2016/12/13 - 2016/12/13
467位(同エリア575件中)
経堂薫さん
現在の日本は47都道府県に分かれてますが、江戸時代までは六十余の州で構成されていました。
各州ごとに筆頭の神社があり、これらは「一之宮」と呼ばれています。
その「諸国一之宮」を公共交通機関(鉄道/バス/船舶)と自分の足だけで巡礼する旅。
今回は信濃国(長野県)の諏訪大社を訪ねました。
諏訪大社は上社と下社に分かれ、さらにそれぞれが前宮と本宮、春宮と秋宮に分かれています。
最後は茅野市にある上社前宮です。
【諏訪大社[すわたいしゃ] 上社前宮[かみしゃまえみや]】
[御祭神] 八坂刀売神(やさかとめのかみ)
[鎮座地] 長野県茅野市宮川2030
[創建]不詳
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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東参道に聳立する大鳥居。
ここが諏訪大社上社の本宮と前宮の境目なのだろうか。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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大鳥居から少し行ったところに木造のシンプルな神明鳥居が立っている。
その先には果てしなく続くとも知れない天空への石段。
ここは「北斗神社」という神社で、祭主は祢(禰)宣太夫[ねぎだゆう}。
禰宣太夫は諏訪神社上社にある五神官(大祝・神長官・禰宣太夫・権祝・擬祝・副祝)のひとつ。
代々、小出氏が務めてきた。
祭神は天御中主命[アメノミナカヌシノミコト]。
古事記の冒頭、高天原(たかまがはら)へ最初に現れた造化三神の一柱で、高御産巣日[タカミムスヒ]神、神産巣日[カミムスヒ]神とともに宇宙最高神とされている。
ただ、この200段にも及ぶ石段を前に、本殿への参拝が失せてしまった。北斗神社 寺・神社・教会
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旧杖突峠入口道標。
杖突峠は南アルプスの北端に位置し、諏訪側のフォッサマグナ地帯と伊那谷を結ぶ古い街道の通り道。
江戸の昔は茅野を通る甲州街道と伊那谷を結ぶ重要な峠道だったが。
現在では国道152号線がアッという間に運んでくれる。
この入口から峠の方角へ向かってみる。杖突峠 名所・史跡
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古い民家の塀に石碑が埋め込まれるかのように立っている。
いかにも歴史ある街道という雰囲気が漂う。杖突峠 名所・史跡
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片隅で何気なく佇む小さな石碑もキチンと御柱で囲まれている。
杖突峠 名所・史跡
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緩やかな坂道をユルユル登っていくと、前方に奇妙な物体が宙に浮いているのが見えた。
農家が立てた害鳥避けかとも思ったが、それにしては形状が珍妙過ぎる。
手持ちの観光案内地図で調べてみると「空飛ぶ泥舟」という茶室だった。
茅野市出身の建築家、藤森照信先生の設計によるもの。
2011年に茅野市美術館で開催された藤森照信展に展示された後、ここに移築されたという。
なお、空飛ぶ泥舟は藤森先生の所有なので、イベント等を除き建物内部への立ち入りは不可。
外から見上げるしかない。茅野市神長宮守矢史料館 美術館・博物館
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空飛ぶ泥舟から緩やかな坂道をユルユル下っていくと、右手に大祝(おおほうり)諏方家の墓所があった。
大祝とは諏訪明神の依り代(よりしろ=神霊が宿る対象物)・現人神(あらひとがみ=生き神様)として、諏訪明神(上社・下社)の頂点に位置した神職。
上社の大祝は「諏方(すわ)氏」を名乗り、古代から明治維新後に神官の世襲制度が廃止されるまで続いた。
生き神様を祀る信仰が存在し続けた諏訪社は全国的にも珍しい存在だったそうだ。
