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江戸の神田上水に遅れること僅かに数十年、この薩摩の僻遠の地に於いて上水道が完備され、城下の家庭に配給されていたのは驚きであったが、この一事を見ても薩摩の進歩性がうかがえた。豊織の時代、全国大名を平定した秀吉は唯一手を下すことの出来なかった藩がここ薩摩で、政略により日向の支藩の幾つかを分離させたに過ぎなかったが、江戸期に入ってもその薩摩の力を削ぐ政策がとり続けられてきた。先年桑名を訪問した時、木曽川の河岸、旧東海道の船着き場、桑名宿を訪問した際、そこに江戸時代の中期の宝暦年間、幕府に命じられた薩摩藩が多大な犠牲を払って桑名三川、木曽川、揖斐川、長良川の河川分流の土木工事、河川工事を行い、その後のこの地区の川の氾濫を食い止めた事績の石碑が建っていて、ああ、徳川の幕閣親藩はそれ程までに薩摩の力を恐れ、無理難題を命じたのか、としみじみ思った。<br /><br />今この城山を下り、丁度その同じ頃藩内では「近衛の水」の水道事業を始めていたが、その源泉取り入れ口から少し下った場所、城山の麓の西郷洞窟へ向かう登り口付近に「薩摩義士の石碑」が建っていた。ここの石碑は桑名とは比較にならないほど立派なもので、この河川工事で落命した80余名の御霊を祀るものであった。今ではこうした河川事業を知る人は濃尾平野のごく一部の人、或いは薩摩人の一部しか知らないであろうが、今でもこうして顕彰され香花は絶えない。<br /><br />この石碑のすぐ下は既に旧鶴丸城の辰の位置に当たり、苔むした石垣が見えている。浅い空堀だ。このお城は戦闘用に作られたものではなく、武田信玄の甲府城、「お館」とか、自分が休日によくハイキングに行く旧八王子城の「御主殿」のようなもので、天守閣を持たない御殿であった。信玄の、「城は人、人は石垣」、ではないが、ここ薩摩も周囲を島津親族、家臣団に守られ、敢えて堀を深堀りすることもなく、防御の天守閣を備えることもなかったのだ。<br /><br />当方が年末の慌ただしい中、鹿児島までやってきた背景の一つには直前に読んだ宮尾登美子の「天璋院篤姫」に啓発されたのも理由の一つで、嘗て鹿児島は通過したに過ぎない街だったが、今回は少しゆっくり観光して見よう、とのことだった。最初に城山を訪ね、西郷終焉の地に立ち、正面の雄大な桜島を眺め、既に鹿児島にやって来た十分な価値を見出したが、この鶴丸城でも篤姫の何等かの足跡を知ることになるだろう。<br /><br />低い石垣は当時のままだったが、城内にあった御殿は取り払われていて、今では黎明館という記念館になっているが、その建物の前に篤姫の立派な銅像が建っていた。島津外戚に生まれた姫は斉彬の養女となってこのお城から鹿島立ち、将軍家定に入内した。家定公は若くして亡くなり、その後徳川家も大政奉還した後も、彼女は一市民として東京市中に生き、明治の中半に亡くなった。そのきりりとした顔立ちは、幕末から明治の動乱の時代を生き抜いた強い女性の力が漲っていた。

薩摩・大隅の旅(10)薩摩義士と天璋院篤姫。

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2016/12/16 - 2016/12/18

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江戸の神田上水に遅れること僅かに数十年、この薩摩の僻遠の地に於いて上水道が完備され、城下の家庭に配給されていたのは驚きであったが、この一事を見ても薩摩の進歩性がうかがえた。豊織の時代、全国大名を平定した秀吉は唯一手を下すことの出来なかった藩がここ薩摩で、政略により日向の支藩の幾つかを分離させたに過ぎなかったが、江戸期に入ってもその薩摩の力を削ぐ政策がとり続けられてきた。先年桑名を訪問した時、木曽川の河岸、旧東海道の船着き場、桑名宿を訪問した際、そこに江戸時代の中期の宝暦年間、幕府に命じられた薩摩藩が多大な犠牲を払って桑名三川、木曽川、揖斐川、長良川の河川分流の土木工事、河川工事を行い、その後のこの地区の川の氾濫を食い止めた事績の石碑が建っていて、ああ、徳川の幕閣親藩はそれ程までに薩摩の力を恐れ、無理難題を命じたのか、としみじみ思った。

今この城山を下り、丁度その同じ頃藩内では「近衛の水」の水道事業を始めていたが、その源泉取り入れ口から少し下った場所、城山の麓の西郷洞窟へ向かう登り口付近に「薩摩義士の石碑」が建っていた。ここの石碑は桑名とは比較にならないほど立派なもので、この河川工事で落命した80余名の御霊を祀るものであった。今ではこうした河川事業を知る人は濃尾平野のごく一部の人、或いは薩摩人の一部しか知らないであろうが、今でもこうして顕彰され香花は絶えない。

この石碑のすぐ下は既に旧鶴丸城の辰の位置に当たり、苔むした石垣が見えている。浅い空堀だ。このお城は戦闘用に作られたものではなく、武田信玄の甲府城、「お館」とか、自分が休日によくハイキングに行く旧八王子城の「御主殿」のようなもので、天守閣を持たない御殿であった。信玄の、「城は人、人は石垣」、ではないが、ここ薩摩も周囲を島津親族、家臣団に守られ、敢えて堀を深堀りすることもなく、防御の天守閣を備えることもなかったのだ。

当方が年末の慌ただしい中、鹿児島までやってきた背景の一つには直前に読んだ宮尾登美子の「天璋院篤姫」に啓発されたのも理由の一つで、嘗て鹿児島は通過したに過ぎない街だったが、今回は少しゆっくり観光して見よう、とのことだった。最初に城山を訪ね、西郷終焉の地に立ち、正面の雄大な桜島を眺め、既に鹿児島にやって来た十分な価値を見出したが、この鶴丸城でも篤姫の何等かの足跡を知ることになるだろう。

低い石垣は当時のままだったが、城内にあった御殿は取り払われていて、今では黎明館という記念館になっているが、その建物の前に篤姫の立派な銅像が建っていた。島津外戚に生まれた姫は斉彬の養女となってこのお城から鹿島立ち、将軍家定に入内した。家定公は若くして亡くなり、その後徳川家も大政奉還した後も、彼女は一市民として東京市中に生き、明治の中半に亡くなった。そのきりりとした顔立ちは、幕末から明治の動乱の時代を生き抜いた強い女性の力が漲っていた。

旅行の満足度
4.5

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