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飯盛山城(いいもりやまじょう、大阪府大東市・四条畷市)はJR学園都市線(旧片町線)四條畷駅から徒歩約60分の生駒山脈の北西支脈に位置する飯盛山山頂に削平された主郭を中心とする曲輪群を有した標高314mの山城で、この山頂には永禄3年(1560)から同7年まで畿内及び四国に亘る十数ケ国を支配していた三好長慶(みよし・ながよし、1522~1564)の居城として知られています。<br /><br />飯盛山城は河内・大和国境地域近くに河内国守護大名である畠山氏被官から<br />地域権力化した木沢長政(きざわ・ながまさ、1493?~1542)が享禄4年(1531)頃に城塞化して居城したとされますが三好長慶勢に敗れ敗死します。<br /><br />木沢氏没落後は同じく畠山氏家臣の安見直正(やすみ・なおまさ)が入城、やがて直正は主家の畠山高政(はたけやま・たかまさ、1531~1576)を追放し自ら河内国守護代をなりますが、追放された高政は三好長慶の支援のもと河内に戻ります。<br /><br />しかしながら高政は勢力伸長著しい長慶の河内進出を警戒し、永禄3年(1560)大和国に逃げていた安見直正を呼び寄せ再度飯盛山城主としますが、この仕業に怒った長慶は高政居城の高屋城を攻撃、支援に駆けつけた安見直正の軍勢を撃破、高政と直正は河内から追放され以降飯盛山城は三好長慶の本拠となります。<br /><br />ところで三好長慶は阿波国出身の武将で、長慶の曽祖父である元長(ゆきなが)や父の元長(もとなが)の時代から、阿波国守護である細川家出身の細川澄元(ほそかわ・すみもと)・晴元(はるもと)父子に従って畿内に出陣し細川一族の本家との争いのなかで中央武家社会にその名が知られるに至ります。<br /><br />しかしながら長慶11歳の時父元長は主君細川晴元の謀略によって亡くなり家督を相続した長慶は晴元を支える重要な家臣として頭角をあらわしますが、やがて長慶の増大する軍事力に警戒感を抱いた晴元は他の武将らに意を含ませ長慶排除を図ります。<br /><br />長慶は天文18年(1549)江口の戦いで細川晴元を破り、天文22年(1553)には晴元に味方した足利義輝を京都から追放、ついに「天下」と言われた京都や畿内を制覇、長慶の勢力圏は近畿と四国の十数ケ国に及ぶことになります。<br /><br />特筆すべきは戦国時代ではじめて将軍家一門を擁せず、自ら天下である京都の政治を5年間に亘って行ない、永禄改元に際しては将軍義輝に勝る信任を正親町(おうぎまち)天皇より得るなど家格を将軍職並に上げることとなります。<br /><br />上記天皇の信任を背景に軍事力態勢を構築、具体的には長慶はそれまでの越水城(兵庫県西宮市)から北摂山地の芥川山城(大阪府高槻市)に移り摂津国と山城国を自ら直接支配し、丹波国には松永長頼(まつなが・ながより)、和泉国には三弟の十河一存(そごう・かずまさ)、淡路には次弟の安宅冬康(あたか・ふゆやす)そして四国には長弟の三好実休(みよし・じっきゅう)をそれぞれ配し支配体制を整えます。<br /><br />永禄3年(1560)河内に侵攻して畠山高政を破った長慶はその11月に飯盛山城に入城、長弟の実休を四国から呼び寄せて高屋城(羽曳野市)に配するとともに、嫡男義興(よしおき)には芥川山城を譲ることとします。<br /><br />上述の理由としては高屋城はかつての河内国守護畠山氏の居城、芥川山城は旧主家の細川氏による築城であった事情から長慶の出自である三好家は旧両管領家を超越した存在であることを暗示したものでありました。