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JR南武線又は京王本線分倍河原駅下車徒歩約10分、室町幕府征夷代将軍となった足利尊氏が建立した高安寺城(こうあんじじょう、東京都府中市片町)を訪問しました。<br /><br />この寺は平安時代に藤原秀郷という武将が武蔵国守となり現在地に館を構えたのが始まりと伝えられ、秀郷が国守任務を終えて帰郷後この館城跡に寺院が建てられ、市川山見性寺と呼ばれたそうです。<br /><br />当寺は地勢的には河岸段丘の涯上にあり、南方に多摩川から多摩丘陵を臨む要害の地で、近くには鎌倉街道が通るため交通利便性良く、頻繁に大規模戦闘軍団の本陣としての役割もありました。<br /><br />その代表的な事例が鎌倉時代末期の天慶2年(1333)、新田義貞(にった・よしさだ)が幕府に反旗を翻すべく上野国新田荘から鎌倉に向け進軍、北条泰家(ほうじょう・やすいえ)を総大将とする鎌倉幕府軍との多摩川河川敷を合戦の舞台とする「分倍河原の戦い」でしょうか。<br /><br />その後室町幕府を開いた足利尊氏は全国に安国寺創建をするにあたりこのお寺は「武蔵国安国寺」として再興され「龍門山高安護国禅寺」と呼ばれ、これを機に幕府の手厚い保護をを受け最盛期を迎えます。<br /><br />ところが幕府系お寺と言う位置付により幕府の関東出先機関である鎌倉公方足利氏の影響を受けることになり、その後幕府凋落に伴い関東での公方の政治力が衰え、ついには不満を抱える豪族との勢力争いに巻き込まれます。即ち歴代の鎌倉公方が地方豪族討伐に際しては城塞化した高安寺に陣を構え、当寺より出陣することとなります。<br /><br />現在の本堂は1803年(享和3年)、山門は1872年(明治5年)、鐘楼は1856年(安政3年)の建立で東京都選定歴史的建造物に指定されています。<br /><br />現在は遺構らしきものは見当たりませんが往時は周辺には土塁及び空堀などが施され城砦としての機能があったと想像しています。<br /><br /><br />2022年4月23日追記<br /><br />現地に設置の説明板では下記の通り記述されています。<br /><br />「 当 山 略 縁 起<br /><br />当山は往古 田原藤太秀郷公の館跡といわれ、その後市川山見性寺(宗派不明)が建立されたと伝えられている。しかし後に足利尊氏公将軍となるやこの寺を改めて、安国利生の祈願所として、龍門山高安護国寺を再建した。これは尊氏が全国(66カ国2島)に建立した安国寺の一つで、武蔵国のそれが当山である。<br /><br />当時は鎌倉建長寺末の臨済宗で、開山は大徹心悟禅師であった。<br />時に暦応年間と伝えられる。その昔は大伽藍で塔頭十院末寺も75院あり、寺領も広く東は代田村、西は貝坂、南は向山、北は山口に及んだという。<br /><br />その後兵乱の間しばしば将軍家の陣所となり、小田原北条氏の庇護も受けたが、暦年の兵戦を経て衰えて大利の姿も失っていった。時に慶長年間青梅の海禅寺第七世関州徳光禅師が、当山を再興し、済派を改めて曹洞宗隣今日に至る。開基足利尊氏公の発願である安国利生の祈願所として、毎朝朝課前に、大般若経転読の祈祷を行なっている。<br />  本尊釈迦牟尼如来(文殊、普賢の三尊仏)<br /><br />  み ど こ ろ<br /><br />1、弁慶硯の井 見性寺と呼ばれた頃の事 義経は兄頼朝の怒りにふれ腰越まで来たが、鎌倉入りは許されなかった。やむなく京都へ帰る途中、暫く見性寺に足どめし、弁慶等と叔免祈願のため大般若経を写したという。その時裏山から清水を汲み取ったので弁慶硯の井の遺蹟がある。<br /><br />2、秀郷稲荷 田原藤太秀郷公を当山鎮守として裏山に祀る。<br /><br />                   竜門山  高 安 寺 」<br /><br />

武蔵府中 鎌倉街道を臨み幾多の戦場となった分倍河原に近接する寺院のため戦時中には本陣となった足利尊氏ゆかりの『高安寺城』訪問

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2011/10/02 - 2011/10/02

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR南武線又は京王本線分倍河原駅下車徒歩約10分、室町幕府征夷代将軍となった足利尊氏が建立した高安寺城(こうあんじじょう、東京都府中市片町)を訪問しました。

この寺は平安時代に藤原秀郷という武将が武蔵国守となり現在地に館を構えたのが始まりと伝えられ、秀郷が国守任務を終えて帰郷後この館城跡に寺院が建てられ、市川山見性寺と呼ばれたそうです。

当寺は地勢的には河岸段丘の涯上にあり、南方に多摩川から多摩丘陵を臨む要害の地で、近くには鎌倉街道が通るため交通利便性良く、頻繁に大規模戦闘軍団の本陣としての役割もありました。

その代表的な事例が鎌倉時代末期の天慶2年(1333)、新田義貞(にった・よしさだ)が幕府に反旗を翻すべく上野国新田荘から鎌倉に向け進軍、北条泰家(ほうじょう・やすいえ)を総大将とする鎌倉幕府軍との多摩川河川敷を合戦の舞台とする「分倍河原の戦い」でしょうか。

