2015/02/23 - 2015/02/23
88位(同エリア378件中)
junemayさん
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うんだもこら いけなもんや
あたいどんが 茶碗なんだ
日に日に三度も洗(あ)るもんせば きれいなもんごわんさ
茶碗についた虫(む)じゃろかい
目籠(めご)など蹴あるく 虫(む)じゃろかい
ほんにげんねこっじゃ ワッハッハ
以前勤めていた会社には多くの鹿児島人がいて、これは、今でも付き合いのあるそのうちの一人から習った「茶碗蒸しの歌」の歌詞です。客人が食堂に入り、茶碗蒸しを注文したところ、店の主人が茶碗蒸しを知らず、「茶碗に虫がついていましたか? 茶碗は日に三度も洗っていて綺麗なはずなのに、籠につく虫が入ったのかな。まことに恥ずかしい限りで。」と謝ったという歌詞だったと記憶しています。耳で聞く限りにおいては、全く意味が分からないのですが、単純な節回しなので、あっという間に覚えて、わらべ歌のように始終口ずさんでいました。変われば変わるね日本語! というのが正直な気持ちでした。
今回旅の目的地を鹿児島にしたのは、日本の端っこに展開された独自の文化を肌で感じたかったから と言うと大げさですが、単純に、鹿児島にしかないものを沢山見つけたいと考えたからでした。さあ、「茶碗蒸しの歌」をいくつ見つけられたでしょうか??
2/19鹿児島 桜島
2/20西大山 指宿
2/21鹿児島
2/22鹿児島
★2/23鹿児島 知覧
2/24串木野 鹿児島
お天気は今日もイマイチですが、雨が降る心配はなさそう。今日は15年前の鹿児島訪問で一番印象深かった知覧に向かいます。前回は知覧町だったのに、合併が進んで現在は南九州市の一部ですって。つまらない名前になってしまいました(失礼!)。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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今日のしょっぱなは天文館にあるアーケードのドームから1枚。フランシスコ・ザビエルの生涯を描いたもので、彼の生まれ故郷のナヴァラ王国(ザビエルという名前はバスク語。ちなみに一緒にイエスズ会を創設したイグナチオ・ロヨラもバスク人です)、インドゴアのボン・ジェズ教会、マラッカ(ヤジロウに出会った場所)、鹿児島上陸等の場面が再現されていました。
中央部分は黄道十二星座が描かれていて、大変美しかったです。 -
続いては1986年(昭和61年)創業の老舗珈琲店「ライムライト」です。石と木の組み合わせが鹿児島っぽいかも。
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今日は山形屋デパート内にあるバスセンターから知覧行きのバスに乗りますが、時間調整のためにちょっと寄り道。アーケードを突っ切ったら、またまた照国神社前に出てしまいました。
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中央公園内にあった鹿児島教育会館。いかにもお役所と言った佇まいですが、ファサードの大きさの異なる板を張り合わせたようなデザインが目を惹きました。1931年(昭和6年)の竣工。躯体を残し、第二次大戦で全焼したそうですが、再建されて現在も現役です。
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今朝はこの方にお会いするためにやって参りましたよ。中央公民館前の交差点傍にあるせごどんの銅像です。地元の彫刻家安藤 照が1937年(昭和12年)に制作した陸軍大将の軍服姿です。
今まで上野の森の着物姿しか知らなかったのですが、昨日訪れた維新ふるさと館にあった等身大像もこの軍服姿でした。 -
せごどんは身長179cm、体重108kgだったと言いますから、当時としては、いや、今でも巨漢だと言えます。頭の大きさと腹のでかさも半端じゃあありませんね。下から見上げているのに、5頭身はなさそうに思います!?