<br /><br />長慶の死去後については定かではありませんが、家督を継いだ三好義継(みよし・よしつぐ)は16歳という若輩で指導力欠けるため重臣の松永秀久並びに三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見する形となりますが、織田信長の畿内進出に伴い河内国が平定されると飯盛山城は畠山氏、遊佐氏の所有後織田信長軍に攻め落とされその後廃城となったようです。<br /><br /><br />飯盛山山頂にて入手した「河内飯盛城跡ガイドマップ」NPO法人摂河泉地域文化研究所編集発行)と題したパンフレットには次の如く説明書きがあります。<br /><br /><br />「天下人・三好長慶と飯盛城<br /><br />飯盛城は、標高314mの飯盛山の山頂一帯に存在しました。戦後時代も終わりに近づいた1560年(永禄3)、この城に入城したのが三好長慶です。三好長慶は将軍や天皇がいる京都を制した「天下人」でした。飯盛入城後は、お大阪を中心に四国や瀬戸内、日本海方面までに勢力を拡大し、国内最大の影響力を持つ戦国大名に成長します。<br /><br />飯盛城からの視界は270°に開けます。北には京都の比叡山と遥か滋賀の比良山系を望み、西にかけては北摂から六甲の山々を見渡します。足元に大阪平野が広がり、大阪湾の向こうに明石海峡と淡路島、そして遠く三好氏の本拠地であった四国の山影が浮かぶこともあります。この城から見渡す世界を三好長慶は、天下人・三好長慶の世界であり、この飯盛城は、天上に浮かぶ国内屈指の巨大な山城でした。<br /><br /><br />戦国の「首都」飯盛城跡<br /><br />飯盛城には、公家や連歌師ら文化人、来日中の宣教師など多くの人々が訪れました。かつて飯盛城は三好政権が所在する「首都」だったのです。この「首都」は大阪府下最大の山城で、およそ規模は南北約650mx東西約400mに及びます。山頂の平の地形は、長慶や家臣たちが暮らした曲輪の跡です。ハイキングコ-スが狭くなり、アップダウンする場所は、城の守りを固めた堀切の跡かもしれません。大きな石を使った石垣mぽ目にすることができます。麓に城下町はなく、深野池や大和川、東高野街道などの水陸交通の要であった三箇や岡山などの集落が栄えました。そこにはいち早くキリスト教を受入れた三箇サンチョら三好長慶の家臣がおり(河内キリシタン)、多くの文物があふれました。城跡や山麓を歩き、戦国の「首都」を体感してください。<br /><br />  中西裕樹(大東市・四条畷市飯盛城跡調査専門委員)」<br /><br /><br /><br /><br />更に飯盛山頂上に建てられた飯盛山案内板には下記のコメントが掲載されています。<br /><br />「飯盛城<br /><br />飯盛城は、生駒山地の北部にそびえる標高314mの飯盛山に築かれた中世の山城です。<br /><br />飯盛城は、東側に深い谷を有し、北と西側には非常に険しく、また、河内平野や遠くは京都まで一望できることから、軍事的に重要な場所とされていました。そのため、南北朝時代には城が築かれたと推察され、本格的に整ったのは畠山の家臣、木沢長政が居城とした享禄4年(1531)の頃とされています。<br /><br />その後、交野の豪族であった安見直政が城主の時期もありましたが、永禄3年(1560)には室町幕府の実力者であった三好長慶が畿内平定の本拠地として入城し、政治・文化の中心地となりました。また、長慶はキリスト教にも寛容で城下での布教を許可し、多くの家臣がこの城で洗礼を受けています。(河内キリシタン)<br /><br />長慶が城主であった全盛期には、南北約1200m、東西約500mの城域に、大小約70の郭(防御するための場所)が築かれていたとされ、全国でも有数の山城といえます。<br /><br />しかし、長慶も入城の4年後には亡くなり、天正4年(1576)頃には、織田信長の勢力によって廃城になりました。<br /><br />        平成22年2月  大東市教育委員会」<br />

