京都駅周辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
暑くもなく寒くもない旅行にはベストシーズン。しか~し原爆遺構を訪ねて広島・長崎にこまめに行っていた結果、旅費がなくなりました(泣)。そんな時には地元を歩いて来た今までですが、せっかくの休みなので再開したアナログカメラのフィルムを購入することを兼ねて京の都に出かけることにしました。行き先に選んだのは、梅小路の京都鉄道博物館。旧梅小路蒸気機関車館は何度も行きましたが、乗り鉄を卒業してからは随分とご無沙汰していました。あの蒸気機関車館がどのように変わったのか確かめたい気持ちもあったことから行き先が決まります。さぁどんな旅路になったのやら・・・。それでは始まります。<br /><br />平成29(2017)年10月14日土曜日<br />いつもながらのんびりと昼から出発します。車で行く場所ではない上に誰もいないため、バスでの出発です。ど田舎バス停から田舎の赤バスで駅まで向かいJRに乗り換えます。京都と言うと京都駅ですが、梅小路公園に行くには①京都駅からバス、②山陰嵯峨野線丹波口駅から歩く、③京都線西大路駅から歩くの3ルートがあり、いっときよく利用していた西大路駅の今を確かめるべく③のルートを取ります。珍しく快速に乗車し5つ目の駅である西大路で下車し、駅前に降り立ちますがあまり変わりはないようです。そのまま西大路通りを上り、西大路八条の餃子の王将西八条店で遅い昼食をとります。ただ土曜日ということもありあまりのんびりする雰囲気ではないため、食事を済ませるとすぐに店を出ます。そして八条通りを東に行ってコメダ珈琲に改めて入りお茶します。<br /><br />一息ついたらまた歩き出し、程なくして梅小路公園に到着します。嵯峨野山陰線のガードを潜ったところに京都鉄道博物館はありますが、敢えて通り過ぎて公園内に静態保存されている京都市電の車両を見て回ります。<br /><br />私自身京都市電が現役だった頃はまったくといって良い程覚えていませんが、なんとなく身近に感じるのは〝第2の人生〟を送っている広島電鉄で活躍している姿を見ているからだと思います。昼間は案内所として利用されている2001系車両は、てっきり語呂合わせから付けられた車番だと思っていたところ、昭和39(1964)年デビューの連接仕様車両のようです。しかし昭和50(1975)年には全車ワンマン化され、連接運行されなくなったことから連接運行用の特殊装備が災いし、故障も多かったことから京都市電全廃前の昭和52(1977)年に全車廃止となっています。うち2002から2006番車両は伊予鉄道に転出し、現在でも現役で活躍しています。保存対象とされた2001番車両は最初烏丸車庫跡に保存された後、幾多の変遷を経て平成26(2014)年に現在の梅小路公園へと移され、静態保存されることとなり現在に至っています。到着時間が遅かったので第二の人生に触れることはできませんでしたが、生まれてから半世紀を経て京都の街の観光拠点として今なお現役で働く姿に負ける訳には行かないぞ~と改めて思う次第です。<br /><br />他にも京都市電が静態保存されているこの梅小路公園は元梅小路駅(現在の京都貨物駅)の跡地に平安遷都1200年を記念して平成7(1995)年に作られた117,133平方メートルの広さを持つ京都市営の総合公園です。広大な敷地内には芝生広場・中央広場・いのちの森・朱雀の庭・緑の館,すざくゆめ広場・市電ひろばなどの施設があり、その広大な敷地を利用しての大きな規模の各種行事の開催に利用されることも多く、緑化フェア・サーカス・京都音楽博覧会などが行われた場所でもあります。<br /><br />公園北東部には京都水族館が、西側には元梅小路蒸気機関車館が改装されてできた京都鉄道博物館が建てられており、土日祝日にはすざくゆめ広場と市電広場間で、明治時代の京都市電車両が運行されるなど、子連れを中心とした多くの人で賑わう都市公園となっています。<br /><br />今回の目的は園内施設のひとつである京都鉄道博物館を訪ねることにありました。乗り鉄だった子供の頃、既に幹線での運行が終わっていたSLや旧型車両を見るためにちょくちょく訪れてはいました。しかし免許を取り旅行の手段が車に変わると、いつのまにか来ることもなくなりました。梅小路蒸気機関車館と交通科学館(※私が行った時代)、そして東京の交通博物館。いずれも行きたくて仕方がなかったところ連れて行って貰った記憶はあるものの、年を取ったのかなにも思い出せない・・・。まあ深く考えずに〝初めて来たんだ~〟とはしゃいで入館できるおバカ1名でしたが、入館券を購入するときに少し悩みます。大人1,200円っていい値段・・・。別にケチる訳ではないのですが、街歩きの旅のモットーは〝お金をかけないこと〟なので、ふとそんな想いが頭をよぎりました。割引条件をガン見して、JRカード提示で10%引きを見つけ、1,080円を支払い意気揚々と入館します。<br /><br />オープン1年半の京都鉄道博物館はさすがにキレイです♪あまり実績の残っていないC6226、確か梅小路ではツバメのロゴ入りC622がで~んとありましたが、そんなことまで今は気にしないのかな?となりの80系はうちらは〝かぼちゃカラー〟と呼んでいた湘南色。しかし残念ながらこの車両が走っていた姿は知りません。この編成はなぜか山陽本線の柳井駅構内に留置されていたものを鉄道科学博物館が入手し、手入れをしなおしたものになります。山陽地区に於ける80系の廃車が昭和52(1977)年、そして交通科学博物館での展示開始が昭和61(1986)年。ガラスもなく塗装もハゲた車両をよくぞここまでして頂いたことに感謝します。木造の車内に灰皿が付いてあることに時代を感じますが、できれば静態保存ではなく、記念列車として動かせてもらいたいな~なんて思いました。<br /><br />その隣には日本が誇る高速鉄道〝新幹線0系〟がちょこんと置かれていました。夢の超特急が東京~新大阪間を4時間で走ったのは昭和39(1964)年10月1日のこと。戦後ニッポンの復興の象徴だったに違いありません。既に博多まで開通してからしか乗ったことはありませんが、車内のビュッフェに感動した記憶が残っています。ちょこんと見えるのはあの愛嬌のある〝団子鼻〟のせいかも知れません。現役の頃は超特急のイメージが強くかわいい感じはなかったけど、後輩の100系・300系・500系・700系とだんだん顔が細長くなってくる中で、一線を退いた往年の将はカドが取れて丸くなったようにも見えてしまいます(笑)。ここは京都鉄道博物館の〝撮影所〟にもなっており、カメラを持ったお姉さんが呼びこみをしていました。手持ちのカメラでも撮影をしてくれるのでiPhoneを手渡し、言われるがままに〝0のポーズ〟を取ってパチり。その後商売用の写真も撮られるのですが、iPhoneの写真を見てなんとなくアングルの悪さを感じてしまいます。もちろんサービスなので仕方がない・・・と言われればそうですが、アマチュアの撮った販売写真に興味がないというのは私のポリシーゆえ、あまり欲しいとは思わなかった写真は断ります。入館料より高い1,100円ってのもありましたが・・・。<br /><br />そして車両編成を見ながら歩きます。ある意味真新しいかった2×3の普通車、結局乗ることのなかったグリーン車、利用したけど記憶にないビュッフェ。こんなちゃっちい椅子だったかな?と記憶をたどりますが無理でした(笑)。そして0系新幹線の動力関係ではプッシュアンドプルの全車両動力車、空気抵抗を抑えるためとはいえ火花を散らしながら突っ走って行く小さなパンタグラフ、そしてモーターと台車。飛行機を意識して作られたことは、敗戦によって航空機開発ができなかったハンデを強みに変えたならではの理由だと改めて感じます。0系ならではのビュッフェに備え付けられていたアナログの速度計、デジタル表示が当たり前の時代だからこそ、針がどこまで触れているかによってスピードを感じることは、やはり私もアナログ人間なのでしょう(爆)♪<br />転換型クロスシートにも唸りましたが、やはり気持ちが爆発したのは運転台です!アナログ計器が並ぶ〝コクピット〟は広いけど、今のハイテク車両の様に〝表示されている意味すらわからない〟ものではありません。今更ですがなれるものなら新幹線の運転士になってたら・・・なんて妄想していたおバカ1名でした(笑)♪<br /><br />0系の前にはセルフの撮影コーナーがあり、自撮り1枚!の後隣に並ぶ2台のオレンジ色車両へと向かいます。DD54は既に配備されていたDD51をはじめとしたディーゼル機関車やSLの後継機としてのハイパワー機関車として開発・投入されました。しかし残念ながら当時2,000馬力を発するディーゼルエンジンを開発する能力はなく、西ドイツ製のものをライセンス生産するにとどまり、都合良く改造することがままならない上に、修理そのものが高度となるため、修理拠点が1箇所に集中することとなり、加えて推進軸(ユニバーサルジョイント)の破損により転覆事故を起こしたりしたこともあり、最終的には無煙化の一端として置き換えるはずであったC57に牽引されることもあったりとトラブル続きだったことから耐用年数を大幅に下回って引退を余儀なくなされた機関車でもあります。見た目はなかなか精悍であるも、私自身が現役の姿を見ていないことからもわかることです。対してその隣にはつい先日まで大阪環状線を走っていた103系。近距離型国電車両としてデビューした101系からの改造を含め昭和38(1963)年から昭和59(1984)年に至る21年間の間に3,447両が製造されたロングセラーでした。JR移管後の20世紀末期には、地方都市の近距離型車両として第二の人生を歩んだ車両も多くあり、学生時代に住んでいた仙台では、仙石線車両として見慣れたブルーの普通列車にベージュにブルーラインの快速うみかぜ号として走っていたものを利用した記憶があります。ただ根本的に私の本拠地である近江の国では馴染みのない車両であり、たまに京阪神エリアで乗るにしても各駅停車でしかありませんでした。そんなこともあり快速として走る中央線や仙石線では駅を通過して突っ走るする103系に乗る度にあの振動から走行中に分解するんじゃないか~と不安になりながら乗っていた記憶があります。でもついに大阪環状線の運行から撤退し、一部阪和線や関西線・奈良線には残っている様ですが私の行動範囲外。故に乗ることもなくなるとなんとなく寂しくも思ったりしたりもします。その103系の後継車両である201系も関西線あたりで活躍しているもののやはり行動範囲外で、普段利用している東海道本線(琵琶湖線)ではJR西日本が誇る韋駄天列車223系と225系、そして既に旧型車両の扱いを受けている221系の3ドア車両が普通・新快速として走っているのが当たり前だと思っているものからはある意味異郷のものと感じてしまうのかも知れません(笑)。<br /><br />そして両隣に並ぶ旧型客車20系とスハ32系型の食堂車が並びます。ブルートレインの名前の由来となった20系ですが、主力として走っていた頃はさすがに知りません。ましてや食堂車が連結されている頃に乗車したこともないし・・・。ただ秋田の高校の関西への修学旅行の帰りに利用した〝臨時急行あおもり〟が20系客車を使っており、あのクソ狭い三段寝台と手動ドアにびっくりした記憶が残っています。もうその頃は廃車間近で臨時専用だったのでしょうが、特急富士等に使われていた頃はさぞかし輝いていた〝だろう〟ことは、食堂車であるナシ20の設備を見ても想像がつきます。今ではレストランとして営業している様ですが、時間外であれば外から様子を見て往時を偲ぶのみ、またの機会に是非ともカレーライスでも頂きたいですね♪でも向かいのスハ32型車両のスハシ38はさすがに戦前の鉄道省が作った20m級の鋼鉄車両のひとつなので私には知識すらありません。ただ一両まるごと食堂車にしていないのが、やはり戦前って感じもします。贅沢よりも合理性を採用し、人を乗せることを優先したことはその当時では当たり前だったのかな~なんてふと思ってしまいました(笑)。ただこれも交通科学博物館時代にレストランとして用いられていたことからスシ28301という架空車番になっています。できれば改造はして欲しくなかったかな~と思うのは私だけでしょうか?<br /><br />そしてその前方車両のマロネフ59、戦前のお召し列車マイロネフ37が幾多の変遷を経てマロネフ59になったと書かれていましたが、マイロネフから想像するに一・二等寝台緩急車というものだった様ですが、それを二等寝台緩急車に改造したものの様です。ちなみに緩急車とは列車にブレーキをかける設備が搭載されている車両のことで、車掌室があったものと考えて貰えれば良いかと思います。展示車両にはコンパートメント(個室)の様なものがありましたが、実際にマロネフの〝フ〟がそれに当たるかはわかりません。ロ+フであれば間違いはないかと思いますが確証はないので悪しからず。<br /><br />そして旧型客車を牽引するのは先程のC6226でした。この車両は特に目立った車歴がある訳では無いようです。代走としてなのか5回〝つばめ〟と〝はと〟を牽引したようですが、他には映画出演した位のようです。幹線の電化が進む中でその対策に揉まれながら、18年間の現役生活を終えています。<br /><br />SL時代を知らない私の中では、つばめロゴ入りのC622のイメージがすごく強いのですが、意外にもC62の2号機がつばめを牽引したことは多くなかったようで、下がりツバメのスワローエンゼルの18番機、幻のツバメ12番機、トップナンバー1番機等結構多くのC62がつばめを牽引していたようです。残念ながら私の記憶には既につばめが走っている時代は終わっていたので、その雄姿をこの目で見たことはありませんので悪しからず。<br /><br />半屋内の展示を見終えて、館内展示へと進みます。この辺りからは既に鉄道〝歴史〟博物館です(笑)。鉄道省から国鉄になる明治時代に量産されたもので、官設鉄道や後に官設鉄道に編入された路線で活躍していたようです。戦前の日本統治下の台湾や樺太でも活躍していましたが、多くは戦前・戦中・前後に民間に払い下げられたりしたものの、ほとんどは昭和30年代前半に廃車されており日本国内に2両、台湾に1両が静態保存されているに過ぎません。準鉄道記念物には指定されていますが、詳しく書かれているものが多々あるので、私の空想論は控えます(笑)。だって~知らないんだもん♪<br /><br />そして数多くのトレインマーク。これはいっときから急に付けられ出した記憶が残っています。それまでは列車名=ヘッドマーク化していたものが図柄化され、それをさかいに鉄道写真=先頭車両の写真みたいな流れになりました。ただあくまで特急列車のことであり、急行列車でヘッドマークを付けていたものは限られていました。我が町淡海で言うと急行立山・ゆのくに・くずりゅうといったところには〝一応〟ヘッドマークは付けられていました。455・475系といった交直両用型急行車両に付いていただけだけど。でも東海道本線を走っていた153・165系の急行比叡にはサボ(車両横の表示)だけだった。その頃は比叡をさておき立山だった記憶がうっすらとあります。でも今からするとトレインマークは個性的なようで、そうでもなかったのかな?と感じることも今となってはありました。列車名と図柄の相関関係に疑問を抱くもの等もあり、ただいっときの〝無機質〟な列車名の表示から図柄入りになったものに皆が飛びついてブームになっていたのかも知れません。ただいっときであれどブームを引き起こしたトレインマークが沢山ひとつの場所に展示されているのを見て、普段乗り鉄からにわかに撮り鉄に代わり、すぐにまた乗り鉄に戻っていた約1名はそう思いました。<br /><br />そしてトレインマークの前に横たわるは500系と583系。国鉄分割民営化後の元祖スピード狂JR西日本が320km/hで突っ走る世界最速の車両として開発した500系。山陽新幹線区間では営業速度300km/hの〝のぞみ〟として走らせました。鉄仮面300系から大きく変わった独特の車体、あの翼型パンタグラフと長~いノーズ。今では後発のE5・H5、H6、H7といった新しい新幹線車両でお馴染みですが、平成一桁時代には???と感じるものだった記憶があります。先頭車両前方席はその車両形状通り狭くなり、これからの新幹線ってこんなになるのか~?と感じたことを思い出します。ただなぜ東海道新幹線と歩調を合わさなかったのか、280km/hでの走行となにより居住性を重視したJR東海とは意見の食い違いが続いていたようで、結局両社の汎用性の高い車両という観点から作られた700系車両が完成し、500系は僅か9編成114両で生産が打ち切られます。ただ山陽新幹線区間でMAX280km/hの700系では、航空路線との競合には不利になることから、旧車である500系のスピードと居住性を高めた通称〝カバトット〟のN700系が誕生します。