1969/09/22 - 1973/03/31
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tanochannさん
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下河原線は昭和48年3月限りで廃止になった国鉄の路線で、国分寺から分岐する中央本線の支線(盲腸線)でした。
写真 国分寺駅跨線橋の、のりば案内(昭和44年9月)
当時の国分寺駅のホーム配置、
・西武国分寺線が1番線
・中央線が2,3番線
・下河原線が4、5番線でした。
*西武多摩湖線は改札外の別駅舎でした。
国鉄改札を入って正面の1番線という好立地を私鉄が使っていたのは珍しかったです。駅長室は1番線の改札脇にあったので、駅長がドアを開けると目の前に他社の電車が止まっているというイリガルな事態だったわけです。
列車ダイヤを見るうえでややこしいのは、「ホームの番号」と「運転線路の番号」は同じではない、ということを認識しなくてはいけません。
下のダイヤで、国分寺の着発線に「7」と書かれた列車と、何も書いてない列車とがあります。
「7」のほうは、5番ホームに着く、無印のほうは4番ホームという意味です。
7は中央線の下り本線(3番ホーム)からみて7本目の側線という意味で、
「下り7番線」というのが部内での正しい呼び方です。
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下河原線のダイヤについて、当時の資料をもとに紹介します。
【鉄道の運転に詳しくない方は、事前に「列車ダイヤの見方」を理解してから本編を読まれることをお薦めします】
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【目次】
ダイヤ概要 2枚目
競馬開催日ダイヤ 5枚目
車輛運用 7枚目
線路配線 10枚目
周辺地図 13枚目
路線図 14枚目
乗車券 24枚目
信号扱所 31枚目
車輛 32枚目
平日ダイヤ拡大図 40枚目
トリビア 43枚目
-
下河原線は、中央線の国分寺駅から分岐して南に延びる5.6キロの単線盲腸線で、朝夕ラッシュ時は15分おき、日中と深夜は約40分おき、早朝夜間は30分おきに電車の運転がありました。
写真は平日朝ラッシュ時の7時頃のダイヤです。
太線が5連、細線が単行です。
北府中の駅前に従業員数7000名の東芝府中工場(東京都内では最大の工場)があり、その通勤輸送対策で朝夕は101系5連(注1)の運転でしたが、早朝深夜と日中はクモハ40の1両が約30分ごとの運転でした。休日も通勤人員が相当数あるため、朝夕のダイヤは平日休日ともほぼ同じでした。
この時間帯、国分寺⇔東京競馬場前は直通がなく、北府中で10分待ち乗換えのダイヤだったのですが、99%の乗客が北府中で降車(=東芝社員)だったので直通需要は少なかったのだと思います。
注1:昭和45年の3月頃から昭和46年の秋頃までの間、中原区の72系5連により運転されました。これは中央線の特快増発により101系が一時的に不足したため、南武線の余乗車を借り入れた為です。ある朝突然、最新鋭の101系が戦後の象徴茶色い電車に変わっていたので呆然と立ち尽くすほど驚いた記憶があります。
Xの”第三雨竜川”氏によると、昭和38年には朝夕ラッシュ時はまだ101系は3両だったそうです。これは知りませんでした。
https://x.com/shinmei_53505/status/1817085542116573190
昭和40年代の高度成長期(いざなぎ景気)に入り、東芝府中の通勤人口も倍以上に増加したので5両に増やしたのでしょう。
6両にすれば中央線の付属編成x2で特別編成を組む必要が無かったのですが、国分寺の5番ホームが5両が限界だったのでやむを得なかったのでしょう。
s45年に5番線ホームを無理やり延長して6両対応にし、運転可能にしています。 -
私は昭和44年から10年余、北府中駅近くの企業に通勤していました。
当初は下河原線で、その後昭和48年4月に下河原線が廃止になり、武蔵野線を利用しその間の変貌を見ることが出来ました。
下河原線が廃止されて51年も経った今、何を血迷ってわざわざおかしな記事を書いたんだ、と思われるかもしれません。
先日、とある方から「東京競馬開催のとき下河原線はどんな運転してたんだ」と尋ねられました。
