2017/08/30 - 2017/10/03
686位(同エリア1205件中)
明石DSさん
6階9号室
この部屋を出て朝食へ
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2017:平成29年9月30日(土)~10月3日(火)
2泊4日
2日目:10月1日(日):薄曇り
プトラジャヤ・マラッカ~クアラルンプールへ
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2019.平成29年10月1日(日)
■クアラルンプールの朝
朝6時半過ぎに部屋を出て朝食に向かう。レストランは広くバイキング形式、宿泊客が多いのか種類・量とも選ぶに一苦労するくらい多い。同行者も見当たらず広いので適当に一人座って食べる。朝食バイキングとしては十二分の内容だと思う。満足。
レストランから外に出るとホテルのプールがあり早朝にもかかわらず一人の白人中年女性が泳いでいた。表道路には8時出発のはずがすでに我々一行が乗る「コロンビアレジャー観光バス」が止まっていた。バスには「BAS PERSIARAN」との表記あり、これが政府から認可された旅行会社の証。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
朝食レストランは広かった
メニューも豊富「え~、凄いなァ~」だった -
確か和食らしきものもあったと思う
人は食い物がエネルギーになって動く
生き物がなんでこの地球に生まれたのか?
宇宙もそうだが、不思議なことばかり -
朝早くからプールで一人の女性が泳いでいた
そうかここは年中夏だからいつでも泳げる -
ドーセット グランド スバン ホテル
所在地はクアラルンプールではなく
隣町のプトラジャヤ
日本食レストランは周囲にあるけどなァ
クアラルンプールに遠すぎる -
609号室の窓外の景色
さすがに赤道直下 緑が多い -
尾張徳川家の19代当主:徳川義親(著)
この本の中に大叔父(鹿蔵)のことが記されている
殿さまに何度か同行して狩りをしていたようだ
鹿蔵宅には今もその時のワニの剥製等々がある
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■祖父の弟(大叔父)の話
私の祖父の弟(〇〇鹿蔵:故人)が1911:明治44年7月・英領、シンガポールに渡航:28歳、1922:大正11年8月23日 :38歳でシンガポール(10年滞在)から帰朝。
その10年、シンガポールで「日本ホテル」を経営し「虎狩りの殿様」と言われる徳川義親が定宿にしてくれていた。「馬来の野に狩して」徳川義親(著)の中に鹿蔵の「日本ホテル」の写真と大叔父のことが書かれている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983300
抜粋:日本ホテル
『日本ホテルという名ばかり聞くと実に堂々たる伽藍の様な建物を想像しますが、実は日本の宿屋で、ジョホールの護謨園にいる人々が新嘉坡に出て来た時の定宿であってきわめて貧弱なものです。併し主人の〇〇(鹿蔵)という人が極めて実直なのと、猟につれる馬来人の出入りの自由の為に此の宿を選んだのです』
鹿蔵は殿様の像狩・虎狩などに付き添っており本の中の写真にも倒した像と殿様と一緒に写っている。徳川義親との親交は帰国後もあったようで大叔父の家に徳川家の印籠やワニの剥製などいろいろあった。
思えばゴム園で働き成功した姉夫婦を追ってなのか?叔父は28歳の若さで日本を離れシンガポールでホテルを持つまでになった。その経緯は分からないが確かに成功し蓄財して日本に帰国、その後働くことなく6人の子を育て1969/昭和44年11月86歳の生涯を四国愛媛の地で終えた。
私が高校3年生の時に愛媛で大叔父に会ったが残念ながら当時何の興味もなかったので大叔父の波乱の人生を聞くこと叶わず。今にしてみれば残念至極なり。鹿蔵の末息子がシンガポールにホテル跡地を探したが“そごう”の近くだろう言っていた。 -
左:徳川義親
-
鹿蔵・吉井信照・徳川義親
若い頃大叔父も激動の人生を楽しんだようだ
像狩・虎狩は王様が多くの現地人を動員した -
シンガポールで鹿蔵が経営した日本ホテル
大叔父は38歳で帰朝後、町会議員の経歴はあるが
勤めることなく資産運用で五人の子育てをし生涯を送った
鹿蔵帰国の20年後シンガポールは日本軍が占領することになる -
高速道路の料金所
「Smart TAG」はマレーシアのETCゲート
https://kokonats.com/how-to-drive-highway-malaysia
料金はマレーシアの北の端から南の端まで