河内大東 阿波国人で細川氏被官ながら畿内に十数ヶ国に勢力を有し将軍義輝を凌駕して天下人として5年間に亘る権力を誇った三好長慶『飯盛山城』訪問

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2017/03/19 - 2017/03/19

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滝山氏照

滝山氏照さん

飯盛山城(いいもりやまじょう、大阪府大東市・四条畷市)はJR学園都市線(旧片町線)四條畷駅から徒歩約60分の生駒山脈の北西支脈に位置する飯盛山山頂に削平された主郭を中心とする曲輪群を有した標高314mの山城で、この山頂には永禄3年(1560)から同7年まで畿内及び四国に亘る十数ケ国を支配していた三好長慶(みよし・ながよし、1522~1564)の居城として知られています。

飯盛山城は河内・大和国境地域近くに河内国守護大名である畠山氏被官から
地域権力化した木沢長政(きざわ・ながまさ、1493?~1542)が享禄4年(1531)頃に城塞化して居城したとされますが三好長慶勢に敗れ敗死します。

木沢氏没落後は同じく畠山氏家臣の安見直正(やすみ・なおまさ)が入城、やがて直正は主家の畠山高政(はたけやま・たかまさ、1531~1576)を追放し自ら河内国守護代をなりますが、追放された高政は三好長慶の支援のもと河内に戻ります。

しかしながら高政は勢力伸長著しい長慶の河内進出を警戒し、永禄3年(1560)大和国に逃げていた安見直正を呼び寄せ再度飯盛山城主としますが、この仕業に怒った長慶は高政居城の高屋城を攻撃、支援に駆けつけた安見直正の軍勢を撃破、高政と直正は河内から追放され以降飯盛山城は三好長慶の本拠となります。

ところで三好長慶は阿波国出身の武将で、長慶の曽祖父である元長(ゆきなが)や父の元長(もとなが)の時代から、阿波国守護である細川家出身の細川澄元(ほそかわ・すみもと)・晴元(はるもと)父子に従って畿内に出陣し細川一族の本家との争いのなかで中央武家社会にその名が知られるに至ります。

しかしながら長慶11歳の時父元長は主君細川晴元の謀略によって亡くなり家督を相続した長慶は晴元を支える重要な家臣として頭角をあらわしますが、やがて長慶の増大する軍事力に警戒感を抱いた晴元は他の武将らに意を含ませ長慶排除を図ります。

長慶は天文18年(1549)江口の戦いで細川晴元を破り、天文22年(1553)には晴元に味方した足利義輝を京都から追放、ついに「天下」と言われた京都や畿内を制覇、長慶の勢力圏は近畿と四国の十数ケ国に及ぶことになります。

特筆すべきは戦国時代ではじめて将軍家一門を擁せず、自ら天下である京都の政治を5年間に亘って行ない、永禄改元に際しては将軍義輝に勝る信任を正親町(おうぎまち)天皇より得るなど家格を将軍職並に上げることとなります。

上記天皇の信任を背景に軍事力態勢を構築、具体的には長慶はそれまでの越水城(兵庫県西宮市)から北摂山地の芥川山城(大阪府高槻市)に移り摂津国と山城国を自ら直接支配し、丹波国には松永長頼(まつなが・ながより)、和泉国には三弟の十河一存(そごう・かずまさ)、淡路には次弟の安宅冬康(あたか・ふゆやす)そして四国には長弟の三好実休(みよし・じっきゅう)をそれぞれ配し支配体制を整えます。

永禄3年(1560)河内に侵攻して畠山高政を破った長慶はその11月に飯盛山城に入城、長弟の実休を四国から呼び寄せて高屋城(羽曳野市)に配するとともに、嫡男義興(よしおき)には芥川山城を譲ることとします。

上述の理由としては高屋城はかつての河内国守護畠山氏の居城、芥川山城は旧主家の細川氏による築城であった事情から長慶の出自である三好家は旧両管領家を超越した存在であることを暗示したものでありました。

