2015/06/01 - 2015/06/01
13位(同エリア69件中)
junemayさん
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- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 168,912アクセス
- フォロワー41人
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
ボローニャにちょっぴり未練を残して、次の町ヴィチェンツァへ。パドヴァ経由で2時間弱で到着しました。ボローニャの一応「ブティーク・ルームス」から、庶民的な民宿と言う雰囲気の「B&B」へ。大規模なアパルトメントの4Fにある宿で、若くて美人のヴァレンティーナが一人で切り盛りしており、全くの気兼ね不要。台所から洗濯機まで自分の家のように自由に使わせてもらえたので、私的には不満なし。1泊40ユーロと言う料金も魅力的でした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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朝遅めの10:21発のリジョナーレでパドヴァ経由ヴィチェンツァへ。ガラガラで1両貸し切り状態。
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この辺りには珍しい小高い丘が見えたと思ったら、てっぺんには、やはり塔が建っていました。見張り塔かしら?
パドヴァでの乗り換えは、幸運にも同じホームで階段を使うことなく助かりました。昨年(2014年)と比べると、今年は割に沢山の駅でエレベーターを見かけましたが、ホームの端や人気のない場所にあることが多く、積極的には使用したくありません。 -
正午過ぎに、ヴィチェンツァ駅前の写真を撮る余裕もないまま、駅から歩いて10分位の場所にある宿スマートB&Bヴィチェンツァに到着しました。
出迎えてくれたのは、20代半ばと言う雰囲気の素敵な管理人ヴァレンティーナでした。この時期あまり泊り客はいない様子で、「どこでも自由に使っていいわよ」とのありがたいお言葉。
ヴァレンティーナはヴィチェンツァから1時間ほどの距離にある古都バッサーノ・デル・グラッパ出身。大学で文学を専攻し、地元の美術館に司書として勤めていましたが、その給料では暮らしていけず、ここの管理人になったとのこと。「世界中から訪ねてくる旅人達と話が出来るのは楽しいわよ」 と明るく笑って言ってましたが、イタリアの深刻な就職事情を初めて実際に聞かされた気がしました。 -
何の変哲もない部屋の写真です。
ヴァレンティーナの話の続き。
宿には、後で知り合うことになるのですが、パレルモから仕事を探しに来たアンドレアという青年がいて、彼とは英語と片言のスペイン語のちゃんぽんで話をしました。彼曰く、「北(北部)の人間は冷たい。パレルモには本当の優しさが溢れているけれど、ここは全てがとげとげしい。」
それをヴァレンティーナに伝えると、「北部では大学の学位を持っていない人間、前の雇用主からの推薦状のない人間なんて相手にされないわ。アンドレアの場合、そのどちらもないのだから、仕事なんて見つかるわけがないのよ。あっても、皆がやりたがらない仕事しかないって私は何度も彼に伝えたわ」と大変手厳しい。 -
多くの難民や移民の流入もあって、シチリア青年の就職活動は困難の連続のようです。思わぬところでイタリアの南北問題を垣間見たような気がしました。
さて、こちらは専用のバスルーム。こざっぱりとしていて清潔です。それ以外に言葉が見つからない・・・ -
シャワーもハンドシャワーだったので一安心です。
明日予約をしたパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の見学時間が指定された予約確認書を、プリントアウトしてもらったり、これから回るヴィチェンツァ、パドヴァ、ベローナについてのお勧め見学場所や料理を教わったり、ヴァレンティーナには随分とお世話になりました。 -
一休みして早速街に繰り出します。宿から旧市街まではゆっくり歩いて10分ほど。左手に続くサルヴィ庭園を抜けると、トーレ・ディ・カステッロ(城の塔)が出迎えてくれました。町の西側の入り口に当たります。
古くはエウガネイ族(アドリア海沿岸からアルプスにかけて住んでいた半神話的民族)、続いてはウェネティ族(ヴェネツィアの語源となったガリア人)の土地だったヴィチェンツァにローマ人が入って来たのは紀元前157年。ローマ人はウェネティ人を征服し、町を「勝利」を意味する「ヴィチェティア」と名付けました。これが町の名前の由来となりました。
15世紀以降は、ヴェネツィア共和国の勢力下に入っています。そう、ここはヴェネツィアからは40kmあまり。目と鼻の先でした。 -
トーレ・ディ・カステッロがいつ建てられたかは記録に残っていませんが、12世紀にはその存在が確認されています。塔の周囲には19世紀にナポレオン軍とオーストリア軍との戦いで破壊された城がありましたので、城に付随した見張り塔だったのは間違いありません。
がっしりとしていて武骨な外観の塔は、その後20世紀の二度の大戦にも深刻な被害を被ることなく崩壊を免れ、ヴィチェンツァの生き証人のような存在になっています。 -
塔と一体化しているポルタ・ディ・カステッロをくぐると、道の名前はアンドレア・パッラーディオ通りに変わりました。
そう、ヴィチェンツァは16世紀の偉大な建築家パッラーディオ(1508年~1580年)の町とも呼ばれています。パドヴァに生まれたパッラーディオは、その才能を見抜いた哲学者で詩人のトリッシーノに雇われ、共にローマに赴き、ローマ時代とギリシャ時代の建築を見て回ります。建築の歴史に最も貢献したと言われている古代ローマの建築家ウィトリウィウス(紀元前80年頃~紀元前15年頃)の著書「建築十書」をパッラーディオに与えたのも、トリッシーノでした。ウィトリウィウスの書は後に、パッラーディオが抱く古典建築に対する理想像と彼の建築への向き合い方に決定的な影響を及ぼします。
パッラーディオによる建築は、彼の死後パッラーディオ様式と呼ばれる建築様式に発展し、今日に至るまでのヨーロッパ、そしてアメリカで多くの建物に影響を与えました。一番有名なのは、アメリカ合衆国の議会議事堂通称キャピトル・ヒルだったと思っていたのですが、調べてみてもパッラーディオには触れられていないなあ・・・???
