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2015年開業の北陸新幹線により東京~金沢間が2時間半で結ばれ、関東圏の方は金沢をより身近に感じられるようになったことでしょう。アクセスが便利になり、「女子旅」ブームにも火が着いたようです。確かに金沢は、歴史・文化伝統と美食が一度に愉しめる大人向けの街かもしれません。観光客は増える一方で、兼六園の入場者数は2014年の197万人から2015年は289万人に増加しています。<br />金沢市は石川県の県庁所在地ですが、石川県を判り易く説明するツールが金沢市を中心に北陸地方で活躍していたご当地アイドル「おやゆびプリンセス」です。このグループ名は、左手の親指を立てて少し曲げた時の手の形が、手のひらが北陸地方、親指が能登半島の形に似ていることに因んで付けられました。丁度親指の周辺が石川県に当たり、県庁のHPでも「石川県はおやゆび県」と紹介されています。県内は北部の能登エリアと南部の加賀エリアに区分けされますが、実感としては金沢市の存在感が大きいように思います。<br />1583年に加賀藩 初代藩主として前田利家が金沢城に入城し、その後城下町の基盤が築かれ、前田家は「加賀・能登・越中」の3国、120万石を領地とする最大の大名になりました。薩摩藩が77万石、長州藩が36万石でしたので加賀藩は破格です。これには訳があり、幕府は秀吉の家臣だった利家が謀反を起こさないよう、加賀藩を与えて懐柔したと言われています。利家も腹を括り、謀反の意がないことを示すために文化の拠点となる道を選び、特に工芸や芸能の発展に努めました。こうして利家の入城以来300年間、政治・経済・文化の拠点として加賀は発展してきました。さらに戦災も免れたことで、歴史的な建造物や町並みが今に残されたのも幸いでした。孤高の街「金沢」と称される通り、加賀100万石の歴史が金沢市民の矜持を育んできたように思います。

問柳尋花 加賀紀行④金沢 武家屋敷

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2017/06/01 - 2017/06/03

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

2015年開業の北陸新幹線により東京~金沢間が2時間半で結ばれ、関東圏の方は金沢をより身近に感じられるようになったことでしょう。アクセスが便利になり、「女子旅」ブームにも火が着いたようです。確かに金沢は、歴史・文化伝統と美食が一度に愉しめる大人向けの街かもしれません。観光客は増える一方で、兼六園の入場者数は2014年の197万人から2015年は289万人に増加しています。
金沢市は石川県の県庁所在地ですが、石川県を判り易く説明するツールが金沢市を中心に北陸地方で活躍していたご当地アイドル「おやゆびプリンセス」です。このグループ名は、左手の親指を立てて少し曲げた時の手の形が、手のひらが北陸地方、親指が能登半島の形に似ていることに因んで付けられました。丁度親指の周辺が石川県に当たり、県庁のHPでも「石川県はおやゆび県」と紹介されています。県内は北部の能登エリアと南部の加賀エリアに区分けされますが、実感としては金沢市の存在感が大きいように思います。
1583年に加賀藩 初代藩主として前田利家が金沢城に入城し、その後城下町の基盤が築かれ、前田家は「加賀・能登・越中」の3国、120万石を領地とする最大の大名になりました。薩摩藩が77万石、長州藩が36万石でしたので加賀藩は破格です。これには訳があり、幕府は秀吉の家臣だった利家が謀反を起こさないよう、加賀藩を与えて懐柔したと言われています。利家も腹を括り、謀反の意がないことを示すために文化の拠点となる道を選び、特に工芸や芸能の発展に努めました。こうして利家の入城以来300年間、政治・経済・文化の拠点として加賀は発展してきました。さらに戦災も免れたことで、歴史的な建造物や町並みが今に残されたのも幸いでした。孤高の街「金沢」と称される通り、加賀100万石の歴史が金沢市民の矜持を育んできたように思います。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス JR特急
  • 夜通し雷様がドンチャン騒ぎをしていたので金沢観光はどうなることかとドキドキしておりましたが、朝方、水無山に虹が架かりました。

    夜通し雷様がドンチャン騒ぎをしていたので金沢観光はどうなることかとドキドキしておりましたが、朝方、水無山に虹が架かりました。

  • 山中温泉から金沢までは、北陸鉄道「加賀ゆのさと特急バス(温泉特急線)¥1350」を利用しました。「山中温泉」と「金沢駅西口」を70分程で結んでおり、「兼六園下」が終点になります。山中温泉バスターミナルを9:23に発車するため、ホテルでゆっくりできます。ターミナルまでは、ホテルの送迎バスで送ってもらいました。<br />せっかくの北陸の旅路ですので、日本海を拝みたいものです。特急バスなら、このように一部で海岸線を走ります。お天気は回復の兆しを見せていますが、海は少し荒れている模様です。<br />加賀ゆのさと特急バスのHPです。<br />http://www.hokutetsu.co.jp/highway-bus/express-kagayunosato

    山中温泉から金沢までは、北陸鉄道「加賀ゆのさと特急バス(温泉特急線)¥1350」を利用しました。「山中温泉」と「金沢駅西口」を70分程で結んでおり、「兼六園下」が終点になります。山中温泉バスターミナルを9:23に発車するため、ホテルでゆっくりできます。ターミナルまでは、ホテルの送迎バスで送ってもらいました。
    せっかくの北陸の旅路ですので、日本海を拝みたいものです。特急バスなら、このように一部で海岸線を走ります。お天気は回復の兆しを見せていますが、海は少し荒れている模様です。
    加賀ゆのさと特急バスのHPです。
    http://www.hokutetsu.co.jp/highway-bus/express-kagayunosato

  • JR金沢駅東口<br />金沢の玄関口となるのがJR金沢駅東口です。<br />「もてなしドーム」は原広司氏が設計した京都駅の二番煎じとの評価もありますが、金沢駅も北陸の「小京都」として本家に負けてはいられません。しかし最初に鼓をイメージした巨大なモニュメント「鼓門」が登場した際、金沢市民はかなりの酷評を浴びせたようです。その後、大きなガラスドームが架けられ、全体像が現れ、米国誌で世界の美しい駅に選ばれると、文句を言う人はひとりもいなくなったそうです。<br />「鼓門」はシンガポールの有名ホテル「マリーナベイサンズ」を彷彿とさせるところもありますが、米国旅行誌『Travel &amp; Leisure(2011)』は世界で最も美しい駅14選(6位)に選んでいます。また、2014年には、イギリスのホテル予約サイト「HostelBookers.com」の「世界で最も美しい14の駅」で、日本で唯一ランクインしています。 <br />金沢駅の魅力は、男性的な「鼓門」の木造構造と女性的な「もてなしドーム」の鉄骨構造とのマリアージュにあると言っても過言ではありません。ここから見ると、鼓門とドームが合体して巨大な要塞のようです。<br />尚、この写真は、山中温泉へJRを利用して帰る際に撮影したものです。17:00前でしたので逆光気味で暗くなってしまいました。鼓門を撮影するなら、午前中がお勧めです。

    JR金沢駅東口
    金沢の玄関口となるのがJR金沢駅東口です。
    「もてなしドーム」は原広司氏が設計した京都駅の二番煎じとの評価もありますが、金沢駅も北陸の「小京都」として本家に負けてはいられません。しかし最初に鼓をイメージした巨大なモニュメント「鼓門」が登場した際、金沢市民はかなりの酷評を浴びせたようです。その後、大きなガラスドームが架けられ、全体像が現れ、米国誌で世界の美しい駅に選ばれると、文句を言う人はひとりもいなくなったそうです。
    「鼓門」はシンガポールの有名ホテル「マリーナベイサンズ」を彷彿とさせるところもありますが、米国旅行誌『Travel & Leisure(2011)』は世界で最も美しい駅14選(6位)に選んでいます。また、2014年には、イギリスのホテル予約サイト「HostelBookers.com」の「世界で最も美しい14の駅」で、日本で唯一ランクインしています。
    金沢駅の魅力は、男性的な「鼓門」の木造構造と女性的な「もてなしドーム」の鉄骨構造とのマリアージュにあると言っても過言ではありません。ここから見ると、鼓門とドームが合体して巨大な要塞のようです。
    尚、この写真は、山中温泉へJRを利用して帰る際に撮影したものです。17:00前でしたので逆光気味で暗くなってしまいました。鼓門を撮影するなら、午前中がお勧めです。

  • JR金沢駅東口 鼓門<br />能や素囃子などの伝統芸能に使われている加賀宝生の鼓をイメージした、高さ13.7mの2脚の螺旋を描く柱に緩やかな曲面を描く屋根を架けたものです。屋根を支える部分には和風建築に見られる組み物を構造工学的にデザインし、金沢を訪れる人を迎える門として設置されています。<br />因みに、2脚の柱の中には送水管が通され、雨が天井に溜まったり雪が積もっても、送水管から貯水槽に送られるようになっています。加賀百万石の芸能の鼓を意識した、伝統と革新が共存する街である金沢を象徴する表玄関と言えます。

    JR金沢駅東口 鼓門
    能や素囃子などの伝統芸能に使われている加賀宝生の鼓をイメージした、高さ13.7mの2脚の螺旋を描く柱に緩やかな曲面を描く屋根を架けたものです。屋根を支える部分には和風建築に見られる組み物を構造工学的にデザインし、金沢を訪れる人を迎える門として設置されています。
    因みに、2脚の柱の中には送水管が通され、雨が天井に溜まったり雪が積もっても、送水管から貯水槽に送られるようになっています。加賀百万石の芸能の鼓を意識した、伝統と革新が共存する街である金沢を象徴する表玄関と言えます。

  • JR金沢駅東口 もてなしドーム<br />「もてなしドーム」は、雨や雪の多い金沢を訪れた人にそっと傘を差し出す金沢人のやさしさ、もてなしの心を表現するとのコンセプトで建築家 白江龍三氏が設計されました。<br />年中雨や雪に晒されている金沢では、「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるほど天候が崩れ易いようです。ですから、3019枚もの強化ガラスと6000本のアルミフレームを使用し、金沢の玄関口に、明るく、雨にも濡れない広場を提供しています。

    JR金沢駅東口 もてなしドーム
    「もてなしドーム」は、雨や雪の多い金沢を訪れた人にそっと傘を差し出す金沢人のやさしさ、もてなしの心を表現するとのコンセプトで建築家 白江龍三氏が設計されました。
    年中雨や雪に晒されている金沢では、「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるほど天候が崩れ易いようです。ですから、3019枚もの強化ガラスと6000本のアルミフレームを使用し、金沢の玄関口に、明るく、雨にも濡れない広場を提供しています。

  • JR金沢駅東口 もてなしドーム<br />金沢の知名度が高いため、石川県はアナウンサーでさえ間違って「金沢県」と言うことがあります。しかし汚名返上のために記せば、初回廃藩置県では加賀藩は「金沢県」と命名しています。僅か半年の寿命でしたが…。因みに「石川県」と命名された理由は、県庁を金沢から美川に移した際、その場所が石川郡だったからです。何故金沢県がNGだったかと言えば、明治時代初期に活躍したジャーナリスト宮武外骨は「新政府は朝敵や日和見藩には山や川の名前、もしくは郡名をあて、旧藩時代の名称や城下名を採用させなかった」と解説しています。諸説あり定かではありませんが、これがひとつの理由だとされています。<br />では石川郡の「石川」の名の由来はと言いえば、これも判っていないのが現状のようです。上流に霊峰 白山を擁し、美川を流れる手取川の別名が「石川」だったからとの説が有力のようですが…。