距離750km 約RM150(約4200円)日本に比べ安い
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■プトラジャヤ観光
食事を終え部屋に戻って出発準備、ナップサックに傘と薄手のジャンパー・帽子・資料・水等を入れる。そして部屋を片付け枕銭1RMを置いてロビーに。
予定通りバスは午前8時に出発。まず最初に向かうのはプトラジャヤ。「プトラ=皇太子」「ジャヤ=勝利」「皇太子が勝利=プトラジャヤ」とのこと。
クアラルンプールと空港のちょうど間くらいに位置するプトラジャヤ、なるほど30分程で到着した。1990年代半ばから開発された行政都市だそうだが首都はクアラルンプールのまま。ここで見たのは「ピンク・モスク」と「首相官邸」 広場に合衆国国旗と見間違うマレーシア国旗を中心に13州の旗が円になって囲んでいた。
マレーシアはマレー半島に11州、ボルネオ島に2州あるのでややこしい。ボルネオ島はインドネシア・マレーシア・そしてブルネイという三ヶ国の島。67年の歳月を生きても知らぬことばかり。
政府機能が集約されているのかも・・・だが、やはり人工都市で綺麗なだけで活気も感じず。車で30分程の距離なので不都合はないのだろう。ピンク・モスクを写真に撮る。宗教に関しては私は興味を持てない。私の宗教、心の支えは神道(八百万の神)でありご先祖様。一応我が家は真言宗。
我が家に神棚・仏壇を置き、毎日朝夕、神棚に向かって「二拝二拍手一拝」をし、仏壇の前に正座し蝋燭に灯をともし線香を立て「般若心経」を二回読経。墓参も趣味。
こんな私だが宗教には興味を持てず。キリスト教もイスラム教にも仏教にも今の私が思う以上に関心はない。イスラム教は一日5回の礼拝、断食月はプラス一回の6回・・・か。
首相官邸はモスクのよう。ここの主なる首相はこの建物に相応しき人徳と器量を備えた人物であるべし。どんな家族・グループ・チーム・集団・組織・会社・国でもトップが良ければ全て良し。それほどトップに座る者は重要だ。トップを選ぶのは難しい。選び方も難しい。故に時の運や偶然が大きく左右することもある。ああ無常なり。
民主主義もダメ世襲もダメ、じゃあ力づくで王座に就くのか?それもダメ。ようするにベストはない。いつの世も試行錯誤するのみ。当然トップも悪しき人物選ばれる場合あり、良き人物が付く場合もあり。それに一喜一憂・天国と地獄が人類社会だ。
しかし日本の救いは万世一系男系継承による天皇陛下の存在がある。これが救いであり、これ以上の仕組みはない。天皇陛下には権力がない。ビンの蓋の機能があるだけ。その存在にこそ価値がある。
唯一無二で誰も取って代われない天皇陛下の存在あればこそ独裁者の出現は日本ではあり得ない。平等を謳いながら酷い階級社会を作る共産主義の台頭も有り得ない。
日本に皇室伝統、男系継承による天皇陛下という要の存在がある限り、他の全ての国と違って一つの家族の国として内での大きな争いも起こらず平穏な国を保ち続けることが可能だ。それでこそ宗教への過度な依存は不要であり、尚且つ高い道徳性を保つ民族として地球上に存在することが出来る。
万世一系男系継承を止めれば日本は即座に日本でなくなり普通の国となる。日本人として生まれながら天皇陛下の存在の何たるかを真に理解できない者は愚か者、哀れというしかない。
マレーシアも人種の坩堝【マレー系(約67%)、中国系(約25%)、インド系(約7%)その他】であり、国難が起きても一枚岩になることは難しい。
国難といってもマレー人にとってなのか?中華系にとってなのか?インド系にとって?なのか、そこに一致団結とは行かず。有史以来一国ほぼ一民族の日本人には想像も出来ない。しかし似非保守安倍首相が世界に倣いグローバル化を推進し日本の中に外国人が益々多くなる現状を大いに憂う。
交流と共生とは全く違う。子々孫々の為にも多民族共生国家への道は絶対に反対する。江戸時代の人口は3千万、大東亜戦争終結時7千万人、1億2千6百万が半分になっても十分豊かな時代が来る。
この50年を我慢しろ。団塊世代がみんな死ねば人口のバランスも良くなる。今の為に国を壊すな。一旦外国人を入れれば追い出せない。
プトラジャヤは警備も厳重、軍服迷彩服自動小銃を肩にかけた兵士や警察官の姿もある。まだ午前9時前と早いからなのか旅行者の姿は多くはなかったが、それでもカラフルな民族衣装をまとった人たちが記念写真を並んで写していた。私たちも写真撮影タイムでひと時を過ごす。 -
首相官邸があり行政機能集約都市なので警備も厳重
警察官と迷彩服を着た軍人の交流
日本では自衛官は未だ不遇の立場
憲法9条即刻廃棄、軍隊の創設を願う -
首相官邸前広場で記念撮影をする“お上りさん”?
