2015/05/30 - 2015/05/30
7位(同エリア47件中)
junemayさん
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- クチコミ42件
- Q&A回答0件
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- フォロワー41人
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
モデナからとんぼ返りでフェラッラへ。直通列車があるかなと期待したのですが、ボローニャ乗り換えの列車しかありませんでした。フェッラーラはラヴェンナに近いので、この2つの都市は一緒に回ることが出来るのですが、両都市とも見る物多すぎなので、1日で2都市探訪はお勧めできません。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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フェッラーラ最初の写真は、駅からメインストリートのカブール大通りに至るまでの気持ちの良い公園です。
フェッラーラでは1264年に、それまで辺境伯だったエステ家のオビッツォ2世がシニョーレ(僭主)となり、世継ぎがなくてお家断絶となり、教皇に土地を没収される1597年まで、フェッラーラを支配してきました。
15世紀の領主エルコーレ1世(1431年〜1503年) は政治的手腕に長け、芸術にも造詣深く、ヴェネツィア共和国との戦争をうまく和解に持ち込み、町を破壊から守りました。パトロンとして音楽家を多数招聘し、また今に残る多くの建築物を建てたのもエルコーレ1世です。 -
エルコーレ1世は建築家ピアジオ・ロッセッティに、町を取り囲む城壁を拡張させました。城壁は今でも全長9kmの区間残っていて、台形に町を囲んでおり、イタリアではルッカに次いで状態の良い城壁だと言われています。
高さはあまりありませんが、目の前に現れた城壁も15〜16世紀に建造されたものです。 -
カブール大通りに出ました。あまり面白みのなさそうな道だけれど、街路樹の緑が濃い通りでした。
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大通りで目についたのは、フェッラーラ県の県庁舎。
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そして新しいけれど、とてもユニークな建物の森林警備隊本部。
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お役所とは思えない位(失礼!)豪華なデザインです。
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棟続きの郵便局は古代ローマ寺院のようでした。ここに入って行って、切手1枚買うのは気が引けます。
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駅から歩くこと10分強で、エステンセ城カステッロ・エステンセに到着です。あらあら、また修復中だぁ・・・
角に4つのタワーが聳える、質実剛健な防衛の拠点と言う雰囲気のお城です。
「優美」と言う言葉には程遠い、威圧感に満ちたレンガ造りの要塞は、フェッラーラ市民の暴動に懲りたエステ家のニッコロ2世が、1385年、彼らの古い屋敷の北側に強固な要塞の建築を命じたのが始まりです。 -
建築家バルトリーノ・ダ・ノヴァラは元々そこに建っていたレオーニの塔(トーレ・デイ・レオーニ=ライオン)を利用して要塞を拡張し、濠を作り、新たな塔を3本建設。元々の屋敷とを空中通路で結んで、いつでも相互に行き来できるような設計を行いました。
1400年代後半から1500年代になると、エルコーレ1世が行った町の城砦の拡張により、防衛的な重要性は次第に薄れていき、一族は城内に住居(アパルトメント)を新設、内装や装飾にこだわるようになります。
城を現在見る外観に仕立て上げたのは、16世紀後半建築家ジローラモ・ダ・カルピによってですが、内装はその後も何度も改修され、エステ家がモデナに逃れてからは、教皇庁からの使節の居城となりました。 -
2階にあったパネルですが、この方がエルコーレ1世(1431年〜1505年)です。イタリアン・ルネッサンスにおける最も重要なパトロンの一人です。
ちなみにこの絵は、モデナのエステンセ美術館に所蔵されていて、大聖堂にもその絵があったドッソ・ドッシによって描かれたとのことです。エステンセ美術館見逃したわぁ・・・ -
北側にあったこちらの建物がてっきり、元エステ家の屋敷だと思って撮ったのですが、これはフェッラーラ商工会議所でした。方向が逆だってば!
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城の入り口発見! 3つある出入り口の内の一つです。観光客はここから入場します。
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狭い廊下を過ぎると、濠を渡る橋に出ます。ご覧になってお分かりの通り、この橋は跳ね橋になっています。
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写真の左側に見えるアーチ部分が跳ね橋です。工事の足場の右側にも跳ね橋があるのが見えますでしょうか?
白い石を利用した外に飛び出したバルコニーを作ったのは、カルピです。塔の先端が確認できませんが、傾きのある屋根を付けて塔をより美しく飾り立てたのもカルピだそうです。でもこれじゃあ わからんがな〜!
2012年の地震で、一番古いレオーニの塔の先端が崩落したと聞きましたので、その影響があっての工事かもしれません。 -
大きな通路と小さな通路。こんな細い鎖で本当に橋が上がるのかしら?