    JR金沢駅東口 もてなしドーム
    金沢の知名度が高いため、石川県はアナウンサーでさえ間違って「金沢県」と言うことがあります。しかし汚名返上のために記せば、初回廃藩置県では加賀藩は「金沢県」と命名しています。僅か半年の寿命でしたが…。因みに「石川県」と命名された理由は、県庁を金沢から美川に移した際、その場所が石川郡だったからです。何故金沢県がNGだったかと言えば、明治時代初期に活躍したジャーナリスト宮武外骨は「新政府は朝敵や日和見藩には山や川の名前、もしくは郡名をあて、旧藩時代の名称や城下名を採用させなかった」と解説しています。諸説あり定かではありませんが、これがひとつの理由だとされています。
    では石川郡の「石川」の名の由来はと言いえば、これも判っていないのが現状のようです。上流に霊峰 白山を擁し、美川を流れる手取川の別名が「石川」だったからとの説が有力のようですが…。

  • JR金沢駅東口 もてなしドーム<br />見上げると、幾何学模様の天井には五芒星(ペンタグラム)が燦然と輝いています。リングの中に星型があるのが判りますか?<br />五芒星は、安倍晴明の桔梗印など洋の東西を問わず魔術の記号とされ、守護に用いることもあれば上下を逆向きにして悪魔の象徴(デビルスター)にすることもできます。<br />しかし実際は五芒星などではなく、そのタネ明しが北國新聞社出版局編『金沢めぐり 話のネタ帖』に解説されています。<br />「もてなしドーム」はアルミ合金製のトラス構造物としては日本一の大きさを誇り、それ故に冬季には屋根に積もった雪の重みが半端ではありません。それをアルミ製トラスで耐え得る荷重に分散させる仕掛けが、この五芒星のリングです。このリングは、通称「テンションリング」と呼ばれ、壁の4ヶ所からケーブルでリングを引張って固定させ、これが土台の役割を果たしています。そして、リング内の星形の頂点5ヶ所から上方に突き出た束(支柱)で屋根を支えています。<br />つまり、この五芒星は、魔術のような神秘的な力は持ち合わせていませんが、金沢駅を守っていることに違いはありません。こうしたことから、五芒星はいつの頃からか「天使のリング」と呼ばれ、この真下で祈願すると願いが叶うと噂されているそうです。

    JR金沢駅東口 もてなしドーム
    見上げると、幾何学模様の天井には五芒星(ペンタグラム)が燦然と輝いています。リングの中に星型があるのが判りますか?
    五芒星は、安倍晴明の桔梗印など洋の東西を問わず魔術の記号とされ、守護に用いることもあれば上下を逆向きにして悪魔の象徴(デビルスター)にすることもできます。
    しかし実際は五芒星などではなく、そのタネ明しが北國新聞社出版局編『金沢めぐり 話のネタ帖』に解説されています。
    「もてなしドーム」はアルミ合金製のトラス構造物としては日本一の大きさを誇り、それ故に冬季には屋根に積もった雪の重みが半端ではありません。それをアルミ製トラスで耐え得る荷重に分散させる仕掛けが、この五芒星のリングです。このリングは、通称「テンションリング」と呼ばれ、壁の4ヶ所からケーブルでリングを引張って固定させ、これが土台の役割を果たしています。そして、リング内の星形の頂点5ヶ所から上方に突き出た束(支柱)で屋根を支えています。
    つまり、この五芒星は、魔術のような神秘的な力は持ち合わせていませんが、金沢駅を守っていることに違いはありません。こうしたことから、五芒星はいつの頃からか「天使のリング」と呼ばれ、この真下で祈願すると願いが叶うと噂されているそうです。

  • 香林坊(こうりんぼう)<br />香林坊という名称は、「坊」が付くことから「お坊さん」が由来です。諸説ありますが、有力なのが香林坊家由来の説です。越前朝倉氏に仕えた向田兵衛は、1580(天正8)年にこの地に移り、町人となって薬種商を営みました。比叡山の僧で縁者の香林坊を婿養子に迎え、店の名を「香林坊」と変えました。ある夜、兵衛の夢枕に立った地蔵尊のお告げにより、処方した目薬が前田利家の目の病を治し、香林坊は大いに名を上げました。夢で見た地蔵尊を造り、店の小屋根に安置すると商売が繁盛しました。寛永の大火の時、地蔵尊辺りで不思議と火が鎮まったため、香林坊の火除け地蔵とも呼ばれました。 <br /><br />石碑の後方にある奇妙奇天烈なモニュメントは、郡順治氏作の『走れ!』です。2004年に行われた「金沢まちなか彫刻コンペテーション」で最優秀賞に選ばれた作品です。金沢21世紀美術館がオープンした年と同じですので、町興しの一環なのでしょう。

    香林坊(こうりんぼう)
    香林坊という名称は、「坊」が付くことから「お坊さん」が由来です。諸説ありますが、有力なのが香林坊家由来の説です。越前朝倉氏に仕えた向田兵衛は、1580(天正8)年にこの地に移り、町人となって薬種商を営みました。比叡山の僧で縁者の香林坊を婿養子に迎え、店の名を「香林坊」と変えました。ある夜、兵衛の夢枕に立った地蔵尊のお告げにより、処方した目薬が前田利家の目の病を治し、香林坊は大いに名を上げました。夢で見た地蔵尊を造り、店の小屋根に安置すると商売が繁盛しました。寛永の大火の時、地蔵尊辺りで不思議と火が鎮まったため、香林坊の火除け地蔵とも呼ばれました。

    石碑の後方にある奇妙奇天烈なモニュメントは、郡順治氏作の『走れ!』です。2004年に行われた「金沢まちなか彫刻コンペテーション」で最優秀賞に選ばれた作品です。金沢21世紀美術館がオープンした年と同じですので、町興しの一環なのでしょう。

  • 金沢ふらっとバス<br />1999年に誕生した市営コミュニティバスです。(1乗車100円)<br />気軽に出かける様子の「ふらっと」と、入口から出口まで段差がない「ノンステップ・バス」の意味の「FLAT」の2つを合わせたネーミングです。車両ボディやバス停のカラーリングは加賀友禅の古典図柄を現代風にアレンジした金沢らしいデザインに統一し、街の景観にもマッチしています。<br />4ルートの循環ですが、いずれも片道運行しかなく、観光用に使うのは限定的です。何故ならこのバスは、市民の方の利用を主眼に運行しているからです。乗客の属性は、女性が7割、60歳代以上が6割を占めます。また、沿線住民アンケートによると、各ルートとも利用目的は買い物が5割と言うことから、高齢者や主婦層の買い物等日常生活の足として定着していると考えられます。

    金沢ふらっとバス
    1999年に誕生した市営コミュニティバスです。(1乗車100円)
    気軽に出かける様子の「ふらっと」と、入口から出口まで段差がない「ノンステップ・バス」の意味の「FLAT」の2つを合わせたネーミングです。車両ボディやバス停のカラーリングは加賀友禅の古典図柄を現代風にアレンジした金沢らしいデザインに統一し、街の景観にもマッチしています。
    4ルートの循環ですが、いずれも片道運行しかなく、観光用に使うのは限定的です。何故ならこのバスは、市民の方の利用を主眼に運行しているからです。乗客の属性は、女性が7割、60歳代以上が6割を占めます。また、沿線住民アンケートによると、各ルートとも利用目的は買い物が5割と言うことから、高齢者や主婦層の買い物等日常生活の足として定着していると考えられます。

  • 香林坊 東急スクエア<br />金沢市街を走るバスの多くがここを経由します。金沢の繁華街 片町と隣り合わせた、金沢の繁華街のひとつです。観光客が驚くのが旧「香林坊109」から全面リニューアルした「香林坊東急スクエア」です。かつては「渋谷109」さながらのルックスだったそうです。今でもその面影が残されています。<br /><br />

    香林坊 東急スクエア
    金沢市街を走るバスの多くがここを経由します。金沢の繁華街 片町と隣り合わせた、金沢の繁華街のひとつです。観光客が驚くのが旧「香林坊109」から全面リニューアルした「香林坊東急スクエア」です。かつては「渋谷109」さながらのルックスだったそうです。今でもその面影が残されています。

  • 長町<br />狭い道幅と入り組んだ路地は、江戸時代にタイムスリップした錯覚に陥らせ、今にも戸口から武士が姿を現しそうな雰囲気です。また、武家屋敷跡一帯に巡らされた土塀や用水、石畳が往時の風情を醸しています。多くの土塀には木羽板葺(こばいたぶき)という屋根が付けられています。また、京都や奈良で見られる土塀とは異なり、高さがないのが長町の土塀の特徴とされ、庭木の枝振りなどを塀越に覗くことができます。土塀の高さは禄高によって変わり、ここはミドルクラスの住居だったことが幸いしています。海外からの観光客もエキゾチック・ジャパ~ン(ちょっと古いかな?)に酔いしれています。<br />長町の名の由来は、藩政時代に前田家の重臣で加賀8家のひとつである長氏が代々ここに居を構えていたためと伝わりますが、異説もあります。

    長町
    狭い道幅と入り組んだ路地は、江戸時代にタイムスリップした錯覚に陥らせ、今にも戸口から武士が姿を現しそうな雰囲気です。また、武家屋敷跡一帯に巡らされた土塀や用水、石畳が往時の風情を醸しています。多くの土塀には木羽板葺(こばいたぶき)という屋根が付けられています。また、京都や奈良で見られる土塀とは異なり、高さがないのが長町の土塀の特徴とされ、庭木の枝振りなどを塀越に覗くことができます。土塀の高さは禄高によって変わり、ここはミドルクラスの住居だったことが幸いしています。海外からの観光客もエキゾチック・ジャパ~ン(ちょっと古いかな?)に酔いしれています。
    長町の名の由来は、藩政時代に前田家の重臣で加賀8家のひとつである長氏が代々ここに居を構えていたためと伝わりますが、異説もあります。

  • 長町<br />長町の一帯は、火災が少なかったこともあり、「長町武家屋敷跡」として藩政期の街並みが現在も残されています。中級武士が日常生活を営んでいた町ですが、現在は市の中心に位置する住宅街ともなっています。そのため、武家屋敷跡の境界線はぼんやりしていますが、歩を進めるほどに旧い街並みや現代の街並みが神出鬼没に表れるという趣です。

    長町
    長町の一帯は、火災が少なかったこともあり、「長町武家屋敷跡」として藩政期の街並みが現在も残されています。中級武士が日常生活を営んでいた町ですが、現在は市の中心に位置する住宅街ともなっています。そのため、武家屋敷跡の境界線はぼんやりしていますが、歩を進めるほどに旧い街並みや現代の街並みが神出鬼没に表れるという趣です。

