2016/05/19 - 2016/05/19
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frau.himmelさん
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4日間滞在したウィーンも今日がいよいよ最終日。明日はインスブルックに旅立ちます。
最終日の今日は一日中ウィーン観光です。
見残したところはいろいろあれど、行きたかったカフェやレストランもいろいろあれど、わが身は一つ。いつも最終日は、あ~~もっと日程に余裕を持たせれば良かったなーと後悔が先に立ちます。
さて、美術好きシニアにはウィーン美術史美術館は外せません。
世界遺産のシェーンブルン宮殿もウィーンに来たなら行っておかないとね。
今日はこの二つを中心に回ります。
朝食は「カフェ・ツェントラル」で、昼食は美術史美術館の素敵なカフェで、夕食は前にも一人で行ったことのある「カフェ・グリーンシュタイドル」で摂りました。
今回のウィーンでの食事は、
1日目はホイリゲ「バッハヘングル」で、
2日目はショプロンに遠出したため、ウィーンに帰ってから「カフェ・ザッハ」でザッハトルテを、
3日目は「カフェ・モーツアルト」で朝食を摂り、早めの夕食をウィーン最古のレストラン「グリーヒェンバイスル」で、
そして4日目が上記の通り。
今回の旅のテーマである、その地方でそこそこ有名なレストランで食事をしよう、はウィーンに限って言えば、合格点をつけてもらえるのではないかと勝手に自負しております。
なお、美術史美術館は別冊にて編集いたします。
-
あらっ、ここどこでしょう?
今朝はいつもの市電D線でなく、地下鉄U2のHerrengasseで降りたのでした。
そして地上に出て、目指す「カフェ・ツェントラル」はこちら方向のはずと闇雲に歩き始めたら見事に道に迷ってしまったようです。
どうやらここはコールマルクト・・・。 -
も少し進むと、ロースハウス。
1911年にアドルフ・ロースによって設計された、出来る限りの装飾を排除したウィーンの有名な建築物です。
今見れば、結構装飾的ですよねぇ?
ところが、ミヒャエル広場のロースハウスの正面には王宮が立っているのです。
当時の市民からは、畏れ多くも王宮の前なのに、そのシンプルな建物は失礼だろう!というクレームが付いたそうです。 -
ロースハウスの正面に建つのはこの王宮。
これだけ装飾ゴテゴテなのだから、周りの建物はシンプルなほうが目立っていいのに・・・と思うのは素人の浅はかさ(笑)。
さて、さすがにここまで来れば、これからどう行けばいいか、方向音痴の私でもすぐわかります。 -
朝からとんだシニア達のドタバタ珍道中です。
いえいえ、私がどこに向かっているのかはっきりご存じないK氏・I女史にとっては迷惑この上ない。
右側の国旗がいくつもはためいている建物はシュタイゲンベルガーホテル。
その先に目指す「カフェ・ツェントラル」の入口が見えてきました。 -
今朝の朝食はここ「カフェ・ツェントラル」で。
一昨日の「カフェ・モーツアルト」と言い、「カフェ・ツェントラル」と言い、ウィーンの一流老舗カフェで朝食がいただけるのは素晴らしい。 -
高いドームの天井は教会か宮殿のよう。
老舗カフェの雰囲気ばっちりですね。 -
入口近くにちょこんと座っていらっしゃるこの人物は?
「ペーター・アルテンベルク」さん。
ウィーン世紀末の文学者で、自分の住所を「ウィーン1区、カフェ・ツェントラール」と答えたくらい、ここに入り浸っていました。 -
朝から結構混んでいましたが、幸いアルテンベルクさんの近くに席が空いていました。
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今朝は普通のシンプル朝食セットです。
ともにウィーンでは一般的なクロワッサンとカイザーゼンメル、それにタマゴ。ジャムとバターが付きます。
コーヒーはメランジェです。 -
アルテンベルクさんのお隣のショーケースには、色とりどりのおいしそうなケーキたち。
さすがにクロワッサンとゼンメルをいただいた後では、シニア達にはケーキは重すぎます。 -
朝食を終えた後、ヘレンガッセを王宮とは反対方向に進みます。
この通りには有名な宮殿がいくつもあります。 -
カフェ・ツェントラルが入っている建物も、1856年から1860年に建築された「フェルステル宮殿」なのです。
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ここはポルツィア宮 (Palais Porcia)。
ポルツィア候の所有だったためそう呼ばれましたが、その後国家の所有となったため正面には大きな黄金の双頭の鷲の紋章が取り付けられました。 -
ポルツィア宮のお隣は、ボヘミア貴族であったキンスキー侯爵の宮殿。
有名な建築家ヒルデブラントの設計になるものです。
どうして美術史美術館に行くのにこんな遠回りをするの?
