2017/06/01 - 2017/06/03
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montsaintmichelさん
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ブルーノ・タウトは『日本美の再発見』の中で、「桂離宮は、その建築に見られる精神性がすばらしく、その設計者が小堀遠州であるのか他の誰かであるのかはわからないが、間違いなく、1人のすばらしい天才によって全体の調和がはかられている」と記しています。実際には親子2代で築き上げた桂離宮を観てみると、1人の設計者が考えて造園したものではありませんが、全体の調和を考え、一貫した作庭思想を持って築かれたことは明白です。
前田利常の4女 富姫は八条宮智忠親王の妃となり、やがて桂離宮の造営のスポンサーとして前田家も深く関わりました。また、義兄弟の関係にあった後水尾天皇や京都町衆との交流も深まりました。今日に残る加賀100万石の文化、美術工芸品は、全て桂離宮をルーツに持つ兼六園に端を発し、京都に負けないものをつくろうという熱意の賜物と思います。
ですから兼六園も、個々が自己アピールしてはいるものの、神仙思想を貫く中で個を尊重しつつ全体の調和を図った造営になっており、加賀100万石前田藩の美意識の象徴とも言えます。
後編は、瓢池周辺に見られる風趣の変化の妙や栄螺山周辺の見所を中心にレポいたします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス JR特急
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ヤマトフデゴケ
日本庭園に不可欠の美の要素のひとつ、「苔」も兼六園の見所です。
成巽閣で美しい苔に魅せられてから、苔が気になって仕方ありません。青々と輝き、長い歳月を物語る苔生した燈籠などは、日本情緒を醸す素材です。
兼六園で多いのはウマスギゴケ、次いでコバノチョウチンゴケやヤマトフデゴケなどがあります。山崎山下の園地ではコバノチョウチンゴケが広がり、成巽閣の赤門前では萌黄色に彩られたビロードの様なヤマトフデゴケの群生地が見られます。因みに苔の種類は、世界で2万種類ほどあるそうです。
ヤマトフデゴケの園地には、夏になるとこのように縦横に釣り糸が張られます。苔の下からセミの幼虫が這い出してくるため、それをカラスが食べようと嘴で苔を掘り起こすのを防ぐための苦肉の策だそうです。糸の間隔が結構広いので効果に疑問もありますが…。 -
ヤマトフデゴケ
この辺りで兼六園の歴史を紐解いて見ましょう。
兼六園の前身を築いたのは、初代加賀藩主 前田利家と思われるかもしれませんが、実際は時代がかなり下ってからになります。利家が1583(天正11)年に金沢城に入城した際、現在の兼六園の辺りに築かれたのは菩提寺「宝円寺」と祈祷所「波着寺」でした。その30年後、これらの寺を老臣の屋敷を建てるために移転させています。
1601(慶長6)年、2代将軍 徳川秀忠の娘 珠姫のお輿入れの際、百間堀に面して茶店が立つ所に300人のお供のための長屋を設け、江戸町と呼びました。しかし珠姫没後、お供たちは江戸に帰され、長屋は解体されました。その跡地に城内から移築されたのが、建築や営繕を担当する役所「御作事所」でした。 -
ウマスギゴケ
日本では30種類程あるといわれるスギゴケの仲間です。
庭園の原型が現れたのは5代藩主 綱紀の時代です。1676(延宝4)年に御作事所を城内へ戻し、その跡地に別荘「連池御殿」を建て、その周りを庭園にしたのが起源です。現在の「時雨亭跡」周辺、兼六亭の辺りだったそうです。
連池御殿時代の兼六園は、小路を挟み「連池御殿」と「屋敷」に分けられていました。往時「蓮池の上御露地」と呼ばれた現在の「蓮池庭」は、客人の接待や観楓などの宴を愉しむ清遊の場でした。また、「瓢池」はこの時代に造られ、翠滝と夕顔亭、内橋亭を造営しています。しかし蓮池御殿(現 梅林周辺)は宝暦の大火で焼失し、跡地は火除地として放置されていました。 -
コバノチョウチンゴケ
深い碧色のカーペットが、輝くような黄緑色に彩られはじめています。