  • 長町 二の橋通り<br />真っすぐに見える小路ながら少しずつ曲がって先が見えなくなる、「曲がり真っすぐ」という言葉がしっくりくる城下町特有の面影を残しています。これは金沢の旧い町並みによく見られ、城に攻め入る敵が知らず知らずのうちに城から逸れていくように工夫されています。<br />土塀の屋根にある木羽板葺も情緒を醸しています。<br />乳母車を押しながら歩くおばあちゃんの姿は、演出ではありません。全くの偶然です。

    長町 二の橋通り
    真っすぐに見える小路ながら少しずつ曲がって先が見えなくなる、「曲がり真っすぐ」という言葉がしっくりくる城下町特有の面影を残しています。これは金沢の旧い町並みによく見られ、城に攻め入る敵が知らず知らずのうちに城から逸れていくように工夫されています。
    土塀の屋根にある木羽板葺も情緒を醸しています。
    乳母車を押しながら歩くおばあちゃんの姿は、演出ではありません。全くの偶然です。

  • 長町二の橋 大野庄用水 <br />長町を貫いて南北に流れる小川は、大野庄用水と言います。案内板によると、天正~慶長年間(1573~1615年)に金沢城が築城された際、大野や金石の湊から犀川を遡って木材を運び、この水路に引き入れたそうです。そうした由来から「御荷川」と呼ばれていましたが、現在は大野庄用水に名を改めています。<br />往時は、この水路の水を引き入れ、庭園の曲水に用いた屋敷も少なくなかったようです。文明開化の時期には、この水路の流れを利用した水車小屋の動力が金沢の産業発展を支えたとも言われています。今も清らかな水が流れる用水は、武家屋敷の町並みに風情ある景観を添えるアクセントにもなっています。<br />水嵩があるのは、昨晩の雷雨のせいと思います。

    長町二の橋 大野庄用水
    長町を貫いて南北に流れる小川は、大野庄用水と言います。案内板によると、天正~慶長年間(1573~1615年)に金沢城が築城された際、大野や金石の湊から犀川を遡って木材を運び、この水路に引き入れたそうです。そうした由来から「御荷川」と呼ばれていましたが、現在は大野庄用水に名を改めています。
    往時は、この水路の水を引き入れ、庭園の曲水に用いた屋敷も少なくなかったようです。文明開化の時期には、この水路の流れを利用した水車小屋の動力が金沢の産業発展を支えたとも言われています。今も清らかな水が流れる用水は、武家屋敷の町並みに風情ある景観を添えるアクセントにもなっています。
    水嵩があるのは、昨晩の雷雨のせいと思います。

  • 武家屋敷跡野村家<br />長町にある武家屋敷跡界隈で唯一、一般公開されている武家屋敷跡です。<br />三の橋の近くにあるこの看板を目印にすると、野村家の場所を探すことになります。看板の正面にあるお屋敷ではなく、この看板の右手に正門があります。この看板は、乗用車で来られた方への案内用と思われます。<br />屋敷のお隣に駐車場があり、人が出入りしているのですぐ見つかりますが…。

    武家屋敷跡野村家
    長町にある武家屋敷跡界隈で唯一、一般公開されている武家屋敷跡です。
    三の橋の近くにあるこの看板を目印にすると、野村家の場所を探すことになります。看板の正面にあるお屋敷ではなく、この看板の右手に正門があります。この看板は、乗用車で来られた方への案内用と思われます。
    屋敷のお隣に駐車場があり、人が出入りしているのですぐ見つかりますが…。

  • 武家屋敷跡野村家 玄関<br />正門の先には由緒ありげな巨大な飛び石が配され、玄関までナビゲートしてくれます。<br />前田利家に直臣として従った野村伝兵衛信貞の屋敷です。野村家は1200石の禄高を与えられ、11代に亘って御馬廻組組頭、各奉行職を歴任し、明治44年の廃藩まで続いた名家でした。<br />加賀藩では、武士階級は6段階に分けられ、上級武士から足軽に至るまで全ての藩士に一戸建ての家が付与されていました。階級が上であるほど敷地は大きくなり、この長町は中級武士が多く暮らす町でした。中級武士の暮らしぶりを偲ばせるのは、土塀の所々に見られる立派な門構えとその奥に潜む庭園です。しかし明治時代に入ると武家制度が解体され、菜園に転化されたものも少なくないそうです。そんな時代の潮流の中、今日まで残された庭園のひとつが野村家にある庭園です。

    武家屋敷跡野村家 玄関
    正門の先には由緒ありげな巨大な飛び石が配され、玄関までナビゲートしてくれます。
    前田利家に直臣として従った野村伝兵衛信貞の屋敷です。野村家は1200石の禄高を与えられ、11代に亘って御馬廻組組頭、各奉行職を歴任し、明治44年の廃藩まで続いた名家でした。
    加賀藩では、武士階級は6段階に分けられ、上級武士から足軽に至るまで全ての藩士に一戸建ての家が付与されていました。階級が上であるほど敷地は大きくなり、この長町は中級武士が多く暮らす町でした。中級武士の暮らしぶりを偲ばせるのは、土塀の所々に見られる立派な門構えとその奥に潜む庭園です。しかし明治時代に入ると武家制度が解体され、菜園に転化されたものも少なくないそうです。そんな時代の潮流の中、今日まで残された庭園のひとつが野村家にある庭園です。

  • 武家屋敷跡野村家 入口<br />かつての敷地は千坪を越えたそうですが、明治時代以降、土地を分譲するなどして現在はその1/3程の広さです。幾度も住人が変わり、屋敷の様相も遷移したようですが、土塀や曲水、樹木などが野村家時代の面影を残しています。<br />現在の建物は、北前船の船主であり豪商でもあった久保彦兵衛が藩主を招くために1843(天保14)年に金に糸目を付けない総檜造りで建てた豪邸の「上段の間」と「謁見の間」を、昭和時代初期に下橋立村(現 加賀市)から野村家屋敷跡に移築したものです。

    武家屋敷跡野村家 入口
    かつての敷地は千坪を越えたそうですが、明治時代以降、土地を分譲するなどして現在はその1/3程の広さです。幾度も住人が変わり、屋敷の様相も遷移したようですが、土塀や曲水、樹木などが野村家時代の面影を残しています。
    現在の建物は、北前船の船主であり豪商でもあった久保彦兵衛が藩主を招くために1843(天保14)年に金に糸目を付けない総檜造りで建てた豪邸の「上段の間」と「謁見の間」を、昭和時代初期に下橋立村(現 加賀市)から野村家屋敷跡に移築したものです。

  • 武家屋敷跡野村家 玄関<br />玄関の欄間は手の込んだ仕事ぶりが伝わってくるような作品で、目を瞠ります。

    武家屋敷跡野村家 玄関
    玄関の欄間は手の込んだ仕事ぶりが伝わってくるような作品で、目を瞠ります。

  • 武家屋敷跡野村家 玄関<br />玄関に入ると早速、無骨な甲冑がお出迎えです。天正12年、前田利家軍と佐々成政軍が戦った加賀・能登・越中三国の要とも言える末森城の戦いで野村伝兵衛が着用した甲冑です。このような歴史的に貴重な品が、ガラスケースに入れて展示されています。<br />野村伝兵衛の一番槍の功績が前田利家に認められ、1000石の加増を授かったという、記念すべき戦で実際に使われた甲冑だと思うと感慨深いものがあります。<br />因みに股の下にあるのは、野村家の家紋「棕櫚(しゅろ)の葉」です。「天狗のウチワ」にも見えますが、新田氏が祖として足利尊氏に組した時の旗印が「棕櫚の葉」であり、駿河浅間神社の神紋と同じだそうです。現在「棕櫚の葉」を家紋にしているのは野村家以外にないそうです。

    武家屋敷跡野村家 玄関
    玄関に入ると早速、無骨な甲冑がお出迎えです。 天正12年、前田利家軍と佐々成政軍が戦った加賀・能登・越中三国の要とも言える末森城の戦いで野村伝兵衛が着用した甲冑です。このような歴史的に貴重な品が、ガラスケースに入れて展示されています。
    野村伝兵衛の一番槍の功績が前田利家に認められ、1000石の加増を授かったという、記念すべき戦で実際に使われた甲冑だと思うと感慨深いものがあります。
    因みに股の下にあるのは、野村家の家紋「棕櫚(しゅろ)の葉」です。「天狗のウチワ」にも見えますが、新田氏が祖として足利尊氏に組した時の旗印が「棕櫚の葉」であり、駿河浅間神社の神紋と同じだそうです。現在「棕櫚の葉」を家紋にしているのは野村家以外にないそうです。

  • 武家屋敷跡野村家<br />受付でいただいたしおりです。<br />この間取り図でおおよその位置関係を確認しておかれると便利だと思います。

    武家屋敷跡野村家
    受付でいただいたしおりです。
    この間取り図でおおよその位置関係を確認しておかれると便利だと思います。

  • 武家屋敷跡野村家 奥の間<br />判り易いように、一番奥にある「奥の間」から順に紹介いたします。<br />床の間と床脇棚、左に付書院が備えられたシンプルな書院造風の造りです。床脇棚には、天袋と地袋を設えています。付書院が4枚障子というのは余り見かけない大きさです。<br />床の間に掛けられた軸は、第15代当主 前田利嗣の筆になるものです。加賀藩は14代目で明治維新を迎えましたから、14代藩主 慶寧が最後の藩主になります。

    武家屋敷跡野村家 奥の間
    判り易いように、一番奥にある「奥の間」から順に紹介いたします。
    床の間と床脇棚、左に付書院が備えられたシンプルな書院造風の造りです。床脇棚には、天袋と地袋を設えています。付書院が4枚障子というのは余り見かけない大きさです。
    床の間に掛けられた軸は、第15代当主 前田利嗣の筆になるものです。加賀藩は14代目で明治維新を迎えましたから、14代藩主 慶寧が最後の藩主になります。

  • 武家屋敷跡野村家 奥の間<br />軒や床柱、天井は燻したような褐色を呈し、重厚な落ち着いた色合いの素材です。漆塗りの柱と金色の襖との配色バランスが絶妙です。

    武家屋敷跡野村家 奥の間
    軒や床柱、天井は燻したような褐色を呈し、重厚な落ち着いた色合いの素材です。漆塗りの柱と金色の襖との配色バランスが絶妙です。

  • 武家屋敷跡野村家 奥の間<br />奥の間から控えの間の方向を見ています。<br />襖には鳥をモチーフにした絵が描かれ、これは狩野派の絵師 山口梅園の筆によるものです。大聖寺藩士で心流剣術の名手でもあった梅園は、小原文英に師事して絵画を学び、さらに京に赴き浦上春琴に師事したという異色の士です。その異色の士の襖絵が縁あってここに残されています。<br />襖絵には損傷防止のためにガラスが嵌め込まれ、カメラ写りはご覧の通りに残念なものになります。多くの施設が複製を使う中、本物の襖絵を使われているため、やむを得ない所もあります。写真ではなく、自分の目で鑑賞するのが一番です。

    武家屋敷跡野村家 奥の間
    奥の間から控えの間の方向を見ています。
    襖には鳥をモチーフにした絵が描かれ、これは狩野派の絵師 山口梅園の筆によるものです。大聖寺藩士で心流剣術の名手でもあった梅園は、小原文英に師事して絵画を学び、さらに京に赴き浦上春琴に師事したという異色の士です。その異色の士の襖絵が縁あってここに残されています。
    襖絵には損傷防止のためにガラスが嵌め込まれ、カメラ写りはご覧の通りに残念なものになります。多くの施設が複製を使う中、本物の襖絵を使われているため、やむを得ない所もあります。写真ではなく、自分の目で鑑賞するのが一番です。

