シチリア島旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2016年8月1日ローマ経由で<br />シチリアパレルモ・ファルコーネ・ボルセリーノ空港入り、<br />パレルモ2泊から<br />アグリジェントで1泊、<br />文字通りの古代ギリシャ時代の神殿の谷を見て、<br />次の日、カザーレの古代ローマ時代の別荘に立ち寄り、<br />そこからシチリア随一のリゾート地<br />タオルミーナにて、2泊、<br />グランブルーのイゾラベッラ海岸で泳ぎ、<br />シチリア第二の都市<br />カターニアで1泊して、<br />カターニアフォンタロッサ空港から<br />ローマ・フィウミチーノ空港<br />経由で8月8日成田に帰国する<br />という旅程である。<br /><br />(一日目二日目のパレルモ編と<br />三日目のアグリジェント編、<br />並びに四日目カザーレの別荘編、<br />五日目六日目のタオルミーナ編は、<br />以下のように公開させて頂きました。<br />パレルモ編です。↓<br />http://4travel.jp/travelogue/11157707<br />アグリジェント編です。↓<br />http://4travel.jp/travelogue/11161895<br />カザーレ別荘編です↓<br />http://4travel.jp/travelogue/11164465<br />タオルミーナ編です。↓<br />http://4travel.jp/travelogue/11166968 )<br /><br /><br />タオルミーナから車で約1時間、<br />カターニアに到着したのは、<br />午前10時過ぎだった。<br /><br />カターニア、人口30万強。<br />シチリアパレルモに次ぐ第二の都市であり、<br />小さいながらもフォンタロッサ空港まである。<br /><br />当然ながら<br />ホテルチェックインタイムまでは相当に<br />時間があると覚悟していたら、<br />何とラッキーなことに、<br />スムーズにチェックインできてしまった。<br /><br />部屋の中で、1時間ほど休憩して、<br />すぐに外へ繰り出した。<br /><br />カターニアと言えば、<br />シチリア南東部<br />それも2002年に世界文化遺産として<br />登録された所謂「ヴァル・ディ・ノート」の<br />後期バロック様式の<br />8つの都市の一つである。<br /><br />すぐ下の地図でその8つを赤く染め上げているが、<br />シチリアのバロックを語る上で、<br />ノート渓谷ヴァルディノートを<br />省くことはできぬだろう。<br /><br />シチリアは、アラブ時代<br />南東部のノート<br />西部のマザーラ<br />北東部のデモーネ<br />の3つのヴァルに分割統治されていたが、<br />ヴァル・ディ・ノートの呼び方だけは<br />こんにちの地図にも残っている。<br />ラグーサ、シラクサ、カターニアの<br />各県の一帯の呼称である。<br /><br />シチリアを歩いて、<br />バロック様式建造物の多さは目にたくさん<br />焼き付けたが、<br />その代表はパレルモのよつかど交差点、<br />クワットロ・カンティであった。<br /><br />そして、このカターニアの<br />エトネア通りから<br />ドゥオーモ広場へ行く時の<br />両サイドの建造物もそうである。<br />蓋し、バロック様式が津波のように流行した<br />17世紀後半から18世紀<br />に、流行であったがために<br />丁度建造物の建て替え時期と重なり<br />(後述の理由も大きい)<br />この様式にならざるを得なかったという<br />単純な理由があったからである。<br /><br />なにゆえ、<br />ではヴァル・ディ・ノートの街々さえも、<br />後期バロック様式に統一されたのか?<br /><br />それは、<br />上記の理由、<br />17世紀後半から18世紀<br />に、流行であったがために<br />この様式にならざるを得なかった経緯もあるが<br /><br />それに加えて<br />シチリア東部に活火山霊峰エトナがあることと<br />大いに関係すると思われる。<br /><br />エトナ山、標高約3340m、<br />中心頂きは、モンジベッロと<br />呼ばれる。<br /><br />先史時代約60万年昔、<br />地中海海底噴火により、<br />海底より隆起してできたと言われる。<br />過去再三噴火している。<br /><br />即ちイタリアは日本同様地震大国でもあり、<br />マグニチュードやリヒタースケール<br />震度階級の正確なものに加えて、<br />ジュゼッペ・メルカリによる<br />人間の体感震度階数メルカリ度数12を<br />独自に持つ国でもある。<br /><br />まず、カターニアでは、<br />1669年3月<br />エトナ山が大噴火した。<br />このとき、カターニアの半分は<br />壊滅状態だったという。<br />死者1万人とも言われる。<br /><br />その24年後である。<br />ヴァル・ディ・ノート一帯を<br />大地震が襲った。<br />1693年1月9日のことである。<br />8万数千もの方がその犠牲になったようである。<br /><br />その二日後11日午後5時と9時に二度繰り返された<br />地震は致命的な被害を齎した。<br />ノート、モディカは壊滅<br />シラクサ、ラグーサ、そして<br />カターニアの大部分も壊滅状態となったと言われる。<br /><br />倒壊建物の状態から12度数に分ける<br />メルカリ震度階級では、<br />実に11だった。<br />11とは、頑丈な建造物が壊滅し、橋が崩落する<br />「壊滅的」となる評価度数である。<br /><br />人々は、余震に怯えながらも、<br />復興に立ち上がる。<br />カターニアでは、その後<br />ジュゼッペ・ランツアの指揮下で、<br />合理的且つ都市計画の戦略で、<br />幅の広い直線道路と 広場を持つ<br />近代的な都市に生まれ変わるのである。<br />ヴァル・ディ・ノートのその他の都市も<br />当時流行の<br />後期バロック様式に統一され<br />生まれ変わっていくのである。<br /><br />2002年の世界文化遺産登録には、<br />そのような多大な犠牲とそれ以上の人間の労苦<br />が刻まれている経緯を私どもは忘れてはならないだろう。<br /><br />このように、日本もイタリアも火山大噴火・地震では、<br />同じように犠牲を払っていた国では似ていようが、<br />イタリアの南北問題、北のミラノ・トリノを代表とした<br />イタリアの顔と違い<br />所得がかなり低い南のイタリア。<br />その代表は、紀元前から圧政圧政で連続的に<br />苦しめられたシチリアだったと考えられる。<br /><br /> 「そこで、以下は 今回の<br />イタリア・シチリア旅行の<br />総決算として、少しく長くなりますが、<br />なにゆえシチリアのように南イタリアは<br />ミラノ、トリノのように経済的に発展せず、<br />置き去りにされて来たのか<br />イタリア社会の深層・諸相を少しばかり<br />取り上げてみたいと思います。<br /><br />それには、<br /><br />1歴史的に見て、戦略的な地政学的地理上のイタリアは<br />どのように扱われて来たか。<br /><br />2イタリア貴族制度が齎した、現在の<br />フィアットなくしてイタリアなく、<br />イタリアならばフィアットと<br />呼ばれるようになった経緯は奈辺にあるか?<br /><br />3イタリア社会でのカトリック教会が勝ち得た地位と<br />その重みは歴然でありすぎることの位置づけは<br />どういう効果をもたらしたか<br /><br />4イタリア人気質の特有性とその教育制度<br />ー階級社会であることとダヴィンチ級の博識者が相当数に<br />のぼることーなどは避けて通ることは<br />できぬ問題だろうと思われます。」<br /><br />(写真は、カターニア繁華街<br />corso Sicilia通り<br />左側には、写っていないが<br />カターニアきっての作曲家<br />ベッリーニの銅像が建っている。)<br /><br />(以下動画が、3つ続きますが<br /> 歩きながら撮影したことと相まって<br />映像のぶれ方が激しいので、公開にも<br />向きませんが、両サイドの整然とした<br />建造物の並びだけをお知らせしたいと<br />思いますので、敢えて公開させて頂きました。<br /><br />この注書きは、この旅行記をお読みくださった<br />ある会員の方の的確な助言に基づき付加<br />させて頂きました。ぶれがひどいので、<br />見ないほうが無難かも知れません。)<br /><br />動画1<br />エトネア通りのど真ん中から<br />ドゥオーモ広場への道である。<br />両サイドは、綺麗なバロック建築で整然としている。<br />https://www.youtube.com/watch?v=XRWewNDvXLc<br /><br />動画2も同じくエトネア通りのど真ん中から<br />ドゥオーモ広場への道である。<br />https://www.youtube.com/watch?v=7qW_48LzQPI<br />一番奥に見えているのはウゼッダ門である。<br /><br />動画3も同じくエトネア通り<br />ドゥオーモ広場が近い。<br />婚姻儀式のカップルがいた。<br />https://www.youtube.com/watch?v=aEPv-APjzf0

シチリア島周遊記カターニア編(ヴァル・ディ・ノートの1角街並み、及び総合的にイタリア社会の深層諸相を探る)

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2016/08/01 - 2016/08/08

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わき

わきさん

2016年8月1日ローマ経由で
シチリアパレルモ・ファルコーネ・ボルセリーノ空港入り、
パレルモ2泊から
アグリジェントで1泊、
文字通りの古代ギリシャ時代の神殿の谷を見て、
次の日、カザーレの古代ローマ時代の別荘に立ち寄り、
そこからシチリア随一のリゾート地
タオルミーナにて、2泊、
グランブルーのイゾラベッラ海岸で泳ぎ、
シチリア第二の都市
カターニアで1泊して、
カターニアフォンタロッサ空港から
ローマ・フィウミチーノ空港
経由で8月8日成田に帰国する
という旅程である。

(一日目二日目のパレルモ編と
三日目のアグリジェント編、
並びに四日目カザーレの別荘編、
五日目六日目のタオルミーナ編は、
以下のように公開させて頂きました。
パレルモ編です。↓
http://4travel.jp/travelogue/11157707
アグリジェント編です。↓
http://4travel.jp/travelogue/11161895
カザーレ別荘編です↓
http://4travel.jp/travelogue/11164465
タオルミーナ編です。↓
http://4travel.jp/travelogue/11166968 )


タオルミーナから車で約1時間、
カターニアに到着したのは、
午前10時過ぎだった。

カターニア、人口30万強。
シチリアパレルモに次ぐ第二の都市であり、
小さいながらもフォンタロッサ空港まである。

当然ながら
ホテルチェックインタイムまでは相当に
時間があると覚悟していたら、
何とラッキーなことに、
スムーズにチェックインできてしまった。

部屋の中で、1時間ほど休憩して、
すぐに外へ繰り出した。

カターニアと言えば、
シチリア南東部
それも2002年に世界文化遺産として
登録された所謂「ヴァル・ディ・ノート」の
後期バロック様式の
8つの都市の一つである。

すぐ下の地図でその8つを赤く染め上げているが、
シチリアのバロックを語る上で、
ノート渓谷ヴァルディノートを
省くことはできぬだろう。

シチリアは、アラブ時代
南東部のノート
西部のマザーラ
北東部のデモーネ
の3つのヴァルに分割統治されていたが、
ヴァル・ディ・ノートの呼び方だけは
こんにちの地図にも残っている。
ラグーサ、シラクサ、カターニアの
各県の一帯の呼称である。

シチリアを歩いて、
バロック様式建造物の多さは目にたくさん
焼き付けたが、
その代表はパレルモのよつかど交差点、
クワットロ・カンティであった。

そして、このカターニアの
エトネア通りから
ドゥオーモ広場へ行く時の
両サイドの建造物もそうである。
蓋し、バロック様式が津波のように流行した
17世紀後半から18世紀
に、流行であったがために
丁度建造物の建て替え時期と重なり
(後述の理由も大きい)
この様式にならざるを得なかったという
単純な理由があったからである。

なにゆえ、
ではヴァル・ディ・ノートの街々さえも、
後期バロック様式に統一されたのか?