<br /><br />平成19(2007)年に営業運転を開始したN700による〝のぞみ〟運行が好評であり、スピードは出るし乗り心地が良いとあれば、居住性に難ありの500系は徐々に居場所を減らすしかなく、ついに平成22(2010)年2月28日で〝のぞみ号〟と東海道新幹線での運行を終了しました。<br /><br />その後車両編成を短くし、山陽新幹線での運行がされていました。パンタグラフもシングルアームに変わり、昔の俊足のぞみから〝ひかり〟〝こだま〟としての役割を担うことになりました。でも再び息を吹き返す出来事が起こります。平成26(2014)年夏にはじまった〝プラレールカー〟。これが結構な人気を博し座席を取り外した1号車はほぼ満席だったようです。そしてきわめつけは平成27(2015)年秋にはじまった〝500 TYPE EVA〟。これはどストライクでした。車体形状から悪くなった居住性を、その形状を生かして作成されたEVA初号機Ver.、加えて車内オルゴールが〝残酷な天使のテーゼ〟とくれば、ハマった世代が子供を連れて行くのは当然!!色々とあったものの、やはりなくてはならない500系になったことが私の中では嬉しくて仕方がありません!!本当は昨年で終わるはずだったのですが、人気のため今年平成30(2018)年3月までの運行になったようです。これは〝乗りに行かなくちゃ!!〟ですね♪<br /><br />その隣には一世を風靡した電車寝台車両の583系がありました。60Hz専用の交直両用型の581系が昭和42(1967)年一足先に、翌年写真43(1968)年に50・60Hzと交直両用型がそれぞれデビューしました。意外でしたが西日本での運行としてのデビューしているみたいです。最高速度120km/h(後に110km/hとなる)で運行できる夜行列車は都市間交通での移動の迅速化としての意味合いが強く、当初は〝三段式電車寝台〟が旧式の三段寝台と比較して広めだったことも人気の一つだったようです。ただパンタグラフの下は車内高の関係で二段となっていた不思議ちゃんでもありました。特にスピードを要求する区間ではこの編成が投入され、関西・東海~九州や関東~東北路線に就航していました。ただ新幹線の台頭によって徐々に居場所を変えていかざるを得なくなり、臨時列車以外で私が物心ついた時には、塗装変更されたものや、先頭部分を切り取って改造したなんとも中途半端な車両が走っていたに過ぎません。でもやはり同じ交直両用型の485系のカラーリングでは〝普通の旅行〟に出かけるイメージが、583系のクリーム&amp;ブルーのカラーリングは〝遠くへ行く旅〟みたいな気持ちを覚えた記憶があります。昔撮影した京都駅での特急なは、西鹿児島(現鹿児島中央)から1,000km近い距離を走ってきたんだ~という思いがありました。平成22(2010)年に形式廃止されており、走行する雄姿を見ることはできませんが、私に放浪癖をつけた電車だと懐かしく感じるものに違いありません(嬉)。<br /><br />その隣には485系群489系のトップナンバーがちょこんと展示されていました。485系群とはややこしい表記ですが、用途に合わせて作られた481・483・485・489系の総称のことになります。このクハ489-1はタイフォンがスカート部分に付けられている特徴があり、結構わかりやすいものではあるのですが、ただ旧信越線横川~軽井沢間の碓氷峠の区間に補機をつなぐ前提で作られたもののはず。それがなぜ京都にあるのかはわかりませんが、このボンネット型と高運転台式の485系は、関西から北陸の特急雷鳥として運行されていた形式です。ただ末期にはいろいろな改造が加えられ、フリーザ電車や直流専用の183系となったことは有名な話ですが、実はあのトワイライトエキスプレスに使われていたスシ24はサシ481・489の改造車だったこと。この辺りの食堂車はかなり前に廃止されているように思っていましたが、まさか客車化されていたとは知りませんでした。いずれにせよ昔は特急雷鳥にも食堂車が連結されていた時代には存在感を発揮していたものが、形式を変えて活躍していたことになんか嬉しさを感じてしまいます♪一世を風靡したボンネット型車両も整備の手間から改造され、中途半端な改造で走っていたことを考えると、静態保存とはいえ原型のまま保存されている車両は往時を偲ばせてくれる貴重なものに違いありません。<br /><br />その後には鉄道の歴史について展示がされていました。ワットの蒸気機関の模型、イギリスのエンジニア〝ジェームズ・ワット〟が18世紀に開発した蒸気機関の模型です。直線運動を回転運動に変換して、それを動力とするシステムは、後に蒸気機関車の原動力となりました。<br /><br />そして鉄道創成期のユニフォーム等。日本の東西に於ける鉄道の敷設、この辺りは関西人の考えそうなことだと少しニヤけてしまいました(笑)。明治5(1872)年に新橋・横浜間に日本初の鉄道が敷設されます。遅れること2年の明治7(1874)年には大阪・神戸間が開通し、これを〝日本の東西で鉄道が走る〟と記述がされていました。数年後には北海道でも鉄道が敷設されますが、中央では延長がまだなされず、関西では大津まで延伸されています。最初にできたのは東京だけど、その後は関西が先~とも取れる書き方ですが、事実なので仕方がありません(爆)。でもこの当時の駅員さんのユニフォームってすごく威圧的な感じです。当時の駅員氏は氏族がなっていたそうで凄く偉そうにしていたそうですが、なんとなくわかる気がします。<br /><br />それが鉄道黄金期となると、やはり出でくる特急列車。〝つばめ〟と〝富士〟は不動の立場でしょう!大正~昭和初期、東京から下関を走る特急列車は、下関~朝鮮半島~ベルリン・パリまでを結ぶ〝欧亜連絡輸送〟の一端を担っており、それが後の大東亜縦貫鉄道の構想につながっているのかと思うと、ある意味すごい発想だった・・・とも思います。第二次世界大戦で頓挫したものだと思っていたら、意外にも大日本国際鉄道になくてはならない〝日韓トンネル〟の構想は未だ朽ち果てていないことを知りました。面白いとは思いますが、果たして飛行機で2時間かからないソウルまで何時間かかるのやら・・・。<br /><br />そしてデッキ付きの電気機関車EF521、新しくはなくともよく似た形式を見たことがあるためそれ程古いとは思っていなかったものの、実は昭和3(1928)年生まれの89歳だと知りました。どうやら私が見たのは戦後生まれのEF15だった様子・・・。さよなら運転を昭和50(1975)年関西で行ったようですがさすがに知りません。別に若者ぶる訳ではありませんが、骨董価値を見出すというより、〝風の谷のナウシカ〟の〝王蟲(オーム)〟に見えて仕方がないのは私だけでしょうか(笑)。<br /><br />そして40番のプレートが付けられた1800型蒸気機関車。パッと見でmade in Japanとは思えない蒸気機関車は、やはりイギリス製でした。鉄道創成期の明治14(1881)年にイギリスのキッドソン社から輸入されたこの車両は、使い勝手の良さから急勾配登坂用に導入されています。旧線の京都~大津間の逢坂山、敦賀~長浜~大垣に至る旧東海道本線にあった25‰の急勾配に対応すべく投入されました。25‰というと1,000m進むと標高差25mとなる数字。在来線に補機(補助機関車)が連結される山陽本線瀬野八峠が22.6‰、旧信越本線碓氷峠は66.7‰という数字ではあるものの、あくまで補機を連結して上り下りしていたことに対し、単独機で挑んでいた車両でもあります。高性能の割には石炭消費量が少ないということで乗務員には評判は良かったとされているものの常に・・・という訳ではなく、ヤスデの大量発生によって押し潰されたヤスデの油によって車輪が空転したり、煙に乗務員が巻かれて窒息したこともあったようです。そんないわく付きの長浜関ヶ原線は開通から僅か10年で新線に置き換えられることとなり、同区間は廃止となります。また逢坂山トンネルも34年後に新逢坂山・東山トンネルが完成し旧逢坂山トンネルは廃止となりました。それに合わせて1800型蒸気機関車はやはり急勾配がある区間へと転属になり、戦後しばらくしてから廃車されています。<br /><br />この京都鉄道博物館に展示されている40型蒸気機関車は、昭和5(1930)年に高知鉄道に払い下げられた後、昭和15(1940)年には大津の東洋レーヨンで使われていたものだそうです。昭和39(1964)年に国鉄に寄贈されたものを修復し、鉄道科学博物館を経て京都鉄道博物館にやって来た車両であり、鉄道記念物にも指定されています。意外に身近なところで運用されていたことがわかり、ちょっと親密感を抱きました(笑)。でも廃止された旧逢坂山トンネルの勾配を、あの京阪電気鉄道京津線の800系車両が4両編成で補機も付けずに普通に走っていることが技術革新の賜物だったことにはちょっとビックリです。滑り止め用に線路に撒く〝砂〟が〝滑らない〟との語呂合わせで受験の御守りとされていることは、地元ならば知らない人はいないくらい有名な話です。ただ残念なことに砂の中に発ガン性物質が含まれているとのことで、今年は配布が中止になってしまいました。しかし大正元(1912)年に京津線逢坂山トンネルが出来てから1世紀以上に渡り、滑りを止めるために撒かれた砂は、現在石坂線を走る600・700系という通称マッチ箱電車が走行するためにも使われていたものゆえ、強ちただのラッピングトレインだけでもないのだよ!と改めて敬意を表する次第です。今年は配布が中止になって残念ですが、来年からは是非とも再開してもらいたいと切に願います。<br /><br />そして鉄道創成期から黄金期を経て、日本国有鉄道のあり方自体が見直される時代を迎え、結果として国鉄分割民営化となりJR各社が設立されることとなります。昭和62(1987)年3月31日限りで日本国有鉄道は廃止され、翌4月1日からJR各社がオープンします。それに伴い色々な記念列車も運転されましたが、国鉄最終日に全国国鉄路線乗り放題切符が枚数限定で発売されました。指定席を除けば新幹線もOKだったこの切符は確か10,000円だったと記憶していますが、京都駅に一晩並んで家族4人分を購入しました。銀河81号で東京を経て平泉迄行って帰って来たのは今からするといい思い出です。いい意味でも悪い意味でも心に残る国鉄最後の日は忘れることができません!!<br /><br />閉館時間が近づいてきたので急ぎ足で回ります。長い目が特徴だった100系。0系の団子っ鼻に対して100系はシャークノーズなんて言っていました。元号が昭和から平成に変わる頃国鉄からJR東海・西日本へと建造が引き継がれ、バブル期ど真ん中の時代にはゴージャスな車両編成が続々と誕生します。二階建て車両や食堂車やビュッフェ車両を繋げて走る姿は正しくバブルトレインそのものでした。ただ国鉄末期の時代に作られているため、技術的に考えられてはおらず、むしろ見た目だけにこだわっているようにも思います。100系の鋼鉄製車両は0系の引き継ぎで、先行して建造された東北・上越新幹線に投入された200系の初期型がアルミ製車体を導入したにもかかわらずでした。また豪華車両の投入は良かったものの、モーターが積まれていない付随車であったことから、制御時の二階席の揺れはかなりの問題となっていたようで、結果として東海道新幹線〝ひかり号〟としての運用が終了した後に、山陽新幹線での運用がされる際には編成の短縮が行われた際に一番に廃車されたようです。次の300系ではじめて〝のぞみ号〟が運行されることとなり、100系の居場所は徐々に減って行くこととなります。そしてついに平成24(2011)年に山陽新幹線こだま号としてのファイナルランを行なって廃車されました。<br /><br />後期に建造された100系車両は、最高速度270km/hが出せる仕様にはなっていました。しかし先述の様にスピードを上げるに連れて酷くなる揺れをはじめとして起こる乗り心地の悪さから、結局最高速度は230km/hに抑えられることとなり、最高速度を270km/hとする運行計画についていけなくなってしまいました。宝の持ち腐れとなってしまった100系ですが、スピード競争について行けず車両耐用期限前に廃車されてしまいました。そんな秘話もあることから判官贔屓的な考えが出てしまうのか、私個人ではこの100系車両は結構お気に入りです。0系の様に可愛い訳でもなく、かといって300系の様に厳つい訳でもない。なんとなく〝ハンサム顔〟に見えてしまいます。鉄道博物館でもあまり人気ではないようですが、その激動の時代を生きた車両であることは知って貰いたいように思いました。<br /><br />その隣にはJR西日本管轄では未だに現役のDD51型ディーゼル機関車が置かれていました。特急出雲のヘッドマークを付けていましたが、昭和47(1972)年にデビューしたこのDD51756は旅客列車を牽引したのは熊本・東新潟の各機関区に所属していた頃だけのはずで、厚狭・門司の各機関区時代は貨物列車の牽引だけのはず。ということは特急出雲を牽引することはなかったにもかかわらず、なぜ出雲のヘッドマークなのか?とふと思いました。<br /><br />ただDD51ではなく特急出雲には深い思い出があり、京都発八王子行きの夜行バスに乗り遅れ、その後に出発する東京方面に向かう交通機関が臨時で運行されていた出雲だったことから利用したことがありました。サンライズ出雲ではなく、従来の山陰本線経由の便は24系寝台車をDD51型機関車が牽引しており、なおかつ山陰本線区間強風のため1時間程遅れての到着でした。おまけに寝台券が京都駅で購入出来ず、車内で車掌さんから購入する始末。そして極めつけは遅れから東京駅迄たどり着かず、品川駅で運転が打ち切られました。私の寝台車乗車経験は2回、そのどちらとも寝台特急出雲でした。でも東京迄乗車券込みで18,000円以上した記憶から8,000円のバス代(当時)と比べると、敢えて利用することはまず考えられない・・・。ちょっと苦い思い出ですが、その分鮮明に覚えているのはたまたま給料日前の出発で電車賃を払うのが精一杯で、乗り越し精算した際に手持ちが足りず、駅前の銀行にお金を下ろしに走ったからなんですが(汗)。<br /><br />まぁ思い出話はこれ位にして、その隣にはクモハ101のモックアップが置かれています。国鉄時代の昭和32(1957)年にデビューした近郊型通勤電車は、その後に開発される車両の大元となる車両でした。全車両動力車とする考えは、加速を良くすることによりラッシュ時の運転間隔を短縮し、輸送力を増強することを念頭に置いていたことに起因しています。当時の中央線快速では旧型車両を用い、10両編成で2分間隔の運行でも限界に達しており、その2倍もの加速を要求される車両として開発されたもののようです。しかし電力設備等の問題もあり、次第と付随車が組み込まれるようになると本来の機能を発揮できないこととなり、それらの問題の解決が後継機種の103系に生かされることになりました。主として東京圏での運行に当てられたものが後に大阪に活動を移し、昭和36(1961)年に大阪環状線・桜島線に投入されたのをきっかけにその後昭和48(1973)年に関西本線、昭和51(1976)年には片町線に投入されました。しかし東京圏以上に後継車両への置き換えが進んだため、国鉄分割民営化時に引き継がれた車両は片町線の14両だけであり、うち6両は冷房化改造されていない車両でした。その後桜島線に活動を移すものの平成4(1992)年に廃車されてその歴史が終わります。省エネルギーの考えが無い時代のデビューであったがためにその性能をフル稼働することなく廃車された101系。淡海の国では馴染みのない電車ではあれど、その功績は戦後日本の象徴だったのかも知れません。この101系のモックアップには当時のまま扇風機が付いているだけのものになっています。現在では非冷房車等考えもよらないことなのかも知れませんが、私自身子供の頃に非冷房車に乗ると〝当たった~〟等と言っていた記憶があるので、つい最近のことのように思えます。永久に走ることのない車両ですが、その功績から鉄道記念物に指定されることを願いたいです!<br /><br />その隣にはEF6610とクハ221のモックアップがありました。1,000tの貨物を100km/hで牽引できる高速貨物用電気機関車として、昭和43(1968)年から一次量産車が作られました。その中の一車両がこのEF6610でした。今でも斬新なデザインを持つEF66は、そのパワーから貨物列車の牽引をするために生まれてきたようなものなので、当初は客車を牽引することはまったく考えられてはいなかったものの、昭和59(1984)年に貨物輸送の形態が変わることによって、機関車の余剰が発生し、ちょうど客車寝台に於ける編成の変更により、翌昭和60(1985)年からブルートレインを牽引する任に就きました。しかし国鉄分割民営化の後、平成に入ると寝台車の需要も減り、最後まで残ったはやぶさ・富士も平成21(2009)年3月で廃止され、同時にEF66も定期運用から外れることとなり、翌年には廃車されることになりました。ただ形式廃止には至ってはいないものの、関西近郊では見ることはなくなりました。<br /><br />京都鉄道博物館に保存されているEF6610とEF6635とも客車を牽引したことはないようで、JR貨物で活躍した機関車です。