今日は彼が遺した建物が数多く残る町をゆっくりと見て巡ろうというお気楽な散歩です。 -
町の門をくぐるとすぐにカステッロ広場に到着します。由緒ありそうだと思ったこちらの建物は、イタリアの方々の町で見かけるデパート コインが入っていました。
左側部分はカプラ家の所有だったパラッツォ・カプラで、アンドレア・パッラディオによる初期の設計(1540年~45年)。パッラーディオ通りに面してそのファサードがあります。現在は広場に面したこちらが正面かと思われますが、建物に関する記載はありませんでした。 -
広場の反対側には、間口が大変狭いながらも3本の列柱が印象的なファサードの建物が見えました。
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こちらは後刻写した写真です。アンドレア・パッラーディオがポルト家のために2軒設計した宮殿の一つで、パラッツォ・ポルト・ブレガンツェと呼ばれています。どう見てもこのファサード、設計段階には左側部分に続きがあった(全部で7つの窓が並ぶはずだった?)と思われますが、パトロンのアレッサンドロ・ポルトが何故工事を中止したのかは解明されていません(1570年~71年)。
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パラッツォ・ポルト・ブレガンツェの詳細部分です。コリント式列柱の柱頭の間には、見事な花綱のレリーフがありました。その下には、三角と半円形のペディメントのある窓。未完に終わっても、なおもその存在を強烈にアピールし続けている不思議な力を持った建物でした。
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広場のもう一方の側には、パッラーディオ通りに面したファサードを持つパラッツォ・ティエネ・ボニン-ロンガーレがありました。こちらは1572年にパッラーディオによって設計され、彼の死後、後を継いだヴィンチェンツォ・スカモッツィによって建てられたティエネ家のための宮殿です。ティエネ家は市内にもう1軒、そしてパッラーディオの設計による別荘を1軒郊外(クイント・ヴィチェンティーノ)に構えています。
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こちらがパッラーディオ通りに面したファサードです。彼の建物の特徴である左右対称、窓の上に交互に並ぶ三角と半円形のペディメントが見て取れます。建物は、2階建てでその上に屋根裏がありますね。上下に分かれた8本の壁柱の間には、7つの窓が並んでいました。
先ほど見たパラッツォ・ポルトも完成していたら、この建物と同じくらいの幅になったでしょうね。 -
パラッツォ・ティエネからずっと先まで続くパッラディオ通りです。午後になって強烈な日光が照りつけて暑くなってきました。右側の日陰部分を進むことにしましょう。
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通りの左側に見えて来た教会は、聖フィリッポ・ネーリ教会。これはパッラーディオとは関係ありませんよ。ネオクラシック様式で、1730年~1830年の間に建てられました。ファサードは1822年~24年にかけて、ヴィチェンツァの建築家アントニオ・ピオヴェーネが担当しました。
堂々とした4本のコリント式列柱と三角形の巨大なペディメントは、明らかにパッラーディオを意識しているように思えます。4つのニッチェには、左から聖母、聖ロレンツォ、奉仕の寓意像、聖パオロの彫像が置かれていました。
後ろの鐘楼は、ヴェネツィア風ですねえ。 -
翼のあるライオン君が目に留まったので、
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中をちょっとのぞき見・・・
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「ツタンカーメン、カラヴァッジョ、ファン・ゴッホ」と書かれたポスター そして↑ 気になりますねえ。凄い組み合わせ!
