2015/06/01 - 2015/06/01
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
さあ、今度こそ散策に参りましょう。コルソ・パッラーディオに戻って、通りの反対側を目指します。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
コルソ・パッラーディオのガエターノ教会の前を通り過ぎ、
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来るときにも見たヴェネツィア風の屋敷パラッツォ・カルドーニョを通り過ぎます。
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大通りから少し奥まった場所にあったのは、パラッツォ・ティエネ。ヴィチェンツァ1で紹介したティエネ家の邸宅とは異なる、いわば本家に当たる屋敷です。1542年に大聖堂の視察に当地を訪れた建築家ジュリオ・ロマーノがコンサルタントとして提出した設計を元に、1544年からアンドレア・パッラーディオがそれを引き継いで完成させたティエネ家の邸宅です。ヴィチェンツァで最も古く、ほぼ中心と言える場所に建っています。
ここにはもともと1490年にロレンツォ・ダ・ボローニャによって建てられた邸宅がありましたが、1542年にティエネ家の兄弟は四本の道で囲まれた1ブロック54m×62mを占有する壮大な宮殿の改造に着手したのです。 -
二人の建築家の役割分担は明らかだそうで、ロマーノは1階部分の入り口を含むファサードを担当、2階部分の付け柱とその柱頭、そしてその上のまぐさ部分にはパッラーディオの特徴が表れているのとか。
建築の分からぬ私にはとんとわからぬことばかり。立派な邸宅だとは思いますがね。どこがどう凄いのかについては、クエスチョンマークが頭の中で飛び跳ねておりました。 -
コルソ・パッラーディオに面したティエネ家の出入り口に戻ると、向かいの建物と建物の間から高い塔が「おいで!!」と手招きしていました。
よっしゃー! あのアーチのある道を進むとしましょう。 -
歩行者専用のこちらのアーチを潜り抜けると
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目の前に、先ほどの高い塔が出現しました。1174年にビサーリ家が住居の隣に建て始めて、1348年の地震にも崩壊を免れ、どんどん高さを増して14世紀に完成したと言われているビサーラ塔です。但し、ジモティはただ「広場の塔」と親しみを込めて呼んでいるみたいですよ。突端のピナクルが付けられたのは1444年のことだそう。
高さ82m。大変スリムで美しいシルエット。中には聖人の聖遺物と5つの鐘が収められているそうです。塔中程に「ヴェネツィアの象徴」羽の生えたライオンが見えますね。
そして、その右隣に見える緑色の屋根のある建物がパッラーディオの傑作バシリカです。 -
実はこの塔、1945年に英米の爆撃に見舞われ、塔の最上部が崩壊し、鐘とともに地面に落下。戦後に再建されたのだそうです。
後程、別の場所から撮ったビサーラの塔には時計がついていました。なんでもこの時計、市民のための機械仕掛けの時計としては世界初なんですって。ごく最近修復が終わり、12時と18時の7分前からぴったりの時刻まで、メロディ付きのカリヨンが市民に時を告げています。 -
今立っている広場が、おおー ヴェネツィア! という雰囲気のシニョーリ広場(ピアッツア・ディ・シニョーリ)です。かつてのフォロ・ロマーナがあった場所に位置し、2000年以上町の中心広場として機能してきました。
細長い広場の奥に見えるのは、お馴染みヴェネツィア共和国のシンボル 羽の生えたライオンと聖テオドーロ像が立っている2本の柱です。 -
更にズームアップ!