その後室町幕府を開いた足利尊氏は全国に安国寺創建をするにあたりこのお寺は「武蔵国安国寺」として再興され「龍門山高安護国禅寺」と呼ばれ、これを機に幕府の手厚い保護をを受け最盛期を迎えます。

ところが幕府系お寺と言う位置付により幕府の関東出先機関である鎌倉公方足利氏の影響を受けることになり、その後幕府凋落に伴い関東での公方の政治力が衰え、ついには不満を抱える豪族との勢力争いに巻き込まれます。即ち歴代の鎌倉公方が地方豪族討伐に際しては城塞化した高安寺に陣を構え、当寺より出陣することとなります。

現在の本堂は1803年(享和3年)、山門は1872年(明治5年)、鐘楼は1856年(安政3年)の建立で東京都選定歴史的建造物に指定されています。

現在は遺構らしきものは見当たりませんが往時は周辺には土塁及び空堀などが施され城砦としての機能があったと想像しています。


2022年4月23日追記

現地に設置の説明板では下記の通り記述されています。

「 当 山 略 縁 起

当山は往古 田原藤太秀郷公の館跡といわれ、その後市川山見性寺(宗派不明)が建立されたと伝えられている。しかし後に足利尊氏公将軍となるやこの寺を改めて、安国利生の祈願所として、龍門山高安護国寺を再建した。これは尊氏が全国(66カ国2島)に建立した安国寺の一つで、武蔵国のそれが当山である。

当時は鎌倉建長寺末の臨済宗で、開山は大徹心悟禅師であった。
時に暦応年間と伝えられる。その昔は大伽藍で塔頭十院末寺も75院あり、寺領も広く東は代田村、西は貝坂、南は向山、北は山口に及んだという。

その後兵乱の間しばしば将軍家の陣所となり、小田原北条氏の庇護も受けたが、暦年の兵戦を経て衰えて大利の姿も失っていった。時に慶長年間青梅の海禅寺第七世関州徳光禅師が、当山を再興し、済派を改めて曹洞宗隣今日に至る。開基足利尊氏公の発願である安国利生の祈願所として、毎朝朝課前に、大般若経転読の祈祷を行なっている。
  本尊釈迦牟尼如来(文殊、普賢の三尊仏)

  み ど こ ろ

1、弁慶硯の井 見性寺と呼ばれた頃の事 義経は兄頼朝の怒りにふれ腰越まで来たが、鎌倉入りは許されなかった。やむなく京都へ帰る途中、暫く見性寺に足どめし、弁慶等と叔免祈願のため大般若経を写したという。その時裏山から清水を汲み取ったので弁慶硯の井の遺蹟がある。

2、秀郷稲荷 田原藤太秀郷公を当山鎮守として裏山に祀る。

                   竜門山  高 安 寺 」

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 山門正面<br /><br />力強く逞しい重厚な佇まいとなっています。

    山門正面

    力強く逞しい重厚な佇まいとなっています。

  • 山門近景と山号<br /><br />左右に仁王像と共に2階部に「龍門山」が確認できます。

    山門近景と山号

    左右に仁王像と共に2階部に「龍門山」が確認できます。

  • 山門内面<br /><br />内面には左右に「地蔵尊」と「奪衣像」なるものが配置されています。

    山門内面

    内面には左右に「地蔵尊」と「奪衣像」なるものが配置されています。

  • 高安寺本堂・山門・鐘楼<br /><br />東京都選定歴史的建造物の案内板

    高安寺本堂・山門・鐘楼

    東京都選定歴史的建造物の案内板

  • 本堂正面<br /><br />等持院は尊氏の法号でしょうか。<br />

    本堂正面

    等持院は尊氏の法号でしょうか。

  • 高安寺沿革説明板<br /><br />尊氏が全国66ヶ国及び2島に同様の<br />高安寺を建立したそうです。(説明文より)<br /><br />弁慶硯の井戸の紹介もあります。<br />

    高安寺沿革説明板

    尊氏が全国66ヶ国及び2島に同様の
    高安寺を建立したそうです。(説明文より)

    弁慶硯の井戸の紹介もあります。

  • 弁慶硯の井戸<br /><br />兄頼朝の怒りに触れ鎌倉入りが許されず京都へ帰る途中、義経は当寺で弁慶らと共に赦免祈願の為大般若経を写しましたが、その時裏山から清水を<br />汲み取ったというのでその遺跡があります。(説明文より)

    弁慶硯の井戸

    兄頼朝の怒りに触れ鎌倉入りが許されず京都へ帰る途中、義経は当寺で弁慶らと共に赦免祈願の為大般若経を写しましたが、その時裏山から清水を
    汲み取ったというのでその遺跡があります。(説明文より)

  • 弁慶硯の井戸<br /><br />蓋がされており内部を見ることはできません。

    弁慶硯の井戸

    蓋がされており内部を見ることはできません。

  • 弁慶硯の井戸と石碑<br /><br />石碑に紹介されています。

    弁慶硯の井戸と石碑

    石碑に紹介されています。

  • 石碑近景

    石碑近景

  • 高林吉利の墓<br /><br />徳川時代初代代官の墓。<br />当地は徳川家の直轄地だった事が判ります。

    高林吉利の墓

    徳川時代初代代官の墓。
    当地は徳川家の直轄地だった事が判ります。

  • 野村瓜州の墓<br /><br />旅籠の主人で江戸の趣味人の中でもたいへん有名だったそうです。<br /><br />

    野村瓜州の墓

    旅籠の主人で江戸の趣味人の中でもたいへん有名だったそうです。

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