2017/06/01 - 2017/06/03
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montsaintmichelさん
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旅行誌『るるぶ』などには掲載されていない、山中温泉の穴場スポット的存在です。ストイックながらも、新時代の魁ともなる瀟洒な贅美と和の粋を極めた建物であり、石川県指定文化財の加賀藩最高の武家邸宅書院の伝統を継承する近代書院造として、金沢にある「成巽閣(重文)」と比肩されるほどです。
元々は加賀藩家老 横山家の分家 横山章が、金沢市内高岡町にあった邸内に建てた書院です。ご子息の婚儀に際し接客用建物として建造したもので、往時は「新御殿」と呼ばれ、当時の木造技術の粋を傾けた最高級の建物です。建設年代は、書院の床の間に敷き込まれた板畳の裏に「大正元年拾弐月廿八日出来人 白山捨吉」の墨書があり、大正元年と推定されています。
現在、屋敷は、横山家から購入した新家家先代当主の意思により、財団法人「無限庵」の所有に移され、一般公開されています。
その華麗ながら品格を呈する遺構が、横山家が繁栄していた往時を偲ばせます。
無限庵のHPです。
http://www.mugenan.com/
PassMeの100円割引サイト(アプリの登録必要)
https://pass-me.jp/facilities/KS001233/tickets?utm_source=google&utm_medium=cpc&utm_term=0244&utm_campaign=pro_passme
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- JR特急
PR
-
無限庵
実際には3日目(最終日)の午前中に訪れたのですが、山中温泉繋がりとして続けてレポいたします。
山中温泉の奥地、「こおろぎ橋」を渡って道なりに緩い坂道を上がって行くと、右手に樹木に覆われた近代和風の建物が見えてきます。
それが目指す「無限庵」です。 -
無限庵 入口
鉱業で隆盛を誇った横山家13代 隆平の分家である横山章が高岡町の自邸内に建造した書院でしたが、経営悪化の中、横山男爵の跡継ぎがいなくなり、築後10年の1922(大正10)年に新家家へ売却されました。
山中町にあった新家家別邸の御殿としてこの地に移築され、更に1982(昭和57)年に所有権が移転し「無限庵御殿」と改称され、現在に至ります。数寄屋の意匠を自在に通わせるなど、近代書院の特徴を示す貴重な遺構です。
入口の門のアイアンワークのデザインもモダンです。門柱の上の方に小さい浮き出しで「無限」とあるのが判りますか? -
無限庵 玄関
門を入るとたちまち喧騒がフェードアウトされ、道路脇にあるとは思えないほど静寂な雰囲気に包まれています。
巨大な燈籠も目立たないように奥に控えさせているのが、贅の本質を表しています。 -
無限庵
玄関の手前、左手の木陰の中に大きな蝦蟇が苔生して擬態を呈しています。 -
無限庵
玄関前には阿吽の獅子が両脇に安置されています。
色や形など、どことなく沖縄のシーサーを彷彿とさせる狛犬です。 -
無限庵 玄関
屋根瓦の上では、鬼瓦ではなく、つがいの鳩が出迎えてくれます。
また、欄間には、今にも飛び立ちそうな鳩が群れています。 -
無限庵 玄関 欄間
「鳩有 三枝礼(鳩に三枝の礼有り)」という言葉がありますが、礼を重んじた時代を反映した彫り物です。
八幡宮では鳩の彫り物や瓦を見かけますが、一民家にこうしたものが配されているのを見るのは初めてです。
無限庵の見学を終えて感じたことですが、御殿の釘隠しも尾長鳥、襖の引き手の象嵌や照明器具にも鳳凰があしらわれ、「鳥」がこの屋敷のモチーフのひとつなのかもしれません。他にもあるかもしれませんので、探してみてください。 -
