2015/05/01 - 2015/05/01
4位(同エリア873件中)
bunbunさん
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スペイン現存唯一で世界的にも最大級のイスラム教モスク:メスキータと、白壁に赤い花が美しいユダ人街を見学してきました。
あまりに長くなりすぎるため、2回に分けます。本旅行記はメスキータのイスラム教関係部分を中心としたご報告です。メスキータのキリスト教関係部分とユダヤ人街を中心とした旅行記は後日ご報告します。
この旅行記の一部は帰国後私たちのツアーガイドだった Ana Recio Ubeda さんの助けを借りて執筆しております。彼女にはこの場を借りてお礼申し上げます。
I wrote parts of this travel report, by the help of Ms. Ana Recio Ubeda, our tour guide at Cordoba. She is really nice lady and I greatly appreciate for her kind cooperation.
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バスでコルドバにやって来ました。まずは街の北側の高台にあって、街を一望できるパラドール・アルサファ(Paradpr de Arruzafa)のレストランで昼食です。
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レストランから外を眺める。広いベランダの向こうにコルドバの街が見えます。
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スープ。
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メインは牛肉の煮込み。
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デザート。
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ベランダが綺麗なんで出てみました。
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反対側。花が綺麗ですね。
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鉢植えの壁のオレンジ色のゼラニウム。
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プランターのゼラニウム。
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庭の糸杉もいい。手前はオレンジの木。コルドバの街も見えますね。
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鉢植えのピンクのベゴニア。
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プランターの赤いベゴニア。
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鉢植えの壁の白いゼラニウム(アイビーペラルゴニウム コンテッサルナ)。
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鉢植えのピンクと白のゼラニウム(リーガルペラルゴニウム ランディ)。
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ベランダのフェンスのベゴニア。
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パラドールの外に出ました。
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パラドール入口前の高台に植えられた花。
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綺麗にしてますね。
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これはパンジーだ。
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パラドールを出て、グアダルキビル川(Rio Guadalquivir)沿いのロンダ・デ・イササ通り(Calle Ronda de Isasa)まで移動し、この通りを徒歩でローマ橋へと向かいます。
左の塔はカトリック両王のアルカサル(Alcázar de los Reyes Cristianos)の宗教裁判所の塔(Torre de la Inquisición、直訳です。日本語の正式名称はわかりません。)です。 -
カトリック両王のアルカサル(Alcázar de los Reyes Cristianos)の南壁。
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ローマ橋(Puente Romano de Cordoba)が見えてきました。展望テラスみたいなものがありますね。行って見ますか。