実は町の中心にあるバシリカで、6月2日まで展覧会が行われていたのですが、2日はパドヴァに出向いたため、見逃してしまいました。ううう残念! -
ボローニャに負けじと、ここでもポルティコのある街並みが現れましたよ。ヴィチェンツァはイタリアでも有数のお金持ちの町なのだそうです。
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アーチの上に川の寓意像(バッキリオーネ川とレトロネ川)が並ぶ、こちらの風格あるポルティコを持つ宮殿は、パッラーディオの弟子ヴィンチェンツォ・スカモッツィ設計のパラッツォ・トリッシーノ。彼の傑作の一つだそうですよ。現在ヴィチェンツァの市役所になっています。1588年~1600年の建造。
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パラッツォ・トリッシーノの列柱が立つ中庭です。とても市役所とは思えませんね。
この辺りは町の中心で、以前から家屋が密集していたため、狭さを感じさせない工夫が随所に見られます。イオニア式の白い列柱が男性的な1階に比べ、2階は優雅な曲線の連続。ぐるりと中庭を取り囲んだ鉄柵のあるバルコニーが素敵! -
市役所の聖母子。赤ん坊が片肘をついて寝ますかねえ・・・
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続いて見えてきたのは、おお~ 今までのものとは全くイメージが異なるヴェネツィア風の建物です。パラッツォ・カルドーニョ。本当は大変長~い名前がついていましたが、勝手に縮めてしまいました。
オーナーはヴェネツィアでも指折りの名宮殿とされている「カ・ドーロ」の主人。「カ・ドーロ」も、長~い名前を縮めて呼んでいたんですね。 -
このヴィチェンツァ版「カ・ドーロ」はヴィチェンツァにおけるカルドーニョ家の活動拠点として、14世紀に建てられ始め、1477年に完成しました。かつては壁一面に装飾があったそうです。第二次大戦中に爆撃を受け、戦後再建されたものですが、今では数少ないヴィチェンツァに残るゴシック様式の宮殿となっています。
一人用のバルコニー?とルネサンス風の扉に見とれてしまいました。 -
観光客がたむろしていたので、ちょっとお邪魔します。中央の扉は中庭へと続く通路になっていました。
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通路に置かれていた石棺に・・・
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ローマ時代のアトリウム(水盤のある中庭)を囲んでいた柱と、壁には碑文が刻まれた石が飾ってありました。どういう意味かは???
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一人街歩きの良さは、何か見つけたら、そのまま道草できること。
ほらほら、昭和をご存知の方、映画館と言ったらオデオン座ですよね! -
どうやら、このオデオン座現役のようですよ。この先に映画館なんてあるのかしら? 行ってみましょう。
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おお~美しい彫像たちがお出迎えです。シネマ・オデオンは廃止となった聖ファウスティーノと聖ジョヴィータ教会の建物を使って、1907年に開業した歴史的な映画館。18世紀にバロック様式で再建された教会の建物は、戦時中も爆撃の被害がありませんでした。
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改装期間と夏休みを除き、二度の大戦中も映画の上映が滞ったことは一度もなかったそうです。流石にこの時間は営業時間外のようでしたが、イタリアで、最も長く続いている映画館なんですって。
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お腹がすいたので、ヴァレンティーナお勧めの惣菜店Il Ceppoで、お昼ご飯をテークアウトしてみました。ちょっと暑いくらいの気候ですが、木陰のベンチで一休み。
これは、クレープのような生地にいろいろな野菜やハム、チーズが巻いてあるもの。なんていう名前なんだろう・・・ すっごく美味しい。 -
お米と麦の入ったヘルシー・サラダ。これもさっぱりしていて、いくらでも食べられそう。ブォーノ!!
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そして、こちらがヴァレンティーナ推薦のバカラ(塩漬けのタラ)です。「ヴィチェンツァ風のバカラは、他の場所とは料理法が異なるのよ。絶対美味しいから食べてみてね。」と言われたので、半信半疑でしたが購入したところ、病みつきになってしまいました。タラの身がとても柔らかく煮えていて、まいう~ ちょっと古い?
この後、ヴィチェンツァにいる間に何度も食べてしまいました。しあわせな味です。 -
腹ごしらえも済んだので、ヴィチェンツァで一番有名な観光スポット パッラディオの遺作オリンピコ劇場に入場することにします。ローマ時代の劇場と言えば、野外に置かれましたが、ここはローマの劇場をそのまま室内に移したような劇場なのだそうです。
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1555年にパッラーディオが設立したアッカデミア・オリンピカは、演劇文化をより普及させるための有志の団体でしたが、活動を軌道に乗せるためにはどうしても、「劇場」が必要でした。オリンピコ劇場の設計は、パッラーディオの夢でもありましたが、これが彼にとっての最後の仕事となりました。
パッラーディオは建設が始まった年の1580年に亡くなったため、設計は弟子のスカモッツィに引き継がれて、1585年に完成を迎えています。どこでも出てくるスカモッツィ。パッラーディオもさることながら、この人がいなかったら、世界遺産に登録されていなかったかもしれません。パッラーディオの設計通りに、建物を最後まで完成させられたのは、スカモッツィがいたからこそだったと思っています。 -
劇場があるのは13世紀に建てられ、牢獄・武器庫として使われていた古い要塞カステッロ・デル・テッリトリオで、大変いびつな形をしていますが、パッラーディオは楕円形の劇場をどのように、どこに作るか細かく研究を重ね、設計図を作成しました。
この正面からみても、奥に劇場があると言う雰囲気はまるで感じられません。 -