無限庵
火灯窓を持つ小間の下半分は網代壁として風趣を湛えています。 -
無限庵 玄関
玄関に配された「竹透かし窓」も素朴ながら和心の琴線に触れる風情を醸しています。 -
無限庵 玄関
さすがに式台のある玄関になっています。また、玄関の腰板には、湿気に考慮して舟板が使われているそうです。
見学者はこの背面に置かれた自販機で入館券を購入し、手前にある銅鑼を鳴らして案内を待ちます。
今回は、PassMeで割引チケットを事前購入していたため、自販機は使いませんでした。電子チケットには不慣れなようでしたが、問題なく使えることを確認しました。ただし、接客で忙しそうでしたので、入場済みのスタンプは押してもらいませんでした。 -
無限庵 坪庭
御殿と書院の間には長方形の苔生した坪庭が設けられ、飛び石や延段が散らされています。風格のある春日燈籠がアクセントを添えています。 -
無限庵 御殿廊下
1階ですが渓流に面しているため高欄を巡らしており、寺院の佇まいを醸しています。
この奥の左側の壁が、外部に接する「群青色の漆喰壁」です。
因みに庭側はフル・オープンのように見えますが、ガラスが嵌められています。ガラスのお手入れも大変なことでしょう。 -
無限庵 御殿廊下
高欄には惜しげもなく黒柿を使い、手摺の透かしは品格ある意匠になっています。
1万本に1本あるか無いかと言われる銘木をこれ程ふんだんに用いているのは、他に類を見ません。
黒柿は、外見上は普通の「柿の木」と変らないそうです。また、何故黒い紋様ができるのかは、未だ解明されておらず、「神秘の銘木」と言われる所以のひとつとなっています。黒柿は150年以上経った古木でしか見つかっておらず、黒い紋様が現われるには少なくとも100年以上かかるとされています。柿の木は、柿の渋の元になるタンニンという物質を含んでいます。このタンニンが地中から取り込んだ物質と化学反応を起し、黒い紋様ができたとも考えられています。そして、老木となった自己の身を守るため、自らが分泌した物質によって更に変化を起したと考えられます。 -
無限庵 御殿廊下
インパクトがあり過ぎて意表を突かれますが、加賀伝統の群青色の漆喰壁になっています。加賀藩家老以上のみ使用できた高貴な色です。
こうした色を外壁に使いこなすのは難しいと思っていましたが、坪庭の緑に溶け込んでしっくり馴染んでいます。因みにこの加賀群青色は、北陸新幹線E7、通称「かがやき」のグリーン車の色彩に採用されています。また、長押の上段は、深い翡翠色になっているのも見逃せません。
天然ラピスラズリ(青金石)の色彩を再現したウルトラマリン顔料の発色は鮮やかで、和洋折衷を感じさせる気品ある空間を演出しています。この色は、原料となるラピスラズリがアフガニスタンやペルシャで採取されたことから、「ウルトラマリン=海の向こう」(欧州から見て地中海の向こうという意味)という名が付いたほどです。また、ラピスラズリは、古くはエジプトのツタンカーメン王の宝飾や聖母マリアの色としても使われた高価なものです。また、その日の天候などによって表情を違え、晴れた日は眩しいほどに発色し、加賀伝統の高貴な色が上品に輝きます。 -
無限庵 御殿 書院主室
本日は着物の展示会が開催されるそうで、その準備でご覧のように異様な状態になっています。(案内の方も恐縮されていました。)
次の間との境にある欄間には、木瓜形の枠の中に彫刻が施されています。左には雲間に満月を配し、右には枝を這わせた松の木。左右それぞれ枠と一体にして一木で彫刻された、見事な松板です。
この欄間は、格式の中にも砕けた意匠を配し、優雅な金粉の障壁画と共にこの書院の意匠の要を担っています。 -
無限庵 御殿 書院主室
雲間に満月を配した欄間です。(次の間より)