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展望テラスから見たローマ橋。左側に水車らしきものがありますね。近くに行って見ましょう。
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はー。まぎれもない水車だ。Molino de la Albolafia(アルボラフィアの水車、意訳です。日本語の正式名称はわかりません。)と呼ばれています。
この水車はもともと古代ローマ時代に製粉機として造られました。その後、後ウマイヤ朝第4代君主、アブド・アッラフマーン2世(Abd al Rahman II, 790-852、在位822-852)が、川の水をアルカサル・アンダルシ(alcazar andarusi)の中のマイールの宮殿(Palacio de los Emires、現司教宮殿、Palacio Episcopal)まで引けるように造り替えました。1492年、アルカサルに滞在していたカスティーリャ女王のイザベル1世(Isabel I de Castilla、1451-1504、在位1474-1504)は、水車の出す騒音が彼女の安眠を妨害すするとのことで、水車を解体させました。16世紀になってマエストロのファン・デ・オチョア(Juan de Ochoa、1554-1606)はその水車の建築物としての重要性を指摘し、所有者であった修道院の修道女達は再生に努めました。今世紀に入り、この水車はメスキータ、ローマ橋ともに、市の代表的な歴史遺産となり、1993年の火災消失後の復元を含め、市による修復・再構築が行われています。 -
グアダルキビル川に架かるローマ橋。この橋は紀元前1世紀末、アウグストゥス帝の時代に造られたもので、長さ331 m、16のアーチを有し、このアーチを支える橋脚は流線型で洪水の高い水圧にも耐えられる構造になっています。橋を渡った先にある建物はカラオーラの塔(Torre de la Calahorra)で、もともとはローマ橋を守るための要塞としてイスラム統治時代に造られ、レコンキスタでキリスト教徒がコルドバを奪還した(1236年)後、1396年に拡大強化されましたが、現在はアル・アンダルス博物館となっています。
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ローマ橋の左を見ると、右端のPuerta del Puente(橋の門、直訳です。日本語の正式名称はわかりません。)の奥にメスキータが見えます。
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メスキータ南壁のバルコニー。
観光案内所 (メスキータの南側) 散歩・街歩き
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コレヒドール・ルイス・デ・ラ・セルダ通り(Calle Corregidor Luis de la Cerda)をはさんでメスキータの南壁の南にあるTriunfo de San Rafael (de la Puerta del Punte)(直訳すれば、「(橋の門の)聖ラファエルの勝利」ですが、日本語では「サン・ラファエルの勝利塔」、「サン ラファエル勝利の像」、「サン・ラファエル勝利のモニュメント」と等、いろいろな訳があるようです。正式名称はわかりません。左の建物はPuerta del Puenteです。
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ちょっと方向を変えます。
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さらに方向を変えます。
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ズームイン。
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下部ズームイン。
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最上部の聖ラファエルさん、ズームイン。
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トリホス通りから見るメスキータ西壁。中央やや右にイスラム建築特有の放射状縞模様を有する馬蹄形アーチが見えますね。サン・イルデフォンソ門(Puerta de San Ildefonso)です。後でもう一度説明します。その向こう側はPostigo del Paracio(宮殿の門とでも訳すんですかねえ。日本語の正式名称はわかりません。)。改修工事中か。
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メスキータ西壁の上にちょこっと見える鐘楼(Torre campanario)。後で詳しく説明します。
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この後メスキータ内部に入りますので、図面を用いてメスキータの構造を説明します。図面の方位は上がほぼ南西です。