欄干の上にちょこっと座っているあの子可愛いねえ・・・ -
跳ね橋から見た東側のエステンセ城です。お濠の水はお世辞にも綺麗とは言えませんでした。
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跳ね橋を渡ると、中庭に出ます。イタリアで初めて、窓枠の装飾が全くない建物を見たような気がします。「地球の〇き方」には「優美な中庭」と書かれていましたが、実際はとても質素。
積み上げられている丸い石は、石弓用の弾(たま)だそうです。これも質素。 -
奥に見える2つの井戸は干ばつの際に利用されたようです。手前にも井戸のあったような跡があるので、昔はもっと沢山井戸が掘られていたのかもしれません。
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1階の城の創建者ニッコロ2世の部屋に入ります。ゴシック様式の部屋はクロスヴォールトとリヴに沿って花の房のような模様で装飾されていました。左側にニッコロ2世の肖像がありましたが、半分切れているし・・・
ここにはカルピが改修する前の城の模型がありました。
私の写真だとビフォーアフターがわからないので、サイトから工事シートのない写真をお借りしました。早速比較してみることにしましょう。 -
大きな違いは
・白い石が特徴のバルコニーが建物の周りをぐるりと一周していること。
・塔が更に高くなり、屋根の上に塔屋が追加されたこと
の2つでしょうか? 同じ方向からの写真が見つからなかったので、屋根の形の変化だけ注目してくださいね。 -
ニッコロ2世の部屋に続いて、歴代領主のアルベルト、ニッコロ3世、レオネッロの3つの部屋があり、最後にボルソ・デステ、フェラッラ公爵にして最初のモデナおよびレッジョの公爵の部屋がありました。彼の時代に、フェッラーラはフェッラーラ公国となります。
壁にはご覧のような、時代ごとの政治的、文化的な出来事が書かれているパネルがずらりと並んでいましたが、あまりにも数多すぎて殆ど素通りです。
分かったのは左側の絵画が、オランダの画家ロジャー・ファン・デア・ワイデンによって描かれたレオノッロの息子フランチェスコ・デステ (1430年〜1470年)の肖像だということだけです。彼はオランダに留学していたようです。 -
中世の本のパネルです。うっとりするような美しい装丁でした。
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私にしては珍しく撮る対象に乏しいお城でした。こちらは城の東側にある半月塁を拡げて台所として使われていた部屋です。
ずらりと並んだ竈が壮観! ということ以外には感想はありません。 -
お次はレオーニの塔に突入します(写真左側の塔)。
前述したように、城の最初の建築家バルトリーノ・ダ・ノヴァラは、1385年の建築開始時点で、建てられて少なくとも100年以上は経っていた塔を土台に城を構築しました。塔は聖ミカエル城の一部で、町の北側を見張る時計塔だったそうです。 -
レオーニの塔は、新しい城の中に組み込まれたにもかかわらず、他の部分とは建築スタイルが異なっています。城の最も古い部分ということもあってか、なんだかおどろおどろしい雰囲気です。
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レオーニの塔に続いてやってきたのは、暗くて忌まわしい歴史を持つプリジオーニ(ダンジョン・地下牢)です。
ジューリオ・デステ(1478年〜1561年)はエルコーレ1世とその妻の小間使いであったイザベラとの間に出来た私生児で、大変ハンサムだが、思慮にやや欠ける青年。彼は同じく異母兄弟で後のフェッラーラ公アルフォンソ1世の妻 ルクレツィア・ボルジアの小間使いだったアンジェラと言う女性を巡り異母兄弟の枢機卿イッポリート・デステと争い、イッポリートの差し向けた刺客によって、片目をえぐられてしまいます。
怒ったジューリオはアルフォンソ1世に直訴しましたが、イッポリートはすでに枢機卿の身。アルフォンソ1世はローマ教皇にとやかく言われるのを嫌い、彼を不問に処したのですが、それでは収まらないジューリオは、今度は勢力争いで日陰の身だった、アルフォンソ1世の実弟であるフェランテと共謀し、アルフォンソ1世およびイッポリートの暗殺を謀るのです。陰謀は事前に発覚し、ジューリオはなんとここに53年間も幽閉されていたのだそうです。
フェランテは独房に34年間幽閉された後、獄中死していますが、ジューリオは81歳で釈放されています。 -
こちらが二人を牢に閉じ込めたアルフォンソ1世(1476年〜1534年)。
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そしてその妻ルクレツィア・ボルジアです。堕落した教皇の典型と言われているアレクサンドル6世が愛人との間に作った娘で、絶世の美女!
ボルジア家の政略により、三度結婚しています。彼女自身についてはあまり詳細がわかっていないようですが、多くの画家によって絵の題材にされてきました。 -
アルフォンソ1世とルクレツィアとの子エルコーレ2世(1508年〜1559年)です。
なお、今回の旅で私が先に訪れたヴィッラ・デステは、エルコーレ2世の弟に当たるイッポリート2世・デステがローマ教皇の座を狙う政争に敗れ、隠居生活を送った場所です。
沢山人の名前が出てくるので、もうお手上げ状態。
ヴィッラ・デステに関してはこちらをどうぞ
http://4travel.jp/travelogue/11033158 -
このダンジョンには、他にもまだ凄惨な歴史を秘めていました。不幸な恋人たちと呼ばれているウーゴとパリシーナの物語は、ここに来て初めて知りました。
ジューリオ達の悲劇から遡ること80年前、ニッコロ3世( 1383年〜1441年)の愛人ステッラとの間の長男ウーゴが恋をしてしまった相手は、義理の母(ニッコロ3世の2番目の妻)であるパリシーナだったのです。2年後にそれはニッコロ3世の知るところとなり、二人はダンジョンの独房に捕らわれの身となった後、1425年に斬首刑となりました。ウーゴ19歳、パリシーナは21歳だったそうです。 -
わずかに窓から光が入る独房の一つです。天井にはたくさんの落書きが書かれていました。当時のものなのかしら・・・
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暗すぎて良く分かりませんでしたが、これはトイレ? 傍に吊るしてある鎖が不気味です。
長居したい場所ではないので、さっさと見学を切り上げて2階に向かいました。 -
再びパネルの嵐です。今度は女性達が登場します。
エルコーレ1世・デステの妻エレオノーラ・ダラゴン。アラゴン王国がナポリを支配していた頃のナポリ王フェルディナンド1世の娘です。 -
