1987/09/07 - 1990/05/05
50位(同エリア68件中)
みどくつさん
1989年4月29日、グアテマラからエルサルバドルへバスで移動し、サンサルバドルの安宿「ホテルサンカルロス」で一泊する。
グリーンの地にナスカの地上絵のハチドリのような絵柄の入った「バナナリパブリック」のTシャツを、昨日さっと洗っておいた。
1989年4月30日、今朝は奇麗に乾いている。
今日はこの一番いいシャツでおめかしをする。
米軍のアーミージャケットをバックパックの一番底にしまいこむ。
1989年のエルサルバドルは、政府軍とゲリラの内戦の真っ最中だった。
少しでも怪しまれたら拷問、銃殺が平気で行われていた。
行方不明になった旅行者も多いようだ(バックパッカーの場合は行方不明になったかどうかもわからないし、誰も気にしない)。
サンサルバドルの町の地図をチェックして、それをホテルのフロントで確かる。
ホンジュラスとの国境へ向かうバスが出る、東バスターミナルへと歩きだす。
たいした距離でない時は、バスを待ったりせずに歩くのが一番確実だからね。
暑くなる前のサンサルバドルの朝の空気はさわやかで、通りはがらんとしている。
その人通りの少ないサンサルバドルの町を、僕はズンズンと歩く。
服装は、リーバイスのジーンズにバナナリパブリックのTシャツ、ナイキエアーのスニーカー、「ウイルダネス・エクスペリアンス」のバックパックだ。
人通りは少ないが、通りで目立つのは自動小銃を持った兵士だ。
出来るだけ目を合わせないように、知らない振りをして通り過ぎようとする。
つかまってしまった。
バックパックを背負ったがっしりした東洋人が早朝歩いていれば、一応話は聞きたいだろうしね…。
若い兵士が3人。
一人が自動小銃の銃口を僕に向ける。
「どこから来たんだ」
「ブエノス・ディアス(おはようございます)」と、まずにっこり笑って挨拶する。
「日本からです。セニョール。ただのツリスタ(旅行者)です。東ターミナルへ歩いて行く所です」と、スペイン語でぺらぺらしゃべり出す。
これが世界旅行者式危機脱出法だ。
無意味でも中身がなくても、とにかく話し続ければコミュニケーションが生まれる。
コミュニケーションができた人を虐めることはない(だろう)。
特にラテンアメリカの人たちは、基本的にはほがらかで気のいい、友情や家族関係を大切にする「いい奴」が多いのだ。
それに、ラテンアメリカの人は誇り高い人たちだ。
訳の解らない東洋人が下手に出れば、悪い気分のはずがない。
それに僕はきちんとしたスペイン語をしゃべるから、誰が考えてもまともに見えるはずだし…。
日本国政府発行の赤いパスポートを差し出す。
このパスポートはこの旅行に出る直前に東京で作った。
そのあと、カイロでページを増やし、さらにパリで新しいパスポートをくっつけてある(増冊)ので結構厚い。
中を見れば世界各国のビザや出入国のスタンプが山ほどあるので、僕が長期旅行者であることはすぐ解る。
東ヨーロッパの社会主義国や中近東のビザもあるので、文句をつけようと思えばつけられないことはないけどね。
この時期、エルサルバドルの隣国ホンジュラスは、社会主義国のスタンプがあると入国拒否されるという噂も流れていたしね。
「エストイ・ビアハンド・ポール・トド・エル・ムンド(世界旅行してるんです)」と、説明する。
「荷物を開けろ」と命令される。
サンサルバドルの朝の通りでバックパックを全部開くことになってしまった。
僕の荷物はたくさんの袋に分けてある。
一つ一つ説明するのは面倒だが、アンティグアでスペイン語を勉強したばかりなので、なんとか説明ができる。
スペイン語を勉強しておいて良かった♪
ペンシルケースなどを一つ一つ全部開けて細かく調べている所を見ると、ドラッグを捜しているのかなとも思う。
白人の長期旅行者は結構マリファナ程度は持っていたりするものなのだ。
「ノ・テンゴ・ドローガス。メ・グスタ・ソロ・セルベッサ(ドラッグは持ってません。好きなのはビールだけです」と肩をすくめてみせる。