天井とオーバーラップして判り難いのですが、彫刻の中央側(左側)はご覧のように空間になっています。
欄間の中央をこのように余白としているのは、書院主室と次の間を合わせた御殿を広く見せるための工夫です。 -
無限庵 御殿 書院主室
御殿は、大聖寺川を見下ろす中腹に建ち、36畳敷の書院と20畳敷の次の間を並接させ、周囲に幅1.2mの縁側を巡らせています。
正面中央に2間の床の間、両側に1間ずつの床脇棚を配し、右側にある縁側に向かって開放でき、山腹の縁を愛でられる趣向です。判り難いのですが、向かって右を琵琶台、左に地袋と天袋を設けています。敷居、鴨居等、これほど長い材料を手に入れるのは至難の業と思います。
壁面は全面に張付壁で金粉で連山と雲を描いています。往時流行の見事な障壁画と言われていますが、筆者は不明だそうです。
こうした広々とした空間の中、欄間には満月が置かれ、それに呼応した「圓如太虚」の掛け軸との呼吸もぴったりです。書き下せば、「円かなること太虚の如し」。人の心は本来何もなく、無であり空であるという意味です。大徳寺の前管長 中村祖順老師の御染筆だそうです。 -
無限庵 御殿 書院主室
本来の姿を見てもらいたかったので、ネットでシェアできそうな画像を検索してみました。
この写真は、加賀市教育委員会のHPから借用させていただきました。
http://www.kaga.ed.jp/bunka5.html -
無限庵 御殿 書院主室
柱は、全て北山杉です。
帰宅後ネットで調べたところ、着物の展示会は名古屋を拠点に営業されている「名匠庵」の企画でした。山中温泉旅館の女将などがお目当てかと思ったのですが、東海地方のデパート、小売店のバイヤーを山中温泉に招待して開催したようです。
無限庵側とすれば、維持管理に経費がかかるため、観光客相手よりも歩がいいのかもしれません。
目の肥えた方には判るのかもしれませんが、加賀友禅をはじめ日本工芸会所属の作家の作品、芭蕉布などの趣味の着物、創作小紋や和装小物などが展示されているそうです。 -
無限庵 御殿 書院主室 床脇棚
地袋を少し後退させ、床框を矩折りに廻しています。地袋の天板は欅摺漆、下げ束は黒柿摺漆塗、黒塗縁の小襖を4本立てています。天袋は間口を少し縮め、黒柿摺漆塗の釣束を用いています。地袋も天袋も側板は杉の木地とし、天袋の襖絵は金唐革(きんからかわ)です。
周囲の壁や襖には雲と山が一体的に連なる金粉絵が描かれ、豪華さの中にも気品を湛えています。金粉というのがいかにも加賀らしい所ですが、下品で嫌味な感じが全くしないのは武家書院の伝統がなせる技でしょう。 -
無限庵 御殿 書院主室 床脇棚 天袋
金唐革とは、革に型または打出しによって文様を浮き出させ、その文様に金箔または金泥でメッキを施したものです。草花のテンペラ絵が、100余年経っても金唐革の輝きを保っているのは、金彩がしっかりコーティングされている証です。
また、天袋の周りの天井には、神代杉(じんだいすぎ)の網代模様の寄木象嵌細工が貼られています。 -
無限庵 御殿 書院主室 床脇棚 天袋
金唐革がどの年代に渡来したかは定かではないようですが、17世紀中頃と考えられています。徳川家の歴史を記した『徳川実紀』に、1662(寛文2)年3月、「蘭人入貢金唐革十枚」と記載されているのが発見されたからです。
欧州に比べ日本の皮革工芸は周回遅れで、豪華な金唐革は珍重され、武士は刀の柄や馬具などに、富裕商は煙管入れにしたり、屏風仕立てにしました。しかし輸入品が蔓延し過ぎ、1668(寛文8)年に金唐革御停止令が出され、贅沢な金唐革は「無用なもの」とされました。禁止令は、世の常で表向きだったのは言うまでもなく、日本ではこれを契機に皮革工芸が進歩しました。