11代藩主 治脩(はるなが)は、藩士の思想改善を掲げ、儒学の古典『経書』を教えるために蓮池御殿の跡地に藩校を創立しました。一つは、儒学を中心に和学や礼法・算学・天文暦学・医学などを教える明倫館です。学頭として京都から儒学者 新井白蛾を招き、開校記念講義を行っています。もう一つは剣や槍、弓馬術などの武術を教える経武館でしたが、明治元年に洋学の壮猶館と合併しています。尚、この藩校に掲げられていた扁額は、金沢大学で保管されています。 -
板橋
小立野口から入り、曲水沿いを下流に行くと、曲水が大きく湾曲する辺りに架けられた木橋です。船底板を用いており、三河の名所「八つ橋」を模したものです。かつてはこの辺りに勅使橋が架かっていたと言われています。
この周辺にはカキツバタの群生があり、6月の開花時はことさら風情があります。
花見橋では疎らにしか咲いていませんでしたが、こちらは花盛りです。場所によって開花の時期が少し違うようです。
現在の兼六園の姿を現し始めるのが、1822(文政5)年から始まった竹澤御殿の時代です。この時代には2人の人物が欠かせません。12代藩主 斉広(なりなが)と13代藩主 斉泰(なりやす)です。兼六園の形成過程では、この父子が大役を果たしました。兼六園の名称も、庭園の形もこの父子なしには語れません。
斉広は37歳で隠居を表明し、幕府に「嫡子の健康のため新しい居宅を造りたい」と許可を得、実際は自身の隠居所にしました。まず藩校を移転し、その跡地に建坪4000坪、部屋数200を超える豪壮な「竹澤御殿」を造営し、「兼六園」と命名しました。従来、隠居所には尾山神社近くの「金谷御殿」が充てられましたが、心労が祟り「引きこもり」になっていた斉広は、金谷御殿が薄暗く湿っぽいと言って兼六園の明るい所で能三昧の日々を送ることを望みました。能舞台の場所は現在の日本武尊像の周辺にあり、竹澤御殿で働く役人は140人いましたが、その多くが能役者だったとの説もあります。 -
板橋
板橋から曲水の上流方面を眺めた様子です。成巽閣の白壁がよい借景になっています。
斉広没後、斉泰は竹澤御殿を解体しました。その理由には諸説ありますが、藩の財政難故に、解体してその資材を資金に充てたとの説が有力です。斉泰は霞ヶ池を広げ、栄螺山を築山するなど一大庭園を造り上げ、ほぼ現在の兼六園の姿にしました。作庭に勤しんだ理由にも諸説ありますが、母 真龍院への愛情表現とされています。霞ヶ池は、「湖園の眺望」だとか「兼六」になぞらえているとか称されますが、母親への思いやりで斉広を偲ぶ場として造ったと言われています。それを裏付けるのが、母親の隠居所として兼六園の隣に「巽御殿(現成巽閣)」を造営したことです。
その後、1871(明治4)年には「与楽園」という名で限定公開されています。この名は15代藩主 慶寧の命名ですが、その由来については「四民偕楽之旨趣を以」 とあり、「与(とも)に楽しむ場」という思いからと言われています。 -
舟之御亭(ふなのおちん)
夕顔亭や時雨亭、内橋亭と並ぶ蓮池庭4亭の一つです。他の御亭とは異なり、舟形をした簡素な東屋です。かつては眺望台の北西に建っており、日本海から白山連峰までの雄大なパノラマが愉しめる御亭だったようです。
2000年に時雨亭と共に復元され、梅林を流れる曲水の袂に建てられました。
古絵図によると本来は4本柱ですが、安全の観点から8本柱に設計変更され、左右両側には木製ベンチを置いて来園者の休憩処として現世に蘇っています。 -
舟之御亭
1874(明治7)年5月7日に兼六園は一般開放され、それに合わせて茶店が出店しました。1922(大正11)年に国の名勝に指定され、1985(昭和60)には名勝から特別名勝へと格上げされ、庭園の国宝とも言える最高の格付けを得ています。
その後も新庭園の中に明治時代初期に解体された「時雨亭」と「舟之御亭」が復元された他、新たに2筋の流れを持つ庭園も整備され、これらにより兼六園は一層の広がりをもつ庭園に深化を遂げています。 -
時雨亭(しぐれてい)
夕顔亭や内橋亭、舟之御亭と並ぶ蓮池庭4亭の一つです。
5代藩主 綱紀が造った別荘「蓮池御殿」が老朽化したことから、綱紀没後に6代藩主 吉徳が解体し、小規模のものに建て替えたのが「時雨亭」です。それが宝暦の大火で焼け残り、補修を繰り返しながら明治時代初期まで建っていたとされます。 -