そして、エステ家の女性では最も有名なイザベラ・デステ。エルコーレ1世とエレオノーラ・ダラゴンとの娘で、後にマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガと結婚。マントヴァ侯妃になりました。
この絵は当時すでに60歳を過ぎていたイザベラがティツィアーノに依頼して描かせた「イザベラの公式な肖像」です。1536年頃の作品。
私も描いてもらおうかなあ・・・公式な肖像画? -
アンナ・スフォルツァ。彼女は、ミラノ公国の統治者だったスフォルツァ家出身で、アルフォンソ1世の最初の妻となりましたが、わずか21歳で亡くなっています。
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レナータ・デ・フランシアはルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュの王女で、1528年にエルコーレ2世と結婚しました。
彼女フランス王女にもかかわらず、カトリックではなく、カルヴァン派(プロテスタントの一派)を信仰していたため、後に夫により異端者として宗教裁判にかけられてしまいます。 -
2階の中庭沿いに並んでいる歴代のエステ家のアパルトメントのパネルをちらっと眺めてから、開放的なオレンジの庭に出て、ようやく一息つきます。やっと暗くてじめじめした環境から抜け出した気分です。
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屋上庭園は、ジローラモ・ダ・カルピのプランに基づき、アルフォンソ1世の時代に作られました。ここで一家はオレンジのかぐわしい香りを楽しみながら、誰にも知られることなく、誰にも見られることなく、自然と親しんだようです。
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礼拝堂への途中にあった、アルフォンソ2世のドレッシングルームの壁には、バッカスの神話から3つの場面がフレスコで描かれていました。カミッロ・フィリッピの工房による作品と書かれていました。
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こちらがそのアルフォンソ2世(1533年〜1597年)です。
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小さな公爵(ドゥカーレ)専用の礼拝堂は、とてもエレガントな空間でした。1590年〜91年に、エルコーレ2世夫妻の意思を継いだ息子のアルフォンソ2世によって造られました。
前述したように、カルヴァン派を信仰していたエルコーレ2世夫人レナータ・デ・フランシアの要望により、聖なる偶像のない、幾何学模様のパネル装飾が採用されています。カルヴァン派では偶像崇拝を禁止しているんです。
金属枠にはめられた石の文様が見事ですねえ。 -
礼拝堂の天井部分のフレスコには、パステルブルーの背景に4人の福音記者達の姿が描かれていました。福音記者たちは偶像崇拝の対象ではないからいいのね? よくわからないけれど・・・4人は天使達に囲まれています。一番下にいる聖ヨハネはどう見ても女性のように見えます!
四隅にはエステ家の紋章である金の冠を被った白鷲の姿が、やはり天使達によって掲げられていました! -
今思えば、ここが一番城で落ち着いていられる空間でした。
その理由は? すぐにわかりますよ。 -
The Chamber of the Dawn 夜明けの部屋 トーレ・デイ・レオーニ(ライオン塔)の中にありました。
アルフォンソ2世が使っていた部屋で、天井には1日の4つの部分を表すフレスコが描かれていることで、その名が付きました。
奇妙なのは、この無数に貼りついている白い紙?
フレスコを修復した跡なのでしょうか? 目障りったらありゃしない。部屋の中央に鏡が置かれていて、そのおかげで首が痛くならずに見られるようになっているのですが、あまりに白い紙の数の多さに興ざめです。 -
画面一番下の絵が「夜明け」。翼のある女神が、太陽の戦車を引く馬達の手綱を持って進んでくる場面です。
時計回りに進んで次は「昼」。松明を2本持って先行する「夜明け」の後ろを、栄えある輝く「昼」の戦車が進んでいきます。 -
お次は「夕暮れ」。「昼」の戦車は別れを告げ、地平線の彼方に去っていこうとしています。
最後は「夜」。月の女神セレネが恋人のエンディミオンと逢瀬を楽しんでいます。エンディミオンはセレネから永遠の眠りを与えられたため、いつも夢の中にいるのだそう。
中央には、時を司る老人が「生」と「死」の女神たちと一緒に座っています。解説がなかったら、まったくわからないところでした。 -
お次の部屋はSaletta dei Giochi ゲームの小さな部屋とでも訳すのでしょうか?
ここの天井も凝っていましたが、ご覧の通り白い紙が一面に貼りつけられていて興ざめ状態が続きます。
四方には古代ローマのゲームの場面が描かれています。下はボクシングのような競技の場面で、反対側はバッカナルという酒の神バッカスにちなんだ「どんちゃん騒ぎ」なのだそう。短い方の辺には、グラディエーター達の姿を見ることが出来ました。 -
天井中央には、古代ローマで行われていた子供たちの遊びの様子が生き生きと描かれていました。四季の遊びと名付けられたこちらのフレスコは文句なく美しかったです。
アルフォンソ1世の趣味によるもので、1570年頃のバスティアニーノとルドヴィコ・セッテヴェッキの作品です。 -
続いての部屋は、同じくゲームを題材にしたサロンです。前の部屋よりずっと大きい。こちらもイライラさせられる天井ですが我慢我慢。
同じ画家による素晴らしい古代競技の数々に目を見張ります。
ここでは9つしか写っていませんが、全部で11の場面が描かれています。中央はお手玉のような競技、その左にはおなじみ戦車競走。解説にはグレコローマンスタイルのレスリングもあると書かれていましたが、どれだろう??? -
途中のギャラリーには、15世紀終わりころのフェッラーラの城壁が再現されていました。二重の城壁かと思いましたが、そうではなく、外側に新しい城壁が作られ、内側の城壁がまだ壊されない前の時代なのだそうです。
こちらは南側・・・ -
そして北側からの1枚。南側の方が建物が密集していることが良く分かりますね。
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この先は1554年にあった城の半分を焼失した壊滅的な火災の後、エルコーレ2世の命を受け改装された「アパルトメント・デッラ・パティエンツァ」忍耐のスイートと呼ばれている住居部分の天井です。