薩摩で彼の人気が非常に高いのは、人としての器の大きさに尽きるようです。「敬天愛人」の精神で、日本のため、郷土のため、家族のため、とことん面倒を見続けた人生だったのでしょうね。 -
その帰り道、中央公園前にある宝山ホール前で、もう一人重要人物と遭遇。
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薩摩藩の若き家老だった小松帯刀です。大変有能な方で、西郷、大久保らを重要な役目に採用、それから薩摩を襲った難事件の解決にも尽力しました。
この像は、1867年(慶応3年)に第15代将軍慶喜が、諸国の大名らを集め、大政奉還の是非を問うた時、真っ先に大政奉還すべきと記帳した帯刀の姿をイメージしているそうです。 -
さて、そろそろバスセンターに向かうとしましょう。初日に東側ファサードを写した南日本銀行の南側ファサードです。また写しちゃったぁ! お気に入りです。
3階部分まで伸びたコリント式列柱が見事ですね。資料にはオリジナルは4階建てと書かれていましたが、3階部分を境に様式がガラッと異なっているような気がしますけれどねえ。 -
鹿児島から知覧はバスで1時間半余。便は1時間に1本程度ありますが、午後遅い便は知覧の町止まりになり、特攻観音まで行きません。
この沢山の灯篭が見えてくると、知覧の町にやってきたことを実感します。 -
知覧特攻平和会館は前回に続いて2回目の訪問。背中に緊張感が走ります。初めて訪れた時に全身を貫いた強烈な思いを再度味わうために、やってきました。
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平和会館前に展示されていたのは、特攻像「とこしえに」と、2005年(平成17年)まで航空自衛隊で使用されていた初等練習機だそうです。
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特攻平和会館内は撮影禁止のため、中の写真はありません。今回はオーディオガイドを借りて、じっくりと解説を聞きながら館内を回りました。
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中でも衝撃的だったのは、陸軍特別攻撃隊第56振武隊所属だった上原良司大尉の書いた「所感」。館内で書いたメモを元に帰ってから検索してみると、なんと上原大尉のウィキペディアまであったのにはびっくり!!
日本の敗戦をここまで明確に予言している「所感」がよく残されていたと驚きを感じるとともに、彼の思いにこれほどまで多くの人達が共感を寄せていたことに深い感動を覚えました。
上原良司大尉の「所感」はこちらから ぜひぜひ見て下さいね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E8%89%AF%E5%8F%B8 -
館内見学後は、頭を整理するために平和会館の建物周りに散らばる戦跡を巡ります。おびただしい数の灯篭と石碑!
移設された教育隊の門柱もありました。 -
巨大な三重の笠灯篭。鹿児島らしいスケールで、仙巌園の笠灯篭を思い出しました。
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こちらは知覧飛行場跡地に1955年(昭和30年)に建立された特攻平和観音堂です。中には、奈良法隆寺の夢殿に安置されている夢違い観音を許可を得て謹鋳した金剛像が安置されています。
オリジナルの夢違い観音も身長87.3cmで比較的小さな観音様ですが、ここにあるのはさらに小さくて54cmでした。ここでは、毎年5月に慰霊祭が催されています。 -
特攻隊員たちが出撃の日までの数日間寝起きしていた三角兵舎が復元されていました。この写真を見ただけで涙があふれて来ます。
兵舎は飛行場から少し離れた林の中に穴を掘り、半分地下に埋もれた形で作られていました。屋根にはカモフラージュ用の杉の幼木などが積まれていたと言います。 -
裸電球がぽつんと二つついているだけの薄暗い空間。隊員たちは肉親、家族等への手紙や遺書をしたため、出撃前夜はここで壮行会を催したと言います。
もはや迷いはない、国のために死ねることを誇りに思う という内容の遺書が一番多く見られましたが、果たして心中がその通りだったのか・・・ -
出撃した朝、皆が使った枕は涙でずっしりと重かったと書かれている文章を目にしました。一読しただけでは明るさ、さわやかささえ感じられる遺書の文面とは裏腹に、最終日の寝床の中で、彼らの脳裏をよぎったのは何だったのでしょう。絶望感、無力感、恐怖心、惜別の情・・・
恐れを知らぬ特攻隊員らは、お国のために喜んで、笑顔で飛び立っていったですって? そんなことばかりがあるわけがない・・・ -
ガラス越しに見えた悲惨な零式艦上戦闘機の残骸を見ながら、世界中の誰もがここに来て、彼らの残したものとその奥にある深い意味を感じ取ってもらいたいと切に思いました。いささか陳腐な表現ですが、百聞は一見に如かずとは、まさにこのこと。
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春の花菜の花がここ知覧でも咲き始めていました。特攻平和会館からバスが走る知覧中心部までは2.5kmほど。バスもありますが、波打っていた心を落ち着かせるために、歩いて武家屋敷保存地区に向かうことにしました。
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旧知覧町のマンホールです。沢山の要素が盛り込まれていて、丸、楕円や四角は畜産農家、お茶畑、お茶工場、武家屋敷などを表わしているそう。また、左上の矢印は平和の情報発信の町という意味なんですって。
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いきなり、美しい生垣と、綺麗に刈りこまれたイヌマキの街路樹が続く通りに出ました。
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イヌマキは雌雄異株の常緑高木で、刈り込みにも耐えるため、ご覧のような形に刈り込まれて庭木としても利用されます。昨日行った鹿児島市照国神社の「斉鶴」もイヌマキでしたね。
生け垣にも使われていて、左側の生垣もイヌマキでしょうか? 全く雰囲気が異なりますねえ。 -
観光名所になっている武家屋敷地区からは随分と離れているのに、個人のお宅の入口はどこもきちんと手入れがされています。