  • 武家屋敷跡野村家 奥の間<br />奥の間側の欄間です。<br />欄間の透かし彫りは、象2頭を中心に、右に人物、そして小鳥を2羽地面に侍らせてています。野村家は明治時代以降の改造が見られるため、この欄間もそれ以降に付け替えられたものかもしれません。 <br />欄間の彫り物は中国の故事を彫らせるパターンが多いのですが、象が登場する故事は限られています。その中で「鳥」をキーワードにすると、あり得そうなのは『中国二十四孝』の中の「舜王(しゅんおう)」の故事です。<br />舜は大変孝行な人で、父の名前は瞽叟と言い頑固者で、母はひねくれ者、弟はおごった能無しでした。しかし舜は、ひたすら孝行を続けました。舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥がやって来て田の草を取り、農作業を助けました。その時の皇帝が堯王で、王は舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ皇帝の座を舜に譲りました。これも孝行の心が起こした奇跡というお話です。

    武家屋敷跡野村家 奥の間
    奥の間側の欄間です。
    欄間の透かし彫りは、象2頭を中心に、右に人物、そして小鳥を2羽地面に侍らせてています。野村家は明治時代以降の改造が見られるため、この欄間もそれ以降に付け替えられたものかもしれません。
    欄間の彫り物は中国の故事を彫らせるパターンが多いのですが、象が登場する故事は限られています。その中で「鳥」をキーワードにすると、あり得そうなのは『中国二十四孝』の中の「舜王(しゅんおう)」の故事です。
    舜は大変孝行な人で、父の名前は瞽叟と言い頑固者で、母はひねくれ者、弟はおごった能無しでした。しかし舜は、ひたすら孝行を続けました。舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥がやって来て田の草を取り、農作業を助けました。その時の皇帝が堯王で、王は舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ皇帝の座を舜に譲りました。これも孝行の心が起こした奇跡というお話です。

  • 武家屋敷跡野村家 奥の間<br />古代中国の三皇五帝時代の故事を現わした透かし彫りです。有名な許由(きょゆう)と巣父(そうほ)のエピソードを1枚の欄間に透かし彫りしています。<br />左側は、「許由が頴川(えいせん)で耳を洗う」という故事をモチーフにしています。時の帝が許由の高潔な人柄を聞き、位を譲ろうとすると当の許由は箕山に隠れてしまいます。許由をさらに高い地位で処遇しようとしたところ、許由が頴川の畔で「汚らわしいことを聞いた」と川の流れで自分の耳をすすいだという故事です。<br />対になっている右側は、「許由、耳を洗えば巣父牛をひいて帰るの図」の故事です。帝と許由のやりとりを見聞きしていた伝説の隠者 巣父が許由のエピソードを知り、「汚れた水を牛に飲ませるわけにはいかない」と言って牛を連れて帰ったと言う故事です。

    武家屋敷跡野村家 奥の間
    古代中国の三皇五帝時代の故事を現わした透かし彫りです。 有名な許由(きょゆう)と巣父(そうほ)のエピソードを1枚の欄間に透かし彫りしています。
    左側は、「許由が頴川(えいせん)で耳を洗う」という故事をモチーフにしています。 時の帝が許由の高潔な人柄を聞き、位を譲ろうとすると当の許由は箕山に隠れてしまいます。許由をさらに高い地位で処遇しようとしたところ、許由が頴川の畔で「汚らわしいことを聞いた」と川の流れで自分の耳をすすいだという故事です。
    対になっている右側は、「許由、耳を洗えば巣父牛をひいて帰るの図」の故事です。帝と許由のやりとりを見聞きしていた伝説の隠者 巣父が許由のエピソードを知り、「汚れた水を牛に飲ませるわけにはいかない」と言って牛を連れて帰ったと言う故事です。

  • 武家屋敷跡野村家 控え間<br />控えの間から謁見の間の方向を見ています。<br />豪華な襖絵は、奥の間と同様に山口梅園の筆によるものです。<br />その他の見所は、ここも欄間です。<br /><br />

    武家屋敷跡野村家 控え間
    控えの間から謁見の間の方向を見ています。
    豪華な襖絵は、奥の間と同様に山口梅園の筆によるものです。
    その他の見所は、ここも欄間です。

  • 武家屋敷跡野村家 控えの間<br />さきほどの欄間を控えの間から見た様子です。<br />表と裏になっており、こちら側が裏に当たります。表裏で辻褄の合う彫刻になっていますが、こちらから見ると何が彫られているか判り難いです。

    武家屋敷跡野村家 控えの間
    さきほどの欄間を控えの間から見た様子です。
    表と裏になっており、こちら側が裏に当たります。表裏で辻褄の合う彫刻になっていますが、こちらから見ると何が彫られているか判り難いです。

  • 武家屋敷跡野村家 控えの間<br />こちらも裏側から見たものです。

    武家屋敷跡野村家 控えの間
    こちらも裏側から見たものです。

  • 武家屋敷跡野村家 控えの間<br />謁見の間側の欄間です。<br />消え入るような細い三日月を中央に配しています。板の上面が波打っていることから、水面に映った三日月を表現したものと思われます。<br />

    武家屋敷跡野村家 控えの間
    謁見の間側の欄間です。
    消え入るような細い三日月を中央に配しています。板の上面が波打っていることから、水面に映った三日月を表現したものと思われます。

  • 武家屋敷跡野村家 控えの間<br />こちらは波間を飛翔する鳥のようです。<br />木板の年輪が小波のように映り、シナジー効果をだしています。

    武家屋敷跡野村家 控えの間
    こちらは波間を飛翔する鳥のようです。
    木板の年輪が小波のように映り、シナジー効果をだしています。

  • 武家屋敷跡野村家 控えの間<br />随所に施された釘隠しも見所です。こちらは、『源氏物語』に由来する葵の意匠です。こうした細やかな心配りが、和のおもてなし精神の本質なのでしょう。<br />

    武家屋敷跡野村家 控えの間
    随所に施された釘隠しも見所です。こちらは、『源氏物語』に由来する葵の意匠です。こうした細やかな心配りが、和のおもてなし精神の本質なのでしょう。

  • 武家屋敷跡野村家 謁見の間<br />豪商 久保彦兵衛の豪邸から上段の間と共に移築された間であり、当主が大聖寺藩主を自宅に招いた際に用いた謁見の間です。<br />こちらの白い牡丹の襖絵も山口梅園の筆による『四季爛漫の図』のひとつで、狩野派の代表的な密画筆法とされています。<br />正面に見える御簾を垂らして一段高くした間が、上段の間です。<br />右端に見える廊下のようなスペースは、見取り図によると「武者隠し」です。

    武家屋敷跡野村家 謁見の間
    豪商 久保彦兵衛の豪邸から上段の間と共に移築された間であり、当主が大聖寺藩主を自宅に招いた際に用いた謁見の間です。
    こちらの白い牡丹の襖絵も山口梅園の筆による『四季爛漫の図』のひとつで、狩野派の代表的な密画筆法とされています。
    正面に見える御簾を垂らして一段高くした間が、上段の間です。
    右端に見える廊下のようなスペースは、見取り図によると「武者隠し」です。

  • 武家屋敷跡野村家 謁見の間<br />謁見の間の左には仏間もあり、そこには堂々とした金仏壇が置かれています。<br />仏壇の右の軸には、経典を求めて天竺へ旅する三蔵法師と思しき姿が描かれています。版画ですが、これは珍しいものではないようです。<br />その右側に配された火灯窓が仏間の雰囲気を醸しています。

    武家屋敷跡野村家 謁見の間
    謁見の間の左には仏間もあり、そこには堂々とした金仏壇が置かれています。
    仏壇の右の軸には、経典を求めて天竺へ旅する三蔵法師と思しき姿が描かれています。版画ですが、これは珍しいものではないようです。
    その右側に配された火灯窓が仏間の雰囲気を醸しています。

  • 武家屋敷跡野村家 謁見の間<br />謁見の間から控えの間方面を見ています。<br />

    武家屋敷跡野村家 謁見の間
    謁見の間から控えの間方面を見ています。

  • 武家屋敷跡野村家 謁見の間<br />精巧な細工がなされた黒柿の透かし彫りの扇形の釘隠しが、いい仕事をしています。<br />

    武家屋敷跡野村家 謁見の間
    精巧な細工がなされた黒柿の透かし彫りの扇形の釘隠しが、いい仕事をしています。

  • 武家屋敷跡野村家 仏間<br />「瓶割りの図」という中国北宋時代の学者・政治家 司馬光の子供の頃の逸話です。<br />大きな水瓶の周りで友達と遊んでいた時、友達のひとりが誤って瓶の中に落ちた。瓶は大きく、滑って這い上がれません。このままでは、溺れてしまう。友達はオロオロするばかりでしたが、司馬光は冷静に石を取って瓶に叩きつけました。瓶は割れ、少年は水とともに瓶から流れ出て救われました。大きな瓶、そしてそこに蓄えられた水は、11世紀の中国では大変な貴重品でした。子供たちは、水を大切にするよう、また瓶を割らないように重々注意されていました。それ故に、仲間の命が危機に晒されても、その教えに縛られて瓶を割るという考えに至らなかったのでした。後に偉人と称された司馬光だけが、「水と瓶より、命が大事」を当たり前と考え、咄嗟に石を持つことができたのでした。

    武家屋敷跡野村家 仏間
    「瓶割りの図」という中国北宋時代の学者・政治家 司馬光の子供の頃の逸話です。
    大きな水瓶の周りで友達と遊んでいた時、友達のひとりが誤って瓶の中に落ちた。瓶は大きく、滑って這い上がれません。このままでは、溺れてしまう。友達はオロオロするばかりでしたが、司馬光は冷静に石を取って瓶に叩きつけました。瓶は割れ、少年は水とともに瓶から流れ出て救われました。大きな瓶、そしてそこに蓄えられた水は、11世紀の中国では大変な貴重品でした。子供たちは、水を大切にするよう、また瓶を割らないように重々注意されていました。それ故に、仲間の命が危機に晒されても、その教えに縛られて瓶を割るという考えに至らなかったのでした。後に偉人と称された司馬光だけが、「水と瓶より、命が大事」を当たり前と考え、咄嗟に石を持つことができたのでした。

  • 武家屋敷跡野村家 仏壇の間<br />見たことのない難解な彫刻です。まな板の上にあるのが「鳥のあばら」とすれば、「鶏肋(けいろく)」と考えられます。大して役には立たないが、捨ててしまうには惜しいものの例えてして使われます。<br />「鶏肋」とは、ニワトリのあばら骨のことです。ニワトリのあばら骨は、食べるほど肉は付いていませんが、料理のダシなどが取れるため、そのまま捨てるには惜しいことが由来です。<br />魏の曹操が、蜀の劉備を討つために漢中に出陣するが、苦戦を強いられていた。陣中で軍の進退を考えているとき、出てきた料理の中にニワトリのあばら骨があった。それを見ながら、曹操は「鶏肋」という言葉をつぶやいた。この言葉を聞き、部下である楊修が曹操の気持ちを「撤退するのは惜しいが、これ以上戦っても益がないと考え、撤退するつもりだろう」と解説したというお話です。