この辺の土地に詳しい方でしたら不思議に思われるでしょうね。
実はこの付近も「第三の男」関係なのです。 -
この辺りはフライウンクと呼ばれ、ウィンドボナの遺跡が残っている地域です。
1683年のトルコ軍侵攻により、大きく破壊されてしまいましたが、これらの宮殿はその後建設されたものです。
地下駐車場建設の際には、ローマ時代の泉の跡と中世後期の路面舗装が見つかったそうです。
それらは発掘され美術史美術館に収蔵されています。 -
フライウング広場にあるショッテン教会。
外壁のクリーム色が美しいこの教会は、12世紀の半ばにバーベンベルグ家のハインリッヒ2世によって創建されました。
この教会はその当時、亡命者の庇護権が与えられており、ここに逃げ込んだ亡命者は自由の身となれたそうです。
そこからこの教会のある広場が「フライウンク(ドイツ語で解放のこと)」と名付けられました。 -
私たちはシュライフォーゲルガッセを通って、リンク大通りに向かいます。
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この右側の坂を上ったところがベートーヴェンが住んでいたパスクァラティハウス。
ここも「第三の男」の重要現場です。 -
ブルク劇場とウィーン市庁舎。
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ブルク劇場の出し物、「三人姉妹」
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ウィーン市庁舎と赤と白の伝統的なウィーンの市電。
今日が最後のウィーンですから、リンク大通りを歴史を少し振り返りながら散策します。
1857年12月の新聞に、「これは余の意思である」ではじまる、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の歴史的な言葉が掲載されました。
城壁を取り壊し、画期的な都市改造を推進する内容の言葉でした。
計画の柱は、リンク大通りの建設。
これによってウィーンの街は中世から近代都市へと鮮やかに生まれ変わりました。 -
皇帝からの素晴らしい「クリスマスプレゼント」。
ウィーン市民は喜びと期待で大興奮したという。
2016年11月21日に没後100年を迎えるフランツ・ヨーゼフ1世、
このリンク通りの賑わいをどんなふうに思っているでしょうか。 -
広々としたリンク通り。
道路と建物の間には歩行者と自転車専用道路が設けられており、並木道によって隔たられています。
このリンク通りの街路樹は、場所によって違う種類の樹木が植えられています。
あるところは菩提樹、また別なところは楓と言う風に、季節によって違う表情を見せてくれるのだそうです。 -
建築家デオフィル・フォン・ハンセンによってギリシャ神殿様式で建てられた国会議事堂。
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ギリシャの知恵の女神パラス・アテネの泉。
台座にはドナウ、イン、エルベ、モルダウの4つの川の神。
高さ5.5メートルあります。 -
ここに気になる建物が・・・。
やっぱり曰く付きのものでした。
現在は国会議事堂付属の施設になっているエプシュタイン宮殿。
世紀末ウィーンの経済を支えたユダヤ系実業家だったエプシュタイン家の宮殿でした。
リンク沿いに建てられたいくつもの豪華な建物は、皇帝に懇願されて、ユダヤ人実業家、銀行家が建築主だったり、パトロンだったりと重要な役割を果たしているのです。
ところが、ハプスブルク帝国が崩壊した後は、エプシュタイン宮殿も歴史に翻弄されるのです。
オーストリア併合時代はナチスの国家施設として、また戦後はソ連軍総司令部が置かれていたそうです。
「第三の男」でもこの近くに総司令部がありました。 -
ドクター・カールレンナープラッツ駅のインビス(軽食屋)。
日本ののり巻きもあります。 -
ホーフブルク王宮の入口ブルグ門。
ミヒャエル門とは反対側の入り口です。 -
この門には、
「FRANCISCVS. I. IMPERATOR. AVSTRIAE. MDCCCXXIV.」
と刻まれています。
「1824年にオーストリア皇帝フランツ1世となった」という意味らしいです。
それまで神聖ローマ皇帝であったフランツ2世は(在位1792-1806)は、ナポレオン戦争に巻き込まれ、神聖ローマ皇帝の称号を放棄して最初のオーストリア皇帝フランツ1世となったのでした。
ここに神聖ローマ帝国は消滅してしまいます。 -
美術史美術館。
絵画が好きなシニア達、ウィーンに来たらここは外せません。
美術史美術館編は別途作成します。 -
美術史美術館を出て、カールスプラッツからU4でシェーンブルン宮殿にやってきました。
-
ウィーン郊外にあるシェーンブルン宮殿は、まさにハプスブルク家の栄華を今に伝える宮殿といっても過言ではないでしょうね。
観光客にも大人気で毎日大勢の人々が訪れています。
K氏I女史のお二人もウィーンを訪れたら絶対ここ行きたい!との希望でした。 -
私は過去に2回ほど宮殿内部の見学は経験しておりますし、何よりも美術史美術館をグルグル回って足が棒のように疲れています。
今回はお二人だけで宮殿内を廻っていただくことにして、私はパス。
券売機で二人分のチケットを求めます。
インペリアルツアーコース、2人分26.6ユーロ。
その他にグランドツアーというものもあり、これは見学可能な40室すべてのお部屋を見学することができます。 -
お二人と別れて、私はしばしベンチに座って外からシェーンブルン宮殿を眺めます。
元気なシニアの観光客が多いですね。
私もあのように、杖をついてまで外国旅行ができるかしら?