金唐革は、湿気や日光、自然劣化、虫害に強く、臭いが付くことも少なく、ホコリなどが付いても掃除がし易いなど利点が多く、布や紙などから比較するとはるかに品質が高いものでした。そのため、金唐革はルネッサンス期にメディチ家の庇護の下に発展しました。 -
無限庵 御殿 書院主室 床脇棚 地袋
地袋の下げ束は渋い黒柿摺漆塗、小襖は黒塗縁です。 -
無限庵 御殿 書院主室 床脇棚 地袋
地袋の引き手は、菊の花と葉をあしらった変り種の象嵌細工です。
中央に菊の花、リングの外に緑色の葉を表現しています。 -
無限庵 御殿 書院主室 床脇棚 琵琶台
右側に配された琵琶台は、黒柿摺漆塗の束を立て、優美な高蒔絵『流水翡翠』で装飾しています。翡翠(カワセミ) はその美しい羽根色から「飛ぶ宝石」と言われますが、くちばしには赤珊瑚、羽根には螺鈿(らでん)を嵌め込み、加賀蒔絵の粋を極めた作品と言えます。
この蒔絵の作者は大垣昌訓(1865~1941年)とされ、伝統的な加賀蒔絵の手法を保持した最後の人と称された名工です。金沢の「桐工芸」は、藩政期からあったとされますが、明治時代初期に昌訓が桐火鉢に蒔絵加飾の技法を創案したことが始まりと言われています。桐の木目の美しさと花柄などの蒔絵の模様を調和させる技が全国で評判になりました。
高蒔絵は最初は着物で隠されていましたが、関係者に断って着物の裾を上げていただき、無事撮影できました。 -
無限庵 御殿 書院主室
照明器具も往時のものです。勿論、その頃は、電気ではなくガス灯仕様でしたが…。
この明治時代末期の照明器具には、優美な鳳凰の透かしが廻されています。鳳凰は、中国の伝説上の霊鳥で縁起の良い鳥とされています。
また、天井の木材は神代杉です。一般的に知られる神代杉は火山灰の中に埋もれていた「黒神代」と呼ばれるグレーに近い色彩のものが多いのですが、ここの神代杉は杉の色が残された一枚ものです。また、1本の杉から切り出したものだそうです。 -
無限庵 御殿 書院主室
長押に打たれた釘隠しは、赤銅金色絵の尾長鳥をモチーフにした加賀象嵌です。 -
無限庵 御殿 書院主室
尾長鳥の釘隠しは、各々姿態を違えているのも遊び心があり、面白いところです。 -
無限庵 御殿 書院主室
襖にある加賀象嵌の引手です。
中央には鳳凰、周囲には五七の桐紋を散らしています。
こうした小物にも贅を尽くしているのが窺えます。 -
無限庵 御殿 書院主室
縁側上部の明り取りの障子の組子にも独特の意匠が施され、味わい深いものがあります。 -
無限庵 御殿 次の間
暗い印象がありますが、それは障子戸が開放されていないこと、展示された着物が光を遮っていることが挙げられます。
手前の照明は、着物のライトアップ用です。
恐らく、通常は障子が開放され、明るい部屋になっていると思います。 -
無限庵 御殿 縁側
縁側のすぐ下には大聖寺川の渓流が滔々と流れています。
正面に見られる群青色の壁と黒柿の高欄の中に、欅菱形の寄木貼りの縁床と言う要素が付加された贅沢な縁側です。
黒柿高欄と明治時代末期の透明度が高く、ゆらゆらするガラスを通した新緑とのハーモニーが、時の経つのを忘れさせます。因みにこのガラスは、建造当時から100年間、割れたことがないそうです。 -
無限庵 御殿 廊下
御殿の廊下の漆喰壁には成巽閣で見られるような加賀伝統のラスピラズリを用いた高貴な群青色が配され、御殿にある金粉障壁画との対比に息を呑みます。
因みに金沢にある「成巽閣(せいそんかく)」では室内は撮影できません。ここで思う存分に激写してください。 -
無限庵 書院階下 廊下
玄関の先に走る廊下には、3種類の天井が並んでいます。
これは竿縁の船底天井ですが、蒲鉾形に緩くむくりが付けられています。和室の廊下としては珍しい意匠です。
提げられた楚々とした裸電球にも味わいがあります。 -
無限庵 茶室「雄峯庵」
廊下から茶室へ「席入り」します。
