2015/12/26 - 2016/01/03
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ふくうめちゃんさん
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毎年恒例・夫と行く年末年始の台湾旅行は11年目に突入。今年も2匹のニャンを預けて、台北を気ままにブラブラ。
寝ている夫をホテルに置いて、今朝も一人でお散歩。
※敬称略。環境漢字が表示できないので似た字を当てた箇所があります。ご了承ください。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
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5日目、2015年12月30日(水)です。
朝ごはん6:45~、ご飯をすませるといつもの如く夫は一眠り‥
なので今日も一人で朝散歩。
圓山站の辺りにまだ行った事のない場所があるので歩いてみます。
バスで中山北路を北上。274番、台泥大楼→台北市立美術館
中山北路は日本統治時代に、
台湾の総鎮守として創建された‘台湾神社への勅使街道’として整備された道です。 -
台北市立美術館の北にある「台北故事館」
早朝なので当然まだ開いてません。
参観は10:00~17:30、月曜・旧正月休。50元。
この建物は市定古跡「圓山別荘」台北故事館 博物館・美術館・ギャラリー
-
台湾唯一のチェダー式洋楼。
1階は煉瓦、2階が木造。
クリーム色の壁に配された煉瓦と同色の曲線模様、入り口の丸いバルコニー、とんがり屋根が可愛い建物です。 -
建物正面は花園に面しています。
多種の草花が植えられ、池と湾曲する歩道が配されたヨーロッパスタイルの庭園。 -
古跡沿革のパネルがありました。
日本統治時代の1913年(大正2年)大稲呈※の茶商‘陳朝駿’がこの圓山別荘を建造。
陳朝駿は当時台北市内の茶商同業組合「台北茶商公会」の初代会長で
ここは取引先や政界との社交や接待の場として使われました。
※正しくは土へんに呈の文字
後ろ側が基隆河に面しているので船着き場を設け、船に客を乗せ大稲呈の店の様子を見せたりしたそうです。
こんな豪華で立派な別荘を持っているのだから、茶商で成功したお金持ちだったのですね~。 -
当時の位置がわかる写真。
写真下方の基隆河畔に圓山別荘が写っています。
圓山別荘は現在の市立美術館背後に花園や馬場が付設され広大なものだったそうです。
別荘脇に明治橋(後の中山橋)、雄大な基隆河の流れ。
橋を渡ると台湾神社の鳥居、灯篭が両側に並んだ参道、
参道右手に台北最古の寺院・劍澤寺(後に移転)、
台北市街を見下ろすように建っている台湾神社。
神社の背後に陽明山の山並みも見えたはず。
別荘からの眺望は凄かったに違いない‥。 -
陳朝駿が亡くなり、家族は没落してしまったそうで‥
その後この洋館は憲兵隊の監獄・立法院院長邸宅などとして転用されました。
1979年に台北市所有となり、1998年に台北市政府が市定古跡に指定。
2000年から3年の歳月とNT$2500万元をかけて修復工事が施され、2003年4月18日「台北故事館」として生まれ変わりました。 -
圓山別荘を後にし、地下道を通って中山北路を横断。
現在の中山橋はこんな感じ、その先に台湾神社の跡地に建てられた圓山大飯店の橙色の屋根が見えました。 -
この橋の写真は、妹といった秋恵文庫にあった書籍に載っていたもの。
「日本統治時代の二代目明治橋」
関東大震災の後だったので、架け替えられた橋は耐震性のある鉄筋コンクリート製、1933年(昭和3年)竣工。
皇居の二重橋を模し作られたそうです、なるほど。
この均整のとれた美しい三連アーチ橋は、台湾で一番美しい橋と称されました。
戦後孫文の号をとり「中山橋」に改名。
2003年に解体撤去されました。
水害対策・河川整備のため撤去するにことになったようです。
その際橋は‘歴史建築’と認定され、他の場所に移設するということで解体されたとの事ですが‥未だに移設先未定、435個の石塊は再春遊水池跡(基隆河畔「児童育楽中心」の対岸)にシートをかけられ放置されているようです(グーグルマップの航空写真でそれらしき四角いものが並んでいるのが確認できます)。 -
圓山は日本統治後に公園として整備され、1897年(明治30年)台湾初の公園「円山公園」が開園。