諏方氏は鎌倉時代に幕府の御家人となり、戦国時代には諏訪郡一帯に勢力をふるうなど領主として政治権力を掌握。
慶長6 (1601) 年には武家と社家が分立し、「藩主諏訪家」と「大祝諏方家」として完全に政教分離。
前者は「諏訪高島藩」3万石に封じられ、そのまま明治に至り子爵に列している。茅野市神長宮守矢史料館 美術館・博物館
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坂道の先に、またまた珍妙な建造物が姿を現わす。
「神長官守矢史料館」。
これもまた「空飛ぶ泥舟」と同じ藤森先生の手によるもの。
しかも先生が初めて設計した建築なのだそうだ。
見かけこそ土壁と板壁だが、その内側は鉄筋コンクリート製の堅牢な建物。
土壁は〝毛深い〟仕上げを求めた結果、藁を色付きモルタルに混ぜて塗り、表面を荒らした後に上から土をスプレーで吹き付けた由。
板壁はサワラの丸太に鉄と木の楔を木槌で打ち込み、割って板にしたものを使用。
屋根の斜め部分を葺いているのは「鉄平石」という上諏訪特産の平らな安山岩。
屋根の天頂部分は宮城県雄勝産の、軒はフランス産の、それぞれ天然スレート。茅野市神長宮守矢史料館 美術館・博物館
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神長官守矢史料館は守矢家に残された鎌倉時代から伝わる守矢文書を保管、公開している施設。
正面に回り、改めて建物の全景を眺める。
屋根から突き出ている4本の柱は地元産の木材。
諏訪地方では「ミネゾウ」、一般には「イチイ」と呼ばれている。
軒が寂しいから四本柱を建てようとしたら、設計図に鉛筆が走って突き抜けていた…とは藤森先生の弁。
御柱をイメージしているのは言うまでもない。
モチーフは中世の信仰と諏訪の自然のクロスオーヴァー…ってところか?茅野市神長宮守矢史料館 美術館・博物館
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中に入ると内壁もまた土で塗られ、落ち着いたトーンで統一。
それとは裏腹に、土壁の前には鹿の生首や串刺しにされた兎の剥製など、なかなか物騒な品々が並べられている。
これらは毎年4月15日に諏訪大社上社で行われる例大祭「御頭祭」の復元展示。
「御頭祭」は原始時代以来の狩猟や農耕など様々な信仰が入り混じった複雑至極な祭祀。
神長守矢家が司る諏訪大社上社の祭祀の中で最も大掛かり且つ神秘的な祭礼なのだ。諏訪大社上社 御頭祭 祭り・イベント
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他に来館者がいなかったせいか、学芸員のおじさんが話しかけてきた。
「江戸時代は一般に肉食が禁じられていましたが、諏訪大社の御札があれば鹿肉を食べることができたんですよ」
「信州だけでなく全国どこでも?」
「どこでもです」
壁に掲げられた鹿の首を眺めているうち、ある考えが脳裏に浮かんだ。
「タケミナカタを諏訪へ追い詰めたのはタケミカヅチ。そのタケミカヅチの神使は鹿。諏訪大社の氏子は鹿肉を食べ続けることで復讐し続けてたんですかね?」
「いやー、そんな話は聞いたことありませんなぁ」
学芸員さんに一笑に付されてしまった、いい思いつきだと思ったのだが。諏訪大社上社 御頭祭 祭り・イベント
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肉食の免罪符に相当する諏訪大社の御札は「鹿食免(かじきめん)」、箸は「鹿食箸」と呼ばれていた。
太古の昔、諏訪神社では狩猟が大切な祭事とされ、贄に鹿や猪が供されていた。
その後、仏教の浸透等により殺生や肉食がタブー視されるようになると狩猟神事も漸減。
しかし建暦2(1212)年、鎌倉幕府が諸国の守護大名に鷹狩の禁止を命じる中、諏訪神社の御贄鷹のみ除外するという異例の措置でこれを保護。
寿命の尽きた生物は放っておいても死ぬのだから、むしろ人間に食べてもらい、その縁で極楽往生させてもらうのが一番よい。
このような仏教の影響を受けた慈悲と殺生を両立させる独特な考え方が背景にあった。
そこから諏訪明神に御祈祷をし、これを食べても良いというお札を頂いてくれば許されるという信仰が生まれる。