マレー系 中華系 インド系 雑多 -
ピンク・モスク
宗教信者数ランキング
①キリスト教 21億人 ②イスラーム教 16億人
③ヒンドゥー教 9億人 ④ 仏教 4億人
http://からだしこう.com/sekaino-shuukyou-ranking -
マレーシアの国旗を中心に13州の旗が囲む
多民族国家の国民の感情は如何に?
元首たる国王は13州の内9州にいるスルターン(首長)
互選で選出(実質:輪番制)任期5年、終身制ではない -
このサービスエリアは露店が一つにトイレだけ
折角休憩をする人が集まり場所もあるのになんで?
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■マラッカで土産物店と昼食に
プトラジャヤから世界遺産マラッカ観光へと出発。9時前にバスに乗車、車窓には油ヤシの大規模栽培の風景が広がっていた。途中サービスエリアでトイレ休憩をしたが、ここはトイレの他に露店が一つだけで売店も食事喫茶コーナーも休憩場所もなかった。
マラッカ到着は午前11時。バスを降りて行ったのが観光ツアーの定番なのか、まず土産物店「B.C. Convenience Store」に行く。日本語を巧みに操り『トンカアリは、ジャングルの中で採れる植物、草ではなく木(マレー人参)。マレーシアの人々が、「オラン アスリ」と呼んでジャングル奥深く住んでいた人たちが、体力増強維持、精力増強のために使ってきたもの』との説明。
https://www.google.co.jp/maps/@2.1834971,102.2612833,3a,75y,180.12h,99.39t/data=!3m6!1e1!3m4!1sKhpJgGYMUgzxaZv34t_BLg!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
いつも土産物など見向きもしない私だが日本円3万円を両替したしバス中での“ポール”の話しに乗せられ、ここでナマコ石鹸(ハンドメイド)6個¥95RM(¥2660)・クリーム4個¥110RM(¥3080)・シナモン(ニッキ)ステック1袋を買った。「シナモンステックを鼻の下に挟んで寝たら安眠出来る」と“ポール”が言うので。帰国後試すも挟んでは寝れず。店滞在20分。
土産物店から歩いてすぐのニャニャ料理店「惹娘:R?・ ni?・ng レェニャン」に入る。ニャニャ料理とは何ぞや?「マレー料理と中国料理がミックスして生まれた料理」らしい。マンゴジュースを頼みニャニャ料理を食べる。美味かった。
https://www.google.co.jp/maps/place/Restaurants+Nyonya+Manis+Sayang/@2.185641,102.2592094,19z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x31d1ee1c6ff9e9cd:0x2033a569d33db080!8m2!3d2.185641!4d102.2597579?hl=ja
ツアー一行の中に嫁と姑の二人参加あり。姑は大阪の“オバチャン”代表。姑曰く「二人でいつも笑っている」と仲良くを強調していたが、嫁なるは姑の体格・気迫に圧倒されてる感あり。姑豪快に笑えばそれに付き合い?嫁も笑う。二人の10年後や如何に・・・。昼食タイムは30分強。 -
「トンカ・アリ」「トンカットアリ」
http://www.malaysia-navi.jp/news/?mode=d&i=1454
初めて耳にし見る「木」だった
巧みな日本語で営業する“おっちゃん”
この“おっちゃん”の体力精力は如何に? -
「B.C. Convenience Store」
観光客専門店なのか?
あまりに地味な店構え -
昼食はニャニャ料理店「惹娘」
腹が減って 夜寝れたら健康間違いなし
最近思い切り空腹になったことがない -
ニャニャ料理とは「マレー料理と中国料理のミックス」
まあミックスらしき感じはあった・・・特段味に不満なし -
ジョンカーストリートはマラッカの中心
マラッカ
マラッカ王国15世紀建国→16世紀ポルトガル領に
1542年 マラッカからポルトガルの鉄砲が日本に伝来
17世紀オランダ領→19世紀イギリスの植民地
1942年~1945年日本軍占領→日本敗戦後独立戦争
1963年マレーシア独立
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ジョンカーストリートは愛称
『マラッカ旧市街(チャイナタウン)のジャラン・ハン・ジェバット(Jalan Hang Jebat)』『マラッカは歴史の街。マレーシアで最初に興された街はマラッカ。インドネシアのスマトラ島より渡来した王子パメスワラ(後の初代国王)により1396年に建国された「マラッカ王朝」の首都。』
「マラッカガイド」http://melakajp.com/に詳しい。
②青雲亭寺院
人通りの少ないジョンカーストリートを歩いて最初の観光が青雲亭(チェン・フン・テン)寺院。マレーシア最古の中国寺院、1646年建立。 日本は徳川三代将軍:家光(正保三年)の時代。見る限り参拝者は中国系がほとんど。「道教、儒教、仏教」勢揃いのお寺というのは良いことだ。
お寺境内の一隅にマレーシア国旗とマラッカ(ムラカ)州旗が並び立つ。世界のどこに行ってもチャイナタウンあり中華系の世界制覇の野望を見るがごとし。共産党独裁にして市場経済を導入し富を増やし軍事力を益々強化世界の大国になった支那。このままの日本では支那の覇権下にはいる時が来る。それは最悪だ! -
日本語説明の最後の二行に以下の説明がある
『観光の魅力として、15世紀のマレー帝國時代の
有名な武士のお墓「ハンカスシりのお墓」もある』
伝説の剣豪「ハン・カストリ氏」
http://melakajp.com/about/poi-major/025.html
残念ながらその墓を見ること叶わず -
『毎週末、金・土・日の日没後
歩行者天国で夜店(パサ・マラム)が開かれる』
今日は日曜日だが昼間なので人通り少なかった -
野菜なのか果物なのか?