時雨亭
座敷が10畳と8畳の2間、御囲と呼ばれる1畳台目の茶室を含めて全7室からなる御亭でした。
現在、長谷池の傍にある時雨亭は、2000年にその一部を復元したもので、茶席や休憩処として来園者に開放されています。 -
瓢池(ひさごいけ)
瓢池周辺は、後編のクライマックスと言っても過言ではありません。
蓮池門を入って右手に広がる池です。東西90m、南北45mの楕円形をしており、園内の4つの池のうち霞ヶ池に次ぐ広さがあり、この一帯が兼六園発祥の庭「蓮池庭」です。
ユニークな名の由来は、池がかつては瓢箪の形をしていたからという説と、池に浮ぶ2つの島の姿からという説があります。池の中には不老長寿の島「神仙島」を象った大小2つの島(中島・岩島)が浮かんでいます。
石橋「日暮橋」を渡った先が中島(亀島)、その数m先にあり、松が植わっているのが岩島です。瓢池は夕顔亭のある島を含めた3つの島を不老長寿の島、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)の三神仙島に例えたことから「三島一連の庭」とも言われます。未来永劫の繁栄を祈り、一族の繁栄を永遠たらしめたいとの願いを持って築かれたことが窺えます。 -
瓢池
真弓坂から瓢池に突き当たった周辺は、水面が緑陰に染まり、深山幽谷の趣を湛えています。夕顔亭付近の景観とは一味違う寂寥とした表情を魅せ、幽邃(ゆうすい)の趣を湛えています。
水音のする木陰を見やれば、梅園から下段の瓢池に落差を利用して流れ落ちる滝が懸かっています。この滝は、名も無き滝のようです。お隣にある翠滝の存在が大きすぎるのかも…。 -
瓢池
カワセミが一瞬姿を見せましたが、直ぐに鬱蒼とした樹木の陰に姿を消してしまいました。
右端に見える緑色の唐傘の形をした御亭は、1832年、第13代藩主 斉泰が金沢城の玉泉院丸庭園のあった「唐傘亭」をここへ設置したものを復元しています。明治時代の玉泉院丸庭園廃絶と共に瓢池に移設されたそうです。
因みに復元された唐傘亭のデザインは、金沢城二の丸に置かれた同様の唐傘の史料や瓢池に移されたものの古写真等を基にしています。 -
瓢池
正面に架けられているのが日暮橋です。
右手にある、護岸が石組みされ、石塔が立っているのが中島(亀島)です。
橋の先に見えるのが、三芳庵です。 -
夕顔亭
瓢池の東岸にある数寄をこらした茶室で、時雨亭、内橋亭、舟之御亭と並ぶ蓮池庭4亭の一つです。
11代藩主 治脩が、宝暦の大火で焼失した蓮池庭を復興するため、1774(安永3)年に翠滝と共に建てたもので、往時の姿を今に残しています。
侘びた茅葺の草庵の趣であり、古田織部好みの茶室と言われる3畳台目、下座床、相伴席を持ち、京都 藪内家の茶室「燕庵」と同じ形式であることから、その写しとも言われています。燕庵との違いは、小間の茶室の特徴である躙口がなく、障子2枚の貴人口が付けられていることです。小間ながら瓢池越しに対岸にある翠滝の景観を愉しめる開放的な茶室です。 -
夕顔亭
名の由来は、待合の床の袖壁に夕顔(瓢箪)の透かし彫りがあることですが、これは後世の呼び名です。往時は「中嶋の茶屋」、「瀧見の御亭」と称されていました。元々は池の浮島に建てられたものですが、明治時代に池の一部が埋め立てられて陸続きになっています。 -
夕顔亭
外部のデザインは、貴人口にある土間、吹きっ放しの廻り縁、そして一段落とした竹のスノコ縁を設え、縁先の路地には手水鉢、踏石、飛び石などが配されています。
これらは夕顔亭の生命線だと言い切る茶人もいるほど、優れたものだと言われています。 -
夕顔亭
奥の露地にある景石の近くにカシワの木が植えられています。落葉樹ですが、葉が枯れても新芽が出るまで落ちないと言われ、葉が枯れても死なないということから、生命力の象徴として、前田家が跡目相続を祈念して子々孫々繁栄を願って植えられたと伝わっています。 -
夕顔亭
露地の真ん中辺りにある椎の古木の根元に井筒があり、そこから落ちる水は手水鉢への補給にも使われ、雅趣に富んでいます。 -
夕顔亭 伯牙断琴(はくがだんきん)の手水鉢