これはエステ家の紋章白い鷲をアレンジしたものでしょうか? -
前述したように、エルコーレ2世はアルフォンソ1世とルクレツィア・ボルジアの長男で、弟のイッポリート2世(ヴィッラ・デステの主人)同様、芸術のパトロンとして知られています。
今までの部屋と全く異なった。沢山の太陽がさんさんと降り注ぐ大胆なデザインの天井でした。 -
こちらも同じスイートの中にあった「ヘクトルとアンドロマケの部屋」。
二人はギリシャ神話 トロイ戦争に出てくるカップルです。アンドロマケは夫ヘクトルをアキレスに、子のアステュアナクスはアキレスの子ネオプトレモスに殺されます。
中央のトンドに描かれているのは、獰猛な顔つきをしたネオプトレモスに子供を奪われた場面のようです。 -
窓から外を眺めると、ちょうど城とは跳ね橋でつながっている、濠の中に飛び出した建物が良く見えました。
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ギャラリーでは、フェッラーラ出身の画家ジョヴァンニ・ボルディーニ(1843年〜1931年)の絵画が沢山飾られていました。はっきり言ってお城よりこの画家の絵の方が気にいりました。
こちらはボルディーニ60歳の頃の「自画像」。1911年。 -
「画家のテーブルの一角」1897年。
細長い構図がとてもシャープで、どのくらい大きなテーブルなんだろうかと想像してしまいました。 -
これもボルディーニの署名がありますが、タイトルが分かりませんでした。
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イチオシ
「花火」1894年。
そうそう、ボルディーニは花火を散らしたような画法を確立した人だそうです。とても新鮮。 -
「2頭の白い馬」1881年〜1886年。今まで見た絵とはまるで違った独特の画法ですねえ。
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「ピッコロ・スベルカソウの肖像」。1891年。スベルカソウ家のおちびちゃんといったイメージかな? 脚を投げ出した子供らしいポーズが良いですねえ。
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イチオシ
「ピンクの女性−オリヴィア・デ・スベルカソウ・コンカの肖像」1917年。上の子供とはどういう関係なのかな? およそ26年ほど後の絵です。目と眉毛が似ているような気がします。
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すっかりボルディーニに魅せられて、城のことを疎かにしてしまいました。
こちらは、エルコーレ2世が実際に政治を司り、裁判を開催したという「統治の部屋」の前室です。楕円形、八角形、六角形、菱形などのパネルが天井に埋め込まれているのが特徴的です。
パネルの周りのデザインもグロテスク等様々な図像が使用されていて、複数の職人による手仕事であることが伺えます。1554年の火災〜1570年の地震までの間に構築されたと言われています。 -
こちらは「地理の間」4本の塔のうちのマルケサーナ塔の2階部分に当たります。
この部屋の装飾は、エステ家亡き後の住人教皇庁の使節 枢機卿トマゾ・アレッツォにより、1816年〜1830年頃に行われました。
ここの天井も変わっていますねえ。モノクロームの八角形、四角形の間に色彩豊かなメダリオンが埋め込まれています。
壁にはだいぶ消えかかっていますが、部屋の名前の由来となった地図のフレスコが何枚もかかっていました。 -
でもねえ・・・白い紙?が鬱陶しくて、見る気を削いでしまったのが現実。この部屋などはよくまあ写したものだと・・・
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このため、じっくりと見ることもなく、最後の部屋まであっという間に来てしまいました。「紋章の間」です。
ここはこの城における最後の大変換を遂げた部屋なのです。
壁一面に二重に並べられた紋章の数々は、城が教皇領になってからのものです。クレメンス8世(在位 1592年〜1605年)からピウス6世(在位 1775年〜1799年)に至るまでの教皇の紋章と、その上には教皇庁の使節だった枢機卿らの紋章がぐるりと壁を一周しています。 -
壁には沢山のフレスコが描かれていましたが、1857年にピウス9世がここを訪問した際に新しい装飾を行って、以前の壁をふさいでしまいました。
今あるのは、フェッラーラの城を始めとする代表的な領地内の町や修道院、広場、回廊などの絵と、そして、どなたのだかわからない、数え切れないほどの紋章です。 -
少々残念なエステンセ城でしたが、イタリアを代表するエステ家の血なまぐさい歴史を垣間見ることができて、勉強にはなりました。
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帰りは入場した時とは反対側の跳ね橋から。
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ピアツェッタ・デル・カステッロ 城の前の小さな広場に出ました。
目の前に小さなジュリアーノ教会は1405年の創建。エステ家が領主だったころからこの教会はフェッラーラの名門アヴォガーリ家の庇護の元、ホテル経営者、金細工師、漁師、魚屋、狩人などの守護聖人聖ジュリアーノに捧げられてきました。 -
2012年に起きた地震の影響で、現在は立ち入ることが出来ないとのこと。イタリアは中央部だけでなく、北部でも地震が思っていたより多く発生しているんですね。
聖ジュリアーノという人は、数奇な運命の持ち主で、親殺しをした後で聖人と呼ばれるまでに上り詰めた人です。ファサードバラ窓の下には、聖ジュリアーノが誤って両親を殺す場面のレリーフがありました。15世紀初頭。 -
後ろを振り返ると、入場した時とは印象が異なるエステンセ城の裏側の姿が目に入りました。
塔の先っぽの白い工事シートと城内の修復を示す? 白い紙がすべてなくなった頃に再訪したいなあ。 -
柱廊が続くフェッラーラの旧市街に入ってきました。
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歩行者専用の道ジュゼッペ・ガリバルディ通りを進んでいくと、黄色いアーチが見えて来ます。
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そしてアーチを潜り抜けると、そこが町の中心ピアッツァ・ムニチパレ 市庁舎広場でした。
先っぽがやや太くなったごっつい「ヴィットリアの塔」のある右半分の建物と、左側の大理石製の優雅な階段を持つ山吹色の建物に分かれているみたいに見えましたが、ここは全て中世のエステ家のドゥカーレ宮殿でした。向かって右側の建物が最初に工事を開始したのは1245年のこと。現在見るような姿になったのは1480年頃のことです。