ここで、オリンピコ劇場を含め、全部で8つのヴィチェンツァの施設に入れる共通券を購入しました。15ユーロで有効期限は1週間です。時間がある私のような人にはぴったりの券でした。
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チケット・ブースの隣にあるこの部屋には、トロンプイユ(だまし絵)のフレスコが壁一面に描かれていました。
壁にかかった大理石の碑文には、劇場の建設に貢献したアッカデミア・オリンピカの会員名が書かれているそうです。 -
こちらの壁面のフレスコが一番状態が良いように思いました。
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オリンピコ劇場の見取り図です。オリジナルの建物がいかにいびつな形をしているか、お分かりいただけると思います。一番下の部分が観客席になります。
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売店のあった部屋にも、天井の飾り縁、壁を一周しているフレスコがありました。黒みがかった単色のフレスコのテーマは、ずばり「劇場」でした。
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さあいよいよ、1585年3月3日にこけら落としを迎えたオリンピコ劇場に入って参りました。最初に、セットの奥にある黄昏時の深い青をした空が目に飛び込んできました。舞台装置が殆ど残っていない野外劇場しか知らない私にとっては、まさに驚きの瞬間でした。この壁のことを、スカエナエ・フロンスと呼ぶのだそうです。
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パッラーディオは、スカエナエ・フロンスについては、何も書き残してはいませんでした。よって、この壁の構築及び背後のセットについては、全てスカモッツィによる設計です。
舞台には中央に見える王家の扉(ポルタ・レッジア)とその両脇に、小さな門が見えます。凱旋門のような造りになっていますね。沢山のニッチェには彫像たちが置かれていますが、いずれもモデルは、アッカデミア・オリンピカの関係者だということです。もっと古い時代の人達に見えるけれど・・・ -
初演は、ギリシャ悲劇の最高傑作と称えられているソフォクレスの「オイディプス王」でした。実の父を殺し、実の母と交わり子供を儲けたという、オイディプスの話は粗筋だけは知っているのですが、舞台を見たことは、哀しいかな、一度もありません。
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観客席からは、オイディプス王の生まれ故郷でもあるテーバイ(テーベ)の町の何本かの通りを見ることが出来ます。
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王家の扉の彼方に続く道は、実際にはほんの数mなのだそうですが、遠近法により、長く伸びているように見えますね。木で作られたセットは、二つの大戦時も、爆撃される危険があったにもかかわらず、ここから動かされることはなかったそうです。
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王家の扉の上には、パッラーディオの名前が刻まれた碑文が書かれていました。スカモッツィにも1票あげたい!
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続いては、向かって左側の門からの世界と
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右側奥の世界をのぞき見します。なんだかワクワクしてきますね。
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舞台の天井に描かれたフレスコの主人公は、こん棒を持っているからヘラクレスですね。ムキムキの肉体美を披露しています。12の功業の中の空には王冠を持った天使?! ・・・のわけないかぁ・・・
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こちらは観客席です。
オリンピコ劇場は、サッビオネータのテアトロ・アッランティカ、パルマのテアトロ・ファルネーゼと共に、ルネサンス期の劇場のうち現存する三つの劇場の一つだそうです。敷地面の制約から半円形にはならず、緩やかな弧を描く半楕円形をしています。 -
観客席真上の天井には、こんな青空が広がっていました。1908年当時の劇場の写真を見たら、天井の絵柄が違っていたので、こちらはオリジナルデザインではないようです。
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観客席は区分のないロングシートで、木製。470人まで収容できるとのことですが、通常は400人がせいぜいといったところ。
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舞台にもあった彫像は、ニッチェだけでなく、カーブを描いたロッジアのエンタプラチュアの上にも並べられていました。全部で95体あって、石像と石膏像がまざっているらしいのですが、区別がつきませんでした。
流石に、トロンプイユは分かりますよ! -
この辺りが観客席背後の中央部分です。
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こんな彫像たちに囲まれた場所で、落ち着いてギリシャ悲劇に集中できるのかしら?
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現在でも劇場は年に春と秋の2シーズン公演が行われていますが、やはり観客動員数が最大で400と言うのは、興行的には厳しいものがあるようです。また、木材で作られたセットに悪影響が及ぶと言う理由で冷暖房設備がないため、夏冬の公演が難しいそうですよ。
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そうそう、見学は人数がある程度まとまってからツアーの方式で行われました。舞台裏には、スカモッツィが制作したガス灯の設備があるそうですが、火災の危険があるのとコストがかかることから、今までに使われたのはほんの数回のみだったんですって。なんと勿体無い!