それは、
上記の理由、
17世紀後半から18世紀
に、流行であったがために
この様式にならざるを得なかった経緯もあるが

それに加えて
シチリア東部に活火山霊峰エトナがあることと
大いに関係すると思われる。

エトナ山、標高約3340m、
中心頂きは、モンジベッロと
呼ばれる。

先史時代約60万年昔、
地中海海底噴火により、
海底より隆起してできたと言われる。
過去再三噴火している。

即ちイタリアは日本同様地震大国でもあり、
マグニチュードやリヒタースケール
震度階級の正確なものに加えて、
ジュゼッペ・メルカリによる
人間の体感震度階数メルカリ度数12を
独自に持つ国でもある。

まず、カターニアでは、
1669年3月
エトナ山が大噴火した。
このとき、カターニアの半分は
壊滅状態だったという。
死者1万人とも言われる。

その24年後である。
ヴァル・ディ・ノート一帯を
大地震が襲った。
1693年1月9日のことである。
8万数千もの方がその犠牲になったようである。

その二日後11日午後5時と9時に二度繰り返された
地震は致命的な被害を齎した。
ノート、モディカは壊滅
シラクサ、ラグーサ、そして
カターニアの大部分も壊滅状態となったと言われる。

倒壊建物の状態から12度数に分ける
メルカリ震度階級では、
実に11だった。
11とは、頑丈な建造物が壊滅し、橋が崩落する
「壊滅的」となる評価度数である。

人々は、余震に怯えながらも、
復興に立ち上がる。
カターニアでは、その後
ジュゼッペ・ランツアの指揮下で、
合理的且つ都市計画の戦略で、
幅の広い直線道路と 広場を持つ
近代的な都市に生まれ変わるのである。
ヴァル・ディ・ノートのその他の都市も
当時流行の
後期バロック様式に統一され
生まれ変わっていくのである。

2002年の世界文化遺産登録には、
そのような多大な犠牲とそれ以上の人間の労苦
が刻まれている経緯を私どもは忘れてはならないだろう。

このように、日本もイタリアも火山大噴火・地震では、
同じように犠牲を払っていた国では似ていようが、
イタリアの南北問題、北のミラノ・トリノを代表とした
イタリアの顔と違い
所得がかなり低い南のイタリア。
その代表は、紀元前から圧政圧政で連続的に
苦しめられたシチリアだったと考えられる。

 「そこで、以下は 今回の
イタリア・シチリア旅行の
総決算として、少しく長くなりますが、
なにゆえシチリアのように南イタリアは
ミラノ、トリノのように経済的に発展せず、
置き去りにされて来たのか
イタリア社会の深層・諸相を少しばかり
取り上げてみたいと思います。

それには、

1歴史的に見て、戦略的な地政学的地理上のイタリアは
どのように扱われて来たか。

2イタリア貴族制度が齎した、現在の
フィアットなくしてイタリアなく、
イタリアならばフィアットと
呼ばれるようになった経緯は奈辺にあるか?

3イタリア社会でのカトリック教会が勝ち得た地位と
その重みは歴然でありすぎることの位置づけは
どういう効果をもたらしたか

4イタリア人気質の特有性とその教育制度
ー階級社会であることとダヴィンチ級の博識者が相当数に
のぼることーなどは避けて通ることは
できぬ問題だろうと思われます。」

(写真は、カターニア繁華街
corso Sicilia通り
左側には、写っていないが
カターニアきっての作曲家
ベッリーニの銅像が建っている。)

(以下動画が、3つ続きますが
 歩きながら撮影したことと相まって
映像のぶれ方が激しいので、公開にも
向きませんが、両サイドの整然とした
建造物の並びだけをお知らせしたいと
思いますので、敢えて公開させて頂きました。

この注書きは、この旅行記をお読みくださった
ある会員の方の的確な助言に基づき付加
させて頂きました。ぶれがひどいので、
見ないほうが無難かも知れません。)

動画1
エトネア通りのど真ん中から
ドゥオーモ広場への道である。
両サイドは、綺麗なバロック建築で整然としている。
https://www.youtube.com/watch?v=XRWewNDvXLc

動画2も同じくエトネア通りのど真ん中から
ドゥオーモ広場への道である。
https://www.youtube.com/watch?v=7qW_48LzQPI
一番奥に見えているのはウゼッダ門である。

動画3も同じくエトネア通り
ドゥオーモ広場が近い。
婚姻儀式のカップルがいた。
https://www.youtube.com/watch?v=aEPv-APjzf0

旅行の満足度
4.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • まず、<br />1歴史的に見て、戦略的な地政学的地理上のイタリアは<br />どのように扱われて来たかである。そしてどのように<br />自らを処したかである。<br /><br />周知のように、中世時代<br />イタリアには多くの都市「国家」があった。<br />所謂旧市街と呼ばれる中心を持つ城砦都市「国家」である。<br /><br />規模は小さいとは言っても、<br />国であり、それぞれが独自の法を従え、<br />直接外国と交易する権限が当然あった。<br /><br />ルネッサンス末になると、<br />ミラノ公国ベネツィア共和国等領土拡大して<br />比較的大きな国に<br />まとまりつつあった。<br />ミラノ公国などは、<br />周辺を併合して意気揚々だった。<br /><br />しかし、その後他国に分割支配されてしまう。<br />なぜか?<br />それは、当時のカトリック教皇領という<br />大きな障害があったからである。<br />即ち、ミラノ公国が教皇の領土を侵害して<br />これを併合することは、<br />カトリックからの破門を意味していた。<br /><br />侵略して併合をして、<br />カトリック教皇からの破門を選ぶか<br />それとも破門されずにそのままにするか、<br />逡巡ぐずぐずしているうちに、<br />既に国家統一を果たして強大な軍隊を持っていた強国に<br />分捕り合戦されてしまうのである。<br /><br />当時は、海の時代である。船の時代である。<br /><br />スペイン、オランダ、イギリス、フランスなどが<br />南北アメリカ大陸・アフリカ大陸・アジアのめぼしいところを<br />山分けするが、イタリアも同様その餌食だったのである。<br /><br />(ナポレオン失脚後、ウイーン会議主催者オーストリア宰相<br />メッテルニヒは、「イタリア?それは地理的な名称に過ぎぬ」<br />とうそぶいている)<br /><br />当時から、欧州からアジアへ行くには、アフリカ南端喜望峰回りより<br />地中海を経てスエズを通過し、紅海を出てインド洋に出る方が<br />はるかに近いということが判明していた。<br /><br />(これは、エジプトファラオ時代から知られていた)<br /><br />地中海の真ん中にシチリアがあり、<br />そして斜めに横たわるイタリア半島<br />港町が発達した半島は、<br />他の国にとって垂涎の的だった。<br />そして<br />何としても手に入れたい土地だった。<br /><br />このようにして、<br />イタリアの分割植民地時代は、<br />ほぼ日本の<br />江戸時代と重なっている。<br /><br />因みに<br />現在のバチカン市国の存在や、<br />サンマリノの極めて小さな<br />国が存続できたのは、<br />実は上記の教皇領の名残なのである。<br /><br />では、イタリア国内はどうだったか目を転じる。<br />リ・ソルジメント(イタリア再生)の実態は、<br />植民地イタリアの「独立」戦争だった。<br /><br />19世紀前半のイタリア、5つから7つの公国に分断していたが、<br />これがイタリア統一独立戦争に突入する。<br />そしてついにサヴォイア家宰相カブールとガリバルディの<br />二人の存在によって1861年イタリア独立統一国家が誕生する。<br /><br />このような経緯を考えてみると、<br />イタリアは、<br />その誕生の時から、強いハンディを<br />背負い負わされながらも<br />現在G7の仲間入りをしていることは、<br />嘗て植民地を免れた日本人に匹敵すると思われ<br />高い評価に値すると考えたい。<br /><br /><br /><br /><br />写真は、シチリア南東部<br />ヴァル・ディ・ノート一帯<br />の8つの都市位置図である。<br />

    まず、
    1歴史的に見て、戦略的な地政学的地理上のイタリアは
    どのように扱われて来たかである。そしてどのように
    自らを処したかである。

    周知のように、中世時代
    イタリアには多くの都市「国家」があった。
    所謂旧市街と呼ばれる中心を持つ城砦都市「国家」である。

    規模は小さいとは言っても、
    国であり、それぞれが独自の法を従え、
    直接外国と交易する権限が当然あった。

    ルネッサンス末になると、
    ミラノ公国ベネツィア共和国等領土拡大して
    比較的大きな国に
    まとまりつつあった。
    ミラノ公国などは、
    周辺を併合して意気揚々だった。

    しかし、その後他国に分割支配されてしまう。
    なぜか?
    それは、当時のカトリック教皇領という
    大きな障害があったからである。
    即ち、ミラノ公国が教皇の領土を侵害して
    これを併合することは、
    カトリックからの破門を意味していた。

    侵略して併合をして、
    カトリック教皇からの破門を選ぶか
    それとも破門されずにそのままにするか、
    逡巡ぐずぐずしているうちに、
    既に国家統一を果たして強大な軍隊を持っていた強国に
    分捕り合戦されてしまうのである。

    当時は、海の時代である。船の時代である。

    スペイン、オランダ、イギリス、フランスなどが
    南北アメリカ大陸・アフリカ大陸・アジアのめぼしいところを
    山分けするが、イタリアも同様その餌食だったのである。

    (ナポレオン失脚後、ウイーン会議主催者オーストリア宰相
    メッテルニヒは、「イタリア?それは地理的な名称に過ぎぬ」
    とうそぶいている)