こじんまりした台目向切二畳中板の茶室です。二畳台目とは、丸畳二畳と台目畳一畳で構成された茶席のことを言います。
珍しいのは、客座2畳の間に中板を入れ、中板と1畳の客座に沿って台目の点前座を敷き、もう1畳の客座に面して床(踏込床)を構えていることです。客は中板を挟んで座り、実質客座は1畳ほどです。中板を隔てた下座の1畳は相伴か半東の席に充てられるからです。
また、点前座の入隅には、釘箱棚が仕立てられています。
天井は、床前の客座の上が化粧屋根裏、床柱の通りに竹の壁留を入れ、中板から奥へ網代天井を張り、点前座上を蒲の落天井とする凝りようです。 -
無限庵 茶室「雄峯庵」
茶室と言うと小さな「にじり口」を連想してしまうのですが、ここは2枚障子(貴人口)の外に土間が設けられ、土椽を形成して雪深い土地柄に備えた構造になっています。 -
無限庵 茶室「雄峯庵」
炉の前角に床柱を立て、風炉先に当たる床脇の壁を大胆にくり抜いています。しかも風趣のある火灯形ではなく、シンプルな矩形に大胆にくり抜いています。こうすることで、客人に点前の様子がよく見える仕組みになっています。 -
無限庵 書院階下 廊下
廊下の脇にある小部屋は旧電話室です。
木枠の材料には桑を用い、その造形が独創的で味わいがあります。現在は電話機ではなく空調機に占められています。 -
無限庵 書院階下 廊下
今は使われていない書院2階へ上がる螺旋階段です。
檜の天板の厚さも半端ではありません。 -
無限庵 書院階下 廊下
書院階下の前の天井は、船底天井のように天井板をアーチ状に湾曲させた珍しい天井です。 -
無限庵 書院階下 控えの間
金沢市内にあった頃は、この部屋は湯殿として用いられていたそうです。ですから天井と窓の意匠が座敷としてはユニークです。真ん中を透明ガラスにしているのは、湯船に浸かりながら庭を眺められるように設計されているからです。
ここへ移築した後は、畳を敷き、客人や運転手、お付の方の控え室として用いられていたそうです。 -
無限庵 書院階下 控えの間
曲線を多用した窓枠に職人技を感じさせる香狭間透かしです。
ここから臨む新緑に息を呑みます。摺りガラスがなせるグラデーションの妙も見事です。
秋には、これが真っ赤に染まるのでしょうね! -
無限庵 書院階下 書院階下 主室
主室は12.5畳、正面に1.5間の床と1間の床脇を構えています。角柱、内法長押付の座敷で、天井は廻縁の上に重ね縁を置きます。床柱は杉の四方柾、框は真塗、床前畳は大きく1枚畳を敷いています。
床脇棚は地袋だけです。正面に円窓を開け、障子の組子の配置など意匠を凝らしています。
床脇棚の手前にあるのは、新家家の興隆の原点となったシデの木製の自転車用リムです。さすれば、床脇にある円窓は、思い入れの深いリムの形をあしらったものなのかもしれません。しかし、丸窓の意匠の遊び心には驚かされます。一見、「あみだくじ」を彷彿とさせます。 -
無限庵 書院階下 控えの間
天井は湯気が結露して垂れ落ちないように、このように湾曲させてあります。 -
無限庵 書院階下 書院階下
主室から控えの間方面を見た様子です。
書院の2間は、新家家の別邸へ御殿を移設した大正10年に新築された部分の一階座敷です。
この欄間は、桐の木に桐の透かし彫りをあしらったものです。天井板は、杉の根元の方だけを使った高価なものだそうです。
敷かれたペルシャ絨毯は、新家家の別邸の時からあるもので、まさしく100年ものです。良質な素材と草木染めのペルシャ絨毯には、時代を経た物だけが持つ付加価値があります。 -
無限庵 書院階下 書院階下 主室 床脇
床と床脇の間の壁に設けられた2つに分けられた風炉先窓は、その意匠が素朴ながら小洒落たものです。 -
無限庵 書院階下 書院 廊下
引き戸に彫られた龍の彫刻です。
シンメトリックにペアになっています。 -
無限庵 書院階下 書院 廊下