① 免罪の門 (Puerta del Peron)②ディアネス門(Puerta de los Deanes) ③サン・エステバン門(Puerta de San Esteban) ④サン・ミゲル門(Puerta de San Miguel) ⑤聖カタリナ門、⑥栄光の門(Puerta de las Palmas) ⑦オレンジの中庭(Patio de los Naranja) ⑧内庭回廊 ⑨アブド・アッラマン1世(Abd ar-Rahman I, or Abd al-Rahman I、 アラビア語のラテン文字転写)の外陣 ⑩アブド・アッラマン2世(Abd ar-Rahman II, or Abd al-Rahman II)の増築部分 ⑪ハカム2世(Al-Hakam II, or Alhakén II)の増築部 ⑫サン・ビセンテ博物館 ⑬ミフラーブ(Mihrab)⑭聖テレサの礼拝堂とその財産 ⑮アルマンソール外陣(987- ⑯内陣 ⑰クロッシング ⑱聖歌隊席 ⑲サン・パブロ礼拝堂 ⑳王室礼拝堂 ?ビジャビシオサ(Villaviciosa)礼拝堂 ?サグラリオ小区教会
メスキータ(Mezquita)は英語のモスク(mosque)のスペイン語で、イスラム教の礼拝堂のことですが、今ではメスキータといえば、このコルドバのメスキータを指す固有名詞となっています。
メスキータの形状はもともとイスラム教の提唱者であるムハンマドがメディナに造ったモスクを基本にしており、ミフラーブはキブラ(メッカの方向)を示す壁(キブラ壁)につけられた窪みです。しかしながら、このメスキータはキブラが南から東へ28度の方向に建てられており、メッカは南から東へ45度の方向にあるため、17度の差があります。この差に関する論理的な説明は現在のところついていません。
このメスキータがある場所にはもともと西ゴート王国のサン・ビセンテ教会があり、西ゴート王国を征服した後ウマイヤ朝のアブド・アッラマン1世は、この教会をモスクとして使っていました。しかしイスラム教徒が増えて手狭となったため、これを壊して785年頃に最初のモスク(メスキータ)を造りました。これが図の黄色の部分です。アブド・アッラマン2世の時代になると、これでも手狭となり、833-852年に南側に拡張します。これが第1次拡張で図の薄いオレンジ色の部分です。さらにハカム2世の時代になるとまた手狭となり、961-966年に南側へさらなる拡張を行います。これが第2次拡張で図の濃いオレンジ色で示した部分です。ミフラーブはキブラ壁の中央にあり、増設で壁がキブラに移動するたびに中央の位置を保ったまま南へ移動していました。ところが10世紀のヒシャーム2世(Hicham II)の時代になってまたもや手狭となって拡張が必要となりましたが、南にはグアダルキビル川が迫っており、西にはアルカサルがあったため、これらの方向には拡張できず、宰相のアルマンソール(Almanzor)は987-990年に東側に拡張します。これが第3次拡張で図の赤い部分です。この時、ミフラーブは移動されなかったため、メスキータの中心軸から外れた位置にあります。図で中庭を除いた上記部分を礼拝室と呼び、19の身廊と約600本*)の大理石、碧玉、花崗岩の柱からなり、内側サイズは幅115 m 奥行 130 m です。
レコンキスタでコルドバがキリスト教徒に奪還されたあと、まずこのメスキータに起こったことは、このメスキータをキリスト教会として使うために、中庭と礼拝室の間にある19の開放アーチのうち4つを残して全てが封鎖され、中庭にオレンジの木が植えられたたことです。さらにキリスト教会として使うためには祭壇、内陣、聖歌隊席等が必要でしたが、当初はこのイスラム建築の素晴らしさを損なうことのないよう、代2次拡張部の一部を改造してこれらが控えめに作られました。王室礼、ビジャビシオサ礼拝堂、その南東に続く身廊(後出)がその部分です。しかし、16世紀に入ると司教マンリケ(Alonso Manrique)はメスキータ中央部を壊してそこにラテン十字の大聖堂を建設することを計画しました。この計画は、コルドバ市民はもちろんキリスト教聖職者をも含めて大反対を受けたため、司教は国王カルロス1世に訴え、許可を得てこの計画を実行しました。それまでメスキータを見たことがなかったカルロス1世は、大聖堂完成後のメスキータを見て、「どこにでもある建物を造るために、どこにもない貴重な建物を壊してしまった」と嘆いたそうです。**)
*) 図面で数えると630本になりましたのでこの本数にしておきますが、資料によっては、1012本、1013本、スペイン語のウィキに至っては1300本となっています。これらの数値は2段部分を2本として数えたからではないかと思いますが、自分で数えた訳ではないので正確なところはよくわかりません。
