トレド旅行記(ブログ) 一覧に戻る
イベリア半島を流れるタホ川は、 カスティーリャ・ラ・マンチャ州の古都トレドの街を東西に横断して滔々と流れています。トレドは、このタホ川が深く抉り込んで大きく蛇行した位置に座し、三方をタホ川に囲まれた天然の要塞です。「第二のローマ」とも称されるようにスペインの古都のひとつに数えられ、イスラム、ユダヤ、キリスト教のリミックスカルチャーが息づく、セルバンテスが「岩場だらけの悲嘆、文明のゆりかご」と詠んだようにスペインの歴史が凝縮された街です。<br />かつて天正少年使節団も闊歩した城壁に囲まれたこの街は、街自体が素晴らしく、「スペイン美術史の標本」と称されるほどです。「スペインに1日しか滞在しないなら、迷わずトレドに行け」との格言があるように、スペインの歴史や文化の全てを合わせ持っています。スペインが辿った光と影の歴史をその街に刻み続け、エル・グレコが描いた中世の街並そのままの面影を今に遺こす「16世紀で歩みを止めた街」です。この地を訪れたリルケは、迷路の坂道を上りながら石組が醸しだす中世の雰囲気に魅了され、詩的インスピレーションを授かったほどです。ここでは全ての旅人がタイムトラベラーになれるという、ワクワク・ドキドキ体験が待っています。<br />旧市街地には石畳の曲がりくねった狭い通りが網の目のように走り、13世紀建立のゴシック様式のカテドラルを初め、古城アルカサルや16世紀後半からこの街に住んだ画家エル・グレコの家など、「町全体が博物館」と言われるほど歴史的建造物がひしめき合っています。<br /><日程><br />1日目:関空→フランクフルト(LH0741 10:05発)<br />    フランクフルト→バルセロナ(LH1136 17:30発)<br />    宿泊:4 Barcelona(二連泊)<br />2日目:グエル公園==サグラダ・ファミリア==カサ・ミラ/カサ・バトリョ(車窓)<br />            ==ランチ:Marina Bay by Moncho&#39;s==カタルーニャ広場<br />            15:00?フリータイム<br />    カタルーニャ広場==サン・パウ病院==サグラダ・ファミリア==<br />            カサ・ミラ--カサ・バトリョ--夕食:Cervecer?・a Catalana(バル) <br />    ==カタルーニャ音楽堂<br />            宿泊:4 Barcelona(二連泊)<br />3日目:コロニア・グエル地下礼拝堂==モンセラット観光--<br />    ランチ:Restaurant Montserrat==ラス・ファレラス(水道橋)<br />            ==タラゴナ観光(円形競技場、地中海のバルコニー)<br />    バレンシア宿泊:Mas Camarena<br />4日目:ランチ:Mamzanil(Murcia)<br />            ==(午後4:00到着)ヘネラリーフェ宮殿<br />            --アルハンブラ宮殿==ホテル Vincci Granada==Los Tarantos<br />           (洞窟フラメンコ)<br />            --サン・ニコラス展望台(アルハンブラ宮殿の夜景観賞)<br />5日目:ミハス散策--ランチ:Vinoteca==ロンダ(午後4:00到着)<br />            フリー散策<br />            宿泊:Parador de Ronda<br />6日目:セビリア観光(スペイン広場--セビリア大聖堂)==<br />            コルドバ観光(メスキータ--花の小径)-==コルドバ駅<br />    AVE:コルドバ→マドリード<br />    夕食:China City<br />    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)<br />7日目:マドリード観光(スペイン広場<下車観光>==ソフィア王妃芸術センター<br />    ==プラド美術館--免税店ショッピング==ランチ:Dudua Palacio<br />    ==トレド観光(サント・トメ教会、トレド大聖堂<外観>)==<br />            ホテル--フリータイム(プエルタ・デル・ソル、マヨール広場、<br />    サンミゲル市場、ビリャ広場、アルムデナ大聖堂、マドリード王宮<br />    オリエンテ広場 、エル・コルテ・イングレス<グラン・ビア>)<br />    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)<br />8日目:マドリード→フランクフルト(LH1123 8:35発)<br />    フランクフルト→関空(LH0740 13:35発)<br />9日目:関空着(7:20)

ときめきのスペイン周遊⑰トレド

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2016/09/02 - 2016/09/10

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

イベリア半島を流れるタホ川は、 カスティーリャ・ラ・マンチャ州の古都トレドの街を東西に横断して滔々と流れています。トレドは、このタホ川が深く抉り込んで大きく蛇行した位置に座し、三方をタホ川に囲まれた天然の要塞です。「第二のローマ」とも称されるようにスペインの古都のひとつに数えられ、イスラム、ユダヤ、キリスト教のリミックスカルチャーが息づく、セルバンテスが「岩場だらけの悲嘆、文明のゆりかご」と詠んだようにスペインの歴史が凝縮された街です。
かつて天正少年使節団も闊歩した城壁に囲まれたこの街は、街自体が素晴らしく、「スペイン美術史の標本」と称されるほどです。「スペインに1日しか滞在しないなら、迷わずトレドに行け」との格言があるように、スペインの歴史や文化の全てを合わせ持っています。スペインが辿った光と影の歴史をその街に刻み続け、エル・グレコが描いた中世の街並そのままの面影を今に遺こす「16世紀で歩みを止めた街」です。この地を訪れたリルケは、迷路の坂道を上りながら石組が醸しだす中世の雰囲気に魅了され、詩的インスピレーションを授かったほどです。ここでは全ての旅人がタイムトラベラーになれるという、ワクワク・ドキドキ体験が待っています。
旧市街地には石畳の曲がりくねった狭い通りが網の目のように走り、13世紀建立のゴシック様式のカテドラルを初め、古城アルカサルや16世紀後半からこの街に住んだ画家エル・グレコの家など、「町全体が博物館」と言われるほど歴史的建造物がひしめき合っています。
<日程>
1日目:関空→フランクフルト(LH0741 10:05発)
    フランクフルト→バルセロナ(LH1136 17:30発)
    宿泊:4 Barcelona(二連泊)
2日目:グエル公園==サグラダ・ファミリア==カサ・ミラ/カサ・バトリョ(車窓)
    ==ランチ:Marina Bay by Moncho's==カタルーニャ広場
    15:00?フリータイム
    カタルーニャ広場==サン・パウ病院==サグラダ・ファミリア==
    カサ・ミラ--カサ・バトリョ--夕食:Cervecer?・a Catalana(バル)
    ==カタルーニャ音楽堂
    宿泊:4 Barcelona(二連泊)
3日目:コロニア・グエル地下礼拝堂==モンセラット観光--
    ランチ:Restaurant Montserrat==ラス・ファレラス(水道橋)
    ==タラゴナ観光(円形競技場、地中海のバルコニー)
    バレンシア宿泊:Mas Camarena
4日目:ランチ:Mamzanil(Murcia)
    ==(午後4:00到着)ヘネラリーフェ宮殿
    --アルハンブラ宮殿==ホテル Vincci Granada==Los Tarantos
    (洞窟フラメンコ)
     --サン・ニコラス展望台(アルハンブラ宮殿の夜景観賞)
5日目:ミハス散策--ランチ:Vinoteca==ロンダ(午後4:00到着)
    フリー散策
    宿泊:Parador de Ronda
6日目:セビリア観光(スペイン広場--セビリア大聖堂)==
    コルドバ観光(メスキータ--花の小径)-==コルドバ駅
    AVE:コルドバ→マドリード
    夕食:China City
    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)
7日目:マドリード観光(スペイン広場<下車観光>==ソフィア王妃芸術センター
    ==プラド美術館--免税店ショッピング==ランチ:Dudua Palacio
    ==トレド観光(サント・トメ教会、トレド大聖堂<外観>)==
    ホテル--フリータイム(プエルタ・デル・ソル、マヨール広場、
    サンミゲル市場、ビリャ広場、アルムデナ大聖堂、マドリード王宮
    オリエンテ広場 、エル・コルテ・イングレス<グラン・ビア>)
    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)
8日目:マドリード→フランクフルト(LH1123 8:35発)
    フランクフルト→関空(LH0740 13:35発)
9日目:関空着(7:20)

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
観光バス 徒歩 飛行機
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
日本旅行

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  • マドリードでのスケジュールは、午前中は美術館巡り、午後はオプション観光のトレドでした。マドリード編は、フリータイムを含めてまとめてレポするため、先にトレド編をお届けいたします。<br />マドリードからトレドまでの距離は70km強ですので、バスで1時間強の旅です。途中でトイレ休憩したドライブインにあった「ドン・キホーテ」の置物です。トレドの南東にある「ラ・マンチャ」で知られたコンスエグラは、ドン・キホーテが騎士の称号を受けた村として知られ、その丘の上には11基の風車が尾根に沿って列んでいます。その先にはカンポ・デ・クリプターナの風車があり、それがドン・キホーテが戦いを挑んだものと言われています。<br /><br />世界中で知られているミゲル・デ・セルバンテス・サーベドラ著『ドン・キホーテ』は、牢獄の中で着想して書かれたと言われています。それをブロードウェイでミュージカルにしたのが『ラ・マンチャの男』です。内容を簡単に言えば「アルツハイマー症らしきお爺さんが風車を巨人と思って突進して行き、馬と共に蹴散らされた」と言ったお話です。実は往時の世俗に対し、意図的に色々な皮肉が込められた深い作品です。子供向の小説と思われている方も少なくないのですが、大人向けの風刺、滑稽本といった性質の小説ですので奥が深いです。<br />流行の騎士道物語を読んで嵌り、騎士ストーリーを自ら構築して騎士になりきってしまった主人公は、自らを「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と名乗り、痩せた愛馬をロシナンテ、農夫のサンチョ・パンサを従者にして通算3度の旅に出ます。<br />2度目の旅で主人公は30基の風車に出くわし、それを山のごとき巨人と見て、一戦して皆殺しにしようとサンチョ・パンサに言うのです。その風車は、カンポ・デ・クリプターナの風車ではないかと言われています。サンチョは、あれは粉ひき用の風車だと諭すのですが、巨人が風車に変身したものだとドン・キホーテは主張。こうしてドン・キホーテとロシナンテは巨人に向かって行き、あっけなく蹴散らされてしまうのです。

    マドリードでのスケジュールは、午前中は美術館巡り、午後はオプション観光のトレドでした。マドリード編は、フリータイムを含めてまとめてレポするため、先にトレド編をお届けいたします。
    マドリードからトレドまでの距離は70km強ですので、バスで1時間強の旅です。途中でトイレ休憩したドライブインにあった「ドン・キホーテ」の置物です。トレドの南東にある「ラ・マンチャ」で知られたコンスエグラは、ドン・キホーテが騎士の称号を受けた村として知られ、その丘の上には11基の風車が尾根に沿って列んでいます。その先にはカンポ・デ・クリプターナの風車があり、それがドン・キホーテが戦いを挑んだものと言われています。

    世界中で知られているミゲル・デ・セルバンテス・サーベドラ著『ドン・キホーテ』は、牢獄の中で着想して書かれたと言われています。それをブロードウェイでミュージカルにしたのが『ラ・マンチャの男』です。内容を簡単に言えば「アルツハイマー症らしきお爺さんが風車を巨人と思って突進して行き、馬と共に蹴散らされた」と言ったお話です。実は往時の世俗に対し、意図的に色々な皮肉が込められた深い作品です。子供向の小説と思われている方も少なくないのですが、大人向けの風刺、滑稽本といった性質の小説ですので奥が深いです。
    流行の騎士道物語を読んで嵌り、騎士ストーリーを自ら構築して騎士になりきってしまった主人公は、自らを「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と名乗り、痩せた愛馬をロシナンテ、農夫のサンチョ・パンサを従者にして通算3度の旅に出ます。
    2度目の旅で主人公は30基の風車に出くわし、それを山のごとき巨人と見て、一戦して皆殺しにしようとサンチョ・パンサに言うのです。その風車は、カンポ・デ・クリプターナの風車ではないかと言われています。サンチョは、あれは粉ひき用の風車だと諭すのですが、巨人が風車に変身したものだとドン・キホーテは主張。こうしてドン・キホーテとロシナンテは巨人に向かって行き、あっけなく蹴散らされてしまうのです。

  • バス車窓<br />ファネロ通りに架かる橋を渡ってタホ川の対岸にあるアルト自動車道路に出ます。<br />このタホ川には「ロドリーゴ伝説」なるものが語り継がれています。<br />イベリア半島にあった西ゴート王国は、507年に誕生し711年に滅亡するまで26人の国王が君臨しました。西ゴート王国滅亡の原因となる「絶世の美女の物語」です。<br />ロドリーゴ王は、イスラム軍に滅ぼされた西ゴート王国の最期の王です。前王ビティサは残忍な性格で、政争の最中にロドリーゴの父親の両眼をくり抜きました。ロドリーゴは、その復讐のためにビティサを殺し、王位に就きました。その頃、ビティサの息子フリアン伯爵は北アフリカのセウタ(スペイン領)総督でしたが、彼がモロッコまで勢いを伸ばしてきたイスラム軍に屈服し、悩んでいる最中に「父王がロドリーゴに殺された」という知らせを受けました。伯爵は、ロドリーゴへの憎悪から、艦隊を整え、イスラム軍に協力し、トレドに進撃してロドリーゴ軍を壊滅させたのです。<br />このように伯爵が敵国に荷担したのには理由がありました。伯爵には、その美しさが吟遊詩人に謳われ、スペイン中に知られた令嬢フロリンダがいました。8月の月の輝く夜、ロドリーゴ王は狩猟の帰途、タホ川で水浴びをしていたフロリンダを陵辱したのです。彼女は小間使いをセウタに派遣し、父に事件の顛末を知らせました。伯爵は、娘の名誉回復を要求し王妃にするよう迫るも、王に嘲笑され、娘の恨みを晴らすために敵軍であるイスラム軍と手を結んだのです。<br />伯爵は、イスラム軍司令官ターリクと共謀し、セウタ城の城門を開き、イスラム軍が容易にジブラルタル海峡を渡れるように布石しました。ロドリーゴ王は大軍をもって南下するもグアダレーテ川の戦いで少数のイスラム軍に敗北し、ここに西ゴート王国は滅んだのです。<br />ロドリーゴのその後は不明です。傷付き絶望しながらスペイン全土を乞食になって放浪したとか、自らの罪業により一夜にして王国崩壊をもたらした自責の念で墓穴に入って蛇に噛まれて死んだとの説、グアダレーテ川の戦いで味方に裏切られて殺されたなど諸説あります。ロドリーゴ伝説は繰り返された政争物語のひとつですが、我身と国を滅ぼす原因は今も昔も変わらないものです。<br />因みにターリクの軍勢は、アフリカ対岸の大きな山の麓に上陸しました。以後この山はターリクの山と呼ばれ、そのラテン語がなまってジブラルタルと呼ばれるようになったそうです。