店頭に山積みということは
普通に食べる物なのだろう -
青雲亭寺院
『マレーシア最古の仏教寺院「青雲亭」「チェン・フー・テン」
海軍大将「鄭和」の功績をたたえ1646年(正保三年徳川家光)に建立』
日本「法興寺の建立:587年」「法隆寺の建立:607年」 -
「道教:儒教:仏教」・・・いずれも祭る
これがら混合しているお寺
かくあるべし、一神教は難儀 -
青雲亭寺院 正面より写す
マレーシア人口総計(2012年)29,330,000人
4人に1人が中国系世界屈指の華僑(約700万人)
こんな国にはなりたくない -
屋根に七宝焼きの人形細工
手のひらサイズのデジカメでも綺麗に写る -
日本軍の爆撃によって旧橋は破壊された
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■③タン・キム・セン・ブリッジ(TanKimSeng'sBridge)
ジョンカストリートを通り抜けマラッカ川に架かる橋を渡った。この橋「タン・キム・セン・ブリッジ(TanKimSeng'sBridge)」は「日本軍が破壊した橋」と伝えられている。
マラッカ観光で訪ねた唯一の日本の戦跡だった。今は観光客で賑わうこの地に76年前日本軍が進行し占領した。今この橋は地元の人には「クロックタワー・ブリッジ」として親しまれているとのこと。橋の写真、周囲の風景を何枚も写した。
日本軍のマラッカ占領は昭和17年1月15日。
『1941年12月8日、マレー半島東海岸最北部のコタバルに上陸した旧日本軍は快進撃を続け各地を攻略、占領しながら南下してきました。1942年1月11日に第5師団、クアラルンプールを占領、同年1月15日にマラッカ占領、1月31日に第25軍がマレー半島再南端のジョホールバルを占領』
日本軍かく戦えり -
マレー作戦日本軍は数で勝る英豪印軍を一蹴した
35,000vs 88,600 捕虜8000 -
スタダイス広場とジョンカーストリートを結ぶ橋
「タン・キム・セン・ブリッジ(TanKimSeng'sBridge)」
橋向うが「スタダイス広場」 -
マラッカ川に架かる「タン・キム・セン橋」の上を観光客が往来する
写真上方向がマラッカ海峡 -
右手の建物、スタダイスとはオランダ語で「議事堂・市役所」1650年に完成
「スタダイス広場」「オランダ広場」「ダッチスクエア」「クロックタワー」
この広場には上記の四つの名称がある。地元民は「クロックタワー」と呼ぶ
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■④スタダイス広場(オランダ広場)
https://www.google.co.jp/maps/@2.1944708,102.2487511,2a,90y,159.69h,94.6t/data=!3m6!1e1!3m4!1sHS9QbCpVYojLJAmxE_3C-A!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
『スタダイスとはオランダ語で「議事堂・市役所」を意味します。1641年にポルトガルから支配権を奪ったオランダが1650年に完成させたビルディングです。』
橋を渡ってオランダが1650年完成させた市役所(スタダスト)が建つ「スタダイス広場」へ来た。今日のマラッカ観光はこの周辺にあって歩いて順番に見て回った。白人観光客や大勢の多種多様な観光客がこの場に集まって来ている。
「1511年~ポルトガル→オランダ→イギリス→日本→イギリス~1957年:446年間」・・・そして独立。
日本は大東亜戦争敗戦により占領軍に統治され、『1951年(昭和26年)9月8日、日本政府は「サンフランシスコ講和条約」(正式名:日本国との平和条約)に調印した。同条約は1952年(昭和27年)4月28日に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。』
日本は6年間占領軍に支配され主権を失った。
1952/昭和27年4月28日全権を回復したが軍隊を持たず安全保障を米国に委ねたまま現在に至る。私自身は物心ついた中学生の頃から日本が真の独立国であると思ったことは一度もない。
この広場には「スタダスト」「キリスト教会」「時計台(クロックタワー)」が同じ色で並んでいた。欧州の果てオランダから遥か遠い東南アジアのマレー半島に来て栄華を楽しみ優越感に浸ってこの地を闊歩していた。そんな冒険満載の人生はさぞかし面白く痛快だろう!
