2012/05/20 - 2012/05/20
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旅人のくまさんさん
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享禄元年(1528年)、織田信秀が生母・含笑院の菩提を弔うため尾張国海東郡土田村(現・清須市)に建立したお寺が始まりです。開山は天台宗の僧侶・清岩法英と伝わります。(ウィキペディア)
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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『曹洞宗・含笑寺』の陽文字が記された石標の光景です。『1987年(昭和62年)、含笑長屋20周年を記念して建てられた、寄席文字で書かれた珍しい寺標』とのネット情報がありました。かつての末寺は、梅屋寺、安斎院、就梅院、慈眼院、聚福院、長全寺、常楽寺、長安寺など8ヶ寺を数えました。4世住職の助南源佐は信秀の甥とされ、15世の重澤大年は尾張藩8代藩主徳川宗勝の側室・仙宥院の帰依を受け、17世の俊芳密禅は大本山總持寺の輪番を務めた住職とされます。
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かつての清洲城にあった城門を移築したと伝わる山門の光景です。慶長15年(1610年)、清州越しによりに現在地に移ったお寺です。
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『沓巻(くつまき)』と呼ばれている、重要な柱の基礎部の細工です。清州城時代の門の名残りのようでした。緑青を吹いた銅製の沓巻でした。
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『曹洞宗・含笑寺』の金文字が記された表札のズームアップ光景です。明治時代を迎えますと、本堂や山門を除いた書院や鐘楼・庫裏・座禅堂などのほとんどが売却され、境内も大幅に縮小しました。更に1945年(昭和20年)、名古屋大空襲により、山門を除いて焼失しました。
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『鷲嶺山の金文字が記された扁額の光景です。二行に記された落款には『勅賜大光園心禅○・永平東禅八十八翁』らしい文字がありました。
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『長屋乃納屋』と記された、扇子のような曲線を持った表札のズームアップ光景です。『棟上平成4年3月3日・当代辻九世照雄代』らしい文字がありました。2、3文字は読み間違えたかもしれません。
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寺名にふさわしい文化行事を発信しようとして、昭和42年(1967年)3月に『含笑長屋・落語を聴く会』が結成されました。1992年(平成4年)には含笑寺の開創450年記念として『含笑長屋』が設立されました。発起人の関山和夫(1929~2013年)さんが亡くなられたことで、惜しくもその幕が閉じられました。関山さんは、民俗学者、話芸研究者、佛教大学名誉教授で京都西山短期大学学長だった方です。『話芸』という言葉の創始者でもありました。
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境内に置かれていた、赤い服が着せられた石像の光景です。右の像は地蔵尊、左の像は千手観音のようです。
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石灯篭の脇に置かれていた地蔵尊の光景です。右手に錫杖を持ち、左手に如意宝珠を持ったお姿でした。
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右手に錫杖を持ち、左手に如意宝珠を持ったお地蔵様のお顔のズームアップ光景です。大乗仏教の地蔵菩薩に関する代表的な経典は、『地蔵菩薩本願経』とされます。その中には、善男善女のための二十八種利益と天龍鬼神のための七種利益が説かれています。
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雨樋の一種の鎖樋の光景です。その原型は、日本の建築様式の一つである数奇屋造りに用いられたことが始まりとされます。数奇屋と呼ばれる建築物が出現したのは安土桃山時代です。小さな茶座敷を『数奇屋』と呼んでいました。当初は植物の棕櫚(しゅろ)の表皮の繊維を編んだ棕櫚縄を、竹や木で作られた樋から垂らして雨水を伝わらせ、鎖樋としていたようです。日本建築の特徴である木と茅葺きで作られた家は非常に燃えやすいため、徳川幕府は防火のために茅葺きから陶器で作られた瓦を屋根に葺くことを推奨したため、瓦屋根とともに雨樋が寺院や神社以外にも一般的にも普及していきました。雨樋の材質も銅以外に、ステンレスやガルバリウムなどが使われるようになりました。ガルバリウムとは、アルミニウム・亜鉛合金めっき鋼板の名称です。
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五輪塔らしい仏塔に刻まれていた文字のズームアップ光景です。『三衆(界)萬○等』の文字がありました。御経の中の一節のようでしたが、読み解けませんでした。
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含笑院(?~1525年)は、戦国時代前期の女性で、織田信定の正室でした。織田信秀の生母で、織田信長の祖母に当たります。名は『いぬゐ』です。右側の五輪塔が、含笑院殿のお墓とされるようです。
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『鷲嶺山・含笑寺』の歴代和尚のお墓でしょうか、頭が丸い墓碑でした。無縫塔と呼ばれています。歴代住職のお墓に関するネット情報の紹介です。『一般的に歴代住職の墓には、どの宗派でも明治以降妻帯するようになってから、遺骨が入っていることは殆どありません。歴代住職の墓地にある墓は、石碑(供養塔)と考えてください』と解説されていました。
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石灯篭の上部のズームアップ光景です。春日灯篭の六課受位に対し、この石灯篭は四角形がベースでした。火袋には、四方にアーチ型の穴が開いていました。
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同じく背が高い石塔塔の光景です。こちらは最もポピュラーな、春日灯篭のようです。その足元で咲く花は、黄色がキショウブ、赤い花がツツジのようです。
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『法界圓明燈』らしい文字が刻まれた古い石標の光景です。『法界(ほっかい、ほうかい)』とは、平たく言えば、全宇宙を意味するようです。お釈迦様が死に臨んだ時、弟子たちに伝えた言葉に『自明燈』があります。これは、『自ら灯をつけて生きて行きなさい』の意味とされます。また、『法明燈』の言葉もありますが、これは、『自分で灯を持つことができない場合は、法をよりどころにしなさい』の意味とされます。子の『法』は、先に紹介した『法界』と同義と考えてよさそうです。また、『圓』は『丸い』ことを意味する言葉ですから、勝手な解釈ながら、五文字で表現された『法明燈』の意味と考えてよさそうです。
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曹洞宗の『鷲嶺山・含笑寺』の境内光景です。清州越し当時の境内は5000坪とされますから、1万6千5百平方メートルの広さです。仮に長方形の敷地と仮定して、その1辺(短辺)を100メートルとしますと、長辺は165メートルとなります。実に広大な境内だったことが実感できます。
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曹洞宗の『鷲嶺山・含笑寺』の境内光景が続きます。庭木の上から顔を出した本堂の甍光景です。その背後には、ビルの光景がありました。1945年(昭和20年)、名古屋大空襲により山門を除いて焼失し、戦後の都市計画により墓地を平和公園に移すなどしたことから、隣接していた周辺の寺とも離れ、現在ではビル街の中に位置するお寺となりました。
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同じく、ビル街の中に取り残された『鷲嶺山・含笑寺』の本堂の甍の光景です。
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