    バス車窓
    ファネロ通りに架かる橋を渡ってタホ川の対岸にあるアルト自動車道路に出ます。
    このタホ川には「ロドリーゴ伝説」なるものが語り継がれています。
    イベリア半島にあった西ゴート王国は、507年に誕生し711年に滅亡するまで26人の国王が君臨しました。西ゴート王国滅亡の原因となる「絶世の美女の物語」です。
    ロドリーゴ王は、イスラム軍に滅ぼされた西ゴート王国の最期の王です。前王ビティサは残忍な性格で、政争の最中にロドリーゴの父親の両眼をくり抜きました。ロドリーゴは、その復讐のためにビティサを殺し、王位に就きました。その頃、ビティサの息子フリアン伯爵は北アフリカのセウタ(スペイン領)総督でしたが、彼がモロッコまで勢いを伸ばしてきたイスラム軍に屈服し、悩んでいる最中に「父王がロドリーゴに殺された」という知らせを受けました。伯爵は、ロドリーゴへの憎悪から、艦隊を整え、イスラム軍に協力し、トレドに進撃してロドリーゴ軍を壊滅させたのです。
    このように伯爵が敵国に荷担したのには理由がありました。伯爵には、その美しさが吟遊詩人に謳われ、スペイン中に知られた令嬢フロリンダがいました。8月の月の輝く夜、ロドリーゴ王は狩猟の帰途、タホ川で水浴びをしていたフロリンダを陵辱したのです。彼女は小間使いをセウタに派遣し、父に事件の顛末を知らせました。伯爵は、娘の名誉回復を要求し王妃にするよう迫るも、王に嘲笑され、娘の恨みを晴らすために敵軍であるイスラム軍と手を結んだのです。
    伯爵は、イスラム軍司令官ターリクと共謀し、セウタ城の城門を開き、イスラム軍が容易にジブラルタル海峡を渡れるように布石しました。ロドリーゴ王は大軍をもって南下するもグアダレーテ川の戦いで少数のイスラム軍に敗北し、ここに西ゴート王国は滅んだのです。
    ロドリーゴのその後は不明です。傷付き絶望しながらスペイン全土を乞食になって放浪したとか、自らの罪業により一夜にして王国崩壊をもたらした自責の念で墓穴に入って蛇に噛まれて死んだとの説、グアダレーテ川の戦いで味方に裏切られて殺されたなど諸説あります。ロドリーゴ伝説は繰り返された政争物語のひとつですが、我身と国を滅ぼす原因は今も昔も変わらないものです。
    因みにターリクの軍勢は、アフリカ対岸の大きな山の麓に上陸しました。以後この山はターリクの山と呼ばれ、そのラテン語がなまってジブラルタルと呼ばれるようになったそうです。

  • バス車窓<br />東側から見上げるアルカサルです。このような要害の立地に建てられています。

    バス車窓
    東側から見上げるアルカサルです。このような要害の立地に建てられています。

  • バス車窓<br />振り返るとアルカサルが崖の上に建っています。真っ青な夏空に生えた姿は、スペイン中世の夢物語を見ているかのようです。<br />トレドの最高点548mの丘に君臨し、真っ先に視野に飛び込んでくる長方形の巨塊が古城アルカサルです。四隅に塔を擁する特徴的な形は存在感たっぷりです。居住区から離れた所にあることから、 他の史跡とは一線を画すものと判ります。残された内部構造から、古代ローマ帝国やイスラム統治時代から常に要塞としての役割を果たしてきたことが判っています。<br />城郭としての建造は11世紀に遡ります。勇敢王と称されたカスティーリャ&レオン王国の王アルフォンソ6世がこの地に要塞を築いたことに始まります。12世紀以降、歴代の城主により繰り返し増改築が行なわれ、スペインを代表する優美な城郭となりました。建築様式は、簡素ながら機能美を主張するシトー修道会の建築様式が多用されている一方、明るい地に鮮やかな色彩の装飾にはイスラム様式が用いられています。

    バス車窓
    振り返るとアルカサルが崖の上に建っています。真っ青な夏空に生えた姿は、スペイン中世の夢物語を見ているかのようです。
    トレドの最高点548mの丘に君臨し、真っ先に視野に飛び込んでくる長方形の巨塊が古城アルカサルです。四隅に塔を擁する特徴的な形は存在感たっぷりです。居住区から離れた所にあることから、 他の史跡とは一線を画すものと判ります。残された内部構造から、古代ローマ帝国やイスラム統治時代から常に要塞としての役割を果たしてきたことが判っています。
    城郭としての建造は11世紀に遡ります。勇敢王と称されたカスティーリャ&レオン王国の王アルフォンソ6世がこの地に要塞を築いたことに始まります。12世紀以降、歴代の城主により繰り返し増改築が行なわれ、スペインを代表する優美な城郭となりました。建築様式は、簡素ながら機能美を主張するシトー修道会の建築様式が多用されている一方、明るい地に鮮やかな色彩の装飾にはイスラム様式が用いられています。

  • バス車窓<br />このアングルからですとアルカサル、カテドラル、高い紺色のクーポラが特徴のヘスイータス教会が横に並びます。<br />ヘスイータス教会は、キリスト教徒にとっては大変意味のある教会だそうです。1557年にイエズス会がこのトレドの地に最初に定着し、その後1569年に信心深い2人の兄弟の後援によって、当時のオルガス伯の家を購入し、その上にこの教会を建設しています。スペイン・バロック様式の教会であり、サン・イルデフォンソ教会とも呼ばれています。この教会は、トレド大聖堂の建築を担当したフアン・バウティスタ・デ・モネグロが設計したと言われていますが、建築にはフアンの兄弟のフランシスコやバルトロメ・スンビゴ等も参加し、150年以上の歳月を費やして完成させています。

    バス車窓
    このアングルからですとアルカサル、カテドラル、高い紺色のクーポラが特徴のヘスイータス教会が横に並びます。
    ヘスイータス教会は、キリスト教徒にとっては大変意味のある教会だそうです。1557年にイエズス会がこのトレドの地に最初に定着し、その後1569年に信心深い2人の兄弟の後援によって、当時のオルガス伯の家を購入し、その上にこの教会を建設しています。スペイン・バロック様式の教会であり、サン・イルデフォンソ教会とも呼ばれています。この教会は、トレド大聖堂の建築を担当したフアン・バウティスタ・デ・モネグロが設計したと言われていますが、建築にはフアンの兄弟のフランシスコやバルトロメ・スンビゴ等も参加し、150年以上の歳月を費やして完成させています。

  • 展望台<br />タホ川に沿って走るカレッテッラ街道のサン・マルティン橋とアルカンタラ橋の中間点に当たる高台から眺める対岸のトレドの眺望は、エル・グレコも愛したと言われています。川を挟んだ台地には高い建物と低い家並みが重畳し、そこを縫うように走る狭い迷路のような小径が見え隠れしています。古い煉瓦造の家、石畳の狭い路地、曲がりくねった道の向こうに聳えるカテドラル等々・・・。<br />ここから眺めた迷路のような小路や茶褐色の家並みなど、トレドに染み込んでいるアラブのDNAを反芻しながら愉しめるのがトレド散策です。地図を持っていても迷ってしまいそうな街並みは、世界遺産として保護され、建物を修復するにも許可がいるという厳重な保存体制が取られています。

    展望台
    タホ川に沿って走るカレッテッラ街道のサン・マルティン橋とアルカンタラ橋の中間点に当たる高台から眺める対岸のトレドの眺望は、エル・グレコも愛したと言われています。川を挟んだ台地には高い建物と低い家並みが重畳し、そこを縫うように走る狭い迷路のような小径が見え隠れしています。古い煉瓦造の家、石畳の狭い路地、曲がりくねった道の向こうに聳えるカテドラル等々・・・。
    ここから眺めた迷路のような小路や茶褐色の家並みなど、トレドに染み込んでいるアラブのDNAを反芻しながら愉しめるのがトレド散策です。地図を持っていても迷ってしまいそうな街並みは、世界遺産として保護され、建物を修復するにも許可がいるという厳重な保存体制が取られています。

  • 展望台<br />遠巻きに見るトレドは、まさに現代にタイムスリップした古代ローマ帝国の街そのものです。独特の威容を放つ街は、その類稀なる地形ゆえに天然の城塞となりました。<br />トレドには先史時代から人が住んでいましたが、歴史に登場したのは紀元前190年頃です。イベリア半島進出を始めた古代ローマ帝国に征服され、「トレトゥム」と呼ばれたのが「トレド」の名の由来です。5世紀前半には西ゴート王国の首都として栄え、711年にはアラブのウマイア朝に征服されてイスラム文化が花開き、やがて1085年にカスティーリャ王国アルフォンス6世によるトレド奪回(レコンキスタ)によって王国の首都となりました。しかしキリスト教徒はイスラム的なものを破壊せず、自分たちの独自の文化として取り込んで残したのです。キリスト教徒による軍事力、イスラム教徒の農耕や灌漑、建築、工芸、そしてユダヤ教徒の科学や医学、金融感覚が一体となったトレドの文化水準は図抜け、1492年にイスラムやユダヤ教徒の国外追放令が発せられるまでキリスト教徒と異教徒はこの地で見事に融合を図っていたのです。その後1561年にフェリペ2世によるマドリードへの遷都まで、政治・経済の中心として繁栄の歴史が連綿と続いたのも頷けます。

    展望台
    遠巻きに見るトレドは、まさに現代にタイムスリップした古代ローマ帝国の街そのものです。独特の威容を放つ街は、その類稀なる地形ゆえに天然の城塞となりました。
    トレドには先史時代から人が住んでいましたが、歴史に登場したのは紀元前190年頃です。イベリア半島進出を始めた古代ローマ帝国に征服され、「トレトゥム」と呼ばれたのが「トレド」の名の由来です。5世紀前半には西ゴート王国の首都として栄え、711年にはアラブのウマイア朝に征服されてイスラム文化が花開き、やがて1085年にカスティーリャ王国アルフォンス6世によるトレド奪回(レコンキスタ)によって王国の首都となりました。しかしキリスト教徒はイスラム的なものを破壊せず、自分たちの独自の文化として取り込んで残したのです。キリスト教徒による軍事力、イスラム教徒の農耕や灌漑、建築、工芸、そしてユダヤ教徒の科学や医学、金融感覚が一体となったトレドの文化水準は図抜け、1492年にイスラムやユダヤ教徒の国外追放令が発せられるまでキリスト教徒と異教徒はこの地で見事に融合を図っていたのです。その後1561年にフェリペ2世によるマドリードへの遷都まで、政治・経済の中心として繁栄の歴史が連綿と続いたのも頷けます。

  • 『トレドの景観と地図』<br />トレドの街並の古さを物語る事例を紹介しましょう。<br />エル・グレコ美術館に展示されている『トレドの景観と地図』です。この絵画はグレコが愛してやまなかったトレドの街の全景を描いた作品ですが、この展望台から眺める現在の風景が、500年前に描かれたグレコの絵とほぼ同じということに度肝を抜かれます。時が止まってしまったかのような、木の文化と石の文化の大いなる違いが感じられる瞬間です。 <br />贅沢な要望ですが、もう少し天気が悪ければこの絵画そっくりだと思います。因みにトレドに湧き立つ雲は、今でも天国にいるグレコが絵筆をとっているとも言われるほどです。<br />この画像は、次のサイトから借用させていただきました。<br />http://es.wahooart.com/@@/85FRB7-El-Greco-(Dom%C3%A9nikos-Theotokopoulos)-vista-de-de-Toledo-<br /><br />グレコは、クレタ島カンディアに生まれ、地中海を航海してアドリア海の都ヴェネツィアに至り、色彩と線の絵画技法を学び、永遠の都ローマに到達しました。しかし、ミケランジェロの壁画を侮蔑したため、ローマ人の誇りを傷つけ、追われるようにスペインに逃れました。そして1577年にトレドに辿り着いてから40年間、この街を離れることはありませんでした。その理由のひとつは、トレドに来た翌年、ヘロミナ・デ・クエバスと結婚したからです。トレドに腰を落ち着けて多くの教会やパトロンの注文を捌き、安定した生活を送りながらこの地に沢山の絵を残しました。ですから「トレドはグレコの町だ」と言われるのも頷けます。<br />面白いことに、「エル・グレコ」は本名ではありません。エル・グレコは、「あの、ギリシア人」という意味で、エルはスペイン語の男性定冠詞です。つまり渾名です。本名はドドメニコス・テオトコプーロスと言い、自分の作品には本名をサインしていました。<br />生涯、「あの、ギリシア人」としか呼ばれなかった背景には、単に本名が長いからだけでなく、他にも理由がありました。商業活動で栄えたクレタ島出身の彼は、金銭面でしたたかだったのです。お金さえもらえれば、同じモチーフの絵を何枚でも描いたそうです。こうしたグレコへの嘲りから、本名で呼ばれなかったとも言われています。往時のトレドの人たちは、絵画の技巧では一目置きながらも冷ややかな眼差しで彼を見つめていたようです。こうした背景も手伝ってか、彼の才能は歴史の中で長く埋もれていました。ロマン主義の芸術家たちが忘却の深い淵からグレコを蘇らせたのは19世紀、グレコの没後200年経ってからのことでした。バロック絵画を代表する画家フェルメールも没後200年経ってから「忘れられた画家」として再発見されました。グレコの再評価の方が後になりますので、フェルメールのことが起爆剤になったのかもしれません。