    当時から、欧州からアジアへ行くには、アフリカ南端喜望峰回りより
    地中海を経てスエズを通過し、紅海を出てインド洋に出る方が
    はるかに近いということが判明していた。

    (これは、エジプトファラオ時代から知られていた)

    地中海の真ん中にシチリアがあり、
    そして斜めに横たわるイタリア半島
    港町が発達した半島は、
    他の国にとって垂涎の的だった。
    そして
    何としても手に入れたい土地だった。

    このようにして、
    イタリアの分割植民地時代は、
    ほぼ日本の
    江戸時代と重なっている。

    因みに
    現在のバチカン市国の存在や、
    サンマリノの極めて小さな
    国が存続できたのは、
    実は上記の教皇領の名残なのである。

    では、イタリア国内はどうだったか目を転じる。
    リ・ソルジメント(イタリア再生)の実態は、
    植民地イタリアの「独立」戦争だった。

    19世紀前半のイタリア、5つから7つの公国に分断していたが、
    これがイタリア統一独立戦争に突入する。
    そしてついにサヴォイア家宰相カブールとガリバルディの
    二人の存在によって1861年イタリア独立統一国家が誕生する。

    このような経緯を考えてみると、
    イタリアは、
    その誕生の時から、強いハンディを
    背負い負わされながらも
    現在G7の仲間入りをしていることは、
    嘗て植民地を免れた日本人に匹敵すると思われ
    高い評価に値すると考えたい。




    写真は、シチリア南東部
    ヴァル・ディ・ノート一帯
    の8つの都市位置図である。

  • 次に<br />2イタリア貴族制度が齎した、<br />現在の<br />フィアットなくしてイタリアなく、<br />イタリアならばフィアットと<br />呼ばれるのはどうしてなのか?<br />である。<br /><br />「フィアットの歴史は、イタリアの歴史そのものだ」<br />とよく言われる。<br /><br />そこで、<br />フィアットを生んだ当時のイタリア社会、就中<br />トリノ貴族の世界とイタリアブルジョア世界を眺める。<br /><br />(フィアット{FIAT}社は、<br />正式にはトリノイタリア自動車工場<br />Fabbrica Italiana Automobili Torino の頭文字略称である)<br /><br />欧州で貴族といえば、中世封建時代カール大帝に遡る貴族を指す。<br />金のなかったカール大帝が部下たちの戦功に報いるために<br />土地を与えたことから始まったと言われる。<br /><br />イタリア貴族は、極めて複雑だが<br />一言で簡単に言えば、中でも<br /><br />トリノ貴族は、<br />サヴォイア家直属の主だった家来旗本と<br />江戸時代の譜代大名的な<br />性格のものである。<br /><br />1821年当時、約300の家系が貴族として登録された。<br />(第二次世界大戦後は無論貴族制度は廃止された)<br /><br />では、<br />伝統的貴族の実態は、何か?<br />①不動産の長期所有者であること<br />②物作り・製造業を軽蔑すること<br />この二点である。<br /><br />(特に上記の②物作り・製造業を軽蔑すること<br />とは?一体どうしたんや、おかしいやろと思われる方々も<br />多勢おられるかも知れないので、<br />敷衍させて頂きます。)<br /><br />伝統的貴族社会では、頭脳ではなく<br />‘手で仕事すること’‘モノづくりをすること’自体<br />を卑しいことと位置づけする基本的価値観がある。<br /><br />肉体労働・手仕事を軽蔑し、仕事で得た富を<br />評価に値しないとする価値観<br />これこそ、実はカトリック教に大きく<br />起因している。<br /><br />何故ならば、カトリックでは、<br />元々額に汗して働くこと自体が<br />天国から追い出しを食らったアダムとイブの<br />罰と捉えられ、<br />富の蓄積を罪悪と見る価値観が根強く<br />反映されているからである。<br /><br />この意味からすると<br />イタリアでは<br />支配階級の貴族にものづくりの延長たる<br />近代産業を担うブルジョアのステータスは、<br />製造業に関わる限り、高くなかった点は<br />注目する必要があろう。<br /><br />当時の文献に当たると、<br />貴族は、新興産業近代工業に投資して行く<br />ブルジョアの<br />行為を卑しい投機的行為とみなしたことが<br />一般的であった。<br /><br />このことを、前提に<br />やっと<br />フィアット社<br />イタリアで一番の事業成功例<br />イタリア実業産業の代名詞となった<br />フィアット創業を述べることが出来る。<br />(創業者は、言わずと知れたジョヴァンニ・アニエツリである)<br /><br />1899年フィアット{FIAT}社の会社設立の話は、<br />貴族の道楽ゲームとして持ち上がる。<br />19世紀末<br />トリノ貴族の話題は、決まって車だった。<br />当時トリノに登録されていた車台数は、約100台。<br />ポルタヌオーボ駅近くの高級カフェで<br />常連客たちは、砂塵を巻き上げながら通って行く車を<br />見て、車談義に興じていた。<br /><br />このカフェ仲間の道楽で、<br />車会社設立の話が出て<br />1899年7月<br />フィアット{FIAT}社が誕生するのである。<br /><br /><br /><br />写真はカターニア市街図<br />カターニアは、ドゥオーモ広場と<br />ドゥオーモ広場から北に3km伸びる<br />エトネア通りを中心に構成されていた。

    次に
    2イタリア貴族制度が齎した、
    現在の
    フィアットなくしてイタリアなく、
    イタリアならばフィアットと
    呼ばれるのはどうしてなのか?
    である。

    「フィアットの歴史は、イタリアの歴史そのものだ」
    とよく言われる。

    そこで、
    フィアットを生んだ当時のイタリア社会、就中
    トリノ貴族の世界とイタリアブルジョア世界を眺める。

    (フィアット{FIAT}社は、
    正式にはトリノイタリア自動車工場
    Fabbrica Italiana Automobili Torino の頭文字略称である)

    欧州で貴族といえば、中世封建時代カール大帝に遡る貴族を指す。
    金のなかったカール大帝が部下たちの戦功に報いるために
    土地を与えたことから始まったと言われる。

    イタリア貴族は、極めて複雑だが
    一言で簡単に言えば、中でも

    トリノ貴族は、
    サヴォイア家直属の主だった家来旗本と
    江戸時代の譜代大名的な
    性格のものである。

    1821年当時、約300の家系が貴族として登録された。
    (第二次世界大戦後は無論貴族制度は廃止された)

    では、
    伝統的貴族の実態は、何か?
    ①不動産の長期所有者であること
    ②物作り・製造業を軽蔑すること
    この二点である。

    (特に上記の②物作り・製造業を軽蔑すること
    とは?一体どうしたんや、おかしいやろと思われる方々も
    多勢おられるかも知れないので、
    敷衍させて頂きます。)

    伝統的貴族社会では、頭脳ではなく
    ‘手で仕事すること’‘モノづくりをすること’自体
    を卑しいことと位置づけする基本的価値観がある。

    肉体労働・手仕事を軽蔑し、仕事で得た富を
    評価に値しないとする価値観
    これこそ、実はカトリック教に大きく
    起因している。

    何故ならば、カトリックでは、
    元々額に汗して働くこと自体が
    天国から追い出しを食らったアダムとイブの
    罰と捉えられ、
    富の蓄積を罪悪と見る価値観が根強く
    反映されているからである。

    この意味からすると
    イタリアでは
    支配階級の貴族にものづくりの延長たる
    近代産業を担うブルジョアのステータスは、
    製造業に関わる限り、高くなかった点は
    注目する必要があろう。

    当時の文献に当たると、
    貴族は、新興産業近代工業に投資して行く
    ブルジョアの
    行為を卑しい投機的行為とみなしたことが
    一般的であった。

    このことを、前提に
    やっと
    フィアット社
    イタリアで一番の事業成功例
    イタリア実業産業の代名詞となった
    フィアット創業を述べることが出来る。
    (創業者は、言わずと知れたジョヴァンニ・アニエツリである)

    1899年フィアット{FIAT}社の会社設立の話は、
    貴族の道楽ゲームとして持ち上がる。
    19世紀末
    トリノ貴族の話題は、決まって車だった。
    当時トリノに登録されていた車台数は、約100台。
    ポルタヌオーボ駅近くの高級カフェで
    常連客たちは、砂塵を巻き上げながら通って行く車を
    見て、車談義に興じていた。