廃止のときは「一大お祭り」騒ぎとなり大勢が押しかけたのでブログとかネットや雑誌に情報は山ほどあるんじゃね?と思って調べてみたら、クモハ40の走行写真はゴロゴロあるんですが、101系とか72系の情報は殆どありませんでした。まして東京競馬開催日の運転についてはネットには情報皆無でした。これは意外でしたね。
競馬開催日にどんなダイヤだったかなんてどこを調べても推測ばかりで正確な情報がありません。昭和45年に72系5連が毎日朝夕走っていたなんて、どこを見ても書いてありません。
下河原線で3年余通勤をし、駅や乗務員の方とも懇意にさせていただいたので部内資料もそこそこ頂いて残っています。
今ではJRになって列車ダイヤは社外秘扱いで門外不出となっていますが、当時はユルく、今ほどコンプライアンスが厳格でなかったので余剰品は何でも頂けました。国鉄時代の放出品が異常にヤフオクやメルカリに大量に出ているのはそのためです。
それらを基に、当時を偲ぶお役に立てばとまとめてみました。
なお当時、車両はあまり興味なかったので電車の写真は撮ってありません。
更にただ1つ残念なことは、電車ダイヤの付属品の「表書き」を捨ててしまったことです。表書き(記事欄)には記号凡例のほか、運用番号、編成、運転時分表、速度種別その線区独自の運転取扱いなどが書かれており、後日検証するには史料価値の高いものです。どなたかお持ちでしたらUPして下さい。
毎日乗っていたくせに、乗った車両番号もメモってないって・・・。
(72系5連の国分寺方先頭がクハ79459(西ナハ)だったことだけ覚えています。)
また何か重要なことを思い出したら追記訂正します。
写真 北府中駅発行の常備通勤定期券 よほど枚数が出ないと着駅まで印刷せず、補充定期券にゴム印を押す。
上は、私が使ったもの
下は、同僚にお願いして譲ってもらったもの
有効期間に駅廃止日をはさんでいて、48-4-1以降は特例扱いで府中本町まで有効だった。 -
昭和47年の国分寺駅の時刻表、懐かしい「電車標準時刻表」ですね。
「標準時刻表」は発車時刻を保証したものではなく「標準的な運転でこれくらいの時刻になる」とう時刻表で、「空いていて万一数秒早発したらゴネンね!」という免責付きの時刻表なんです。知ってました?
当時はまだボードに手書きのところが多かったです。
朝のラッシュ時には16分ごとでしたが、日中深夜は40分おきの運転でした。
しかしこれだけでは、どんな運転をしているのかわかりにくいですね。
ではダイヤを見てみましょう。 -
こちらは昭和47年10月2日改正の「中央線・総武線電車列車ダイヤ」の平日版から
朝6時~10時分を抜きだしたものです。
最下段の横線3本が下河原線です。
↓【最下段に下河原線部分の1日分の平日ダイヤを拡大して掲載しました。】↓
列車ダイヤは、管理局の運転部列車課で作成のうえ、駅、運転区、車掌区、信号区など関係各所に印刷して配布されます。1分目ダイヤの場合、横幅は3m以上にもおよびます。
当時の国鉄の場合、平日ダイヤは水色、休日ダイヤは薄緑色で印刷されていました。淡色だったのは長時間見続けても目にやさしく読み取りミスが少ないためと言われています。
大晦日の終夜運転など関係各所が膨大な数(全駅、全線区)にもおよぶ場合には、臨時ダイヤを印刷し配布したのですが、野球、お祭り、花火、競輪、競馬、海水浴など関係個所が少ないローカルイベントにより臨時列車を運転するときは、臨時ダイヤを特に印刷せず、基本ダイヤに対して変更のある個所を「箇条書き」で文書に表わし配布しました。
これを受け、関係部門の運転責任者は、基本ダイヤに手書きで加筆訂正するわけです。国分寺駅 駅
-
写真は「昭和47年10月2日改正」の休日ダイヤに、「第66回天皇賞などの開催による臨時列車の運転方」という局報乙(運転達)により加筆訂正されたものです。
昭和47年11月と12月施行の東京競馬開催日臨時ダイヤの15時付近です。
JRA(日本中央競馬会)の場合、基本的に競馬は土日祝のみの開催で平日は開催されません。従って平日の競馬ダイヤは原則存在しません。(地方競馬、公営競馬はこの限りではありません)
通常日(競馬の無い日)は平日、休日とも朝夕のラッシュ時は72系または101系の5連が1本、日中と早朝深夜はクモハ40の単行1本の運転ですが、競馬開催日はクモハ40は日中お休みで、101系の5連がもう1本追加され、2本で交互に国分寺と東京競馬場前を7:15から18:05まで往復しています。
通常日には交換のない北府中で、2本は交換します。