完全に透けているのではなく、間に摺りガラスを介しているように思います。 -
無限庵 応接間
玄関を入った先の右脇にあります。こちらも、金沢市内から御殿や旧湯殿と共に移築された部分です。
4畳半あるかないかの小さな洋風の間です。全て和風建築だと思っていたので意表を突かれました。印象的なアーチ形の窓には、2種類の型押し硝子と透明硝子の3種類の硝子が嵌め込まれています。
丸い窓の意匠は、一見、自転車のリムのように見えます。これで新家熊吉氏がこの御殿に一目惚れした理由が判ったような気がします。 -
無限庵 応接間
小さな部屋ですが、ここにある意匠は極めて濃厚です。
大正時代初期の洋風建築に相応しく、セセッション風の寄木象嵌細工が入口の周りや天井、カーテンボックス、扉など随所に施され、目を瞠ります。 -
無限庵 応接間
窓の中央にある鏡の上部には、アイリスの透かし細工があります。 -
無限庵 応接間
一部水銀が浮き出ている鏡ですが、縁取りされ、歪みは全くなく、いい仕事をしています。 -
無限庵 応接間
入口のドアの意匠です。
ドアの木枠の意匠も手が込んでいます。 -
無限庵 応接間
摺りガラスの直下には小さなバラ、その下には2輪のアイリスを配しています。
小さな粒々は、ロザリオでしょうか? -
無限庵 応接間
入口ドアは、内外で意匠を違えています。
この入口をある種の結界と考えていたのかもしれません。 -
無限庵 応接間
天井は、丸ごと寄木象嵌細工です。 -
無限庵 応接間
天井とカーテンボックスの寄木象嵌細工です。 -
無限庵 応接間
壁の腰板には、控え目にバラの彫刻があしらわれています。
バラの花言葉のひとつに、「あなたの思いやりと励ましに感謝します」があります。 -
無限庵 玄関先 展示室
獣皮を薄く削いで鞣した金唐革に金箔を施し、その上にテンペラで描いた草花の絵画です。
これは新家家が三井財閥から買い取ったものだそうです。 -
無限庵 玄関先 展示室
これも三井財閥から購入した屏風だそうですが、作者は不詳だそうです。 -
無限庵 玄関先 展示室
千利休の所持と伝わる茶箱です。
箱書:碌々斎(表千家十一代)
秀吉が垂涎の的としていた一品なのかも!? -
無限庵 玄関先 展示室
茶箱 碌々斎 -
無限庵 新館
かつては倉庫だった場所が新館に生まれ変わっています。ここには、加賀工芸の新鋭作家さんの作品が展示されています。
地元の大同工業が2003年に会社創立70周年に際して山中温泉の観光のために寄付された、木製自転車(限定6台)が展示してあります。
日本製の自転車用木製リムの元祖「木製リム」を製造したのが、新家工業株式会社(創業1903年)の創業者 新家熊吉氏です。山中漆器の製造・販売を行っていた熊吉氏は、ウラジオストックで偶然見かけた自転車に興味を持ち、漆技術を生かして「木製リム」を製造できないかと考えました。山中漆器で培った木地挽き技術を活かし、「木製リム」の製造を開始し、やがて1915(大正4)年には金属製リムの製造に成功、新家自転車(株)を設立して現在「アラヤリム」で知られる新家工業株式会社の基礎を築きました。また、チェーン製造事業も展開し、大同工業(株)の初代創業者となっています。
熊吉氏は、漆器製造の技術を活かして自転車用リムの製造方法を確立し、日本に新しい市場を創造したイノベーターと言えます。こうして石川県下にリム製造業者やチェーン、スポークといった自転車関連部品事業者というフォ口ワーが創生され、地域社会を活性化させたのです。 -
無限庵 玄関
玄関の重厚な引き戸の引き手も見応えがあります。 -
無限庵 庭園
入口の門から左手は、庭園になっています。坂の手前には羊の像が一対向きあって並んでいます。何故、羊の像なのかは不明だそうです。
ここに散らされた延段は、「草」と「真」が混ざった「行」の延段で歓迎してくれます。 -