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あまりに手入れが行き届いていて美しいので、ついつい撮ってしまいます。右側の生垣のカーブがまた見事でしょう。
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心の豊かさを感じる佇まいですねえ。一部分の景勝地だけでなく、町全体が古くからの文化を継承している証です。薩摩の小京都という形容詞がつくことがある知覧の町ですが、歴史が今も確かに息づいていること以外、共通点はないように思います。陳腐な形容詞は不要です。
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御伊勢どんの灯篭。1822年(文政5年)に伊勢参りに行った人が記念に建てた灯篭が残っていました。古くは限られた人達だけだった伊勢信仰も、江戸時代には庶民の間にも広がりを見せていたようです。薩摩から伊勢も長い道のりですね。
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平和を祈念する灯篭とイヌマキが続く街道です。
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2月だけれど、ここには春の気配が一杯。
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日本の他のどこにもない知覧だけの景色が続きます。それにしても人っ子一人通っていないなあ・・・
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知覧はお茶栽培でも有名ですね。市町村単位では知覧を含む南九州市は日本一を誇るのだそうです。
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鹿児島県茶業試験場の前を通過中。ここのイヌマキはでかい!
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やがて道は山深くなり、なんだか寂しげになってきましたよ。
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島津氏傍系の佐多氏の居城であった知覧城に寄ろうかと思い、こちらの道を辿ったのですが、あまりにも人の気配がないために断念しました。一人では遭難の恐れがありそうな幽寂な城跡でした。
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佐多氏は幕末まで知覧の領主でしたが、知覧城は1590年代の終わりに火災で焼失して廃城となったため、江戸時代、領主はここには住んでいなかったようです。
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県道沿いにあった伊勢神社。先ほどの伊勢参り記念の灯篭の説明板にもありましたが、伊勢信仰が庶民に広まった結果、この神社を中心とする御伊勢講が行われていました。
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特攻平和会館から歩き始めて30余分。ようやく町らしくなってきました。知覧の中心部に到着したようです。裏道を歩き続けたため、下校中の小学生以外に誰にも会わずじまいでした。
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こちらが武家屋敷地区の入口です。この入口と道路の反対側にあるお店で500円払うと、観覧券とパンフレットがもらえます。「パンフレットを見せて入場ください」と言われましたが、管理人のような人は皆無で、誰でも自由に出入りが可能なようでした。
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地図を見ると、お庭を公開している武家屋敷が全部で7軒。他に鹿児島の黎明館で、中に入ることが出来なかった「二ツ家」の知覧版が見られるみたいですよ。
右下にある亀甲城というのは知覧城の支城だったお城と言われています。領主がこの城に住んでいたとしたら武家屋敷の配置からしてもばっちりなんですが、こちらも中世の城跡のようでした。
武家屋敷の中にも佐多という苗字がちらほら見えますが、領主の実質的な住まいだった御仮屋は一体どこにあったのでしょう?? -
イチオシ
武家屋敷通りのメインストリートです。なんて美しい道なのでしょう! 日本の道100選にも選ばれていると聞きました。
石垣の上に様々な形に刈られたイヌマキの生垣が続きます。遠くの針葉樹が雰囲気をガラッと変えるアクセントになっているようです。城下町特有の、わざと先を見通せないカーブの存在も人工的な美の世界。 -
私有地につきご遠慮ください という文章が4か国語で書かれていました。素敵なアプローチに誘われてついついという気持ち、分からないでもありません。
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こちらもNG。間口の広い立派な門ですねえ。
知覧の町並みが現在見るような姿になったのは1760年頃の宝暦年間、島津家第18代当主島津久峯の時代だったと言われています。1615年(慶長20年)8月の一国一城令により、鶴丸城以外の城は禁じられた結果、薩摩藩には113もの外城が誕生します。外城は厳密には城ではなく、一種の軍事拠点で、農村に土着した武士である郷士がその防備に当たっていました。そして郷士の居住する場所を「麓」と呼んでいました。
知覧「麓」の郷士たちは普段は農業に従事し、非常事態に備えて武術に励むという毎日を送っていたようです。 -
武家屋敷最初の家 西郷恵一郎邸前にたどり着きましたよ。早速お邪魔します。
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門をくぐったらいきなり石垣にぶち当たります。そこから左側を見た1枚。クランクの連続です。西郷氏庭園と彫られた石が出迎えてくれました。
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その石から右手に素晴らしい庭園が広がっていました。
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江戸中期の作庭で、石で表された鶴と亀が配置されていると書かれていました。どこに鶴と亀がいるか、お判りでしょうか?