露地に置かれた立ち蹲踞の手水鉢です。高さ45cm、直径85cmある鉢は金沢の坪野山で産出した特徴のある黒色の石です。その下には四角い白御影石が敷かれ、黒と白、四角と円の対比がドラマチックです。また、役石(鉢の右横にある黄土色の石)は、能登産の木葉石と言われる珍しい化石です。
手水鉢の制作者は、5代藩主 綱紀が京都から招聘した名金工 後藤家9代 程乗です。「金属しか彫れないのか」という綱紀の問いに対し、「いや、どんな素材でも彫ることができる」と応じ、いくつか手水鉢を手掛けたものの一つです。 -
夕顔亭 伯牙断琴の手水鉢
「伯牙断琴」とは、中国の歴史書『蒙求』の故事「伯牙絶琴」にある、琴の音色を最も理解した友人 鍾子期の死を嘆き、一生、琴を奏でないと誓った名手 伯牙の話です。手水鉢には、絃を絶った琴を枕にして伏す、伯牙の姿を蹲踞の上面に浮き彫りにしています。
手水鉢としては意表を突く型破りのサイズですが、黒い色が奏功して露地としての侘びの風情を失うことなく、存在感を顕にしています。 -
夕顔亭 竹根石手水鉢
貴人口側に据えられている手水鉢です。
古代のヤシ類の化石から造られたもので、1億3000万年前の化石と鑑定されています。浅野川上流の段丘堆積層から同種の化石が発見されており、この石も古代の医王山に由来する化石と考えられています。同種のものは米国に1個あるだけで、学術上非常に珍しいということから旧藩主の姓と学者の姓を採り、「バルモキシロン・マエダ・オグラ」の学名が付けられ一躍有名になりました。因みに和名は、シンプルに「マエダヤシ」です。
直径40cm、胴の高さ20cm、内部を空洞にして水を張っています。手水鉢と呼ばれていますが、湯桶石や手燭石、前石はないため蹲踞の形態とは言えず、竹根の化石として景趣のために据えられたというのが定説です。 -
夕顔亭
反対側から曲水越しに見た夕顔亭です。
この建物は、茶室と控之間と水屋と給仕の間(勝手)の4部屋からなる数寄屋風の造りをしており、小さい宝形茅葺の屋根を2つ入り違いに並べ、正面から柿葺の下屋を持たせた優美な建物です。
茅葺屋根同士の繋ぎ目が上手く処理されています。昨年秋から始まった屋根の葺き替えを3月に終えたばかりのようです。 -
瓢池
夕顔亭の前からは、翠滝などの景観を眺めることができます。
三芳庵の脇では、高さ1.8mある大型の雪見燈籠が水面に脚を浸して涼しげです。
室生犀星は、随筆『名園の落水』の中で次のように瓢池・翠滝を紹介しています。
「あの落水は、公園で一番いいところじゃないか」。さう思うと、名園を背景にしたせゐであろうか。あんな下らない落水が自分の心を惹くのも、おのづから自分にふさわしい好きなところを選んだのだと思った。
句「秋おそく落ち水聴くや心冴ゆ」 -
瓢池 翠滝(みどりだき)
夕顔亭の対岸にある茂みに懸かる小滝です。
宝暦の大火で焼失した蓮池庭を復興するため、11代藩主 治脩が夕顔亭と共に造った人工の滝です。造作に当たり、庭師に何度も工夫を求めたことが『大梁公(治脩)日記』に記されているそうです。
その甲斐あり、高さ6.6m、幅1.6mで水量豊富、滝音も大きく、目と耳で愉しませる趣向です。また滝の周辺には高尾や竜田、小倉山など、京都にある紅葉の名所から楓を取り寄せて植栽しています。種類の違う楓の組み合わせで紅葉期には微妙な色の陰影が美しく、「紅葉滝」とも呼ばれています。
滝の下が、三角州のように裾広がりに造られているのも見所です。左側の石組みは、桃山風の剛毅な気風が漂っています。それもそのはず、この辺りは兼六園の中でも黎明期に築庭された場所であり、まだ「回遊式大名庭園」なる形式が無かった時代のものであり、戦国期の峻厳な雰囲気を湛えています。 -
瓢池 翠滝
この翠滝は和歌山県 那智の滝、風景は京都 嵐山を模して造られ、耳に涼しいだけでなく、風流な一面も覗かせています。
音を響かせるために滝壷のない幅落ちとし、落下した水は石に当たって砕けて四方八方に広がり、やがて瓢池に落ちます。その荘厳さは他庭には見られない景観であり、兼六園の中でも優れた景観のひとつです。
滝の音に拘った11代藩主 治脩は、何度も石組を変えさせたと書きましたが、その時のエピソードがあります。治脩の注文が厳しく、困り果てた庭師が大きな滝壺を造ろうと上から大石を落としたところ、納得できる音ができあがったそうです。ところが滝壺に目を凝らしてみると、「滝壺が無い!?」。これが良い音の秘訣だったようです。 「瓢箪から駒」の類のエピソードです。 -