電番の後に(一)と書かれた列車は北府中でホームの無い一番線に入り、運転停車だけで客扱いはしません。何も書かれていない列車はホームのある電車着発線に入るので通常通り客扱いを行います。
定期電車が客扱いし、増発電車が客扱いしない運用です。
増発のほうに乗って行ったり来たりしても永久に北府中では降りられません(笑)
*以前は非常用避難ハシゴで、最前部のドアコックを開け地上に乗降させていた時期もありましたが、路線廃止が近づきマニアや見物客が増えてきたので末期にはやめています。(鉄道ピクトリアルNo.277に写真あり)
更に101系7連が東京から直通で3往復運転されています。東京ー武蔵小金井間は10連で運転し、付属3連を解放してから武蔵小金井ー東京競馬場前間を往復します。
通常時は豊田行きを、東京競馬場前行きに行先変更しています。
たとえば15:22に東京競馬場前を1508Tとして発車し、武蔵小金井で3両増結し10連で東京に向かっていることがわかります。
東京から1編成が乗り入れると線内に3編成存在するので、この時間帯定期運用のほうは2番線で留置され、東京乗り入れ編成が北府中で客扱いします。
またこの頃、すでに武蔵野線の試運転も始まっていたので赤線で試運転列車も書かれています。
*黄色く塗られた箇所は、基本ダイヤを抹消したという意味です。
白ペンなどを使わず、抹消前も見えるようにしておくのが国鉄流です。
余談ですが、休日ダイヤなので「相模湖臨」(高尾ー相模湖のピストン輸送)も記載されているのがわかります。 -
10時から17時を一覧表示するとこんな感じになります。
細かいところは読み取れませんが、車両の動きは概略わかると思います。
追記
13枚下に、拡大&3分割して見易くしたものを追加しました。
。 -
平日朝ラッシュ時の7時~9時の部分です。(S47-10-2改正)
見易いように、スケール(駅名部分)を貼りつけています。
朝6:03、電車区のある武蔵小金井からクモハ40単行が回送されて国分寺の下本(中央線下り3番ホーム)に着きます。下河原線の始発電車のみここから発車します。
朝7:04、こんどは101系5連が武蔵小金井から回送されてきて国分寺の下7(5番ホーム)に着きます。
下6(4番ホーム)からクモハ40が発車し東京競馬場前に向かいます。以後東京競馬場前~北府中間を2往復し、1時間国分寺には戻りません。
次に72系または101系が下7から発車し、北府中に向かいます。以後北府中~国分寺間を4往復した後、東京競馬場前まで1往復し、武蔵小金井に戻り入庫します。
クモハ40は8:06に国分寺の下6に戻り、以後9:00までまで留置されます。
9:00から15:54まで日中はクモハ40が国分寺~東京競馬場前間を11往復します。
約40分おきの運転です。
速度種別は「停電D4」だったので線内では65キロくらいしか速度を出しません。
下河原線の朝の時間帯は、平日休日とも同じです。
--------------
【余談】
つい上段の中央快速線にも目が行ってしまいますが、8時~9時の上り、何本あるんでしょうか。2分10秒間隔で1時間に27本あります。日本一の運転密度です。 -
平日夕方ラッシュ時の16時~18時の部分です。
朝と違って至って単純です。15:51から19:35までクモハ40は下6で留置され、武蔵小金井から回送されて来た101系が朝とは違って国分寺~東京競馬場前間を6往復、更に国分寺~北府中間を2往復します。
北府中折り返しが2本設定されているのは、東芝の退社時間と関係があります。
19:35から選手交代し、クモハ40が終電まで往復した後23:09に武蔵小金井に戻り入庫します。
平日ダイヤで紹介しましたが、休日は17:01で101系からクモハ40に選手交代(車両交換)する点のみ異なります。
日中は貨物列車が平日2往復、休日1往復が国分寺~下河原間を往復しています。
北府中も貨物取扱駅だったので、停車時間を長く取っています。
東芝府中工場で新製した機関車などを連結して甲種鉄道車両輸送として出荷しています。ED75からED79への改造など工場入場も同じです。
線内の基準運転時分は下記の通りです。
国分寺-北府中 旅客5分30秒 貨物9分00秒 3.3キロ
北府中-東京競馬場前 旅客4分30秒 2.3キロ
北府中-下河原 貨物11分00秒 3.8キロ
*ダイヤの水色は電車、濃緑色は列車(特急、貨物、中距離、M電)を表わします。 -