大聖堂へは、広場の反対側に見えているもう一つのアーチをくぐっていきます。 -
左側にあった山吹色の建物には、カステッロ・エステンセには見られなかった美しい窓枠が目を惹きます。壁にあるのは日時計。1869年に設置と言うから、割と最近です。
現在こちらの建物は市のギルドホールになっていて、いくつものホールやエステンセ城に至る通路があり、平日にはガイド付きのツアーも行われているとのことです。残念ながら今日は土曜日でした。 -
踊り場にクーポラのついた、ドゥカーレ宮殿のオシャレな階段を横目にアーチを抜けて大聖堂へと向かいます。
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じゃあ〜ん。
フェッラーラの守護聖人サン・ジョルジョ(聖ゲオルギウス)に捧げられた大聖堂です。同じ高さの三連ファサードが独特ですねえ。方立のある連窓がずらーりと並んで壮観です。ロマネスクとゴシックの組み合わせ 良いですねえ。 -
赤と白の大理石製であるところはモデナの大聖堂に似ていますね。三角破風を形作るギザギザのアーチの連続が大変綺麗。中央部分には二本の尖塔を備えた柱がまっすぐに伸びていて、その途中にも二重のポルティコがありました。
大聖堂はまだお昼休み中のようで閉まっていましたので、先に大聖堂付属の美術館を回ることにしましょう。 -
大聖堂の南側に広がるトレント・エ・トリエステ広場です。広場の南側には、両側にロッジアがついた時計塔が立っていました。
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両側のロッジアは、ジョヴァン・バッティスタ・アロエッティが建てた「公証人のロッジア」と呼ばれています。それぞれ形が全く異なるのが面白い。
時計台にはどういう歴史的背景があるのかなと調べてみたけれど、な〜んにも出てこない。あるガイドブックには、この時計塔が「エステ家ドゥカーレ宮殿の原点だった」と書かれていましたが、本当かしら・・・ -
こちらは、大聖堂の正面にある、ヴィットリア塔のある市庁舎の建物です。
古そうに見えますが、実は20世紀の建物です。1923年から5年の歳月をかけて、中世 13世紀の創建当時の様式に忠実に建て直されたものです。度重なる地震、そして第一次世界大戦とそれに続く占領で建物は崩壊寸前だったようです。 -
市庁舎のメインゲート前には、左右異なった台座の上に彫像がありましたよ。
向かって右側は、エステ家のニッコロ3世の騎馬像。そして左側で笏を持ち座っているのはニッコロ3世の息子公爵ボルソ・デステです。
ニッコロ3世の騎馬像のある台座は珍しい形ですよね。1451年頃、ローマ帝国時代の凱旋門をイメージして作られたと言われています。ボルソ・デステの彫像は1454年に完成。当初ラジョーネ宮殿前に置かれていましたが、1472年公爵の死を機に現在の場所に移されました。 -
公爵ボルソ・デステの彫像のある柱と台座を下から見上げた1枚です。
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市庁舎の前のマルティーリ・デッラ・リベルタ通りが北の方向にまっすぐに伸びています。左側にずっと続くのが市庁舎の建物。その先にエステンセ城の塔の一つが小さく見えていました。
こっちから歩いて来れば近かったんだと、地図の読めない女はつぶやく・・・ -
大聖堂の南側に位置しているトレント・エ・トリエステ広場を挟んで、今は使われなくなったサン・ロマーノ教会の建物が、大聖堂付属美術館になっていました。
昼休み時間でも博物館や美術館は開いていることが多いので、忙しい旅人にはありがたいです。 -
人が溢れていた広場から一歩中に入ると、ここでも静かな時間と空間が広がっていました。いつものことながら、変わり身の早さに驚かされます。
大聖堂付属美術館は1929年にオープンしましたが、ここに移ってきたのは2000年のことだそうです。美しい回廊部分を中心にいくつかの部屋に分かれて、大聖堂所縁の美術品、聖遺物などが展示されています。 -
サン・ロマーノ教会は、990年には存在していたという古い歴史ある教会です。1287年にはエステ家がパトロンを引き受け、徹底的な修復を開始、1407年にも二度目の修復を行っています。
回廊は建築時期が長年にわたっていますが、柱の中には10世紀の創建当時のものがあるそうです。オリジナルの床部分は今の地面より1.5m下にそのままの姿で埋まっていると聞きました。 -
中庭越しに、大聖堂の鐘楼がちょこんと顔を見せてくれました。大聖堂の鐘楼にしては寸が足りないような気がしたのですが、すぐ後で未完成であることを知ることになります。
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何故か最初のパネルは、ファラ・アンジェリコの受胎告知でした。ここにあるわけはないのですが、1年以上たってしまったので、すっかり理由がわからなくなっています。
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何ともまあ可愛らしいコズモとダミアーノ、双子の医者の守護聖人です。メディチ家の守護聖人であることでも有名ですね。1440年〜1470年頃。
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アントニオ・フォスキーニのデザインによる大聖堂の鐘楼をジョヴァンニ・ベネデッティが模型にしたものがありました。1790年。
そうかあ・・・やはり先端は尖塔とするプランだったのですね。後でじっくり見てみようっと! -
フィリッポ・ソラーリとアンドレア・ダ・カロナによる大聖堂の守護聖人「サン・ジョルジョ」。1428年頃。パラッツォ・パラディーゾにあった大学の中庭を飾っていたもので、15世紀のフェッラーラ芸術の最高峰の一つと言われています。
対になっている「サン・ジャコモ」は貸し出し中でした。 -
8世紀の説教壇です。ラヴェンナの職人の手によるもので、植物や動物がモチーフになったレリーフが素晴らしいんです。
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その詳細部分です。野イチゴを啄む鳥の姿ですね。ブラボー!!!
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余りに美しいので、一挙4枚掲載!
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こちらはユリの花でしょうか?