長慶の死去後については定かではありませんが、家督を継いだ三好義継(みよし・よしつぐ)は16歳という若輩で指導力欠けるため重臣の松永秀久並びに三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見する形となりますが、織田信長の畿内進出に伴い河内国が平定されると飯盛山城は畠山氏、遊佐氏の所有後織田信長軍に攻め落とされその後廃城となったようです。


飯盛山山頂にて入手した「河内飯盛城跡ガイドマップ」NPO法人摂河泉地域文化研究所編集発行)と題したパンフレットには次の如く説明書きがあります。


「天下人・三好長慶と飯盛城

飯盛城は、標高314mの飯盛山の山頂一帯に存在しました。戦後時代も終わりに近づいた1560年(永禄3)、この城に入城したのが三好長慶です。三好長慶は将軍や天皇がいる京都を制した「天下人」でした。飯盛入城後は、お大阪を中心に四国や瀬戸内、日本海方面までに勢力を拡大し、国内最大の影響力を持つ戦国大名に成長します。

飯盛城からの視界は270°に開けます。北には京都の比叡山と遥か滋賀の比良山系を望み、西にかけては北摂から六甲の山々を見渡します。足元に大阪平野が広がり、大阪湾の向こうに明石海峡と淡路島、そして遠く三好氏の本拠地であった四国の山影が浮かぶこともあります。この城から見渡す世界を三好長慶は、天下人・三好長慶の世界であり、この飯盛城は、天上に浮かぶ国内屈指の巨大な山城でした。


戦国の「首都」飯盛城跡

飯盛城には、公家や連歌師ら文化人、来日中の宣教師など多くの人々が訪れました。かつて飯盛城は三好政権が所在する「首都」だったのです。この「首都」は大阪府下最大の山城で、およそ規模は南北約650mx東西約400mに及びます。山頂の平の地形は、長慶や家臣たちが暮らした曲輪の跡です。ハイキングコ-スが狭くなり、アップダウンする場所は、城の守りを固めた堀切の跡かもしれません。大きな石を使った石垣mぽ目にすることができます。麓に城下町はなく、深野池や大和川、東高野街道などの水陸交通の要であった三箇や岡山などの集落が栄えました。そこにはいち早くキリスト教を受入れた三箇サンチョら三好長慶の家臣がおり(河内キリシタン)、多くの文物があふれました。城跡や山麓を歩き、戦国の「首都」を体感してください。

  中西裕樹(大東市・四条畷市飯盛城跡調査専門委員)」




更に飯盛山頂上に建てられた飯盛山案内板には下記のコメントが掲載されています。

「飯盛城

飯盛城は、生駒山地の北部にそびえる標高314mの飯盛山に築かれた中世の山城です。

飯盛城は、東側に深い谷を有し、北と西側には非常に険しく、また、河内平野や遠くは京都まで一望できることから、軍事的に重要な場所とされていました。そのため、南北朝時代には城が築かれたと推察され、本格的に整ったのは畠山の家臣、木沢長政が居城とした享禄4年(1531)の頃とされています。

その後、交野の豪族であった安見直政が城主の時期もありましたが、永禄3年(1560)には室町幕府の実力者であった三好長慶が畿内平定の本拠地として入城し、政治・文化の中心地となりました。また、長慶はキリスト教にも寛容で城下での布教を許可し、多くの家臣がこの城で洗礼を受けています。(河内キリシタン)

長慶が城主であった全盛期には、南北約1200m、東西約500mの城域に、大小約70の郭(防御するための場所)が築かれていたとされ、全国でも有数の山城といえます。

しかし、長慶も入城の4年後には亡くなり、天正4年(1576)頃には、織田信長の勢力によって廃城になりました。

        平成22年2月  大東市教育委員会」

交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩

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  • 飯盛山頂・案内板<br /><br />ハイキングコ-スとなっており、JR野崎駅から野崎観音を経て登るコ-スとJR四条畷駅から麓の四条畷神社を経て登るコ-スがあり、自分は四條畷神社参拝後山頂を目指すことにします。山頂から降りてきた男性に聞くと「行き方はいろいろあるが階段となっている道を歩くといいです」とアドバイスをもらって歩き始めます。