参考までにこちらは、昭和39年10月の東京オリンピック開催日の臨時ダイヤです。大規模イベントで関係個所が多いので別刷りになっています。
総武緩行線を日中も朝ラッシュ並みに目いっぱい増発されています。
通常に対し変更の生じている9時~16時部分のみ印刷し、関係部署に配布されていました。
*この時はまだ中野~三鷹間の緩行線は開業していません。ダイヤも1色摺りです。 -
では、下河原線の線路配線を見てみましょう。
東京鉄道管理局(東鉄)運転部が作成した線路図で昭和38年頃のものです。
国分寺駅は貨物扱いのある駅で、入替えヤードを上り、下りの2箇所持っています。
下河原線は下りヤードの中にある専用のホームから発車していました。
下6と下7がそれです。(上述の4番5番ホーム)
s45に下7に延長工事をして6両に対応しています。
一番下の「川越本」というのは川越鉄道本線で、現在の西武鉄道国分寺線のことです。 -
中央線から南に分岐し、北府中へと向かいます。
途中、中央鉄道学園の側線が分岐しています。
22‰の坂を登ると、R280のカーブで南に向きを変え、18‰の坂を下って北府中に着きます。
北府中は貨物取扱駅なので、側線が4本あります。
北府中駅の構内からは、東芝の専用線、府中刑務所の専用線、日本製鋼の専用線、
旧陸軍燃料廠(後の米軍府中基地)への専用線などと接続していました。
昭和45年秋くらいになると、北府中駅の2番線から4番線は撤去され、武蔵野線の工事が始まります。現在の武蔵野線北府中駅のホームはこのあたりにあります。
上記の東京競馬開催日のダイヤでは、残されていた本線(電着線)と1番線を使って運転されていたわけです。1番線は貨物線なのでホームはありません。
ところで聡明なマニアの方はこの図を見て何か気付きませんか?
そう、信号機です。国分寺の出発信号機までは今フツーにある色灯式なんですが、北府中の場内信号機から先は腕木式信号機です。
下河原線は国電区間では一番遅くまで腕木式信号機を使っており、昭和42年頃まで使われていました、 -
京王線をアンダークロス、甲州街道踏切を過ぎると更に南武線をオーバークロスし、東へ分岐して東京競馬場前駅に至ります。
分岐を直進すると中央高速をアンダークロスして下河原貨物駅です。
北府中起点で3.8キロとかなり距離がありました。
先端は多摩川の砂利採取線へとつながっています。
施1~4は砂利の積み込み線で、ホッパの設備がありました。
貨物駅の中から、南武鉄道への専用線があり、昭和39年当時は現在の南武線と線路がつながっていたことがわかります。旧南武鉄道是政多摩川砂利線経由で多摩川の砂利を川崎方面に送り出すルートだったようです。 -
昭和32年の京王線から南側です。
多摩川の河川敷にかけて、下河原貨物駅が広大な敷地であったことがわかります。
下河原貨物駅についても、詳しい資料は残っていません。
南武線から伸びている細線が是政多摩川砂利線で、下河原貨物駅との連絡線もありました。 -
位置関係は路線図で見てください。
下河原線の歴史などについての詳細は、下記wiki参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E7%B7%9A
写真:クモハ40074(西ムコ)の運転席背面に貼ってあった、国電案内図
同車は現在、鉄道博物館で収蔵武蔵小金井駅 駅
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建設中の武蔵野線と下河原線との位置関係のわかる図です。
黒が既成線、赤が計画線です。
国分寺ー北府中間の半部以上の区間が武蔵野線と重複していることがわかります。
武蔵野線の線路が敷かれると、下河原線は新しい上り線を使って単線扱いで1年近く走っていましたね。
*国鉄首都圏本部 昭和47年1月作成 首都圏管内配線略図 -
下河原線と武蔵野線の合流点。
この先、武蔵野線の上り線を900mほど進み、右側に渡って北府中のホームに入る。
手前が国分寺、先方が北府中方。右後方が西国分寺方面。
s47-6西国分寺駅 駅
-
では、ここであまりお目にかかれない珍しいものを紹介しましょう。
武蔵野線開業を2か月後に控えた昭和48年2月、乗務員の訓練が始まりました。
電車が1日7往復、機関車が11往復走行し関係する乗務員が2か月間に複数回乗務して線見と体験をします。
この間にカーブや信号位置、速度度制限を覚え、どのあたりで加速、減速するか当たりをつけるわけです。
さすがに3/31は下河原線廃止でカオスが予想されたため、訓練運転はありません。