ブルートレイン全盛期にはEF65の500番代が牽引し、のちに1000番代にとって代わられますが、あまり特徴のない機関車ではありました。それが端正ない顔立ちのEF66に代わったことは、当時かなりの反響があったように記憶しています。時代の流れとともにモックアップと静態保存されることにはなりましたが、やはり高速貨物輸送を可能にしたパイオニアとして、やはり鉄道記念物に指定してもらいたいと改めて思いました。<br /><br />そして221系先頭車のモックアップですが、これはJR沿線に住む関西の人間ならば知らない人はいないくらいメジャーな現役車両です。デビューは平成元(1989)年で既に四半世紀過ぎていますがまだまだ現役です。国鉄分割民営化後JR西日本が謳う〝アーバンネットワーク〟の一端として、117系で運行していた新快速を置き換えることによりスピードアップを図るという狙いがありました。最高速度120km/hで3ドア転換クロスシートの車両は、通勤優等列車的な意味合いではなかったかと思います。しかし平成12(2000)年には新快速の最高速度が130km/hに引き上げられることとなり、後継車両の223系にその立場を譲り、自身は東海道・山陽・山陰・関西・奈良線などの快速・普通列車としての役割を担うことになります。そして223系の後継車両225系の導入と合わせて車内シートの改造・変更がなされます。扉付近の補助シートが設けられることとなり、バリアフリー対応として車椅子スペースが作られる等、中身が全く変わってしまうような改造も行われました。その結果意識しないで乗車すると〝この車両ってなんだっけ?〟となることも多くなりました。<br /><br />古き車両を改造し新車両のようにする手段は、JR東日本のように車両総入れ替えがなかなかできないJR西日本の台所事情もあるのですが、同時期に投入された車両がステンレス製にもかかわらずなぜに鋼鉄製?と思う点も確かにありました。ただ鋼鉄車両だから重いと決めつけることはできず、そんなに変わらない重さに仕上げて、車両単価を安くするってのはさすが関西なんて思うところでもあります。ただこの221系が新快速として走っていたことを私は知りません。ちょうどその頃は201系の〝中央特快〟のぶっ飛び走行に怯えていた時代と被ります。夢破れて関西へと戻って来た時には既に223系=新快速という方程式が出来上がっていました。そんなこともあり、この車両の絶頂期を知らない私ではあるのですが、本線を外れた区間では通勤・レジャー共に流用できる車両ゆえ、今後とも末長い活躍を期待したいものです。なにより私自身も221系が来ると敢えて乗ってしまうひねくれ者なので(笑)。<br /><br />そして隣にはEF6635とディーゼル機関車91264の先頭部が展示されていました。このEF6635は車両下を見学できるものとなっており、その片方の車両前部には特急富士のトレインマークが取り付けられていました。EF66の第二次増備車両として作られたものですが、やはり高速貨物列車牽引のために作られており、通常の運行では旅客列車を牽引することはなかったようです。そして前面モデルの91264、元々DD13型機関車を新幹線の工事や点検車両を牽引するために標準軌に改造した移植の経歴の持ち主です。既に車番は廃止されているものですが、あの夢の超特急の建設に携わった車両であることには違いありません。最高速度70km/hですが工事や点検車両を牽引する際にどれ位のスピードを出していたのかはわかりませんが、その功績の大きさにはただただ頭が下がります。<br /><br />151系といえば〝こだま型〟と言われるように客車特急であった〝つばめ〟〝はと〟の7時間半の東京大阪間所要時間を40分縮めた国鉄初の電車特急でした。昭和33(1958)年のデビュー当時は、東京大阪間の日帰りを可能にした画期的な特急と言われていたものの、6年後の昭和39(1964)年には夢の超特急〝東海道新幹線〟が開通し、一挙に所要時間が4時間まで短縮され、活動の場を大阪以西に移します。そして山陽新幹線の西進とともにどんどん活動の場を減らしていったという華々しいデビューを飾るも、高速化の波に飲み込まれてしまった悲しい経歴の持ち主です。ただ151系の魂は上越線の161系とき、信越線の181系あさまなどに引き継がれました。敢えてメンテナンスの難しいボンネット型を採用した理由が居住スペースから動力を遠ざけて、振動や騒音の伝わり対策だったことに時代を感じます。直流車両であるがため、交流区間である九州では機能を発揮できずに電気機関車の牽引や電源車の編成組み込み等残念な姿を曝け出してしまったこともあります。実用的な運用という観点ではやはり残念としか言いようがありませんが、デビュー時期を考えると致し方なかったのかなとも思えます。でもクロ151というグリーン席先頭車が人気だったということは、そこそこの時間乗っているからではないかという理由もあるように思います。今のN700系先頭車をグリーン席化して2時間10分では楽しみにはならないと思うのは私だけでしょうか?ちなみに私自身151系の現役時代は知りませんので悪しからず。<br /><br />そして〝ブルドッグ〟と言われたキハ813。国鉄の考えでは〝特急〟の運行は幹線のみという考えがあり、意外にも151系よりも後の昭和35(1960)年に投入されました。〝はつかり型〟と呼ぶのが一般のようですが、関西では〝くろしお型〟と呼ばれる方が多いようです。ボンネット型の導入は151系と同じですが、意外にも動力エンジンではなく〝発電用エンジン〟が搭載されていました。国鉄初のディーゼル特急車両でしたが、導入当初はトラブルも多く不評だったようです。上野青森間のはつかり、大阪青森間の白鳥等 電車を超える長距離を走っていた実績にもかかわらず、残念な評価をされることが多いキハ81系。ある意味大役を終えて静態保存されついる姿が似合っているようにも思えます。ちなみに私が南紀一周をした時の特急くろしおは381系で運行されていましたよ(笑)。<br /><br /><br />そして因縁のトワイライトエキスプレス。26年にも渡って運行されていたにもかかわらず、結局乗ることができませんでした。オリエントエキスプレスをモチーフに日本流にアレンジしたとかしないとかという噂がありますが定かではありません。JRになってから臨時列車ではあれど日本最長距離を走る豪華列車でしたが、意外にも新しく作られた車両ではない編成でした。24系25型客車は往年の特急富士に使われていた編成でもあるのですが、A寝台個室として使われていたものは元々B寝台車両として使われていたオハネフ・オハネを改造し、車両重量が増えたためにスロネ・スロネフになったもの。B寝台個室やB寝台車両として利用されていたものは、内装を改造したものが用いられており、食堂車に至っては旧485・489系の食堂車を改造したものが使われていました。比較的新しいものを改造したと言っても車歴40年程の老朽化したものが生まれ変わり使用されていました。そこはサービスで補っていたようですが、さすがに27年も運行していると・・・。ちょうど北陸新幹線の開通によって、運行経路が3セク化されることをいい機会に廃止になったように思えます。もちろん旧車を生かすつくりは良いようには思うものの、オリエントエキスプレスという例えが悪かったのではとも思います。時間はかかるし予約も取れない、おまけに高いとくればやはり末端まで浸透するかと言われれば首を傾げるしかありません。元々日本の文化として〝安かろう悪かろう〟という感覚が限定されたものではあったものの、経営が成り立たないと言われていたLCCが繁盛し、移動の過程にお金をかけなくても良くなった背景もあります。所詮乗れなかった者の僻みでしかありませんが、まあ北海道まで一日がかりで行けるような長期の休みが取れないという現実論もありました。でもこれまた旧車のEF81やED75(後にED79)、DD51と言った機関車を専用色に塗り替えて使っていたことは、ある意味見ているとすごく面白く思うこともありました。トワイライトエキスプレスは引退し、瑞風なんてできましたが多分乗りたいと思う頃は廃止される頃じゃないかなとも思います(笑)。<br /><br />閉館時刻が近づいてきたので必然的に駆け足になってきます。EF651、EF65のトップナンバーですが、見た通りの地味系の電気機関車です。トップナンバーの響きとは裏腹に貨物牽引機として日本全国を股にかけ、昭和40(1965)年のデビューから昭和62(1987)年まで活躍した後、分割民営化後は国鉄清算事業団の所有となり、長きにわたり宮原機関区で保存された後に京都へとやってきました。元々平坦路線用の牽引機関車として作られており、改造によって500番台や1000番台車両がブルートレインを牽引する等華々しい活躍をしていたのとは大きく異なります。結局EF65は寝台特急の車両編成の変化で速度が出せない等という理由から、余剰となっていたEF66にその役目を譲り、表舞台から下りることとなりました。トップナンバーということもあり、訓練用車両としても使われていたようですが解体を免れ、静態保存ではあれど永住場所を見つけた恵まれた機関車なのかも知れません。長い待機期間ご苦労さまとふと声を掛けたくなりました。<br /><br />そしてEF58150。流線形の形をしたユニークな電気機関車のデビューは、敗戦翌年の昭和21(1946)年のことでした。しかし戦中規格の粗悪車両は一度発注が止められた後、その改造を含めて昭和33(1958)年まで作られました。貨物から客車まで牽引するオールラウンダーとして活躍し、中でもお召し列車牽引機関車となったEF5860・61というものもありました。平坦路線に於いては後継機のEF65と互角に渡り合える性能を持ち、長きにわたり活躍していました。ほとんどの車両は分割民営化前に廃車となっていますが、このEF58150は一旦廃車となった後に車籍復活し、四国に入った唯一のEF58にもなりました。しかし21世紀になると本線での運用は減り、平成21(2009)年に走った後はついに平成23(2011)年に車籍抹消となります。そして平成27(2015)年に住み慣れた宮原からEF651とともに京都鉄道博物館に移送された後トワイライトプラザにて展示されて現在に至ります。<br /><br />私自身記憶に残っているのが臨時急行銀河81号品川行きの牽引をしていたのがEF58でした。当時寝台特急にはEF65500番台が牽引にあたっており、定期列車の銀河を含め急行にはEF58が投入されていたようです。14系客車の座席車で京都から品川まで移動したEF58に凄い!と思った記憶があります。そういった点では一番身近に思えるEF58、いつまでもその雄姿を見せて貰いたいものです。そんな思いを込めて〝お疲れさま〟と声を掛けて、先を急ぐことにします。<br /><br />国鉄230型蒸気機関車は明治36(1903)年に逓信省鉄道作業局が製造したものです。本格的に量産が行われた初の国産蒸気機関車ではあるものの、用いられた技術全てが国産という訳ではなく、英国製機関車A8モデルを基本としています。この車両230型は日本全国に加え、戦前に統治していた樺太や台湾にまで活躍の場を広げていました。233型蒸気に限ると米子・舞鶴を拠点とした後、浜松・稲沢を経て昭和35(1960)年頃に廃車されました。約60年に渡る車歴の中で動乱期の日本を見てきた貴重な機関車でもあります。廃車後は大阪の交通科学博物館を経て京都鉄道博物館へとやってきました。鉄道記念物・機械遺産・重要文化財に指定されており、その長きに渡る活動は勲章として233型蒸気機関車の功績を称えています。大阪では屋外保存であったため〝The廃車〟としてしか見えませんでしたが、京都に来てからは屋内保存に改められ、完成当初の輝きを来館者に伝えています。<br /><br />蛍の光が流れる中、順路に沿って歩いて行きます。トワイライトプラザから扇形車庫を通り、保存中のSL群を横目に見ながら進みます。この辺りは梅小路蒸気機関車館時代と変わっているところもあるようですが、時間の関係で次回に回します。そして館内出口も兼ねている旧二条駅舎。二代目駅舎として明治37(1904)年に完成しました。長いこと単線・非電化区間の駅でしたが、平成2(1991)年に京都~園部間が電化された後、平成8(1996)年に高架駅となり新駅舎が完成するまで使用されていました。二条城最寄りということもあり、入母屋造りの駅舎はその立ち位置にマッチするように建築されたものと言われています。貴賓室等も設けられていた旧二条駅舎は、京都の近代化を象徴する建物でもあることから平成8(1996)年に京都市指定有形文化財に指定され、その後幅を縮小して梅小路蒸気機関車館に移築され、京都鉄道博物館がオープンするにあたりミュージアムショップに改装されて現在に至っています。京都市内中心に位置しながらつい最近までディーゼル機関車牽引の旧型客車が走っていた区間ゆえ、遠方への旅行にならずとも〝遠くに来たな~〟と思ったことが記憶に残っています。ミュージアムショップは売り上げ大事の考えなのか、展示室のような追い出しは行われておらず、旧二条駅舎の持つ歴史ではなくグッズ販売所として利用されていることは残念でした。<br /><br />ミュージアムショップを出ると関西鉄道の社章が置かれていました。現在の近畿地方主要部の鉄路の元を作った会社は後に国有化され、現在のJRの主要路線となっています。関西本線・草津線・片町線・紀勢本線・桜井線・和歌山線・奈良線・大阪環状線の前身となった関西鉄道の功績は、鉄道博物館としては欠くことのできないものかも知れません。しかし旧二条駅舎前に置いても直接関係はないのでは・・・と思ったのは私だけでしょうか?その隣にはC57の動輪が置かれていましたが、既に夜の帳が下りて来ていたため内容が確認できず写真だけになりました。<br /><br />京都鉄道博物館を後にして梅小路公園を西方向へと歩いて行きます。後行く場所といえば皆さん京都水族館なのでしょうが、時間も時間なので市電ひろばを散策します。梅小路公園のちょうど中心部に位置する市電ひろばには4両の市電が静態保存されています。505番・703番・890番・1605番になりますが、うち505番は市電カフェ、703番は市電ショップとして営業していました。残る890番・1605番は休憩所となっており、往時の姿をうかがい知ることができます。<br /><br />大正から昭和初期にデビューした505番は、東京遷都による京都の落ち込みを解消し、戦後まで活躍した大型車両です。それに対して703番は昭和33(1958)年から4年間に渡って作られた新しい車両ではあれど、軽量車両で間接制御車だったがゆえにワンマン化することができずに廃車された悲劇の経歴を持っています。890番は昭和30(1955)年デビューの比較的新しい車両のラストナンバーです。ワイドボディ化された車両は、後にワンマン化された1800系と大きく歴史が変わることになりました。890番はワンマン化されずそのまま運行していたため持て余し気味となった結果京都市電全廃までに廃車されています。そして1605番は戦中にデビューした600系607番の改造車でワンマン化されたものです。ただ改造車両ということから車両本体の劣化は否めないものだったようで、こちらも京都市電全廃を前年に控え全車廃車になっています。そして梅小路公園東口に観光案内所として利用されている935番は昭和30年代のデビューした比較的新しい車両ですが、京都市電の中で〝最も美しい車両〟と言われていました。しかし大型ながらワンマン改造されなかったことに起因し、烏丸線のツーマン廃止とともに廃車されました。<br /><br />屋根のある馬主に置かれている4両と、観光案内所として使われている2両と比較すると、やはり外観の痛みを感じます。せっかく梅小路公園にて京都の繁栄の後押しをしてきた市電に触れられるようにするのであれば、やはりメンテナンスもしっかりやって貰いたいと思います。子供心に走っていた〝チンチン電車〟の勇姿はいつまでも見続けたいと感じます。<br /><br />通り道に京都水族館はありますが、既に蛍の光が流れている時間ゆえ次回に回し、梅小路公園を出ることにします。ひたすら東進し、ビックカメラに立ち寄ってお目当てのフィルムを購入します。ビックカメラは便利になっており、店内から京都駅に入ることができるようになっています。そして2番線から快速米原行きに乗車し南淡海の国へと到着します。この辺りは通勤路なので〝何も変わらないはず〟ですが・・・まさかの展開をしてしまいました。田舎の赤バスの行き先を間違えてしまい、途中までしか行かないバスに乗ってしまいました・・・。バスの時間が早いな~と思ったら確認すれば良いのに自分を信じてしまいました。車内アナウンスで知ったものの、間違えましたと言いたくもないので途中下車します。余計な徒歩が増えましたが、そこは地元ならではのコース取りをしたので、正しいバスの到着よりは早く到着できました。<br /><br />思い立ったら百年目、でもしっかりオチをつくってしまった今回の歩き旅でした♪