    『トレドの景観と地図』
    トレドの街並の古さを物語る事例を紹介しましょう。
    エル・グレコ美術館に展示されている『トレドの景観と地図』です。この絵画はグレコが愛してやまなかったトレドの街の全景を描いた作品ですが、この展望台から眺める現在の風景が、500年前に描かれたグレコの絵とほぼ同じということに度肝を抜かれます。時が止まってしまったかのような、木の文化と石の文化の大いなる違いが感じられる瞬間です。
    贅沢な要望ですが、もう少し天気が悪ければこの絵画そっくりだと思います。因みにトレドに湧き立つ雲は、今でも天国にいるグレコが絵筆をとっているとも言われるほどです。
    この画像は、次のサイトから借用させていただきました。
    http://es.wahooart.com/@@/85FRB7-El-Greco-(Dom%C3%A9nikos-Theotokopoulos)-vista-de-de-Toledo-

    グレコは、クレタ島カンディアに生まれ、地中海を航海してアドリア海の都ヴェネツィアに至り、色彩と線の絵画技法を学び、永遠の都ローマに到達しました。しかし、ミケランジェロの壁画を侮蔑したため、ローマ人の誇りを傷つけ、追われるようにスペインに逃れました。そして1577年にトレドに辿り着いてから40年間、この街を離れることはありませんでした。その理由のひとつは、トレドに来た翌年、ヘロミナ・デ・クエバスと結婚したからです。トレドに腰を落ち着けて多くの教会やパトロンの注文を捌き、安定した生活を送りながらこの地に沢山の絵を残しました。ですから「トレドはグレコの町だ」と言われるのも頷けます。
    面白いことに、「エル・グレコ」は本名ではありません。エル・グレコは、「あの、ギリシア人」という意味で、エルはスペイン語の男性定冠詞です。つまり渾名です。本名はドドメニコス・テオトコプーロスと言い、自分の作品には本名をサインしていました。
    生涯、「あの、ギリシア人」としか呼ばれなかった背景には、単に本名が長いからだけでなく、他にも理由がありました。商業活動で栄えたクレタ島出身の彼は、金銭面でしたたかだったのです。お金さえもらえれば、同じモチーフの絵を何枚でも描いたそうです。こうしたグレコへの嘲りから、本名で呼ばれなかったとも言われています。往時のトレドの人たちは、絵画の技巧では一目置きながらも冷ややかな眼差しで彼を見つめていたようです。こうした背景も手伝ってか、彼の才能は歴史の中で長く埋もれていました。ロマン主義の芸術家たちが忘却の深い淵からグレコを蘇らせたのは19世紀、グレコの没後200年経ってからのことでした。バロック絵画を代表する画家フェルメールも没後200年経ってから「忘れられた画家」として再発見されました。グレコの再評価の方が後になりますので、フェルメールのことが起爆剤になったのかもしれません。

  • 展望台 カテドラル<br />ローマ時代に城塞都市として築かれたトレドの繁栄を象徴する建造物がカテドラルです。正式名は「サンタ・マリア・デ・トレド大聖堂」と言い、スペイン・カトリック教会の首座大司教座であり、総本山でもあります。1226年、ヒメネス・デ・ラダ大司教と聖王フェルナンド3世の治世に着工され、1493年に約270年もの歳月を経て完成しました。イスラムやユダヤ教徒が国外追放されたレコンキスタ完了の翌年に竣工したこともあり、カトリック教会の昂揚した気持ちが見て取れます。しかし、この建造時間の長さは想像もつきません。スペインではよくある話だそうですが、サグラダ・ファミリアの建造が現在も続いていることにも通じるものがあります。<br />スペイン最大級のカテドラルがこの地に建立された理由は、キリスト教徒の勢力を誇示する聖堂が必要になり、西ゴート王国以前から聖なる場所として崇められていた場所を選んだためです。この地には、かつて西ゴート王国の大聖堂やイスラム教の大モスクが建立されていました。<br />カテドラルは4つの側廊と22の礼拝堂からなり、華麗さよりも重厚さが特徴のスペイン・ゴシック建築の最高傑作です。設計者は、棟梁マルティンと後継者ペトルス・ペトリです。平面図上はラテン十字形ですが、身廊と翼廊は幅も高さも側廊よりも高く外廊は低いため、立面図では三角錐の形をしています。キリスト教勢力は、カテドラルを建てる時、文化も技術も彼らより上だったイスラム教徒のムーア人の職人を使ったそうです。支配する方よりも支配される方が高い文化や技術を持っていたとは吃驚ポンです。<br />カテドラル周囲の街並は、敵の侵入を防ぐために狭い路地が隅々まで入り組み、まるで迷路のようです。大きな塊で見れば、街の三方を囲うタホ川が大きな天然の堀濠の役割を果たし、日本の城下町を彷彿とさせます。<br />左手前の大きな建物は「Seminario Conciliar Mayor San Ildefonso de Toledo」と言い、1563年に創立された聖職者を育成するための施設です。

    展望台 カテドラル
    ローマ時代に城塞都市として築かれたトレドの繁栄を象徴する建造物がカテドラルです。正式名は「サンタ・マリア・デ・トレド大聖堂」と言い、スペイン・カトリック教会の首座大司教座であり、総本山でもあります。1226年、ヒメネス・デ・ラダ大司教と聖王フェルナンド3世の治世に着工され、1493年に約270年もの歳月を経て完成しました。イスラムやユダヤ教徒が国外追放されたレコンキスタ完了の翌年に竣工したこともあり、カトリック教会の昂揚した気持ちが見て取れます。しかし、この建造時間の長さは想像もつきません。スペインではよくある話だそうですが、サグラダ・ファミリアの建造が現在も続いていることにも通じるものがあります。
    スペイン最大級のカテドラルがこの地に建立された理由は、キリスト教徒の勢力を誇示する聖堂が必要になり、西ゴート王国以前から聖なる場所として崇められていた場所を選んだためです。この地には、かつて西ゴート王国の大聖堂やイスラム教の大モスクが建立されていました。
    カテドラルは4つの側廊と22の礼拝堂からなり、華麗さよりも重厚さが特徴のスペイン・ゴシック建築の最高傑作です。設計者は、棟梁マルティンと後継者ペトルス・ペトリです。平面図上はラテン十字形ですが、身廊と翼廊は幅も高さも側廊よりも高く外廊は低いため、立面図では三角錐の形をしています。キリスト教勢力は、カテドラルを建てる時、文化も技術も彼らより上だったイスラム教徒のムーア人の職人を使ったそうです。支配する方よりも支配される方が高い文化や技術を持っていたとは吃驚ポンです。
    カテドラル周囲の街並は、敵の侵入を防ぐために狭い路地が隅々まで入り組み、まるで迷路のようです。大きな塊で見れば、街の三方を囲うタホ川が大きな天然の堀濠の役割を果たし、日本の城下町を彷彿とさせます。
    左手前の大きな建物は「Seminario Conciliar Mayor San Ildefonso de Toledo」と言い、1563年に創立された聖職者を育成するための施設です。

  • 展望台 アルカサス<br />現在の姿は、カルロス5世が帝王に相応しい邸宅となるよう命じ、1551年に改築が完成したものです。そのため、アラブ式ファサードには銃眼胸壁が残されているものの、中世の城としての機能は取り払われ、どのファサードにもスペイン風ルネッサンスの豊かな様式が施されています。建築家アロンソ・デ・コバルビアスが最初の設計者ですが、最終的にはフアン・デ・エレラが半円形の丸天井下の大階段と南翼部の改築を担いました。新宮殿は10年間王の邸宅になりましたが、首都がトレドからマドリードに遷都した後、寡婦となった王妃や王位継承者に政権を譲って隠居した王妃たち、例えばマリアナ・デ・アウストリアやフェリペ4世の寡婦、カルロス2世の妻フアナ・デ・ネオブルゴたちの住居になりました。<br />その後、王室の牢獄や軍司令部、絹物商の工房など多目的に利用されることになり、最終的には軍隊の士官学校になりました。また数回の火事にも見舞われています。1710年の王位継承戦争で焼けた時には、ベントゥラ・ロドリゲスの指揮で修復されました。また、独立戦争の時には2度焼き討ちされ、その後も自然発生の火災に遭っています。1936年のスペイン内戦ではフランコ軍がここに72日間に亘って籠城し、地下には立て籠った跡があるそうです。こうした点では、性質的にはパリのコンシェルジュリーを彷彿とさせるものがあります。<br />アルカサルの再建は1940年に始まり、1961年、フアン・デ・アバロスの手によって落成式を迎えました。何年間も軍隊博物館の一部を引き受けてきましたが、現在は全て引き取られ、階上にはカスティーリャ・ラ・マンチャ州立図書館が併設されています。また、19世紀後期には軍の士官学校だったこともあり、スペイン軍人の聖地にもなっています。

    展望台 アルカサス
    現在の姿は、カルロス5世が帝王に相応しい邸宅となるよう命じ、1551年に改築が完成したものです。そのため、アラブ式ファサードには銃眼胸壁が残されているものの、中世の城としての機能は取り払われ、どのファサードにもスペイン風ルネッサンスの豊かな様式が施されています。建築家アロンソ・デ・コバルビアスが最初の設計者ですが、最終的にはフアン・デ・エレラが半円形の丸天井下の大階段と南翼部の改築を担いました。新宮殿は10年間王の邸宅になりましたが、首都がトレドからマドリードに遷都した後、寡婦となった王妃や王位継承者に政権を譲って隠居した王妃たち、例えばマリアナ・デ・アウストリアやフェリペ4世の寡婦、カルロス2世の妻フアナ・デ・ネオブルゴたちの住居になりました。
    その後、王室の牢獄や軍司令部、絹物商の工房など多目的に利用されることになり、最終的には軍隊の士官学校になりました。また数回の火事にも見舞われています。1710年の王位継承戦争で焼けた時には、ベントゥラ・ロドリゲスの指揮で修復されました。また、独立戦争の時には2度焼き討ちされ、その後も自然発生の火災に遭っています。1936年のスペイン内戦ではフランコ軍がここに72日間に亘って籠城し、地下には立て籠った跡があるそうです。こうした点では、性質的にはパリのコンシェルジュリーを彷彿とさせるものがあります。
    アルカサルの再建は1940年に始まり、1961年、フアン・デ・アバロスの手によって落成式を迎えました。何年間も軍隊博物館の一部を引き受けてきましたが、現在は全て引き取られ、階上にはカスティーリャ・ラ・マンチャ州立図書館が併設されています。また、19世紀後期には軍の士官学校だったこともあり、スペイン軍人の聖地にもなっています。

  • 展望台<br />タホ川の対岸に小さく見える白っぽい城郭がサン・セルバンド城です。この城は、タホ川が作る肥沃な平原を見下ろす高台に建っています。ここは、トレド以南へ行くために必ず通らなければならなかったアルカンタラ橋の直ぐ上にあり、トレドの関所として重要な役割を果たしました。<br />元々イスラム教徒が造った城砦ですが、荒廃し放置されていたため、何度も修復されています。城砦の形は長方形をし、城壁は銃眼付き胸壁を備え、丸い空洞の塔が3本、中央入口には銃眼や石落としを持つスペースが残されており、猛々しい戦の時代の雰囲気を今に伝えているそうです。<br />アルフォンソ6世の弟に当たるレオン王サンチョ2世に仕えていたエル・シドが、弟を破って王となったアルフォンソ6世と和解する直前、ここを徹夜で死守したと語り継がれる城砦です。一時期テンプル教団が管理したようですが、1212年のナバス・デ・トロサの戦いでカトリックが勝利した後は、関所や防衛としての役割は薄れ、徐々に忘れら去られていきました。その後、ペドロ2世とその異母兄弟エンリケによる兄弟戦争に参戦した党派たちがここを占拠し、エンリケの支持者だったドン・ペドロ・テノリオ司教によって再建されています。16世紀には再び荒廃しましたが、1945年に城砦の外観や周辺、中世の様式が見直され、青少年学校の宿舎として再建され現在に至っています。

    展望台
    タホ川の対岸に小さく見える白っぽい城郭がサン・セルバンド城です。この城は、タホ川が作る肥沃な平原を見下ろす高台に建っています。ここは、トレド以南へ行くために必ず通らなければならなかったアルカンタラ橋の直ぐ上にあり、トレドの関所として重要な役割を果たしました。
    元々イスラム教徒が造った城砦ですが、荒廃し放置されていたため、何度も修復されています。城砦の形は長方形をし、城壁は銃眼付き胸壁を備え、丸い空洞の塔が3本、中央入口には銃眼や石落としを持つスペースが残されており、猛々しい戦の時代の雰囲気を今に伝えているそうです。
    アルフォンソ6世の弟に当たるレオン王サンチョ2世に仕えていたエル・シドが、弟を破って王となったアルフォンソ6世と和解する直前、ここを徹夜で死守したと語り継がれる城砦です。一時期テンプル教団が管理したようですが、1212年のナバス・デ・トロサの戦いでカトリックが勝利した後は、関所や防衛としての役割は薄れ、徐々に忘れら去られていきました。その後、ペドロ2世とその異母兄弟エンリケによる兄弟戦争に参戦した党派たちがここを占拠し、エンリケの支持者だったドン・ペドロ・テノリオ司教によって再建されています。16世紀には再び荒廃しましたが、1945年に城砦の外観や周辺、中世の様式が見直され、青少年学校の宿舎として再建され現在に至っています。

  • 展望台<br />観光用の「ソコトレン(Zoco Tren)」という列車型のミニ・バスです。三角形をしたソコドベール広場の薬局前に発着場があります。30分毎に発車するトレインは、足では回りきれないトレド旧市街の対岸をゆっくり周って壮大な風景を愉しませてくれる、トレド観光の人気アトラクションです。<br />