写真が訓練運転ダイヤですが、この時まだ下河原線も営業しているわけで、下段に下河原線のダイヤも書かれています。
列車ダイヤは平日、休日の区別がありません。 -
上図を拡大してみました。
これまで紹介した中央線ダイヤは1分目の電車ダイヤでしたが、武蔵野線は列車なので2分目の列車ダイヤになっています。
JRになって2年目くらいから、武蔵野線も電車方式の運転に変わり、1分目ダイヤになりました。 -
北府中
電着線(下河原本線)に停車中の下河原線のクモハ40と
試運転中の武蔵野線101系下り電車
中央に見える塔は東芝のエレベータ研究塔です。
下河原線は国分寺起点なので、国分寺方面が上りだが武蔵野線は府中本町起点なので、西国分寺方面は下りとなる。 -
おまけ
開業初期の武蔵野線のダイヤです。(S48-4-1 朝6時~9時部分)
下河原線時代と本数はそんなに変わらず、朝夕は20分ごと、日中深夜は40分ごとの運転でした。
現在の4~8分ごととはエライ違いでした。 -
おまけ
北府中駅の駅名標と助役さん。昭和45年の旧ホームです。
買ったばかりのNikomat FTNでの試写です。当時はまだ世にデジカメはありません。
**4トラのルールで写真は20枚以上と決まっているので、以下あまり本題とは関連のないおまけ写真を掲載しています。北府中駅 駅
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おまけ
北府中駅に到着するクモハ40074 昭和45年5月
まだ橋上駅舎になる前の旧配線。(武蔵野線工事着工前)
手前の線路が一番線で、競馬開催日の臨時電車はここに入って定期電車と交換する。
昭和30年代は17m車のクハ38とモハ30の2連がずっと下河原線の運用を担っていた。中央線の101系置き換えが終わる昭和36年、付属編成の3両に置き換えたが日中の輸送力が余剰なので、39年に青梅線で余剰となったクモハ40を2両武蔵小金井区に配置して日中の下河原線運用に当たらせた。 -
おまけ
千鳥町から、南武線経由で北府中に送られた、貨車車票です。
運転中は貨車の外側に「車票差し」があって表示されています。
機関車用の台車がチキに積まれ、761列車に連結されてやってきました。
貨車番号、品名、数量、重量、荷受人が記載されたボール紙です。
車扱い貨物なので、貨車に積んだまま専用線経由で荷受人に引き渡されます。
駅名コードは2つあって、よく知られた旅客用の「事務管コード」では北府中は△440519でしたが、貨物駅はこれとは別に4桁の「貨物取扱駅コード」があり、北府中は4671でした。
*武蔵野線開業後の北府中駅の事務管コードは△442602に変更されています。 -
おまけ 関連の切符を紹介します。
写真上:下河原線 国分寺~東京競馬場前が営業開始した、昭和9年の乗車券
開業日は競馬場と同じ4月2日でした。この時、まだ北府中駅は開業してない。 左上の「〇A」は発売箇所記号、競馬臨時窓口がA、B、Cの3つあってA窓口で売ったという記号。
常設の窓口の券は無印。今の券売機番号と同じ意味あい。
写真下:下河原線営業最終日昭和48年の地図式乗車券 -
おまけ
駅員さんに聞きましたが、東京競馬場前駅で一番たくさん売れた切符は「国分寺ゆき」だそうです。ギャンブル場の最寄り駅では、一番売れるのは隣の駅までの切符というのが定番なんですが「北府中」と言うのがあまりなじみがなく何となく知っている国分寺と言っちゃうらしい。
(立川競輪場では隣駅の国立を「こくりつ」と言っちゃってキセルがバレたとか。)
他の切符よりダントツに多く売れて、競馬開催日は1日2000枚も売れたとか。
昭和45年には写真中の地図式でしたが、国鉄首都圏では昭和46年以降100円までの切符は写真下の金額式に順次切り替えたので、最終日に記念に安い切符を買った人はみな金額式でした。子供券と大人120円以上は地図式が残っていたそうです。
あと写真上の北府中ゆき小児10円も最終日の3日前くらいまで残っていました。なぜか人気がなかったです。
でもこの40円区間だけは、他の金額にくらべて矢印が長くて小児断線がありません。
たくさん売れるので1万枚単位で印刷するとこうなるんだとか。裏面は集中印刷の片券番、大人専用券です。
トリビアでした。 -
おまけのトリビアの補足
上の説明が何を言っているのかわからない、というご指摘を頂いたので補足します。
写真の2枚、どうしてこういう違いがあるのか?
