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原付バイク放浪記 今回は室戸岬巡りの四泊5日のぶらりぶらり旅。最終日は、芸西村から手結港へ。この港の雰囲気が私にとっては「いとこのまし」<br />そして、これを築造したのが野中兼山。高知を歩くと、至る所で耳にする名前で、いろいろな碑文と出会ってきたが、きちんと向き合ったことはなかった。今回は、これを契機に野中兼山に焦点を合わせて、バイクで土佐山田周辺を「漂泊」してみることにした。

野中兼山の残した足跡を訪ねて

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2017/06/09 - 2017/06/13

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tono202

tono202さん

原付バイク放浪記 今回は室戸岬巡りの四泊5日のぶらりぶらり旅。最終日は、芸西村から手結港へ。この港の雰囲気が私にとっては「いとこのまし」
そして、これを築造したのが野中兼山。高知を歩くと、至る所で耳にする名前で、いろいろな碑文と出会ってきたが、きちんと向き合ったことはなかった。今回は、これを契機に野中兼山に焦点を合わせて、バイクで土佐山田周辺を「漂泊」してみることにした。

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  • 芸西方面から住吉県立公園沿いの県道を高知方面に向かってバイクを走らせる。<br />見えてくるのは現在の手結港(てい)<br />

    芸西方面から住吉県立公園沿いの県道を高知方面に向かってバイクを走らせる。
    見えてくるのは現在の手結港(てい)

  • 手結港の奥にあるのが野中兼山が作った港で現在は「手結内港」と呼ばれているようだ。この港の入口には跳ね橋がある。

    手結港の奥にあるのが野中兼山が作った港で現在は「手結内港」と呼ばれているようだ。この港の入口には跳ね橋がある。

  • 跳ね橋の向こうが手結港。<br />ちなみに跳ね橋が下りるのは1時間に一度。<br />上がっていても、手結内港を囲むように車道が走っているので、通行には問題ない。<br /><br />港の方に行ってみよう。

    跳ね橋の向こうが手結港。
    ちなみに跳ね橋が下りるのは1時間に一度。
    上がっていても、手結内港を囲むように車道が走っているので、通行には問題ない。

    港の方に行ってみよう。

  • 約350年を経た港で石積みが長方形に「室(むろ)」にそのまま残っている。<br /><br />南北約110m、東西約50m、水深は干潮時で約3mという江戸時代初期としては最大級の港である。<br />

    約350年を経た港で石積みが長方形に「室(むろ)」にそのまま残っている。

    南北約110m、東西約50m、水深は干潮時で約3mという江戸時代初期としては最大級の港である。

  • 海岸の岩礁地帯の入江を掘削して造られた日本最初の本格的な掘込港湾といわれる。<br /><br />岩礁地帯における築港とはいえ、一部軟弱な地盤があったようで、木材を敷き詰め、その上に石垣を築き対処している。その際に石材は近隣から船で運搬したようである。<br />

    海岸の岩礁地帯の入江を掘削して造られた日本最初の本格的な掘込港湾といわれる。

    岩礁地帯における築港とはいえ、一部軟弱な地盤があったようで、木材を敷き詰め、その上に石垣を築き対処している。その際に石材は近隣から船で運搬したようである。

  • 建設されてから350年。長い年月と近代化の中で、港としての主要な役割は大正期に建設された外港へと移されたが、今でも漁船が係留され使われ続けている。<br />野中兼山時代のものがそのまま使用されている現役の港である。

    建設されてから350年。長い年月と近代化の中で、港としての主要な役割は大正期に建設された外港へと移されたが、今でも漁船が係留され使われ続けている。
    野中兼山時代のものがそのまま使用されている現役の港である。

  • 次にやって来たのは物部川河口の吉川展望台。<br />

    次にやって来たのは物部川河口の吉川展望台。

  • 東は吉川漁港

    東は吉川漁港

  • 南は太平洋

    南は太平洋

  • 河口から物部川の土手沿いに土佐山田を目指す。<br />「L2」の標識は、河口から2㎞の位置を表す。<br /><br />高速道路の建築が進む上岡八幡周辺までやってきました。

    河口から物部川の土手沿いに土佐山田を目指す。
    「L2」の標識は、河口から2㎞の位置を表す。

    高速道路の建築が進む上岡八幡周辺までやってきました。

  • 走っていて偶然に見つけた標識「三又」<br />なんのこっちゃ? 行ってみなけりゃなるまい・・・

    走っていて偶然に見つけた標識「三又」
    なんのこっちゃ? 行ってみなけりゃなるまい・・・

  • 木立を抜けると水路が走っている。<br />ここまで導水された水路が3方に分水されている。

    木立を抜けると水路が走っている。
    ここまで導水された水路が3方に分水されている。

  • 「三又」の標識。<br /><br />

    「三又」の標識。

  • これも野中兼山の治水灌漑事業の一環になるようだ。<br />新野町(野市)の開発に際して中井関の完成で可能になった上井川の水を分水した水路で、十善寺溝・町溝・東野溝の主要3支川と原田溝・武市溝を加えた大小5つに分水しているといい、もちろん現在でも現役である。<br /><br />