《2017.October》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅠ~京都鉄道博物館編~

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2017/10/14 - 2017/10/14

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

暑くもなく寒くもない旅行にはベストシーズン。しか~し原爆遺構を訪ねて広島・長崎にこまめに行っていた結果、旅費がなくなりました(泣)。そんな時には地元を歩いて来た今までですが、せっかくの休みなので再開したアナログカメラのフィルムを購入することを兼ねて京の都に出かけることにしました。行き先に選んだのは、梅小路の京都鉄道博物館。旧梅小路蒸気機関車館は何度も行きましたが、乗り鉄を卒業してからは随分とご無沙汰していました。あの蒸気機関車館がどのように変わったのか確かめたい気持ちもあったことから行き先が決まります。さぁどんな旅路になったのやら・・・。それでは始まります。

平成29(2017)年10月14日土曜日
いつもながらのんびりと昼から出発します。車で行く場所ではない上に誰もいないため、バスでの出発です。ど田舎バス停から田舎の赤バスで駅まで向かいJRに乗り換えます。京都と言うと京都駅ですが、梅小路公園に行くには①京都駅からバス、②山陰嵯峨野線丹波口駅から歩く、③京都線西大路駅から歩くの3ルートがあり、いっときよく利用していた西大路駅の今を確かめるべく③のルートを取ります。珍しく快速に乗車し5つ目の駅である西大路で下車し、駅前に降り立ちますがあまり変わりはないようです。そのまま西大路通りを上り、西大路八条の餃子の王将西八条店で遅い昼食をとります。ただ土曜日ということもありあまりのんびりする雰囲気ではないため、食事を済ませるとすぐに店を出ます。そして八条通りを東に行ってコメダ珈琲に改めて入りお茶します。

一息ついたらまた歩き出し、程なくして梅小路公園に到着します。嵯峨野山陰線のガードを潜ったところに京都鉄道博物館はありますが、敢えて通り過ぎて公園内に静態保存されている京都市電の車両を見て回ります。

私自身京都市電が現役だった頃はまったくといって良い程覚えていませんが、なんとなく身近に感じるのは〝第2の人生〟を送っている広島電鉄で活躍している姿を見ているからだと思います。昼間は案内所として利用されている2001系車両は、てっきり語呂合わせから付けられた車番だと思っていたところ、昭和39(1964)年デビューの連接仕様車両のようです。しかし昭和50(1975)年には全車ワンマン化され、連接運行されなくなったことから連接運行用の特殊装備が災いし、故障も多かったことから京都市電全廃前の昭和52(1977)年に全車廃止となっています。うち2002から2006番車両は伊予鉄道に転出し、現在でも現役で活躍しています。保存対象とされた2001番車両は最初烏丸車庫跡に保存された後、幾多の変遷を経て平成26(2014)年に現在の梅小路公園へと移され、静態保存されることとなり現在に至っています。到着時間が遅かったので第二の人生に触れることはできませんでしたが、生まれてから半世紀を経て京都の街の観光拠点として今なお現役で働く姿に負ける訳には行かないぞ~と改めて思う次第です。

他にも京都市電が静態保存されているこの梅小路公園は元梅小路駅(現在の京都貨物駅)の跡地に平安遷都1200年を記念して平成7(1995)年に作られた117,133平方メートルの広さを持つ京都市営の総合公園です。広大な敷地内には芝生広場・中央広場・いのちの森・朱雀の庭・緑の館,すざくゆめ広場・市電ひろばなどの施設があり、その広大な敷地を利用しての大きな規模の各種行事の開催に利用されることも多く、緑化フェア・サーカス・京都音楽博覧会などが行われた場所でもあります。

公園北東部には京都水族館が、西側には元梅小路蒸気機関車館が改装されてできた京都鉄道博物館が建てられており、土日祝日にはすざくゆめ広場と市電広場間で、明治時代の京都市電車両が運行されるなど、子連れを中心とした多くの人で賑わう都市公園となっています。

今回の目的は園内施設のひとつである京都鉄道博物館を訪ねることにありました。乗り鉄だった子供の頃、既に幹線での運行が終わっていたSLや旧型車両を見るためにちょくちょく訪れてはいました。しかし免許を取り旅行の手段が車に変わると、いつのまにか来ることもなくなりました。梅小路蒸気機関車館と交通科学館(※私が行った時代)、そして東京の交通博物館。いずれも行きたくて仕方がなかったところ連れて行って貰った記憶はあるものの、年を取ったのかなにも思い出せない・・・。まあ深く考えずに〝初めて来たんだ~〟とはしゃいで入館できるおバカ1名でしたが、入館券を購入するときに少し悩みます。大人1,200円っていい値段・・・。別にケチる訳ではないのですが、街歩きの旅のモットーは〝お金をかけないこと〟なので、ふとそんな想いが頭をよぎりました。割引条件をガン見して、JRカード提示で10%引きを見つけ、1,080円を支払い意気揚々と入館します。

オープン1年半の京都鉄道博物館はさすがにキレイです♪あまり実績の残っていないC6226、確か梅小路ではツバメのロゴ入りC622がで~んとありましたが、そんなことまで今は気にしないのかな?となりの80系はうちらは〝かぼちゃカラー〟と呼んでいた湘南色。しかし残念ながらこの車両が走っていた姿は知りません。この編成はなぜか山陽本線の柳井駅構内に留置されていたものを鉄道科学博物館が入手し、手入れをしなおしたものになります。山陽地区に於ける80系の廃車が昭和52(1977)年、そして交通科学博物館での展示開始が昭和61(1986)年。ガラスもなく塗装もハゲた車両をよくぞここまでして頂いたことに感謝します。木造の車内に灰皿が付いてあることに時代を感じますが、できれば静態保存ではなく、記念列車として動かせてもらいたいな~なんて思いました。

その隣には日本が誇る高速鉄道〝新幹線0系〟がちょこんと置かれていました。夢の超特急が東京~新大阪間を4時間で走ったのは昭和39(1964)年10月1日のこと。戦後ニッポンの復興の象徴だったに違いありません。既に博多まで開通してからしか乗ったことはありませんが、車内のビュッフェに感動した記憶が残っています。ちょこんと見えるのはあの愛嬌のある〝団子鼻〟のせいかも知れません。現役の頃は超特急のイメージが強くかわいい感じはなかったけど、後輩の100系・300系・500系・700系とだんだん顔が細長くなってくる中で、一線を退いた往年の将はカドが取れて丸くなったようにも見えてしまいます(笑)。ここは京都鉄道博物館の〝撮影所〟にもなっており、カメラを持ったお姉さんが呼びこみをしていました。手持ちのカメラでも撮影をしてくれるのでiPhoneを手渡し、言われるがままに〝0のポーズ〟を取ってパチり。その後商売用の写真も撮られるのですが、iPhoneの写真を見てなんとなくアングルの悪さを感じてしまいます。もちろんサービスなので仕方がない・・・と言われればそうですが、アマチュアの撮った販売写真に興味がないというのは私のポリシーゆえ、あまり欲しいとは思わなかった写真は断ります。入館料より高い1,100円ってのもありましたが・・・。

そして車両編成を見ながら歩きます。ある意味真新しいかった2×3の普通車、結局乗ることのなかったグリーン車、利用したけど記憶にないビュッフェ。こんなちゃっちい椅子だったかな?と記憶をたどりますが無理でした(笑)。そして0系新幹線の動力関係ではプッシュアンドプルの全車両動力車、空気抵抗を抑えるためとはいえ火花を散らしながら突っ走って行く小さなパンタグラフ、そしてモーターと台車。飛行機を意識して作られたことは、敗戦によって航空機開発ができなかったハンデを強みに変えたならではの理由だと改めて感じます。0系ならではのビュッフェに備え付けられていたアナログの速度計、デジタル表示が当たり前の時代だからこそ、針がどこまで触れているかによってスピードを感じることは、やはり私もアナログ人間なのでしょう(爆)♪
転換型クロスシートにも唸りましたが、やはり気持ちが爆発したのは運転台です!アナログ計器が並ぶ〝コクピット〟は広いけど、今のハイテク車両の様に〝表示されている意味すらわからない〟ものではありません。今更ですがなれるものなら新幹線の運転士になってたら・・・なんて妄想していたおバカ1名でした(笑)♪

0系の前にはセルフの撮影コーナーがあり、自撮り1枚!の後隣に並ぶ2台のオレンジ色車両へと向かいます。DD54は既に配備されていたDD51をはじめとしたディーゼル機関車やSLの後継機としてのハイパワー機関車として開発・投入されました。しかし残念ながら当時2,000馬力を発するディーゼルエンジンを開発する能力はなく、西ドイツ製のものをライセンス生産するにとどまり、都合良く改造することがままならない上に、修理そのものが高度となるため、修理拠点が1箇所に集中することとなり、加えて推進軸(ユニバーサルジョイント)の破損により転覆事故を起こしたりしたこともあり、最終的には無煙化の一端として置き換えるはずであったC57に牽引されることもあったりとトラブル続きだったことから耐用年数を大幅に下回って引退を余儀なくなされた機関車でもあります。見た目はなかなか精悍であるも、私自身が現役の姿を見ていないことからもわかることです。対してその隣にはつい先日まで大阪環状線を走っていた103系。近距離型国電車両としてデビューした101系からの改造を含め昭和38(1963)年から昭和59(1984)年に至る21年間の間に3,447両が製造されたロングセラーでした。JR移管後の20世紀末期には、地方都市の近距離型車両として第二の人生を歩んだ車両も多くあり、学生時代に住んでいた仙台では、仙石線車両として見慣れたブルーの普通列車にベージュにブルーラインの快速うみかぜ号として走っていたものを利用した記憶があります。ただ根本的に私の本拠地である近江の国では馴染みのない車両であり、たまに京阪神エリアで乗るにしても各駅停車でしかありませんでした。そんなこともあり快速として走る中央線や仙石線では駅を通過して突っ走るする103系に乗る度にあの振動から走行中に分解するんじゃないか~と不安になりながら乗っていた記憶があります。でもついに大阪環状線の運行から撤退し、一部阪和線や関西線・奈良線には残っている様ですが私の行動範囲外。故に乗ることもなくなるとなんとなく寂しくも思ったりしたりもします。その103系の後継車両である201系も関西線あたりで活躍しているもののやはり行動範囲外で、普段利用している東海道本線(琵琶湖線)ではJR西日本が誇る韋駄天列車223系と225系、そして既に旧型車両の扱いを受けている221系の3ドア車両が普通・新快速として走っているのが当たり前だと思っているものからはある意味異郷のものと感じてしまうのかも知れません(笑)。

そして両隣に並ぶ旧型客車20系とスハ32系型の食堂車が並びます。ブルートレインの名前の由来となった20系ですが、主力として走っていた頃はさすがに知りません。ましてや食堂車が連結されている頃に乗車したこともないし・・・。ただ秋田の高校の関西への修学旅行の帰りに利用した〝臨時急行あおもり〟が20系客車を使っており、あのクソ狭い三段寝台と手動ドアにびっくりした記憶が残っています。もうその頃は廃車間近で臨時専用だったのでしょうが、特急富士等に使われていた頃はさぞかし輝いていた〝だろう〟ことは、食堂車であるナシ20の設備を見ても想像がつきます。今ではレストランとして営業している様ですが、時間外であれば外から様子を見て往時を偲ぶのみ、またの機会に是非ともカレーライスでも頂きたいですね♪でも向かいのスハ32型車両のスハシ38はさすがに戦前の鉄道省が作った20m級の鋼鉄車両のひとつなので私には知識すらありません。ただ一両まるごと食堂車にしていないのが、やはり戦前って感じもします。贅沢よりも合理性を採用し、人を乗せることを優先したことはその当時では当たり前だったのかな~なんてふと思ってしまいました(笑)。ただこれも交通科学博物館時代にレストランとして用いられていたことからスシ28301という架空車番になっています。できれば改造はして欲しくなかったかな~と思うのは私だけでしょうか?

そしてその前方車両のマロネフ59、戦前のお召し列車マイロネフ37が幾多の変遷を経てマロネフ59になったと書かれていましたが、マイロネフから想像するに一・二等寝台緩急車というものだった様ですが、それを二等寝台緩急車に改造したものの様です。ちなみに緩急車とは列車にブレーキをかける設備が搭載されている車両のことで、車掌室があったものと考えて貰えれば良いかと思います。展示車両にはコンパートメント(個室)の様なものがありましたが、実際にマロネフの〝フ〟がそれに当たるかはわかりません。ロ+フであれば間違いはないかと思いますが確証はないので悪しからず。

そして旧型客車を牽引するのは先程のC6226でした。この車両は特に目立った車歴がある訳では無いようです。代走としてなのか5回〝つばめ〟と〝はと〟を牽引したようですが、他には映画出演した位のようです。幹線の電化が進む中でその対策に揉まれながら、18年間の現役生活を終えています。

SL時代を知らない私の中では、つばめロゴ入りのC622のイメージがすごく強いのですが、意外にもC62の2号機がつばめを牽引したことは多くなかったようで、下がりツバメのスワローエンゼルの18番機、幻のツバメ12番機、トップナンバー1番機等結構多くのC62がつばめを牽引していたようです。残念ながら私の記憶には既につばめが走っている時代は終わっていたので、その雄姿をこの目で見たことはありませんので悪しからず。

半屋内の展示を見終えて、館内展示へと進みます。この辺りからは既に鉄道〝歴史〟博物館です(笑)。鉄道省から国鉄になる明治時代に量産されたもので、官設鉄道や後に官設鉄道に編入された路線で活躍していたようです。戦前の日本統治下の台湾や樺太でも活躍していましたが、多くは戦前・戦中・前後に民間に払い下げられたりしたものの、ほとんどは昭和30年代前半に廃車されており日本国内に2両、台湾に1両が静態保存されているに過ぎません。準鉄道記念物には指定されていますが、詳しく書かれているものが多々あるので、私の空想論は控えます(笑)。だって~知らないんだもん♪