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ラヴェンナとフェッラーラは距離にして66km。そう離れてはいないんだということを実感しました。
こうした作品を見ると、ラヴェンナで見逃したものがまだ沢山ある気がしてきます。ソワソワ・・・ -
美術館は、確か2階から見学を始めて、時々回廊伝いに次の部屋へと移動したような記憶・・・
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ガラスケースの続く大聖堂の聖遺物や文書、祭服等のお宝部分は殆ど素通りです。御免なさい。
こちらは、聖ジョルジョの胸像かと思いきや、聖人の頭蓋骨を収めるための聖遺物入れなのだそうですよ。1600年に教皇クレメンス8世から司教ジョヴァンニ・フォンターナに寄贈されたものです。
後ろに見えるのは、町のもう一人の守護聖人聖マウレリオの胸像型聖遺物箱?です。 -
この巨大な銅板はどこに使われていたのかしら? 中央には、トレードマークのような聖ジョルジョの龍退治の浮彫が見えました。
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ガラスケースの中で少々見にくいですが、手前の腕の格好をしているものは、聖ジョルジュの腕の聖遺物箱だそうです。1388年バルトロメオ・ア・レロージョの作です。
遺体をバラバラにする習慣のあるこちらの方々は、こうやって、聖人の体をパーツごとに収納して、拝んだり崇めたりしたんですね。ちょっとついていけません。 -
ヴェネツィアン・ビザンティン様式による聖母の頭部分のモザイク。1135年頃の作品だそうです。大聖堂の内陣アーチの一部だったようです。
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絵画は少なくて、ほんの数点のみ展示されていました。
カヴァリエーレ・ダルピーノの「聖家族」。1627年頃。ダルピーノ本名ジュゼッペ・チェザーリはカラヴァッジョのローマにおける最初の師としても知られています。 -
少々暗い背景が気になりますが、つぐみを持った幼子と聖母を描いた16世紀前半のフェッラーラ派の作品。美術館の表示ではガラファロの作品ではないかと書かれていました。
つぐみは受難の鳥だと言われています。 -
上の絵とタッチが似ているので、こちらもガラファロの作品かもしれません。守護聖人聖ジョルジョを描いた、フェッラーラ派の作品です。同じく16世紀前半。
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ドメニコ・パネッティの「聖母子と二人の寄進者」1497年〜1500年頃。
聖母が身に着けている緑色の上衣がとても印象的です。今まで緑の服を着た聖母を見た記憶はありません。古い時代に大聖堂のサイドチャペルの祭壇を飾っていました。背景のポー川沿いの景色が素晴らしい!
そう言えば、フェッラーラはイタリアで最も長い川ポー川に近い町なのだそうですが、見る機会がなかったので、実感に乏しいです。 -
イチオシ
続いては、美術館の至宝「ザクロの聖母」の登場です。聖場が右手にザクロの実を持っていることからその名が付きました。ヤコポ・デッラ・クエルチャによる1403年〜1406年頃制作されたイタリア彫刻の傑作と言われています。
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ヤコポはシエナ近郊の生まれ。父親が金細工師であったことから、シエナ大聖堂の説教壇を作ったピサーノ親子やアルノルフォ・ディ・カンビオの仕事ぶりを知っていた可能性が高いとされています。
その後父子はルッカに移住。ルッカの大聖堂でヤコポはあの有名な「イラリア・デル・カッレットの墓」を制作していますが、これは、「ザクロの聖母」を完成させたのち、ルッカに戻ってからの作品です。
昨年ルッカで出会ったヤコポの作品はこちら
http://4travel.jp/travelogue/10939285 -
1403年から3年の歳月をかけて、ヤコポは大聖堂のシルヴェストリ家の礼拝堂のために聖母子を完成させました。台座には1408年と書かれていますが、これは19世紀に作られたもので、実際には1406年9月に完成したという文書が残っています。
石とは到底思えない柔らかな母子の肌、カールした巻き毛、体を覆う衣服のひだ等々すべてがエレガント!
彫像はフェッラーラの人々により、熱烈な崇拝の対象となってきました。人々はこれを愛情込めて「白い聖母」あるいは「パンの聖母」と呼びました。
パンというのは、幼子が左手に持っている小さな巻物が、フェッラーラ特産のパンにそっくりだったからだそうです。ふむふむ、確かに日本でもおなじみのバターロールに見えないこともありません。 -
時代を遡って、お次は大聖堂のファサードを手掛けたニコラウスの工房のスラブです。最も古いスラブの一つで「農夫と戦士」。1100年〜1150年。
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こちらもニコラウスの工房のスラブで、左がテラモン 12世紀前半の作品。
右は迫力ある「糸車を引いているイヴ」だそうです。エデンの園を追い出されたら、こんな顔になってしまったのでしょうか? 私には鬼子母神にしか見えません(笑)。まとわりついている息子たち(カインとアベル)には目もくれず、凄い形相をして宙をにらんでいます。
このスラブは、大聖堂南側の柱廊途中に18世紀まであった「ポルタ・デイ・メジ」(12か月の扉)という扉を飾っていたものの一つだそうです。後ほどその扉跡を紹介しますね。 -
左と右は、モデナでも大活躍したカンピオーネ出身の職人の作品で、「キリストの神殿お披露目」1225年〜1260年。「神秘的な子羊」1200年〜1250年。
中央はイタリア北部出身の職人による「救世主キリストと十字架」13世紀。
これらのスラブは大聖堂の内陣を飾っていましたが、15世紀末に発生した度重なる地震のために損傷。1514年に古い典礼様式の内陣を改装した際に取り外したのだそうです。 -
イチオシ
アレッツォのピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会にあったベネデット・アンテラーミの作品を思い出してしまった、1年の暦月を表すレリーフパネルです。おお〜 こういうのが好きなんだわ〜!!!