**) 添乗員さんはこのように説明してくれましたが、これは多分、紅山雪夫著「添乗員ヒミツの参考書 魅惑のスペイン」新潮文庫、の受け売りと思われます。グラナダのアルハンブラ宮殿内には、このカルロス1世(神聖ローマ皇帝:カルロス5世)が繊細華麗なイスラム建築の一部を壊してまで建造したドでかいカルロス5世の宮殿がありますが、私にはこの宮殿はアルハンブラ宮殿の中では浮いていて、とてもイスラム建築と調和がとれているとは思えません。つまり、カルロス1世がそこまでイスラム建築に理解があったとは思えないのです。メスキータの話は、カルロス5世を称えるために、後世に造られた逸話ではないか、というのが私の考えです。
この図面の著作権はCatedral de Cordoba (Antigua Mesquita) にあります。本旅行記の著者は、私達のツアーガイドだった Ana Recio Ubeda さんの助けを借りて、責任者である Sr. Rafael Iglesias Alcala, Catedral de Cordoba より 2015年8月10日にこの図面の使用許可を得ております。
Catedral de Cordoba (Antigua Mesquita) has a copy right of this plan. By the help of Ms. Ana Recio Ubeda, our tour guide at Cordoba, I obtained the copy right permission from Sr. Rafael Iglesias Alcala, Catedral de Cordoba, on 10th August, 2015. I greatly appreciate kind cooperation of Ms. Ana Recio Ubeda. -
サン・イルデフォンソ門(Puerta de San Ildefonso)。上の図面には表示してありませんが、3つ上の写真にでてきた、西壁の一番南側の門です。中央扉の上は赤と茶色の放射状縞模様を有する馬蹄形アーチです。その上は同様なアーチが半周期ずらして4個重ねられた連続交差アーチです。その左右は多弁(多葉)馬蹄形アーチです*)。その下の白い幾何学模様は大理石の透かし彫りです。そのほか幾何学模様が多用されていますが、その作り方は、http://4travel.jp/travelogue/11184065 をご覧ください。
「ご主人様、すげーでござんすね。」
「ああ、イスラム芸術の極致だな。でも中はもっとすごいぞ、bunbun。」
「へえ、そうでごぜいますかい。」
「でも、これは構造体というよりは装飾性の方が高いように、わしには見えるがのう。」
なんて、1人2役でつぶやきながら見入る。(ドン・キホーテとサンチョ・パンサか?)
*) 多くのイスラム建築物でこのタイプのアーチが使われていることから、馬蹄形アーチはイスラム教徒の建築者が考案したと勘違いされる場合があります。しかし、イスラム教徒がスペインに侵入する前の7世紀、スペイン西ゴート王国のモニュメントには、エブロ川とドゥエロ側のあいだでこの構造形式が用いられています。一方近東でも、6世紀にこの例がいくつか見受けられます。このように馬蹄形アーチは既に東ローマ帝国時代にあり、その例は、2世紀と3世紀のスペインの葬儀に関する石碑にも見られます。したがって、イスラム教徒が西側に馬蹄形アーチをもたらした訳ではありません。しかし、彼らはそれを大いに活用したため、8世紀以降、このアーチはイスラム建築の特徴を示すもののひとつとなっています。カフェテリア タブラオ 地元の料理
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エスピリトゥ・サント門(Puerta del Espíritu Santo)。2つ上の図面には表示してありませんが、西壁の南から3番目の門です。
「ご主人様、先ほどの門とそっくりですぜい。」
「ああ、透かし彫りの模様は違うようだが。」 -
ディアネス門からオレンジの中庭に入りました。アーチの入口がいっぱいだ。
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左(北)上を見ると、鐘がたくさん取り付けられた鐘楼(Torre campanario)です。
補足
日本語のガイドブックは殆どが「ミナレット」(”Minaret”)とか「アルミナールの塔」(”Torre del Alminar”)と呼んでいますが、「ミナレット」はもともとイスラム教の礼拝堂であるモスクに付属した、1日5回礼拝の時を知らせるための塔のことです。「ミナレット」はトルコ語の ”Minare” が英語の ”Minaret” になって日本に輸入されて定着したもので、語源に忠実に発音するなら、アラビア語の「マナール」(manar)もしくは「マナーラ」(manara)でしょう。” Alminar” は ”Minaret” のスペイン語です。この塔はもともと「ミナレット」として造られましたが、レコンキスタ後、教会の鐘楼に改装されましたので、もはや本来の意味での「ミナレット」ではありません。スペイン語では “Torre campanario” (「鐘楼」)がよく使われているようですので、この旅行記ではこの塔を単に「鐘楼」と呼ぶことにします。ちなみに、スペイン語のウィキペディアでは “Torre campanario que envuelve al alminar” (「ミナレットを囲んだ鐘楼」)と呼んでいます。セビリアのアルカサルの「ミナレット」も同様な歴史的経過をたどっており、こちらは「ヒラルダの塔」という名称が定着しています。http://4travel.jp/travelogue/11184065 -
全体が見えるように縦長にしてみましょう。