    武家屋敷跡野村家 仏壇の間
    見たことのない難解な彫刻です。まな板の上にあるのが「鳥のあばら」とすれば、「鶏肋(けいろく)」と考えられます。大して役には立たないが、捨ててしまうには惜しいものの例えてして使われます。
    「鶏肋」とは、ニワトリのあばら骨のことです。ニワトリのあばら骨は、食べるほど肉は付いていませんが、料理のダシなどが取れるため、そのまま捨てるには惜しいことが由来です。
    魏の曹操が、蜀の劉備を討つために漢中に出陣するが、苦戦を強いられていた。陣中で軍の進退を考えているとき、出てきた料理の中にニワトリのあばら骨があった。それを見ながら、曹操は「鶏肋」という言葉をつぶやいた。この言葉を聞き、部下である楊修が曹操の気持ちを「撤退するのは惜しいが、これ以上戦っても益がないと考え、撤退するつもりだろう」と解説したというお話です。

  • 武家屋敷跡野村家 上段の間<br />謁見の間から上段の間を見ています。この先は立ち入り禁止です。<br />寺院や城郭で見られる総檜造りの格式高い折上格天井になっています。藩主を招いた時にだけ使用したとされ、壁は弁柄(べんがら)塗りで艶かしく、紫檀や黒檀を潤沢に用いた緻密な細工造りが施され、畳下は銅板張りになっているそうです。<br />また、上段の間や付書院にある14枚の障子の腰窓には、巾60cm、高さ65cmの透明度の高いギヤマン(輸入物)が嵌め込まれています。

    武家屋敷跡野村家 上段の間
    謁見の間から上段の間を見ています。この先は立ち入り禁止です。
    寺院や城郭で見られる総檜造りの格式高い折上格天井になっています。藩主を招いた時にだけ使用したとされ、壁は弁柄(べんがら)塗りで艶かしく、紫檀や黒檀を潤沢に用いた緻密な細工造りが施され、畳下は銅板張りになっているそうです。
    また、上段の間や付書院にある14枚の障子の腰窓には、巾60cm、高さ65cmの透明度の高いギヤマン(輸入物)が嵌め込まれています。

  • 武家屋敷跡野村家 上段の間<br />天袋や地袋、襖絵は加賀藩のお抱え絵師 佐々木泉景(狩野派最高峰 法眼位)の筆になります。<br />襖絵の加減でしょうか、他の間と比べて落ち着いた雰囲気に思えます。<br />いただいたしおりに紹介されている付書院にある地袋の『遊亀の図』は、左側の床脇棚の下ではなく、意外にも右側にある床の間の手前にあります。<br />写真の中央やや右の下にある引き戸です。

    武家屋敷跡野村家 上段の間
    天袋や地袋、襖絵は加賀藩のお抱え絵師 佐々木泉景(狩野派最高峰 法眼位)の筆になります。
    襖絵の加減でしょうか、他の間と比べて落ち着いた雰囲気に思えます。
    いただいたしおりに紹介されている付書院にある地袋の『遊亀の図』は、左側の床脇棚の下ではなく、意外にも右側にある床の間の手前にあります。
    写真の中央やや右の下にある引き戸です。

  • 武家屋敷跡野村家 上段の間<br />『遊亀の図』のクローズアップです。<br />この金箔地の墨絵で亀をあしらった『遊亀の図』は、佐々木泉景代表的な作品として高い評価を得ているそうです。<br />しかし薄暗い上に遠すぎて、詳細が観られないのは残念です。

    武家屋敷跡野村家 上段の間
    『遊亀の図』のクローズアップです。
    この金箔地の墨絵で亀をあしらった『遊亀の図』は、佐々木泉景代表的な作品として高い評価を得ているそうです。
    しかし薄暗い上に遠すぎて、詳細が観られないのは残念です。

  • 武家屋敷跡野村家 上段の間<br />天袋の戸袋4枚は、金地の絹張りに墨絵で梅に鶯をあしらっています。<br />鶯は、一見、雀のようにも見えてしまいます。<br />

    武家屋敷跡野村家 上段の間
    天袋の戸袋4枚は、金地の絹張りに墨絵で梅に鶯をあしらっています。
    鶯は、一見、雀のようにも見えてしまいます。

  • 武家屋敷跡野村家 上段の間<br />天井は、このように寺院や城郭で見られるような、白木の総檜造りの豪放な折上格天井になっています。<br />

    武家屋敷跡野村家 上段の間
    天井は、このように寺院や城郭で見られるような、白木の総檜造りの豪放な折上格天井になっています。

  • 武家屋敷跡野村家 上段の間<br />武者隠しの先から床の間方向を見ています。<br />こちらの掛け軸は、右が13代藩主 斉泰、左が14代藩主 慶寧の筆になります。<br />柱は、檜の四方柾目の白無垢づくりです。<br />

    武家屋敷跡野村家 上段の間
    武者隠しの先から床の間方向を見ています。
    こちらの掛け軸は、右が13代藩主 斉泰、左が14代藩主 慶寧の筆になります。
    柱は、檜の四方柾目の白無垢づくりです。

  • 武家屋敷跡野村家 上段の間<br />床の間の床框(とこかまち)は、1.8mある黒柿です。<br />床の間に置かれた香炉には、亀か河童の頭のようなものが見えます。何なんでしょうか?

    武家屋敷跡野村家 上段の間
    床の間の床框(とこかまち)は、1.8mある黒柿です。
    床の間に置かれた香炉には、亀か河童の頭のようなものが見えます。何なんでしょうか?

  • 武家屋敷跡野村家 上段の間<br />庭方向から上段の間を見ると 佐々木泉景の筆になる襖絵が見られます。こちらは71歳の時に描いた雄渾な山水画『唐土八景図』です。<br />ここから見る謁見の間の欄間の意匠も素敵です。<br />その先にあるのが、中庭です。

    武家屋敷跡野村家 上段の間
    庭方向から上段の間を見ると 佐々木泉景の筆になる襖絵が見られます。こちらは71歳の時に描いた雄渾な山水画『唐土八景図』です。
    ここから見る謁見の間の欄間の意匠も素敵です。
    その先にあるのが、中庭です。

  • 武家屋敷跡野村家 上段の間<br />金彫師の手による黒柿の透かし彫りの釘隠しです。<br />獣を抽象的に表しているようですが、何なのかな不明です。<br />ショーケースには、鶏や龍の釘隠しが展示されていましたが、その類とは異なります。ひょっとして、「ウマ」?「UMA」???<br />

    武家屋敷跡野村家 上段の間
    金彫師の手による黒柿の透かし彫りの釘隠しです。
    獣を抽象的に表しているようですが、何なのかな不明です。
    ショーケースには、鶏や龍の釘隠しが展示されていましたが、その類とは異なります。ひょっとして、「ウマ」?「UMA」???

  • 武家屋敷跡野村家 付書院 聲桶(こうけい)<br />上段の間から庭の濡れ縁に出る手前の付書院には、「聲桶」と表示された木箱が置かれています。<br />鶯が入った鳥かごをこの桐箱に入れ、鳴き声を共鳴させて風情を愉しんだものだそうです。雅なものかもしれませんが、鶯にとっては迷惑千万なものだったに違いありません。<br />

    武家屋敷跡野村家 付書院 聲桶(こうけい)
    上段の間から庭の濡れ縁に出る手前の付書院には、「聲桶」と表示された木箱が置かれています。
    鶯が入った鳥かごをこの桐箱に入れ、鳴き声を共鳴させて風情を愉しんだものだそうです。雅なものかもしれませんが、鶯にとっては迷惑千万なものだったに違いありません。

  • 武家屋敷跡野村家 庭園<br />「奥の間」からは、外の縁に出て庭を愛でることができます。贅を尽くした建物も見応えがありますが、野村家時代の面影を残す庭園が最大の見所です。<br />庭園は、現在の持ち主が30年程前に資料に基づいて復元されたものですが、曲水に織り込むように樹木や石を配した様は閑寂な風情に富んで味わい深く、加賀藩武士の美意識の一端を垣間見る思いがします。曲水や滝と相俟って、狭いながらも深山幽谷を彷彿とさせる趣です。<br />因みに野村家の庭は、2009年のミシュランガイドの2つ星や米国庭園専門誌『The Journal of Japanese Gardening (2003)』で日本庭園ランキングの第3位にランクインしています。1位が足立美術館、2位が桂離宮でした。この日も海外からの見学者がおられました。

    武家屋敷跡野村家 庭園
    「奥の間」からは、外の縁に出て庭を愛でることができます。贅を尽くした建物も見応えがありますが、野村家時代の面影を残す庭園が最大の見所です。
    庭園は、現在の持ち主が30年程前に資料に基づいて復元されたものですが、曲水に織り込むように樹木や石を配した様は閑寂な風情に富んで味わい深く、加賀藩武士の美意識の一端を垣間見る思いがします。曲水や滝と相俟って、狭いながらも深山幽谷を彷彿とさせる趣です。
    因みに野村家の庭は、2009年のミシュランガイドの2つ星や米国庭園専門誌『The Journal of Japanese Gardening (2003)』で日本庭園ランキングの第3位にランクインしています。1位が足立美術館、2位が桂離宮でした。この日も海外からの見学者がおられました。

  • 武家屋敷跡野村家 庭園<br />こちらも奥の間からの景色です。この左端の目の前にある大木が樹齢400年の椎(スタジイ)の古木です。右にあるアーチ状の石橋が「さくら御影石」で造られた「大架け橋」です。その左奥にある大きな木が、野村伝兵衛が故郷の尾張を偲んで植えたという樹齢400年の山桃です。<br />庭園には曲水が造られ、大雪見燈籠、春日燈籠、多宝塔、さくら御影石の大架け橋、植栽がバランスよく巧みに配され、小規模ながらも箱庭風の趣を湛えています。広さはそれほどありませんが、日本庭園の「粋」を凝縮して解き放した感じがあり、立体的で実際の広さより奥行きを感じさせます。燈籠の数が多いのも京都と異なる風趣で、加賀独特の文化なのでしょう。あらゆるものが高密度に配され、あれこれ思案しながら作庭している姿が目に浮かぶような庭園です。

    武家屋敷跡野村家 庭園
    こちらも奥の間からの景色です。この左端の目の前にある大木が樹齢400年の椎(スタジイ)の古木です。右にあるアーチ状の石橋が「さくら御影石」で造られた「大架け橋」です。その左奥にある大きな木が、野村伝兵衛が故郷の尾張を偲んで植えたという樹齢400年の山桃です。
    庭園には曲水が造られ、大雪見燈籠、春日燈籠、多宝塔、さくら御影石の大架け橋、植栽がバランスよく巧みに配され、小規模ながらも箱庭風の趣を湛えています。広さはそれほどありませんが、日本庭園の「粋」を凝縮して解き放した感じがあり、立体的で実際の広さより奥行きを感じさせます。燈籠の数が多いのも京都と異なる風趣で、加賀独特の文化なのでしょう。あらゆるものが高密度に配され、あれこれ思案しながら作庭している姿が目に浮かぶような庭園です。