瓢池 日暮橋
夕顔亭の露地から瓢池の浮島「中島(亀島)」に架けられた石橋です。
青戸室石製で長さ13m、幅1.75mある立派な橋です。通常、石敷のデザインは碁盤目模様ですが、この橋には筋違の「四半模様」が施されています。その整然とした幾何学模様はなんとも美しく、兼六園の「斜線の美」の一例として挙げられています。
また、「この畔に立ち、辺りを眺めているといくら見ても見飽きない、いつしか日が暮れていた」ということに因んでその名があります。 -
瓢池 岩島
鶴を模した松が植えられた岩島です。
島全体が石組みになっており、頂上に松を載せた端整な仕立てです。
「鶴」と「亀」を並べて不老長寿を願ったものと思われます。 -
瓢池 中島 海石塔(かいせきとう)
瓢池の浮島「中島(亀島)」に立つ、高さ4.1mの塔です。
虫が喰んだように穴が空いた、薄茶色の笠石が6重に積まれています。笠の石材が海中から採掘した虫食い石であることから、海石塔の名があります。宝珠や請花、低い横長の塔軸は坪野石製、火袋は青戸室石製、虫食い石を含め3種類の石材と色彩(黒色・青色・淡黄色)の取り合わせが絶妙です。また、通常、塔の笠は奇数とするのが約束事ですが、この塔は偶数です。しかし、その石材と色彩の絶妙さが気品ある佇まいを映し、違和感はありません。
塔の由来には諸説あり、3代藩主 利常が金沢城玉泉院丸庭園にあった13層の石塔の一部をここに移したという説と、朝鮮出兵の際に加藤清正が持ち帰って豊臣秀吉に献上したものが秀吉から利家に下賜されたという説があります。後者については、全ての石材が地元産と判明し、眉唾と解されています。 -
瓢池 三芳庵
水面に佇む建物は、三芳庵です。本館と水亭があり、水亭は池に浮かんでいるように見えます。
かつて芥川龍之介が金沢を訪れた際、宿泊した宿が三芳庵でした。芥川が大正13年5月に関東大震災に遭い金沢へ避難していた室生犀星の招きで金沢へやって来た時、犀星は俳人 桂井未翁の世話で臨時に県庁の旅館許可を取り、三芳庵に宿泊させました。
その時の経緯が、自伝的小説『杏っ子』に、また、随筆『芥川君の印象』には「王者の気分を味わった得意げな様だった」と芥川の様子を記しています。この宿が気にいった芥川は、早々に風流な宿に泊まれる喜びを親しい友人に絵葉書で伝えたそうです。
芥川が泊まったとされる三芳庵の「別荘」は老朽化により取り壊されましたが、池を眺め、滝の音や鳥の囀りに耳を澄ませながら文豪を偲ぶのもいいのでは? -
夕顔亭
中島から夕顔亭を臨みます。
宝形茅葺の屋根の意匠がとても可愛らしいですね! -
蓮池門旧址(れんちもんきゅうし)
藩主が金沢城から蓮池庭(兼六園)へ入るための正門でした。百間堀通りに面して残る幅広い石段に往時の面影が偲ばれます。古図によると、石段を登った右側に大きな番所があり、三十人頭と呼ばれる役人が駐在していました。
現在は「特別名勝兼六園」の石標が立つだけですが、13代藩主 斉泰の時代には松平定信の揮毫を基につくられた「兼六園」の扁額が掲げられていました。因みに扁額は園内に向けて掲げられていたそうです。藩主のための庭園ですから、外向きにする必要はなかったのです。12代藩主 斉広が造った壮大な竹澤御殿は、土塀や土塁で三重に囲まれており、内外35もの門が配されていたそうです。 -
蓮池門旧址
蓮池門旧址から金沢城を見た様子です。手前の道路が「百間堀」です。正式名称は「蓮池堀」と言い、金沢城の全身、一向宗の金沢御坊の時代にこの辺りは蓮池だったそうです。
この百間堀を舞台にした泉鏡花の作品が『鐘声夜半録』です。鏡花は生涯一度だけ自殺を計ったことがあり、まだ無名時代の事実を元に書かれた作品です。青年期に煩悶の末、百間堀で入水自殺を図ろうとしたのをまたいとこに助けられています。往時、鏡花は祖母と弟を抱え、苦しい生活を余儀なくされ、徐々に疲弊して行ったのです。
師の尾崎紅葉に送った原稿『鐘声夜半録』を読んだ紅葉は、その内容から鏡花が再び「死」へ誘惑されている心中を看破しました。そして、すぐに叱咤激励の手紙を送り、鏡花を勇気付け、事なきを得たようです。手紙から勇気を得た鏡花は9月に再び上京し、紅葉の添削を受けた『義血侠血』が11月に発表され、出世作となりました。