    このカフェ仲間の道楽で、
    車会社設立の話が出て
    1899年7月
    フィアット{FIAT}社が誕生するのである。



    写真はカターニア市街図
    カターニアは、ドゥオーモ広場と
    ドゥオーモ広場から北に3km伸びる
    エトネア通りを中心に構成されていた。

  • フィアット{FIAT}社が誕生した<br />経緯は、上記の如く<br />トリノ貴族の道楽が始まりだった。<br /><br />真剣に事業展開しようとする気は<br />さらさらなかった。<br />なぜなら、貴族たちにとっては、<br />実業・製造業に就くこと自体<br />カトリックでは許されぬ卑しい行為と<br />映ったからである。<br /><br />ところが、設立発起人9名の内<br />最年少の<br />貴族の使い走りをやっていた32歳の若者だけは、<br />本気で事業展開を考えた。<br />この若者こそ、<br />後のジョバンニ・ア二ェッリだったのだ。<br /><br />(主な会社設立メンバーは、<br />以下のとおり。<br />銀行オーナーのマイネーリ<br />トリノ貴族フェッレーロ<br />トリノ最大の両替商人ダメヴィーノ<br />弁護士スカルフィオッティ等<br />資本金80万リラ<br />創立総会時の株主は30名だった)<br /><br />ヨーロッパ欧州で、車が本格的に普及するのは<br />第1次世界大戦中である。<br /><br />なぜ急に普及したか<br />それまで人間を輸送してきた馬が<br />戦争のために大量に殺戮され<br />圧倒的に足りなくなったための<br />代替品として車の需要が急速に増えたためである。<br /><br />アメリカでは、フォードによって<br />既に車の大量生産工場ができていたが、<br />欧州では、イギリスでさえ遅れていた。<br /><br />ジョバンニ・ア二ェッリは、<br />そこに、目を付け、<br />ヨーロッパで最も早くフォード式の<br />本格的車製造事業を<br />目指した特異な存在だったのである。<br /><br />こうして<br />創業以来<br />多大なその都度都度の<br />難局を乗り切り<br />紆余曲折を経たが、<br />フィアット{FIAT}社は<br />イタリアの最大の実業産業になっていく。<br /><br />フィアット{FIAT}社<br />創業からほぼ100年間(1899年~2003年)<br />は、初代ジョバンニ・ア二ェッリ、<br />その大番頭ヴィットリオ・ヴァッレタ<br />初代ジョバンニの孫 ジャンニ・ア二ェッリ、<br />のたった3人が君臨した企業だった。<br /><br />特に初代ジョバンニの孫 <br />ジャンニ・ア二ェッリ<br />は、その博識も並大抵ではなく、<br />冷戦時代 アメリカ政財界では、<br />唯一一目置かれるイタリア人として、<br />見られた。<br /><br />例えば当時アメリカ国務長官で<br />世界中を飛び回った<br />キッシンジャーなどは、<br />イタリアを訪問する時は、<br />首相や大統領より先に、<br />ジャンニ・ア二ェッリに<br />面会を求めたし、<br />アメリカがイタリアについて<br />重要なことを決定する局面では、<br />殆ど彼が呼ばれて<br />意見を聞かれた。<br /><br />(イタリア社会のイデオロギーは、<br />カトリック思想と<br />マルクス主義である。<br />イタリアは、その点でも<br />西欧先進国では、<br />特異な存在とも言えるのである。)<br /><br /><br />実質的には<br />イタリア最後の王「ジャンニ・ア二ェッリ」とも<br />一部では言われたが、<br /><br />それもそのはず、<br />一時は、<br />イタリア株式市場の4分の1を所有し、<br />直接雇用、関連企業まで合わせると<br />少なく見積もっても<br />イタリア人の1000万人を<br />食べさせる事業展開を<br />していたからである。<br /><br />彼の一貫した政治への不信感<br />言動、<br />‘税金の無駄使いばかりする無策の政府‘ <br />‘衆愚政治を続ける議会‘<br />‘非効率な行政組織‘<br />こういった言葉は<br />よほど実質的に<br />イタリアに貢献してきたとの<br />自負が言わせる言葉のようではある。<br />その彼も2003年<br />トリノオリンピックを置き土産に<br />81歳で他界した。<br /><br />写真はホテルからの<br />詳細図、歩くときに<br />必ず携帯していたもの。

    フィアット{FIAT}社が誕生した
    経緯は、上記の如く
    トリノ貴族の道楽が始まりだった。

    真剣に事業展開しようとする気は
    さらさらなかった。
    なぜなら、貴族たちにとっては、
    実業・製造業に就くこと自体
    カトリックでは許されぬ卑しい行為と
    映ったからである。

    ところが、設立発起人9名の内
    最年少の
    貴族の使い走りをやっていた32歳の若者だけは、
    本気で事業展開を考えた。
    この若者こそ、
    後のジョバンニ・ア二ェッリだったのだ。

    (主な会社設立メンバーは、
    以下のとおり。
    銀行オーナーのマイネーリ
    トリノ貴族フェッレーロ
    トリノ最大の両替商人ダメヴィーノ
    弁護士スカルフィオッティ等
    資本金80万リラ
    創立総会時の株主は30名だった)

    ヨーロッパ欧州で、車が本格的に普及するのは
    第1次世界大戦中である。

    なぜ急に普及したか
    それまで人間を輸送してきた馬が
    戦争のために大量に殺戮され
    圧倒的に足りなくなったための
    代替品として車の需要が急速に増えたためである。

    アメリカでは、フォードによって
    既に車の大量生産工場ができていたが、
    欧州では、イギリスでさえ遅れていた。

    ジョバンニ・ア二ェッリは、
    そこに、目を付け、
    ヨーロッパで最も早くフォード式の
    本格的車製造事業を
    目指した特異な存在だったのである。

    こうして
    創業以来
    多大なその都度都度の
    難局を乗り切り
    紆余曲折を経たが、
    フィアット{FIAT}社は
    イタリアの最大の実業産業になっていく。

    フィアット{FIAT}社
    創業からほぼ100年間(1899年~2003年)
    は、初代ジョバンニ・ア二ェッリ、
    その大番頭ヴィットリオ・ヴァッレタ
    初代ジョバンニの孫 ジャンニ・ア二ェッリ、
    のたった3人が君臨した企業だった。

    特に初代ジョバンニの孫 
    ジャンニ・ア二ェッリ
    は、その博識も並大抵ではなく、
    冷戦時代 アメリカ政財界では、
    唯一一目置かれるイタリア人として、
    見られた。

    例えば当時アメリカ国務長官で
    世界中を飛び回った
    キッシンジャーなどは、
    イタリアを訪問する時は、
    首相や大統領より先に、
    ジャンニ・ア二ェッリに
    面会を求めたし、
    アメリカがイタリアについて
    重要なことを決定する局面では、
    殆ど彼が呼ばれて
    意見を聞かれた。

    (イタリア社会のイデオロギーは、
    カトリック思想と
    マルクス主義である。
    イタリアは、その点でも
    西欧先進国では、
    特異な存在とも言えるのである。)


    実質的には
    イタリア最後の王「ジャンニ・ア二ェッリ」とも
    一部では言われたが、

    それもそのはず、
    一時は、
    イタリア株式市場の4分の1を所有し、
    直接雇用、関連企業まで合わせると
    少なく見積もっても
    イタリア人の1000万人を
    食べさせる事業展開を
    していたからである。

    彼の一貫した政治への不信感
    言動、
    ‘税金の無駄使いばかりする無策の政府‘ 
    ‘衆愚政治を続ける議会‘
    ‘非効率な行政組織‘
    こういった言葉は
    よほど実質的に
    イタリアに貢献してきたとの
    自負が言わせる言葉のようではある。
    その彼も2003年
    トリノオリンピックを置き土産に
    81歳で他界した。

    写真はホテルからの
    詳細図、歩くときに
    必ず携帯していたもの。

  • それでは、次に<br />3イタリア社会でのカトリック教会が勝ち得た地位と<br />その重みは歴然でありすぎることの位置づけは<br />どういう効果をもたらしたか<br />を見てみよう。<br /><br />①イタリアは地中海に張り出して<br />戦略的位置にあったがため、<br />上述のように過去多くの<br />覇権争いの対象だった。<br /><br />あらゆる公的機関・役所に対する<br />イタリア人の強烈な不信感あからさまな敵対的態度<br />を見ると、統治者がくるくる変わり<br />過去行政が全くあてにならず、<br />自己判断で臨機に対応することこそ<br />自己防衛であり最善の道であったことは<br />容易に想像できる。<br /><br />②このイタリア人のアナーキー性を<br />緩和する装置が、他ならぬカトリック教会だった。<br /><br />カトリック教会は、イタリア人全てが<br />参加する地域コミュニティの社会システムである。<br />誕生から葬式に至るまで<br />すべてを取り仕切る互助となっている。<br />具体化すれば<br />出産心得教室・子育て教室・性教育・<br />青少年モラル教育・<br />ボランテイア活動・各種スポーツクラブ・<br />読書クラブ・養子縁組・里子制度・<br />老人クラブ・レクレーション活動・<br />共働き支援学童保育・各種祭り<br />仮装行列・老人クラブ・コンサート<br />講演会・お食事会など、<br />実に多義多彩な社会活動の大部を<br />になっているのである。<br /><br />神父は、住民のために専任で働く<br />専門職、地域住民生活の<br />総合コーディネーターとも言うべき<br />存在である。<br />同じ少子高齢化社会大国でもある<br />日本に比較して、10万人あたりの<br />自殺率は、日本の5分の1でほぼ推移しているのは、<br />確実にその効果の現れではないかと考える。<br />因みに北欧3国の自殺率は、イタリアの倍である。<br /><br />このように、カトリックコミュニティの伝統は<br />効率や合理性や経済性とは方向性を全く異にするが、<br />脈々とイタリアで受け継がれてきているのである。<br /><br /><br />写真画像は、<br />ホテルから<br />どのようにカターニアを<br />歩いたかを示す市街図、<br />シチリア随一の市場は、<br />カルロアルベルト広場から<br />円形闘技場までを全て<br />占めていた。

    それでは、次に
    3イタリア社会でのカトリック教会が勝ち得た地位と
    その重みは歴然でありすぎることの位置づけは
    どういう効果をもたらしたか
    を見てみよう。

    ①イタリアは地中海に張り出して
    戦略的位置にあったがため、
    上述のように過去多くの
    覇権争いの対象だった。

    あらゆる公的機関・役所に対する
    イタリア人の強烈な不信感あからさまな敵対的態度
    を見ると、統治者がくるくる変わり
    過去行政が全くあてにならず、
    自己判断で臨機に対応することこそ
    自己防衛であり最善の道であったことは
    容易に想像できる。

    ②このイタリア人のアナーキー性を
    緩和する装置が、他ならぬカトリック教会だった。

    カトリック教会は、イタリア人全てが
    参加する地域コミュニティの社会システムである。
    誕生から葬式に至るまで
    すべてを取り仕切る互助となっている。
    具体化すれば
    出産心得教室・子育て教室・性教育・
    青少年モラル教育・
    ボランテイア活動・各種スポーツクラブ・
    読書クラブ・養子縁組・里子制度・
    老人クラブ・レクレーション活動・
    共働き支援学童保育・各種祭り
    仮装行列・老人クラブ・コンサート
    講演会・お食事会など、
    実に多義多彩な社会活動の大部を
    になっているのである。

    神父は、住民のために専任で働く
    専門職、地域住民生活の
    総合コーディネーターとも言うべき
    存在である。
    同じ少子高齢化社会大国でもある
    日本に比較して、10万人あたりの
    自殺率は、日本の5分の1でほぼ推移しているのは、
    確実にその効果の現れではないかと考える。
    因みに北欧3国の自殺率は、イタリアの倍である。

    このように、カトリックコミュニティの伝統は
    効率や合理性や経済性とは方向性を全く異にするが、
    脈々とイタリアで受け継がれてきているのである。


    写真画像は、
    ホテルから
    どのようにカターニアを
    歩いたかを示す市街図、
    シチリア随一の市場は、
    カルロアルベルト広場から
    円形闘技場までを全て
    占めていた。