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単なる観光名所ではなく、現役の劇場であることが大きな意味を持つと思いますので、なんとか500年前のやり方で上演が続けられたら良いですね。
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パッラーディオが完成した劇場を見たら、なんと言っただろう?、彼はどのような内装を思い描いていたのだろう? 等々空想にふけりながら、イタリア初の屋内劇場を後にしました。
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オリンピコ劇場の出口は、こちらの戦争モニュメントの近くでした。一瞬どこに出てきたのか、わからなくなりました。はてと・・・
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道の向こうにはバッキローネ川が流れていて、橋の向こうの広場には、、天使の乗った記念塔が見えます。町に入ってから川は見かけていないので、この道を戻れば、先ほどのオリンピコ劇場前に戻れるはずなんですが・・・
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よっしゃ! 5分ほどかかって、先ほど入った劇場の入口の門まで戻ってこれました。入口と出口が違うこと前もって教えてくれれば良いのにねえ。帰りにミュージアムショップで見たいものがあったのですが、まあ良しとしますか。
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続いて訪れたのは、パッラーディオ通りを挟んで反対側に建つこちらのルネサンス様式の宮殿、パラッツォ・キエリカーティ。注文主はキエリカーティ伯爵で、1550年にパッラーディオの設計により起工しましたが資金が続かず、完成したのはそれから130年後の1680年のことです。
建物のファサードは3つの部分に分かれていて、柱は1階部分がドーリア式、2階部分がイオニア式で、1階部分はポルティコ、2階の両端は奥行きのあるロッジアになっています。 -
宮殿が建っている場所は、以前は先ほど見かけた川の中州にあったため、パッラーディオは洪水を恐れ、建物に入るのに階段がしつらえられていました。これがまるで古代ローマの神殿のような重厚感を生んでいます。また、純白な大理石の使用、そして屋上に沢山置かれた彫像の数々も神々の住まいを髣髴させますねえ。
川の中州、島のような場所に建つ白亜の神殿・・・パッラーディオが狙ったであろう視覚効果はバッチリ反映されていました。 -
パラッツォ・キエリカーティは、1855年以降、市立美術館として一般公開されており、13世紀から20世紀にかけての絵画、彫刻等を展示していました。ここも、共通チケットで入場できます。
市立美術館だからと言って、侮るなかれ。大変優れたコレクションの数々がありましたよ。その中からいくつか紹介します。 -
のっけからひどい撮り方で、失笑を買いそうですが、これが現実です(汗)。
バロック時代のナポリ派の巨匠ルカ・ジョルダーノが数枚ありました。左上が「バト・シェバの入浴」。バド・シェバは、イスラエルの王ダビデの妻で、ダビデの息子ソロモンの母に当たります。
左下は、「カナの婚礼」。一番左にキリストの姿があります。カナ(ガラリア地方の地名)での婚礼で、キリストは水をワインに変えたとされています。共に17世紀後半の作品です。
右上は、パドヴァ出身の画家ピエトロ・リベーリの「三美神によって飾り立てられるヴィーナス」。三美神というと、ポッティチェリ思い出しますねえ・・・ -
こちらもピエトロ・リベーリの作品で「バト・シェバの入浴」。ジョルダーノの作品とは雰囲気がまるで異なります。召使たち6人に傅かれて入浴とは、贅沢の極みですね。ヴィーナスの水浴シーンに負けません。1665年。
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ジュリオ・カルピオーニの「レアンドロの体を集めるニンフ達」。
ギリシャ神話の中でも最もポピュラーな、ダーダネルス海峡をはさんだ、ヘーローとレアンドロの恋の悲劇を描いたものです。風の激しい島に住むアフロディテの女官だったヘーローは恋愛を禁じられていましたが、対岸に住む青年レアンドロと恋に落ちます。レアンドロは毎晩、ヘーローが掲げた明かりを頼りに海峡を渡り、ヘーローに会いに来ましたが、ある嵐の晩、風が明かりを消してしまったため、レアンドロは方向を失い、溺死してしまったのです。翌朝打ち上げられた彼の遺体を見たヘーローは明かりを掲げていた塔から身投げしてしまったのだそうです。
二人の悲劇は何人もの画家が絵に描いています。ルーベンスやターナーの絵が有名かな? -
ピエトロ・バルトロメオ・チッタデッラの「呪文の森から抜け出したリナルド」。
イタリアの詩人タッソが書いた「解放されたエルサレム」に出てくる十字軍の騎士リナルドと魔法使いのアルミーダを描いています。このリナルド、のちにヘンデルがオペラに仕立て、大変有名になりました。アルミーダの右横には恐ろしいドラゴンの姿も見えています。17世紀後半。 -
「死んだキリストを支える天使」フラ・センプリーチェ・ダ・ヴェローナ作。有名な作品ではないのですが、天使の来ているピンクの服とキリストの土気色した肌の色の対比が印象に残った1枚です。そして、キリストの足元に落ちている茨の冠が大変リアルです。17世紀前半。
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こちらは、16世紀後半、ヴェローナを中心に活躍した画家フェリーチェ・リッツォの「十字架降下」です。1585年~1605年頃の作品。
画面には、冷たい、石のようにさえ見えるキリストの肉体を、3人、いやよく見ると4人の天使が取りまいています。上の絵同様、天使たちのまとう鮮やかな衣装が、暗い画面からソフトなタッチで浮かび上がって見えるのがキリストの姿と好対照をなしています。 -
アントン・ファン・ダイクの「人生の4時期」。フランドル出身のファン・ダイクがイタリアのゴンツァーガの公爵家に長期滞在中に仕上げた作品です。