ここ「児童育楽中心」には当時「円山動物園」「台湾唯一の公立遊園地」がありました。
児童育楽中心は2014年末士林に児童新楽圓としてリニューアルオープンし、ここは閉鎖されたようです。
MRTのある方へ行きたいけれど、この中は通り抜けできない‥
河に沿って北側から行けないものかと試みましたが‥行き止まり。 -
で、行き止まりの中山橋のたもと、脇にひっそりと建ってる石碑を発見。
『太古巣舊址』
‘陳維英’が過ごした「太古巣」の跡地と書いてある。
陳維英‥? 「台湾名儒」って書いてあるから台湾ではとても有名な方みたい。
後で清朝末期の人物で、大変優秀で功績をあげた‘大龍同※の士紳’だと知りました。※正しくは山扁に同の文字
陳維英
1811年10月20日、台北大龍同生まれ。教育者兼文学者。
明志書院で教鞭をとったほか、仰山書院(宜蘭)を創設、モウコウ(萬華)学海書院の院長となるなど、教育方面で大きな功績をあげる。門下生に著名人多数。
1859年に挙人となり内閣中書に任じられる。
1862年の戴潮春の乱では自費で団練を組織して清軍援助にあたり、その功で皇帝より花‘令羽’(帽子に付ける孔雀の装飾品)を賜る。
著書「太古巣聯集」「郷党質疑」「偸間録」など。
1869年10月9日去世。
淡水河の流れと山が一望できるこの場所に、陳維英が建て晩年を過ごした別邸『太古巣』がありました。養生や読書の為の幽玄優雅な別荘で、剣潭で舟遊びに興じたり、酒を酌み交わしては時事について論争を戦わせたり、詩歌を作り合ったりして、文人として安らかな晩年を送ったそうです。
1895年~日本統治が始まり、1901年基隆河対岸の劍澤山に台湾神社が創建され‥太古巣はそのアプローチ道に姿を変えたのでした。 -
児童育楽中心北側からはMRTのほうには行けなかったので、花博公園の中を突き抜けることにしました。中山北路を南下。
花博公園は柵で囲まれ中山北路から入れるのは出入口だけだった‥500m位の距離だけど遠く感じた。 -
公園の名前の通り、2010台北国際花博覧会の会場でした。
前身は日本統治時代の円山公園。花博公園 広場・公園
-
円山公園ができる前、圓山の丘陵地帯には陸軍・海軍・民政の3つの「日本人共同墓地」がありました。公園指定を受けて海軍・民政の墓地は比較的早く移転されたものの、圓山が陸軍合葬墓地でもあり公園でもある状態は明治末期まで続いたそうです。
-
花博公園は松山機場に着陸する飛行機の通り道、
轟音を響かせ飛行機が頭上を次々通り過ぎていく‥迫力ある~ -
児童育楽中心の昨日中心が見えました。
台北公会堂(現中山堂)建築時に撤去された布政使司衙門の一部はここにあるらしいのですが‥確認したことはありません。
移設された台湾神社の灯篭・圓山別荘の涼亭などの建物も児童育楽中心の中にあるとか。 -
公園の北側、日本家屋が見えました。
建物の状態がとても良いので現在も使われているのかも。 -
花博公園を通り抜けると、右手に山門。
この山門(勅使門)は現存する日本統治時代最古の木造建築物との事。
石碑に『禅臨済宗橋本道場 鎮南山臨済護国禅寺』『施主 臺北在住岐阜縣出身有志者樹立』『昭和十乙亥年春三月』と書かれていました。
市定古跡「臨済護国禅寺」
日本統治時代1901年(明治34年)創建した「臨済宗妙心寺派台湾別院・臨済寺」
開山:梅山玄秀(梅山得庵)、開基(創立者):児玉源太郎、山号:鎮南山 -
宇都宮大学国際学部研究論集2001・松金公正さんの研究論文を見て、この寺の創建について色々知ることができました。
1898年、第4代台湾総督だった児島源太郎の要請を受け、梅山玄秀和尚は仏僧10名を率いて来台し、台北の劍潭寺で布教を開始。
劍潭寺は衛生上好ましい場所とはいえず、布教使達が病魔に斃れていく状況を見かねた児玉総督は新寺院の設立を決意。
台湾統治後の戦病忠死者の霊場である「円山精舎」がこの場所に完成、1900年梅山一行が移住し、1901年臨済寺創建。
1906年元旦、児玉総督が本格的な臨済寺の伽羅建立を梅山に提案し、2月~建設費募集を開始。4月に総督を辞任し日本に帰国した児玉は7月23日脳溢血で急死、臨済寺は大壇越を失う。
梅山は児玉の遺志として臨済寺の整備を推進するものの、資金がなかなか集まらず苦労した末、ようやく1910年に車裡・豊川閣、1911年に本堂が落成。台湾初の本格的日本式伽羅を有する寺院「鎮南山臨済護国禅寺」が出現した。