上:大人小児用。小児断線と綴じ穴があいています。矢印が短い。
裏返すと、両端に券番号があります。
大人用として売るときはそのまま、小児用として売るときは斜めの線(断線)からハサミで切断し、左側を旅客に渡し、右側を駅の控えとして穴に綴じ紐を通して保管し売り上げ処理に使います。上の例では30円の切符を20円引きで売ったというエビデンスになります。
この断片をなくすと、係員の責任として国鉄では20円を弁納しなくてはなりませんでした。
上はあまりたくさん売れない切符で、1回に100枚単位で印刷します。
1万枚未満の請求はこの大人小児用になります。
小面印刷と言って、予めこのサイズに切断された券紙に1枚づつ印刷します。
下:大人用 小児断線と綴じ穴はありません。矢印が長い。
裏返すと、券番号は片側のみです。
下は、たくさん売れる切符で、1回に1万枚単位で印刷します。
集中印刷と言って、大きな紙に数十枚を並べた版を使って印刷し、あとで切断します。
ただし大人専用の切符なので、小児用は別に用意しなくてはなりません。
もしくは補充券で売ることになります。
券面右下の②は循環番号で、すでに2万枚目のロットであることがわかります。
(s46年の地図式を廃止して金額式化後、10001枚目から20000枚目まで)
東京競馬場前の窓口では、北府中よりも国分寺のほうが知名度が高かったので、30円より40円がケタ違いにたくさん売れたというトリビアです。
ギャンブルに来る人は隣の駅名を正確に言える人は少なかったようです。
今ではICと自動改札でそんなことはありませんが、昔はギャンブル場からの帰りはキセル乗車の宝庫でした。
昭和30年代の硬券全盛期には大人用、小児用がたくさんありましたが。券売機の普及してきたこの頃には、硬券は大人小児用がほぼ全盛で、大人用は非常に珍しくなっていました。
また今の券売機の切符はすべて大人小児用で、小児用として売られたものは「小」の文字が印字されます。券売機は都度1枚づつ印刷するので当然です。
質問された方、お分かりいただけたでしょうか。
こんな補足は「中の人」に怒られるかもしれませんが。 -
おまけ
下河原線の最終営業日に車内で車掌から買った切符(車内補充券)です。
三鷹車掌区の担当でした。
この翌日から制度改正で電車区間の駅が増えたので、この切符も幅の広いものに変わっています。
尾久駅と東北本線(上野ー赤羽)が書かれていないのにお気づきでしょうか。府中本町駅 駅
-
昭和48年4月1日、下河原線廃止と入替えに武蔵野線の府中本町ー新松戸間が開業しました。全駅自動券売機対応で初乗りの乗車券は入場券併用でした。
中間駅の新小平-西浦和、東浦和-南流山の各駅は自動改札が導入され、新型の100キロ券売機は裏の茶色い低保磁率の磁気券でした。
当時26キロ120円以上はまだ地図式です。
接続駅の府中本町、北府中、西国分寺、南浦和、新松戸の各駅では非磁気の50キロ券売機でまだ窓口があり硬券を売っていました。 -
休日の東京競馬開催日 拡大図1
10時~12時
このあたりは2本の101系が交互に往き来しています。 -
休日の東京競馬開催日 拡大図2
12時~14時
東京からの乗り入れがあります。
1本は豊田電車区からの回送で入っています。 -
休日の東京競馬開催日 拡大図3
14時~17時