差別・人権・平和・平等等々の綺麗事などなく「強者は弱者を駆逐する」それが当然の時代、強者は更に強者を目指し他の制覇を目指す。本来これこそ動物の本能に基づく行動であり、そこに真の平等なるものがある。
これを一概に悪と言えるのか?私の認識は「本能は全て善」「理性は全て偽善」
本能を悪として理性を善とすれば人間社会は歪む。心配無用、人間には偽善の優しさがある。 -
クライストチャーチ(Christ Church)プロテスタントの教会
牧師(プロテスタント 女性も可 結婚可)
神父(カトリック 男性のみ 結婚禁止) -
マレーシア建築博物館・・・入らず写真だけ
オランダ広場の多くの建物の外壁のこの色は
ガイドブックによれば「濃いピンク色」
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■⑤セントポール教会
オランダ広場から「マレーシア建築博物館」「マラッカイスラム博物館」の方向に歩き、イスラム博物館横の入り口から丘(セントポールヒル)の上に建つ「セントポール教会」目指して階段を登って行った。
http://melakajp.com/placesofinterest/005-StPaulsChurch.html
この教会は壁面しか今に残っていない。その理由は『ポルトガルはキリスト教カソリック派』『オランダ、イギリスはプロテスタント派』『カソリック教会として建てられたセントポール教会は放置された』・・・人を救うべき宗教がいつの世も争いの元となるのは人間が人間であるから。
抜粋
『日本でもお馴染みのフランシスコザビエル師は、このセントポール教会で知り合った日本人の元武士アンジロウ(ヤジローともいわれる)と共に、1549年マラッカから日本へ向かいました。日本での宣教を終え、いったんマラッカに戻ったザビエル師は中国への布教を計画します。』
日本の武士、人を殺し?この地に逃げて来たヤジロウがザビエルと出会い共に日本へ布教に渡ったとは・・・。ふ~ん、初めて知った。弥次郎没は1550年、関ヶ原の戦いの50年前か。
教会前にフランシスコザビエルの右手首のない銅像がある。右手がないには諸説あるようだが・・・『「ある日、楠の大木が落雷によりザビエル像に倒れ込んで、右手が落ちた」』の説明に信憑性を感じる。
http://melakajp.com/about/poi-major/023.html
屋根のない壁面だけの崩れた教会内部にも秘話がある。
『丘の上の教会に並ぶ墓石の謎?』・・・ふ~ん、そうだったのか。もっとも同じキリスト教だから人として当然のことだと思う。日本には仏教の宗派が一体どれだけの数あるのか?
http://melakajp.com/placesofinterest/005-StPaulsChurch.html -
建築博物館の前はマラッカの警察署
人としてこの世に生まれ数年生きた者で
悪事をせず生涯を終える者はないと信じる
何事も性善説に基づけば不要に悪人を増やす -
イスラム博物館・・・入らず写真だけ
イスラム教の唯一の神(アッラーフ 或いはアラー)
ユダヤ教 キリスト教の唯一の神は「ヤハウェ」
「ヤハウェ」のアラビア語呼称がアッラーフ或いはアッラー
ユダヤ教 キリスト教 イスラム教 皆同じ神の下で争うは笑止千万
私の神は「大自然(八百万の神)」と「ご先祖様」 -
この博物館横にセントポール教会への、この入り口がある
いざ行かん セントポール教会へ -
この小高い丘を「セントポールヒル」と呼ぶ
この高さが老いたる旅行者にはきつい?
如何に日頃楽をして過ごしているのか
我一番乗りを目指し階段を登る -
丘の上に立ちマラッカ海峡を一望する
マラッカ海峡はシンガポール海峡とあわせ
太平洋とインド洋を結ぶ海上交通上の要衝
「スエズ運河」「パナマ運河」「ホルムズ海峡」
とならび重要な航路の一つ -
右手首から先がないザビエル像
ザビエルは1549年(天文18年)8月15日に来日(信長15才)
日本滞在2年、1552年中国に渡り病で死没(46才)
ザビエルの日本人評
『今までに発見された国民の中で最高
日本人より優れている人びとは
異教徒のあいだでは見つけられない
親しみやすく、一般に善良で悪意がない
名誉心が強く他の何ものよりも名誉を重んじる』 -
ポルトガル軍によって1521年に建立 カソリック教会
その後この地を支配したオランダ・イギリスは
プロテスタント派だったのでこの有様で放置された -
この廃墟カソリック教会内に並ぶ墓石?