    展望台
    観光用の「ソコトレン(Zoco Tren)」という列車型のミニ・バスです。三角形をしたソコドベール広場の薬局前に発着場があります。30分毎に発車するトレインは、足では回りきれないトレド旧市街の対岸をゆっくり周って壮大な風景を愉しませてくれる、トレド観光の人気アトラクションです。

  • サン・マルティン橋(車窓)<br />トレド防衛の要衝に当たるため、橋の両端はこのように物々しく城塞化されており、城壁や塔の上には弓や銃で迎撃し易いように凹凸部が付与されています。<br />ヨーロッパ風であれば直角の凹凸部だけですが、イスラム風は凸の上にさらに三角帽子(△)が載せられるのが特徴です。両端にある六角形の塔は、城内側は16世紀に造られたものだそうです。<br />現在は、歩行者専用の橋になっています。

    サン・マルティン橋(車窓)
    トレド防衛の要衝に当たるため、橋の両端はこのように物々しく城塞化されており、城壁や塔の上には弓や銃で迎撃し易いように凹凸部が付与されています。
    ヨーロッパ風であれば直角の凹凸部だけですが、イスラム風は凸の上にさらに三角帽子(△)が載せられるのが特徴です。両端にある六角形の塔は、城内側は16世紀に造られたものだそうです。
    現在は、歩行者専用の橋になっています。

  • サン・マルティン橋(車窓)<br />水道橋を彷彿とさせるアーチの姿が優美な橋ですが、その先は要塞と門による2重の防御が備えられた鉄壁の砦です。<br />現在の橋は13世紀にゴシック様式で建設された堅牢な石橋ですが、イスラム文化の面影を色濃く残した造りです。元々あった橋は、1165年に建設されたものと推測されています。しかし建造の200年後、カスティーリャの王位を巡るペドロ1世とエンリケ2世の兄弟戦争(1366年)の際、中央のアーチの部分が破壊され、大司教テノリオによって修復されて今の姿を留めています。<br />余談ですが、このタホ川はイベリア半島で最も長く、全長1008kmあります。トレドでは流れが大きく湾曲し、それが奏功して天然の要塞都市として古くから栄えてきました。このタホ川は、ポルトガルではテージョ川と名前を替え、リスボンを経由して大西洋へと注いでいます。スペイン国土内では約700kmを占め、ポルトガルでも約300kmあります。

    サン・マルティン橋(車窓)
    水道橋を彷彿とさせるアーチの姿が優美な橋ですが、その先は要塞と門による2重の防御が備えられた鉄壁の砦です。
    現在の橋は13世紀にゴシック様式で建設された堅牢な石橋ですが、イスラム文化の面影を色濃く残した造りです。元々あった橋は、1165年に建設されたものと推測されています。しかし建造の200年後、カスティーリャの王位を巡るペドロ1世とエンリケ2世の兄弟戦争(1366年)の際、中央のアーチの部分が破壊され、大司教テノリオによって修復されて今の姿を留めています。
    余談ですが、このタホ川はイベリア半島で最も長く、全長1008kmあります。トレドでは流れが大きく湾曲し、それが奏功して天然の要塞都市として古くから栄えてきました。このタホ川は、ポルトガルではテージョ川と名前を替え、リスボンを経由して大西洋へと注いでいます。スペイン国土内では約700kmを占め、ポルトガルでも約300kmあります。

  • ビサグラ門<br />この門は、イスラム支配時代に築かれたものと伝わり、トレド市街最古の門です。ビサグラ新門と区別するため、「アルフォンソ6世門」とも呼ばれた城門です。アルフォンソ6世がトレドを奪還した際、この門から市街に入城したため、彼の名が付けられています。アラブ語の「バブ・アル・シャグラ」、つまり「聖なる門」が語源だそうです。<br />ほぼ原形を留めているそうですが、真っ直ぐだった入口は13世紀のカルロス5世とフェリペ2世の治世にアロンソ・デ・コバルビアスの設計によりL字型に改修され、前方に立つカリファ・スタイルの塔が増築されています。ファサードの表側には丸型アーチで囲まれたアラブ建築独特の馬蹄形アーチがあり、そこには西ゴート時代の模様が残され、アーチの中には石杭が通されています。また、紅大理石には小さな太陽と月が彫られています。<br />上段の大小3つのアーチと窓開口部は、切り石の上に粗石積みと煉瓦を積み重ね、敵の侵入を防ぐために内部に鉄柵が導入してあり、往時ムデハル様式のリフォームが発達していたことを窺わせます。

    ビサグラ門
    この門は、イスラム支配時代に築かれたものと伝わり、トレド市街最古の門です。ビサグラ新門と区別するため、「アルフォンソ6世門」とも呼ばれた城門です。アルフォンソ6世がトレドを奪還した際、この門から市街に入城したため、彼の名が付けられています。アラブ語の「バブ・アル・シャグラ」、つまり「聖なる門」が語源だそうです。
    ほぼ原形を留めているそうですが、真っ直ぐだった入口は13世紀のカルロス5世とフェリペ2世の治世にアロンソ・デ・コバルビアスの設計によりL字型に改修され、前方に立つカリファ・スタイルの塔が増築されています。ファサードの表側には丸型アーチで囲まれたアラブ建築独特の馬蹄形アーチがあり、そこには西ゴート時代の模様が残され、アーチの中には石杭が通されています。また、紅大理石には小さな太陽と月が彫られています。
    上段の大小3つのアーチと窓開口部は、切り石の上に粗石積みと煉瓦を積み重ね、敵の侵入を防ぐために内部に鉄柵が導入してあり、往時ムデハル様式のリフォームが発達していたことを窺わせます。

  • 城壁<br />旧市街を取り囲む攻撃的な形をした城壁です。ここを除く三方はタホ川という天然の堀濠に囲まれているのですが、こちらの北側だけはこうした城壁で防衛しています。<br />城壁が造られた年代は、形で見分けることができます。イスラム時代のものは角型、レコンキスタ以降は曲線状になっています。

    城壁
    旧市街を取り囲む攻撃的な形をした城壁です。ここを除く三方はタホ川という天然の堀濠に囲まれているのですが、こちらの北側だけはこうした城壁で防衛しています。
    城壁が造られた年代は、形で見分けることができます。イスラム時代のものは角型、レコンキスタ以降は曲線状になっています。

  • エスカレータ<br />ここからは台地に広がる旧市街まで、長い何段ものエスカレータを乗り継ぎます。古都の街にエスカレータが整備されているとは吃驚ですが、古都の風景を損なわないように壁で隠している「おもてなし」の気持ちが心憎いですね!<br />これらのエスカレータは、スペインを代表する建築家エリアス・トーレスとホセ・A・マルティネスのデザインによるものです。<br />上に見られる建物は、19世紀に建てられた州会議事堂です。この建物の中に観光案内所が入っています。

    エスカレータ
    ここからは台地に広がる旧市街まで、長い何段ものエスカレータを乗り継ぎます。古都の街にエスカレータが整備されているとは吃驚ですが、古都の風景を損なわないように壁で隠している「おもてなし」の気持ちが心憎いですね!
    これらのエスカレータは、スペインを代表する建築家エリアス・トーレスとホセ・A・マルティネスのデザインによるものです。
    上に見られる建物は、19世紀に建てられた州会議事堂です。この建物の中に観光案内所が入っています。

  • サンタ・レオカディア教会とサント・ドミンゴ・エル・アンディグオ教会<br />手前がサンタ・レオカディア教会の鐘塔、後方がサント・ドミンゴ・エル・アンディグオ教会の建物になります。<br />サンタ・レオカディア教会はトレドの守護聖人サンタ・レオカディアに捧げられたもので、言い伝えによると彼自身の生家だそうです。13世紀の建立とされていますが、鐘塔や入口、後陣など教会の最も古い部分は11世紀頃のムデハル様式が残されています。<br />18世紀終期、カルロス9世の妻で敬虔なカトリックのマリア・ルイサ・デ・パルマ女王により、教会は現在の姿に改築されています。サン・イルデフォンソ枢機卿の母親による言い伝えでは、女子修道院の敬虔な信者が12世紀にここに住んでいたそうです。<br />サント・ドミンゴ・エル・アンディグオ教会は、トレドに無血入場したアルフォンソ6世が建てた、城内最古の修道院です。現在のサント・ドミンゴ・デ・シロスのシトー会修道院として創立されたのは1577年のことです。ニコラス・デ・ベルガラが設計したルネッサンスのマニエリスム様式で、フアン・デ・エレラがさらに磨きを加えて完成させています。この地には、それ以前のサン・イルデフォンソ時代(1085年頃)の修道院がありました。<br />祭壇の全ての絵画は、参事会員のディエゴ・デル・カスティージョ卿がスペインに連れて来た画家エル・グレコが担当しました。残されているのは2服のみで、大祭壇の『サント・フアネス』と側廊の『サン・イルデフォンソの目の前での復活』です。また、書類保管所の書棚には、数々の古文書が残され、グレコの署名がある契約書も残されているそうです。<br />グレコゆかりの教会であり、彼の遺体はこの教会の地下で安らかに眠っています。

    サンタ・レオカディア教会とサント・ドミンゴ・エル・アンディグオ教会
    手前がサンタ・レオカディア教会の鐘塔、後方がサント・ドミンゴ・エル・アンディグオ教会の建物になります。
    サンタ・レオカディア教会はトレドの守護聖人サンタ・レオカディアに捧げられたもので、言い伝えによると彼自身の生家だそうです。13世紀の建立とされていますが、鐘塔や入口、後陣など教会の最も古い部分は11世紀頃のムデハル様式が残されています。
    18世紀終期、カルロス9世の妻で敬虔なカトリックのマリア・ルイサ・デ・パルマ女王により、教会は現在の姿に改築されています。サン・イルデフォンソ枢機卿の母親による言い伝えでは、女子修道院の敬虔な信者が12世紀にここに住んでいたそうです。
    サント・ドミンゴ・エル・アンディグオ教会は、トレドに無血入場したアルフォンソ6世が建てた、城内最古の修道院です。現在のサント・ドミンゴ・デ・シロスのシトー会修道院として創立されたのは1577年のことです。ニコラス・デ・ベルガラが設計したルネッサンスのマニエリスム様式で、フアン・デ・エレラがさらに磨きを加えて完成させています。この地には、それ以前のサン・イルデフォンソ時代(1085年頃)の修道院がありました。
    祭壇の全ての絵画は、参事会員のディエゴ・デル・カスティージョ卿がスペインに連れて来た画家エル・グレコが担当しました。残されているのは2服のみで、大祭壇の『サント・フアネス』と側廊の『サン・イルデフォンソの目の前での復活』です。また、書類保管所の書棚には、数々の古文書が残され、グレコの署名がある契約書も残されているそうです。
    グレコゆかりの教会であり、彼の遺体はこの教会の地下で安らかに眠っています。

  • クエスタ・コルチェテ付近<br />素材の煉瓦が剥きだしにされた建物の脇を通り過ぎると、忽ち中世へとタイムスリップです。トレドの旧市街はこうした細い道がほとんどで、道も入り組んでいて迷路さながらの散策が愉しめます。道の両脇には古風な建物が隙間なく整然と並び、絵になる通りや街並みの連続です。<br />しかし中には車と人がすれ違うだけの充分なスペースのない道もあります。それでも生活用道路ですので、車は我が物顔で進入してきます。そんな場合はどうするか?観光ガイドさん曰く、「後方から車が来た場合は、道を譲らないでください」とのこと。これは車が数珠繋ぎになっているとず~っと車がこなくなるまで待つことになるからだそうです。<br />因みにスペインは、世界第4位の自動車輸出大国です。

    クエスタ・コルチェテ付近
    素材の煉瓦が剥きだしにされた建物の脇を通り過ぎると、忽ち中世へとタイムスリップです。トレドの旧市街はこうした細い道がほとんどで、道も入り組んでいて迷路さながらの散策が愉しめます。道の両脇には古風な建物が隙間なく整然と並び、絵になる通りや街並みの連続です。
    しかし中には車と人がすれ違うだけの充分なスペースのない道もあります。それでも生活用道路ですので、車は我が物顔で進入してきます。そんな場合はどうするか?観光ガイドさん曰く、「後方から車が来た場合は、道を譲らないでください」とのこと。これは車が数珠繋ぎになっているとず~っと車がこなくなるまで待つことになるからだそうです。
    因みにスペインは、世界第4位の自動車輸出大国です。

  • コレヒオ・ドンセージャス通り<br />こうした一寸したトンネルのような所を潜ります。<br />現地ガイドさん曰く、「ここを通る時は、壊れてこないかといつも冷や冷やする」とのこと。確かにスリリングなトンネルです。<br />

    コレヒオ・ドンセージャス通り
    こうした一寸したトンネルのような所を潜ります。
    現地ガイドさん曰く、「ここを通る時は、壊れてこないかといつも冷や冷やする」とのこと。確かにスリリングなトンネルです。

  • ユダヤ人街<br />クルス通りとプラス通りが交差した所にある、ユダヤ人街です。セビリアのユダヤ人街との大きな違いは、壁が白塗りされていないことです。この家の角には「BARRIO DE LA JUDERIA=ユダヤ人街」と書かれた文字タイルとダビデの星(六芒星)のマークが燦然と輝いています。ここに住むおじいさんは、名物ユダヤ人だそうで、道を尋ねれば観光案内まで引き受けてくれるそうです。 <br />この先から、人しか入れないエキゾチックな細い路地を辿ります。

    ユダヤ人街
    クルス通りとプラス通りが交差した所にある、ユダヤ人街です。セビリアのユダヤ人街との大きな違いは、壁が白塗りされていないことです。この家の角には「BARRIO DE LA JUDERIA=ユダヤ人街」と書かれた文字タイルとダビデの星(六芒星)のマークが燦然と輝いています。ここに住むおじいさんは、名物ユダヤ人だそうで、道を尋ねれば観光案内まで引き受けてくれるそうです。
    この先から、人しか入れないエキゾチックな細い路地を辿ります。