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答えはこちらです。亀は良く分かりますね。
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住居は、1914年(大正3年)の86戸を焼く大火で全焼し、その後再建されたものです。住居部分の公開はありませんでしたが、ここにどなたか住んでいらっしゃるのかなあ・・・
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室内には普通のお雛様の三組分に当たる?豪華なセットが飾られていました。お雛様以外に家具が見当たらないので、やはりここには今住んでいないのかも・・・
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再び通りに出ました。どこを切り取っても絵になる素晴らしい造形美の連続です。
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二番手は平山克己邸庭園です。こちらも、門をくぐるとすぐにイヌマキの生垣にぶち当たります。
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正面の生垣右手にある階段を上っていくと・・・
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右奥に見える標高517m、比叡山にその姿が似ていると言われる母ヶ岳(ははがたけ)を借景に取り入れた庭園に出ましたよ。
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夏場であればみどり一色なのでしょうが、この時期、色づいた満天星?つつじ?サツキ?の赤がとても印象的でした。江戸時代中期の明和年間1764年~1771年に造られたとのこと。
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イチオシ
北側の隅にあった蓮菜石組です。植栽と石が一体化していますねえ。
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左と右とで全く雰囲気の異なる石垣+生垣のある道を更に進みます。右側が切り石積み、左側が玉石積み。積み方の違いに意味があるのかしら?
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この家は観光客用の休憩所になっていました。
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2種類の樹種が使われている生垣発見!
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三番手は平山亮一邸庭園でした。こちらは1781年(天明元年)の作庭。
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びっしりと植物の根の這った石塀に沿って進むと母屋の脇に庭園への入口の小さな門が見えてきます。
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こちらがその門です。
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イチオシ
この庭も母ヶ岳が借景として使われていました。見事に色づいているのはサツキの大刈込みだそうです。その奥に、イヌマキで母ヶ岳から別れた三つの高い峯が形作られています。
植栽だけで、石組がないことがこの庭の大きな特徴です。何とも優雅な美しい曲線の連続に思わず息を呑みました。シンプルだけど奥が深い。 -
この写真だと、三つの峰が良く分かるかな?
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庭の奥から入口方向を写した1枚。サツキの大刈込の前に9つ見られる切石は、盆栽を乗せるための石で、琉球庭園によく見られる形態だそうです。この上に盆栽が置かれると、庭園が完成するとのこと。手が込んでいますね。
ここまで美しく育つまでに、どのくらいの年月がかかっているのでしょう? 現在作庭から234年経過! -
平山亮一邸は敷地面積が広く、ご覧のような蔵も見ることが出来ました。どこも一部の隙なく手入れが行き届いています。
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母屋と庭の入口を違ったアングルで1枚。
母屋の手前にある長い水鉢は何のためのものかなと思い、調べてみたら、なんと! 刀や槍の血のりを落とすための鉢とありましたが、本当かしら? 実戦に備え、常に準備を怠らない、武家屋敷ならではの備品と言えますが、江戸時代の薩摩に必要だったとは思えませんねえ。 -
通りに出てみると、道の行く手にも母ヶ岳がどっしりと構えていました。こんなに美しい道にはそう滅多にお目にかかれるもんじゃありません。
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またクランクが近づいてきました。突き当りに何か白いものが見えますよ。行ってみましょう。
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三叉路にあったのは、中国伝来の「石敢當」です。中国、沖縄の古い街中で以前目にしたことがあります。魔除けの一種で、石のパワーで邪気を跳ね飛ばすと言われています。知覧に十数個残されていたものの一つだそう。
中国や沖縄の石柱には「石敢當」と書かれていましたが、こちらのものには文字が見当たりませんでした。ひょっとして剥がれた???