この墓石はプロテスタント派の墓石
何故?ここに
http://melakajp.com/placesofinterest/005-StPaulsChurch.html -
サンチャゴ砦は小さかった
砦跡ではなく門の跡だった
四つあった門の一つが「これ」
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■⑥サンチャゴ砦(ファモサ要塞)
セントポールヒルに登り始めてから下り始めるまで20分足らず。遠く日本から来たが観光とはこんなもの、ハハハ。下り始めたら「サンチャゴ砦(ファモサ要塞)」が見えた。「えっ、何、あんな小さいのが・・・」とあっけにとられる。
小さい砦跡だが曰くあり
『ポルトガル軍進駐当時、城内に出入りする通用門として4ヶ所の門(ゲート)が設置されました。サンチャゴ砦はその4つの門のうち現存するたった一つのゲートです。』
「ファモサ要塞跡 A' Famosa 別名 サンチャゴ砦 Porta de Santiago」
http://melakajp.com/placesofinterest/003-PortaDeSantiago.html
サンチャゴ砦を見学し、傍に立つ独立記念博物館(Independence Memorial)の写真を写してマラッカ観光(2時間半:13:40分)は終了。
バスはホテルに向かった。途中一度トイレ休憩、ホテル着は「14:26分」 -
この丘の周囲は5メートルの城壁で囲こまれていた。
砦からマラッカ海峡の海岸線まで約700メートルは埋め立て地 -
「サンチャゴ砦今昔」
http://melakajp.com/old-new/photo-05.html -
『砦は1795年に英国が防衛上不要となり破壊』
しかし
『この建造物は、偉大な開拓者の英知を後世に伝える貴重な資料とし
爆破が中止され現存するただひとつの砦として公開されている』
植民地にしたのが偉大な開拓者・・・か
自虐史観に覆われている日本との違いだ -
独立記念博物館 Independence Memorial
英国人将校たちの社交を目的とした「マラッカ倶楽部」
そのクラブハウスとして1912年に建設された建物が独立博物館
独立といっても元々の国はどこ?
日本は建国以来ほぼ一民族一国家で現在に至る
日本は世界で唯一の国。世界人類の為にも
日本はこのままの姿で地球に存在すべきだ -
銀輪部隊が艱難辛苦を乗り越えシンガポールを目指した
「戦える国」「戦う気概のある民族」だけが生き残る -
男のティーシャツに訳の分からぬカタカナが
「巾モ レム ケム」とはこれ如何に?
謎 -
ツアー旅行でも自由行動の時間が多い方が良い
バスでの移動より歩いてこそ異国を感じれる
ホテルからサバン・ジャヤ駅に向かう
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■電車(KTMコミューター)に乗ってクアラルンプールへ
自由時間の始まり
部屋で準備しナップサックを背負って出掛けた。目的地はクアラルンプールの「マレーシア・ツーリズム・センター(Malaysia Tourism Centre(MaTiC)) 」・・・なぜここに行こうと思ったのか?この建物がマレー占領時、日本陸軍本部として使われていたから。
陸軍本部?
『1935年に建設された当初はゴム園実業家の私邸として建てられ、その後、イギリス陸軍が使用し、日本軍占領後日本陸軍本部として使用された。』とのこと。それ以上のことは分からないが日本軍に関係する建物が今に残っているので見に行った。
初めてのクアラルンプール。宿泊するホテル「ドーセット・グランド・サバン」から市内まで遠い。明日の午前中も自由行動、またクアラルンプール市内に行く予定。
タクシーは帰路渋滞などでツアーの場合時間厳守でないとみんなに迷惑が掛かる。確実なのは電車だから明日の為の予行演習でもある。
電車(KTMコミューター)の駅が“Google・Map”で見てプリントしてきたが二つの駅の真ん中くらいにホテルが位置している。フロントで20歳くらいの女性スタッフに近い駅を聞いたら「Subang Jaya駅(サバン ジャヤ)」だった。
いつもそうだが“Google・Map”と実際の感じが一致しない。たまに街が狭く感じる時もあるけど、初めての歩きは大概地図で見るより街は広くて遠く感じる。何度か途中聞きながら駅に辿り着いた。25分掛かった。因みに“Google・Map”でのルート検索、1.5km徒歩19分。ちょっと迷ったしこんなものか。
https://www.google.co.jp/maps/dir/''/Subang+Jaya,+Ss+16,+47500+Subang+Jaya,+Selangor,+%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2/@3.0824008,101.5880379,15.94z/data=!4m14!4m13!1m5!1m1!1s0x0:0xe620547645d4c671!2m2!1d101.5956038!2d3.0798141!1m5!1m1!1s0x31cc4c435a0b171d:0x64c64e5130b86bad!2m2!1d101.587737!2d3.0846545!3e2?hl=ja