この塔は10世紀のアブド・アッラマン3世の時代に造られた2代目のミナレットを基に造られています。(1代目は現在の塔の北側、オレンジの内庭に造られましたが今はありません。)このミナレットは大・小の2つの4角柱状の塔を上下2段に重ねた構造をとっており、その上に丸屋根、さらに上に球状の飾りが取り付けられていて、高さは33 m でした。このミナレットは1236年にコルドバがレコンキスタによって奪還された後、1360年にはカトリックの鐘楼として使われており、1495年には時計の鐘が取り付けられていました。1589年9月21日に街を襲った大嵐によって、この鐘楼は多大な被害を受けます。建築家のエルナン・ルイス3世(Hernan Ruiz III)、アセンシオ・デ・マエダ(Asensio de Maeda)、フアン・デ・オチョア(Juan de Ochoa)等のメスキータ大聖堂の建築にかかわった優れた建築家の息子や孫たちの提案によって、聖堂参事会は1593年、この鐘楼を修・改築することを決め、彼らにこの仕事を任せます。作業は1593年7月に開始され、エルナン・ルイス3世はイスラム時代の建物(ミナレット)を厚い壁で覆い始めましたが、1606年完成を見ないままこの世を去ります。その後、この工事は中断されますが、1616年、建築家フアン・セケロ・デ・マティジャ(Juan Sequero de Matilla)がこの工事を引き継ぎ、ディエゴ・デ・マルドネス(Diego de Mardones)が担当して、1617年には鐘楼全体を覆う、現在でも見られる壁が完成します。1664年、ガスパル・デ・ペーニャ(Gaspar de Peña)は鐘室の上に越し屋根を付け加え、その上に彫刻家ペドロ・デ・ラ・パス(Pedro de la Paz)とベルナベ・ゴメス・デル・リオ(Bernabe Gomez del Rio)によって作成されたコルドバの守護神である聖ラファエルの像を設置しました。1727年の大嵐と1755年のリスボン大地震は鐘楼に壊滅的な被害をもたらしました。この修・改築を担当した建築家はフランス人のバルタサル・ドレヴェトン(Baltasar Dreveton)で、完了したのは8年後の1763でした。この結果現在の鐘楼は、3段目には12個の鐘が、4段目にはさらに2つの鐘と時計、聖週間で鐘の代わりを務めるマトラカ(matraca、楽器の一種)が、塔頂部にはコルドバの守護神であるラファエルの像が取り付けらており、高さは54 mになっています。 -
塔の上部をズームイン。
「ご主人様、上の方に鐘がいっぱいぶら下がってやんすね。どんな音階でござんしょ。」*)
「音の高さはみな同じじゃ。」
「でも、鐘の大きさは違いますぜ。」
「ばか、鐘の厚さを変えているのじゃ。」
「・・・(おかしいな、理科で習ったのと違う。それに羊飼いは音の高さはみな違うと言ってやんしたが)・・・」
これは1人2役ではありません。こんなたぐいの会話をだれかと交わしました。
*)ピサの斜塔の鐘の音階につきましては、http://4travel.jp/travelogue/11180256 をご覧ください。 -
オレンジの内庭。オレンジの木、ナツメヤシ、糸杉の緑が綺麗だ。
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オレンジの内庭と通路を隔てた反対側が建物への入り口です。たくさんありますが、上記の通り、19個中15個はメスキータがキリスト教の教会になったときふさがれました。
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壁で塞がれたアーチ。
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アーチがふさがれなかった栄光の門(Puerta de las Palmas)。
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天井からぶら下がっている板は、8~10世紀にかけて天井板として使われたものです。その傷みが激しくなったため、天井板は現在のものに取り換えられています。
本説明はAna Recio Ubeda さんの好意によります。
By courtesy of Ms. Ana Recio Ubeda -
さあ、中に入ったぞ。円柱の森(Bosque de columnas)だ。ここはアブド・アッラマン1世が最初に建設した部分です。柱はローマ時代や西ゴート時代のものを再利用していいますが、高い天井を支えるには細くて短かったため、まず、これらの柱を多数並べて赤レンガと白石からなる迫石(アーチを創るための楔状の石)を円弧状に交互に並べた馬蹄形アーチで強固な骨格を造り、その上に角柱を載せてこれらを半円アーチで結ぶ堅個な2層アーチ構造をとなっており、これがメスキータの美しさの1つの要因となっています。
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東(入って右側)を見ると、聖アムブロシオ(San Ambrosio)礼拝堂です。
下中央の像は聖アムブロシオ、左の絵は「聖母被昇天」、右の絵は「東方三博士の礼拝」です。 -
上の写真の隣にある、聖アグスティン(San Agustin)礼拝堂のAparición de San Rafael al Padre Roelas(「ロエラス神父前への聖ラファエルの御公現」とでも訳すんですかねえ)です。