向かって左側の小さめの石が「石敢當」、右側は耳塚(戦死者の耳を弔ったとされる塚)ではないかと言われています。両者に因果関係なさそうですが、同じ材質の石が使われていることに注目。 -
三叉路から右に行く道はこちら。どちらに行くか迷いましたが、・・・
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メインでありそうな左の道を辿ることに。なぜかと言えば、鹿児島市で見ることが出来なかった二ツ家が「おいでおいで」をしていたもので。
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じゃ~ん。知覧型二ツ家が姿を現しましたよ。休憩所を兼ねた施設となっていて、見学も可能だということなので、お邪魔することにしました。知覧茶のサービス付きです。
鹿児島市内の黎明館裏庭にあった二ツ家が工事中のため見学できなかったので、興味津々。ここにあるのは知覧独特の二ツ家で、オモテ(居住用)とナカエ(台所)の二つの棟の間に小棟を置いて繋ぎとした造りなのだそうです。 -
向かって左側の棟が、広々とした縁側付きの「オモテ」、右側が台所や囲炉裏のある「ナカエ」です。
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もう少し近づいてと。
床の間、畳の続き間つきの、風格あるオモテの室内です。オモテは武士のプライドの産物であり、生活臭が漂うところであってはならないのです。 -
こちらが「ナカエ」。オモテが男性であるなら、ナカエの主(あるじ)は女性ですね。室内は、思ったより広かったです。
知覧名物の傘提灯が吊り下げられて売られていました。他に知覧茶も販売されていましたよ。 -
知覧に5ヵ所あったと言われる稽古所跡です。郷士子弟の教育機関で、7歳から25歳位までの子供、若者が学問、武術、礼儀作法等を学びました。
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稽古所跡に続く裏庭には、ピンクの濃いサクラが今や盛りと花を咲かせていました。流石に南国。2月だというのに、沢山のサクラを愛でることが出来ました。
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イチオシ
さあ、庭園巡りに戻りましょう。
人が住んでいる気配はあっても、石垣の上の三段構造の生垣で、表通りから住居部分は全く見ることが出来ません。完全にプライバシーが守られています。さりとて、城壁のような威圧感があるわけでなし。いいですねえ、このわずかにカーブを描いた緑あふれる道! -
程なくして、知覧の旧領主であった、島津家分家である佐多家の末裔が今も所有する、佐多美舟邸庭園に到着です。門の屋根が二重構造。凝った造りです。
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母屋へのアプローチは、どのお宅でも創意工夫の跡が見られましたが、この家はその最たるものでした。
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母屋に行くには更にこの小さな袖屋根を持つ門をくぐります。この門は「本家」であることの証なのだそうですよ。
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目の前に、今まで見て来た庭とは趣が異なる、色彩豊かな植栽が出現しましたよ。1751年~1764年の宝暦年間の作庭。
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更にその奥には、枯れ滝、築山を形作る見事な石組みが!
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少し角度を変えると、また違った趣になります。奥に立派なソテツが見え隠れしていますね。
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上の写真から更に右手に目をやると、ひと際背の高い松を中心とした、スケールの大きな庭が続きます。本家の庭だけあって大変立派ですね。
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本家のお雛様飾りです。
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この辺りは、まるで亜熱帯のジャングルのようですね。
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幹から直接細かい葉が出ている、こちらの木の名前は何でしょう・・・鹿児島の温暖な気候に合った素晴らしい植生を見た気がしました。
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佐多姓の庭園が続きます。こちらは、佐多美舟邸の真向かいにあった佐多民子邸庭園の入口です。美舟邸が本家なら、こちらは分家に当たるのだそう。
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こちらのお宅も、母屋へのアプローチが右へと折れていました。
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現れたのは、大小さまざまな梅の鉢が置かれた前玄関。このお宅は現役。人の営みがはっきりと感じられる数少ないお宅の一つでした。
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玄関に続くアプローチです。
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門の先から続いていた塀の奥には、離れのような建物と蔵が並んでいました。
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佐多美舟邸同様、小さな門をくぐって、庭園へと進みます。
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1741年~1763年と言いますから、寛保年間から寛延を経て宝暦年間にかけての作庭で、「巨石奇岩を積み重ねた深山幽谷の景」とありました。いやあ~ 本家と張り合っているなあ。使われている岩と石の数が半端じゃありません。
この庭では、三番目に見た平山亮一邸庭園にあったような、盆栽を乗せるという上が平らな切石をいくつか見ることが出来ました。 -
一番目立っているのは、頂に避雷針のある笠灯篭。周りには苔むして鮮やかな緑色と化した岩が多用されています。
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ごつごつした深山の荒々しい雰囲気を感じさせます。手前の飛び石ですら歪でいかつさを感じます。
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ところが、右側へ目を移すと、岩の粗暴感は消えて、丸みを帯びた曲線のみが目立つようになります。あら不思議!! こんなにも表情が変わるなんて。
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佐多民子邸の二人雛コレクション。左下の貝殻が描かれた小舟に乗った雛人形? に魅せられてしまいました。
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7つある庭園の内、5つを見終わりました。
完璧なまでに刈り込まれた生垣が続く通りをなおも進みます。 -
この辺りは佐多さんのお宅ばかり。6番目のお庭も佐多氏の子孫、佐多直忠邸の庭園でした。
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これまで見て来たお宅同様、門から真っ直ぐに進むと壁(切石の目隠し)にぶち当たります。これを屏風岩と呼ぶのだそう。中国や沖縄でよく見られるスタイルですね。
年季の入った壁なので、鉄気、白華、ポップアウト等で風化現象が進んでいて、かなりの部分で色が変わってしまっています。 -
こちらのお宅は庭に入る門まで生垣で作られていました。お見事!