下っ端の若い兵士も顔がなごんで来て、「もう行ってもいい」という雰囲気になってきた。
ところがその時、バックパックの底から米軍のアーミージャケットがぽろっと出て来たんだ。
「これは何だ!」と聞くよ。
当然の話だが、参ったなー。
「これは禁止されている」と固いことをいい出す。
こうなれば情けにすがるしかない。
「セニョール。エストエス・ミソロローパ。ノテンゴ・ラ・オートラ。エスタエス・ムイコンベニエンテ・パラビアハール。エスペシアルメンテ・クアンドビアヘ・ポルモンターニャス。ポルケアジ・アセ・ムイフリオ(これは僕のただひとつの服なんです。他にないんです。これは旅行にとても便利です。特に山を旅行する時はね。とても寒いですから」と、自分でもびっくりするほどぺーらぺーらと舌が回る。
文法が少し間違っていたりするが、とにかく話すことが大切だよ。
「ソイ・ハポネス・ムイポーブレ(僕はとても貧乏な日本人です)」という僕の切り札のフレーズを使う。
このフレーズは、相手より自分を下に置く時に役立つ。
例えばアラブ諸国のスーク(市場)で物を買う時に使うと、もう一段値切れる。
モロッコのフェズの巨大メディナで、網の目のような道に迷い込んだ時、迷路から脱出するためのガイドを押しつけられそうになった。
その時、このフレーズを使った。
「日本人に貧乏な奴はいないよ」とあっさり薄笑いで片づけられて、高いガイドを押しつけられてしまったが。
地球の反対側まで旅行に来ているのだから貧乏なわけはないか。
サンサルバドルの街角では、僕の必死のアピールが効いたらしい。
「山の上は寒いから気をつけろ」と、アーミージャケットは見逃してくれた。
この時はたいして気にしてなかった。
数日してよく考えていると、ずいぶん危ないところを切り抜けたんだと気がついたよ。
とにかくサンサルバドルでは夜の6時以降は外出禁止令が出ていて、人がサッといなくなる。
外出禁止令中に歩いていると撃ち殺されても文句は言えないところだ。
死んでしまったら文句が言えないのは当然だけどね。
中米の兵士の質は非常に悪いので、そのときの気分でなにをされるかわからない。
だから、まだ朝だったのがよかった。
それに、人懐こい笑顔を浮かべて、スペイン語をしゃべり続けて、コミュニケーションが取れていたのが救いだったよ。
中南米では(世の中は)なにが起きるかわからないんだから。
例えばこのあと1998年に、早稲田大学の学生がアマゾンの川下りの最中にペルー軍兵士に殺害されるという事件が起こった。
悲しい事件で、日本でもいろんな議論が起きたが、もう社会的には忘れ去られている。
また、それ以前にも(いつだったか忘れたが)、パキスタンで川下りをしていた学生が殺された事件もあったね。
僕が思ったのは、おそらく彼らは現地の言葉が、そんなにしゃべれなかっただろう、ということ。
人生経験の少ない若者だから、コミュニケーションをとるのが上手じゃなかったんだと思う。
実際、学生がどんなに旅行したところで、まだまだ旅行経験も人生経験も不足しているから、なにも残らない。
「学生の冒険旅行」などというものは、実際はすべて危なすぎる綱渡りなんだよ。
一時期、日本の有名新聞社や雑誌社が、学生の冒険旅行を記事にしたり、本にしたりして、おだて上げた時代があった。
もともと人生経験の乏しい若者なのだから、持ち上げられれば無謀なことをしてしまうもの。
正直、ケニアでもジャワのジョグジャカルタでも、ロサンゼルスでも、僕は大学探検部を名乗る人間に会ったことがある。
そのときの感じでも、彼らの旅行は危ないと感じてたしね。
とにかく、僕は習い終えたばかりのスペイン語で、必死のコミュニケーションを取った。
ヘタをすると、あのまま、どこかへ連れ去られて、拷問を受けたかもしれないよ。
このときはまだそれを自覚してなかったけどね。
僕はそのままトコトコと歩いて、サンサルバドルの東バスターミナルへ行きました。
- 旅行の満足度
- 4.0
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