また、鏡花は、他にも兼六園をモチーフにした作品を書いています。名桜を桜の精に描いた恋物語『桜心中』などです。
鏡花の世界に少しでも入れれば、また趣きが違った兼六園になると思います。 -
噴水
上部の霞ヶ池を水源に、池の水面との高低差による逆サイフォンの原理で噴き上がる仕組みです。水高は3.5m程と言われますが、原理的には霞ヶ池の水位によって変位します。藩政末期、13代藩主 斉泰が金沢城内の二ノ丸に水を引くために試作したものと伝えられ、日本最古の噴水として貴重な存在です。また、自然の景観を凝縮した伝統的な日本庭園において噴水が配されるのは極めて異例なことだそうです。辰巳用水の技術を庭園美として表現したかったのかもしれません。 -
黄門橋
白龍湍と呼ばれる曲水に架かるのが、青戸室石製の反橋です。急峻な渓谷を模し、兼六園の六勝でいう幽邃・蒼古が演出され、周りの景観に溶け込むように工夫されています。
「黄門橋」の名は、明治時代に兼六園に明治天皇が来臨されることになり、急遽名付けられたものであり、古図には石橋(しゃくきょう)と書かれています。「黄門橋」の黄門とは、唐では中納言を指します。3代藩主 利常の官名が中納言だったことから、利常がこの橋を架けたと考えての命名だったようです。しかし実際は、利常は蓮池庭の作庭に関わっていなかったようです。 -
黄門橋
戸室石とは、金沢城から東に8kmの距離にある戸室山で産出する石の総称です。2代藩主 利長が利家から金沢城の修復を命じられた際、初めて戸室石が伐り出されました。
藩政時代には「御留石」や「殿様石」とも称され、藩主や上級武士だけが使えた石です。金沢城の城壁はもちろん、園内では雁行橋や黄門橋などのほとんどの石橋、燈籠などに使われています。
戸室石は安山岩系に属し、花崗岩系の御影石と比べると熱には強いものの、強度は劣ります。青戸室石と赤戸室石の2種類があり、青の方が赤より重くて固いようです。因みに黄門橋は青戸室石製、雁行橋は赤戸室石製です。 -
黄門橋
文殊菩薩の霊獣とされる獅子が舞うという謡曲『石橋』をモチーフに造られた橋であり、それに因んで対岸の橋の袂には獅子の形をした獅子巌があります。
橋は幅1m、厚さ40cm、長さ6mあり、切石橋としては兼六園の中で最長の橋です。横から見ると2枚重のように見えますが、1枚石を2枚石に見せるよう細工したものです。また、通常の石橋は橋台石の中央から直角に渡されますが、橋台石の端から25度斜めに架けられており、型破りな所が造形の妙を感じさせます。これは夕顔亭の手水鉢を台座の隅に置く思想と一致しています。
このように独創的な形は浮世離れしており、この橋を渡ることで異界に分け入るかのような錯覚を引き起こさせます。 -
黄門橋 白龍湍(はくりゅうたん)
霞ヶ池にある虹橋付近からの水流は虎石付近を巡り、黄門橋への流れとなります。もう一方は、霞ヶ池の西北岸付近から栄螺山の北部で渓流となり、黄門橋の上流で先の流れとこのように合流します。
曲水の大部分はゆったりと優雅にたゆたう流れですが、瓢池に注ぐ黄門橋付近にはこうした急流が意図的に設けられ、それを総称して白龍湍と呼んでいます。確かに白い飛沫を上げて流れ下る様は、白龍の姿を彷彿とさせ、深山幽谷の趣が漂うスポットです。 -
黄門橋 白龍湍
黄門橋から下流方向のせせらぎを見た様子です。
「兼六園かるた」では、「段なし清流走る白龍湍」と詠まれています。
上流とはまた違った趣を湛えています。 -
黄門橋 獅子巖
噴水がある方から黄門橋を渡った左の袂に安置されています。
獅子の姿に似た犀川の青黒い滝坂産の自然石であることから、この名があります。虎石や龍石と共に兼六園の要石と言われています。
こちらが橋を渡る前に撮影した様子です。こちらの方が、獅子に見易いかもしれません。「張子の犬」を彷彿とさせますが…。いずれにしても、ロールシャッハ・テストの域を超えるものではありませんので、過度の期待は禁物です。
さて、最後の「虎石」はどんなものなのでしょうか? -
黄門橋 獅子巖
橋を渡って間近で見ると、何なのか良く判らない状態です!