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1932年(昭和7年)に母屋を瓦ぶきに改築する前の二ツ家時代の写真が残されていました。オモテ、ナカエそれぞれが5つから6つの部屋に分かれている大きな屋敷で、1700年代の終わりころに建てられたもののようです。構造、大きさ共に知覧一を誇っていた建物だそうですよ。
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こちらは現在の母屋です。すでに佐多直忠氏の次の世代に引き継がれていました。
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庭では梅がその盛りを迎えていました。今まで見たお庭とはまた異なる雰囲気。作庭は1741年から44年にかけての寛保年間だそうです。
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梅、イヌマキ、梅、そして蓬莱石組と続きます。運が良いことに庭が一番華やかな季節にお邪魔したようです。バックの生垣による山並みがまた良いですね。
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石組そのものは、前に見たものとあまり変わり映えしない気がしますねえ。
そしてちらっと顔を覗かせている母ヶ岳の借景です。
更に石組の奥にもイヌマキ、梅が交互に並んでいました。 -
母屋と庭の配置はご覧の通り。濡れ縁のある座敷部分は、昔と少しも変っていません。二間続きの座敷から庭を愛でたんですね。
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背の高いイヌマキ2本。今日だけで、一生分のイヌマキを見たような気がしてきました。
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私有地につき立入禁止の看板が出ているのですが、何故か河童美人が階段途中でくつろいでいました。彼女に誘われて、ついつい入りたくなりますね。
「いらっしゃい!」のご挨拶かしら? -
江戸時代と変わらぬ風景かも・・・
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こちらはカフェ・デ・フォ。
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コーヒーブレークにしようかなと思って入っていったのですが、人気がありませんでした。がっくし・・・
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いつしか、口をついて出てきた曲は、ビートルズの(^^♪Long and winding road♪。いつまでも続いてほしい道です。
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もう1軒、二ツ家が残されている場所がありました。
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イチオシ
元石仏の苔人形。柔らかな笑顔が素敵です。自然と手を合わせたくなりますね。
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あらあら、屋根にブルーシートが! ちょっと残念ですねえ。こちらは旧高木家住宅で、江戸時代に建てられた二ツ家です。丁度シートがかかっている部分が、二つの屋根を結ぶ小棟で、これがあるのが知覧の二ツ家の特徴だそうです。鹿児島にあった樋の間二ツ家とは似て非なるもののようです。
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女玄関に無造作に置かれたボンタンの籠。皮に値段がマジックで書くのはやめて欲しいなあ。購入意欲が湧きません。
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生垣に開けられた門をくぐると、この家の庭を見ることもできます。
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今まで見て来たお庭と比べると、まとまりが今一つでしたが、ここも手入れはきちんと行われていました。
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素晴らしいなあと思ったのは、庭の先に広がる竹林のある風景。白い車がアクセントになっているわ! 車のCMに使えそう・・・
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二ツ家のお隣の高城庵(たきあん) ちらん料理とあります。ここで料理を頼んで、先ほどの二ツ家で食べることもできるようですよ。ランチのセットが大変好評。
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どこの玄関も趣があって、覗いてしまいたくなります。えっ? 私だけかしら? のぞき見趣味。
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古さを感じさせる石塀に生垣が優しい・・・
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ほらっ つい、お邪魔したくなる気持ちわかりますよね。
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さあ、残すところお庭はあと一つ! いつまでも歩き続けたい石垣と生垣の道とももうじきお別れです。
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知覧武家屋敷の公開庭園フィナーレは森重堅氏庭園です。ここは知覧城の出城である亀甲城の西麓に近い場所です。
今までのお宅よりもどっしりとしていて立派な門構えのような気がしますねえ。門柱の前後に腕木を出し,それぞれの腕木に桁をかけて屋根をつけた腕木門です。 -
母屋へのアプローチも違うなあ・・・わくわく。
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ほう~! 母屋には玄関が二つ並んでいますよ。左側が家人用、右側はなんと領主専用なんですって。
そしてその右側にお庭への入口がありました。 -
山が近くまで迫っている雰囲気がありますね。
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知覧で初めてお目にかかる池泉庭園です。波打つように刈り込まれた背景の生垣は知覧らしさに溢れていますが、池の部分はやや平凡かも・・・
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1741年~1744年の寛保年間に、まず母屋が建てられ、ついで作庭されたのだそうです。一番高い場所に建つのは三重の笠灯篭かな?