東京行きの直通が計3本あることがわかります。
15:22、15:58、16:23
その後、2番線で休んでいた編成が16:51に復帰し、午前と同様に国分寺まで2編成で交互に往復します。
ーーーーーーーー
●おことわり●
ここでは基本的な鉄道の運転知識・ダイヤの見方のわかることを前提に書いています。
巷には解説ページがたくさんあるので、もし意味がわからないときには参照してみてください。 -
おまけ
北府中駅の信号扱い所にあった、継電連動操作盤です。
国分寺の出発信号から先、東京競馬場前・下河原までここで制御していました。
右が国分寺、左が下河原で専任の信号掛が常駐していて手動で信号、ポイントを操作していました。電車が発車すると磁石式電話機で隣駅に電話をかけ「コロナナ電1つエン」(07電は1分遅れで発車した)のように通知します。
((下河原線の電番は他線区のように運用番号ではなく、始発駅を発車する時分でした。たとえば国分寺を10:07に発車する東京競馬場行き電車は「1007電車」で現場では略して07電(コロナナデンと読む)と呼んでいたわけです。
ただし下りは奇数、上りは偶数と決まっているため、もし14分発車の下りは1を加えて15電、27分発車の上りも1を加えて28電となるわけです。))
下の2本の線路は工事が終わって試運転が開始されていた武蔵野線の線路です。
過渡期にはこんな制御盤をわざわざ作られていたのです。 -
おまけ
車輛の写真が1つも出なかったので、追加。
下河原線の車両は朝夕ラッシュ時が101系や72系でしたが、それ以外の閑散時間には客が少ないので1両で充分でした。
国鉄には両運転台で1両で走行できる直流電車はあまり多くなく、クモハ40という形式が豊田区や青梅区にあり、それを利用していました。
クモハ73とクモハ40の2両編成で運転された時代もありました。
下河原線用は武蔵小金井区の所属で、40071と40074の2両が配備され、1日交代で交互に使用されていました。
下河原線廃止後は国府津電車区に異動となり、職員輸送に使用された後、40074のみ生き残り2007年から鉄道博物館に収蔵展示されています(写真)
なお、展示パネルにはこの車両が下河原線で使われたことは書かれていません。
どうやら中央線の増結用が主用途だったということにしたいようです。
また個人のブログを拝見しても、下河原線で使用ということはご存じないようです。
(1935年川崎車輛製造)鉄道博物館 美術館・博物館
-
おまけ
鉄道模型といえば最近はNゲージ独壇場の感がありますが、クモハ40はあいにくNゲージでは完成品は発売されておらず、自作するしかありません。
しかし、KATOがHOの完成品を発売しています。
懐かしみたい方は、是非お手元に1両いかがでしょうか。
Nゲージは日本の狭い住宅で、2畳ほどのスペースで10両フル編成を走らせるには良いのですが、車両が小さすぎて表記文字も見えにくく鑑賞には不向きです。
HOにしてはプラ製なので廉価で、今ならsaleで1万円を少し超すくらいで入手できます。(定価の36%引、送料込み)
是非、あなたのデスクの上に1両如何でしょうか。
参考(amazonページ)
https://www.amazon.co.jp/dp/B01JZ0Q9KK/ref=asc_df_B01JZ0Q9KK1736526600000?