  • ファティマの手<br />この通りは、人が通れるくらいの幅しかなく、ジグザグの迷路状態です。こうした道も各所にあるそうで、日本で例えるなら京都の先斗町とか広島の尾道の路地のイメージです。<br />かつてこの辺りがムーア人の居住区だった経緯もあり、ドアノッカーには「ファティマの手」が付けられ、イスラム文化が感じられます。現在のスペイン人の90%はカトリック教徒だそうですが、このようにさりげなくイスラム文化に出会えるところがスペインの面白さです。<br />ファティマとは、預言者ムハンマド(マホメット)の4女として生まれ、4代目カリフ(マホメットの後継者)であるアリに嫁いだ女性の名です。生涯を社会奉仕に尽し、慈悲深く、イスラム教徒にとっては理想の女性だそうです。<br />そのファティマの手を象ったものを持つことで、彼女の救いの手が差し伸べられると信じられています。お守りや魔除けとしてマグレブ(日の沈む国)の国々で広く用いられ、女性の装身具やドアノッカーとして用いられています。この5本の指をイスラム教の五柱/ユダヤ教の五書として意味付けてもおり、厳格な偶像崇拝禁止のイスラム教徒の中で生き延びたお守りとして貴重なものです。人は宗教を問わず、こうしたものにすがる宿命なのかもしれません。<br />帰国後調べてみると、「ファティマの手」と呼ぶのはイスラム教だけのようです。ユダヤ教ではモーセの姉「ミリアムの手」、イスラエルやパレスチナ周辺のキリスト教徒は「聖母マリアの手」と呼ぶようです。誰の手にしろ、女性の手であることは共通しているようです。 <br />ファティマに関する伝説には、次のようなものが挙げられます。<br />彼女がお菓子を作っていた時、夫アリが新しい花嫁を連れて帰宅しました。悲しみのあまり手にした木製のヘラが落ちたのにも気付かず、彼女はそのまま素手でかき混ぜ続けました。それを見た夫は彼女の所へ駆け寄り、大声で叫びました。すると我に返った彼女に、火傷の激痛が走りました。この話が「根気」をもたらすと信じられています。<br />話は続き、その花嫁と夫の姿を彼女は2階の小さな部屋の穴から盗み見していました。すると彼女の涙が花嫁に寄り添う夫の肩にこぼれ落ちました。それで彼は、この結婚を見合わせることにしました。この話から、「保護」や「同情」をもたらすと信じられています。<br />また、夫と2人の息子が聖戦に旅立つ際、彼女は両手に食紅を付けてお別れのハグをしました。すると彼らの純白の衣服に彼女の手形が付き、それまで芳しくなかった戦いが彼らが参戦したとたんに形勢逆転し、彼らや味方の兵士が傷つくことも殺されることもなくなりました。この話から、「幸運」をもたらすと信じられています。<br />彼女が雨乞いすると砂漠にも雨が降ったと言われ、災害・不幸・邪の眼を防ぐ力を備えた女性として、また誠実で信心深い女性として人々から愛され続けています。

    ファティマの手
    この通りは、人が通れるくらいの幅しかなく、ジグザグの迷路状態です。こうした道も各所にあるそうで、日本で例えるなら京都の先斗町とか広島の尾道の路地のイメージです。
    かつてこの辺りがムーア人の居住区だった経緯もあり、ドアノッカーには「ファティマの手」が付けられ、イスラム文化が感じられます。現在のスペイン人の90%はカトリック教徒だそうですが、このようにさりげなくイスラム文化に出会えるところがスペインの面白さです。
    ファティマとは、預言者ムハンマド(マホメット)の4女として生まれ、4代目カリフ(マホメットの後継者)であるアリに嫁いだ女性の名です。生涯を社会奉仕に尽し、慈悲深く、イスラム教徒にとっては理想の女性だそうです。
    そのファティマの手を象ったものを持つことで、彼女の救いの手が差し伸べられると信じられています。お守りや魔除けとしてマグレブ(日の沈む国)の国々で広く用いられ、女性の装身具やドアノッカーとして用いられています。この5本の指をイスラム教の五柱/ユダヤ教の五書として意味付けてもおり、厳格な偶像崇拝禁止のイスラム教徒の中で生き延びたお守りとして貴重なものです。人は宗教を問わず、こうしたものにすがる宿命なのかもしれません。
    帰国後調べてみると、「ファティマの手」と呼ぶのはイスラム教だけのようです。ユダヤ教ではモーセの姉「ミリアムの手」、イスラエルやパレスチナ周辺のキリスト教徒は「聖母マリアの手」と呼ぶようです。誰の手にしろ、女性の手であることは共通しているようです。
    ファティマに関する伝説には、次のようなものが挙げられます。
    彼女がお菓子を作っていた時、夫アリが新しい花嫁を連れて帰宅しました。悲しみのあまり手にした木製のヘラが落ちたのにも気付かず、彼女はそのまま素手でかき混ぜ続けました。それを見た夫は彼女の所へ駆け寄り、大声で叫びました。すると我に返った彼女に、火傷の激痛が走りました。この話が「根気」をもたらすと信じられています。
    話は続き、その花嫁と夫の姿を彼女は2階の小さな部屋の穴から盗み見していました。すると彼女の涙が花嫁に寄り添う夫の肩にこぼれ落ちました。それで彼は、この結婚を見合わせることにしました。この話から、「保護」や「同情」をもたらすと信じられています。
    また、夫と2人の息子が聖戦に旅立つ際、彼女は両手に食紅を付けてお別れのハグをしました。すると彼らの純白の衣服に彼女の手形が付き、それまで芳しくなかった戦いが彼らが参戦したとたんに形勢逆転し、彼らや味方の兵士が傷つくことも殺されることもなくなりました。この話から、「幸運」をもたらすと信じられています。
    彼女が雨乞いすると砂漠にも雨が降ったと言われ、災害・不幸・邪の眼を防ぐ力を備えた女性として、また誠実で信心深い女性として人々から愛され続けています。

  • サント・トメ(聖トマス)教会 モサベラの塔<br />サン・ロマン教会の塔に似た現在トレドに残る最も素晴らしいムデハル様式の「モサベラの塔」です。開口部のある頂上は上下2段になっており、その間に5列に並んだ馬蹄形アーケードがカラフルな陶製の小柱で仕切られた一層を挟んでいます。上段には馬蹄形アーチの開口窓が3つ、下段には2つあります。他の塔と異なるのは、陶製の小柱は、陶器で有名なタラベラ・デ・レイナで造られているということです。<br />

    サント・トメ(聖トマス)教会 モサベラの塔
    サン・ロマン教会の塔に似た現在トレドに残る最も素晴らしいムデハル様式の「モサベラの塔」です。開口部のある頂上は上下2段になっており、その間に5列に並んだ馬蹄形アーケードがカラフルな陶製の小柱で仕切られた一層を挟んでいます。上段には馬蹄形アーチの開口窓が3つ、下段には2つあります。他の塔と異なるのは、陶製の小柱は、陶器で有名なタラベラ・デ・レイナで造られているということです。

  • サント・トメ教会<br />「トメさん」の教会ではありません。スペイン語「トメ」は「トマス」を意味しています。<br />元々はイスラム教のモスクだったこの教会は、アルフォンソ6世がトレドを陥落した後、テンプル教団によって建てられ、14世紀にはゴンサロ・ルイス・デ・トレド(後のオルガス伯爵)が修復しました。ですから、そこかしこに異文化が融合したムデハル様式を見ることができます。教会内部は寄木造りの天井や多辺形のアーチ、アラベスク・タイルに覆われた壁など、細密な技巧に吃驚です。特に、教会の塔の美しさは群を抜いています。<br />しかし西ゴート時代の柱頭も残されており、その頃から教会だった可能性も拭えません。一方、14世紀の修復は、新しい時代の持ち主たちの芸術的な好みの変化によってほとんど残されていないそうです。教会の身廊は3廊式で、ルネサンス時代の丸天井に蓋われた交差廊と多角形の後陣があります。ツアーでは、教会は見学せず、エル・グレコの絵画だけ見てお終いです。<br />入口方向をよく観ると、オルガス伯の埋葬に描かれているグレコの息子が入口を指し示しています。<br />余談ですが、聖トマスは、『ヨハネによる福音書』によると、情熱はあるが、イエスの真意を理解しない人物とされています。例えば、イエスが復活したという他の使徒たちの言葉を信じず、イエスの脇腹の傷口に自分の手を差し込んで確かめたと伝わっています。これを西欧では「疑い深いトマス」と呼んでいます。この故事は後世、イエスの人性を示すエピソードとして引用されてきました。また、イエスの神性を証するものとも解釈されています。

    サント・トメ教会
    「トメさん」の教会ではありません。スペイン語「トメ」は「トマス」を意味しています。
    元々はイスラム教のモスクだったこの教会は、アルフォンソ6世がトレドを陥落した後、テンプル教団によって建てられ、14世紀にはゴンサロ・ルイス・デ・トレド(後のオルガス伯爵)が修復しました。ですから、そこかしこに異文化が融合したムデハル様式を見ることができます。教会内部は寄木造りの天井や多辺形のアーチ、アラベスク・タイルに覆われた壁など、細密な技巧に吃驚です。特に、教会の塔の美しさは群を抜いています。
    しかし西ゴート時代の柱頭も残されており、その頃から教会だった可能性も拭えません。一方、14世紀の修復は、新しい時代の持ち主たちの芸術的な好みの変化によってほとんど残されていないそうです。教会の身廊は3廊式で、ルネサンス時代の丸天井に蓋われた交差廊と多角形の後陣があります。ツアーでは、教会は見学せず、エル・グレコの絵画だけ見てお終いです。
    入口方向をよく観ると、オルガス伯の埋葬に描かれているグレコの息子が入口を指し示しています。
    余談ですが、聖トマスは、『ヨハネによる福音書』によると、情熱はあるが、イエスの真意を理解しない人物とされています。例えば、イエスが復活したという他の使徒たちの言葉を信じず、イエスの脇腹の傷口に自分の手を差し込んで確かめたと伝わっています。これを西欧では「疑い深いトマス」と呼んでいます。この故事は後世、イエスの人性を示すエピソードとして引用されてきました。また、イエスの神性を証するものとも解釈されています。

  • サント・トメ教会<br />入口を入って右手奥の壁には、エル・グレコ作『オルガス伯爵の埋葬』(1586~88年)があります。この名画のおかげで、トレドにある教会の中では最も観光客数の多い教会になっており、絵画は同伯爵の墓の傍に掛けられています。大きさは、縦4.8m、横3.6mあります。グレコは、現在はベラスケスやゴヤと並んでスペイン絵画の3大巨匠として知られ、近代スペイン絵画の祖とも称されますが、実は彼の画法はフェリペ2世には好まれなかったようです。ですから、往時の画家の最高到達点とも言える王室画家にはなれていません。<br />この教会の至宝『オルガス伯爵の埋葬』は、厳重な規制と管理の下に公開されています。トレド住民に対する裁判でサント・トメ教会の主任司祭が勝利したことを祝して描かれた絵画で、葬式の行列の体裁をなした登場人物たちの肖像画です。オルガス伯爵ゴンサロ・ルイス・デ・トレドが亡くなったのは、グレコの生きていた時代よりも200年以上前のことでしたが、伯爵は、町の貧しい人々を保護したり、荒れ果てていたサント・トメ教会を再興したり、トレドでは非常に評価の高い人物だったそうです。<br />1312年に亡くなったオルガス伯爵の埋葬の折、聖セバスティアンと聖アウグスティンが亡骸を葬るために出現して起こった「軌跡」を描いています。何が「奇跡」かと言うと、通常、カトリックにおいて天国に逝くには必ず煉獄という天国と地獄の間にある浄罪地獄で罪を清めなければならないのですが、オルガス伯爵は多くの善行のために直ちに天国に迎え入れられたのが「奇跡」だそうです。<br />天上界と人間界を上下に描き、その時代を風刺した絵画です。絵の上半分には、伯爵の霊魂を迎え入れようとする脇腹に血を滲ませているイエスやどの人物よりも大きく描かれたマリアがいます。そして、天使が抱える伯爵の魂が何処へ行くのか問われたペテロは、天国の入口の門の鍵を手にして天国へ召されることを暗示するストーリーになっています。<br />下半分は、セバスティアン(左)と聖アウグスティン(右)に埋葬される伯爵が描かれ、その周りを囲む黒服の人たちは、この絵が描かれた時代に生きていた名士たちです。また、真ん中やや左で手を広げている髭の男は、プラド美術館にある『胸に手を置く騎士の肖像』の人です。その左隣でこちらを凝視しているのがグレコです。またグレコは、独身だったはずですが、息子も登場させています。左端で松明を持つのが息子です。息子が指さす方向にオルガス伯爵が眠るお墓があります。<br />葬儀の群像描写の中には、グレコの自己主張が込められています。「あの、ギリシア人」と呼ばれ続けたグレコが、息子のポケットから覗かせたハンカチーフに「ドメニコス・テオトコプロス」と本名を刺繍しているのも自己主張のひとつです。聖人たちの衣服は金色に輝いていますが、全体の印象は深いグレーを基調に色調が沈んでもの悲しさを誘います。埋葬の場面ゆえの演出とも言えますが、この絵を描いた頃のグレコの心象表現ではなかったのか・・・。<br />この写真は、次のサイトから借用させていただきました。<br />http://lempicka7art.blog.fc2.com/blog-entry-96.html