ベネデット・アンテラーミの作品はこちらからどうぞ。
http://4travel.jp/travelogue/11145228
大変素朴ながら、人々の生活の様子を感じ取ることが出来て、アレッツォでも大のお気に入りとなりましたが、フェッラーラで出会ったのはこちらのレリーフ達です。これらのレリ−フも12か月の扉(ポルタ・デイ・メジ)を装飾していました。扉はアレッツォと同じようなかまぼこ型のヴォールトをしていたのでしょうね。
メジMesiとは月のこと。右側から1月、2月、3月、4月を表す彫像です。物語はアレッツォのものと共通していて、最初は2つの顔を持つヤヌス。物事の初めと終わりを司る神です。昨年の顔と今年の顔と言う意味かもしれません。1月は貯蔵されている食料を食べ、2月は木々の剪定を行います。3月は管楽器を吹き、4月は手に花を携えています。 -
どうも、こちらの馬に乗っているのが5月らしいですよ。そう言えば、アレッツォでも私は、「なぜ5月が騎士なのかなあ?」 と書いています。
今回もやはりなぜなのか、わかりませんでした。 -
左側、木に登っているのは6月。勿論木の実目当てです。左側に大きなザリガニがいますね。
二番目はサジテリアス つまり「いて座」の月なので、11月から12月にかけてでしょう。
そして三番目はカプリコーンだからヤギ座。12月から1月にかけての星座です。ヤギの乳を凄い格好で飲んでいる子供を描いたもののようです。題して「子供を養うヤギ」。彩色された跡がはっきりとわかる作品ですね。上に彫られた植物も鮮やかです。
右端はユリの花。純潔を意味する聖母マリアの花です。 -
イチオシ
順不同になってしまっているのが残念。こちらの3体は7月、8月、9月です。
今度は左側から。7月は麦の脱穀かしら? アレッツォではトウモロコシの除草中でした。
8月は樽の準備に追われます。
9月はブドウの収穫。ここで人形の頭に注目!熟れたぶどうの落下で頭が汚れないように、帽子をかぶっていますよ! 現代の食料品製造企業の服装に通じるものがありそうです。ドレスの裾も膝のあたりで端折っているみたいです。凄い観察力! また、籐のバスケットの網目の細かさには目を見張ってしまいました。 -
左は11月、破損していますが、カブの収穫なのだそう。アレッツォのものにもありましたね。
右も頭が破損していますが、サクランボを取っている姿だそうです。何月かは不明・・・
いやぁ〜面白かったです。作者はフェッラーラの(暦上の)月の工房ということしかわかっていませんが、制作時期も1230年頃ということで、ベネデット・アンテラーミとの共通点が多いと感じました。 -
これは柱頭なのかはっきりわかりません。解説も見つかりませんでした。右側の冠を被った王様達と左の少々こわもての女性がどなたなのか少々気になりました。
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上の写真のこわもての女性の左側を写したものです。後ろには立派な鐘楼が彫られていましたよ。
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タペストリーの良さははっきり言って私にはよくわかりません。ベルギー産のタペストリーは欧州のどこに行っても大変重宝がられ、豪華な部屋の調度品としても用いられてきました。
この美術館のタペストリーの特徴は、聖ジョルジョ(3世紀後半のパレスチナ出身の軍人。ディオクレティアヌス帝の迫害に会い殉教)ともう一人の町の守護聖人聖マウレリオ(7世紀の殉教者。シリア出身の僧侶で、フェッラーラ近郊のヴォゲンツァの司教だった)の2人を主題にしていることで、その大きさ、典礼的、宗教的な重要性で際立っているとのことです。8枚のタペストリーは、二聖人の記念行事を行う4月24日から5月7日までの2週間、大聖堂の身廊に飾られたのだそうですよ。
物語の順番が不明なので、ここでは制作順に並べてみました。大聖堂がフランダースのタペストリー製作者ケルヒャーに依頼したのは1550年10月のことでした。
最初の1枚は、ガロファロあるいはカミーロ・フィリッピの下絵を元にしたヨハネス・ケルヒャー作「聖マウレリオとミサでの奇跡」1550年〜53年。 -
ガロファロあるいはカミーロ・フィリッピの下絵を元にしたヨハネス・ケルヒャー作「聖マウレリオ 兄弟に王冠を授ける」1551年。
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ガロファロあるいはカミーロ・フィリッピの下絵を元にしたヨハネス・ケルヒャー作「聖ジョルジョ 龍を退治す」1551年。
龍がいたのは、現在のトルコのカッパドキア近郊。聖ジョルジョは村人に龍を退治したらキリスト教徒になるようにと言い含めて、見事龍を倒します。 -
ガロファロあるいはカミーロ・フィリッピの下絵を元にしたヨハネス・ケルヒャー作「聖ジョルジョの受けた木を使った拷問」1552年。
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ガロファロあるいはカミーロ・フィリッピの下絵を元にしたヨハネス・ケルヒャー作「聖ジョルジョの断首」1552年。
とうとう殺されてしまいましたね。 -
ガロファロあるいはカミーロ・フィリッピの下絵を元にしたヨハネス・ケルヒャー作「聖ジョルジョの受けた車輪を使った拷問」1553年。
拷問、まだあったんだ・・・ -
ガロファロあるいはカミーロ・フィリッピの下絵を元にしたヨハネス・ケルヒャー作「聖マウレリオはフェッラーラで歓迎を受ける」1553年。
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ガロファロあるいはカミーロ・フィリッピの下絵を元にしたヨハネス・ケルヒャー作「聖マウレリオの殉教(断首)」1553年。
本当に首が傍に転がっています! こんなタペストリーのある部屋には寝たくありませんね。
なお、ガロファロ(1481年〜1559年)は、エステ家に仕えたルネサンス期からマニエリスム期にかけての宮廷画家。カミーロ・フィリッピ(1500年から1574年)はマニエリスム期の画家で、ガロファロの影響を強く受けたと言われています。共にフェッラーラ派を代表する画家です。二人のどちらかがどの絵を描いたのかは定かではありませんが、美術館の解説には、ガロファロが主に聖マウレリオを、フィリッピは聖ジョルジョを担当したのではないかと書かれていました。 -