そして数多くのトレインマーク。これはいっときから急に付けられ出した記憶が残っています。それまでは列車名=ヘッドマーク化していたものが図柄化され、それをさかいに鉄道写真=先頭車両の写真みたいな流れになりました。ただあくまで特急列車のことであり、急行列車でヘッドマークを付けていたものは限られていました。我が町淡海で言うと急行立山・ゆのくに・くずりゅうといったところには〝一応〟ヘッドマークは付けられていました。455・475系といった交直両用型急行車両に付いていただけだけど。でも東海道本線を走っていた153・165系の急行比叡にはサボ(車両横の表示)だけだった。その頃は比叡をさておき立山だった記憶がうっすらとあります。でも今からするとトレインマークは個性的なようで、そうでもなかったのかな?と感じることも今となってはありました。列車名と図柄の相関関係に疑問を抱くもの等もあり、ただいっときの〝無機質〟な列車名の表示から図柄入りになったものに皆が飛びついてブームになっていたのかも知れません。ただいっときであれどブームを引き起こしたトレインマークが沢山ひとつの場所に展示されているのを見て、普段乗り鉄からにわかに撮り鉄に代わり、すぐにまた乗り鉄に戻っていた約1名はそう思いました。

そしてトレインマークの前に横たわるは500系と583系。国鉄分割民営化後の元祖スピード狂JR西日本が320km/hで突っ走る世界最速の車両として開発した500系。山陽新幹線区間では営業速度300km/hの〝のぞみ〟として走らせました。鉄仮面300系から大きく変わった独特の車体、あの翼型パンタグラフと長~いノーズ。今では後発のE5・H5、H6、H7といった新しい新幹線車両でお馴染みですが、平成一桁時代には???と感じるものだった記憶があります。先頭車両前方席はその車両形状通り狭くなり、これからの新幹線ってこんなになるのか~?と感じたことを思い出します。ただなぜ東海道新幹線と歩調を合わさなかったのか、280km/hでの走行となにより居住性を重視したJR東海とは意見の食い違いが続いていたようで、結局両社の汎用性の高い車両という観点から作られた700系車両が完成し、500系は僅か9編成114両で生産が打ち切られます。ただ山陽新幹線区間でMAX280km/hの700系では、航空路線との競合には不利になることから、旧車である500系のスピードと居住性を高めた通称〝カバトット〟のN700系が誕生します。

平成19(2007)年に営業運転を開始したN700による〝のぞみ〟運行が好評であり、スピードは出るし乗り心地が良いとあれば、居住性に難ありの500系は徐々に居場所を減らすしかなく、ついに平成22(2010)年2月28日で〝のぞみ号〟と東海道新幹線での運行を終了しました。

その後車両編成を短くし、山陽新幹線での運行がされていました。パンタグラフもシングルアームに変わり、昔の俊足のぞみから〝ひかり〟〝こだま〟としての役割を担うことになりました。でも再び息を吹き返す出来事が起こります。平成26(2014)年夏にはじまった〝プラレールカー〟。これが結構な人気を博し座席を取り外した1号車はほぼ満席だったようです。そしてきわめつけは平成27(2015)年秋にはじまった〝500 TYPE EVA〟。これはどストライクでした。車体形状から悪くなった居住性を、その形状を生かして作成されたEVA初号機Ver.、加えて車内オルゴールが〝残酷な天使のテーゼ〟とくれば、ハマった世代が子供を連れて行くのは当然!!色々とあったものの、やはりなくてはならない500系になったことが私の中では嬉しくて仕方がありません!!本当は昨年で終わるはずだったのですが、人気のため今年平成30(2018)年3月までの運行になったようです。これは〝乗りに行かなくちゃ!!〟ですね♪

その隣には一世を風靡した電車寝台車両の583系がありました。60Hz専用の交直両用型の581系が昭和42(1967)年一足先に、翌年写真43(1968)年に50・60Hzと交直両用型がそれぞれデビューしました。意外でしたが西日本での運行としてのデビューしているみたいです。最高速度120km/h(後に110km/hとなる)で運行できる夜行列車は都市間交通での移動の迅速化としての意味合いが強く、当初は〝三段式電車寝台〟が旧式の三段寝台と比較して広めだったことも人気の一つだったようです。ただパンタグラフの下は車内高の関係で二段となっていた不思議ちゃんでもありました。特にスピードを要求する区間ではこの編成が投入され、関西・東海~九州や関東~東北路線に就航していました。ただ新幹線の台頭によって徐々に居場所を変えていかざるを得なくなり、臨時列車以外で私が物心ついた時には、塗装変更されたものや、先頭部分を切り取って改造したなんとも中途半端な車両が走っていたに過ぎません。でもやはり同じ交直両用型の485系のカラーリングでは〝普通の旅行〟に出かけるイメージが、583系のクリーム&ブルーのカラーリングは〝遠くへ行く旅〟みたいな気持ちを覚えた記憶があります。昔撮影した京都駅での特急なは、西鹿児島(現鹿児島中央)から1,000km近い距離を走ってきたんだ~という思いがありました。平成22(2010)年に形式廃止されており、走行する雄姿を見ることはできませんが、私に放浪癖をつけた電車だと懐かしく感じるものに違いありません(嬉)。

その隣には485系群489系のトップナンバーがちょこんと展示されていました。485系群とはややこしい表記ですが、用途に合わせて作られた481・483・485・489系の総称のことになります。このクハ489-1はタイフォンがスカート部分に付けられている特徴があり、結構わかりやすいものではあるのですが、ただ旧信越線横川~軽井沢間の碓氷峠の区間に補機をつなぐ前提で作られたもののはず。それがなぜ京都にあるのかはわかりませんが、このボンネット型と高運転台式の485系は、関西から北陸の特急雷鳥として運行されていた形式です。ただ末期にはいろいろな改造が加えられ、フリーザ電車や直流専用の183系となったことは有名な話ですが、実はあのトワイライトエキスプレスに使われていたスシ24はサシ481・489の改造車だったこと。この辺りの食堂車はかなり前に廃止されているように思っていましたが、まさか客車化されていたとは知りませんでした。いずれにせよ昔は特急雷鳥にも食堂車が連結されていた時代には存在感を発揮していたものが、形式を変えて活躍していたことになんか嬉しさを感じてしまいます♪一世を風靡したボンネット型車両も整備の手間から改造され、中途半端な改造で走っていたことを考えると、静態保存とはいえ原型のまま保存されている車両は往時を偲ばせてくれる貴重なものに違いありません。

その後には鉄道の歴史について展示がされていました。ワットの蒸気機関の模型、イギリスのエンジニア〝ジェームズ・ワット〟が18世紀に開発した蒸気機関の模型です。直線運動を回転運動に変換して、それを動力とするシステムは、後に蒸気機関車の原動力となりました。

そして鉄道創成期のユニフォーム等。日本の東西に於ける鉄道の敷設、この辺りは関西人の考えそうなことだと少しニヤけてしまいました(笑)。明治5(1872)年に新橋・横浜間に日本初の鉄道が敷設されます。遅れること2年の明治7(1874)年には大阪・神戸間が開通し、これを〝日本の東西で鉄道が走る〟と記述がされていました。数年後には北海道でも鉄道が敷設されますが、中央では延長がまだなされず、関西では大津まで延伸されています。最初にできたのは東京だけど、その後は関西が先~とも取れる書き方ですが、事実なので仕方がありません(爆)。でもこの当時の駅員さんのユニフォームってすごく威圧的な感じです。当時の駅員氏は氏族がなっていたそうで凄く偉そうにしていたそうですが、なんとなくわかる気がします。

それが鉄道黄金期となると、やはり出でくる特急列車。〝つばめ〟と〝富士〟は不動の立場でしょう!大正~昭和初期、東京から下関を走る特急列車は、下関~朝鮮半島~ベルリン・パリまでを結ぶ〝欧亜連絡輸送〟の一端を担っており、それが後の大東亜縦貫鉄道の構想につながっているのかと思うと、ある意味すごい発想だった・・・とも思います。第二次世界大戦で頓挫したものだと思っていたら、意外にも大日本国際鉄道になくてはならない〝日韓トンネル〟の構想は未だ朽ち果てていないことを知りました。面白いとは思いますが、果たして飛行機で2時間かからないソウルまで何時間かかるのやら・・・。

そしてデッキ付きの電気機関車EF521、新しくはなくともよく似た形式を見たことがあるためそれ程古いとは思っていなかったものの、実は昭和3(1928)年生まれの89歳だと知りました。どうやら私が見たのは戦後生まれのEF15だった様子・・・。さよなら運転を昭和50(1975)年関西で行ったようですがさすがに知りません。別に若者ぶる訳ではありませんが、骨董価値を見出すというより、〝風の谷のナウシカ〟の〝王蟲(オーム)〟に見えて仕方がないのは私だけでしょうか(笑)。

そして40番のプレートが付けられた1800型蒸気機関車。パッと見でmade in Japanとは思えない蒸気機関車は、やはりイギリス製でした。鉄道創成期の明治14(1881)年にイギリスのキッドソン社から輸入されたこの車両は、使い勝手の良さから急勾配登坂用に導入されています。旧線の京都~大津間の逢坂山、敦賀~長浜~大垣に至る旧東海道本線にあった25‰の急勾配に対応すべく投入されました。25‰というと1,000m進むと標高差25mとなる数字。在来線に補機(補助機関車)が連結される山陽本線瀬野八峠が22.6‰、旧信越本線碓氷峠は66.7‰という数字ではあるものの、あくまで補機を連結して上り下りしていたことに対し、単独機で挑んでいた車両でもあります。高性能の割には石炭消費量が少ないということで乗務員には評判は良かったとされているものの常に・・・という訳ではなく、ヤスデの大量発生によって押し潰されたヤスデの油によって車輪が空転したり、煙に乗務員が巻かれて窒息したこともあったようです。そんないわく付きの長浜関ヶ原線は開通から僅か10年で新線に置き換えられることとなり、同区間は廃止となります。また逢坂山トンネルも34年後に新逢坂山・東山トンネルが完成し旧逢坂山トンネルは廃止となりました。それに合わせて1800型蒸気機関車はやはり急勾配がある区間へと転属になり、戦後しばらくしてから廃車されています。

この京都鉄道博物館に展示されている40型蒸気機関車は、昭和5(1930)年に高知鉄道に払い下げられた後、昭和15(1940)年には大津の東洋レーヨンで使われていたものだそうです。昭和39(1964)年に国鉄に寄贈されたものを修復し、鉄道科学博物館を経て京都鉄道博物館にやって来た車両であり、鉄道記念物にも指定されています。意外に身近なところで運用されていたことがわかり、ちょっと親密感を抱きました(笑)。でも廃止された旧逢坂山トンネルの勾配を、あの京阪電気鉄道京津線の800系車両が4両編成で補機も付けずに普通に走っていることが技術革新の賜物だったことにはちょっとビックリです。滑り止め用に線路に撒く〝砂〟が〝滑らない〟との語呂合わせで受験の御守りとされていることは、地元ならば知らない人はいないくらい有名な話です。ただ残念なことに砂の中に発ガン性物質が含まれているとのことで、今年は配布が中止になってしまいました。しかし大正元(1912)年に京津線逢坂山トンネルが出来てから1世紀以上に渡り、滑りを止めるために撒かれた砂は、現在石坂線を走る600・700系という通称マッチ箱電車が走行するためにも使われていたものゆえ、強ちただのラッピングトレインだけでもないのだよ!と改めて敬意を表する次第です。今年は配布が中止になって残念ですが、来年からは是非とも再開してもらいたいと切に願います。

そして鉄道創成期から黄金期を経て、日本国有鉄道のあり方自体が見直される時代を迎え、結果として国鉄分割民営化となりJR各社が設立されることとなります。昭和62(1987)年3月31日限りで日本国有鉄道は廃止され、翌4月1日からJR各社がオープンします。それに伴い色々な記念列車も運転されましたが、国鉄最終日に全国国鉄路線乗り放題切符が枚数限定で発売されました。指定席を除けば新幹線もOKだったこの切符は確か10,000円だったと記憶していますが、京都駅に一晩並んで家族4人分を購入しました。銀河81号で東京を経て平泉迄行って帰って来たのは今からするといい思い出です。いい意味でも悪い意味でも心に残る国鉄最後の日は忘れることができません!!

閉館時間が近づいてきたので急ぎ足で回ります。長い目が特徴だった100系。0系の団子っ鼻に対して100系はシャークノーズなんて言っていました。元号が昭和から平成に変わる頃国鉄からJR東海・西日本へと建造が引き継がれ、バブル期ど真ん中の時代にはゴージャスな車両編成が続々と誕生します。二階建て車両や食堂車やビュッフェ車両を繋げて走る姿は正しくバブルトレインそのものでした。ただ国鉄末期の時代に作られているため、技術的に考えられてはおらず、むしろ見た目だけにこだわっているようにも思います。100系の鋼鉄製車両は0系の引き継ぎで、先行して建造された東北・上越新幹線に投入された200系の初期型がアルミ製車体を導入したにもかかわらずでした。また豪華車両の投入は良かったものの、モーターが積まれていない付随車であったことから、制御時の二階席の揺れはかなりの問題となっていたようで、結果として東海道新幹線〝ひかり号〟としての運用が終了した後に、山陽新幹線での運用がされる際には編成の短縮が行われた際に一番に廃車されたようです。次の300系ではじめて〝のぞみ号〟が運行されることとなり、100系の居場所は徐々に減って行くこととなります。そしてついに平成24(2011)年に山陽新幹線こだま号としてのファイナルランを行なって廃車されました。

後期に建造された100系車両は、最高速度270km/hが出せる仕様にはなっていました。しかし先述の様にスピードを上げるに連れて酷くなる揺れをはじめとして起こる乗り心地の悪さから、結局最高速度は230km/hに抑えられることとなり、最高速度を270km/hとする運行計画についていけなくなってしまいました。宝の持ち腐れとなってしまった100系ですが、スピード競争について行けず車両耐用期限前に廃車されてしまいました。そんな秘話もあることから判官贔屓的な考えが出てしまうのか、私個人ではこの100系車両は結構お気に入りです。0系の様に可愛い訳でもなく、かといって300系の様に厳つい訳でもない。なんとなく〝ハンサム顔〟に見えてしまいます。鉄道博物館でもあまり人気ではないようですが、その激動の時代を生きた車両であることは知って貰いたいように思いました。

その隣にはJR西日本管轄では未だに現役のDD51型ディーゼル機関車が置かれていました。特急出雲のヘッドマークを付けていましたが、昭和47(1972)年にデビューしたこのDD51756は旅客列車を牽引したのは熊本・東新潟の各機関区に所属していた頃だけのはずで、厚狭・門司の各機関区時代は貨物列車の牽引だけのはず。ということは特急出雲を牽引することはなかったにもかかわらず、なぜ出雲のヘッドマークなのか?とふと思いました。

ただDD51ではなく特急出雲には深い思い出があり、京都発八王子行きの夜行バスに乗り遅れ、その後に出発する東京方面に向かう交通機関が臨時で運行されていた出雲だったことから利用したことがありました。サンライズ出雲ではなく、従来の山陰本線経由の便は24系寝台車をDD51型機関車が牽引しており、なおかつ山陰本線区間強風のため1時間程遅れての到着でした。おまけに寝台券が京都駅で購入出来ず、車内で車掌さんから購入する始末。そして極めつけは遅れから東京駅迄たどり着かず、品川駅で運転が打ち切られました。私の寝台車乗車経験は2回、そのどちらとも寝台特急出雲でした。でも東京迄乗車券込みで18,000円以上した記憶から8,000円のバス代(当時)と比べると、敢えて利用することはまず考えられない・・・。ちょっと苦い思い出ですが、その分鮮明に覚えているのはたまたま給料日前の出発で電車賃を払うのが精一杯で、乗り越し精算した際に手持ちが足りず、駅前の銀行にお金を下ろしに走ったからなんですが(汗)。

まぁ思い出話はこれ位にして、その隣にはクモハ101のモックアップが置かれています。国鉄時代の昭和32(1957)年にデビューした近郊型通勤電車は、その後に開発される車両の大元となる車両でした。全車両動力車とする考えは、加速を良くすることによりラッシュ時の運転間隔を短縮し、輸送力を増強することを念頭に置いていたことに起因しています。当時の中央線快速では旧型車両を用い、10両編成で2分間隔の運行でも限界に達しており、その2倍もの加速を要求される車両として開発されたもののようです。しかし電力設備等の問題もあり、次第と付随車が組み込まれるようになると本来の機能を発揮できないこととなり、それらの問題の解決が後継機種の103系に生かされることになりました。主として東京圏での運行に当てられたものが後に大阪に活動を移し、昭和36(1961)年に大阪環状線・桜島線に投入されたのをきっかけにその後昭和48(1973)年に関西本線、昭和51(1976)年には片町線に投入されました。しかし東京圏以上に後継車両への置き換えが進んだため、国鉄分割民営化時に引き継がれた車両は片町線の14両だけであり、うち6両は冷房化改造されていない車両でした。その後桜島線に活動を移すものの平成4(1992)年に廃車されてその歴史が終わります。省エネルギーの考えが無い時代のデビューであったがためにその性能をフル稼働することなく廃車された101系。淡海の国では馴染みのない電車ではあれど、その功績は戦後日本の象徴だったのかも知れません。この101系のモックアップには当時のまま扇風機が付いているだけのものになっています。現在では非冷房車等考えもよらないことなのかも知れませんが、私自身子供の頃に非冷房車に乗ると〝当たった~〟等と言っていた記憶があるので、つい最近のことのように思えます。永久に走ることのない車両ですが、その功績から鉄道記念物に指定されることを願いたいです!