古代ギリシャの詩人オウィディウスは、人生を「金」、「銀」、「鉛」、「鉄」の4時期で表しましたが、幼年期、若年期、壮年期、老年期で表されることも多いですね。この絵の場合は、幼年期、老年期ははっきりわかるけれど、中央の鎧を付けた戦士と右側の女性はどう解釈すればよいのでしょうね。17世紀前半。 -
ルカ・ジョルダーノの「ローマのルクレツィア」。ルクレツィアについては、前にもどこかで書いた記憶があります。彼女は夫の友人でもある王子セクトゥスに、夫の留守中に強姦され、何があったかを夫と父に告白し、復讐を誓わせてから自殺した女性として知られています。ニュースを聞いたローマの人々は卑劣な王子とその父である王タルクィニウスを追放。ローマの王政時代はここに終わりを告げました。
ウィキペディアには、ローマを王政から共和政へと移行させる契機となった女性と書かれていますよ。17世紀後半。 -
「ローマのルクレツィア」をもう1枚紹介します。こちらはパドヴァニーノと呼ばれていたアレッサンドロ・ヴァラターリの作品です。17世紀前半。
左手の赤いカーテンが小道具としてうまく使われていますね。 -
下の絵はルカ・ジョルダーノの「ヴィーナスによって不死身にされた英雄アエネーアース」。アエネーアースは古代ローマの詩人ウェルギリウスの最高傑作と言われる叙事詩「アエネーイス」の主人公です。
彼の母ウェヌス(ヴィーナス)は、息子を気遣い、主神ユピテル(ジュピター)に彼を不死身の体にする許可を得ます。ヌミコ川で身を清め、天から運ばれた貴重な水差しの水を飲んで、たった今不死身の体になったアエネーアースが描かれています。17世紀後半。 -
カラヴァッジョ風の1枚。ジュゼッペ・ヴェルミーリオの作品で「ホロフェルネスの頭を袋に詰めるユディット」。ホロフェルネスの首よりも、滴り落ちる彼の血を無表情で眺める老婆の長く伸びた首が不気味に感じました。17世紀前半。
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ジュゼッペ・ヴェルミーリオの作品をもう1枚紹介。「イサクの犠牲」です。右手が握っているナイフと、左手が撫でている息子の頭。神に従順であろうとするあまりに苦悩するアブラハムの両極端な二つの手が見事に描かれていると思いました。これもカラヴァッジョ風ですねえ。
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ヴェネツィア派のカルロ・サラチェーニによる「読書するマグダラのマリア」です。頭蓋骨を書見台にしているのは何故かしら? 本の脇にさりげなく置かれているのは十字架ですね。17世紀前半。
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単純な風景画に見えますが、タイトルは「漁をする女性ニンフ達のいる風景」です。フランドル出身でヴェネツィアで亡くなった画家Pauwels Franck、イタリア名パオロ・フィアミンゴの作品。16世紀後半。
漁に勤しむニンフたちより画面の半分近くを占める2本の絡まった木々がミステリアスな存在に思えてきます。 -
セバスティアーノ・リッチの「人影のある遺跡のパースペクティブ」。1730年頃の作品です。思わずじっと覗き込んでしまいました。こんな宝の山があったら、持ち帰って再利用する気にもなる、そんな遺跡が描かれています。散歩途中と思われる母子、よじ登って太古の女性像に見入る軍人、どうやって運ぼうかと相談しているように見える右側の人々の姿は、想像力をいやが上にも掻き立ててくれます。
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「ある彫刻家の肖像」は、ルネサンス期のヴェネツィア派巨匠パオロ・ヴェロネーゼが同じくヴェネツィアの彫刻家アレッサンドロ・ヴィットリアを描いたもののコピー(パオロ・カリアーリ作)だそうですが、中々素晴らしい出来だと思いました。ほぼ完成した裸体像を手にした彫刻家の右側にある、倒れた像が印象的です。
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右の絵の男性ジュゼッペ・グアルドは弁護士で、ヴィチェンツァで最も著名な名門家庭の出身。右は彼とその息子たち、左は彼の妻とその娘たちの肖像画です。2枚の絵は、暫くの間グアルド家のコレクションとして保管されていましたが、後の時代に離れ離れになります。再会できたのはここ、このパラツィオ・キエリカーティで1958年のことだそうです。
画家は、ジョヴァンニ・アントニオ・ファソーロ。16世紀半ば。 -
右側の1枚は少々面白い構図なので、注目して見ました。「少女を連れた戦士の肖像」。16世紀の代表的なヴェネツィア風肖像画なのですが、一丁前にガウンを着て、右手に花を握っているあどけない少女の存在が、この場にそぐわないと言うか、なんというか。でも彼女がいるおかげで、戦士の方は固さが取れて、リラックス。なんとなくほっとさせられた1枚でした。バッサーノ・デル・グラッパ出身でヴェネツィアで活躍したフランチェスコ・ダル・ポンテの作品です。16世紀後半。
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ルネサンス期最後の巨匠と呼ばれるジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロは有名ですが、こちらは息子ジャンドメニコ・ティエポロの作品。彼はロレンツォ・バッティスタ・ティエポロの兄でもあります。家族総画家一家ですね。父親の作品もあったのですが、なぜか1枚も私のお眼鏡に叶わなかったらしいのです(笑)。
ジャンドメニコはこのような眼光鋭い男性の頭部の肖像を何枚も描いています。調べてみたら、この絵と同じような額の広い、ターバンを頭に巻いた男たちの絵が沢山出て来て驚きました。 -
アンドレア・デル・サルト?とクエスチョン・マークがついていた「若い日の洗礼者聖ヨハネ」。もし本物なら制作は16世紀初めということになります。長い赤いドレープは殉教者の印だそうです。
まだ少年時代と思われる若き聖ヨハネを描いたこの絵は、2012年に亡くなったジュゼッペ・ロワが遺した、100枚以上の絵画・彫刻・版画コレクションの中の一枚で、公証人が作成したリストの中には、画家からの絵画の請求書の写しまで収められていたそうです。 -