元気なお二人についていけない不甲斐なさ、申し訳なさからちょっと弱気になりました。 -
さて、現在シェーンブルン宮殿と庭園群は世界遺産に登録されています。
1693年、皇帝レオポルト1世が、ベルサイユ宮殿を凌ぐ大規模な宮殿づくりを命じたのが始まりです。
その後、女帝マリアテレジアの時代に大改築され、今のようなウィーン風ロココ様式の宮殿になりました。
外壁はおなじみマリアテジアイエロー。 -
シェーンブルン宮殿と言えば何と言っても、華やかな宮廷文化ですね。
この宮殿ではマリアテレジア女帝やマリーアントワネット、フランツヨーゼフ1世、そのお妃シシーことエリザベート等の華やかな歴史を見ることができます。
華やかだけではない別な面のハプスブルク家。
ベンチに座って、へそ曲がりな私は、今までのヨーロッパ旅の経験から得たそれらの歴史をいろいろ思いだします。 -
ハプスブルク家の基礎を築いた人物は、スイスの田舎の小貴族だったルドルフ1世です。
当時、神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)は、その権利を持つ選帝侯によって選ばれていました。
ルドルフ王は選帝侯たちより突然ドイツ王(神聖ローマ皇帝)に推挙されます。
選帝侯にはいろいろ思惑があり、スイスの田舎者の小貴族なんかに大きな野望は持たないだろうと思われたからです。 -
ところが意に反して、ルドルフ1世はやり手だった。
ルドルフ死後、選帝侯たちは皇帝権力の強化を嫌って、ルドルフ1世の子アルブレヒトより、ナッサウ・イトシュタイン家のアドルフをドイツ王に推挙しました。
しかしアドルフも領土拡大に積極的に動いたため、選帝侯の反発を買い廃位させられます。
その後皇帝の座に就いたのはハプスブルク家のアルブレヒトでした。
ここにハプスブルク一族は着実に勢力を広げていくのです。
この項はドイツのイトシュタインを訪れた時勉強しました。 -
ハプスブルク家の頂点に立つのは何と言ってもこの女帝、マリアテレジアですね。
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、テレジア自身も16人もの子供に恵まれ、ハプスブルク家は婚姻によって所領を増やしていきました。
ところが彼女とて、決して順風満帆に勢力を広げたわけではありません。女性であるがために周辺諸国から軽くみられることがありました。 -
マリアテレジアの父、神聖ローマ皇帝カール6世には男子がいなかったので長女マリア・テレジアを相続させました。
しかしそれを面白く思わないのがプロイセン王フリードリヒ2世、
「女の帝位など認めない」とばかりにオーストリアに攻め入り王位継承戦争が起こりました。 -
そこでマリアテレジアは、これまで仲の悪かったフランスとロシアを味方につけることに成功します。
ルイ15世の愛妾で才媛のポンパドール夫人と、ロシアのエリザベート女帝を味方につけて、3国によるプロイセン包囲網が完成します。
この作戦は「3枚のペチコート作戦」などと呼ばれました。
ちなみにフリードリヒ2世は女嫌いでした。
(グロリエッテ) -
そしてこのシェーンブルン宮殿で亡くなって2016年でちょうど100年となる皇帝フランツヨーゼフ1世です。
68年に及ぶ長い在位と、国民からの絶大な敬愛を集め、オーストリアの象徴的存在であった偉大な皇帝です。
皇后は美貌で知られるシシーことエリーザベト。
でも下の晩年の写真を見る限り、かくとした威厳さの中にも、なんか寂しい表情が漂っているように見えませんか。
(資料よりコピー) -
まさに不運な皇帝フランツ・ヨーゼフ1世なのです。
1889年に皇太子ルドルフがマイヤーリンクで情死します。
皇后エリーザベト(シシー)は悲しみを旅で紛らわせていましたが、旅先のスイスで暗殺されてしまうのです。
まだまだ悲しみは続きます。
フランツ・ヨーゼフ1世の甥であるフランツ・フェルディナント皇太子が、次期皇位継承者でしたが、妻ゾフィーと共にサラエボを訪れた際、セルビア人のテロリストに暗殺されるのです。
(シェーンブルン宮殿の庭園) -
悲しみに打ちひしがれた孤独なフランツ・ヨーゼフ1世は、避暑先の、妻シシーとの思い出の地バート・イシュルでセルビアに対しての宣戦布告書に署名するのです。
こうして第一次世界大戦の火ぶたは切って落とされました。
(シェーンブルン宮殿の庭園) -