これが「鹿食免」「鹿食箸」が生まれた由来と伝わっている。諏訪大社上社 御頭祭 祭り・イベント
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江戸時代後期の旅行家にして博物学者である菅江真澄が天明4(1784)年に残した記録に、こうある。
「鹿の生首75をはじめ様々な動物と春に芽吹く植物を神に献じ、神人一体となって食べ饗宴を催す」
鹿の生首を並べた狩猟祭…神長官守矢家が司る祭礼からは縄文時代の息吹が感じられる。
それは菅江の描写した江戸時代後期の「御頭祭」でも継承されていた。
現代では生首こそ用いられることはなくなり、代わりに鹿頭の剥製2つをお供えしている。
諏訪大社は農耕以前の狩猟時代、縄文時代の原始的祭祀を今なお色濃く伝えている一之宮なのだ。諏訪大社上社 御頭祭 祭り・イベント
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ここ神長官守矢史料館は中世から江戸時代まで諏訪明神の神長官を務めた守矢家に伝わる鎌倉時代以来の「守矢文書」を保管、公開している施設。
七十八代守矢早苗氏より茅野市が寄託を受け、地域の文化発展に資するため建設された。
守矢文書は県宝155点、茅野市指定文化財50点を含む1618点で、ほとんどは諏訪大社の祭礼に関するもの。
その中には中世の信濃国の状況を克明に記録した貴重な史料や、武田信玄をはじめ武田家の古文書40点が含まれている。茅野市神長宮守矢史料館 美術館・博物館
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神長官守矢史料館を出ると「神長官守矢」の表札が掲げられた門の前に出た。
神長官守矢家は古代以降、上社大祝を補佐し、上社五官の筆頭として代々祈祷と政務事務を掌握してきた家柄。
その祖先は建御名方命が出雲より来る前から諏訪に土着していた神と伝わっている。
現在、同邸内には祈祷殿のほか旧祈祷殿遺跡・御頭役郷庄の精進屋遺跡・御頭みさく神・勅使殿等がある。
門の前に「神長官守矢史料館」の石碑が立つが、もちろん一般の住宅。
門内に勝手に立ち入るのは憚られる。茅野市神長宮守矢史料館 美術館・博物館
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ただ、神長官守矢家の祈祷殿は外からでも見学できるようになっている。
神長官家の祈祷は一子相伝で、神長以外は他の何人も携わることを許されなかった。
「満実書留」(守矢文書)には神長が祈祷殿に籠って祈祷調伏した記録が数多く残されている。
また、中世の神長官守矢頼真(よりざね)が後年、長坂筑後守に与えた書状によると、頼真が天文11(1542)年9月24日、武田晴信(信玄)のため祈祷殿に籠って戦勝祈願を行い、高遠頼継の率いる高遠勢を調伏したことを裏付けているそうだ。茅野市神長宮守矢史料館 美術館・博物館
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彼方にこんもりとした丘陵。
そこに小さな祠と大きな木が立っているのが見える。
綺麗に手入れされた生垣を眺めながら、丘に向かって柔らかな芝生の道を歩く。
一歩、足を進めるごとに心中の垢が剥がれ落ちていくような気がする。茅野市神長宮守矢史料館 美術館・博物館
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この祠、神長官邸「みさく神」という。
みさく神とは諏訪社の原始信仰として、古来より専ら神長官が司る神と伝わっている。
このみさく神は「御頭みさく神」とも呼ばれ、諏訪各地のみさく神を統率する総みさく神との由。
社叢は2本のカジノキとカヤ、クリなど計7本。
カジノキの樹齢は推定で約100年と40年。
目通り幹周は其々1.70mと1.10m。
植樹されたものながら堂々たる風格。
さすが諏訪大社の神紋に由緒がある樹種だけある。茅野市神長宮守矢史料館 美術館・博物館
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「みさく神」の社叢は簡素。
それだけに、古代信仰を偲ぶに相応しい佇まい。
この「みさく神」、諏訪大社の祭政体「ミシャグチ神」と何らかの関わりがあるのだろうか?