写真を撮るなら対岸からをお勧めします。 -
常磐岡
蓮池門から松濤坂を上った所に広がる栄螺山裏側の一帯を指します。
老樹が鬱蒼と茂り、六勝のうちの「幽邃」や「蒼古」を思わせます。霞ヶ池の水圧で上がる噴水や深山幽谷の趣がある白龍湍に架けられた黄門橋、その袂にある獅子巖、など見所満載です。 -
常磐岡
忽然とこうした野面積みの石垣が姿を現します。
長い歴史の中では、この先にある栄螺山が狼煙台の役目を担っていた時代もあり、加賀藩存亡の危機に瀕した時には金沢城の周りの防衛力を強めた経緯もあるそうですので、そうした遺構の一部だと思われます。
こうした点が、単なる大名庭園とは一線を画す所ですし、味わいのあるところです。 -
栄螺山(さざえやま)
13代藩主 斉泰が3度に亘って霞ヶ池を掘り広げた時に出た土を盛り上げた築山です。高さ9m、周囲90mあり、山頂に「避雨亭(ひうてい)」と呼ばれる御亭(おちん)を配しています。江戸本郷邸の育徳園にあった栄螺山を模したものとされ、頂上へ登る道が時計回りに螺旋状をしており、栄螺の殻を思わせることからこの名があります。因みに栄螺の殻は反時計回りで栄螺山とは逆ですが、そこは大目に…。 -
栄螺山
斜面に根っこを剥き出しにした様は、葛飾北斎『諸国瀧廻り』の中にある「下野黒髪山きりふりの滝」を彷彿とさせます。
北斎の版画は滝なのですが…。 -
栄螺山
山の一角には、城郭を彷彿とさせる立派な石垣が築かれ、築山としては珍しい造りです。それもそのはず、栄螺山は加賀平野が一望できた高台のため、金沢城本丸よりも見通しが利き、万一を知らせる狼煙台の役目を果たしていたと伝えられています。単なる月見台の趣を呈する風雅な築山ではなかったようです。
石垣は、ほとんどが野面積みですが、隅石だけはシャープな切り込みハギになっています。隅石は、後世の改修かもしれません。 -
栄螺山 内橋亭
栄螺山から内橋亭を見下ろせます。
手前と奥の2つの屋形の間を小さな橋で繋げています。堅田にある「浮見堂」になぞらえて霞ヶ池の畔に移築したものです。
屋根は柿葺で、歴史を湛えるように苔生しています。
現在は、池の畔に立つお食事処・お土産処として活躍しています。 -
栄螺山 避雨亭
避雨亭まで立派な石段が続いていますが、現在、この先は立入り禁止となっています。
唐傘を広げた形から避雨亭と呼ばれ、栄螺山自体も「からかさ山」の愛称があります。この御亭は、金沢城の鼠多門の内にあったものとされています -
栄螺山 三重の宝塔
栄螺山の山頂付近に立つ、青戸室石と赤戸室石製、高さ6.5mある石塔です。12代藩主 斉広を供養するために正室 真龍院と側室 栄操院が建立した塔です。加賀藩石積方7代目穴生 源介父子の作と伝えられています。
一層には、栄操院が珠洲産の桜の木で彫らせた仏像と法華経の経巻、斉広の肖像を納めていたそうですが、現在はありません。また、かつては三重の笠には24個の青銅製の風鐸が吊り下げられていたそうです。これは、斉広の娘で異母姉妹である厚姫と勇姫が献上したそうです。
当時の三重宝塔は、斉広公の供養の場であることから、前には小石が敷かれていたそうで、清浄さを保つため、草履を脱ぎ、素足で登ったと天保11年(1840)9月26日に竹澤庭を見分した年寄 村井長貞が日記に書いたそうです。 -
栄螺山 霞ヶ池
南側から眺めると、近景に内橋亭、中景に蓬莱島、遠景に徽軫燈籠と虹橋という造園手法が駆使されており、さらに借景に卯辰山を取り入れ、奥行と広がりを持たせています。
兼六園の周囲は市街地なのですが、都会の庭園にありがちな野暮ったいビルの姿がが目立ちません。こうして高台から俯瞰した時にだけ一部のビルが頭を出しますが、〇〇医院の看板を除いて景観にマッチしたカラーで違和感はありません。これは、兼六園のある場所が小高い丘になっており、周囲よりも高いため、周囲にビルがあっても見えないと言うことです。ビルの高さが低いことも奏功していますが、景観を守るために京都のように高さ制限をしているとも聞いていませんので、ここの住人さんたちの文化が京都より高いのだと思います。いつまでもこうした景観が守られるといいですね! -