こちらもジュゼッペ・ロア・コレクションの一つで、「カインとアベル」。ヴィチェンツァ出身の画家フランチェスコ・マッフェイ(1605年-1660年)の作品で、コレクションにあった10枚以上の彼の作品のうちの1枚です。
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フェッラーラのエステンセ城で個展が開かれていた、あの印象的なボルディーニの肖像画がここにもありました。モデルはAlice Thut夫人だそうです。読み方がわからないので原語で表示しました。
ボルディーニにしては控えめですが、背景の色調がいかにも彼らしいですね。フェッラーラのエステンセ城にあった絵画はこちらからどうぞ。
http://4travel.jp/travelogue/11163767
絵はまだまだありましたが、この辺で終わりにして、宮殿内を見て回ります。 -
大きな地球儀と天球儀があったので、覗いてみました。
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あらあら! 台湾ははっきり正確な形で記載があるものの、その北には残念ながら日本列島らしき形は何もない!
1640年にオランダ人ヘンリクス・ホンディウス2世によって作られたものだそうです。彼はフランドルの著名な地図製作者ヨドクス・ホンディウスの息子で、1630年には東西両半球の図を販売開始しています。面白い!! -
ちなみに、こちらは天球儀です。星座は今と変わらないのでしょうね。
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「男性と女性のプロフィール」は、ヴァレリオ・ベッリによるレリーフ(1540年頃)。ヘレニズム時代のレリーフを意識したものでしょうが、本当に端正で質が高いですねえ。
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ネロと書かれていたので撮ってみました。なんという首の太さ!
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宮殿は、前述の通り、1855年以来市が管理していますが、美しい装飾が至る所で見ることができました。主に天井の装飾には凝ったスタッコが多用されていました。スタッコ装飾の殆どは、バルトロメオ・リドルフィによるものです。彼の装飾の特徴は、フレスコと組み合わされたスタッコで、パッラーディオ設計の宮殿、邸宅、ヴィッラでは、多くの彼の作品を見ることが出来ます。
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少々ごてごてしすぎているこの天井については、リドルフィによるものなのか、確認しませんでした。
リドルフィについて詳細は分かっていませんが、パッラーディオより10年早く1570年頃に亡くなっています。 -
「大空の間」と名付けられたこちらの部屋の天井には、まさしく様々なものが浮遊する大空が広がっていました。ここからの天井のスタッコ部分についてはリドルフィによる制作です。
フレスコを描いたのはヴェローナ出身のマニエリスム期の画家ドメニコ・リッチオまたの名をブルサソルツィ(1516年-1567年)。中央には太陽と月の馬車、そしてその周りには十二宮を始めとした星座が散りばめられています。また所々にあるモノクロの枠の中には、ギリシャやローマ時代のコインに描かれた像を模写したものが描かれていました。 -
こちらは、「神々の評議会の間」の天井です。フレスコは、ジョヴァンニ・ツェロッティ(1526年-1578年)作。16世紀半ばのヴェネツィアでは最も人気の高かったフレスコ画家の一人でした。
空の上では、なるほど神々たちが集まって議論の最中です。一番左に描かれているのが三又の鉾を持ったポセイドン(ネプチューン)かしら? 他の神々はどなたなのかはっきりわかりませんね。 -
「神々の評議会の間」そのものは殺風景で、それほど見る物はありません。宮殿のあらゆる場所で未だに修復作業が行われていると聞きましたので、今後ドラマティックに変貌を遂げるかもしれません。最初の設計に忠実に、長い時間をかけて修復を行っている最中だと書かれていました。
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ドメニコ・リッチオ(ブルサソルツィ)のフレスコが見られるもう一つの部屋は、こちらの「ヘラクレスの間」。部屋全体のスタッコ装飾はバルトロメオ・リドルフィの手によるものです。フレスコのない部分に施されたグロテスク装飾も楽しいです。
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フレスコはお馴染み「ヘラクレスの12の功業」が天井一面に描かれていました。16世紀末の制作。
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天井と壁が交差する辺りをぐるりと取り巻くフリーズが素晴らしかったのは、「トラヤヌスの記念柱のフリーズ」。ローマにあるダキア戦争に勝利したトラヤヌスを称える記念柱に描かれたフリーズのレリーフを、そのままフレスコで描いたものです。本物のフリーズは柱を螺旋状に23回まわっていて、全長190mもあるそうですから、ここに描かれているのはそのごく一部でしょう。
なお、トラヤヌス帝は記念柱には全部で59回登場しているそうですが、ここではトラヤヌス帝だけ、茶色の衣装を着ているので、どこにいるかすぐわかりますね。 -
2階建てかと思っていましたが、低い天井のアティックがその上についていました。日本人にしてみれば、十分な高さの天井と言うべきですね。ここには、前述のジュゼッペ・ロア・コレクションの絵画やエッチング、本などが保管されていました。
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窓が小さいので薄暗いですが、天井が低い分、とても落ち着くことの出来るスペースでした。私が寝室にするんだったら、間違いなくここに決定。って誰も聞いていない?