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池の水は山麓から湧き出す湧水で、枯れたことがないそうです。池の対岸には洞窟を思わせるような穴石が置かれていました。
7つのお庭、それぞれに外界からは窺い知れない独自の空間を演出していました。
中の動静が伺い知れないようにすることが、武士たるものの住まいに必須だったということがよくわかりますが、こんなに豊かなプライベート空間が潜んでいようとは! -
森家は土蔵も大きく、敷地面積でも一、二を争うのではと思われるほど広々としていました。土蔵の屋根に特徴があると書かれていたのですが、見た限りでは良く分かりませんでした。落書きが絶えないらしく、「落書きの壁ではありません! ごっつい罰則あり」の立て札に管理のご苦労がしのばれました。
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武家屋敷通りからバス通りである県道谷山・知覧線に出る前に麓川を渡ります。
お~っ、遠くに古い石橋が見えますよ! -
アーチ型の美しい石橋矢櫃橋(やびつばし)でした。1852年(嘉永5年)に別の石橋建設で余った石で造られたもので、川幅が一番狭くなった場所に架けられていました。全長20.4m、幅員わずか2.8m。徒歩でなら渡れますが、欄干がないので、ちと怖いかも。
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大きなアーチと少々歪な小さなアーチの組み合わせ。素朴な手作り感満載の石橋でした。薩摩藩時代には多くの人馬が行きかいしたそうです。ちなみに南九州市の指定文化財に登録されています。
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渡ってきた橋を振り返って眺めます。この道を真っ直ぐに進むと森重堅邸庭園の前に出ます。
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知覧は2014年にノーベル物理学賞を受賞した赤崎勇(崎は山偏に大ではなく、立と書く)名城大学大学院理工学研究科終身教授の故郷で、商店街の窓ガラスには、ご覧の紙片が誇らしげに貼られていました。
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県道沿いの民家の生垣は遊び心一杯。凝ってますねえ。背景の山がまた良い味出しています。
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町のメインストリート。再びイヌマキの街路樹と水路のある道を歩きます。
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県道谷山・知覧線の先には、知覧のシンボル母ヶ岳がその姿を見せていました。
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南九州市役所知覧支所(旧知覧町役場)を通り過ぎると(あっ ここにも赤崎勇氏の名前がありましたよ!)・・・
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再び麓川にかかる橋を渡ります。
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少々凝った造りで、親柱部分には武家屋敷街のタイル画がはめ込まれていて、
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手摺の部分は屋根の棟のように仕上げられていました。
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知覧最後にご紹介するのは、鹿児島に戻るバス停前にあったこちらの建物です。
復元された富屋食堂。特攻隊員の母ととして慕われた鳥濱トメさんが経営していた食堂が資料館として公開されていました。17時を回っているので、今日はもう閉まっていました。 -
2001年に公開された高倉健、田中裕子主演の映画「ホタル」にも登場した食堂です。
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1929年(昭和4年)に開店した富屋食堂は1942年(昭和17年)に陸軍の指定食堂となったため、沢山の飛行兵たちが訪れるようになりました。それから3年後の1945年(昭和20年)、特別攻撃隊が編成され、知覧飛行場から出撃するようになると、トメさんは特攻隊員たちの面倒をみるようになります。
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鳥濱トメさんの話は特攻平和祈念館でも聞きましたが、残された証言に基づく民間ベースの資料館もぜひ見てみたかったので、入場が叶わずとても残念でした。庭園に時間かけすぎでした(反省)。
建物の奥に、特攻隊員たちがしばしば訪れた「離れ」と呼ばれる広間があるそうです。 -
食堂隣の建物は富屋旅館。戦後知覧を訪れる遺族用に鳥濱トメさんが建てた旅館です。
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戦争の記憶、特攻隊員達の残したものを決して風化させることなく、永遠に語り続けていって欲しいなと心の底から思いました。
知覧は1日たっぷりかけて回りたい町。午前中は大きなため息を沢山つきましたが、午後はうっとりするような至福の道と庭に癒され、歓声を上げ続けましたよ。明日はいよいよ最終日。この続きは「よかとこかごんま その6 串木野、鹿児島」で!