ミシャグチ神とは樹や笹、石や生神・大祝に降りてくる精霊のこと。
諏訪大社の祭政はミシャグチ神を中心に営まれていたという。
そのミシャグチ神の祭祀権を持っていたのが神長であり、守矢家はミシャグチ上げやミシャグチ降ろしの技法を駆使して祭祀を取り仕切る重要な役割を担っていたそうだ。茅野市神長宮守矢史料館 美術館・博物館
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神長官守矢史料館から諏訪大社上社前宮へ。
広い国道ではなく一本裏手の狭い道を歩く。
なかなか風情のある古道で、諏訪の国を巡っている実感が湧く。
歩きながら「ミシャクジ神」について考え続ける。
守矢文書によると、出雲から侵攻してきた建御名方命と洩矢神を長とする先住民族が激突。
その結果、先住民族が敗戦するも出雲族から虐げられたわけでもなく。
建御名方神の子孫である諏訪氏が大祝(おおほうり)という生神(いきがみ)の位に、
洩矢神の子孫である守矢氏が神長(じんちょう)という筆頭神官の位に、それぞれ就任。
この結果、諏訪では大祝という〝信仰〟と神長という〝政治〟が一体化した諏訪祭政体による新体制が固まり、古代から中世まで続いたそうだ。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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諏訪大社上社前宮への道を進むと、鉄のスクラップ工場に出くわした。
鉄といえば美濃一宮南宮大社のところで諏訪大社との関係に触れた。
平安末期の歌謡集『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』巻二にある次のような一文。
「南宮の本山は信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚[おさな]き児の宮」
「美濃国の中の宮」とは美濃一宮南宮大社、「伊賀国の稚き児の宮」とは伊賀一宮敢国神社を指すと仮定すれば「南宮の本山は信濃国」とは信濃一宮諏訪大社を指すことになるのだが。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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スクラップ工場横の道は進むにつれて次第に狭くなってきた。
これはこれで諏訪上社前宮への参道に相応しくはあるのだが。
さて「南宮の本山は信濃国とぞ承る」の続き。
平安時代中期(905~967年)に定められた延喜式神名帳に、諏訪大社は「南方刀美神社[みなかたとみのかみのやしろ]」の社名で記載されていた。
また、諏訪大社では古来より風と水を司る竜神を篤く信仰していた。
風は砂鉄を精錬・加工するための蹈鞴[たたら]、水は錬鉄の鍛造に必要不可欠な存在。
こうした“状況証拠”からも「南宮の本山は諏訪大社」のように思えるが、あくまでも推測。
諏訪大社は全部で4つの宮から構成されているが、大昔その一つが金山彦命を祀る南方刀美神社だったとしても不思議ではない。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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細い一本道を抜けたところに小さな神社が立っていた。
名を子安神社といい、社号通り安産の神様として奉られている。
なお、諏訪大社の摂社末社かどうかは分からない。子安神社 寺・神社・教会
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子安社から続く細い道を歩いていると、不意に広々とした場所に出た。
諏訪大社上社前宮の境内。
玉垣などで特に仕切られているわけでもなく、外界との境界が曖昧だ。
この点は諏訪大社の他三社と異なり、原始神道の雰囲気が色濃く漂う。
この広場には中世まで「神殿(こうどの)」があった。
神殿とは諏訪明神たる現人神にして諏訪上社の祭政を統轄していた大祝代々の居館。
というか、御神体と同一視された大祝が常駐する殿舎の尊称だったという。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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広場から大鳥居の方角を眺める。
霧のような細かい雨が舞う中、作業員が舗装工事に勤しんているのが見える。
社伝によると神原は諏訪大神が初めて御出現になられた地であり、上社にとって最も由緒の深い場所。
ここには神殿を中心に高神殿、中部屋、酒倉、馬屋のほか、内御玉殿や十間廊など神事が行われる重要な建物もあったことから、この一帯は神原(こうばら)と呼ばれていた。
代々の大祝職員式や旧三月酉日の大御立座神事(酉の祭)など上社の重要な神事のほとんどが、この神原で行われていたという。
境内には摂社末社として御室社、若御子社、鶏冠社、政所社、柏手社、溝上社、子安社などがある。
やはり先ほどの子安神社は摂社末社だったのか。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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そのまま大鳥居の近辺まで降り、今度は神原方面を返り見る。
神原から鳥居近辺まで歩行者用の参道は細い石段だけで、その両脇は土が剥き出しのまま。
なお左側に車両通行用の通路が通っているので、バスなども神原までは登ることができる。
文明十五(1483)年正月、大祝家が諏訪惣領家を歓待するからと神殿に呼び出し暗殺。
このため戦乱が起き、神原の聖域が穢れてしまった。
しかし後に清地へ戻され、大祝の居館として後世まで続く。
室町時代中葉、大祝が居館を他に移したことに伴い、多くの神殿が消滅。
祭儀のみ引き続き神原で行われており、それらは現在でも残っている。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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社号標には「官幣大社諏訪上社前宮」と刻まれている。
諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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大鳥居。