  • 更に、では、<br />4イタリア人気質の特有性とその教育制度は、<br />どうなっているか?<br /><br />①イタリア人の特有性を如実に現したいとしたら、<br />イソップ物語の寓話が面白いだろう。<br /><br />ネズミとライオン。<br /><br />「あるとき、ライオンが休んでいたら、鼻先を<br />ネズミがとおるので捕まえた。<br />ねずみは、お願いだから食べないで、<br />困ったらこちらが助けるからと、いう。<br />お前が、俺を助けるなどありえぬとライオンは<br />笑うが、しょうがないので、逃がしてやる。<br />その後、今度はライオンが、罠にかかって<br />網から動けぬ状態になるが、<br />件のネズミが現れて網をかじってライオンを助ける。」<br />あの話である。<br /><br />これを聞くと、日本人ならば、他人をバカにせず仲良くすべきだ、<br />或いは、情けをかければ、自分にかえってくる、<br />情けは人の為ならず、<br />回りまわって自分を助けてくれる<br />というような感想を持つと思われる。<br /><br />ところが、イタリア人の感想は、<br />全く違うのである。9割方殆どは、<br />{どんなに取るに足らん奴でも、決して油断してはならない}と<br />捉えているのである。<br />つまり、イタリアでは、当然に他人は危害を加えるもの と<br />捉える発想である。<br />これが、実はイタリア人の<br />生々しいむき出しの感覚である。<br /><br />②それでは、イタリア人の本音は、どこにあるか?<br />これを見るには、<br />イタリア教育制度を考えると<br />少しは<br />見えて来るようである。<br /><br />イタリアは、話し方を聞くだけで、<br />その出身階層が<br />わかると言われるほど<br />一般大衆とエリート差が歴然としている<br />階級社会である。<br /><br />日本とは、対極に位置する世界である。<br />イタリアは、学歴社会的な、出世への発想や価値観は<br />殆どない社会である。<br />教育制度をとっても、日本みたいな<br />ナショナルミニマム平均値で物事を見ることは<br />全く意味をなさない社会である。<br /><br />平均的水準に達することを目的とする社会が日本ならば、<br />イタリアはその真逆である。<br /><br />教育を受けない自由さえまかり通る社会であり、<br />勉強が嫌いな子供は、おいてけぼりを食う社会でもある。<br /><br />しかし、平均値の低さで、侮ると<br />イタリアの学卒者のレベルの高さに驚かされる結果を<br />招来する。<br /><br />つまり、イタリアでは<br />過去一度たりとも、<br />全国的に全国民に機会均等に平等な教育を<br />施す発想に基づいて教育制度が立案されたことは<br />ないだけの話である。<br />イタリアの教育制度は、<br />伝統的に特権階級の立場から<br />「臣民」を、(国民ではない)工場労働者として、<br />効率よく使えるように教育することを<br />目的として議論は始められた。<br /><br />③教育をめぐる二つの立場がある。<br /><br />(あ)、一つは、カトリック教会の伝統的な立場である。<br />これによれば、読み書きを民に教えることは、<br />何ら役に立たないばかりか、<br />最悪の結果を招く恐れさえある という立場<br /><br />(い)、今ひとつの立場は、<br />啓蒙主義の発想で、民に文字を教えることで<br />民をコントロールしていこうとする立場である。<br /><br />この二つの立場が現在まで連綿と続いて綱引きしているが、<br />その根底には<br />歴史的に少数の特権階級による<br />大多数のコントロールがあったことは否めない。<br /><br />「教育を受けない自由」の伝統の背景は、<br />一般大衆が高等教育を受けぬ選択をすることを<br />歓迎する風潮が一貫して存在したことを示している。<br /><br />戦後は、2002年まで、<br />義務教育は8年間小学5年・中学3年だったが、<br />成績が思わしくないとすぐ留年だった。<br /><br />小学校でも留年制度があり、<br />進級できぬ場合は、<br />5年の小学校の期間を使い切り、小学中退者が<br />ザラにいたと言われる。<br /><br />しかし、学問好きな人は<br />飛び抜けていて、自然科学・社会科学・人文科学<br />全てにわたり、博識であり、<br /><br />専門分野のみならず、他分野でも<br />スペシャリスト兼ゼネラリストであり、<br /><br />学際的研究という言葉が虚しくなるほど、<br />学際は、イタリアでは当たり前であり、<br />ダ・ヴィンチ級の人々も相当数にのぼるのである。<br /><br />(この点、当方などは、日本で「有識者会議」<br />という言葉を聞くたびに、ええっ 日本に<br />有識者という人がいるのか?そのような言葉<br />を軽々に使用すること自体、有権者全体の<br />侮辱ではないか、如何なものか?と思ったりする。<br />せいぜいが、専門家でしかないだろう。<br />有識者と言われるには、自然科学・社会科学・人文科学全てに<br />通暁していることが最低限必要だと思われるが・・・・。)<br /><br />いずれにせよ、日本型の<br />ナショナルミニマム平均値発想が良いのか<br />イタリア型が良いのかは、<br />留保せざるを得ない。<br /><br />では、南イタリアが<br />北に比して、なにゆえ所得が低いのか。<br /><br />色々な原因要因が横たわる問題であるが、<br />一つには、<br />北は、アルプスの雪解けを讚えるポー川の恵みで、<br />土地が肥えていたこと<br /><br />貴族の領土は、相続問題で、分割相続が可能で、<br />地目変更さえ自由だったことが挙げられる。<br /><br />(南イタリアでは、土地の相続は、<br />一括相続だけが認容され、<br />分割できず、土地売買さえも切り売りできず、<br />全部の一括売買だけが認められたこと、<br />おまけに、地目の変更さえもできず、<br />従って作物の変更さえ出来なかった<br />点が挙げられる。)<br /><br />更に、1946年、<br />南部は、ナポリを代表として、<br />国王追放かどうか、共和国かの戦後選挙の際、<br />国王派で占められたが、(王国支持)<br /><br />要は、国王派は、それまで選挙のたびに<br />金をバラマキ、助成金で潤していたが、<br /><br />このことは、南部住民の自らの自己努力で<br />経済を発展させることを阻害させたことも<br />重要な視点であろう。<br /><br />(この点、日本でも、昭和20年代後半<br />ナショナルミニマムの発想の元、<br />所謂平衡交付金制度として始まった<br />地方交付税制度がある。<br /><br />即ち、平衡交付金制度は、全国津々浦々に<br />小学校・中学校をはじめとして<br />全国を平準化させるものだったが、<br />ナショナルミニマムは、昭和40年代前半で達成された<br />はずである。<br /><br />その後、この地方交付税制度そのものが、<br />実は、憲法94条の地方自治の本旨を蝕む<br />最悪の制度であり、地方創生の足かせに<br />なっているのである。<br /><br />金のバラマキは、その自治体<br />独自の自己努力を苛む制度であろう。<br />地方に人材が輩出しないのはこうした<br />地方交付税制度があることが<br />最大のネックとなっている、<br /><br />地方財政平衡交付金(地方財政平衡交付金法・法律第二百十一号(昭二五・五・三〇参照)<br /><br /><br /><br /><br /><br />写真は、シチリア最大の市場。<br />シチリアで、最大の市場は<br />ここカターニアにあった。<br />カルロアルベルト広場から<br />円形闘技場まで、市場である。<br />プレーゴ、プレーゴ(英語ならプリーズ)<br />いらっしゃい、いらっしゃいの掛け声が<br />凄まじかった。

    更に、では、
    4イタリア人気質の特有性とその教育制度は、
    どうなっているか?

    ①イタリア人の特有性を如実に現したいとしたら、
    イソップ物語の寓話が面白いだろう。

    ネズミとライオン。

    「あるとき、ライオンが休んでいたら、鼻先を
    ネズミがとおるので捕まえた。
    ねずみは、お願いだから食べないで、
    困ったらこちらが助けるからと、いう。
    お前が、俺を助けるなどありえぬとライオンは
    笑うが、しょうがないので、逃がしてやる。
    その後、今度はライオンが、罠にかかって
    網から動けぬ状態になるが、
    件のネズミが現れて網をかじってライオンを助ける。」
    あの話である。

    これを聞くと、日本人ならば、他人をバカにせず仲良くすべきだ、
    或いは、情けをかければ、自分にかえってくる、
    情けは人の為ならず、
    回りまわって自分を助けてくれる
    というような感想を持つと思われる。

    ところが、イタリア人の感想は、
    全く違うのである。9割方殆どは、
    {どんなに取るに足らん奴でも、決して油断してはならない}と
    捉えているのである。
    つまり、イタリアでは、当然に他人は危害を加えるもの と
    捉える発想である。
    これが、実はイタリア人の
    生々しいむき出しの感覚である。

    ②それでは、イタリア人の本音は、どこにあるか?
    これを見るには、
    イタリア教育制度を考えると
    少しは
    見えて来るようである。

    イタリアは、話し方を聞くだけで、
    その出身階層が
    わかると言われるほど
    一般大衆とエリート差が歴然としている
    階級社会である。

    日本とは、対極に位置する世界である。
    イタリアは、学歴社会的な、出世への発想や価値観は
    殆どない社会である。
    教育制度をとっても、日本みたいな
    ナショナルミニマム平均値で物事を見ることは
    全く意味をなさない社会である。

    平均的水準に達することを目的とする社会が日本ならば、
    イタリアはその真逆である。

    教育を受けない自由さえまかり通る社会であり、
    勉強が嫌いな子供は、おいてけぼりを食う社会でもある。

    しかし、平均値の低さで、侮ると
    イタリアの学卒者のレベルの高さに驚かされる結果を
    招来する。

    つまり、イタリアでは
    過去一度たりとも、
    全国的に全国民に機会均等に平等な教育を
    施す発想に基づいて教育制度が立案されたことは
    ないだけの話である。
    イタリアの教育制度は、
    伝統的に特権階級の立場から
    「臣民」を、(国民ではない)工場労働者として、
    効率よく使えるように教育することを
    目的として議論は始められた。

    ③教育をめぐる二つの立場がある。

    (あ)、一つは、カトリック教会の伝統的な立場である。
    これによれば、読み書きを民に教えることは、
    何ら役に立たないばかりか、
    最悪の結果を招く恐れさえある という立場

    (い)、今ひとつの立場は、
    啓蒙主義の発想で、民に文字を教えることで
    民をコントロールしていこうとする立場である。

    この二つの立場が現在まで連綿と続いて綱引きしているが、
    その根底には
    歴史的に少数の特権階級による
    大多数のコントロールがあったことは否めない。