模型は数年に1度しか生産しません。タイミングを逃しメーカ在庫切れになると2倍以上に相場は跳ね上がります。 -
おまけ
101系の前サボ
朝の通勤時間帯、東京競馬場前には行かないことを強調するため作ったと思われる。
(国分寺-東京競馬場前、北府中-東京競馬場前という101系のサボは無かった。) -
おまけ
競馬開催日は101系が代走するため、クモハ40は国分寺の電留線で8時から18時50分まではお休みです。
写真は国分寺の下り電留線で休むクモハ40071。この写真の車両はすでに廃車解体されています。 -
参考用 クモハ40054の運転台です(平成12年大宮工場鉄道フェスにて)
ブレーキ弁には「抜取位置非常」のアダプタが取りつけられている。ATS-Pを取り付けた関係か。
運転席は車両横幅の1/3に収められており非常に狭い。
運転中は手前の木製扉が閉められ、中は見えない。
*同型ですが下河原線で使われた車両ではありません。 -
参考図1
下河原線の沿線地図 昭和41年府中市発行
国分寺駅周辺
(赤線は都市計画道路) -
参考図2
昭和41年の府中市
北府中駅周辺
(赤線は都市計画道路) -
参考図3
昭和41年の府中市
東京競馬場前駅、下河原駅周辺
(赤線は都市計画道路)
この頃は前述の、是政多摩川砂利線経由の南武鉄道連絡線は撤去されている。 -
最後に、「No.437 中央総武線電車列車ダイヤ 平日」S47-10-2改正
の下河原線部分を4枚の画像に分け、1日分(初電から終電まで)を載せておきます。
クリックすると拡大されます。
1枚目 初電~11:30 -
2枚目 11:30~17:30
-
3枚目 17:30~終電まで
拡大してじっくり見ると、新たな発見があります!
【あとがき】
少しは参考になりましたでしょうか?
1分目の電車列車ダイヤは、縦は40センチくらいですが、横は3m20cmもの長大な巻物です。
1日18時間分をなんとか掲載できないか試してみましたが、4トラの写真機能では縦横のピクセル数に制約があり簡単に1枚で詳細表示できる手段がありませんでした。
こういう極端なサイズの画像はきっと想定外なんでしょう。
ネット上のサイトでも実物ダイヤを1日分全部掲載した例を見ません。
他にアップローダにリンクさせるしか手段は無いようです。
苦し紛れに折衷案として90分単位でカットした画像を載せておきました。
1日分全部見たいという要望には一応お答えできたかと思います。 -
ここで最後にトンデモナイ切符をお目にかけましょう。
ほら、何か気付きませんか?
・
・
・
発行日付がちょっと見にくいですが、昭和50年の11月に見えます。
220円といえば昭和49年10-1運賃改訂後の金額ですから間違いないでしょう。
東京競馬場前駅は昭和48年3月31日限り廃止だったので、消し忘れ??
規則上は東京競馬場前ゆきで発行した乗車券は過渡的に府中本町まで有効という特例があったので問題ないかもしれませんが、南武線の平間からだとぐるっと立川、国分寺を経由しないので22.6キロ、当時の運賃で150円で済むのにわざわざ70円も高い切符を売るはずがないのです。
裏面を見ると「表面区間の1駅ゆき」と、注意文言が新表示になっているので190円から220円に値上げのとき、うっかり券面を見直さずに請求したのでしょう。
廃止から2年半もの間、『存在しない駅ゆきの切符』を売っていたわけです。
当時SNSも無かったので話題にもならなかったわけです。
切符マニアの機関紙「交通趣味」にも載っていなかったので、きっと誰も気付かなかったんでしょうね。いや、だれか気付いても拡散してバズらせる手段がなかった???
国鉄運賃の推移
https://url.skr.jp/2nd/042.html平間駅 駅
-
昭和27年頃の車内補充券です。
中央線の支線に下河原線のほか武蔵野競技場線(S26~S34)も描かれており、
武蔵岩井、大久野、与瀬、浅川、氷川、昭和前、下十条などの懐かしい旧駅名も見られます。
この頃、まだ北府中は富士見信号場の時代で駅は開業していませんでした。
当初は、下河原線の各ダイヤの紹介に留めるつもりでしたが、それ以外の線路配線や乗車券、地図などの関連事項にも拡張することとなりました。
皆様の調査研究の一助になれば幸いです。
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お気づきの点やご要望がありましたら、コメント欄(4トラの掲示板)に記入いただければ手持ち資料の中で可能な限り反映いたします。
2024-12-14初稿
2025-1-15 投了 -
追記 2025-5
車輛の写真を撮っていなかったので物足りないと思っていたところ、TKさんから頂きました。ありがとうございます。
廃止の前年、休日出勤の帰りに撮られたそうなので、国分寺駅4番線で競馬臨が折り返し発車待ちのシーンでしょう。クハ101-66ほか101系5連(西ムコ)です。
4両目は低屋根のクモハ100-806だったそうです。
平日朝夕の101系はすべて向い側(写真では右側)の5番線から着発していました。
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