育委員会」
- 交通手段
- 私鉄
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旧鎌倉街道
京王電鉄中河原(なかがわら)駅から旧鎌倉街道に入り、正面の中央高速道路高架手前の分梅(ぶばい)橋を目指します。 -
分倍河原古戦場碑案内
足元に建っている標識「新田川緑道」は新田義貞の名から採ったものと思われます。 -
分倍河原古戦場周辺地図
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歴史と文化の散歩道案内板
東京都における厳選された23コ-スが地図に記載されています。 -
府中市緑道・遊歩道案内図
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分倍河原古戦場跡石碑
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イチオシ
分倍河原古戦場跡石碑
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分倍河原古戦場説明板
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北条と新田の分倍古戦場
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分倍河原古戦場碑の移転説明板
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イチオシ
新田義貞騎馬像
JR南武線と京王電鉄本線が交差する分倍河原駅前ロ-タリ-には鎌倉方面を見据えた新田貞義の騎馬像が設置されています。台座には「新田義貞公之像』と刻されています。 -
説明板
新田貞義騎馬像の裏面に刻された碑文があります。
「この像は 分倍河原合戦を題材に 武士の情熱と夢をモチ-フとして制作したものである。
『分倍河原合戦』は 元弘3年(1333)5月15日、16日も両日に新田貞義と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけ分倍河原で火花を散らした天下分け目の合戦である この合戦で勝利をおさめた新田軍は一気に鎌倉を攻め落とし 遂に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである
こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに これを後世に伝えるため この分倍河原合戦にゆかりのモニュメントを制作し この地に設置するものである
制作は 我が国彫刻界の重鎮で 文化功労者・日本学術院会員の富永直樹先生 題字は府中市長 吉野和男の揮毫による
この『新田貞義公之像』が永くふるさと府中の歴史を伝え 市民の心に生きつづけることを願うものである
昭和63年5月
府中市 」
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