    「教育を受けない自由」の伝統の背景は、
    一般大衆が高等教育を受けぬ選択をすることを
    歓迎する風潮が一貫して存在したことを示している。

    戦後は、2002年まで、
    義務教育は8年間小学5年・中学3年だったが、
    成績が思わしくないとすぐ留年だった。

    小学校でも留年制度があり、
    進級できぬ場合は、
    5年の小学校の期間を使い切り、小学中退者が
    ザラにいたと言われる。

    しかし、学問好きな人は
    飛び抜けていて、自然科学・社会科学・人文科学
    全てにわたり、博識であり、

    専門分野のみならず、他分野でも
    スペシャリスト兼ゼネラリストであり、

    学際的研究という言葉が虚しくなるほど、
    学際は、イタリアでは当たり前であり、
    ダ・ヴィンチ級の人々も相当数にのぼるのである。

    (この点、当方などは、日本で「有識者会議」
    という言葉を聞くたびに、ええっ 日本に
    有識者という人がいるのか?そのような言葉
    を軽々に使用すること自体、有権者全体の
    侮辱ではないか、如何なものか?と思ったりする。
    せいぜいが、専門家でしかないだろう。
    有識者と言われるには、自然科学・社会科学・人文科学全てに
    通暁していることが最低限必要だと思われるが・・・・。)

    いずれにせよ、日本型の
    ナショナルミニマム平均値発想が良いのか
    イタリア型が良いのかは、
    留保せざるを得ない。

    では、南イタリアが
    北に比して、なにゆえ所得が低いのか。

    色々な原因要因が横たわる問題であるが、
    一つには、
    北は、アルプスの雪解けを讚えるポー川の恵みで、
    土地が肥えていたこと

    貴族の領土は、相続問題で、分割相続が可能で、
    地目変更さえ自由だったことが挙げられる。

    (南イタリアでは、土地の相続は、
    一括相続だけが認容され、
    分割できず、土地売買さえも切り売りできず、
    全部の一括売買だけが認められたこと、
    おまけに、地目の変更さえもできず、
    従って作物の変更さえ出来なかった
    点が挙げられる。)

    更に、1946年、
    南部は、ナポリを代表として、
    国王追放かどうか、共和国かの戦後選挙の際、
    国王派で占められたが、(王国支持)

    要は、国王派は、それまで選挙のたびに
    金をバラマキ、助成金で潤していたが、

    このことは、南部住民の自らの自己努力で
    経済を発展させることを阻害させたことも
    重要な視点であろう。

    (この点、日本でも、昭和20年代後半
    ナショナルミニマムの発想の元、
    所謂平衡交付金制度として始まった
    地方交付税制度がある。

    即ち、平衡交付金制度は、全国津々浦々に
    小学校・中学校をはじめとして
    全国を平準化させるものだったが、
    ナショナルミニマムは、昭和40年代前半で達成された
    はずである。

    その後、この地方交付税制度そのものが、
    実は、憲法94条の地方自治の本旨を蝕む
    最悪の制度であり、地方創生の足かせに
    なっているのである。

    金のバラマキは、その自治体
    独自の自己努力を苛む制度であろう。
    地方に人材が輩出しないのはこうした
    地方交付税制度があることが
    最大のネックとなっている、

    地方財政平衡交付金(地方財政平衡交付金法・法律第二百十一号(昭二五・五・三〇参照)





    写真は、シチリア最大の市場。
    シチリアで、最大の市場は
    ここカターニアにあった。
    カルロアルベルト広場から
    円形闘技場まで、市場である。
    プレーゴ、プレーゴ(英語ならプリーズ)
    いらっしゃい、いらっしゃいの掛け声が
    凄まじかった。

  • 朝から夕方まで<br />地元民やツーリストで<br />賑わっていた。

    朝から夕方まで
    地元民やツーリストで
    賑わっていた。

  • 市場の様子である

    市場の様子である

  • これは野菜と果物

    これは野菜と果物

  • 同上

    同上

  • スイカ

    スイカ

  • かぼちゃ

    かぼちゃ

  • 大きなナス

    大きなナス

  • ピーマン?<br />パプリカ?

    ピーマン?
    パプリカ?

  • 魚やでは、<br />プレーゴプレーゴ<br />の掛け声

    魚やでは、
    プレーゴプレーゴ
    の掛け声

  • 同上

    同上

  • 同じく市場<br />魚を大写しで撮影

    同じく市場
    魚を大写しで撮影

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 市場風景

    市場風景

  • 市場風景

    市場風景

  • 市場を抜けると<br />ステシコロ広場にやって来た

    市場を抜けると
    ステシコロ広場にやって来た

  • ステシコロ広場にやって来た<br />東側は、ベッリーニの銅像<br />下は、主なオペラの4つの代表作<br />ノルマ<br />清教徒<br />海賊<br />夢遊病の娘<br />の銅像

    ステシコロ広場にやって来た
    東側は、ベッリーニの銅像
    下は、主なオペラの4つの代表作
    ノルマ
    清教徒
    海賊
    夢遊病の娘
    の銅像

  • 土台部分を

    土台部分を

  • ベッリーニの銅像全体を<br />下は、主なオペラの4つの代表作<br />ノルマ<br />清教徒<br />海賊<br />夢遊病の娘<br />の銅像

    ベッリーニの銅像全体を
    下は、主なオペラの4つの代表作
    ノルマ
    清教徒
    海賊
    夢遊病の娘
    の銅像

  • ステシコロ広場<br />西側は、<br /><br />古代ローマ時代2世紀中頃に造られた<br />円形闘技場の跡。<br />闘技場は、エトナ山の溶岩製で、大きさが125m x 105mあり、<br />約15000人の観客を収容。<br />(シチリアで2番目に大きい闘技場)<br />11世紀後半、ドォーモを建造するため、<br />闘技場の石が石材として持ち出され、<br />その後、建物上部が破壊された。

    ステシコロ広場
    西側は、

    古代ローマ時代2世紀中頃に造られた
    円形闘技場の跡。
    闘技場は、エトナ山の溶岩製で、大きさが125m x 105mあり、
    約15000人の観客を収容。
    (シチリアで2番目に大きい闘技場)
    11世紀後半、ドォーモを建造するため、
    闘技場の石が石材として持ち出され、
    その後、建物上部が破壊された。

  • ステシコロ広場<br />西側は、<br /><br />古代ローマ時代2世紀中頃に造られた<br />円形闘技場の跡。<br />闘技場は、エトナ山の溶岩製で、大きさが125m x 105mあり、<br />約15000人の観客を収容。<br />(シチリアで2番目に大きい闘技場)<br />11世紀後半、ドォーモを建造するため、<br />闘技場の石が石材として持ち出され、<br />その後、建物上部が破壊された。

    ステシコロ広場
    西側は、

    古代ローマ時代2世紀中頃に造られた
    円形闘技場の跡。
    闘技場は、エトナ山の溶岩製で、大きさが125m x 105mあり、
    約15000人の観客を収容。
    (シチリアで2番目に大きい闘技場)
    11世紀後半、ドォーモを建造するため、
    闘技場の石が石材として持ち出され、
    その後、建物上部が破壊された。

  • ステシコロ広場<br />西側は、<br /><br />古代ローマ時代2世紀中頃に造られた<br />円形闘技場の跡。<br />闘技場は、エトナ山の溶岩製で、大きさが125m x 105mあり、<br />約15000人の観客を収容。<br />(シチリアで2番目に大きい闘技場)<br />11世紀後半、ドォーモを建造するため、<br />闘技場の石が石材として持ち出され、<br />その後、建物上部が破壊された。

    ステシコロ広場
    西側は、

    古代ローマ時代2世紀中頃に造られた
    円形闘技場の跡。
    闘技場は、エトナ山の溶岩製で、大きさが125m x 105mあり、
    約15000人の観客を収容。
    (シチリアで2番目に大きい闘技場)
    11世紀後半、ドォーモを建造するため、
    闘技場の石が石材として持ち出され、
    その後、建物上部が破壊された。

  • 同じく

    同じく

  • 再度ステシコロ広場<br />

    再度ステシコロ広場

  • 再度ステシコロ広場<br />から違うように撮影

    再度ステシコロ広場
    から違うように撮影

  • エトネア通りを<br />違ったように撮影

    エトネア通りを
    違ったように撮影

  • エトネア通りの一場面

    エトネア通りの一場面

  • 同じく。<br />婚姻儀式か

    同じく。
    婚姻儀式か

  • 同上

    同上

  • エトネア通りの<br />書店に寄ってみた。

    エトネア通りの
    書店に寄ってみた。

  • エトネア通りの<br />書店に寄ってみた。

    エトネア通りの
    書店に寄ってみた。

  •  ウツェダ門が奥に見える<br />大地震後、<br />ドォーモ広場を再建する際、建造。<br />門の左側は司教館

    ウツェダ門が奥に見える
    大地震後、
    ドォーモ広場を再建する際、建造。
    門の左側は司教館

  • 動画ドウオーモ広場の様子である<br /><br />https://www.youtube.com/watch?v=fi5qzk6aTu0

    動画ドウオーモ広場の様子である

    https://www.youtube.com/watch?v=fi5qzk6aTu0

  • カターニア繁華街<br />corso Sicilia通り<br />左側には、写っていないが<br />カターニアきっての作曲家<br />ベッリーニの銅像が建っている。

    カターニア繁華街
    corso Sicilia通り
    左側には、写っていないが
    カターニアきっての作曲家
    ベッリーニの銅像が建っている。

  • 左右をヴァッカリーニの設計のバロック建築が挟んでいる。<br />東側が貴族の元邸宅のサン・ジュリアーノ宮殿で、<br />西側がカターニア大学。<br />カターニア大学は、<br />1434年アラゴン家のアルフォンソ5世により創設された<br />シチリアで一番古い大学。<br />写真は、エトネア通りの<br />カターニア大学

    左右をヴァッカリーニの設計のバロック建築が挟んでいる。
    東側が貴族の元邸宅のサン・ジュリアーノ宮殿で、
    西側がカターニア大学。
    カターニア大学は、
    1434年アラゴン家のアルフォンソ5世により創設された
    シチリアで一番古い大学。
    写真は、エトネア通りの
    カターニア大学

  • 大学広場

    大学広場

  • 貴族の元邸宅のサン・ジュリアーノ宮殿

    貴族の元邸宅のサン・ジュリアーノ宮殿

  • もうすぐドゥオーモ

    もうすぐドゥオーモ

  • ドゥオーモ(大聖堂)<br />建物本体はジローラモ・パラッツェット、<br />正面ファサードはヴァッカリーニの設計。<br />写真は、ファサードを大写しで。

    ドゥオーモ(大聖堂)
    建物本体はジローラモ・パラッツェット、
    正面ファサードはヴァッカリーニの設計。
    写真は、ファサードを大写しで。

  • ドゥオーモ(大聖堂)<br />建物本体はジローラモ・パラッツェット、<br />正面ファサードはヴァッカリーニの設計。<br />写真は、ファサードを大写しで。