    サント・トメ教会
    入口を入って右手奥の壁には、エル・グレコ作『オルガス伯爵の埋葬』(1586~88年)があります。この名画のおかげで、トレドにある教会の中では最も観光客数の多い教会になっており、絵画は同伯爵の墓の傍に掛けられています。大きさは、縦4.8m、横3.6mあります。グレコは、現在はベラスケスやゴヤと並んでスペイン絵画の3大巨匠として知られ、近代スペイン絵画の祖とも称されますが、実は彼の画法はフェリペ2世には好まれなかったようです。ですから、往時の画家の最高到達点とも言える王室画家にはなれていません。
    この教会の至宝『オルガス伯爵の埋葬』は、厳重な規制と管理の下に公開されています。トレド住民に対する裁判でサント・トメ教会の主任司祭が勝利したことを祝して描かれた絵画で、葬式の行列の体裁をなした登場人物たちの肖像画です。オルガス伯爵ゴンサロ・ルイス・デ・トレドが亡くなったのは、グレコの生きていた時代よりも200年以上前のことでしたが、伯爵は、町の貧しい人々を保護したり、荒れ果てていたサント・トメ教会を再興したり、トレドでは非常に評価の高い人物だったそうです。
    1312年に亡くなったオルガス伯爵の埋葬の折、聖セバスティアンと聖アウグスティンが亡骸を葬るために出現して起こった「軌跡」を描いています。何が「奇跡」かと言うと、通常、カトリックにおいて天国に逝くには必ず煉獄という天国と地獄の間にある浄罪地獄で罪を清めなければならないのですが、オルガス伯爵は多くの善行のために直ちに天国に迎え入れられたのが「奇跡」だそうです。
    天上界と人間界を上下に描き、その時代を風刺した絵画です。絵の上半分には、伯爵の霊魂を迎え入れようとする脇腹に血を滲ませているイエスやどの人物よりも大きく描かれたマリアがいます。そして、天使が抱える伯爵の魂が何処へ行くのか問われたペテロは、天国の入口の門の鍵を手にして天国へ召されることを暗示するストーリーになっています。
    下半分は、セバスティアン(左)と聖アウグスティン(右)に埋葬される伯爵が描かれ、その周りを囲む黒服の人たちは、この絵が描かれた時代に生きていた名士たちです。また、真ん中やや左で手を広げている髭の男は、プラド美術館にある『胸に手を置く騎士の肖像』の人です。その左隣でこちらを凝視しているのがグレコです。またグレコは、独身だったはずですが、息子も登場させています。左端で松明を持つのが息子です。息子が指さす方向にオルガス伯爵が眠るお墓があります。
    葬儀の群像描写の中には、グレコの自己主張が込められています。「あの、ギリシア人」と呼ばれ続けたグレコが、息子のポケットから覗かせたハンカチーフに「ドメニコス・テオトコプロス」と本名を刺繍しているのも自己主張のひとつです。聖人たちの衣服は金色に輝いていますが、全体の印象は深いグレーを基調に色調が沈んでもの悲しさを誘います。埋葬の場面ゆえの演出とも言えますが、この絵を描いた頃のグレコの心象表現ではなかったのか・・・。
    この写真は、次のサイトから借用させていただきました。
    http://lempicka7art.blog.fc2.com/blog-entry-96.html

  • サント・トメ教会界隈<br />街を歩いていると武器屋と思しきショップが目に付きます。実はトレドは武具や刀剣の産地でも知られています。<br /><br />サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ修道院にはグレコのお墓があると記しましたが、その墓碑に友人が詩を捧げています。その人物は、ボストン美術館に肖像画のある詩人でフェリペ3世や4世に仕えた宮廷説教師説教師の修道士「オルテンシオ・フェリス・パラビシーノ」です。そこには「Creta le dio la vida y los pinceles/ Toledo mejor patria donde empieza/ a lograr con la muerte eternidades」とソネットの一節が刻まれ、この詩が物議を醸しています。<br />その意味は、一般的には「生誕地クレタが彼に生と絵筆を授け、より良き祖国トレドで彼は死と共に永遠に生き始める」と解釈されます。<br />しかし別バージョンがあり、la vida(生命)の後にコンマがあり、los pinceles(絵筆)はクレタではなくトレドにかかるという読み方です。クレタでイコン画家として出発したのは事実ですが、彼の才能の開花を促した、つまり真の絵筆を授けたのは30代半ばに移り住んだスペイン随一の宗教都市トレドに他ならないという解釈です。<br />かくして誰よりもスペイン的宗教精神を表現した画家グレコ像が形成され、継承されていく中、絵筆の贈り主を巡る議論が研究者の間で繰り広げられました。しかし1980年代以降、この議論はピタリと沈静化しました。その理由は、クレタでもトレドでもなく、その中間の時代に当たるイタリアでの修業時代が注目され始めたことです。その契機となったのは、グレコの旧蔵書であるウィトルウィウス著『建築十書』の発見と、そこに残されたルネッサンスやマニエリスムの美術理論を巡る自筆註釈の解読と分析でした。これらにより、グレコ様式の完成を支えたのが画家自身の信仰でもトレドの宗教風土でもなく、イタリア時代に培われた純粋に美学的関心であったことが暴かれたのです。<br />これで一件落着かと思いきや、暫くの沈黙を破り、2005年に難解な『建築十書』の自筆註釈を再検証して過去の分析に疑問を投げかける研究者が現れました。グレコのイタリア色の強い書き込みは、トレド移住から15年以上を経た1590年代前半と分析されたがそれは誤りで、実際には作品にもイタリア的要素が認められる1580年代前半以前に書かれたものだと反論したのです。つまり、スペイン的な後期様式の完成とは同時期のものではなく、それ以前のものであり、解釈は誤謬であるとの論調です。<br />これにより過去の分析結果の呪縛が解かれ、本格的に見直す起爆剤となったことは確かです。しかし個人的には、グレコの絵画には多面性が潜んでおり、クレタやイタリア、トレドのどれひとつを強調し過ぎても本質は見え難くなってしまうと思います。午前中、プラド美術館でグレコ作品を堪能した新鮮な感性がそう思わせます。

    サント・トメ教会界隈
    街を歩いていると武器屋と思しきショップが目に付きます。実はトレドは武具や刀剣の産地でも知られています。

    サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ修道院にはグレコのお墓があると記しましたが、その墓碑に友人が詩を捧げています。その人物は、ボストン美術館に肖像画のある詩人でフェリペ3世や4世に仕えた宮廷説教師説教師の修道士「オルテンシオ・フェリス・パラビシーノ」です。そこには「Creta le dio la vida y los pinceles/ Toledo mejor patria donde empieza/ a lograr con la muerte eternidades」とソネットの一節が刻まれ、この詩が物議を醸しています。
    その意味は、一般的には「生誕地クレタが彼に生と絵筆を授け、より良き祖国トレドで彼は死と共に永遠に生き始める」と解釈されます。
    しかし別バージョンがあり、la vida(生命)の後にコンマがあり、los pinceles(絵筆)はクレタではなくトレドにかかるという読み方です。クレタでイコン画家として出発したのは事実ですが、彼の才能の開花を促した、つまり真の絵筆を授けたのは30代半ばに移り住んだスペイン随一の宗教都市トレドに他ならないという解釈です。
    かくして誰よりもスペイン的宗教精神を表現した画家グレコ像が形成され、継承されていく中、絵筆の贈り主を巡る議論が研究者の間で繰り広げられました。しかし1980年代以降、この議論はピタリと沈静化しました。その理由は、クレタでもトレドでもなく、その中間の時代に当たるイタリアでの修業時代が注目され始めたことです。その契機となったのは、グレコの旧蔵書であるウィトルウィウス著『建築十書』の発見と、そこに残されたルネッサンスやマニエリスムの美術理論を巡る自筆註釈の解読と分析でした。これらにより、グレコ様式の完成を支えたのが画家自身の信仰でもトレドの宗教風土でもなく、イタリア時代に培われた純粋に美学的関心であったことが暴かれたのです。
    これで一件落着かと思いきや、暫くの沈黙を破り、2005年に難解な『建築十書』の自筆註釈を再検証して過去の分析に疑問を投げかける研究者が現れました。グレコのイタリア色の強い書き込みは、トレド移住から15年以上を経た1590年代前半と分析されたがそれは誤りで、実際には作品にもイタリア的要素が認められる1580年代前半以前に書かれたものだと反論したのです。つまり、スペイン的な後期様式の完成とは同時期のものではなく、それ以前のものであり、解釈は誤謬であるとの論調です。
    これにより過去の分析結果の呪縛が解かれ、本格的に見直す起爆剤となったことは確かです。しかし個人的には、グレコの絵画には多面性が潜んでおり、クレタやイタリア、トレドのどれひとつを強調し過ぎても本質は見え難くなってしまうと思います。午前中、プラド美術館でグレコ作品を堪能した新鮮な感性がそう思わせます。

  • トリニダー通り<br />正面にある端整なクーポラと右側にある建物の壁のごつごつした表情の対比がとても印象的な通りです。<br />独特の色彩を帯びたこの街をゆっくり歩き回れば、異邦人の琴線をくすぐる風景たちに巡り合えそうな予感がします。

    トリニダー通り
    正面にある端整なクーポラと右側にある建物の壁のごつごつした表情の対比がとても印象的な通りです。
    独特の色彩を帯びたこの街をゆっくり歩き回れば、異邦人の琴線をくすぐる風景たちに巡り合えそうな予感がします。

  • トレドと言えば天正少年使節団を忘れてはなりません。スペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが日本を訪れたのは、1549年のことでした。彼の布教活動で、支配者から庶民に至るまでキリスト教を信仰する者が広がりました。そんな中、キリシタン大名 大村純忠・大友義鎮・有馬晴信は、イエズス会宣教師の勧めでローマ教皇グレゴリウス13世とスペイン国王フェリペ2世のもとに、天正少年使節団を派遣しました。1582年に日本を離れた、伊東マンショ・千々石(ちじわ)ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアン一行は、その2年後にトレドを訪れています。偶然にも千々石ミゲルがトレドに着いて間もなく水泡を罹ったため、一行は20日間、トレドに滞留することになりました。その間、少年たちがカテドラル建築に驚き、タホ川の水を台地の上に汲み上げる揚水装置を見学しています。彼らは、その後ローマを訪れ、1590年に長崎に帰りました。しかしすでに「バテレン追放令」が発布され、彼らの多難な運命が待ち受けていたのでした。こうした時代に、日本から見れば世界の果てとも思える異国の地に、こうした少年たちが出かけて行って見聞を広めた姿に思い馳せながらトレドの街を彷徨いました。<br />

    トレドと言えば天正少年使節団を忘れてはなりません。スペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが日本を訪れたのは、1549年のことでした。彼の布教活動で、支配者から庶民に至るまでキリスト教を信仰する者が広がりました。そんな中、キリシタン大名 大村純忠・大友義鎮・有馬晴信は、イエズス会宣教師の勧めでローマ教皇グレゴリウス13世とスペイン国王フェリペ2世のもとに、天正少年使節団を派遣しました。1582年に日本を離れた、伊東マンショ・千々石(ちじわ)ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアン一行は、その2年後にトレドを訪れています。偶然にも千々石ミゲルがトレドに着いて間もなく水泡を罹ったため、一行は20日間、トレドに滞留することになりました。その間、少年たちがカテドラル建築に驚き、タホ川の水を台地の上に汲み上げる揚水装置を見学しています。彼らは、その後ローマを訪れ、1590年に長崎に帰りました。しかしすでに「バテレン追放令」が発布され、彼らの多難な運命が待ち受けていたのでした。こうした時代に、日本から見れば世界の果てとも思える異国の地に、こうした少年たちが出かけて行って見聞を広めた姿に思い馳せながらトレドの街を彷徨いました。

  • 象嵌細工ショップ<br />このショップでトイレをお借りします。<br />スペインを象徴する伝統工芸品のひとつが金や銀を使った象嵌細工「ダマスキナード」であり、トレド土産として知られています。線彫りした銅版に金・銀糸を手作業では嵌め込んだものです。<br />ダマスキナードという名は、チグリス・ユーフラテス川の流域、イスラム文化の中の最高の装飾工芸を育んだダマスカス(現在のシリア)の地名が由来です。金銀を巧みな技術で細工した装飾品は、トレドで大輪の花を咲かせ、貴重な伝統工芸品となりました。8~15世紀にイスラム文化や思想・宗教の影響を強く受けたトレドの中にあって、特に技術が継承され成長してきたのがダマスキナードです。<br />スペインではトレドの「ダマスキナード」と銀糸で多彩なデザインを形作っていくコルドバの「フィリグラナ細工」が有名であり、陶器同様アラブの伝統を受け継ぐ土産物として人気があります。

    象嵌細工ショップ
    このショップでトイレをお借りします。
    スペインを象徴する伝統工芸品のひとつが金や銀を使った象嵌細工「ダマスキナード」であり、トレド土産として知られています。線彫りした銅版に金・銀糸を手作業では嵌め込んだものです。
    ダマスキナードという名は、チグリス・ユーフラテス川の流域、イスラム文化の中の最高の装飾工芸を育んだダマスカス(現在のシリア)の地名が由来です。金銀を巧みな技術で細工した装飾品は、トレドで大輪の花を咲かせ、貴重な伝統工芸品となりました。8~15世紀にイスラム文化や思想・宗教の影響を強く受けたトレドの中にあって、特に技術が継承され成長してきたのがダマスキナードです。
    スペインではトレドの「ダマスキナード」と銀糸で多彩なデザインを形作っていくコルドバの「フィリグラナ細工」が有名であり、陶器同様アラブの伝統を受け継ぐ土産物として人気があります。

  • 象嵌細工ショップ<br />象嵌師さんが実演をしてくれます。<br />全てハンドメイドで、とても細かい作業です。<br />こうした値段が付けられるのも納得です。