1912年6月20日入仏式、6月24日児玉源太郎の七回忌法要を執り行った。 -
山門(勅使門)隣の中華風入口から中に入ると、右手に日本式木造の本堂。
落成当時は山門入ると正面に本堂がありましたが、風水上の理由で1984年90度回転して現在の位置になったそうです。 -
本堂「大雄賓殿」
2008年修復されたもので、1911年(明治44年)落成当時の姿を現在も留めています。
入母屋造、総板張で黒い瓦屋根。
装飾が少なく且つ彩色が施されていないため台湾の寺廟と比較すると地味な印象ですが、重厚感があり威風堂々とした建物です。
本堂の中に御本尊・釈迦牟尼仏(釈迦如来)、両脇に文殊菩薩・普賢菩薩が祀られています。臨濟護國禪寺 寺院・教会
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本堂にある釣鐘
「戦時中供出されたため、戦後作られたもの」という人と「創建当時のもの」という人がいます‥どちらが本当? -
本堂の周りに寄進者の名前が刻まれた石柵。日本人名、資生堂薬舗・伏見屋・梅屋敷などの団体名が確認できました。
新しく作り変えられた部分には何も刻まれておらず‥風化などで失われてしまうほど長い時間が経ってしまったんだなあ‥と思いました。 -
新設された現在の大門(正面門)、中華風でMRTからよく見えます。
本堂以外は黄色や朱などの派手な配色‥ミスマッチ。
修復・復元前の大雄賓殿も実は色付きだったらしい‥想像すると恐ろしいけれどそのおかげで建物は壊されず済んだかも、復元されて本当に良かった。 -
臨済護国禅寺の北隣にあった「圓山地蔵庵」
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地蔵庵のところに石碑『圓山文化遺址』
Wikipediaによると
『圓山地区西側に新石器時代の遺跡群「圓山遺跡」が存在。圓山遺跡は台湾地区では珍しい多文化層遺跡(複数の地層に異なる文化が存在する)であることが確認され、これまで漢人文化、植物園文化、十三行文化、圓山文化、訊塘浦文化、大分珪坑文化、先陶文化、の6つの文化層が確認されている。』
『一般には圓山文化は日本統治時代1897年に日本人の伊能嘉矩及び宮村栄一により初めて発見された紀元前2800年から紀元前500年前の遺跡を示す。円山貝塚、玉器、陶器、骨角器や墓葬などが発見され、先史時代台北は台北湖という淡水湖が広がり圓山が小島であったことが確認された。』
1988年4月25日、『圓山遺跡』は国家第一級古蹟に指定されました。 -
地蔵庵は建物の2階。
建物右側の階段を上がると「萬霊塔 陸軍少将張萬森※題」と書かれた額縁のかかる納骨堂。※達筆で‥これで正しいのか?
古墓や塚の身元不明の遺骨を集めて安置している納骨堂。 -
この地蔵庵は昭和5年に地元の発起人たちによって建てられたようです。
(建地蔵庵誌という石碑に詳しく書いてあったけれど‥漢文解らずスミマセン。納骨堂には臨済寺2代目住職も関わっているらしい。)
地蔵庵の主祀は‘地蔵王菩薩’、仏教の神様。
地蔵王菩薩は ‘霊を成仏させる’ -
修復されたばかりなのか、装飾がとても綺麗でした。
-
地蔵庵を後にしMRTに沿って玉門街北上、地蔵庵の先は広い空き地と駐車場。
あまりに絵にならないので写真を撮らなかったのですが‥空き地が一級古跡「圓山遺址」だったと後で知りちょっと後悔。
圓山史跡公園の整備を計画中とのこと、児童育楽中心が移転したのはそのためかもしれませんね。
左に曲がって敦煌路に入ります。
歩道に沿って長~い廟がありました。 -
この長~い廟は「福寿宮」、広い歩道を占拠しているようにしか見えない‥
そしてこの狛犬の顔がとても怖い。 -
敦煌路の先にある平光寺、日本の寺院のような名前。仏寺、建物は中華風。
平光寺 寺院・教会
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平光寺の狛犬、ずっと見ているとドラえもんに見えてきませんか?
この角を左折して南下。 -
住宅街・学校を通り過ぎると右手に赤い大きくて立派な建物。
台北孔子廟でした、裏側から来たのは初めてだったので分からなかった‥。
(大龍同エリアへ)つづく‥。
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