2017/11/12 - 2017/11/12
267位(同エリア629件中)
みーみさん
小浜宿資料館や、宝塚で一番古い民家である旧和田家では色々詳しい説
明をしていただいて、宿場町の前に浄土真宗の寺内町の歴史があり、町とい
うよりは要塞・小浜城といった方がふさわしい町の成り立ちに驚きの連続で
した。私が訪れた一週間前には「ブラタモリ」のロケでタモリさんが来たそ
うです。どういうテーマなのかはわかりませんが、いかにもタモリさんが好
きそうな場所ではあります。2018年の初めぐらいの放送だそうですよ。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
-
鉄道の駅からは少し離れたところにあります。
宝塚駅から阪神バスに乗って小浜停留所で降りて、しばらく歩くと「小浜宿入口」
の看板がありました。 -
大堀川という川を渡ると・・
-
切通しの急な坂道になっていました。
坂道って、なんか胸が高鳴ります。 -
坂を上っていくと、現れました。
「小浜宿 西宮街道」
灯籠も宿場町の風情を醸し出していますね。 -
ここは町の南門があったところで、江戸時代にあった愛宕宮がそのまま
鎮座しています。
ここが小浜宿の一番南側にあたります。 -
愛宕宮の前には「南門跡」という石碑が建てられています。
南門は西宮まで続く西宮街道の出発点(途中で西国街道と合流)
東門は鳥羽伏見街道の到着点。そして有馬街道が町の南北を走るという
三つの街道が交わるまさに交通の要衝です。 -
灯籠の横には井戸もありました。
少しわかりにくいですが、竹で覆われているのが井戸です。 -
橋を渡って通ってきた坂道は後世になって切り開かれたものみたいで、江戸
時代の西宮街道は南門跡から斜めに走っているこの狭い坂道で、馬街道と呼ばれて
いました。 -
馬街道の坂道の途中の崖にはこんな階段があって、上ってみると、
-
頭だけのお地蔵様が鎮座されていました。
首地蔵といって、頭から上の病気に御利益があるそうです。
右が古いもので、左の黒っぽいのは昭和になってからの新しいもの。
見ようにによっては、ちょっとシュールかも。 -
階段の下には、これまた井戸が残されていました。
-
馬街道の坂道を降り切ったところは共同墓地になっていました。
この看板によれば、少なくとも江戸末期までにはここが墓地になっていたことが
わかります。
なお、看板の後ろに見える家の前には柵がありますが、これは、バスを降りて
最初に渡った大堀川が流れているからです。 -
町内にあった看板。
小浜宿の地図です。 -
南門にもどり、まっすぐ北へ歩いていきます。
道沿いにある皇大神社の前には道標が残っています。 -
道標には「右 きよ水」と読めます。
-
皇大神社を過ぎたあたりからぐっと道幅が狭くります。
家は新しく建て替わっていますが、街道筋はあまり変わっていないようです。 -
さらに北に進むと、また愛宕宮があり、ここが北門跡、つまり小浜宿の最北端の場所です。有馬街道が通っています。
-
目の前には赤い国府橋。
-
その橋から下を覗いてみると、まるで山奥の谷のような深さ。
-
木々が茂っていることもありますが、街中とは思えない風景です。
-
あとで資料館の方に聞いてなぜこんな谷みないになっているのか、わかりました。それは、川をわざわざ掘り下げたからなんです。
それはひとえに防衛のため。
宿場町として栄えたのは江戸時代のことで、もちろんそれまでも交通の要衝ではありましたが、元々は小浜は今も町内にある毫摂寺の寺内町として生まれ、発展した
町。 -
寺内町は、町を濠や土塁築き町を防衛しました。
つまり、この小浜は北、西(墓地の向こう側に流れたいた)南を大堀川が流れ、東側には大きな池があり(今は中国自動車道が走ってます)高台に位置する天然の要塞だったんですね。 -
そんなわけで、江戸時代になっても、宿場町の北側を流れる大堀川に橋は架けられ
ず、北門から川におりる「いわし坂」が利用されていました。
現在もいわし坂は残っています。 -
また、竹林がところどころに見られますが、防御のために植えられた、要塞の
名残だそうです。 -
町の元となった浄土真宗の毫摂寺(小浜御坊)は今も威容を誇っています。
ひと際大きな屋根が町のあちこちから見ることができます。 -
この寺には豊臣秀吉が有馬温泉の行き帰りに宿泊したといいます。豊臣秀次はこの
寺の娘(亀姫様)を側室としたため、秀次切腹の折は姫も秀吉により命を落とし、