    象嵌細工ショップ
    象嵌師さんが実演をしてくれます。
    全てハンドメイドで、とても細かい作業です。
    こうした値段が付けられるのも納得です。

  • リヤドロ・ショップ<br />スペインの工芸品で忘れてはならないものにリヤドロがあります。これはリヤドロの中でも最大級の作品だそうです。日本的に解釈すれば、七福神が乗った宝船といったところでしょうか?<br />リヤドロは、1950年代初期にホアン、ホセ、ビセンテという三兄弟がアルマセラという村の自宅の中庭にイスラム様式の窯を構えて小さな工房を営み、より完成度の高いポーセリン(白磁)作りを探求したのが始まりです。経験豊かな職人たちの手作業による微妙で繊細な装飾の花、豊かな表情やそのしぐさ、バランスと躍動感など、卓越した表現力と秘伝の優しい色合いで仕上げられているのが特徴です。<br />現在ではいくつもの施設や庭園が集まって2000人を超えるアーティストや職人が働くまでに成長し、ここからすべてのリヤドロ作品が創出され、世界120ヵ国以上に輸出されています。<br />その芸術的価値は世界中の美術館や博物館でも認められ、エルミタージュ美術館を始めとした世界有数の美術館などで所蔵、展示されています。

    リヤドロ・ショップ
    スペインの工芸品で忘れてはならないものにリヤドロがあります。これはリヤドロの中でも最大級の作品だそうです。日本的に解釈すれば、七福神が乗った宝船といったところでしょうか?
    リヤドロは、1950年代初期にホアン、ホセ、ビセンテという三兄弟がアルマセラという村の自宅の中庭にイスラム様式の窯を構えて小さな工房を営み、より完成度の高いポーセリン(白磁)作りを探求したのが始まりです。経験豊かな職人たちの手作業による微妙で繊細な装飾の花、豊かな表情やそのしぐさ、バランスと躍動感など、卓越した表現力と秘伝の優しい色合いで仕上げられているのが特徴です。
    現在ではいくつもの施設や庭園が集まって2000人を超えるアーティストや職人が働くまでに成長し、ここからすべてのリヤドロ作品が創出され、世界120ヵ国以上に輸出されています。
    その芸術的価値は世界中の美術館や博物館でも認められ、エルミタージュ美術館を始めとした世界有数の美術館などで所蔵、展示されています。

  • シウダー通り<br />これまで訪れた街の建物は比較的小さなものが多かったのですが、ここトレドは強固な花崗岩の岩盤の上にあるためか、建物の規模が他の街より大きいように思います。 <br />茶褐色の石と煉瓦の肌が独特の雰囲気を創り出しています。

    シウダー通り
    これまで訪れた街の建物は比較的小さなものが多かったのですが、ここトレドは強固な花崗岩の岩盤の上にあるためか、建物の規模が他の街より大きいように思います。 
    茶褐色の石と煉瓦の肌が独特の雰囲気を創り出しています。

  • シウダー通り<br />ここを通り抜けるとカテドラルの正面にあるアユンタミエント広場に出ます。

    シウダー通り
    ここを通り抜けるとカテドラルの正面にあるアユンタミエント広場に出ます。

  • サンタ・マリア・デ・トレド大聖堂(カテドラル)<br />スペインの教会は、大きさと重要度により、カテドラル(大聖堂)、イグレシア(教会)、エルミータ(礼拝堂)に大別され、カテドラルはいわば親玉的な存在です。大きさとしては世界で4番目です。因みに、1位:サンピエトロ、2位:セント・ポール大聖堂、3位:セビリア大聖堂の順になります。また、ブルゴス大聖堂やレオン大聖堂と共にスペイン・ゴシック様式の3大カテドラルとも称されています。荘厳な雰囲気を持つシャープな外観が印象的な大聖堂は、フランスのブルージュにあるサン・テチェンヌ大聖堂を参考に造られたとも言われますが、3世紀近くかけて造られたためにスペイン独自のムデハル様式も採り入れられ、独特の雰囲気が漂います。<br />ムデハルとはアラビア語で残留者を意味する「ムダッジャン」に由来し、生き延びるためにイスラム教からの改宗者として括られた者たちの総称です。カトリック支配との激しいアイデンティティの葛藤の中で育くまれた独自の様式です。スペイン建築の特徴は、フランス・ゴシック様式がこのムデハル様式と融合して煉瓦やタイルを用いたイスラム的幾何学模様「スペイン・ゴシック様式」で開花したことにあります。

    サンタ・マリア・デ・トレド大聖堂(カテドラル)
    スペインの教会は、大きさと重要度により、カテドラル(大聖堂)、イグレシア(教会)、エルミータ(礼拝堂)に大別され、カテドラルはいわば親玉的な存在です。大きさとしては世界で4番目です。因みに、1位:サンピエトロ、2位:セント・ポール大聖堂、3位:セビリア大聖堂の順になります。また、ブルゴス大聖堂やレオン大聖堂と共にスペイン・ゴシック様式の3大カテドラルとも称されています。荘厳な雰囲気を持つシャープな外観が印象的な大聖堂は、フランスのブルージュにあるサン・テチェンヌ大聖堂を参考に造られたとも言われますが、3世紀近くかけて造られたためにスペイン独自のムデハル様式も採り入れられ、独特の雰囲気が漂います。
    ムデハルとはアラビア語で残留者を意味する「ムダッジャン」に由来し、生き延びるためにイスラム教からの改宗者として括られた者たちの総称です。カトリック支配との激しいアイデンティティの葛藤の中で育くまれた独自の様式です。スペイン建築の特徴は、フランス・ゴシック様式がこのムデハル様式と融合して煉瓦やタイルを用いたイスラム的幾何学模様「スペイン・ゴシック様式」で開花したことにあります。

  • カテドラル<br />サンタ・マリア・デ・トレド大聖堂にはトレド大司教座が置かれています。トレド大司教はスペインカトリック教会の首位聖職者となり、セビリアの大聖堂とトップの座を争っています。ですから、どちらの都市へ行ってもスペイン最大のカテドラルは自分たちの都市にある聖堂だと答えが返ってきます。<br />しかしトレドの大聖堂はスペインのカトリックの総本山ですので、バチカン国旗の掲揚が許されています。大きさではセビリアに一歩譲ってはいますが、スペインのカトリック総本山という立場では逆転しています。<br />左側の建物が、大司教館です。

    カテドラル
    サンタ・マリア・デ・トレド大聖堂にはトレド大司教座が置かれています。トレド大司教はスペインカトリック教会の首位聖職者となり、セビリアの大聖堂とトップの座を争っています。ですから、どちらの都市へ行ってもスペイン最大のカテドラルは自分たちの都市にある聖堂だと答えが返ってきます。
    しかしトレドの大聖堂はスペインのカトリックの総本山ですので、バチカン国旗の掲揚が許されています。大きさではセビリアに一歩譲ってはいますが、スペインのカトリック総本山という立場では逆転しています。
    左側の建物が、大司教館です。

  • カテドラル 鐘楼<br />正面サファードの左にはさ92mのフランボワイヤン・ゴシック様式の荘厳な鐘楼が建てられ、その鐘楼には18トンにおよぶ大釣鐘が納められています。15世紀、建築家や彫刻家として名を馳せたフランドル出身のアネキン・デ・ブルセラスの手によって完成しました。<br />塔の構造は、大別して2つの形に分けられ、下部四角の4段の構造物とその上にスレート素材の小尖塔を持つ8角形の構造物からなります。最上部の3つの冠はローマ教皇が被ったものを象ったものだそうです。当初塔は左右対称に建てられる予定でしたが、地盤が軟弱だったために反対側は礼拝堂に変更されたそうです。

    カテドラル 鐘楼
    正面サファードの左にはさ92mのフランボワイヤン・ゴシック様式の荘厳な鐘楼が建てられ、その鐘楼には18トンにおよぶ大釣鐘が納められています。15世紀、建築家や彫刻家として名を馳せたフランドル出身のアネキン・デ・ブルセラスの手によって完成しました。
    塔の構造は、大別して2つの形に分けられ、下部四角の4段の構造物とその上にスレート素材の小尖塔を持つ8角形の構造物からなります。最上部の3つの冠はローマ教皇が被ったものを象ったものだそうです。当初塔は左右対称に建てられる予定でしたが、地盤が軟弱だったために反対側は礼拝堂に変更されたそうです。

  • カテドラル 礼拝堂ドーム<br />右側には、シスネロス大司教の命で造られたモサラベの典礼を復元した礼拝堂ドームがあり、最上部のゴシック・ルネッサンス様式のドームは1631年にエル・グレコの息子ホリヘ・マヌエルにより造られました。<br />色が三段階に分かれているのは、それぞれ建築された時代が違うからです。270年という気の遠くなるような時間をかけて造られているのですから石の色も変わって当然です。中間部は16世紀、下部は14世紀に造られたもので、各時代がしっくりと同居しています。<br />

    カテドラル 礼拝堂ドーム
    右側には、シスネロス大司教の命で造られたモサラベの典礼を復元した礼拝堂ドームがあり、最上部のゴシック・ルネッサンス様式のドームは1631年にエル・グレコの息子ホリヘ・マヌエルにより造られました。
    色が三段階に分かれているのは、それぞれ建築された時代が違うからです。270年という気の遠くなるような時間をかけて造られているのですから石の色も変わって当然です。中間部は16世紀、下部は14世紀に造られたもので、各時代がしっくりと同居しています。

  • カテドラル 免罪の門<br />アユンタミエント広場に面する正面ファサードには 3つの門(左側:棕櫚の葉の門もしくは地獄の門、中央:免罪の門、右側:裁きの門または公証人の門)があります。<br />中央にあるゴシック様式の「免罪の門」の上部には、18世紀に造られた「最後の晩餐」の彫像があります。パリのノートルダム大聖堂に倣ったもので、フランス・ゴシック様式の荘厳さが表れています。この正門を潜れるのは、国王一家とローマ教皇、司教座に就任した枢機卿に限られています。ですから、「王立の門」や「大司教の門」とも呼ばれています。

    カテドラル 免罪の門
    アユンタミエント広場に面する正面ファサードには 3つの門(左側:棕櫚の葉の門もしくは地獄の門、中央:免罪の門、右側:裁きの門または公証人の門)があります。
    中央にあるゴシック様式の「免罪の門」の上部には、18世紀に造られた「最後の晩餐」の彫像があります。パリのノートルダム大聖堂に倣ったもので、フランス・ゴシック様式の荘厳さが表れています。この正門を潜れるのは、国王一家とローマ教皇、司教座に就任した枢機卿に限られています。ですから、「王立の門」や「大司教の門」とも呼ばれています。

  • カテドラル 免罪の門<br />門扉には茶色の双頭の鷲の紋章が2つ並んでいますが、これはハプスブルグ家の紋章です。トレドの紋章は双頭の鷲とスペイン帝国の紋章を組み合わせたもので、カルロス5世が特権としてトレドに与えたものです。<br />

    カテドラル 免罪の門
    門扉には茶色の双頭の鷲の紋章が2つ並んでいますが、これはハプスブルグ家の紋章です。トレドの紋章は双頭の鷲とスペイン帝国の紋章を組み合わせたもので、カルロス5世が特権としてトレドに与えたものです。

  • カテドラル 免罪の門<br />「免罪の門」の上には18世紀に制作された「最後の晩餐」の彫像があります。イエスを囲むように12使徒の彫像が横一列に並び、どれも生き生きとした表情をしています。<br />さて、どれが裏切り者のユダなのでしょうか?

    カテドラル 免罪の門
    「免罪の門」の上には18世紀に制作された「最後の晩餐」の彫像があります。イエスを囲むように12使徒の彫像が横一列に並び、どれも生き生きとした表情をしています。
    さて、どれが裏切り者のユダなのでしょうか?

  • カテドラル 免罪の門<br />一番右端で壁にもたれて首をこちらに傾げているのがユダです。左手にはイエスを売ったお金、銀貨30枚が入れられた皮袋をしっかり握っています。<br />他の聖人のように頭にリングがないことからもユダと判ります。

    カテドラル 免罪の門
    一番右端で壁にもたれて首をこちらに傾げているのがユダです。左手にはイエスを売ったお金、銀貨30枚が入れられた皮袋をしっかり握っています。
    他の聖人のように頭にリングがないことからもユダと判ります。

  • カテドラル 免罪の門<br />免罪の門の頂点に君臨するのは、トレドの守護聖人サグラリオの聖母像です。左手に十字架、右手には棕櫚の葉を持っています。<br />「サグラリオ(Sagrario)」は、西語辞書によるとカトリック用語で(祭壇付近の)聖域とか(ホスチアh(hostia)を納める)聖櫃とあります。「主祭壇に祀られた聖母」と解釈していいのだと思います。

    カテドラル 免罪の門
    免罪の門の頂点に君臨するのは、トレドの守護聖人サグラリオの聖母像です。左手に十字架、右手には棕櫚の葉を持っています。
    「サグラリオ(Sagrario)」は、西語辞書によるとカトリック用語で(祭壇付近の)聖域とか(ホスチアh(hostia)を納める)聖櫃とあります。「主祭壇に祀られた聖母」と解釈していいのだと思います。

  • カテドラル<br />裁きの門または公証人の門と言われている門です。

    カテドラル
    裁きの門または公証人の門と言われている門です。

  • カテドラル 裁きの門または公証人の門<br />タンパンに彫られているのは「最後の審判」です。<br />これが「裁きの門」の名の由来でしょうか?

    カテドラル 裁きの門または公証人の門
    タンパンに彫られているのは「最後の審判」です。
    これが「裁きの門」の名の由来でしょうか?