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ちらっと見えた中庭部分です。
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最後に、2015年に80歳の誕生日を迎えた記念に開かれていた、シチリア出身の画家・彫刻家ピエロ・グッチョーネの個展から2枚紹介しましょう。
画家は、1966年のヴェネツィア・ビエンナーレを皮切りに多くの国際的な展覧会に出展して来ました。展覧会のタイトルは「月と海の物語」。「陸と海と空の消失点のある境界線とその斬新的な溶解」という難しい副題がつけられていました。彼の描く水平線と空を隔てる細い線は、現実と夢の境界線のようだと言われているそうです。 -
「波と月」。2012年から2014年にかけて描かれた最新作の一つです。
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そしてもう1枚は、ずばり「風景」。2004年~2005年の作品です。これは海岸に落ちていたごみで作ったように見えますね。パラッツォ・キエリカーティ。建物だけでなく、展示も充実していて素晴らしかったです。
長くなりましたので、この続きは、「イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その83 ヴィチェンツァ2」で。
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この旅行記へのコメント (2)
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- マリアンヌさん 2016/11/04 12:29:44
- ヴィチェンツァ♪
- junemayさん、こんにちわ。
ヴィチェンツァもまだ行ったことがないのです。
さすが噂に聞くとおりパッラーディオづくしですね。
そしてオリンピコ劇場は白眉でしょうか・・・
少し中途半端版としては、パルマの劇場を見たことがありますが、やはり違いますね〜
ヴェネツィアのカ・ドーロのご主人はビチェンツァにもお屋敷があったんですね。さすがお金持ち!
カ・ドーロの繊細な造りは私の心を捉えて離しませんが、こちらは割りと質素な雰囲気ですね。
ティエポロの父?のほうですか、ウーディネの教会で見ました。
のびやかな筆致が魅力的だったような。
まだ2がるとのこと。
楽しみにしています。
マリアンヌ
- junemayさん からの返信 2016/11/05 22:29:07
- RE: ヴィチェンツァ♪
- マリアンヌさん こんばんは
年末にかけて、国内旅行が忙しいjunemayです。
友人と4泊5日で紀伊半島西端の新宮まで熊野古道を巡ってきました。帰りに奈良によって、正倉院展とたくさんの仏像を愛でて参りました。神社仏閣も教会と同じくらい好きです。
ヴィチェンツァはパッラーディオ一色ですが、それ以外にも見どころ豊富で、私のヴェネツィア再訪を止めた程です。イタリアは町ごとに攻めていかないと、何が転がっているかわかりませんね。ここで休養を取ろうと思っていたのですが、欲張りな私のこと、時間がもったいなくて結局最後の日まで歩きまわってしまいました。
ボローニャ同様交通の便が良いので、ヴェローナ、パドヴァ、ヴェネツィアに日帰りするのにも最適のロケーションです。
パッラーディオの建築は古代建築をお手本に計算されつくした完成美が見られますが、立派すぎるきらいがあるような気がします。上っ面しか見ていないので、彼の作ったものの素晴らしさについては、もう少し説明が必要だったと感じました。
もう暫くお付き合いくださいね。ありがとうございました。
junemay
> junemayさん、こんにちわ。
>
> ヴィチェンツァもまだ行ったことがないのです。
> さすが噂に聞くとおりパッラーディオづくしですね。
> そしてオリンピコ劇場は白眉でしょうか・・・
> 少し中途半端版としては、パルマの劇場を見たことがありますが、やはり違いますね〜
>
> ヴェネツィアのカ・ドーロのご主人はビチェンツァにもお屋敷があったんですね。さすがお金持ち!
> カ・ドーロの繊細な造りは私の心を捉えて離しませんが、こちらは割りと質素な雰囲気ですね。
>
> ティエポロの父?のほうですか、ウーディネの教会で見ました。
> のびやかな筆致が魅力的だったような。
>
> まだ2がるとのこと。
> 楽しみにしています。
> マリアンヌ
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