しかもこの寺も秀吉による焼き打ちに遭いました。 -
イチオシ
町の中心地。右手は井川家。江戸時代の古い建物ですが、個人宅のため内部は見学
できません。奥に見える鳥居は皇大神宮で、その左手前に見える少し高い瓦屋根の
建物は山中家の蔵です。 -
この蔵は現在、小浜宿資料館の収蔵庫として使われています。
山中家はあの山中鹿之介の子孫にあたります。
小浜山中家は大阪の豪商・鴻池家の始祖である山中直文(幸元)の長男・清直が
分家して作った家系です。 -
小浜宿資料館は山中家の敷地を半分譲り受けて作られたものです。
実は小浜宿の宿場町時代の建物は阪神淡路大震災で大きなダメージを受け、ほとん
どが取り壊されてしまいました。震災前は30棟ほどあったそうです。
小浜宿資料館では震災3日前に撮影された震災前の町や建物の映ったビデオを見る
ことができます。今となっては貴重なビデオ、ぜひご覧になってください。 -
伊丹の山中家(地名をとって鴻池家と称す)も酒造業を行っていましたが、小浜も
小浜流という酒造りの地で、山中家も酒造業をおこなっていたようです。が、小浜
での酒造りそのものが江戸中期ごろには衰退してしまい、山中家は医療を生業とす
るようになり、資料館には明治以降の軍医の軍服や往診鞄等が展示されています。
山中家の庭には「玉の井」の井戸があって、中を見せていただきましたが、今も
こんこんと水が湧き出ていたのには驚きました。 -
代官所・番書跡に建てられている小浜会館の前には制札場が再現されています。
ここに架かっている制札はレプリカですが、ほんものは小浜宿資料館に展示
されています。 -
宿場町時代を彷彿とさせる狭い道筋
-
古い建物はそんなわけであまり残っていせんが、そこかしこに、宿場町の風情が感
じられます。
それは住んでいる方の気持ちや努力の所以なのかなと思います。 -
散髪屋さんも。
-
小浜は大工の町としても有名で、大工が多く住んだ地域には宝塚市立小浜工房館(とんちん館)という施設が作られていますが、今は休館中です。
小浜大工は幕末の戦争で傷んだ御所の蛤御紋の修復を行ったそうです。 -
古い建物は震災によって多くが失われましたが、新しく作られた建物の中には、
宿場町を思い起こさせるようなデザインのものも見受けられました。 -
小浜宿を後にして、赤い国府橋を渡って旧和田家に向かう途中にあった道標。
-
旧和田家です。
左側が玄関ですが、右手の屋根のついた扉の向こうには式台があります。 -
式台です。
和田家は米谷村の庄屋を務めていたため、武士の役人が来ることが多かったそうです。 -
イチオシ
江戸時代、米谷村は外様の大和小泉藩と譜代飯野藩保科家とに分割されて統治されていました。和田家があったのはその内、保科家のほう。保科家は千葉に領地を持つ大名なので、こんな離れたところに小さな飛び地があるなんて驚きました。
保科家は代々大阪定番(大阪城副城代)などを勤めることが多かった関係からだそうです。 -
ふすまのこの柄は京都の高台寺でも使われているとか。京都にこの柄の型が残って
いたので、修復できたそうです。 -
床、平書院、違い棚、天袋のある座敷。
家中で一番格式の高い部屋です。
旧和田家ではたびたび写真撮影などが行われるとかで、つい最近も宝塚歌劇団の男
役トップの写真撮影があったそうで、送られてきた写真を見せていただきました。 -
天袋には陣笠がありました。
-
槍などの武具もありました。
-
座敷を庭から見た所
-
土間から部屋を眺めた所。
これらの部屋は茶の間など、プライベートの空間です。 -
手前と奥の部屋は20センチほどの高い敷居になっています。(高敷居)
高敷居はこれより先に使用人は入ってはいけないというけじめを示していました。 -
イチオシ
また、それと同時に、周囲は襖ではなく板戸で囲み、防犯のためであったともいいます。
-
バリアフリーとは真逆の高敷居。
日常的に住むにはたいへんだったそうです。 -
建物は礎石の上に柱を乗せているだけ。
震災の時には建物が上にジャンプしたそうです。 -
裏手には井戸が残っていました。
お風呂は薪で炊く五右衛門風呂でしたが、床がタイル張りになっており、同じく
タイル張りの台所同様、改修されたもののようです。 -
庭に、このような道標がありました。
「右 西のみや」
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
52