  • 武家屋敷跡野村家 濡れ縁<br />中央にある石橋を境に曲水の左側と右側の水面に1m程の高低差が付けられています。つまり、石橋の真下に小さな滝があり、ここから静寂さをより高めるような音を発しています。これは、日本庭園にある「鹿威し」と同様の演出です。しかも立体的な造りになっている分、現物を間近に見ると勇壮に感じます。加賀気質なのか、少々てんこ盛りといった気もしますが…。<br />2基背の高い燈篭が並んでいますが、右側の樹木に少し隠れたのが「大雪見燈籠」です。写真ではサイズ感は判り難いのですが、高さ1.8mあり、13基ある燈籠の中で最大のものです。冬季のこも掛けされた美しい姿も魅力的です。

    武家屋敷跡野村家 濡れ縁
    中央にある石橋を境に曲水の左側と右側の水面に1m程の高低差が付けられています。つまり、石橋の真下に小さな滝があり、ここから静寂さをより高めるような音を発しています。これは、日本庭園にある「鹿威し」と同様の演出です。しかも立体的な造りになっている分、現物を間近に見ると勇壮に感じます。加賀気質なのか、少々てんこ盛りといった気もしますが…。
    2基背の高い燈篭が並んでいますが、右側の樹木に少し隠れたのが「大雪見燈籠」です。写真ではサイズ感は判り難いのですが、高さ1.8mあり、13基ある燈籠の中で最大のものです。冬季のこも掛けされた美しい姿も魅力的です。

  • 武家屋敷跡野村家 濡れ縁<br />石組には特筆すべきものはありませんが、池水が濡れ縁(雨晒しになる縁側)まで届いています。縁側の下まで池が迫り、その池泉に飛び石を打つと言う珍しい構成で独特の美空間を演出しています。<br />このように水面が際まで迫る屋敷は、さながら水上御殿を彷彿とさせます。また、池泉そのものも高低差を取り入れた2段構成にしてあり、立体感があり豪快な印象があります。ミシュランで星2つに選ばれる庭の面目躍如といったところです。<br />因みにこの濡れ縁は、JR北陸新幹線のCMで女優の杏さんが座られていた場所です!勿論、彼女は行儀よく正座されていましたが…。

    武家屋敷跡野村家 濡れ縁
    石組には特筆すべきものはありませんが、池水が濡れ縁(雨晒しになる縁側)まで届いています。縁側の下まで池が迫り、その池泉に飛び石を打つと言う珍しい構成で独特の美空間を演出しています。
    このように水面が際まで迫る屋敷は、さながら水上御殿を彷彿とさせます。また、池泉そのものも高低差を取り入れた2段構成にしてあり、立体感があり豪快な印象があります。ミシュランで星2つに選ばれる庭の面目躍如といったところです。
    因みにこの濡れ縁は、JR北陸新幹線のCMで女優の杏さんが座られていた場所です!勿論、彼女は行儀よく正座されていましたが…。

  • 武家屋敷跡野村家 濡れ縁<br />JR北陸新幹線CM 金沢編からのキャプチャーです。

    武家屋敷跡野村家 濡れ縁
    JR北陸新幹線CM 金沢編からのキャプチャーです。

  • 武家屋敷跡野村家 庭園<br />しおりではこの庭園は遠州好みの「真の庭」の代表作と紹介されているのですが、後世に復元したせいもあるのか、小堀遠州の作風とは違うような気がします。<br />

    武家屋敷跡野村家 庭園
    しおりではこの庭園は遠州好みの「真の庭」の代表作と紹介されているのですが、後世に復元したせいもあるのか、小堀遠州の作風とは違うような気がします。

  • 武家屋敷跡野村家 濡れ縁<br />4ヶ所に龍が刻まれた釘隠しです。

    武家屋敷跡野村家 濡れ縁
    4ヶ所に龍が刻まれた釘隠しです。

  • 武家屋敷跡野村家 手水鉢<br />庭園の端に設置されている矩形をした手水鉢です。ちょろちょろと流れ出る水音の響きと水面に広がる波紋が心地よさを助長します。<br />茶屋の階下の壁は、竹の格子が施され数寄屋風の趣を湛えています。<br />まさに、明鏡止水の境地ここにありです。<br /><br />

    武家屋敷跡野村家 手水鉢
    庭園の端に設置されている矩形をした手水鉢です。ちょろちょろと流れ出る水音の響きと水面に広がる波紋が心地よさを助長します。
    茶屋の階下の壁は、竹の格子が施され数寄屋風の趣を湛えています。
    まさに、明鏡止水の境地ここにありです。

  • 武家屋敷跡野村家 <br />吊り下げられた丸い鋳物のランプも趣があります。

    武家屋敷跡野村家
    吊り下げられた丸い鋳物のランプも趣があります。

  • 武家屋敷跡野村家 路地<br />庭園の鑑賞後、庭に面した濡れ縁から秘密の通路を彷彿とさせる石畳を進むと、茶室「不莫庵」へと導かれます。飛び石ですが、スリッパなどはなく、この上を素足で渡りますので、冬場は厳しいかもしれません。<br />

    武家屋敷跡野村家 路地
    庭園の鑑賞後、庭に面した濡れ縁から秘密の通路を彷彿とさせる石畳を進むと、茶室「不莫庵」へと導かれます。飛び石ですが、スリッパなどはなく、この上を素足で渡りますので、冬場は厳しいかもしれません。

  • 武家屋敷跡野村家 路地<br />庭園から茶室に出る路地です。<br />途中、露地風の坪庭の風情を味わっていきます。蹲踞は自然にできた石の窪みを利用したと思しき、素朴なものです。<br />延段の先には、紐で結ばれた石が無造作に置かれています。握り拳大ほどの石にシュロ縄を括ったものです。この石は、通常は「関守石」と言われ、神輿はここから先はNGという意味です。寺院や神社では結界としても用いられていますので、恐らくは、「ここから先ヘは立ち入らないでください」という意思表示なのだと思います。ただし、若い方や海外の方に意味が伝わるか気を揉むところではあります。無碍な注意書きよりは風情があるのですが…。

    武家屋敷跡野村家 路地
    庭園から茶室に出る路地です。
    途中、露地風の坪庭の風情を味わっていきます。蹲踞は自然にできた石の窪みを利用したと思しき、素朴なものです。
    延段の先には、紐で結ばれた石が無造作に置かれています。握り拳大ほどの石にシュロ縄を括ったものです。この石は、通常は「関守石」と言われ、神輿はここから先はNGという意味です。寺院や神社では結界としても用いられていますので、恐らくは、「ここから先ヘは立ち入らないでください」という意思表示なのだと思います。ただし、若い方や海外の方に意味が伝わるか気を揉むところではあります。無碍な注意書きよりは風情があるのですが…。

  • 武家屋敷跡野村家 路地<br />蹲踞の脇には、上段の間にあった地袋の襖絵『遊亀の図』そっくりな亀が佇んでいます。<br />はじめは本物かと思ったほどの出来栄えです。

    武家屋敷跡野村家 路地
    蹲踞の脇には、上段の間にあった地袋の襖絵『遊亀の図』そっくりな亀が佇んでいます。
    はじめは本物かと思ったほどの出来栄えです。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵(ふばくあん)<br />茶室「不莫庵」は、1941(昭和16)年の移築の際に増築されたものです。<br />庭の隅に造られた築山の上に設けられた茶室といった性格のもので、野趣溢れたものになっています。<br />「室入り」には、こうして自然石でできた石段を登って行きます。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵(ふばくあん)
    茶室「不莫庵」は、1941(昭和16)年の移築の際に増築されたものです。
    庭の隅に造られた築山の上に設けられた茶室といった性格のもので、野趣溢れたものになっています。
    「室入り」には、こうして自然石でできた石段を登って行きます。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵<br />石段を登った先のアイストップは、ラテン十字の竿に人物像が彫られた織部燈籠です。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵
    石段を登った先のアイストップは、ラテン十字の竿に人物像が彫られた織部燈籠です。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵<br />点された裸電球がいい味を出しています。<br />入口の引き戸は、網代と障子を組み合わせた建具で趣を醸しています。他ではあまり見かけない意匠です。<br />

    武家屋敷跡野村家 不莫庵
    点された裸電球がいい味を出しています。
    入口の引き戸は、網代と障子を組み合わせた建具で趣を醸しています。他ではあまり見かけない意匠です。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵<br />短い廊下の右手が茶室、左手が控えの間です。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵
    短い廊下の右手が茶室、左手が控えの間です。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室<br />茶室への入口は火灯形をしており、この曲線は胡麻竹を曲げて形成しています。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室
    茶室への入口は火灯形をしており、この曲線は胡麻竹を曲げて形成しています。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室<br />質素ながら床の間が設けられており、織部床です。<br />

    武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室
    質素ながら床の間が設けられており、織部床です。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室<br />この茶室は主屋とは別の時期に建てられたこともあり、数寄屋風の佇まいを残しています。<br />また、茶室からは庭園を見下ろすことができ、茶道を求道するといった趣向ではなく、社交場としての役割を担ったものと思われます。<br />こちらの手摺は、全て小丸太を使った小粋な構成です。<br />窓からは、先ほど坐っていた濡れ縁が見下ろせます。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室
    この茶室は主屋とは別の時期に建てられたこともあり、数寄屋風の佇まいを残しています。
    また、茶室からは庭園を見下ろすことができ、茶道を求道するといった趣向ではなく、社交場としての役割を担ったものと思われます。
    こちらの手摺は、全て小丸太を使った小粋な構成です。
    窓からは、先ほど坐っていた濡れ縁が見下ろせます。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室<br />壁には細い壁見切りが回され、全体的にモダンな印象です。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室
    壁には細い壁見切りが回され、全体的にモダンな印象です。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室<br />茶室のあて丸太には大きな節が添えられ、こうした細かい所に侘び・寂びを醸しています。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室
    茶室のあて丸太には大きな節が添えられ、こうした細かい所に侘び・寂びを醸しています。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室<br />天井は「真菰の茎張り」と言われ、桐板に神代杉の1枚板をおき、四国特産の数少ない「みどり松」で押さえた珍しい造りになっています。<br />「みどり松」は真っ直ぐに育てるのが難しいとされ、そうしたものを果敢に採用しているのは称賛されるべき点です。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵 茶室
    天井は「真菰の茎張り」と言われ、桐板に神代杉の1枚板をおき、四国特産の数少ない「みどり松」で押さえた珍しい造りになっています。
    「みどり松」は真っ直ぐに育てるのが難しいとされ、そうしたものを果敢に採用しているのは称賛されるべき点です。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵 控えの間<br />6畳間に樹齢1000年の楓の1枚板の踏み込み床が設けられ、その上にある竹を刺し違えたような落とし掛けが粋です。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵 控えの間
    6畳間に樹齢1000年の楓の1枚板の踏み込み床が設けられ、その上にある竹を刺し違えたような落とし掛けが粋です。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵 控えの間<br />船底天井の垂木には煤竹、天井には真菰が使われています。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵 控えの間
    船底天井の垂木には煤竹、天井には真菰が使われています。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵 控えの間<br />樹齢1000年の楓の1枚板は、崩れた同心円状になっている部分があり、墨を流したような木目が印象的です。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵 控えの間
    樹齢1000年の楓の1枚板は、崩れた同心円状になっている部分があり、墨を流したような木目が印象的です。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵 控えの間<br />庭側には雪見障子の腰窓、竹の手摺や小丸太の束などが設らわれ、素朴ながらも遊び心が感じられる空間に仕上げています。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵 控えの間
    庭側には雪見障子の腰窓、竹の手摺や小丸太の束などが設らわれ、素朴ながらも遊び心が感じられる空間に仕上げています。