    これも野中兼山の治水灌漑事業の一環になるようだ。
    新野町(野市)の開発に際して中井関の完成で可能になった上井川の水を分水した水路で、十善寺溝・町溝・東野溝の主要3支川と原田溝・武市溝を加えた大小5つに分水しているといい、もちろん現在でも現役である。

  • 物部川の水が用水路を通じて、荒野に分水され、その地が水田化される光景が浮かび上がってくる。

    物部川の水が用水路を通じて、荒野に分水され、その地が水田化される光景が浮かび上がってくる。

  • かつては物部川の氾濫原であったろう用水路の下手の土地も今は美田が広がる。

    かつては物部川の氾濫原であったろう用水路の下手の土地も今は美田が広がる。

  • 兼山は農民生活向上のためにも色々なところに目配りをしていたようで、彼が植えさせた柿の木の末裔がこの地には今も実を稔らせているという。

    兼山は農民生活向上のためにも色々なところに目配りをしていたようで、彼が植えさせた柿の木の末裔がこの地には今も実を稔らせているという。

  • 藩の筆頭家老として藩政改革や新田開発等を推し進めてきた野中兼山。<br />しかし、新藩主の即位と共に「世代交代」が図られ、その障害となる兼山は弾劾され失脚、幽門となる。<br /><br />幽門先は・・<br />彼が長年携わった物部川開発のために建てられていた別邸がここにあった。<br />ここで幽閉生活を送り死を迎える。

    藩の筆頭家老として藩政改革や新田開発等を推し進めてきた野中兼山。
    しかし、新藩主の即位と共に「世代交代」が図られ、その障害となる兼山は弾劾され失脚、幽門となる。

    幽門先は・・
    彼が長年携わった物部川開発のために建てられていた別邸がここにあった。
    ここで幽閉生活を送り死を迎える。

  • 目の前には物部川から導水された水路が満々と水を運んでいく。

    目の前には物部川から導水された水路が満々と水を運んでいく。

  • その前には開拓で開かれた3万石あまりの美田が広がる。<br /><br />この光景を見ながら兼山は何を考え、思っていたのか

    その前には開拓で開かれた3万石あまりの美田が広がる。

    この光景を見ながら兼山は何を考え、思っていたのか

  • 最後にやって来たのが野中神社。<br /><br />彼の業績をたたえて後の人たちが建立したのかな、土佐藩も業績を再評価したのかなと思っていたのだが・・・<br /><br />藩の仕打ちは、苛烈であった。

    最後にやって来たのが野中神社。

    彼の業績をたたえて後の人たちが建立したのかな、土佐藩も業績を再評価したのかなと思っていたのだが・・・

    藩の仕打ちは、苛烈であった。

  • 野中兼山の家族は40年にわたって宿毛に蟄居。その間に男系は絶える。<br />兼山の業績は、時の権力者達に認められることなく、消し去れるようとする。<br /><br /><br /><br />

    野中兼山の家族は40年にわたって宿毛に蟄居。その間に男系は絶える。
    兼山の業績は、時の権力者達に認められることなく、消し去れるようとする。



  • その流れに棹さして抗ったのが娘・婉である。<br />宿毛での蟄居が解かれた後、彼女は、旧臣古槙氏の土地であるこの地にひとり生活し、ここに父のための神社を建立する。<br />それがこの神社。<br />父の業績を正しく後世に伝えようと念じたのであろうか。<br /><br />そのためこの神社は「お婉堂」とも呼ばれている。<br />大原富枝の小説『婉という女』で、野中婉の名は広く知られるようになったという。<br /><br />

    その流れに棹さして抗ったのが娘・婉である。
    宿毛での蟄居が解かれた後、彼女は、旧臣古槙氏の土地であるこの地にひとり生活し、ここに父のための神社を建立する。
    それがこの神社。
    父の業績を正しく後世に伝えようと念じたのであろうか。

    そのためこの神社は「お婉堂」とも呼ばれている。
    大原富枝の小説『婉という女』で、野中婉の名は広く知られるようになったという。

  • 拝殿の中には兼山の肖像画が掲げられていた。

    拝殿の中には兼山の肖像画が掲げられていた。

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