さて、お終いはフィナーレに相応しい大作の登場です。大聖堂の後陣中心部にあったオルガンの装飾扉として使用されていた14世紀の画家コズメ・トゥーラの作品です。
パネルは全部で4枚。中央の2枚に「聖ジョルジョの龍退治とお姫様」、外側の2枚に「受胎告知」が描かれています。4枚のパネルは、18世紀に新しいオルガンに取って代わられるまで、木製の扉に貼りつけられていました。
現在の展示方法とは異なり、オルガンを使用する時には、「受胎告知」の2枚が、扉が閉められると聖ジョルジョの2枚がそれぞれ見えるようになっていたそうです。 -
中央の2枚です。聖ジョルジョが龍の喉に槍を刺した決定的な瞬間を画家は見事に捉えています。特に絡み合う白馬と龍の体のしなやかな曲線が、目に飛び込んできますね。左には、生贄にされそうになったお姫様の姿がありました。
古い絵画特有の油の黒ずみによって、少々見えづらくなっているのが惜しい・・・ -
絶対悪の権化龍のクローズアップです。西洋の龍は羽があるところが、東洋の龍との大きな違いだと思っています。待てよ。タコの足に見えなくもありませんねえ。
-
受胎告知は離れているので1枚ずつ。
聖霊の鳩がマリアのすぐ後ろを飛んでいました。こういう構図も珍しい! 目立つのは、アーチの高いところにいる猫のシルエット。そこだけがほんのり明るく、受胎告知が暗闇が訪れる直前の最も美しい時刻の出来事だったんだと、教えてくれています。 -
大天使ガブリエルのベルベットのマントが素晴らしい光沢を見せています。こちらのアーチには鳥が1羽止まっていますね。
アーチの彼方には、どちらの絵にもまるでカッパドキアを思い起こすような奇岩が連なっていて、聖ジョルジョの龍退治の舞台で行われた告知であるかのようです。
コズメ・トゥーラ( 1430年頃〜1495年)は、初期ルネッサンス期の画家で、フェッラーラ派の父と言われています。トゥーラの描く女性は独特の顔つきで、おでこが広いという特徴があり、私はなぜかレオナール・藤田の絵を思い浮かべてしまいました。
トゥーラは後にボルソ・デステならびにエルコーレ1世・デステの庇護を受けています。 -
最後にエステンセ城にあったパネルから、フェッラーラ派の画家2人を紹介しましょう。
こちらはコズメ・トゥーラが影響を受けたというシエナ出身の画家アンジェロ・マッカニーノ(?〜1456年)の作品。やはり広いおでこが特徴的ですね。彼はレオネッロ・デステ、後にボルソ・デステに仕えました。
左側がエラート(ギリシャ神話の女神)、右側がテルプシコーレ(ギリシア神話に登場する文芸の女神達)。どちらもトゥーラとの共作だと言われています。1460年頃。 -
左側は、同じくアンジェロ・マッカニーノとコズメ・トゥーラの「ウラニア」(これもギリシャ神話の女神)。
右側は現代絵画のようにも見える不思議な1枚です。ハンガリア系の画家でフェッラーラで活躍したミケーレ・パンノニオ(1415年〜1475年)の「タレイア(これも女神)」。彼もまた、エステ家の宮廷画家の1人でした。 -
最後はまたまた脱線してしまいました(汗)。
大聖堂付属美術館。小さいけれど充実した内容。大聖堂のお宝をじっくり見ることが出来て、素敵なひと時を過ごすことが出来ましたよ。さあ、お昼休み終了。これから大聖堂に向かいますよ。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その78 フェッラーラ2で!
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この旅行記へのコメント (3)
-
- ドロミティさん 2018/05/07 09:54:43
- フェッラーラ
- junemayさん。おはようございます。
エステンセ城のおどろおどろしい物語、とても興味深かったです。
その建造物の歴史を知って見学するのと知らないで見学するのとでは
インパクトが全く違いますね。
冒頭からすっかり惹き込まれました^^
フェラッーラも是非行かねば~!
junemayさんの旅行記、あっちも!こっちも!と目移りしてしまいます♪
いつもお気遣い頂きましてありがとうございます(._.)
ドロミティ
- junemayさん からの返信 2018/05/08 15:46:49
- RE: フェッラーラ
- ドロミティさん こんにちは
現在ベルリン滞在中のjunemayです。東西が統一されてからは初めてで、もちろんベルリンも初めてです。有名な壁の間を潜り抜けながら、自由のありがたみを肌で味わっています。
ドイツに来る直前に読んだ塩野七生さんがいけなかったのか、やはり私には南の国の方が合っているような気もします。まだ2日目なので、1か月後旅の終わりには変わっているかもしれませんが。
こちらこそ、いつもお気遣いいただきましてありがとうございます。フェッラーラも次第に記憶が遠のきつつありますので、時々自分が書いたものを読み返してみています。頼りにならない自分の記憶力のために書いたようなものですから。
ドロミティさんの旅も楽しませていただいております。これからもお立ち寄りいただければ幸いです。ありがとうございました。
junemay
> junemayさん。おはようございます。
>
> エステンセ城のおどろおどろしい物語、とても興味深かったです。
> その建造物の歴史を知って見学するのと知らないで見学するのとでは
> インパクトが全く違いますね。
> 冒頭からすっかり惹き込まれました^^
> フェラッーラも是非行かねば?!
>
> junemayさんの旅行記、あっちも!こっちも!と目移りしてしまいます♪
>
> いつもお気遣い頂きましてありがとうございます(._.)
>
> ドロミティ
>
- ドロミティさん からの返信 2018/05/08 18:04:36
- こんばんは☆
- junemayさんへ
わぁ〜ドイツからお返事くださったんですか〜!
恐縮です^^
素晴らしい旅行記の数々、ゆっくり噛みしめながら拝見させていただきます。
体調&貴重品の管理にお気をつけてドイツ旅を楽しんでくださいね♪
返信はお気になさらずに〜!
ドロミティ
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