  • 武家屋敷跡野村家 不莫庵 控えの間<br />御簾戸の夏障子の透かしは、「壺々透し」です。<br />竹を細工したもののようです。さりげない透かしですが、高度な技巧が求められる意匠です。

    武家屋敷跡野村家 不莫庵 控えの間
    御簾戸の夏障子の透かしは、「壺々透し」です。
    竹を細工したもののようです。さりげない透かしですが、高度な技巧が求められる意匠です。

  • 野村家展示資料館「鬼川文庫」脇差 陀羅尼橘泰平作<br />廊下の先には、かつては武器庫だったと思われる倉庫風の部屋があります。現在は鬼川文庫なる資料室になり、野村家伝来の刀剣や武具をはじめ、前田家などからの書状や掛け軸などが展示されています。<br />「鬼川文庫」という名は、当時の開鑿奉行 富永勘解由左衛門が「鬼」を祭祀し、自らが造った武家屋敷周辺の用水を、木材などの荷物を運ぶのに使ったことから、お荷物の川→お荷川、また、この地が丁度金沢城の裏鬼門に当たることから「鬼川」 と当て字したことに始まります。和漢の書を学んだ黒木植が野村家周辺に在住し、この「鬼川」から、自己の書庫を「鬼川文庫」 と呼んだことに由来しています。<br />因みに養智院が、鬼川の聖天、つまり大野庄用水の守護神となっています。<br /><br />鋼色一色で重厚感に溢れ、緩くカーブしている部分のある直刃の脇差です。貴重刀剣として認定された認定書も掲げられています。<br />「宝暦六年八月十八日 武州江戸於伝馬町誠之(中略)乳割土壇江八九寸斗入 斬手山田浅右衛門」との銘があります。1756(宝暦6)年に山田浅右衛門が死体の乳割(両脇と両乳首の中間)の部分を試し斬りしたと伝えられています。

    野村家展示資料館「鬼川文庫」脇差 陀羅尼橘泰平作
    廊下の先には、かつては武器庫だったと思われる倉庫風の部屋があります。現在は鬼川文庫なる資料室になり、野村家伝来の刀剣や武具をはじめ、前田家などからの書状や掛け軸などが展示されています。
    「鬼川文庫」という名は、当時の開鑿奉行 富永勘解由左衛門が「鬼」を祭祀し、自らが造った武家屋敷周辺の用水を、木材などの荷物を運ぶのに使ったことから、お荷物の川→お荷川、また、この地が丁度金沢城の裏鬼門に当たることから「鬼川」 と当て字したことに始まります。和漢の書を学んだ黒木植が野村家周辺に在住し、この「鬼川」から、自己の書庫を「鬼川文庫」 と呼んだことに由来しています。
    因みに養智院が、鬼川の聖天、つまり大野庄用水の守護神となっています。

    鋼色一色で重厚感に溢れ、緩くカーブしている部分のある直刃の脇差です。貴重刀剣として認定された認定書も掲げられています。
    「宝暦六年八月十八日 武州江戸於伝馬町誠之(中略)乳割土壇江八九寸斗入 斬手山田浅右衛門」との銘があります。1756(宝暦6)年に山田浅右衛門が死体の乳割(両脇と両乳首の中間)の部分を試し斬りしたと伝えられています。

  • 野村家展示資料館「鬼川文庫」蒔絵花弁宝不船図重箱(1843年、天保14年)<br />加賀らしい金ピカの金蒔絵の重箱です。<br />宝船がモチーフになっていますので、お正月や婚儀などのおめでたい席で使用された重箱と思われます。<br />

    野村家展示資料館「鬼川文庫」蒔絵花弁宝不船図重箱(1843年、天保14年)
    加賀らしい金ピカの金蒔絵の重箱です。
    宝船がモチーフになっていますので、お正月や婚儀などのおめでたい席で使用された重箱と思われます。

  • 野村家展示資料館「鬼川文庫」九谷焼「赤絵大鉢」<br />加賀出身の九谷庄三(1883年没)の作品「赤絵大鉢」(江戸後期)です。<br />九谷庄三は、寺井村(現在の能美市寺井町)の農家に生まれ、17歳の時に小野窯に陶匠として招聘されました。能登の火打谷で能登呉須と呼ばれる顔料を発見し、後の九谷焼に多大な影響を与えました。26歳で故郷に戻り、寺井窯を開きました。西洋渡来の顔料を早い時期から取り入れ 彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後に西洋に輸出される九谷焼の大半に採用されたほどです。

    野村家展示資料館「鬼川文庫」九谷焼「赤絵大鉢」
    加賀出身の九谷庄三(1883年没)の作品「赤絵大鉢」(江戸後期)です。
    九谷庄三は、寺井村(現在の能美市寺井町)の農家に生まれ、17歳の時に小野窯に陶匠として招聘されました。能登の火打谷で能登呉須と呼ばれる顔料を発見し、後の九谷焼に多大な影響を与えました。26歳で故郷に戻り、寺井窯を開きました。西洋渡来の顔料を早い時期から取り入れ 彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後に西洋に輸出される九谷焼の大半に採用されたほどです。

  • 野村家展示資料館「鬼川文庫」<br />今までの「古九谷」説を覆す、『ダヴィンチ・コード』を彷彿とさせる新説が2013年に新聞に投稿されました。隠れキリシタンが起源と言う、石川県立美術館学芸員さんの仮説です。<br />確かに古九谷は伊万里焼に似ており、伊万里焼が古九谷のルーツであるのは有力です。後藤才次郎が肥前有田に赴き、磁器焼成の技術を習得したと考えられます。<br />しかし、何故加賀藩に突如、伊万里焼が勃興したのかは謎です。島原の乱等のキリスト教徒弾圧の時期と重なることから、才次郎に伴って九州地方から隠れキリシタンがこの地に逃れてきた可能性は否めません。何故なら、加賀藩には秀吉に畿内を追放されたキリシタン大名 高山右近(ユスト)が築城の指導をしながら26年間居を構えた系譜があり、隠れキリシタンが右近を頼って来たとも考えられます。また、初代加賀藩主 前田利家もキリスト教に傾倒し、クリスチャン名をオーギュスチンといい、4女 豪姫をマリアと呼ぶほどでした。<br />そして利常の時代に加賀藩庇護の下、山深い山中の九谷村でその窯業技術を発揮させ、古九谷を焼かせ、領内の寺や神社に、鳩や魚、羊、葡萄などイエスを象徴する絵が隠し絵として描かれた聖水鉢を配ったとも伝えられています。その裏付けは、伝世する真正古九谷が30点程しかないことです。何故ならば、キリシタン弾圧が厳しくなり、証拠隠滅から免れた僅かな作品だけが領内の寺院より後世に散逸したと考えられるからです。従って、古九谷は前田家には1点もなく、諸藩の大名家にも存在しないという事実と符合します。

    野村家展示資料館「鬼川文庫」
    今までの「古九谷」説を覆す、『ダヴィンチ・コード』を彷彿とさせる新説が2013年に新聞に投稿されました。隠れキリシタンが起源と言う、石川県立美術館学芸員さんの仮説です。
    確かに古九谷は伊万里焼に似ており、伊万里焼が古九谷のルーツであるのは有力です。後藤才次郎が肥前有田に赴き、磁器焼成の技術を習得したと考えられます。
    しかし、何故加賀藩に突如、伊万里焼が勃興したのかは謎です。島原の乱等のキリスト教徒弾圧の時期と重なることから、才次郎に伴って九州地方から隠れキリシタンがこの地に逃れてきた可能性は否めません。何故なら、加賀藩には秀吉に畿内を追放されたキリシタン大名 高山右近(ユスト)が築城の指導をしながら26年間居を構えた系譜があり、隠れキリシタンが右近を頼って来たとも考えられます。また、初代加賀藩主 前田利家もキリスト教に傾倒し、クリスチャン名をオーギュスチンといい、4女 豪姫をマリアと呼ぶほどでした。
    そして利常の時代に加賀藩庇護の下、山深い山中の九谷村でその窯業技術を発揮させ、古九谷を焼かせ、領内の寺や神社に、鳩や魚、羊、葡萄などイエスを象徴する絵が隠し絵として描かれた聖水鉢を配ったとも伝えられています。その裏付けは、伝世する真正古九谷が30点程しかないことです。何故ならば、キリシタン弾圧が厳しくなり、証拠隠滅から免れた僅かな作品だけが領内の寺院より後世に散逸したと考えられるからです。従って、古九谷は前田家には1点もなく、諸藩の大名家にも存在しないという事実と符合します。

  • 青手桜花散文平鉢(石川県立美術館)<br />キリシタン所以の真正古九谷には、キリスト教のイコンが暗号として隠されているそうです。<br />例えば、『色絵鳳凰図平鉢』に描かれた鳥は足をクロスさせた休息のポーズです。しかし休息の際には尾羽が下がるの普通であることから、この足のクロスは不自然とされ、「十字架」の暗示との説があります。<br />『青手樹木図平鉢』は、この作品を90度回して樹木の絵柄を塗り潰すと黄色の地紋が欧州の地図に見え、さらに90度回すと地中海の形に見えるとも言われています。<br />次は、図像学的に検証してみましょう。古九谷は多彩な色が特徴のはずですが、『青手桜花散文平鉢』は桜花がモチーフながら、何故か緑と青に拘った作品です。ヒナギクと桜花、その緑と青という色彩のマジックをキリスト教図像学で解いてみましょう。<br />まず、地紋にあしらわれたヒナギク(テージー)は、キリスト教では聖母マリアの標章になり、無垢や純潔を象徴するものです。そして桜花も、キリスト教の民間伝承では聖母マリアの純潔を象徴します。また、復活や女神を象徴する数に因んで桜花を8個散らしています。さらに、緑や青色は共に聖母マリアが纏ったマントの色を象徴しています。これらは、その処女性や純潔を象徴する色なのです。<br />これら3つの観点から「緑のヒナギクと青の桜花」は聖母子マリアの隠し絵とも考えられるのです。これらは久藤豊治著『古九谷の神秘』に詳しく記されていますので、興味のある方は手に取ってみてください。<br />どれも「さもありなん」の説ばかりで興味が尽きません。<br /><br />この写真は、石川県立美術館HPから借用いたしました。<br />http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&amp;mode=detail&amp;data_id=10