  • カテドラル<br />棕櫚の葉の門もしくは地獄の門と呼ばれている門です。

    カテドラル
    棕櫚の葉の門もしくは地獄の門と呼ばれている門です。

  • カテドラル 棕櫚の葉の門もしくは地獄の門<br />こちらのタンパンは、星の形をしたものの中に人の顔が彫られた不思議なものです。<br />

    カテドラル 棕櫚の葉の門もしくは地獄の門
    こちらのタンパンは、星の形をしたものの中に人の顔が彫られた不思議なものです。

  • カテドラル 免罪の門<br />写真を撮っていると物売りがたどたどしい日本語でバナナの叩き売りの口上よろしくしゃべりだしました。「富士山高いよ、この本安いよ」、「司馬遼太郎、書いたよ」と司馬遼太郎が書いた本だと言い出しました。日本人が司馬遼太郎の名前に弱いのを知ってペテンなのか、本の題名は『魅惑の街トレド』と言います。司馬遼太郎の著書には旅行記もあるのですが、帰宅後調べてみました。<br />司馬遼太郎著『南蛮のみちⅡ』には、「ベンチにすわっていると、35、6の品のいい主婦がそこから出てきて1冊の本を売りつけた。街灯の淡いひかりでながめると、『魅惑の街トレド』とある。作者はファン・カンポス・パヨという人だが、おどろいたことに、日本語訳の本である。本というより写真を主とした小冊子で、ただ発行所も定価もない。さらに著者紹介も訳者の名もなく、本の正体としてはのっぺらぼうなものであった。しかし、トレドの ことが書かれているなら、反故でも読みたい心境だったから、立ち上がって、ズボンの尻のポッケに手をつっこみ、ペセタをとりだした。ガス灯の下で、彼女は影のように静かで、無表情でいる。私は、金をわたし、彼女はうけとった。まことに舞台的な光景だが、観客はこの黙劇をどう理解するだろう」とあります。<br />おやじの言っていたことは嘘ではありませんでした。確かに司馬遼太郎はこの本のことを「著書に書いていた」のです。

    カテドラル 免罪の門
    写真を撮っていると物売りがたどたどしい日本語でバナナの叩き売りの口上よろしくしゃべりだしました。「富士山高いよ、この本安いよ」、「司馬遼太郎、書いたよ」と司馬遼太郎が書いた本だと言い出しました。日本人が司馬遼太郎の名前に弱いのを知ってペテンなのか、本の題名は『魅惑の街トレド』と言います。司馬遼太郎の著書には旅行記もあるのですが、帰宅後調べてみました。
    司馬遼太郎著『南蛮のみちⅡ』には、「ベンチにすわっていると、35、6の品のいい主婦がそこから出てきて1冊の本を売りつけた。街灯の淡いひかりでながめると、『魅惑の街トレド』とある。作者はファン・カンポス・パヨという人だが、おどろいたことに、日本語訳の本である。本というより写真を主とした小冊子で、ただ発行所も定価もない。さらに著者紹介も訳者の名もなく、本の正体としてはのっぺらぼうなものであった。しかし、トレドの ことが書かれているなら、反故でも読みたい心境だったから、立ち上がって、ズボンの尻のポッケに手をつっこみ、ペセタをとりだした。ガス灯の下で、彼女は影のように静かで、無表情でいる。私は、金をわたし、彼女はうけとった。まことに舞台的な光景だが、観客はこの黙劇をどう理解するだろう」とあります。
    おやじの言っていたことは嘘ではありませんでした。確かに司馬遼太郎はこの本のことを「著書に書いていた」のです。

  • カテドラル<br />正面ファサードの免罪の門は有名ですが、それ以外にも時間があれば見ていただきたい門があります。<br />右翼廊部にある「獅子の門」は、手前門柱にある3頭身の獅子の像が名の由来です。一番新しく造られた門で、繊細な装飾が施された美しい門です。設計はアネキン・デ・ブルセーラスとエガス、彫刻はフランドル出身のペドロ、フアンまたドイツ出身のフアンなどが加わり、スペイン帝国に相応しいオールスターによって造られたものです。タンパンには「被昇天の聖母」の像が飾られています。15世紀にはここが入口でしたが、今は通用門から入ります。<br />北翼廊部の「時計の門」は、最古のものです。聖母と天使の彫刻がある扉の中方立は、その上のアーチ状のティンパヌムにイエスの生涯が彫刻してあることを示しています。これは13世紀のキリスト教徒のために、文盲でも理解できるようにビジュアル化した聖書でした。左下部から上部に向けて、受胎告知から最後の審判、そして聖母マリアの被昇天までが絵巻物のように彫られています。<br />18世紀後期に修復された時に針が一本の時計が付けられたため、この名で呼ばれています。ロレンサナ枢機卿が、ミサや祈り、食事の開始の「分」を知らせるために設置した時計です。

    カテドラル
    正面ファサードの免罪の門は有名ですが、それ以外にも時間があれば見ていただきたい門があります。
    右翼廊部にある「獅子の門」は、手前門柱にある3頭身の獅子の像が名の由来です。一番新しく造られた門で、繊細な装飾が施された美しい門です。設計はアネキン・デ・ブルセーラスとエガス、彫刻はフランドル出身のペドロ、フアンまたドイツ出身のフアンなどが加わり、スペイン帝国に相応しいオールスターによって造られたものです。タンパンには「被昇天の聖母」の像が飾られています。15世紀にはここが入口でしたが、今は通用門から入ります。
    北翼廊部の「時計の門」は、最古のものです。聖母と天使の彫刻がある扉の中方立は、その上のアーチ状のティンパヌムにイエスの生涯が彫刻してあることを示しています。これは13世紀のキリスト教徒のために、文盲でも理解できるようにビジュアル化した聖書でした。左下部から上部に向けて、受胎告知から最後の審判、そして聖母マリアの被昇天までが絵巻物のように彫られています。
    18世紀後期に修復された時に針が一本の時計が付けられたため、この名で呼ばれています。ロレンサナ枢機卿が、ミサや祈り、食事の開始の「分」を知らせるために設置した時計です。

  • トレド市庁舎<br />アユンタミエント広場に面して建つのがトレド市庁舎です。市庁舎は、1575年に政庁官ゴメス・マンリケが指揮し、建築家はニコラス・デ・ベルガラ・エル・モソとフアン・バウティスタ・モネグロが最初の工事に参加し、2階には柱と柱の間に半円形の9つのアーチが造られました。その後、17世紀の初頭に画家エル・グレコの息子ホルヘ・マヌエル・テオトコプリが9つの四角い開口部を造って完成させています。18世紀初頭に建てられたアルデマンス設計の2本のストレートの尖塔はバロック様式の典型ですが、全体的には完璧なシンメトリックな建物であり、イタリアの古典に影響されたトスカーナ風の柱が取り入れられるなどルネッサンス様式の建物と言えます。<br />この市庁舎の1階にインフォメーションセンターがあり、そこには綺麗なトイレもあって重宝するのですが、午後2時を過ぎると「シエスタ」で休憩タイムに入りますのでご注意を!

    トレド市庁舎
    アユンタミエント広場に面して建つのがトレド市庁舎です。市庁舎は、1575年に政庁官ゴメス・マンリケが指揮し、建築家はニコラス・デ・ベルガラ・エル・モソとフアン・バウティスタ・モネグロが最初の工事に参加し、2階には柱と柱の間に半円形の9つのアーチが造られました。その後、17世紀の初頭に画家エル・グレコの息子ホルヘ・マヌエル・テオトコプリが9つの四角い開口部を造って完成させています。18世紀初頭に建てられたアルデマンス設計の2本のストレートの尖塔はバロック様式の典型ですが、全体的には完璧なシンメトリックな建物であり、イタリアの古典に影響されたトスカーナ風の柱が取り入れられるなどルネッサンス様式の建物と言えます。
    この市庁舎の1階にインフォメーションセンターがあり、そこには綺麗なトイレもあって重宝するのですが、午後2時を過ぎると「シエスタ」で休憩タイムに入りますのでご注意を!

  • カテドラル<br />カテドラルの右隣にあるのは大司教館ですので、空中回廊で通じ合っているようです。

    カテドラル
    カテドラルの右隣にあるのは大司教館ですので、空中回廊で通じ合っているようです。

  • アマドル・デ・ロス・リオス広場 <br />正面にある建物には、現在ショップが入っています。<br />Googleマップには何も表示されていませんが、1986年にこの広場の近くで古代ローマ帝国時代の公衆浴場の遺跡が発見されています。左端にある看板がその場所を指しているように思います。

    アマドル・デ・ロス・リオス広場
    正面にある建物には、現在ショップが入っています。
    Googleマップには何も表示されていませんが、1986年にこの広場の近くで古代ローマ帝国時代の公衆浴場の遺跡が発見されています。左端にある看板がその場所を指しているように思います。

  • テンディリヤス通り<br />車止めですが、リモコンを操作することで自動で上下する優れものです。登録車両はこうした道でも進入できるようです。沢山税金を納めているのでしょうね!<br />ところで、正面上部にある赤い看板が気になりませんか?<br />「mahou」と書かれています。「魔法」のことかと思いきや、スペインのビール会社の名前だそうです。どうりでよく見かけたはずです。<br />「mahou」は、スペイン語はHを発音しないので「マオウ」と発音します。1890年に首都マドリードで創業し、その後サン・ミゲル社、アルハンブラ社を買収し、現在は「マオウ‐サン・ミゲル社」として国内シェア30%以上を誇る最大規模のビール会社だそうです。<br />因みに現在の国内3大ビール会社は「mahou」、「Heineken Espanaハイネケン・エスパーニャ社」、「Dammダム社」となっています。

    テンディリヤス通り
    車止めですが、リモコンを操作することで自動で上下する優れものです。登録車両はこうした道でも進入できるようです。沢山税金を納めているのでしょうね!
    ところで、正面上部にある赤い看板が気になりませんか?
    「mahou」と書かれています。「魔法」のことかと思いきや、スペインのビール会社の名前だそうです。どうりでよく見かけたはずです。
    「mahou」は、スペイン語はHを発音しないので「マオウ」と発音します。1890年に首都マドリードで創業し、その後サン・ミゲル社、アルハンブラ社を買収し、現在は「マオウ‐サン・ミゲル社」として国内シェア30%以上を誇る最大規模のビール会社だそうです。
    因みに現在の国内3大ビール会社は「mahou」、「Heineken Espanaハイネケン・エスパーニャ社」、「Dammダム社」となっています。

  • カプチーナス広場<br />ここは、現地ガイドさんが一番驚いたという場所です。<br />1年ほど前にコロッケ屋がオープンしたそうです。<br />なんと小さな字で書かれた真ん中は、「コロッケ」とカタカナで書かれています。日本人観光客をターゲットにしているのでしょうか?

    カプチーナス広場
    ここは、現地ガイドさんが一番驚いたという場所です。
    1年ほど前にコロッケ屋がオープンしたそうです。
    なんと小さな字で書かれた真ん中は、「コロッケ」とカタカナで書かれています。日本人観光客をターゲットにしているのでしょうか?

  • メルセー通り<br />右の建物の壁に注目です。腰の高さの所が窪んでいるのが判りますか?<br />これは、馬車がこの道を通過する際、荷車が壁をこすった跡だそうです。<br />確かに歴史の生き証人です。

    メルセー通り
    右の建物の壁に注目です。腰の高さの所が窪んでいるのが判りますか?
    これは、馬車がこの道を通過する際、荷車が壁をこすった跡だそうです。
    確かに歴史の生き証人です。

  • 民家のパティオです。<br />扉上部のアイアン・ワークが素敵です。<br />扉の右側には手形があります。この5本の手指は、「イスラム教の5つの戒律」を表すものです。つまり、ムハンマドは神様の預言者なりという「信仰告白」、日に5回の「礼拝」、1月間の「ラマダン(断食)」、宗教税に当たる「喜捨」、一生に1度はメッカへ「巡礼」することの5つです。<br />

    民家のパティオです。
    扉上部のアイアン・ワークが素敵です。
    扉の右側には手形があります。この5本の手指は、「イスラム教の5つの戒律」を表すものです。つまり、ムハンマドは神様の預言者なりという「信仰告白」、日に5回の「礼拝」、1月間の「ラマダン(断食)」、宗教税に当たる「喜捨」、一生に1度はメッカへ「巡礼」することの5つです。

  • トレド新市街<br />エスカレータの最上部から俯瞰する新市街です。<br />赤茶けたスペイン瓦が印象的です。緑地も多いですね!

    トレド新市街
    エスカレータの最上部から俯瞰する新市街です。
    赤茶けたスペイン瓦が印象的です。緑地も多いですね!

  • ビサグラ新門<br />ビサグラ門は新旧の門があり、新しい門は古い門が手狭となったため、1550年に造られたものです。円筒形の堅固な塔が2つ並ぶ間が門になっており、門の上にはハプスブルク家の紋章であり神聖ローマ皇帝の紋章でもある「双頭の鷲」が掲げられています。<br />頂点には、トレドの守護天使サグラリオの聖母像が剣をかざして立っています。でも十字架でなく、何故剣なのか…。「聖母マリアの剣」で調べてみましたが、よく判りません。イエスの降誕後40日を経て、マリアがイエスをエルサレムの神殿に奉献した時、シメオンという敬虔な老人が彼女の将来について「あなたの御心も苦痛の剣で刺し貫かれる」と預言され、その預言から「悲しみのマリア」が心臓を剣で刺された図象となることも多いのですが、それとは違う気がします。十字架の十字部が折れてしまったのでしょうか?<br /><br />トレドを奪還したアルフォンソ6世が闊歩した雄姿に思い馳せながらトレドの街を後にしました。<br />この続きは、ときめきのスペイン⑱マドリード ソフィア王妃芸術センターでお届けいたします。

    ビサグラ新門
    ビサグラ門は新旧の門があり、新しい門は古い門が手狭となったため、1550年に造られたものです。円筒形の堅固な塔が2つ並ぶ間が門になっており、門の上にはハプスブルク家の紋章であり神聖ローマ皇帝の紋章でもある「双頭の鷲」が掲げられています。
    頂点には、トレドの守護天使サグラリオの聖母像が剣をかざして立っています。でも十字架でなく、何故剣なのか…。「聖母マリアの剣」で調べてみましたが、よく判りません。イエスの降誕後40日を経て、マリアがイエスをエルサレムの神殿に奉献した時、シメオンという敬虔な老人が彼女の将来について「あなたの御心も苦痛の剣で刺し貫かれる」と預言され、その預言から「悲しみのマリア」が心臓を剣で刺された図象となることも多いのですが、それとは違う気がします。十字架の十字部が折れてしまったのでしょうか?

    トレドを奪還したアルフォンソ6世が闊歩した雄姿に思い馳せながらトレドの街を後にしました。
    この続きは、ときめきのスペイン⑱マドリード ソフィア王妃芸術センターでお届けいたします。

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