    飯盛山頂・案内板

    ハイキングコ-スとなっており、JR野崎駅から野崎観音を経て登るコ-スとJR四条畷駅から麓の四条畷神社を経て登るコ-スがあり、自分は四條畷神社参拝後山頂を目指すことにします。山頂から降りてきた男性に聞くと「行き方はいろいろあるが階段となっている道を歩くといいです」とアドバイスをもらって歩き始めます。

  • 登山道<br /><br />たちまち急峻な段差の道を登りますが相当な体力が伴います。

    登山道

    たちまち急峻な段差の道を登りますが相当な体力が伴います。

  • 登山道<br /><br />途中の道には階段の左右には鎖が施され登山を手助けしてくれています。勾配がきついので自分もこの鎖に頼らざるをえません。

    登山道

    途中の道には階段の左右には鎖が施され登山を手助けしてくれています。勾配がきついので自分もこの鎖に頼らざるをえません。

  • 市街展望

    市街展望

  • 登山道<br /><br />今登ってきた階段を振り返り急峻な登山道であることがわかります。

    登山道

    今登ってきた階段を振り返り急峻な登山道であることがわかります。

  • 休憩所案内板<br /><br />あと100mで休憩所との表示板がありもう一息です。

    休憩所案内板

    あと100mで休憩所との表示板がありもう一息です。

  • 二の丸史蹟碑郭<br /><br />削平された広場が眼前に現れ、中央部には飯盛山史跡碑が建っています。

    二の丸史蹟碑郭

    削平された広場が眼前に現れ、中央部には飯盛山史跡碑が建っています。

  • 飯盛山史蹟碑<br /><br />大正13年(1924)旧制四條畷中学校交友会によって建てられています。

    飯盛山史蹟碑

    大正13年(1924)旧制四條畷中学校交友会によって建てられています。

  • テ-ブルと椅子<br /><br />登山者の休憩のためテ-ブルと椅子が設置されています。

    テ-ブルと椅子

    登山者の休憩のためテ-ブルと椅子が設置されています。

  • 市街展望

    市街展望

  • 市街展望<br /><br />視界270°と言われる展望を楽しむことができます。例えば比叡山、六甲山、淡路島、南河内まで見渡せるとも言われています。

    市街展望

    視界270°と言われる展望を楽しむことができます。例えば比叡山、六甲山、淡路島、南河内まで見渡せるとも言われています。

  • 市街展望

    市街展望

  • 尾根道路<br /><br />薮に覆われていますが左右は急崖の痩せた尾根道路を慎重に進みます。<br />

    尾根道路

    薮に覆われていますが左右は急崖の痩せた尾根道路を慎重に進みます。

  • 尾根道路<br /><br />急な下りが時折見られます。

    尾根道路

    急な下りが時折見られます。

  • 大規模堀切<br /><br />北方防御の一環として敵の侵入を困難にさせるため大掛かりな堀切を設けて尾根を切断しています。

    大規模堀切

    北方防御の一環として敵の侵入を困難にさせるため大掛かりな堀切を設けて尾根を切断しています。

  • 尾根筋の石垣<br /><br />部分的に初期段階の雑な石積みの姿が見られます。

    尾根筋の石垣

    部分的に初期段階の雑な石積みの姿が見られます。

  • 御体塚広場

    御体塚広場