切符の買い方も何も分からず。ネットや“地球の歩き方”に「電車の乗り方」の説明が載っているが読む気せず読んでも分からず。切符売り場で本(“地球の歩き方”)を広げ駅名を示して買い方を教えてもらう。自動券売機での購入だった。何とか買えた。青いプラスチック製のコインが切符。
17:37分1番ホームに来た電車に乗る。電車は綺麗で日本と変わらず。乗客も静かに座っている。18:16分(39分)降りた駅は「Dang Wangi(ダン・ワンギ)」。駅から歩いて5分程のところに日本陸軍本部跡がある。
https://www.google.co.jp/maps/dir/LRT+Dang+Wangi+,+Jalan+Ampang,+Kuala+Lumpur,+50300+Kuala+Lumpur,+Federal+Territory+of+Kuala+Lumpur,+%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2/''/@3.156288,101.703577,17.1z/data=!4m14!4m13!1m5!1m1!1s0x31cc48297cc99f8b:0xdd96f5e2e660907c!2m2!1d101.703916!2d3.156744!1m5!1m1!1s0x0:0x2e9f4e2f7a9c4cbf!2m2!1d101.7071788!2d3.1567287!3e2?hl=ja -
“Google・Map”や“ストリートビュー”を見ていても
知らない土地はやはりすんなり辿り付けない
何人かに聞いたけど英語話せずとも何とかなる
思い出せばその時日本語で会話したかのように(笑) -
駅に到着したけど、赤色・青色 同じ駅名 違いは?
何も分からず駅員に聞いてコイン切符を券売機で購入 -
Subang Jaya駅(サバン ジャヤ)
↓
Dang Wangi駅(ダン・ワンギ)
電車が来た!さあ出発進行! -
電車の外観も車内も綺麗ですっきり
この時間クアラルンプールに向かう乗客は少なかった -
ダン・ワンギ駅に到着
乗車時間約40分足らず 結構掛かる
改札を出てどっちに向かって行けば? -
駅から出ると「えっ、こんな所に出て来た」と言う感じ
昨日見たばかりのツインタワーが目の前に聳えていた
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■元日本陸軍本部跡:ツーリズム・センターへ
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2+%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB/@3.1570181,101.707254,19.02z/data=!4m5!3m4!1s0x31cc49c701efeae7:0xf4d98e5b2f1c287d!8m2!3d3.139003!4d101.686855?hl=ja
駅から道に出たら昨晩見たペトロナス ツインタワーが目の前に聳えていた。ツインタワーとKLタワーの中間くらいにツーリズム・センターはある。結構な敷地に威風堂々1935年建立の建物があった。
マレーシア・ツーリズム・センターは、クアラルンプールの中心地であるKLCC に位置している。
『1935 年に建てられたコロニアル建築の建物を利用し、敷地内にはマレーシアの伝統舞踊が楽しめるシアターやレストラン、土産物屋、イベントホールなどが併設。国内、海外からの旅行者を問わず、来訪者に対してマレーシアの魅力及び観光情報を総合的に紹介する施設となっている。』
マレー半島を縦断、英印豪軍を蹴散らした帝国陸軍が一時期ここの居た。日本もそんな時代があったのか・・・夢幻の如くなり。
「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)・・・島田戦車隊奮戦す。
島田戦車隊は最前線に置いて無謀ではなく冷静冷徹な判断の下に敵陣を果敢に進撃突破し英印軍を分断、鉄橋を確保した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E8%B1%8A%E4%BD%9C
山口多聞海軍中将『人間、死ぬか生きるかの瀬戸際に立って、判断に迷うような時には、まっしぐらに死に突っこむことだ』との言葉があるが、敵にとってこの戦法こそ脅威であり活路を開く戦法だと思う。
「島田豊作中佐」
マレーでの快進撃から満州東寧に転属、そして陸軍士官学校機甲兵教官として赴任。日本で終戦を迎え戦後は高校の教諭となり人生を全う昭和63年76歳没。今回の旅行に際して初めて島田戦車隊長のことを知った。
マレー半島での戦いはまさに鬼神の如くであり、これぞ英雄である。「知る人ぞ知る」ではなく日本人の誰もが知っていなければならない人だ。例え敗戦であったとはいえ国の英雄として語り続け、その言動・精神を学び今後の国難に備えて国民一人一人の資質を高く保ち続ける努力をすべきだ。