庭園のバラ園
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そして、第一次世界大戦に敗戦。
1918年フランツヨーゼフ1世の後継者、最後のオーストリア皇帝カール1世が皇帝位放棄の書面に署名したのは、この「青い陶器の部屋」でした。
ここでついにハプスブルク王朝の640年に及んだ長い歴史に終止符が打たれたのでした。
(写真は絵葉書から) -
今頃、K氏I女史はどこの部屋を見学しているのだろう。
たぶん私一人だったらこの宮殿には来ていなかったでしょう。
お二人のおかげで、思いがけず、ハプスブルク家の歴史がいっぱい詰まるこのシェーンブルン宮殿で、ゆっくり歴史を振り返ることができました。 -
お二人とはホテルで待ち合わせですから、いったんホテルに戻ります。
シェーンブルン宮殿の美しく咲いた藤棚の下。 -
まだ約束の時間まで結構あるので、一人で見残したところに行くことも考えましたが、もうその気力はありません。
ホテルで足を休ませます。 -
ホテルでちょっとウトウトしていたら、部屋の扉をトントン叩く音。
「himmelさん、帰ってきたんだけど、足痛かったらあんまり無理をしなくていいわよ」とⅠ女史の声。
いえいえ、今夜はウィーン最後の晩餐です。30分経ったら出かけましょう。
D線でブルクリンクまでやってきました。 -
せっかくウィーンに来たのに、ブルク公園のモーツアルト像もまだ見ていませんでした。
いつもは赤い花でト音記号が成形されていますが、黄色のト音記号は珍しい。 -
-
ゲーテ像。
あれ何でウィーンにゲーテが・・・? -
私がウィーン最後の晩餐に選んだレストランはここ、王宮前の「カフェ・グリーンシュタイドル」。
19世紀後半にはウィーン世紀末の文学者達の根城になっていたという大変歴史あるカフェです。 -
カフェ・グリーンシュタイドルの雰囲気は抜群。
中に入ると木製の丸テーブルやレトロな丸椅子。
「カフェ・モーツアルト」や「カフェ・ツェントラル」のような豪華さはないけど、落ち着いておしゃべりしている人、新聞を読んでいる人・・。 -
ウィーンに4日間滞在したのに、ウィーン名物の「シュニッツェル」をまだいただいていませんでした。
最後の晩餐は「ヴィーナー・シュニッツェル」で楽しかったウィーンの話題で盛り上がりましょう。
シニアには大盛のサラダがとても嬉しい。 -
もちろんワインもいただきますよ。
今日はI女史はお肉に合わせて赤ワインです。
老舗カフェのこの雰囲気の中に身を置くと、私たちも長いことウィーンに住んでいるような気になります。 -
店内には歴史的カフェらしく、当時の写真や絵が飾られています。
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当時の風刺画。
中央のおひげの紳士、見覚えがあります。 -
当時カフェによく出入りしていたというエゴン・シーレの絵になんとなく似ていませんか?
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食事を終えて、楽しかったウィーンの日々を思い出しながらホテルに帰ります。
ハプスブルク家が600年以上にわたって住居としてきた王宮のミヒャエル門。 -
最後の神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世で、最初のオーストリア皇帝フランツ1世の像です。
後ろはシシーも住んだアマリア宮。 -
ブルク門。
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女帝マリアテレジアの像と、美術史美術館。
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背後から仄かに射し込む夕明かりが、マリアテレジアの偉大さをさらに引き立てていました。
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「カイザー、そんな悲しい顔しないでよ。」
もう一度、なんとなくものすごく寂しげに見えるフランツヨーゼフ1世とお別れをして、D線でホテルに戻ります。
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