  • 御体塚<br /><br />飯盛山城で死去した三好長慶が埋葬された岩場と伝えられています。

    御体塚

    飯盛山城で死去した三好長慶が埋葬された岩場と伝えられています。

  • 飯盛山山頂・楠公寺の分かれ道<br /><br />当然ながら飯盛山山頂をめざし直進します。

    飯盛山山頂・楠公寺の分かれ道

    当然ながら飯盛山山頂をめざし直進します。

  • 主郭

    主郭

  • 主郭展望台

    主郭展望台

  • 高櫓郭<br /><br />本郭展望台からより高台の郭に登ります。正面には何やら銅像めいたものが立っています。

    高櫓郭

    本郭展望台からより高台の郭に登ります。正面には何やら銅像めいたものが立っています。

  • 楠正行立像<br /><br />四條畷合戦で敗死した楠正行(くすのき・まさつら)の立像があります。(なぜ飯盛山に関する話題の中心人物として三好長慶ではなく楠正行なのでしょうか)

    楠正行立像

    四條畷合戦で敗死した楠正行(くすのき・まさつら)の立像があります。(なぜ飯盛山に関する話題の中心人物として三好長慶ではなく楠正行なのでしょうか)

  • 飯盛山山頂<br /><br />標高314mと記載された「河内飯盛山」山頂の標識が付されています。<br />

    飯盛山山頂

    標高314mと記載された「河内飯盛山」山頂の標識が付されています。

  • 楠正行立像(近景)

    楠正行立像(近景)

  • 防空監視所跡<br /><br />楠正行立像の先には戦中の遺物が見えます。戦時中に防空監視所として利用されていたようです。

    防空監視所跡

    楠正行立像の先には戦中の遺物が見えます。戦時中に防空監視所として利用されていたようです。

  • 飯盛山城址石標<br /><br />山頂には飯盛山城跡の石柱が新たに建てられています。

    飯盛山城址石標

    山頂には飯盛山城跡の石柱が新たに建てられています。

  • 飯盛城址案内マップ

    飯盛城址案内マップ

  • 飯盛城説明

    飯盛城説明

  • 防空監視所跡<br /><br />この山頂には戦前防空監視所が設置され現在その一部が残されています。

    防空監視所跡

    この山頂には戦前防空監視所が設置され現在その一部が残されています。

  • 主郭展望台<br /><br />防空監視所から北方に在する本郭展望台を見下ろします。

    主郭展望台

    防空監視所から北方に在する本郭展望台を見下ろします。

  • 高櫓郭から臨む南側<br /><br />大東市方向に下りの細道が見られます。

    高櫓郭から臨む南側

    大東市方向に下りの細道が見られます。

  • 堀切<br /><br />拡幅2mの土橋が直線に走り、左右の急崖は見事に施されています。

    堀切

    拡幅2mの土橋が直線に走り、左右の急崖は見事に施されています。

  • 楠公寺案内板<br /><br />ここから楠公寺に向かいます。後でわかったのですがこのまま南方向に進めば「千畳敷」と呼ばれ、城内最大の面積を有する空間があり、ここに長慶の居館があったのではないかと言われています。

    楠公寺案内板

    ここから楠公寺に向かいます。後でわかったのですがこのまま南方向に進めば「千畳敷」と呼ばれ、城内最大の面積を有する空間があり、ここに長慶の居館があったのではないかと言われています。