自己犠牲をいとわず戦った英雄が英雄として正しく評価されてこそ国民も襟を正して恥ずべき人間とならぬように自らを戒める。軍人・英雄を遠ざけ無視するような国民は性根が腐る。
日本人が建てたものではないが日本陸軍本部だったというだけで懐かしく思う。
建物内をぶらぶら歩き日本の軍人が闊歩していただろう往時を想像した。英軍を追い払い占領した当時はみんな意気揚々気分爽快だったろう。
私は一度もそんな気分を味わったことはない。支那朝鮮の執拗な反日言動に毅然と対抗も出来ず情けない人生だ。糞面白くもない。
“ゆっくり”見て回ったつもりだがデジカメ時間は20分程。まあいつもこんなもんだ。 -
「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
10年前は戦記本を読んでも兵士も同じ日本人と思えたが
最近は戦った日本軍兵士たちが同じ同胞だと思えない
今の日本人は似非平和に縋り現実から目を背けてる -
島田豊作中佐は戦時中は鬼神の如く戦い抜いた
しかし戦後は教職に身を置き人生をまっとうした
敗戦までの日本には英雄が綺羅星の如く存在した
戦後日本は、祖国先人を貶める輩が世に出ている -
元日本陸軍本部跡
マレーシア・ツーリズム・センター
昭和17年1月11日(斥候の報告)
「住民の言によれば、英軍は十日クアラルンプールから退却し、
市内にはすでに敵はなく、住民の掠奪放火が盛んに行われている」
陸軍本部というのが如何なるものか分からないが
昭和17年から20年の敗戦まで日本の軍人が居た -
日本軍本部跡はこんな場所に今も存在している
この建物は1935年スズ採掘業者の邸宅として建立
その後イギリス陸軍オフィスとして使われていた
日本軍本部跡はこんな場所に今も存在している
この建物は1935年スズ採掘業者の邸宅として建立
その後イギリス陸軍オフィスとして使われていた -
マレーシア・ツーリズム・センター一階ロビー
時刻は午後6時33分、訪れている少なし -
2階の窓から写す
この場に立ちいろんなことを想像する
想像は自由でありタイムマシンにもなる
雄々しき時代の日本に憧れる -
高層ビル林立の町の中心に今も存在感を示している
歴史的建造物として未来に残ることを願う -
思っていたより敷地も広い
『クアラルンプールの観光名所の情報収集には最適の場所』 -
ダン・ワンギ駅 午後7時9分
イスラム教は女性は顔と手以外を隠し
近親者以外には目立たないようにする
ならばイスラム教の女性の写真は?
案外寛容なようだ
http://www.f-tsunemi.com/blog/realislam/1691/
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■夕食を食べホテルに戻る
来た道を引き返し「Dang Wangi(ダン・ワンギ)駅」から電車に乗り「Subang Jaya駅(サバン ジャヤ)」駅に戻って来た。出発から帰着(17:25~19:50分)2時間25分の旅だった。
ホテル周辺に和食料理店が沢山あり、その一角には日本料理店が軒を連ねていた。適当に入ったのが「寿楽」。カウンター席に座りお造りの定食のような物を頼む。カウンター内の寿司職人に日本人らしき人もいた。オーナーも日本人のよう。
https://www.google.co.jp/maps/@3.0792475,101.5927811,3a,75y,260.99h,93.21t/data=!3m6!1e1!3m4!1stoji2CdruLf3Y84BKvwYIg!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
店内は二階もありお客さんも多かった。美味しかった。58RMにサービス料10%・税6%=計67.65。日本円≒1,900円也。お造りも茶わん蒸しも味噌汁も日本で食べるのと遜色なく美味い。満足する。
https://blogs.yahoo.co.jp/sigema57/15662254.html?__ysp=44Kv44Ki44Op44Or44Oz44OX44O844Or44Gu5a%2B%2F5Y%2B4IOWvv%2BalvQ%3D%3D
寿楽から近いホテル609号室に帰り着いたのは午後9時29分。明日に備えてバスタブに湯をため入り、ゆっくりとする。明日はもうマレーシア最後の一日となる。 -
電車に乗る明日への予行演習も無事終了
午後7時50分サバン・ジャヤ駅に戻る
こんなことでも“オジン”には達成感あり -
この一角に日本食レストランが軒を連ねていた
https://www.google.co.jp/maps/@3.0790902,101.5927428,19.84z?hl=ja
そのなかの寿司店「寿楽」に入りカウンター席に座る -
お造り定食を食べる
日本人オーナー 調理人も日本人がいた
味もなんら日本と変わらず美味かった -
午後9時半 部屋に戻る
明日はもうチェックアウト、観光のあと深夜便で帰国
短期旅行に不満なし・・・なんでかなァ?
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