堅牢な石造りで塗りは施されておらず、石材の素地が露わ。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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境内の片隅にポツンと佇む小さな祠。
名を「溝上社(みぞがみしゃ)」という。
祭神は高志奈河比賣命(こしぬなかわひめのみこと)。
御射山へ出発する際にまず参詣された社だったそう。
水眼(すいか)の清流をたたえた「みそぎ池」の中に鎮座。
西の方に「神の足跡石」があったという。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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再び神原へ戻る。
こちらは二の鳥居か。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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鳥居は巨大な青銅製。
神額こそないが堂々たる明神鳥居だ。
ただ、注連縄が下社の2宮と異なり細い。
上社は出雲系ではないからだろうか?諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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鳥居をくぐると左手上方に横長の建物が立っている。
十間廊という、上社前宮にとって非常に重要な建造物で古くは「神原廊(かんばらろう)」と呼ばれていた。
中世まで諏訪祭政の行われた政庁の場で、すべての貢物はこの廊上で大祝の実見に供されたという。
神長宮守矢史料館のところでも触れた通り、毎年4月15日の「酉の祭」には鹿の頭が75が供えられた。
これらの鹿の中には必ず耳が裂けた鹿が入っており、諏訪の七不思議の一つに数えられていたそうだ。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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十間廊は上段に大祝の座、次に家老、奉行、五官の座、その下に御頭郷役人(おとうごうやくにん)などの座が定められ、左手の「高神子屋」で演ぜられる舞を見ながら宴を張ったという。
諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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十間廊と石段を挟んだ反対側に鎮座するのが「内御玉殿(うちみたまでん)」。
諏訪明神の祖霊がやどるといわれる御神宝が安置されていた御殿と伝わる。
「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体をなす」
かつて大祝は諸神事に当たる際、内御玉殿の扉を開かせてて弥栄の鈴を持ち、眞澄の鏡をかけ、馬具を携えて現れたという。
まさにその姿は神格を備えた現身の諏訪明神そのものだった…と伝わっている。
現在の社殿は昭和7(1932)年に改築されたもの。
それ以前は天正13(1585)年に造営された、上社関係では最古の建造物だったという。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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内御玉殿の左側から石段を登ると更に参道が続いている。
上社前宮の本殿は緩やかな坂を登った奥に鎮座しているのだ。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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途中、傍に祠が鎮座している。
「御室社」といって、見かけは小さいが上社前宮とは歴史的に切っても切れない存在だ。
中世までは諏訪郡内の諸郷の奉仕によって半地下式の土室が造られ、大祝や神長官以下の神官が参籠し、蛇形の御体と称する大小のミシャグジ神とともに「穴巣始(あなすはじめ)」という冬ごもりをした遺跡地。
旧暦十二月二二日に「御室入り」し、翌年三月中旬寅日に御室が撤去されるまで、土室の中で神秘な祭祀が続行されたという。
諏訪信仰の中では特殊神事として重要視されていたが、中世以降は廃絶している。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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本殿に向かって緩やかな坂をユルユルと登っていく。
参道といえば参道なのだが、それらしき雰囲気は絶無。
どこにでもありそうな極ありふれた田舎道という風情。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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そんな田舎道…ならぬ参道を歩いているうち、
唐突といった感じで上社前宮の本殿が現れた。
内御玉殿から約200mほどの距離にあるそう。
ここも玉垣などで外界と仕切られておらず、他の諏訪三社とは決定的に異なる。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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前宮とは本宮に対して、より以前から鎮座していた宮…という意味もあるという。
前宮の祭神は古くから建御名方命と妃の八坂刀売命だと信仰されている。
また、奥宮の奥に鎮まる墳墓には古来より立ち入ることが固く禁じられ、これを侵すと神罰が当たると伝えられている。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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神殿の四方に御柱を七年毎に建て替えるのは他の三宮と同じ。
ただ、全ての摂社末社が御柱で囲まれているわけではなく。
小さな御社には御柱が供えられていない場合も多い。諏訪大社式年造営御柱大祭 祭り・イベント
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本殿の背後に回る。