栄螺山 唐崎松
対岸から見た雄渾な唐崎松の姿は、鶴が首を伸ばし、羽を広げて休んでいる姿を彷彿とさせます。また、借景の卯辰山の黄緑色とのグラデーションの妙に心ときめかされます。
霞ヶ池に浮かぶ亀に見立てられた蓬莱島と共に、めでたさを象徴したもののように思います。
因みに池の水面を這うように伸びる枝ぶりは、自然に伸びているのではなく、鶴の羽をイメージして下から引っ張っているそうです。盆栽的な趣向なのですね! -
栄螺山 親不知
霞ヶ池の畔にある親不知を栄螺山から直下に覗けます。
つまり、親知らずの上は崖になっているという証左です。
今までとは趣向の違う景観が造られているようで、心を躍らせて駆け下ります。 -
内橋亭 寄石燈籠
園内にはもうひとつ寄石燈籠があり、内橋亭の右手前に立っています。
高さ2.3mある大型のもので、宝珠と請花の部分がどっしりと大きく、直径1.5m程の自然石の笠は苔生した上に草が生えています。赤戸室石を使った火袋の高さは45cm、前と後の火口は四角形をしており、左側は日輪、右側は三日月がくり抜かれています。中台は御影石で一辺がほぼ90cm、厚さ24cmあり、ここだけが端整に整形されており、1mもある竿は細工なしの虫食い石がそのまま使われています。 -
内橋亭 方形手水鉢
立方体の飾り手水鉢が内橋亭の左端に置かれています。
この手水鉢の側面に彫られた意匠は、源氏香の中の符号を3つずつ陰陽に分けて散らした粋な模様です。源氏香とは、源氏物語の帖名を当てたものであり、直線による単純な構成の背後に奥行きのある文学の世界を併せ持ちます。泉鏡花の家紋「紅葉賀」は、この文様からヒントを得たとも言われています。
また、手水鉢の台座への配置もユニークです。夕顔亭の伯牙断琴の手水鉢と同じように、大きな台座の隅っこにちょこんと置かれ、思想の統一が見られます。
その背後には春日燈籠があり、その左にある樹木の幹で隠れている巨石は「天然メノウ」の原石だそうです。そうしたものがあるとはネット情報で知っていましたが、まさかこの石だったとは…。事前調査不足で申し訳ありません。ネットでも場所の情報量が少なく、悪さされないように意図的に秘匿されているのかもしれませんので、大人の対応でお願いしますね! -
親不知(おやしらず)
霞ヶ池に浮ぶ内橋亭の西岸にあり、栄螺山の山腹が池の水際に迫る飛び石伝いの小路を親不知と呼んでいます。水際の石は池の水位の増減によって見え隠れし、それを計算に入れた配置がなされています。 -
親不知
岩の荒々しい様子が北陸道の難所、新潟県の親不知海岸の険を彷彿とさせることから、この名があります。眼前には霞が池が広がり、対岸には唐崎松、やや右方向には蓬莱島が見えます。また、水辺には鯉や鮒、ウグイなどが集まり、訪れる人の目を愉しませています。 -
虎石
霞ヶ池北岸の徽軫燈籠の傍、シイノキの木陰に佇みます。
木の根と同化して苔生していますが、虎が前足を低くして吼える姿を彷彿とさせることから、この名があります。能登外浦の曽々木か福浦辺りで産出された天然石とされ、獅子巖や龍石と共に兼六園の要石のひとつに数えられます。 -
虎石
古来、獅子や虎、龍は天子や英雄の例えとなる力強い動物であり、これらの石はそれにあやかって兼六園を守護する魔除けや出世を願って配置されたものと考えられています。魔の方向を睨む魔除けの石と言われますが、いったいどこを睨んでいるのでしょうか?ひょっとして金沢城???
元々は初代藩主 利家が治めた七尾城にあったものですが、それを金沢城内の庭に移し、さらに兼六園に移しています。それほど霊験あらたかということなのでしょう。薄暗い夕方に見るとあたかも生きているかのように見え、神秘的だそうです。 -
徽軫燈籠
スタート地点まで戻ってきました。
やはり兼六園の有終の美を飾るのは、徽軫燈籠しかありませんね!
この続きは、問柳尋花 加賀紀行⑧金沢城址公園でお届けいたします。
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