無限庵 庭園
この鄙びた門を潜って坂を下りていくと、大聖寺川に架けられたこおろぎ橋の上流に出ます。 -
無限庵 茶室「静清庵」
坂を降りていくと右手に鄙びた茶室が見えてきます。これが「静清庵」です。
苔生した森に溶け込むように佇んでいます。 -
無限庵 茶室「静清庵」
深い緑に覆われ、「隠れ里」と言った風趣が漂う茶室です。 -
無限庵 茶室「静清庵」
手前には、苔生した飛び石や延段、石燈籠、蹲踞が点在しています。 -
無限庵 茶室「静清庵」
ここが茶室への入口に当たるようです。 -
無限庵 茶室「静清庵」
明治時代に浅野長勲公爵が、本郷にあった水戸藩江戸屋敷を買い取って自邸としました。その後、昭和時代初期に数寄屋造りの名人 木村清兵衛に依頼して敷地に建造させた茶室です。
太平洋戦争の戦火に見舞われた東京において唯一焼け残り、マッカーサー元帥夫妻も茶の湯を味わった茶席として知られています。
富山市出身の美術商 中川清寿氏がここへ寄贈されたものです。 -
無限庵 茶室「静清庵」
石造りの待合が設けられ、河岸側から茶室へ入る趣向です。
浅野家に仕えた上田宗箇は織部の茶風に傾倒した茶人としても有名で、上田流では織部の三畳台目相伴席付きの間取りを尊重してきました。静清庵の内部も三畳台目下座床で点前座の後ろに三角の鱗板が入れてあるそうです。 -
無限庵 茶室「静清庵」
浅野公爵は明治政府の下で伊公使、貴族院議員、昭和天皇の養育係、十五銀行頭取を歴任し、日本初の洋紙製造工場「有恒社」を設立した人物です。製紙王で有名な藤原銀次郎は貴族院議員で王子製紙の初代社長であり、浅野公爵の有恒社を吸収合併しました。銀次郎は茶の湯の数寄者で自邸に複数の茶室を有し政財界人と茶の湯を楽しんでいました。この茶室は、戦後、中川清寿の所有となりますが、昭和23年に清寿が海軍が取り壊した東京美術倶楽部「倶楽庵」の代わりにと寄贈され、「静清庵」と命名されました。1989年、財団法人「無限庵」が東京より移築し現在に至ります。 -
無限庵 茶室「静清庵」
内部は公開されていませんが、現在も茶室として使われているそうです。
扁額は、朝比奈宗源老師の揮毫です。茶室を寄贈された中川清寿氏の「清」の一字を入れて「静清庵」と命名されています。
朝比奈宗源は、鎌倉 円覚寺住職や臨済宗円覚寺派管長を歴任された方で、『水戸黄門』や『大岡越前』など、時代劇の題字を手がけられたことで知られています。
現在、何かと話題の「森友学園」の籠池さんや安倍首相をはじめ安倍内閣の過半数が崇敬して止まない右翼団体「日本会議」の前身となった「日本を守る会」を結成された方でもあります。
安倍首相が提案した憲法第9条第3項追加は、実は日本会議の重鎮 伊藤哲夫氏のアイデアです。また、日本会議メンバーは、「自衛隊を明記した第3項を加えて2項を空文化させる」とも豪語しています。元々は「第2項は、国際法に基づく自衛ための実力の保持を否定するものではない」との狭義の解釈でしたが、安倍首相は国際法の解釈を拡大し、自衛隊活動を更に拡張して交戦権を認めさせようとの魂胆なのです。
私は、民主国家として史上初の衆参3分の2議席を獲得した。だから私には民主的正統性があるという自己陶酔が鼻に付きます。以前の自民党なら、絶対多数であってもここまで横暴ではありませんでした。この自民党員の凋落は、世襲議員が過半数を締め、安倍王政の僕に化しているからです。世襲議員の感覚は、幼い頃から貴族のような意識と生活をしており、国民の感覚と乖離しており、殿様に侍る烏合の衆でしかありません。そもそも国民を代表する人材ではないのです。