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メスキータ内部の円柱の森(Bosque de columnas en el interior de la Mezquita)。再利用の柱は長さが異なるため、長いものはその分を床下に埋め込み、短いものは柱の下にスペーサを入れ、それでも足りない場合は柱に上にもスペーサを入れて高さを調整しています。
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これからミフラーブに向かいます。キブラ壁へと延びる身廊。
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身廊の天井。イスラム模様がないんで、多分改修されてますね。
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円柱の森。メスキータのアーチが何故赤と白の縞模様なのかずっと疑問に思っておりました。もちろん、日干しレンガに使った土の色が赤で、石の色が白かったから、と普通は考えるでしょうが、何故石より強度の弱い日干しレンガをわざわざ使ったのか、ということです。しかし、その理由を書いた資料がみつかりません。そこでイスラム関係の書籍をかたっぱしから読んでいたところ、ブハーリー著、牧野信也訳 ハディース1*)の、礼拝の書、六?モスクの建築に「ウマルはモスクを建て信徒たちが雨露をしのぐ場所ともするように命じたが、赤や黄の色を塗って彼らの気をそらさないようにせよ、といった。」と書かれていました。「これだ!」、と思いましたが、ド素人がこんなことを不特定多数の人が読んでくださる旅行記に書いていいものか心配になり、イスラム建築の権威であられる早稲田大学の深見奈緒子先生にお伺いしたところ、「そう考えても良いと思います。大変勉強になりました。ご指摘ありがとうございます。」と言われましたので、私見としてここに記載します。
*) 中央公論社2001、ISBN4-12-203775-1 C1114
ハディースとはムハンマドの死後、ムハンマド自身の言葉や行動の伝承をまとめた、クルアーンに次ぐイスラム教の聖典です。 -
サン・ビセンテ教会の遺跡。この床下に広がっています。
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円柱の森。
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東壁の門
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円柱の森。
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聖歌隊席の東側身廊
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聖歌隊席の東側身廊の天井。
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交差廊分南に進んだ天井。
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身廊の天井。屋根のトラス(三角形を基本とした骨組みの構造体)の下部に色を塗り、その上に金箔細工で作った模様だそうです。
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ハカム2世による第2次拡張領域に入ってきました。
手前に見えるアーチのさらに向こうはビジャビシオサ(Villaviciosa)礼拝堂の多弁形2重アーチ。 -
上の写真の手前のアーチ上部をズームイン。当方三博士の礼拝の像ですかねえ。
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ちょっと振り返って、円柱の森と礼拝堂。
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2つ上の写真のアーチを下から見上げた天井。写真中央、横方向に走る真中の幅が狭くなった長方形はアーチ下部。その下はビジャビシオサ(Villaviciosa)礼拝堂の天井です。
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ビジャビシオサ(Villaviciosa)礼拝堂から見た、最初のキリスト教会の身廊。
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上の写真の身廊の天井。市松模様が綺麗ですね。
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円柱の森。
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円柱の森。柱の種類は実に様々です。
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ミフラーブが近づいてきました。黒い柵の向こうがマクスラ(Maqsura、カリフ専用の礼拝の場所)で、左端にちょっと見えているのがミフラーブです。