その隣にはEF6610とクハ221のモックアップがありました。1,000tの貨物を100km/hで牽引できる高速貨物用電気機関車として、昭和43(1968)年から一次量産車が作られました。その中の一車両がこのEF6610でした。今でも斬新なデザインを持つEF66は、そのパワーから貨物列車の牽引をするために生まれてきたようなものなので、当初は客車を牽引することはまったく考えられてはいなかったものの、昭和59(1984)年に貨物輸送の形態が変わることによって、機関車の余剰が発生し、ちょうど客車寝台に於ける編成の変更により、翌昭和60(1985)年からブルートレインを牽引する任に就きました。しかし国鉄分割民営化の後、平成に入ると寝台車の需要も減り、最後まで残ったはやぶさ・富士も平成21(2009)年3月で廃止され、同時にEF66も定期運用から外れることとなり、翌年には廃車されることになりました。ただ形式廃止には至ってはいないものの、関西近郊では見ることはなくなりました。

京都鉄道博物館に保存されているEF6610とEF6635とも客車を牽引したことはないようで、JR貨物で活躍した機関車です。ブルートレイン全盛期にはEF65の500番代が牽引し、のちに1000番代にとって代わられますが、あまり特徴のない機関車ではありました。それが端正ない顔立ちのEF66に代わったことは、当時かなりの反響があったように記憶しています。時代の流れとともにモックアップと静態保存されることにはなりましたが、やはり高速貨物輸送を可能にしたパイオニアとして、やはり鉄道記念物に指定してもらいたいと改めて思いました。

そして221系先頭車のモックアップですが、これはJR沿線に住む関西の人間ならば知らない人はいないくらいメジャーな現役車両です。デビューは平成元(1989)年で既に四半世紀過ぎていますがまだまだ現役です。国鉄分割民営化後JR西日本が謳う〝アーバンネットワーク〟の一端として、117系で運行していた新快速を置き換えることによりスピードアップを図るという狙いがありました。最高速度120km/hで3ドア転換クロスシートの車両は、通勤優等列車的な意味合いではなかったかと思います。しかし平成12(2000)年には新快速の最高速度が130km/hに引き上げられることとなり、後継車両の223系にその立場を譲り、自身は東海道・山陽・山陰・関西・奈良線などの快速・普通列車としての役割を担うことになります。そして223系の後継車両225系の導入と合わせて車内シートの改造・変更がなされます。扉付近の補助シートが設けられることとなり、バリアフリー対応として車椅子スペースが作られる等、中身が全く変わってしまうような改造も行われました。その結果意識しないで乗車すると〝この車両ってなんだっけ?〟となることも多くなりました。

古き車両を改造し新車両のようにする手段は、JR東日本のように車両総入れ替えがなかなかできないJR西日本の台所事情もあるのですが、同時期に投入された車両がステンレス製にもかかわらずなぜに鋼鉄製?と思う点も確かにありました。ただ鋼鉄車両だから重いと決めつけることはできず、そんなに変わらない重さに仕上げて、車両単価を安くするってのはさすが関西なんて思うところでもあります。ただこの221系が新快速として走っていたことを私は知りません。ちょうどその頃は201系の〝中央特快〟のぶっ飛び走行に怯えていた時代と被ります。夢破れて関西へと戻って来た時には既に223系=新快速という方程式が出来上がっていました。そんなこともあり、この車両の絶頂期を知らない私ではあるのですが、本線を外れた区間では通勤・レジャー共に流用できる車両ゆえ、今後とも末長い活躍を期待したいものです。なにより私自身も221系が来ると敢えて乗ってしまうひねくれ者なので(笑)。

そして隣にはEF6635とディーゼル機関車91264の先頭部が展示されていました。このEF6635は車両下を見学できるものとなっており、その片方の車両前部には特急富士のトレインマークが取り付けられていました。EF66の第二次増備車両として作られたものですが、やはり高速貨物列車牽引のために作られており、通常の運行では旅客列車を牽引することはなかったようです。そして前面モデルの91264、元々DD13型機関車を新幹線の工事や点検車両を牽引するために標準軌に改造した移植の経歴の持ち主です。既に車番は廃止されているものですが、あの夢の超特急の建設に携わった車両であることには違いありません。最高速度70km/hですが工事や点検車両を牽引する際にどれ位のスピードを出していたのかはわかりませんが、その功績の大きさにはただただ頭が下がります。

151系といえば〝こだま型〟と言われるように客車特急であった〝つばめ〟〝はと〟の7時間半の東京大阪間所要時間を40分縮めた国鉄初の電車特急でした。昭和33(1958)年のデビュー当時は、東京大阪間の日帰りを可能にした画期的な特急と言われていたものの、6年後の昭和39(1964)年には夢の超特急〝東海道新幹線〟が開通し、一挙に所要時間が4時間まで短縮され、活動の場を大阪以西に移します。そして山陽新幹線の西進とともにどんどん活動の場を減らしていったという華々しいデビューを飾るも、高速化の波に飲み込まれてしまった悲しい経歴の持ち主です。ただ151系の魂は上越線の161系とき、信越線の181系あさまなどに引き継がれました。敢えてメンテナンスの難しいボンネット型を採用した理由が居住スペースから動力を遠ざけて、振動や騒音の伝わり対策だったことに時代を感じます。直流車両であるがため、交流区間である九州では機能を発揮できずに電気機関車の牽引や電源車の編成組み込み等残念な姿を曝け出してしまったこともあります。実用的な運用という観点ではやはり残念としか言いようがありませんが、デビュー時期を考えると致し方なかったのかなとも思えます。でもクロ151というグリーン席先頭車が人気だったということは、そこそこの時間乗っているからではないかという理由もあるように思います。今のN700系先頭車をグリーン席化して2時間10分では楽しみにはならないと思うのは私だけでしょうか?ちなみに私自身151系の現役時代は知りませんので悪しからず。

そして〝ブルドッグ〟と言われたキハ813。国鉄の考えでは〝特急〟の運行は幹線のみという考えがあり、意外にも151系よりも後の昭和35(1960)年に投入されました。〝はつかり型〟と呼ぶのが一般のようですが、関西では〝くろしお型〟と呼ばれる方が多いようです。ボンネット型の導入は151系と同じですが、意外にも動力エンジンではなく〝発電用エンジン〟が搭載されていました。国鉄初のディーゼル特急車両でしたが、導入当初はトラブルも多く不評だったようです。上野青森間のはつかり、大阪青森間の白鳥等 電車を超える長距離を走っていた実績にもかかわらず、残念な評価をされることが多いキハ81系。ある意味大役を終えて静態保存されついる姿が似合っているようにも思えます。ちなみに私が南紀一周をした時の特急くろしおは381系で運行されていましたよ(笑)。


そして因縁のトワイライトエキスプレス。26年にも渡って運行されていたにもかかわらず、結局乗ることができませんでした。オリエントエキスプレスをモチーフに日本流にアレンジしたとかしないとかという噂がありますが定かではありません。JRになってから臨時列車ではあれど日本最長距離を走る豪華列車でしたが、意外にも新しく作られた車両ではない編成でした。24系25型客車は往年の特急富士に使われていた編成でもあるのですが、A寝台個室として使われていたものは元々B寝台車両として使われていたオハネフ・オハネを改造し、車両重量が増えたためにスロネ・スロネフになったもの。B寝台個室やB寝台車両として利用されていたものは、内装を改造したものが用いられており、食堂車に至っては旧485・489系の食堂車を改造したものが使われていました。比較的新しいものを改造したと言っても車歴40年程の老朽化したものが生まれ変わり使用されていました。そこはサービスで補っていたようですが、さすがに27年も運行していると・・・。ちょうど北陸新幹線の開通によって、運行経路が3セク化されることをいい機会に廃止になったように思えます。もちろん旧車を生かすつくりは良いようには思うものの、オリエントエキスプレスという例えが悪かったのではとも思います。時間はかかるし予約も取れない、おまけに高いとくればやはり末端まで浸透するかと言われれば首を傾げるしかありません。元々日本の文化として〝安かろう悪かろう〟という感覚が限定されたものではあったものの、経営が成り立たないと言われていたLCCが繁盛し、移動の過程にお金をかけなくても良くなった背景もあります。所詮乗れなかった者の僻みでしかありませんが、まあ北海道まで一日がかりで行けるような長期の休みが取れないという現実論もありました。でもこれまた旧車のEF81やED75(後にED79)、DD51と言った機関車を専用色に塗り替えて使っていたことは、ある意味見ているとすごく面白く思うこともありました。トワイライトエキスプレスは引退し、瑞風なんてできましたが多分乗りたいと思う頃は廃止される頃じゃないかなとも思います(笑)。

閉館時刻が近づいてきたので必然的に駆け足になってきます。EF651、EF65のトップナンバーですが、見た通りの地味系の電気機関車です。トップナンバーの響きとは裏腹に貨物牽引機として日本全国を股にかけ、昭和40(1965)年のデビューから昭和62(1987)年まで活躍した後、分割民営化後は国鉄清算事業団の所有となり、長きにわたり宮原機関区で保存された後に京都へとやってきました。元々平坦路線用の牽引機関車として作られており、改造によって500番台や1000番台車両がブルートレインを牽引する等華々しい活躍をしていたのとは大きく異なります。結局EF65は寝台特急の車両編成の変化で速度が出せない等という理由から、余剰となっていたEF66にその役目を譲り、表舞台から下りることとなりました。トップナンバーということもあり、訓練用車両としても使われていたようですが解体を免れ、静態保存ではあれど永住場所を見つけた恵まれた機関車なのかも知れません。長い待機期間ご苦労さまとふと声を掛けたくなりました。

そしてEF58150。流線形の形をしたユニークな電気機関車のデビューは、敗戦翌年の昭和21(1946)年のことでした。しかし戦中規格の粗悪車両は一度発注が止められた後、その改造を含めて昭和33(1958)年まで作られました。貨物から客車まで牽引するオールラウンダーとして活躍し、中でもお召し列車牽引機関車となったEF5860・61というものもありました。平坦路線に於いては後継機のEF65と互角に渡り合える性能を持ち、長きにわたり活躍していました。ほとんどの車両は分割民営化前に廃車となっていますが、このEF58150は一旦廃車となった後に車籍復活し、四国に入った唯一のEF58にもなりました。しかし21世紀になると本線での運用は減り、平成21(2009)年に走った後はついに平成23(2011)年に車籍抹消となります。そして平成27(2015)年に住み慣れた宮原からEF651とともに京都鉄道博物館に移送された後トワイライトプラザにて展示されて現在に至ります。

私自身記憶に残っているのが臨時急行銀河81号品川行きの牽引をしていたのがEF58でした。当時寝台特急にはEF65500番台が牽引にあたっており、定期列車の銀河を含め急行にはEF58が投入されていたようです。14系客車の座席車で京都から品川まで移動したEF58に凄い!と思った記憶があります。そういった点では一番身近に思えるEF58、いつまでもその雄姿を見せて貰いたいものです。そんな思いを込めて〝お疲れさま〟と声を掛けて、先を急ぐことにします。

国鉄230型蒸気機関車は明治36(1903)年に逓信省鉄道作業局が製造したものです。本格的に量産が行われた初の国産蒸気機関車ではあるものの、用いられた技術全てが国産という訳ではなく、英国製機関車A8モデルを基本としています。この車両230型は日本全国に加え、戦前に統治していた樺太や台湾にまで活躍の場を広げていました。233型蒸気に限ると米子・舞鶴を拠点とした後、浜松・稲沢を経て昭和35(1960)年頃に廃車されました。約60年に渡る車歴の中で動乱期の日本を見てきた貴重な機関車でもあります。廃車後は大阪の交通科学博物館を経て京都鉄道博物館へとやってきました。鉄道記念物・機械遺産・重要文化財に指定されており、その長きに渡る活動は勲章として233型蒸気機関車の功績を称えています。大阪では屋外保存であったため〝The廃車〟としてしか見えませんでしたが、京都に来てからは屋内保存に改められ、完成当初の輝きを来館者に伝えています。

蛍の光が流れる中、順路に沿って歩いて行きます。トワイライトプラザから扇形車庫を通り、保存中のSL群を横目に見ながら進みます。この辺りは梅小路蒸気機関車館時代と変わっているところもあるようですが、時間の関係で次回に回します。そして館内出口も兼ねている旧二条駅舎。二代目駅舎として明治37(1904)年に完成しました。長いこと単線・非電化区間の駅でしたが、平成2(1991)年に京都~園部間が電化された後、平成8(1996)年に高架駅となり新駅舎が完成するまで使用されていました。二条城最寄りということもあり、入母屋造りの駅舎はその立ち位置にマッチするように建築されたものと言われています。貴賓室等も設けられていた旧二条駅舎は、京都の近代化を象徴する建物でもあることから平成8(1996)年に京都市指定有形文化財に指定され、その後幅を縮小して梅小路蒸気機関車館に移築され、京都鉄道博物館がオープンするにあたりミュージアムショップに改装されて現在に至っています。京都市内中心に位置しながらつい最近までディーゼル機関車牽引の旧型客車が走っていた区間ゆえ、遠方への旅行にならずとも〝遠くに来たな~〟と思ったことが記憶に残っています。ミュージアムショップは売り上げ大事の考えなのか、展示室のような追い出しは行われておらず、旧二条駅舎の持つ歴史ではなくグッズ販売所として利用されていることは残念でした。

ミュージアムショップを出ると関西鉄道の社章が置かれていました。現在の近畿地方主要部の鉄路の元を作った会社は後に国有化され、現在のJRの主要路線となっています。関西本線・草津線・片町線・紀勢本線・桜井線・和歌山線・奈良線・大阪環状線の前身となった関西鉄道の功績は、鉄道博物館としては欠くことのできないものかも知れません。しかし旧二条駅舎前に置いても直接関係はないのでは・・・と思ったのは私だけでしょうか?その隣にはC57の動輪が置かれていましたが、既に夜の帳が下りて来ていたため内容が確認できず写真だけになりました。

京都鉄道博物館を後にして梅小路公園を西方向へと歩いて行きます。後行く場所といえば皆さん京都水族館なのでしょうが、時間も時間なので市電ひろばを散策します。梅小路公園のちょうど中心部に位置する市電ひろばには4両の市電が静態保存されています。505番・703番・890番・1605番になりますが、うち505番は市電カフェ、703番は市電ショップとして営業していました。残る890番・1605番は休憩所となっており、往時の姿をうかがい知ることができます。