国家権力や警察、自衛隊を牛耳り、それらを使って一部のマスコミを支配しているのが今の政権です。共謀罪も権利や自由を制限するために今後どう化けるか判らないのです。また、自民党の改憲草案は、国民を戦争に駆り出し、表現の自由を奪い、大衆を貧困に貶める改悪案です。すでに安倍政権は海外派兵を許す安保法制を成立させました。故に、権力の暴走を許さないための改正が求められます。従って憲法改正が全て「No」ではありません。元々、憲法は国民が権力者の暴走を抑止するためにあるものです。しかし現政権は、「国民を管理統制する」道具に変えようとしているのです。現政権の暴走を止められるのは、我々国民しかいないのです。
「テロ等準備罪法案」の懸念もあるため、言及はここまでに留めておきます。ブログでの発言も要注意です!くわばら、くわばら!! -
無限庵 大聖寺川
渓流のせせらぎに傾聴しながら、茶をたしなむ趣向の茶室になっています。
この大聖寺川は、石川県南部を流れる二級河川です。加賀市と小松市境界にある大日山の大日沢を源流として北流しています。山中温泉や名前の由来となった旧大聖寺町を経て、塩屋海岸で日本海へ注ぎます。早くから上水道や発電などに利用されてきた、生活を営む者にとってはありがたい河川です。 -
無限庵 茶室「静清庵」
竿石がラテン十字、また人物像が彫られているため、織部燈籠と思われます。これをキリシタン燈籠と言えるかどうかは、キリシタンによって使用されたかどうかによって決まります。浅野家に仕えた上田宗箇は織部の茶風に傾倒した茶人でしたから…。
古九谷焼きのルーツが弾圧により九州地方から逃れたキリシタンだという説を紹介しましたが、ここ山中は古九谷発祥の地でもあるため、場合によってはキリシタン燈籠と言えるかもしれません。
建てられた年代が判れば、古九谷のルーツの真相が解けるのですが…。 -
無限庵 芭蕉庭園
緑のモノトーンがなんとも美しく幻想的な庭園です。ここなら芭蕉でなくても創作意欲が湧くかも!?
ところで、5月16日が「旅の日」とされる理由をご存知でしょうか?
実は、松尾芭蕉が1689年に『おくの細道』紀行の第一歩を踏み出した日が由来です。せわしない日常生活の中で、「旅の心」を大切にし、旅のあり方を考え直そうと、日本旅のペンクラブが1988年に制定しました。
芭蕉は、山中温泉に9月10日(新暦)から8泊9日逗留して多彩な句を詠みました。この芭蕉庭園が「かがり火に かじかや波の 下むせび」と詠んだ場所と言われています。生憎、この日は河鹿の鳴き声は聞こえませんでしたが…。この句は、鶴仙渓のはじめに紹介した句碑に刻まれた「謎の句」でもあります。 -
無限庵 南門
南門の先に架けられた、苔生した橋です。
現在、南門は閉鎖されており、この橋も使われていません。 -
無限庵 南門
加賀温泉郷の旅では、まず加賀温泉駅で「関西のビル王」がバブル期に手掛けたテーマパーク「ユートピア加賀の郷」の凋落を目の当たりにしました。そして山中温泉では、後世に歴史遺産を残そうと奔走した無限庵の姿を拝見しました。新家熊吉氏は、優れた一芸からリムの生産を始め、やがて周辺産業のイノベーターとして地域産業の興隆にも寄与しました。いずれも「ノブレス・オブリージュ」として故郷に錦を飾るための手段だったのでしょうが、どこでこれほど差が付いてしまったのでしょうか?
前者は、真に故郷の興隆を願ってはおらず、町興しは私腹を肥やすための見せ掛けのスローガンだったのではなかったのか?「仏つくって魂入れず」。当方には、そう思えてなりません。善人の振りをした悪人への「神の啓示」だったような気がします。何時の世も、成功者は弱者にやさしくあって欲しいものです。
加賀温泉郷を訪ねて、このような人間倫理を考えさせられるとは思いもしませんでした。
次回からは、山中温泉を離れ、加賀紀行本丸の金沢市内観光をレポいたします。
この続きは、問柳尋花 加賀紀行④金沢 武家屋敷でお届けいたします。
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