    ドゥオーモ(大聖堂)
    建物本体はジローラモ・パラッツェット、
    正面ファサードはヴァッカリーニの設計。
    写真は、ファサードを大写しで。

  • 一部を大写しで<br />左側

    一部を大写しで
    左側

  • 一部を大写しで<br />右側

    一部を大写しで
    右側

  • 同様に

    同様に

  • 大聖堂内ここから<br />動画、大聖堂中を<br />https://www.youtube.com/watch?v=oiAL_hmzpVk

    大聖堂内ここから
    動画、大聖堂中を
    https://www.youtube.com/watch?v=oiAL_hmzpVk

  • 動画、大聖堂の中の様子である<br /><br />https://www.youtube.com/watch?v=nYpzsoJlfJI

    動画、大聖堂の中の様子である

    https://www.youtube.com/watch?v=nYpzsoJlfJI

  • 同上

    同上

  • 大聖堂の中

    大聖堂の中

  • 同じく

    同じく

  • 大聖堂の中である。

    大聖堂の中である。

  • ドゥオーモ広場の東側にあるドゥオーモ(大聖堂

    ドゥオーモ広場の東側にあるドゥオーモ(大聖堂

  • ドゥオーモ広場の東側にあるドゥオーモ(大聖堂)は、<br />カターニアの守護聖女サンタ・アガタに献じられた。<br />ノルマン時代の1090年、ルッジェーロ1世により、<br />ローマ時代の浴場跡に建てられたが、<br />1169年の地震と1194年の火災で被害を受け、<br />13世紀に再建、<br />1693年の大地震で再び崩壊し、<br />18世紀に入りバロック様式で再建されて行く。<br />建物本体はジローラモ・パラッツェット、<br />正面ファザードはヴァッカリーニの設計。<br />18世紀末にクーポラが完成し、<br />19世紀中頃に鐘楼が付加された。<br /><br />内部は、ガランとした印象を受ける<br />ドゥオーモ内部には、<br />カターニアの守護聖女を奉ったサンタ・アガタ礼拝堂、<br />カターニア出身の有名なオペラ作曲家<br />ヴィンチェンツォ・ベッリーニの墓もある。<br />

    ドゥオーモ広場の東側にあるドゥオーモ(大聖堂)は、
    カターニアの守護聖女サンタ・アガタに献じられた。
    ノルマン時代の1090年、ルッジェーロ1世により、
    ローマ時代の浴場跡に建てられたが、
    1169年の地震と1194年の火災で被害を受け、
    13世紀に再建、
    1693年の大地震で再び崩壊し、
    18世紀に入りバロック様式で再建されて行く。
    建物本体はジローラモ・パラッツェット、
    正面ファザードはヴァッカリーニの設計。
    18世紀末にクーポラが完成し、
    19世紀中頃に鐘楼が付加された。

    内部は、ガランとした印象を受ける
    ドゥオーモ内部には、
    カターニアの守護聖女を奉ったサンタ・アガタ礼拝堂、
    カターニア出身の有名なオペラ作曲家
    ヴィンチェンツォ・ベッリーニの墓もある。

  • ドゥオーモ(大聖堂)<br />建物本体はジローラモ・パラッツェット、<br />正面ファサードはヴァッカリーニの設計。<br />写真は、ファサードを違う角度で。

    ドゥオーモ(大聖堂)
    建物本体はジローラモ・パラッツェット、
    正面ファサードはヴァッカリーニの設計。
    写真は、ファサードを違う角度で。

  • 同じく違うように

    同じく違うように

  • ドゥオーモ広場<br />東側がドゥオーモ(大聖堂)と司教館(現在は宗教関係博物館)とサンタガタ・アッラ・バディア教会、<br />南側がウツェダ門と神学校(現在は一般の建物)、<br />北側がカターニアの市庁舎、<br />広場中央にはカターニアのシンボルの象の噴水が。<br />有名なパレルモ出身の建築家<br />ジョバンニ・バッティスタ・ヴァッカリーニが<br />設計を手がけた建物が多く、<br />バッカリーニ広場と呼んでもいいほど、<br />彼の作品が囲んでいる。

    ドゥオーモ広場
    東側がドゥオーモ(大聖堂)と司教館(現在は宗教関係博物館)とサンタガタ・アッラ・バディア教会、
    南側がウツェダ門と神学校(現在は一般の建物)、
    北側がカターニアの市庁舎、
    広場中央にはカターニアのシンボルの象の噴水が。
    有名なパレルモ出身の建築家
    ジョバンニ・バッティスタ・ヴァッカリーニが
    設計を手がけた建物が多く、
    バッカリーニ広場と呼んでもいいほど、
    彼の作品が囲んでいる。

  • 違う角度で

    違う角度で

  • 同上

    同上

  • 少し遠方から

    少し遠方から

  • ドゥオーモ広場のシンボル<br />象の名前は、リオトル

    ドゥオーモ広場のシンボル
    象の名前は、リオトル

  • エトネア通りの<br />途中かな?

    エトネア通りの
    途中かな?

  • ドゥオーモ広場のシンボル<br />象の名前は、リオトル。<br />

    ドゥオーモ広場のシンボル
    象の名前は、リオトル。

  • ドゥオーモ広場のシンボル<br />象の名前は、リオトル。<br />

    ドゥオーモ広場のシンボル
    象の名前は、リオトル。

  • ドゥオーモ広場のシンボル<br />象の名前は、リオトル。<br />

    ドゥオーモ広場のシンボル
    象の名前は、リオトル。

  • ドゥオーモ広場のシンボル<br />象の名前は、リオトル。<br />

    ドゥオーモ広場のシンボル
    象の名前は、リオトル。

  • ドゥオーモ広場<br />右に象のシンボルが

    ドゥオーモ広場
    右に象のシンボルが

  • 再度大聖堂の<br />ファサード

    再度大聖堂の
    ファサード

  • その下部分を

    その下部分を

  • 大聖堂の後ろ側

    大聖堂の後ろ側

  • ここからは、<br />カターニアが誇るオペラ作曲家の<br />ヴィンツェンツィオ・ベッリーニ<br />博物館内部<br /><br />ヴィンツェンツィオ・ベッリーニ<br />博物館とエミリオ グレコ博物館は<br />同じ建物内にあった。<br />ドゥオーモ広場から<br />徒歩で、3分ほどで着いた。<br /><br />工事中で、<br />入口がわかりにくかった。<br />訪問者もいなかった。<br /><br />我らだけだったので、<br />マンツーマンで<br />解説を聞いたが、<br />イタリア語の解説だったので<br />??が多かった。

    ここからは、
    カターニアが誇るオペラ作曲家の
    ヴィンツェンツィオ・ベッリーニ
    博物館内部

    ヴィンツェンツィオ・ベッリーニ
    博物館とエミリオ グレコ博物館は
    同じ建物内にあった。
    ドゥオーモ広場から
    徒歩で、3分ほどで着いた。

    工事中で、
    入口がわかりにくかった。
    訪問者もいなかった。

    我らだけだったので、
    マンツーマンで
    解説を聞いたが、
    イタリア語の解説だったので
    ??が多かった。

  • パンフ

    パンフ

  • 同上

    同上

  • その人である

    その人である

  • 代表作ノルマ

    代表作ノルマ

  • ここからは、<br />エミリオ・グレコ

    ここからは、
    エミリオ・グレコ

  • ここからは、<br />エミリオ・グレコ

    ここからは、
    エミリオ・グレコ

  • 左は、女優の<br />ソフィア・ローレンである。

    左は、女優の
    ソフィア・ローレンである。

  • また戻ってドゥオーモ広場

    また戻ってドゥオーモ広場

  • カターニアでは、<br />ドゥオーモ近くの<br />トラットリアにて、<br />早めの夕食を食べた。<br />当然ながら我らが一番乗りだった。<br />ヴィノ赤は、ここでも<br />ネロダヴォラをボトルで1本空けた。

    カターニアでは、
    ドゥオーモ近くの
    トラットリアにて、
    早めの夕食を食べた。
    当然ながら我らが一番乗りだった。
    ヴィノ赤は、ここでも
    ネロダヴォラをボトルで1本空けた。

  • シチリアを代表するスナック軽食の<br />揚げおにぎり、握り飯のアランチーノ。<br />丸型や三角形のものなど、握り方で、<br />中の具が違っていた。<br />大変当方は気に入った味だった。<br />この画像は、フォンタロッサ空港内の<br />店で撮影したもの。<br /><br />菓子では、シチリア特有のカンノーロも食べてみたが、<br />こちらは、どうもあえて・・・・、美味いとは<br />思えなかったが、人それぞれなのでそれはそれで良しとしたい。

    シチリアを代表するスナック軽食の
    揚げおにぎり、握り飯のアランチーノ。
    丸型や三角形のものなど、握り方で、
    中の具が違っていた。
    大変当方は気に入った味だった。
    この画像は、フォンタロッサ空港内の
    店で撮影したもの。

    菓子では、シチリア特有のカンノーロも食べてみたが、
    こちらは、どうもあえて・・・・、美味いとは
    思えなかったが、人それぞれなのでそれはそれで良しとしたい。

  • 血の色のオレンジ、<br />Tarocchi(arance rosse)<br />から作られたオレンジジュースである。<br />これもシチリア特産みたいだ。<br />