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この旅行記へのコメント (2)
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- ねんきん老人さん 2021/01/12 16:18:11
- 濃く、深い旅行記に感動しました。
- junemay さん、読み応えのある旅行記でした。
のっけに知覧町という地名が南九州市の一部になったというくだりに「つまらない名前になってしまった」というご指摘があり、我が意を強くしました。 同様の事例は全国枚挙にいとまなく、常々苦々しく思っていたところです。
知覧の特攻平和会館には行ったことがありません。 いつか、そのうち、と先送りにしていましたが、junemay さんの旅行記を拝読して、これは何かのついでにというような場所ではないと気づきました。 ここを訪れるために自宅を出なければいけないと思ったのです。
会館周辺の見学記も丁寧で、一つ一つの解説が胸に沁みます。 数々の写真も、実際に自分が行ったときに一つたりとも見逃してはいけないと思えるものばかりでした。
武家屋敷もしかり。
コロナ・コロナでもう半年以上も近所のコンビニ以外に行っていませんが、私自身の年齢を考えると、騒ぎが完全に収まってからなどと呑気なことを言っていたら機会が得られないだろうとも思い、ここは一番、少なくとも人様に迷惑をかけずに旅行できるようになったら、すぐにでも行こうと己れに誓ったところです。
大きな刺激を与えてくださって、ありがとうございました。
ねんきん老人
- junemayさん からの返信 2021/02/07 20:20:19
- RE: 濃く、深い旅行記に感動しました。
- ねんきん老人さま
こんばんは。junemayです。返信が大変遅くなりました。いつもご訪問いただきまして、ありがとうござます。もう1年以上旅行記の更新が滞っていて、めったに覗いてみないので、こんなに素敵なコメントを頂いていることを知りませんでした。大変申し訳ございません。
旅をとられたjunemayは翼をもがれた鳥のようでした。家から飛び出したい衝動を抑えがたくなるので、今は旅行記を見たり読んだりするのが辛かったです。いつかきっとまた行けるという気持ちはありますが、今までとは違ったたびになりそうな予感がありました。もう昔のような旅はできない。制限の多い旅にしかならない という後ろ向きの考え方です。しかし今日コメントを拝見して、改めて思いました。私だけじゃないんだ。捨て鉢になっちゃいけませんね。ここに行きたい という目的を持つことが大事なんですね。それが旅の始まりなんですね。私はこの1年目的地を持たずにもがき苦しんでいたような気がします。今日から考えを改め、新しい目的地を探し始めようと思います。終わりのない夜はない。わかっちゃいるんですけれどね。
昨年3月、計画を立てていて行けなかった鹿児島川内市を中心とした「たのかんさあ」見て歩記。現地のローカルガイドさんのお助けがないと動けない田舎で、ほぼすべての予約を終えていたのですが、2月末に断腸の思いでキャンセルしました。その時はこんなに長くなるとは思っていなかったので、無理しても行っておけばよかったと後悔することしきり。
本日大きな力をいただきましたので、もう一度実現できるように頑張ることにします。前だけを向いて歩きましょう。お互い晴れやかな顔で鹿児島に行けると良いですね。本当にありがとうございました。
junemay
> junemay さん、読み応えのある旅行記でした。
> のっけに知覧町という地名が南九州市の一部になったというくだりに「つまらない名前になってしまった」というご指摘があり、我が意を強くしました。 同様の事例は全国枚挙にいとまなく、常々苦々しく思っていたところです。
> 知覧の特攻平和会館には行ったことがありません。 いつか、そのうち、と先送りにしていましたが、junemay さんの旅行記を拝読して、これは何かのついでにというような場所ではないと気づきました。 ここを訪れるために自宅を出なければいけないと思ったのです。
> 会館周辺の見学記も丁寧で、一つ一つの解説が胸に沁みます。 数々の写真も、実際に自分が行ったときに一つたりとも見逃してはいけないと思えるものばかりでした。
> 武家屋敷もしかり。
> コロナ・コロナでもう半年以上も近所のコンビニ以外に行っていませんが、私自身の年齢を考えると、騒ぎが完全に収まってからなどと呑気なことを言っていたら機会が得られないだろうとも思い、ここは一番、少なくとも人様に迷惑をかけずに旅行できるようになったら、すぐにでも行こうと己れに誓ったところです。
> 大きな刺激を与えてくださって、ありがとうございました。
>
> ねんきん老人
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