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箱根湯本駅から徒歩約15分、金湯山・早雲寺(そううんじ、神奈川県足柄下郡箱根町湯本)は大永元年(1521)北条早雲(伊勢盛時)の息子氏綱(うじつな、1487~1541)が京都大徳寺の代八十三世以天宗清を招いて創建した臨済宗大徳寺派の古刹で小田原北条氏の菩提寺です。<br /><br />ご承知の通り小田原北条氏(後北条氏)は初代早雲(盛時)以降、氏綱・氏康・氏政・氏直と五代約100年にわたって関東支配を行いました。<br /><br />初代早雲は室町幕府政所執事を務めた伊勢氏の一族で、文明年間(1470年代)に駿河今川氏の家督相続争いを収めるため、駿河に下向します。後に伊豆・相模国に侵攻し、韮山城を本拠地として、二カ国を支配します。<br /><br />二代氏綱は大森氏拠点の小田原城を奪取、武蔵国川越城まで侵攻し武蔵南部に至るまで領土拡大、大永3年(1523)頃に姓を「北条」に改めました。<br /><br />三代氏康は武蔵国北部に侵攻を果たし、天文15年(1546)の河越合戦の勝利によって武蔵国の全域を版図に加えています。<br /><br />四代氏政並びに五代氏直の時代では南関東全域をほぼ支配下に治め、更に上野・下野国などの北関東へと進出します。天正14年(1588)以降は豊臣秀吉との対立に備え、領国内の軍備強化を図ります。<br /><br />天正18年(1590)における小田原合戦後は四代氏政の弟である氏規の子、氏盛(うじもり、1577~1608)が五代氏直の跡を継ぎ、1万1千石を以て河内狭山藩(現大阪府狭山市)の祖となり、狭山北条氏は明治維新まで存続します。<br /><br /><br />墓地の高台に設けられた五代当主が眠る廟の横に設置の説明板には下記のごとく記されています。<br /><br /><br /><br />「史跡北条五代の墓<br /><br />天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。六月下旬石垣山一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く廃墟に帰したのである。<br /><br />七月五日北条氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内狭山に約一万石を許され狭山北条氏、鎌倉玉縄城主北条氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて玉縄北条氏、その家系は江戸時代を通じて存続している。<br /><br />早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北条両家の外護は欠かせないものであった。<br /><br />こうして、北条五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北条家五代当主氏治によって、早雲公(伊勢新九郎長氏)の命日に竣工したのである。<br /><br />          北条早雲(1432~1519)<br />俗名、伊勢新九郎長氏、戦国時代初期を代表する武将、京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没、享年88。<br /><br />          北条氏綱(1486~1541)<br />父早雲の意思を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。享年56。<br /><br />          北条氏康(1515~1571)<br />扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。<br />享年57。<br /><br />          北条氏政(1562~1591)<br />夫人は信玄の娘黄梅院、信玄の西上を後援、その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担、やがて秀吉に敗れ切腹、享年53。<br /><br />          北条氏直(1562~1591)<br />夫人は家康の娘督姫、下野宇都宮氏を降し後北条氏最大の領国を形成、上野真田真幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立し破れる。家康の助命で高野山に流さる。享年30」

相模小田原 戦国期下剋上の象徴として関東を制覇し百年続いた伊勢新九郎盛時を祖とする小田原北条氏五代当主を祀る菩提寺『早雲寺』散歩

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2017/07/29 - 2017/07/29

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滝山氏照

滝山氏照さん

箱根湯本駅から徒歩約15分、金湯山・早雲寺(そううんじ、神奈川県足柄下郡箱根町湯本)は大永元年(1521)北条早雲(伊勢盛時)の息子氏綱(うじつな、1487~1541)が京都大徳寺の代八十三世以天宗清を招いて創建した臨済宗大徳寺派の古刹で小田原北条氏の菩提寺です。

ご承知の通り小田原北条氏(後北条氏)は初代早雲(盛時)以降、氏綱・氏康・氏政・氏直と五代約100年にわたって関東支配を行いました。

初代早雲は室町幕府政所執事を務めた伊勢氏の一族で、文明年間(1470年代)に駿河今川氏の家督相続争いを収めるため、駿河に下向します。後に伊豆・相模国に侵攻し、韮山城を本拠地として、二カ国を支配します。

二代氏綱は大森氏拠点の小田原城を奪取、武蔵国川越城まで侵攻し武蔵南部に至るまで領土拡大、大永3年(1523)頃に姓を「北条」に改めました。

三代氏康は武蔵国北部に侵攻を果たし、天文15年(1546)の河越合戦の勝利によって武蔵国の全域を版図に加えています。

四代氏政並びに五代氏直の時代では南関東全域をほぼ支配下に治め、更に上野・下野国などの北関東へと進出します。天正14年(1588)以降は豊臣秀吉との対立に備え、領国内の軍備強化を図ります。

天正18年(1590)における小田原合戦後は四代氏政の弟である氏規の子、氏盛(うじもり、1577~1608)が五代氏直の跡を継ぎ、1万1千石を以て河内狭山藩(現大阪府狭山市)の祖となり、狭山北条氏は明治維新まで存続します。


墓地の高台に設けられた五代当主が眠る廟の横に設置の説明板には下記のごとく記されています。



「史跡北条五代の墓

天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。六月下旬石垣山一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く廃墟に帰したのである。