諏訪大神が最初に居を構えた地とも伝わる。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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現在の拝殿は昭和7(1932)年に伊勢神宮から下賜された材で造営された由。
高台に立ち、豊富な水と日照が得られ、諏訪信仰発祥の地に相応しい場所といえよう。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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境内に向かって右側に小川が流れている。
「水眼」、古くから〝すいが〟と呼ばれていたという。
山中から湧き出る清流は前宮の神域を流れる御手洗川となり、昔から御神水として重宝されてきた。
源流は約1kmほど登った山中にあるそうだ。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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中世においては御手洗川のほとりに精進屋を設え、心身を清め、前宮の重要神事を務める前に用いたとの記録がある。
ちなみに「精進屋」とは祭りや参詣の前に心身を清めるために籠る建物のことだ。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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再び神原近辺へ戻る。
見れば観光バスが停まっていて、色とりどりの衣服を身に纏った妙齢のご婦人方が御朱印もらいに社務所へ詰めかけている。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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諏訪大社では現在「四社まいり」なるイベントを展開中。
四宮すべてで御朱印を受けると記念品が進呈されるという。
ご婦人方は参拝者ではなくスタンプラリーの参加者だったのか。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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というわけで、諏訪大社四宮すべての巡礼を終えた。
小糠雨は止むことなく、なおも降り続く。
諏訪大社の正体に戸惑うばかり。
謎が謎を呼んだまま、上社前宮を後にする。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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正面から一直線に伸びる道を北に向かって歩く。
歩きながら諏訪大社の成り立ちについて考える。
なぜ諏訪大社は上社と下社に分かれているのか?
かつ、なぜ其々が更に二つに分かれているのか?
今でこそ四宮合わせて「諏訪大社」を名乗っているが、
もとは別々の神社ではなかったのか?諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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道を直進するうち「宮川」という川に突き当たった。
しかし対岸に渡れる橋が架かっていないため、グルリと迂回する。
それにしても、諏訪大社には幾つもの〝神〟がいた。
まず、諏訪大社の祭政体「ミシャグチ神」。
樹木や石に降臨する精霊で、その概念を具現化したものが御柱との説もあるそう。
ミシャグチ神を「みさく神」として守り続けてきた洩矢神。
そこへ出雲を追われた建御名方神が襲来し、土着の神さまだった洩矢神と対決。
勝った建御名方神が諏訪大神に、負けた洩矢神が守矢家として神事一切を司る神長官と役割を分担するようになった。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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道すがら、道祖神が佇んでいた。
信州ではよく見かける神様。
道を守る神として村落に邪気や悪霊が入るのを防ぐご利益があると考えられている。
また、男女一対の形状から夫婦円満、子孫繁栄、縁結びなどのご利益もあるという。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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茅野駅まで結構な距離があるも、徒歩での散策もなかなか楽しい。
目の前に現れた中央自動車道の高架をくぐる。
諏訪大社は元々、上社でミシャグチ神を祀っていたのではないか?
ところがヤマト王権の国司が派遣されてくるようになると、土着の神様を祀っているのは具合が悪い。
そこで下社を拵え、そちらに国司を案内してミシャグチ神の信仰を守り続けた……。
歴史的事実は考古学者の研究に拠るしかないのだが。
高架下で、そんな妄想を思い浮かべていた。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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前宮から小1時間ほど歩いたろうか。
茅野駅にたどり着くと、そこには大きな鳥居が聳立していた。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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鳥居の袂に「諏訪神社参拝道」と刻まれた石標が立っている。
今回は巡礼の都合で下社秋宮から同春宮、上社本宮、同前宮へと辿ってきたが。
諏訪大社へは本来ここから前宮→本宮→春宮→秋宮の順で参拝すべきなのだろう。諏訪大社上社前宮神殿跡 寺・神社・教会
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茅野駅に到着。
長かった諏訪大社の参詣が終わりを告げた。
ただ、長かったといっても僅か3日間の行程。
それだけ諏訪大社という一之宮が内包する謎が奥深かったということだろう。
13時38分、小淵沢方面へ向かう1530M電車に乗り、諏訪の地を後にした。茅野駅 駅
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