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キョロキョロ。円柱の森。
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円柱の森。
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円柱の森。
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マクスラの手前から見たミフラーブ(Mihrab)。
ミフラーブ入口の馬蹄形アーチはもはや赤と白の縞模様ではなく、多彩色のモザイクと金色のモザイクの縞模様で随分豪華になっています。アルフィズ(Alfiz、イスラムの建物にある馬蹄形アーチを囲む、長方形のフレーム)内のアーチの真上の横一列、およびこの部分とアーチを囲む角型2列の黒い模様なようなものは、アラビア文字のクーフィー体で書かれたクルアーンからの引用文です。またスパンドレル(Spandlel、アーチとそれを囲む長方形枠の間の擬三角形部分)には、抽象化されたナツメヤシのレリーフが彫られています。ナツメヤシは、ムハンマドがメディナに最初に作ったモスクの礼拝室の柱や屋根として使われたものです。また、アルフィズの上の7つの多弁形アーチ内には、抽象化された、蔦や花が描かれています。 -
この豪華な組み合わせ多弁アーチは身廊とマクスラを区切り、さらにマクスラ自身を3つに区切っています。スペイン語資料によりますと、この3つに区切られた領域は左から
Pabellon Izquierdo de la Maqsura、Pabellon Central de la Maqsura、Pabellón Derecho de la Maqsura と呼んでいるようですので、ここでは簡単に左マクスラ、中央マクスラ、右マクスラと呼ぶことにしますが、日本語の正式名称はわかりません。この写真の奥は左マクスラです。ミフラーブはこの写真の右にある中央マクスラの奥です。 -
中央マスクラの天井。コンスタンティノーブルのモザイク職人がハカム2世のために作ったものです。四角形の上にドーム用八角形ですからスクインチに近い構造ですかねえ。八本の太いリブアーチが印象的です。
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あまりに綺麗なんで、ズームイン。
金色のアラビア模様も素晴らしい。 -
左マクスラ。
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左マクスラ側から見た中央マクスラ、右マスクラ、組み合わせ多弁アーチ。
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第2次拡張部と第3次拡張部の境界付近にあるAltar del Santísimo Cristo del Punto (「十字架のキリストの祭壇」とでも訳すんですかねえ)
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円柱の森。
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円柱の森。
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円柱の森。
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10世紀の第3次拡張時に新たに造られた支柱で、サインは支柱の製造者のものです。再利用したローマ時代の支柱にはこのようなサインはありません。
本説明はAna Recio Ubeda さんの好意によります。
By courtesy of Ms. Ana Recio Ubeda -
円柱の森。
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円柱の森。
すみません。量が多いのでこの続きは後日ご報告します。
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この旅行記へのコメント (2)
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- jijidarumaさん 2017/04/17 17:04:31
- グラナダからコルドバまでタクシーを走らせた
- bunbunさん
多分、初めましてになりますね。こんにちは。
お立ち寄りとご投票ありがとうございました。
コルドバの旅行記??を拝読させていただきました。
驚くほど、専門的な、詳細な内容でとても参考になりました。
(古稀も過ぎてしまうと、直ぐにその知識も忘れてしまいますが(苦笑)
メスキータ内部の写真も美しく、40年以上前に訪れた時の印象が
すっかり入れ替わってしまいました。
30代の頃は只々観光という事で、巡ってきた感じがありますが、
今は少しマシな旅をするようにしております。
以下はご挨拶代りに。
XXX
宿と航空券を取り、夏の休暇でDuesseldorfから、スペインに家族旅行に出かけました。
1976年8月7日〜17日の11日間夏季休暇でもうはるか昔です!