    血の色のオレンジ、
    Tarocchi(arance rosse)
    から作られたオレンジジュースである。
    これもシチリア特産みたいだ。

  • 最初は、トマトジュースかと思っていたが、<br />全く味が違うのでオレンジだと気がついた。<br />毎日必ず何杯も飲んだ。

    最初は、トマトジュースかと思っていたが、
    全く味が違うのでオレンジだと気がついた。
    毎日必ず何杯も飲んだ。

  • ホテルより、フォンタロッサ空港まで、<br />車で30分だった。<br />シチリア旅行中<br />考えていたことは<br />まず大体のところは、<br />パレルモ編からの<br />一連の旅行記で尽きていると思われるが、<br /><br />それにしても<br />2010年代から始まった滞在税は<br />感心できず、いただけなかった。<br /><br />即ち欧州各都市では、2011年頃から<br />ツーリストに対し、1泊一人当たり、<br />2ユーロから5ユーロ税金が取られるようになっている。<br /><br />人頭税よろしく、一人あたり一日いくらいくらとなる。<br />シチリアでは、タオルミーナが一番高かった。<br />パレルモでも3ユーロ一人当たり取られた。<br /><br />パレルモで、明細書を見たとき、<br />何だか余計なものがカウントされていたので、<br /><br />what is this amount for?<br />と尋ねると、lodging tax<br />滞在税と言われた。<br /><br />どうやら、日本でも東京などでは<br />今年あたりからツーリストに課税するように<br />なっているようである。<br />相互主義なのか?<br />そうでないのか?<br /><br />2010年中欧のベルリンやウイーン・プラハ・ブタペスト<br />2011年スペインアンダルシア諸都市<br />2012年ポルトガルリスボン<br />2014年イスタンブル<br />2015年アムステルダム・ヘルシンキ<br />等滞在税を取られることがなかったので、<br />いささか考えてしまった。<br /><br />穿った見方をすれば、<br />欧州のみならず<br />世界中<br />それだけ財政難があるのだろうが、<br />ことは国の基盤に関わる問題ではないのか?<br />このような税の取り方は、<br />世界が財政難であることを<br />内外に示している証拠であろう。<br /><br />特に、欧州は<br />財政的に疲弊化が進んでいて、<br />(2011年スペインアンダルシア地方では<br />公共工事ばかりで、産業の活性化が進まぬどころか<br />若い人材の失業率が異常に高い、と感じられた。<br />また2012年ポルトガルリスボンでは、<br />いきなりのデモばかりで、西部欧州一の貧しさを<br />ポルトガルは体現しているのではと思わせられた)<br /><br />欧州は、5・6年続けて(中抜きあるが)旅行した。<br />そして、今回シチリアを旅行してみて<br />やはり、欧州は様々な大中小ある紛争の<br />火薬庫ではないのか?<br />というのが、当方の正直な感想だった。<br /><br />南イタリア、それもシチリア<br />ドライバーへのチップは、<br />計算したら、合計55ユーロだった。<br /><br />写真画像は、<br />帰り、フォンタロッサ空港で<br />飲んだメッシーナビール。<br /><br />とりあえずは、無事に成田へ帰ろう。<br /><br />来年は、どこへ行こうか?<br />帰国後も、シチリア赤ワインネロ・ダヴォラを<br />時々飲みながら、思案中である。<br /><br />(書き足りないことも多々ありますが、<br />この辺で、この拙き旅行記を<br />公開させて頂きます。)

    ホテルより、フォンタロッサ空港まで、
    車で30分だった。
    シチリア旅行中
    考えていたことは
    まず大体のところは、
    パレルモ編からの
    一連の旅行記で尽きていると思われるが、

    それにしても
    2010年代から始まった滞在税は
    感心できず、いただけなかった。

    即ち欧州各都市では、2011年頃から
    ツーリストに対し、1泊一人当たり、
    2ユーロから5ユーロ税金が取られるようになっている。

    人頭税よろしく、一人あたり一日いくらいくらとなる。
    シチリアでは、タオルミーナが一番高かった。
    パレルモでも3ユーロ一人当たり取られた。

    パレルモで、明細書を見たとき、
    何だか余計なものがカウントされていたので、

    what is this amount for?
    と尋ねると、lodging tax
    滞在税と言われた。

    どうやら、日本でも東京などでは
    今年あたりからツーリストに課税するように
    なっているようである。
    相互主義なのか?
    そうでないのか?

    2010年中欧のベルリンやウイーン・プラハ・ブタペスト
    2011年スペインアンダルシア諸都市
    2012年ポルトガルリスボン
    2014年イスタンブル
    2015年アムステルダム・ヘルシンキ
    等滞在税を取られることがなかったので、
    いささか考えてしまった。

    穿った見方をすれば、
    欧州のみならず
    世界中
    それだけ財政難があるのだろうが、
    ことは国の基盤に関わる問題ではないのか?
    このような税の取り方は、
    世界が財政難であることを
    内外に示している証拠であろう。

    特に、欧州は
    財政的に疲弊化が進んでいて、
    (2011年スペインアンダルシア地方では
    公共工事ばかりで、産業の活性化が進まぬどころか
    若い人材の失業率が異常に高い、と感じられた。
    また2012年ポルトガルリスボンでは、
    いきなりのデモばかりで、西部欧州一の貧しさを
    ポルトガルは体現しているのではと思わせられた)

    欧州は、5・6年続けて(中抜きあるが)旅行した。
    そして、今回シチリアを旅行してみて
    やはり、欧州は様々な大中小ある紛争の
    火薬庫ではないのか?
    というのが、当方の正直な感想だった。

    南イタリア、それもシチリア
    ドライバーへのチップは、
    計算したら、合計55ユーロだった。

    写真画像は、
    帰り、フォンタロッサ空港で
    飲んだメッシーナビール。

    とりあえずは、無事に成田へ帰ろう。

    来年は、どこへ行こうか?
    帰国後も、シチリア赤ワインネロ・ダヴォラを
    時々飲みながら、思案中である。

    (書き足りないことも多々ありますが、
    この辺で、この拙き旅行記を
    公開させて頂きます。)

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  • trat baldさん 2016/10/23 19:25:09
    これぞ西欧見聞録南部イタリア編地中海の要シチリア。
    我侭なお願いとしてはビデオをゆっくり回して欲しい、目線が追いつかないから(^o^)
    もう日本では出来ませんね、道路が人間のものであって車のものでは無い、坩堝と言っていいほどに色々な人種が自然に過ごして居る、壊滅と云う犠牲を払っても建造物に美意識を優先させる、市場などの商行為に機械化が持ち込まれない等々、、、、
    日本よりやや小さく南北に1000Km程の国だけど、いかんせん日本以上に海の要所なんですね。
    100年先を見ない立法府、新たな創造性を持たない行政府、過去からしか知を得ない司法は日本でも一緒ですね、ちょっとだけ待ってね!IoTの進化で国家資産の食い潰し連中を必要としない時代が来るかも(^o^)
    Ps.株屋さんを連れて行くべきでしたね、表面的な目の保養だけでもインパクト有りますもん!

    わき

    わきさん からの返信 2016/10/23 21:26:21
    RE: これぞ西欧見聞録南部イタリア編地中海の要シチリア。
    > 我侭なお願いとしてはビデオをゆっくり回して欲しい
    ははは。
    自分ながら、帰国後見てみますと、
    歩きながらもあったせいもあるとは
    思いますが、
    相当に動画がぶれていて、
    ちょっとどうかな?
    マズイなと感じておりました。

    自分の素人目でも、全くひどい動画のぶれ方
    やばいなとは、思いつつ公開しましたが、
    酷い目にあわせてしまい
    申し訳もありません。
    もう一度見直して、
    目に悪い場合は、一部を削除致します。



    > 100年先を見ない立法府、新たな創造性を持たない行政府、過去からしか知を得ない司法は日本でも一緒ですね、ちょっとだけ待ってね!IoTの進化で国家資産の食い潰し連中を必要としない時代が来るかも(^o^)

    財政難の問題は、
    当方などが語るべきかどうかは、別にしてもご承知のように
    もう苛酷。
    「IoT」と「AI」には、来るべき時代の来るべき未来の明るさを
    期待してますが。

    > Ps.株屋さんを連れて行くべきでしたね、表面的な目の保養だけでもインパクト有りますもん!
    株屋氏は、この時ピレネー山脈スペイン北部村を
    奥さん同伴で、よっこらと巡礼中でしたので、
    誘えませんでした。

    そういえば、昔 彼がパリ駐在してた頃
    マフィアまがいのイタリア人顧客がいて、
    面白い話をしてくれたのを思い出しました。

    いつもながらの
    有益且つ嬉しきメッセージ
    ありがとうございました。

    トラート「桟橋」、が「木編」であったことが、
    まざまざとわかる文字通りの桟橋
    大蔵省さんもご登場、
    興味深く拝見していました。

    わき
  • junemayさん 2016/10/21 00:44:48
    イタリア社会の深層諸相について
    わきちゃんさん いえ わきさん

    初めてお便りします。
    junemayです。
    いつも、ご訪問いただきまして、ありがとうございます。

    シチリア最後の旅行記拝見いたしました。私の知らないイタリアを存分に味わせていただきました。言葉は便利な道具。もっと有効に使えることができれば(流ちょうに話すことができれば)、色々と話してみたい人々と会いましたが、しょせんかなわぬ夢でした。

    わきさんの博学には驚くばかりです。私のつたない旅行記よりもうんと内容の濃いイタリアを知って、ますますかの国への思いが強くなりました。

    ところで、わきさんとは、ご近所のような気がしてなりません。私の家から一番近い駅は武蔵境です。どうもどこかでお会いしたような気にさえなっております。今度お見掛けしたら、ご挨拶させていただきますね。

    私の旅行記はいつまでたっても終わりそうにありませんが、もう少しご辛抱いただき、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。

    極寒のロシアから昨日帰国し、暑さにあえいでいるjunemayでした。

    わき

    わきさん からの返信 2016/10/21 09:02:41
    RE: イタリア社会の深層諸相について
    おはようございます。

    とても嬉しいメッセージと
    驚きのメッセージです。


    junemayさんの、下記のコメント、びっくりです。
    >ご近所のような気がしてなりません。私の家から一番近い駅は武蔵境です。どうもど>こかでお会いしたような気にさえ

    当方、も武蔵境駅近くに居住しております。
    ここ48年間三鷹・武蔵野あたりをウロウロ致しております。
    高校も、地元の三鷹でした。
    現在の親友たちも、ほぼ高校時代の三多摩出身者です。



    junemayさん
    の旅行記 いつも拝見しておりました。
    画像もさることながら、
    コメントが、その都度ふるっていて、
    よくぞ、ここまで調査されたな と感心しきりで、
    読んでおりました。

    昨日、ロシアからお帰りでしたか。
    イタリア旅行記の続きも然ることながら
    ロシアの今後の旅行記も
    期待しております。
    わき





    > わきちゃんさん いえ わきさん
    >
    > 初めてお便りします。
    > junemayです。
    > いつも、ご訪問いただきまして、ありがとうございます。
    >
    > シチリア最後の旅行記拝見いたしました。私の知らないイタリアを存分に味わせていただきました。言葉は便利な道具。もっと有効に使えることができれば(流ちょうに話すことができれば)、色々と話してみたい人々と会いましたが、しょせんかなわぬ夢でした。
    >
    > わきさんの博学には驚くばかりです。私のつたない旅行記よりもうんと内容の濃いイタリアを知って、ますますかの国への思いが強くなりました。
    >
    > ところで、わきさんとは、ご近所のような気がしてなりません。私の家から一番近い駅は武蔵境です。どうもどこかでお会いしたような気にさえなっております。今度お見掛けしたら、ご挨拶させていただきますね。
    >
    > 私の旅行記はいつまでたっても終わりそうにありませんが、もう少しご辛抱いただき、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
    >
    > 極寒のロシアから昨日帰国し、暑さにあえいでいるjunemayでした。
    >
    >

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