    青手桜花散文平鉢(石川県立美術館)
    キリシタン所以の真正古九谷には、キリスト教のイコンが暗号として隠されているそうです。
    例えば、『色絵鳳凰図平鉢』に描かれた鳥は足をクロスさせた休息のポーズです。しかし休息の際には尾羽が下がるの普通であることから、この足のクロスは不自然とされ、「十字架」の暗示との説があります。
    『青手樹木図平鉢』は、この作品を90度回して樹木の絵柄を塗り潰すと黄色の地紋が欧州の地図に見え、さらに90度回すと地中海の形に見えるとも言われています。
    次は、図像学的に検証してみましょう。古九谷は多彩な色が特徴のはずですが、『青手桜花散文平鉢』は桜花がモチーフながら、何故か緑と青に拘った作品です。ヒナギクと桜花、その緑と青という色彩のマジックをキリスト教図像学で解いてみましょう。
    まず、地紋にあしらわれたヒナギク(テージー)は、キリスト教では聖母マリアの標章になり、無垢や純潔を象徴するものです。そして桜花も、キリスト教の民間伝承では聖母マリアの純潔を象徴します。また、復活や女神を象徴する数に因んで桜花を8個散らしています。さらに、緑や青色は共に聖母マリアが纏ったマントの色を象徴しています。これらは、その処女性や純潔を象徴する色なのです。
    これら3つの観点から「緑のヒナギクと青の桜花」は聖母子マリアの隠し絵とも考えられるのです。これらは久藤豊治著『古九谷の神秘』に詳しく記されていますので、興味のある方は手に取ってみてください。
    どれも「さもありなん」の説ばかりで興味が尽きません。

    この写真は、石川県立美術館HPから借用いたしました。
    http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=10

  • 野村家展示資料館「鬼川文庫」『花鳥図』<br />上段の間の山水画を描いた、加賀藩お抱えの絵師法眼 佐々木泉景の絵画です。<br />法眼位とは、狩野派の最高位だそうです。それに次ぐのは法橋と言い、かの尾形光琳や俵屋宗達などがこれに属します。しかし、光琳や宗達は名も作品も知られていますが、佐々木泉景という名は、恥ずかしながらここに来て初めて知りました。

    野村家展示資料館「鬼川文庫」『花鳥図』
    上段の間の山水画を描いた、加賀藩お抱えの絵師法眼 佐々木泉景の絵画です。
    法眼位とは、狩野派の最高位だそうです。それに次ぐのは法橋と言い、かの尾形光琳や俵屋宗達などがこれに属します。しかし、光琳や宗達は名も作品も知られていますが、佐々木泉景という名は、恥ずかしながらここに来て初めて知りました。

  • 野村家展示資料館「鬼川文庫」銀象嵌牡丹文鐙(あぶみ)<br />鐙とは、乗馬する時に足を置くものです。<br />牡丹文というだけあり、全体に牡丹が描かれ、優美な鐙です。

    野村家展示資料館「鬼川文庫」銀象嵌牡丹文鐙(あぶみ)
    鐙とは、乗馬する時に足を置くものです。
    牡丹文というだけあり、全体に牡丹が描かれ、優美な鐙です。

  • 野村家展示資料館「鬼川文庫」<br />明智十兵衛光秀からの感謝状もあります。訳文には「そなたたちの努力によって戦に勝つことが出来た、ありがとう。そなたが受けた傷の具合はどうですか?もっと早く手紙を出すべきだったのに多忙で遅くなって申し訳ない」とあります。理想の上司像そのものではありませんか!?<br />それなのに光秀自身は上司に恵まれず、信長からいわれのないパワハラを受けたのですね!信長を反面教師としていたのかもしれません。<br />上司を選ぶことができないのは、世の常ですが…。せめてブラック上司で無いことを神に願うしかありません。

    野村家展示資料館「鬼川文庫」
    明智十兵衛光秀からの感謝状もあります。 訳文には「そなたたちの努力によって戦に勝つことが出来た、ありがとう。そなたが受けた傷の具合はどうですか?もっと早く手紙を出すべきだったのに多忙で遅くなって申し訳ない」とあります。理想の上司像そのものではありませんか!?
    それなのに光秀自身は上司に恵まれず、信長からいわれのないパワハラを受けたのですね!信長を反面教師としていたのかもしれません。
    上司を選ぶことができないのは、世の常ですが…。せめてブラック上司で無いことを神に願うしかありません。

  • 武家屋敷跡野村家 内庭<br />鬼川文庫から玄関へ向かう途中にある小さな内庭です。こじんまりと落ち着いた感じの坪庭です。<br />何の変哲もない組石に見えますが、これらの石は約400年前に金沢城の石垣として切り出された由緒ある戸室石です。搬出不能として山に放置されていた石をここへ運んだものだそうです。ですから、切り出し人夫の功を誇る刻印が入っています。古時は、戸室石は一般使用禁制の貴重な石だったそうです。

    武家屋敷跡野村家 内庭
    鬼川文庫から玄関へ向かう途中にある小さな内庭です。こじんまりと落ち着いた感じの坪庭です。
    何の変哲もない組石に見えますが、これらの石は約400年前に金沢城の石垣として切り出された由緒ある戸室石です。搬出不能として山に放置されていた石をここへ運んだものだそうです。ですから、切り出し人夫の功を誇る刻印が入っています。古時は、戸室石は一般使用禁制の貴重な石だったそうです。

  • 和菓子屋「茶菓工房たろう 」<br />武家屋敷跡野村家のすぐ隣にショップを構えています。<br />金沢は京都、松江と共に日本の3大和菓子処と言われています。色彩豊かに形作られた和菓子は食べるのが惜しいほどですが、和生菓子の消費金額トップは金沢市、京都市は4位、松江市は12位です。つまり金沢が一番和菓子に舌が肥えていると言えます。<br />その金沢にも和菓子店が沢山ありますが、その中で異彩を放っている話題のお店が「茶菓工房たろう」です。しかも創業2005年という新参者です。<br />定番の和菓子をはじめ生チョコのような滑らかな味わいの「カカオようかん」や寒天干菓子の「もりの音」、「お天気どらやき」など、新感覚で面白味があり、かつその美味しさにも定評があります。金沢の心が和む手土産品としても人気が高いそうです。<br />JR金沢駅構内にある金沢百番街「あんと」にもショップがあります。

    和菓子屋「茶菓工房たろう 」
    武家屋敷跡野村家のすぐ隣にショップを構えています。
    金沢は京都、松江と共に日本の3大和菓子処と言われています。色彩豊かに形作られた和菓子は食べるのが惜しいほどですが、和生菓子の消費金額トップは金沢市、京都市は4位、松江市は12位です。つまり金沢が一番和菓子に舌が肥えていると言えます。
    その金沢にも和菓子店が沢山ありますが、その中で異彩を放っている話題のお店が「茶菓工房たろう」です。しかも創業2005年という新参者です。
    定番の和菓子をはじめ生チョコのような滑らかな味わいの「カカオようかん」や寒天干菓子の「もりの音」、「お天気どらやき」など、新感覚で面白味があり、かつその美味しさにも定評があります。金沢の心が和む手土産品としても人気が高いそうです。
    JR金沢駅構内にある金沢百番街「あんと」にもショップがあります。

  • 和菓子屋「茶菓工房たろう 」<br />ショップ内は手前がお菓子の販売スペース、奥が甘味処「鬼川」になっており、窓の外に広がる日本庭園の深い緑を見ながらいただけば、歩き疲れた身体も癒されます。実は、このショップの隣が武家屋敷跡「野村家」で、その庭園が飲食スペースの前まで繋がっています。<br />正面には、「さくら御影」の大架け橋や樹齢400年の山桃の姿が見られます。<br />

    和菓子屋「茶菓工房たろう 」
    ショップ内は手前がお菓子の販売スペース、奥が甘味処「鬼川」になっており、窓の外に広がる日本庭園の深い緑を見ながらいただけば、歩き疲れた身体も癒されます。実は、このショップの隣が武家屋敷跡「野村家」で、その庭園が飲食スペースの前まで繋がっています。
    正面には、「さくら御影」の大架け橋や樹齢400年の山桃の姿が見られます。

  • 和菓子屋「茶菓工房たろう 」<br />ショップの全景です。<br />天井が高く、太い梁が剥き出しになっており、古民家をリノベーションしたような店構えです。

    和菓子屋「茶菓工房たろう 」
    ショップの全景です。
    天井が高く、太い梁が剥き出しになっており、古民家をリノベーションしたような店構えです。

  • 和菓子屋「茶菓工房たろう 」はなことたろう<br />北陸新幹線が開業した2015年3月14日に新発売された記念すべき和菓子です。<br />キュートかつ和モダンなパッケージ・デザインも人気です。<br />確かに女子受けしそうです。

    和菓子屋「茶菓工房たろう 」はなことたろう
    北陸新幹線が開業した2015年3月14日に新発売された記念すべき和菓子です。
    キュートかつ和モダンなパッケージ・デザインも人気です。
    確かに女子受けしそうです。

  • 和菓子屋「茶菓工房たろう 」はなことたろう<br />ラッピングを外すと金箔が剥がれて半分ほどになって寂しい感じになるため、ビジュアル重視で撮影しました。<br />蒸した抹茶カステラにクラッシュしたアーモンド入りのカカオチョコ羊羹を2層に重ね合わせたものです。それがオセロのように表裏交互に並べられています。表面に添えられた金箔が金沢らしくて素敵です。また、上下の組み合わせを逆にすることで異なる食感が愉しめる、優れものです。<br />食べた感想は、甘すぎず、生チョコレート系のスイーツを食べているような食感と味わいです。羊羹と言えば、濃い抹茶や緑茶が似合いそうですが、コーヒーとの相性がいいのも魅力です。

    和菓子屋「茶菓工房たろう 」はなことたろう
    ラッピングを外すと金箔が剥がれて半分ほどになって寂しい感じになるため、ビジュアル重視で撮影しました。
    蒸した抹茶カステラにクラッシュしたアーモンド入りのカカオチョコ羊羹を2層に重ね合わせたものです。それがオセロのように表裏交互に並べられています。表面に添えられた金箔が金沢らしくて素敵です。また、上下の組み合わせを逆にすることで異なる食感が愉しめる、優れものです。
    食べた感想は、甘すぎず、生チョコレート系のスイーツを食べているような食感と味わいです。羊羹と言えば、濃い抹茶や緑茶が似合いそうですが、コーヒーとの相性がいいのも魅力です。

  • 長町 二の橋通り<br />二の橋側から見た、趣たっぷりの小通りです。街灯の形は、景観を損なわないよう、大正ロマン風の落ち着いたデザインがなされています。着物姿のご婦人が歩かれていれば、絵になること間違いなしです!<br />優麗なる武家屋敷の余韻に浸りながら、土塀の連なる石畳の小路を歩いて江戸時代へのタイムスリップの旅を終えました。<br /><br />この続きは、問柳尋花 加賀紀行⑤金沢 尾山神社でお届けいたします。<br />

    長町 二の橋通り
    二の橋側から見た、趣たっぷりの小通りです。街灯の形は、景観を損なわないよう、大正ロマン風の落ち着いたデザインがなされています。着物姿のご婦人が歩かれていれば、絵になること間違いなしです!
    優麗なる武家屋敷の余韻に浸りながら、土塀の連なる石畳の小路を歩いて江戸時代へのタイムスリップの旅を終えました。

    この続きは、問柳尋花 加賀紀行⑤金沢 尾山神社でお届けいたします。

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