大正から昭和初期にデビューした505番は、東京遷都による京都の落ち込みを解消し、戦後まで活躍した大型車両です。それに対して703番は昭和33(1958)年から4年間に渡って作られた新しい車両ではあれど、軽量車両で間接制御車だったがゆえにワンマン化することができずに廃車された悲劇の経歴を持っています。890番は昭和30(1955)年デビューの比較的新しい車両のラストナンバーです。ワイドボディ化された車両は、後にワンマン化された1800系と大きく歴史が変わることになりました。890番はワンマン化されずそのまま運行していたため持て余し気味となった結果京都市電全廃までに廃車されています。そして1605番は戦中にデビューした600系607番の改造車でワンマン化されたものです。ただ改造車両ということから車両本体の劣化は否めないものだったようで、こちらも京都市電全廃を前年に控え全車廃車になっています。そして梅小路公園東口に観光案内所として利用されている935番は昭和30年代のデビューした比較的新しい車両ですが、京都市電の中で〝最も美しい車両〟と言われていました。しかし大型ながらワンマン改造されなかったことに起因し、烏丸線のツーマン廃止とともに廃車されました。

屋根のある馬主に置かれている4両と、観光案内所として使われている2両と比較すると、やはり外観の痛みを感じます。せっかく梅小路公園にて京都の繁栄の後押しをしてきた市電に触れられるようにするのであれば、やはりメンテナンスもしっかりやって貰いたいと思います。子供心に走っていた〝チンチン電車〟の勇姿はいつまでも見続けたいと感じます。

通り道に京都水族館はありますが、既に蛍の光が流れている時間ゆえ次回に回し、梅小路公園を出ることにします。ひたすら東進し、ビックカメラに立ち寄ってお目当てのフィルムを購入します。ビックカメラは便利になっており、店内から京都駅に入ることができるようになっています。そして2番線から快速米原行きに乗車し南淡海の国へと到着します。この辺りは通勤路なので〝何も変わらないはず〟ですが・・・まさかの展開をしてしまいました。田舎の赤バスの行き先を間違えてしまい、途中までしか行かないバスに乗ってしまいました・・・。バスの時間が早いな~と思ったら確認すれば良いのに自分を信じてしまいました。車内アナウンスで知ったものの、間違えましたと言いたくもないので途中下車します。余計な徒歩が増えましたが、そこは地元ならではのコース取りをしたので、正しいバスの到着よりは早く到着できました。

思い立ったら百年目、でもしっかりオチをつくってしまった今回の歩き旅でした♪

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 松尾芭蕉さん、ちょっと行ってきます♪

    松尾芭蕉さん、ちょっと行ってきます♪

    京阪石山駅

  • 珍しく快速を利用します。

    珍しく快速を利用します。

    石山駅

  • やって来たのは西大路駅です。

    やって来たのは西大路駅です。

    西大路駅

  • 西大路駅舎。

    西大路駅舎。

    西大路駅

  • まずは王将西八条店で腹ごしらえ♪

    まずは王将西八条店で腹ごしらえ♪

  • 次いでコメダ珈琲西大路八条店でひと休みして・・・。

    次いでコメダ珈琲西大路八条店でひと休みして・・・。

  • 梅小路公園に到着します。静態保存されている京都市電2001番車両。

    梅小路公園に到着します。静態保存されている京都市電2001番車両。

  • 2000系車両とたかティムさん、その①。

    2000系車両とたかティムさん、その①。

  • 16:00迄は観光案内所に使われています。

    16:00迄は観光案内所に使われています。

  • 2000系車両とたかティムさん、その②。

    2000系車両とたかティムさん、その②。

  • さすが鉄道の聖地と呼ばれる場所です。

    さすが鉄道の聖地と呼ばれる場所です。

  • その中に古都を思わせるものもありました。

    その中に古都を思わせるものもありました。

  • 嵯峨野線の高架を潜って着いた場所は・・・。

    嵯峨野線の高架を潜って着いた場所は・・・。

  • 京都鉄道博物館です。

    京都鉄道博物館です。

    京都鉄道博物館 美術館・博物館

  • 京都鉄道博物館、入館券。JRカードの提示で1割引になりました。

    京都鉄道博物館、入館券。JRカードの提示で1割引になりました。

    京都鉄道博物館 美術館・博物館

  • 京都鉄道博物館パンフレット、表面。

    京都鉄道博物館パンフレット、表面。

    京都鉄道博物館 美術館・博物館

  • 京都鉄道博物館パンフレット、裏面。

    京都鉄道博物館パンフレット、裏面。

    京都鉄道博物館 美術館・博物館

  • 京都鉄道博物館パンフレット、フロア別おススメ見学コース。

    京都鉄道博物館パンフレット、フロア別おススメ見学コース。

    京都鉄道博物館 美術館・博物館

  • 京都鉄道博物館パンフレット、敷地内おススメ見学コース。

    京都鉄道博物館パンフレット、敷地内おススメ見学コース。

    京都鉄道博物館 美術館・博物館

  • 川崎車輌製作の唯一の残存車両です。特に際立ったことは車歴にはありませんが、特急牽引をしたこともあるようです。

    川崎車輌製作の唯一の残存車両です。特に際立ったことは車歴にはありませんが、特急牽引をしたこともあるようです。

  • たかティムさん with C6226♪

    たかティムさん with C6226♪

  • 川崎車輌にて昭和23(1948)年に製造されました。

    川崎車輌にて昭和23(1948)年に製造されました。

  • C6226を後方から。

    C6226を後方から。

  • マロネフ59なんて形式すら知りませんが、昭和13(<br />1938)年に皇族用車両として製造されたマイロネフ37292が進駐軍の接収や幾多の変遷を経てマロネフ591となり、昭和36(1961)年に廃車された後交通科学博物館を経て京都鉄道博物館にやってきたものだそうです。

    マロネフ59なんて形式すら知りませんが、昭和13(
    1938)年に皇族用車両として製造されたマイロネフ37292が進駐軍の接収や幾多の変遷を経てマロネフ591となり、昭和36(1961)年に廃車された後交通科学博物館を経て京都鉄道博物館にやってきたものだそうです。

  • マロネフ59往時のコンパートメント、もとい個室・・・。

    マロネフ59往時のコンパートメント、もとい個室・・・。

  • スシ28301としての営業運転はしていませんが、昭和8(1933)年にスロシ38000型としてデビューしました。昭和28(1953)年スハシ38102となり、昭和36(1961)年の廃車まで急行日本海の食堂車として活躍しました。<br /><br />廃車後に改造されて当該車両スシ28301型となり、大阪弁天町にあった交通科学博物館で〝食堂〟として利用されていました。ちなみにナシ20形より更に知らないスシ28形(スハシ38)です・・・。

    スシ28301としての営業運転はしていませんが、昭和8(1933)年にスロシ38000型としてデビューしました。昭和28(1953)年スハシ38102となり、昭和36(1961)年の廃車まで急行日本海の食堂車として活躍しました。

    廃車後に改造されて当該車両スシ28301型となり、大阪弁天町にあった交通科学博物館で〝食堂〟として利用されていました。ちなみにナシ20形より更に知らないスシ28形(スハシ38)です・・・。

  • 戦前に作られた食堂車スシ28(スハシ38)。廃車後に前展示施設の交通科学博物館で〝食堂〟として使われるために食堂車に改造されました。元々のスハシ38102は食堂車と二等車の合造車でした。できればその姿を伝えて欲しかった・・・。

    戦前に作られた食堂車スシ28(スハシ38)。廃車後に前展示施設の交通科学博物館で〝食堂〟として使われるために食堂車に改造されました。元々のスハシ38102は食堂車と二等車の合造車でした。できればその姿を伝えて欲しかった・・・。

  • お弁当も扱っているようですね♪

    お弁当も扱っているようですね♪

  • 当時の流行りだった面(つら)は時代を感じます。

    当時の流行りだった面(つら)は時代を感じます。

  • 大都市近郊型電車80系とたかティムさん♪<br /><br />木製のボックスシートの車両は勿論乗ったことはありません・・・。

    大都市近郊型電車80系とたかティムさん♪

    木製のボックスシートの車両は勿論乗ったことはありません・・・。

  • クハ86。80系車両の運転台付きの車両はモハ80と同じ昭和25(1950)年デビュー。普通から特急の代走までこなしたマルチトレインでもあります。<br />関西では大阪~名古屋間を運行していた急行比叡に投入されたこともあるそうですが、私は165系で走っているものしか知りません。

    クハ86。80系車両の運転台付きの車両はモハ80と同じ昭和25(1950)年デビュー。普通から特急の代走までこなしたマルチトレインでもあります。
    関西では大阪~名古屋間を運行していた急行比叡に投入されたこともあるそうですが、私は165系で走っているものしか知りません。

  • 80系車両。昭和25(1950)年デビューの中・長距離向け電車の総称です。廃車後長い間山陽本線柳井駅に放置されていましたが、その後交通科学博物館を経て京都鉄道博物館にやってきました。戦前のように車内設備は木製で照明も白熱灯を採用しており客車同様のクロスシートを採用し、車両両端のみ通勤利用も考慮してロングシートとされました。<br /><br />勿論現役の頃は知りません(汗)。ちなみにモハ80001は準鉄道文化財にされています。

    80系車両。昭和25(1950)年デビューの中・長距離向け電車の総称です。廃車後長い間山陽本線柳井駅に放置されていましたが、その後交通科学博物館を経て京都鉄道博物館にやってきました。戦前のように車内設備は木製で照明も白熱灯を採用しており客車同様のクロスシートを採用し、車両両端のみ通勤利用も考慮してロングシートとされました。

    勿論現役の頃は知りません(汗)。ちなみにモハ80001は準鉄道文化財にされています。

  • 木製の車内設備。灰皿があることに時代を感じます。

    木製の車内設備。灰皿があることに時代を感じます。

  • 京都鉄道博物館名物0系と一緒に撮影コーナー♪

    京都鉄道博物館名物0系と一緒に撮影コーナー♪

  • ちょっと照れ気味たかティムさんwith 0系♪

    ちょっと照れ気味たかティムさんwith 0系♪

  • 0系の普通席。

    0系の普通席。

  • 0系グリーン車。鉄道記念物に指定されています。<br /><br />ちなみにこれには乗ったことがありません・・・。

    0系グリーン車。鉄道記念物に指定されています。

    ちなみにこれには乗ったことがありません・・・。

  • 2×2配列のグリーン車。

    2×2配列のグリーン車。

  • 鉄道記念物0系35型1号車ビュッフェ。これは利用したことがあります♪<br /><br />でも椅子ってこんなにちゃっちいものだっけ?

    鉄道記念物0系35型1号車ビュッフェ。これは利用したことがあります♪

    でも椅子ってこんなにちゃっちいものだっけ?

  • シールドビームの団子っ鼻は、鉄道記念物0系22型1号車の先頭車両です♪

    シールドビームの団子っ鼻は、鉄道記念物0系22型1号車の先頭車両です♪

  • 新幹線の運転士さんには憧れましたね♪

    新幹線の運転士さんには憧れましたね♪

  • アナログ計器ばっかり♪

    アナログ計器ばっかり♪

  • これも・・・。

    これも・・・。

  • だから自分が運転してみたいんでしょうね♪

    だから自分が運転してみたいんでしょうね♪

  • 戦後19年で世界の頂点に立った新幹線♪

    戦後19年で世界の頂点に立った新幹線♪

  • そら~モデルは飛行機しかないでしょう!

    そら~モデルは飛行機しかないでしょう!

  • 200km/hがすごいのは言うまでもありません。6時間半かかっていた在来線特急こだまの所要時間を一挙に4時間にまで短縮させた訳ですから。<br /><br />ちなみに私はこの違いを経験していないので悪しからず(笑)。

    200km/hがすごいのは言うまでもありません。6時間半かかっていた在来線特急こだまの所要時間を一挙に4時間にまで短縮させた訳ですから。

    ちなみに私はこの違いを経験していないので悪しからず(笑)。

  • 結構ビビってしまう小さな台車。

    結構ビビってしまう小さな台車。

  • モーターも小さい・・・。

    モーターも小さい・・・。

  • 空気抵抗を抑えた小さなパンタグラフは有名でした♪

    空気抵抗を抑えた小さなパンタグラフは有名でした♪

  • ある意味懐かしいアナログの速度計♪

    ある意味懐かしいアナログの速度計♪

  • 転換型クロスシート。なんか無性に懐かしい・・・♪

    転換型クロスシート。なんか無性に懐かしい・・・♪

  • 良い面しているけど、故障の多かったDD54。

    良い面しているけど、故障の多かったDD54。

  • ツインオレンジ with たかティムさん♪

    ツインオレンジ with たかティムさん♪

  • 大阪環状線は良いけど、これが快速になる中央線は怖かった・・・。<br /><br />でもついに運行を終えちゃいましたね103系近郊型電車も・・・。

    大阪環状線は良いけど、これが快速になる中央線は怖かった・・・。

    でもついに運行を終えちゃいましたね103系近郊型電車も・・・。

  • 改良型ですね~♪

    改良型ですね~♪

  • ナシ20。20系の食堂車ですね~♪<br /><br />ちなみにナシ20形24号車は今でも食堂車(レストラン)として活躍中です♪

    ナシ20。20系の食堂車ですね~♪

    ちなみにナシ20形24号車は今でも食堂車(レストラン)として活躍中です♪

  • しか~し残念ながら現役時代の20系食堂車は知りません・・・。

    しか~し残念ながら現役時代の20系食堂車は知りません・・・。

  • ナシ20の入口がレストランの入口となっていました。しか~し勿論この時間では閉店しています・・・。<br /><br />仕方がないので入口にてナシ20とたかティムさん♪

    ナシ20の入口がレストランの入口となっていました。しか~し勿論この時間では閉店しています・・・。

    仕方がないので入口にてナシ20とたかティムさん♪

  • 京都鉄道博物館のフロア案内。

    京都鉄道博物館のフロア案内。

  • 同じく京都鉄道博物館のフロア案内(1・2・3階)。

    同じく京都鉄道博物館のフロア案内(1・2・3階)。

  • 国鉄230型機関車。明治37(1904)年製造の日本初の量産型蒸気機関車。233車両は戦争を生き延びた貴重な蒸気機関車で、鉄道記念物と国の重要文化財(美術)に指定されています。

    国鉄230型機関車。明治37(1904)年製造の日本初の量産型蒸気機関車。233車両は戦争を生き延びた貴重な蒸気機関車で、鉄道記念物と国の重要文化財(美術)に指定されています。

  • そんな233型蒸気機関車とたかティムさん♪

    そんな233型蒸気機関車とたかティムさん♪

  • 懐かしのトレインマーク♪

    懐かしのトレインマーク♪

  • トレインマークとたかティムさん♪

    トレインマークとたかティムさん♪

  • 500系車両。先頭方向が狭くなっており、なんじゃこりゃ?と感じた記憶が残っています。

    500系車両。先頭方向が狭くなっており、なんじゃこりゃ?と感じた記憶が残っています。

  • 500系と583系with たかティムさん♪

    500系と583系with たかティムさん♪

  • 485系雷鳥と583系月光のコラボレーション♪<br /><br />583系は私自身電車寝台自体乗ったことがないもののモハネに乗るとパンタグラフの下だけ二段寝台になっていることは聞いたことがあります。特急なは等に投入されていましたが、今年平成29(2017)年4月8日にJR秋田支社に所属していた最後の1編成が引退したそうです。<br /><br />そして485系はサンダーバードが主流になっても合間を縫ってスーパー雷鳥として走っていた記憶があります。

    485系雷鳥と583系月光のコラボレーション♪

    583系は私自身電車寝台自体乗ったことがないもののモハネに乗るとパンタグラフの下だけ二段寝台になっていることは聞いたことがあります。特急なは等に投入されていましたが、今年平成29(2017)年4月8日にJR秋田支社に所属していた最後の1編成が引退したそうです。