  • 楠公寺<br /><br />飯盛山城の馬場と伝えられる郭跡に昭和25年(1950)建立された楠公寺があります。

    楠公寺

    飯盛山城の馬場と伝えられる郭跡に昭和25年(1950)建立された楠公寺があります。

  • 楠公寺本堂

    楠公寺本堂

  • 扁額<br /><br />本堂上部には「飯盛山」と描かれた山額が付されています。

    扁額

    本堂上部には「飯盛山」と描かれた山額が付されています。

  • 楠公寺墓地<br /><br />寺域が狭いためか傾斜の地に墓地が配されています。

    楠公寺墓地

    寺域が狭いためか傾斜の地に墓地が配されています。

  • 楠公寺境内

    楠公寺境内

  • 楠公寺沿革説明<br /><br />『 楠公寺建立由来(楠公寺名付親池田勇人大臣(故)<br /><br />正平三年一月五日南朝の忠臣楠木正行ひきいる一軍と賊将高師直、四条畷にて戦う。その戦にて染めの桜と散った人々の冥福と菩提を弔う為此の地に一宇を開山、第一世石伏妙春建立す。<br /><br />時に昭和二十三年飯盛山妙法寺改め楠公寺とす。<br /><br />右に楠氏有縁無縁の諸々霊の報思塔を親設す。<br /><br />その右(北)に僧侶墓を新設開山、第一世法名瑞泉院。<br /><br />妙春日祥法尼覚位をお祀りする。<br /><br />階段八十八段、厄払地蔵階段上に開運八大龍玉<br /><br />他に黒龍大明神を守護神とし毎月五、十五、二十五日を命日として読経をつうす。以来今日に至る。<br /><br />開山第一世昭和四十八年七月十九日天寿九十一歳にて遷化す。<br /><br />右謹んで記す        第二世 日修  』

    楠公寺沿革説明

    『 楠公寺建立由来(楠公寺名付親池田勇人大臣(故)

    正平三年一月五日南朝の忠臣楠木正行ひきいる一軍と賊将高師直、四条畷にて戦う。その戦にて染めの桜と散った人々の冥福と菩提を弔う為此の地に一宇を開山、第一世石伏妙春建立す。

    時に昭和二十三年飯盛山妙法寺改め楠公寺とす。

    右に楠氏有縁無縁の諸々霊の報思塔を親設す。

    その右(北)に僧侶墓を新設開山、第一世法名瑞泉院。

    妙春日祥法尼覚位をお祀りする。

    階段八十八段、厄払地蔵階段上に開運八大龍玉

    他に黒龍大明神を守護神とし毎月五、十五、二十五日を命日として読経をつうす。以来今日に至る。

    開山第一世昭和四十八年七月十九日天寿九十一歳にて遷化す。

    右謹んで記す        第二世 日修  』

  • 四條畷方向<br /><br />四條畷に戻るル-トを探します。楠公寺から一旦飯盛山頂上に向かい、交差点を右折し、本郭東側の石垣を経て四條畷をめざします。

    四條畷方向

    四條畷に戻るル-トを探します。楠公寺から一旦飯盛山頂上に向かい、交差点を右折し、本郭東側の石垣を経て四條畷をめざします。

  • 四條畷方向看板

    四條畷方向看板

  • 飯盛山城石垣跡

    飯盛山城石垣跡

  • 飯盛城石垣跡掲示板

    飯盛城石垣跡掲示板

  • 残された石垣跡<br /><br />本郭の周囲は石垣で築かれており、現在では東側に石垣群が残されています。

    残された石垣跡

    本郭の周囲は石垣で築かれており、現在では東側に石垣群が残されています。

  • 残された石垣跡<br /><br />初歩的な積み方といえる野面積みが認められます。標高314mの飯盛山山頂に施された石積みはかなりの労働力が投入されたと思われます。

    残された石垣跡

    初歩的な積み方といえる野面積みが認められます。標高314mの飯盛山山頂に施された石積みはかなりの労働力が投入されたと思われます。

  • 続く石垣群

    続く石垣群

  • 続く石垣群<br /><br />土砂に覆われるなか、長い歴史のなかで辛うじて石垣を保持している姿は心打たれるものがあります。

    続く石垣群

    土砂に覆われるなか、長い歴史のなかで辛うじて石垣を保持している姿は心打たれるものがあります。

  • 御机神社

    御机神社

  • 御机神社拝殿

    御机神社拝殿

  • 御机神社沿革説明

    御机神社沿革説明

  • 御机神社説明石碑

    御机神社説明石碑

  • 御机神社境内風景

    御机神社境内風景

  • 御机神社由緒

    御机神社由緒

  • 御机神社境内風景

    御机神社境内風景

  • 御机神社石段

    御机神社石段

  • 御机神社石標

    御机神社石標

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