七月五日北条氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内狭山に約一万石を許され狭山北条氏、鎌倉玉縄城主北条氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて玉縄北条氏、その家系は江戸時代を通じて存続している。

早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北条両家の外護は欠かせないものであった。

こうして、北条五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北条家五代当主氏治によって、早雲公(伊勢新九郎長氏)の命日に竣工したのである。

          北条早雲(1432~1519)
俗名、伊勢新九郎長氏、戦国時代初期を代表する武将、京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没、享年88。

          北条氏綱(1486~1541)
父早雲の意思を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。享年56。

          北条氏康(1515~1571)
扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。
享年57。

          北条氏政(1562~1591)
夫人は信玄の娘黄梅院、信玄の西上を後援、その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担、やがて秀吉に敗れ切腹、享年53。

          北条氏直(1562~1591)
夫人は家康の娘督姫、下野宇都宮氏を降し後北条氏最大の領国を形成、上野真田真幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立し破れる。家康の助命で高野山に流さる。享年30」

交通手段
JRローカル 私鉄
  • 早雲寺・近道<br /><br />箱根湯本駅から早川の橋を渡り町役場建物の小道を抜ける近道があり、途中には早雲寺を示す標柱が立っています。

    早雲寺・近道

    箱根湯本駅から早川の橋を渡り町役場建物の小道を抜ける近道があり、途中には早雲寺を示す標柱が立っています。

  • 早雲寺・案内板

    早雲寺・案内板

  • 早雲寺林<br /><br />やや下り坂を歩くと右手に「早雲寺林」と書かれた標柱が見えてきます。早雲寺の裏手と繋がっていると思われます。

    早雲寺林

    やや下り坂を歩くと右手に「早雲寺林」と書かれた標柱が見えてきます。早雲寺の裏手と繋がっていると思われます。

  • 早雲寺・山門<br /><br />手前には駐車場が確保され、その先に早雲寺山門が控えています。

    早雲寺・山門

    手前には駐車場が確保され、その先に早雲寺山門が控えています。

  • 早雲寺・本堂<br /><br />一時秀吉の本陣が当地に置かれますが石垣山城の完成後には当寺を初め周辺一帯は焼き払われ、荒廃の時期がありましたが寛永4年(1627)に菊径宗存上人により再建、慶安元年(1648)将軍家光より朱印状が与えられ復活しました。

    早雲寺・本堂

    一時秀吉の本陣が当地に置かれますが石垣山城の完成後には当寺を初め周辺一帯は焼き払われ、荒廃の時期がありましたが寛永4年(1627)に菊径宗存上人により再建、慶安元年(1648)将軍家光より朱印状が与えられ復活しました。

  • 三つ鱗(みつうろこ)<br />本堂屋根に付されている三つ鱗は鎌倉幕府の執権北条氏の家紋で、自ら北条氏の後裔を称し北条氏に倣って「三つ鱗」を用いたものと思われます。

    三つ鱗(みつうろこ)
    本堂屋根に付されている三つ鱗は鎌倉幕府の執権北条氏の家紋で、自ら北条氏の後裔を称し北条氏に倣って「三つ鱗」を用いたものと思われます。

  • 北条五代之墓案内板

    北条五代之墓案内板

  • 北条五代之墓階段

    北条五代之墓階段

  • 北条五代之墓(全景)

    イチオシ

    北条五代之墓(全景)

  • 北条氏説明板

    北条氏説明板

  • 北条五代之墓(近景)<br /><br />右寄り初代早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政そして五代氏直の順序で並んでいます。

    北条五代之墓(近景)

    右寄り初代早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政そして五代氏直の順序で並んでいます。

  • 初代北条早雲墓石

    初代北条早雲墓石

  • 二代北条氏綱墓石

    二代北条氏綱墓石

  • 三代北条氏康墓石

    三代北条氏康墓石

  • 四代北条氏政墓石

    四代北条氏政墓石

  • 五代北条氏直墓石

    五代北条氏直墓石

  • 北条五代墓所<br /><br />北条五代墓石群から階段方向を一望します。

    北条五代墓所

    北条五代墓石群から階段方向を一望します。

  • 宗祇法師・稲津祇空の墓案内板

    宗祇法師・稲津祇空の墓案内板

  • 宗祇法師・梅津祇空墓石

    宗祇法師・梅津祇空墓石

  • 宗祇法師墓石

    宗祇法師墓石

  • 稲津祇空墓石

    稲津祇空墓石

  • 宗祇法師・稲津祇空説明板

    宗祇法師・稲津祇空説明板

  • 枯山水庭園入口<br /><br />本堂裏には北条早雲の末子で箱根神社の別当をつとめ、北条一門の長老的存在であった幻庵長綱(げんあんながつな、1493~1589)が作庭したとされる枯山水庭園があります。

    枯山水庭園入口

    本堂裏には北条早雲の末子で箱根神社の別当をつとめ、北条一門の長老的存在であった幻庵長綱(げんあんながつな、1493~1589)が作庭したとされる枯山水庭園があります。

  • 枯山水庭園

    枯山水庭園

  • 枯山水庭園

    枯山水庭園

  • 枯山水庭園説明板

    枯山水庭園説明板

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