    そして485系はサンダーバードが主流になっても合間を縫ってスーパー雷鳥として走っていた記憶があります。

  • 485系雷鳥と583系月光のコラボレーション with たかティムさん♪

    485系雷鳥と583系月光のコラボレーション with たかティムさん♪

  • 485系とEF58156の現役時代。昭和55(1980)年頃のもの米原駅にて。

    485系とEF58156の現役時代。昭和55(1980)年頃のもの米原駅にて。

    京都鉄道博物館 美術館・博物館

  • EF521。昭和3(1928)年デビューし東海道線で活躍した後戦後阪和線に移り貨客車を牽引する。昭和48(1973)年に廃車されました。その後5年間奈良運転所に留置された後整備され大阪鉄道科学博物館を経て京都鉄道博物館で静態保存されて今日に至ります。鉄道記念物に指定されてもいます。<br /><br />EF52は日本で作られた最初の大型電気機関車でもあります。もっとも大き過ぎたことも指摘されていますが・・・。

    EF521。昭和3(1928)年デビューし東海道線で活躍した後戦後阪和線に移り貨客車を牽引する。昭和48(1973)年に廃車されました。その後5年間奈良運転所に留置された後整備され大阪鉄道科学博物館を経て京都鉄道博物館で静態保存されて今日に至ります。鉄道記念物に指定されてもいます。

    EF52は日本で作られた最初の大型電気機関車でもあります。もっとも大き過ぎたことも指摘されていますが・・・。

  • 大きすぎた電気機関車EF521とたかティムさん♪

    大きすぎた電気機関車EF521とたかティムさん♪

  • ワットの蒸気機関の模型です。直線運動を回転運動に変換して、それを動力とするシステムは、後に蒸気機関車の原動力となりました。<br />

    ワットの蒸気機関の模型です。直線運動を回転運動に変換して、それを動力とするシステムは、後に蒸気機関車の原動力となりました。

  • 1800型機関車は、旧番の40とプレートが変わっていました。<br /><br />同型機関車が北海道鉄道にも投入されています。日本で3番目に完成した北海道鉄道。これは開拓使長官であった黒田清隆の功績とされていますが、実は部下として同行し鉱山の発掘に尽力した榎本武揚であることに疑う余地はありません。

    1800型機関車は、旧番の40とプレートが変わっていました。

    同型機関車が北海道鉄道にも投入されています。日本で3番目に完成した北海道鉄道。これは開拓使長官であった黒田清隆の功績とされていますが、実は部下として同行し鉱山の発掘に尽力した榎本武揚であることに疑う余地はありません。

  • 1800型機関車とたかティムさん♪

    1800型機関車とたかティムさん♪

  • 駅員のユニフォーム。

    駅員のユニフォーム。

  • 車長(車掌)の制服。士族出身だった当時の鉄道係員は偉そうな態度だったと言われています。

    車長(車掌)の制服。士族出身だった当時の鉄道係員は偉そうな態度だったと言われています。

  • ひらがなの特急つばめは昭和25(1950)年デビューし、東京~大阪間を走りました。<br />そして富士は昭和4(1929)年に東京~下関間を走る特急の名称として公募により決まりました。<br /><br />下関から日本領朝鮮の釜山へ鉄道連絡船の関釜航路が運航されており、そこから先は朝鮮総督府鉄道と連絡した後中華民国内とシベリア鉄道を経由しパリからロンドンに至るまでの国際連絡運輸が行われていた時代、その一翼を担う特急富士には政府のテコ入れは半端ではなかったようです。<br /><br />そんな時代背景とつばめ・富士のテールマークとたかティムさん♪

    ひらがなの特急つばめは昭和25(1950)年デビューし、東京~大阪間を走りました。
    そして富士は昭和4(1929)年に東京~下関間を走る特急の名称として公募により決まりました。

    下関から日本領朝鮮の釜山へ鉄道連絡船の関釜航路が運航されており、そこから先は朝鮮総督府鉄道と連絡した後中華民国内とシベリア鉄道を経由しパリからロンドンに至るまでの国際連絡運輸が行われていた時代、その一翼を担う特急富士には政府のテコ入れは半端ではなかったようです。

    そんな時代背景とつばめ・富士のテールマークとたかティムさん♪

  • 戦時輸送体制による様々な統制と戦時中に廃止・休止された不要不急線について。<br /><br />旅客列車が廃止され、軍事物資輸送の貨物列車に置き換えられました・・・。そして戦争勃発により兵器を作るために金属の提供を余儀なくされたローカル線がありました。実は我が町には大変身近なことではあるのですが、今では知らない方も多いようです。京阪電鉄石山坂本線滋賀里~坂本間は昭和20(1945)年に線路を拠出し単線になりました。現在のように再複線化されたのは平成9(1997)年のことであり、実に52年もの歳月が流れてからのことでした。身近なところに戦争の爪痕が残っていたことを忘れてはなりません。

    戦時輸送体制による様々な統制と戦時中に廃止・休止された不要不急線について。

    旅客列車が廃止され、軍事物資輸送の貨物列車に置き換えられました・・・。そして戦争勃発により兵器を作るために金属の提供を余儀なくされたローカル線がありました。実は我が町には大変身近なことではあるのですが、今では知らない方も多いようです。京阪電鉄石山坂本線滋賀里~坂本間は昭和20(1945)年に線路を拠出し単線になりました。現在のように再複線化されたのは平成9(1997)年のことであり、実に52年もの歳月が流れてからのことでした。身近なところに戦争の爪痕が残っていたことを忘れてはなりません。

  • テールマークで見る戦後の復興。<br />占領軍司令官専用列車、中でも日本占領の実行部隊であった米国第8軍司令官専用列車にはOctagonian(オクタゴニアン)号という名称が付けられていました。そして昭和24(1949)年に復活した特急平和のテールマーク。どちらも敗戦から高度成長期に至る日本に欠かすことのできない列車には違いありません。

    テールマークで見る戦後の復興。
    占領軍司令官専用列車、中でも日本占領の実行部隊であった米国第8軍司令官専用列車にはOctagonian(オクタゴニアン)号という名称が付けられていました。そして昭和24(1949)年に復活した特急平和のテールマーク。どちらも敗戦から高度成長期に至る日本に欠かすことのできない列車には違いありません。

  • 日本国有鉄道(国鉄)の発足と近代化。意外に知られていないようですが国鉄の発足は昭和24(1949)年6月1日のことです。国鉄清算事業団の解散までの49年間、いかにお役所仕事そのままだったことがわかります・・・。<br /><br />特急〝つばめ〟や〝はと〟の運行が戦後日本の象徴とは言えど、権力闘争を繰り返すだけだったようにしか今では思えないのですが・・・。<br /><br />そんなことより自撮りが大事になっている特急〝つばめ〟と〝はと〟のテールマークとたかティムさん♪

    日本国有鉄道(国鉄)の発足と近代化。意外に知られていないようですが国鉄の発足は昭和24(1949)年6月1日のことです。国鉄清算事業団の解散までの49年間、いかにお役所仕事そのままだったことがわかります・・・。

    特急〝つばめ〟や〝はと〟の運行が戦後日本の象徴とは言えど、権力闘争を繰り返すだけだったようにしか今では思えないのですが・・・。

    そんなことより自撮りが大事になっている特急〝つばめ〟と〝はと〟のテールマークとたかティムさん♪

  • 鉄道連絡船と国鉄バス。鉄道路線でまかなえない陸地部分や海路を連絡船と国鉄バスでまかないました。

    鉄道連絡船と国鉄バス。鉄道路線でまかなえない陸地部分や海路を連絡船と国鉄バスでまかないました。

  • 車両の近代化。昭和32(1957)年に国鉄は輸送力と動力の近代化を柱とする第一次5ヶ年計画を策定し、蒸気機関車に代わる電車・ディーゼル車・電気機関車・ディーゼル機関車の開発を進めました。その結果電車・ディーゼル特急による全国的な特急網を構築することになります。

    車両の近代化。昭和32(1957)年に国鉄は輸送力と動力の近代化を柱とする第一次5ヶ年計画を策定し、蒸気機関車に代わる電車・ディーゼル車・電気機関車・ディーゼル機関車の開発を進めました。その結果電車・ディーゼル特急による全国的な特急網を構築することになります。

  • 夢の超特急の誕生と特急網。<br />東海道新幹線の開業とともに都市と地方を結ぶ在来線特急網が発達していきますが、同時に飛行機や自動車と言った交通機関の多様化によって国鉄は新路線の建設費や人件費によって財政が悪化し社会問題となりました。奇しくも夢の超特急が後の分割民営化につながるとは、当時は誰も考えなかったことでしょう。

    夢の超特急の誕生と特急網。
    東海道新幹線の開業とともに都市と地方を結ぶ在来線特急網が発達していきますが、同時に飛行機や自動車と言った交通機関の多様化によって国鉄は新路線の建設費や人件費によって財政が悪化し社会問題となりました。奇しくも夢の超特急が後の分割民営化につながるとは、当時は誰も考えなかったことでしょう。

  • JRのあゆみ。昭和62(1987)年3月31日を以って日本国有鉄道は分割民営化され、JR各社が誕生しました。この日を淡海~東京~岩手~東京~新潟(上越)~淡海と旅したことは忘れません。

    JRのあゆみ。昭和62(1987)年3月31日を以って日本国有鉄道は分割民営化され、JR各社が誕生しました。この日を淡海~東京~岩手~東京~新潟(上越)~淡海と旅したことは忘れません。

  • 思い出のさようなら国鉄とたかティムさん♪<br />こんな形でこのトレインマークと再会するとは思ってもいませんでした。

    思い出のさようなら国鉄とたかティムさん♪
    こんな形でこのトレインマークと再会するとは思ってもいませんでした。

  • ハンサムな100系。

    ハンサムな100系。

  • なぜか特急出雲のヘッドマークが取り付けられているDD51。出雲の牽引記録はありません・・・。

    なぜか特急出雲のヘッドマークが取り付けられているDD51。出雲の牽引記録はありません・・・。

  • クモハ101の先頭車両のモックアップ。

    クモハ101の先頭車両のモックアップ。

  • EF66とクハ221先頭車両のモックアップ。

    EF66とクハ221先頭車両のモックアップ。

  • EF6635とディーゼル機関車91264の先頭部のモックアップ。EF6635はなぜか特急出雲のヘッドマークがついていました。

    EF6635とディーゼル機関車91264の先頭部のモックアップ。EF6635はなぜか特急出雲のヘッドマークがついていました。

  • 91264は元々DD13を標準軌化し、新幹線の工事や点検車両を牽引しました。<br /><br />〝見掛け倒しでなけりゃいいがな〟(byシャア・アズナブル )もちろん違いますよ~!

    91264は元々DD13を標準軌化し、新幹線の工事や点検車両を牽引しました。

    〝見掛け倒しでなけりゃいいがな〟(byシャア・アズナブル )もちろん違いますよ~!

  • クハ151。新幹線デビュー前の電車特急です。

    クハ151。新幹線デビュー前の電車特急です。

  • キハ81、通称ブルドッグ。上野~青森間を特急はつかりとしてロングラン運行をしていたディーゼル特急です。

    キハ81、通称ブルドッグ。上野~青森間を特急はつかりとしてロングラン運行をしていたディーゼル特急です。

  • トワイライトエキスプレス。結局乗れなかったな~。<br /><br />ちなみにこの車両はカニ2412という電源車兼荷物車。よって人は乗れません。

    トワイライトエキスプレス。結局乗れなかったな~。

    ちなみにこの車両はカニ2412という電源車兼荷物車。よって人は乗れません。

  • スロネフ25501はA個室車両でスイート1室、ロイヤル4室から構成されていました。

    スロネフ25501はA個室車両でスイート1室、ロイヤル4室から構成されていました。

  • トワイライトエキスプレスのロゴとたかティムさん♪

    トワイライトエキスプレスのロゴとたかティムさん♪

  • スシ241の食堂車。昼行の電車特急サシ481とはえらい違いです。

    スシ241の食堂車。昼行の電車特急サシ481とはえらい違いです。

  • スロネフ25501のロイヤル。

    スロネフ25501のロイヤル。

  • トワイライトエキスプレスを牽引したEF81103。

    トワイライトエキスプレスを牽引したEF81103。

  • EF65のトップナンバー。確か記憶にあるのはEF65の500番代や1000番代がブルートレインを牽引していました。なので貨物専用となっていた時代しか知りません。

    EF65のトップナンバー。確か記憶にあるのはEF65の500番代や1000番代がブルートレインを牽引していました。なので貨物専用となっていた時代しか知りません。

  • EF58150。流線型をしたスマートな機関車は〝お召し列車〟専用の機関車にもなっていました。

    EF58150。流線型をしたスマートな機関車は〝お召し列車〟専用の機関車にもなっていました。

  • 京都鉄道博物館撮影コーナーにて、たかティムさんファイナルショット♪

    京都鉄道博物館撮影コーナーにて、たかティムさんファイナルショット♪

  • 関西鉄道の社章。

    関西鉄道の社章。

  • 平成8(1996)年に京都市指定有形文化財に指定された旧二条駅駅舎は、ミュージアムショップが設置された出口となっています。

    平成8(1996)年に京都市指定有形文化財に指定された旧二条駅駅舎は、ミュージアムショップが設置された出口となっています。

  • 刻印によるとC5788の動輪のようです。

    刻印によるとC5788の動輪のようです。

    京都鉄道博物館 美術館・博物館

  • 700系703番市電ショップとたかティムさん♪

    700系703番市電ショップとたかティムさん♪

  • 800系809番は休憩所として利用されています。

    800系809番は休憩所として利用されています。

  • 1600系1605番車両も休憩所として利用されています。

    1600系1605番車両も休憩所として利用されています。

  • 500系505番市電カフェとたかティムさん♪

    500系505番市電カフェとたかティムさん♪

    市電カフェ グルメ・レストラン

  • 市電ひろばの由緒書き。

    市電ひろばの由緒書き。

    梅小路公園 公園・植物園

  • 京都水族館にて、たかティムさん♪

    京都水族館にて、たかティムさん♪

    京都水族館 動物園・水族館

  • 京都水族館にて、顔出し♪

    京都水族館にて、顔出し♪

    京都水族館 動物園・水族館

  • 京都水族館、外観。

    京都水族館、外観。

    京都水族館 動物園・水族館

  • 梅小路公園東入口の京都市電900系935番は昼間は案内所として利用されています。

    梅小路公園東入口の京都市電900系935番は昼間は案内所として利用されています。

  • 梅小路公園入口。

    梅小路公園入口。

  • 京都駅に戻って来ました。

    京都駅に戻って来ました。

  • 土曜日の夜ゆえ人は多めです。

    土曜日の夜ゆえ人は多めです。

  • 快速で田舎駅へと到着します。この微妙な到着時間が災いします(泣)。

    快速で田舎駅へと到着します。この微妙な到着時間が災いします(泣)。

  • 田舎の赤バスの行き先を間違えてしまいました、途中のバス停で下車して歩きます・・・。

    田舎の赤バスの行き先を間違えてしまいました、途中のバス停で下車して歩きます・・・。

  • 小学校の通学路でもあるのですが、夜は真っ暗です。

    小学校の通学路でもあるのですが、夜は真っ暗です。

  • 市営住宅の灯りくらいしかありません。

    市営住宅の灯りくらいしかありません。

  • 怖いように思えるのでしょうが、変な人も怖がって歩かない場所なので、私が一番変な人になるのかも知れませんね(笑)。

    怖いように思えるのでしょうが、変な人も怖がって歩かない場所なので、私が一番変な人になるのかも知れませんね(笑)。

  • いつものバスに乗る時間よりも早く着けました♪

    いつものバスに乗る時間よりも早く着けました♪

    京阪バス (大津エリア) 乗り物

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