当時のアルバムを懐かしく見ていると、行程はデュッセルドルフ(飛行機)=>太陽海岸・マラガ(バス=>トリモリノス(3泊)(飛行機)=>グラナダ(2泊)(タクシー3時間)=>コルドバ(1泊))(電車2時間)=>セビリア(1泊)(飛行機が遅れて真夜中の出発)=>マドリッド(3泊)(飛行機)=>デュッセルドルフでした。
この旅は行程に書いたように飛行機、バス、タクシー、電車に乗り、思いがけない事もあって、記憶に残る旅になりました。
アルハンブラ宮殿近くのAlhambra Palace Hotelに泊まったのですが、翌朝、ホテルに長女が絵日記を忘れたまま出発してしまいました。親切にもホテルのスタッフがコルドバ行のバス発着所まで電話して教えてくれたのでした。
(どうしてバスの停留所に私共がいるのを分かったのか)
バスの発着所の小父さんが寄って来て、何やらスペイン語で話すのですが、何かをホテルに忘れてきたらしい事は理解できました。
慌ててホテルに戻り、感謝と共にフラメンコの踊りなどを描いた絵日記を持ち帰りましたが、そんなことで予定のコルドバ行バスがもう出て行ってしまったのです。
長い時間を待つわけにもいかず、仕方なくタクシーを利用して、コルドバに向かう事にしました。運転手と手真似での交渉になりました。偶々、スペインの軍人さんが休暇で同行することになり、値段も安く済んだのです。
親切なタクシーの運転手は途中の八百屋で子供たちにリンゴを買ってくれたりしました。オリーブの連なる丘を写真に撮ろうとすると、すかさず徐行してくれるなど、嬉しい心づかいが思い出されます。
凡そ3時間の旅でしたが、運転手さんのお陰で苦にならなかったと、家内のメモに残っています。
そして短い滞在の中で、メスキータを見たのでした。
XXX
ドイツの古城好き、伝説好きです。どうぞ宜しく。
jijidaruma
- bunbunさん からの返信 2017/04/17 23:26:14
- RE: グラナダからコルドバまでタクシーを走らせた
- jijidarumaさん、こんばんは。はじめまして。
ご訪問、私の拙い旅行記に投票ありがとうございましす。
アモールバッハの旅行記拝読いたしました。昔ドイツにいましたが、全然知りませんでした。興味深いお話でいいですね。読んでいてとても楽しいです。勉強になりました。
スペイン旅行、タクシーは大変だったと思いますが、親切な運転手さんで良かったですね。
私はケルン・ボン空港からフランクフルト空港経由でバルセロナに入り、そこからレンタカーで南下して、マラガまで行き、北上してグラナダへ行きました。アルハンブラ宮殿を見学するつもりだったんですが、休みで入れず1日待って翌日見学しました。その後グラナダから空路マドリードまで行き、知人にトレドとアランフェスを案内してもらって、ドイツに戻りました。
一昨年は日本からツアーでクロアチアに行く予定でしたが、危険レベルが上がりましたので、急遽スペインに変更しました。バルセロナ、バレンシア、グラナダ、トレドは2回目、マドリードは3回目でした。トレドとマドリードはつまみ食いでしたが、バルセロナとグラナダはしっかり見学しましたので、旅行記を書き始めましたが、他の旅行と旅行記で忙しく、中断してます。
私はスペイン大好き人間です。
クロアチアは昨年行きましたが、旅行記はいつになることやら、です。
ドイツも随分周りまして、ノイシュバンシュタイン城に行ったことを当時のボス(もう70歳過ぎですが昨年までマックスプランクの所長をしてました)に伝えましたら、「あんな城は観光客集めのまがい物で歴史的価値はない。今度俺が本当の城に連れてってやる。」(私はそうは思いませんが)と言って、エルツ城に連れて行ってくれました。
こちらこそよろしくお願い致します。
bunbun
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