平日だというのに賑わっていますね。時刻は午後6時半近くになっています。仕事を終えて広場に繰り出した人達なのでしょうか? -
ビサーラの塔の隣には、バシリカ・パッラーディアーナ。パッラーディオ設計のバシリカで、私は初め教会かと思っていましたが、ローマ帝国時代から使われてきたこの言葉は、日本語で言う公会堂に近い建物なのだそうです。つまり、公共の建築物。
建物は15世紀に完成したパラッツォ・デッラ・ラッジョーネという名前のゴシック様式の公共施設をその基盤としています。長い期間かけて宮殿を囲むように配置した2本柱の柱廊は完成後わずか2年で一部が崩落、町はそれから何十年もの間、建物の改造を依頼する建築家を探していました。
1549年、まだ駆け出しだったパッラーディオは、建物の両サイドにロッジアとポルティコを設ける図面を町に提出して、並みいる強豪を抑え、見事採用されたのでした。
ポルティコとロッジアの違いは、外から出入りができるかどうかなのだそうですよ。この建物の場合は、1階部分はポルティコ、2階部分はロッジアということで良いのかしら?? -
この均整の取れた見事な開口部 別名パッラーディアン・ウインドウはルネサンス期そしてその後の時代の建築に大きな影響を与えることになります。
大変多額の費用が掛かったため、工事は彼の死後も続き、1614年に最終的な完成を迎えています。パッラーディオの場合、設計だけ行って、完成を見ていないというケースがかなり多いですね。 -
中央をアーチ式、両側を据式(二つの長方形の開口部)としたセルリアーナと呼ばれる工法が、この建物には採用されています。セルリアーナとは、三連の開口と言う意味で、ローマ帝国時代の建物には多く使われていました。内部の(建物の)袖の長さに合わせて、両側の長方形部分の大きさを変えることが可能となります。
ローマ時代とギリシャ時代の建築を見て歩いたパッラーディオはウィトリウィウスの「建築十書」に書かれていることをまさに実践したわけですね。
こんもりと盛り上がっている緑色の銅板で葺かれた屋根も特徴的ですね。まるでひっくり返した船底を思わせるような形状です。 -
バシリカ・パッラーディアーナの中に入ってみましょう。二本柱の柱廊に続くポルティコの奥には・・・本当に、別の建物が埋もれていましたよ。
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少々薄暗いのが難点ですが、中にはブティークやカフェ、宝石店など、様々なお店が並んでいました。
オリンピア劇場ができる前に、パッラーディオが作ったという劇場も、この中にあったそうですよ。 -
ゴシック様式らしいヴォールト天井が続きます。
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中にあったこちらの宝石屋さんの壁は、特徴のある赤と白の大理石が交互に張られたうろこ模様。
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イチョウの葉っぱにも見えますね。どこかの大聖堂か宮殿でお見掛けしたようなデザインです。
この紅白の模様部分が実は、オリジナルのラッジョーネ宮殿のファサードだった部分だそうですよ。赤い石は大理石、白い石はヴェローナ産のジャレットと呼ばれている石です。 -
先ほど2階のロッジアに観光客らしき姿を見かけたので、2階に行こうとウロウロ。ようやく見つけた階段は閉まっていました。あれぇ・・・
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来る途中に大通りで見かけたヴァン・ゴッホ展のポスターをまた発見! そうかぁ。ここでやってたんだぁ。
早速駆けつけてみましたが、19:00までで終了とのこと。もう20分程度しか時間がなかったので泣く泣く諦めました。 -
2階には、ロッジアとそれに続く大きなホールがあり、現在パッラーディオ博物館として公開されています。あらあら、パッラディオ博物館への扉もちょうど閉まるところでした。仕方ない。こちらは出直すことにしましょう。
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シニョーリ広場とは反対側の狭いエルベ広場(ピアッツァ・デッレ・エルベ)に出ました。この角度からだと、パッラーディオの設計した二本柱の柱廊が良く見えていますね。
このまま前に見えるポルティコを進んでいくと、 -
建物から飛び出たアーチが目につきました。何だこりゃ?
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紋章が並べられたレンガの壁のあるところからエルベ広場に出て見ると・・・
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バシリカにもう一つ塔がくっついていました。「トルメントの塔」と呼ばれています。確かにビサーラの塔と比べると見劣りする塔ではありますが、ほとんどこの塔に関する記載がないのは不公平ですよね。
やっとのことで見つけた資料には、12世紀にカルナローリ家によって建てられ、町の牢獄として使用されてきた とありました。愛国者のシルヴィオ・ペリコ(1789年-1854年)もその一人だったとか。ここには暗くて陰気臭い歴史もあるようです。 -
バシリカ・パッラディアーナと二つの塔です。
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エルベ広場の塔のある方とは反対の側は狭くなっていて、バシリカと向かい合って建っている建物がほとんどくっつきそうな位の位置にありました。でも、この先抜けられます・・・
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再びバシリカの内部を通ってシニョーリ広場広場側に出ます。
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シニョーリ広場で、バシリカの向かいに建っていたのは、15世紀から17世紀の間に建てられたモンテ・ディ・ピエタ宮殿です。モンテ・ディ・ピエタとは質屋という意味で、ヨーロッパ中にある慈善目的の公的機関です。最初の「質店」はヴィチェンツァ市によって1486年6月に開かれました。
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興味深いことに、「質屋」宮殿の中央部分は聖ヴィチェンツォ教会になっていました。ファサードはパオロとピエトロのボニン兄弟により、1614年から7年にかけて建造されました。1階と2階部分にそれぞれロッジアのある3つのアーチが印象的です。
そしてロッジアの上には死せるキリストと悲しみに暮れる天使達のレリーフ。ペディメントの上には、聖ヴィチェンツォ、ヴィチェンツァ市生まれの聖人フェリーチェとフォルトゥナート等5体の彫像が立っていました。共にヴェネチアの彫刻家ジョヴァンニ・バッティスタ・アルバネーゼの傑作と言われています。 -
元の「質屋」宮殿より後に造られた教会ですが、双方のファサード、違和感を感じることなく、一体感さえ感じられますねえ。
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バシリカのファサードをぐるりと回って、建物の短い方の辺に当たる小さな広場の続きにやってくると、・・・
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アンドレア・パッラーディオが右手の人差し指を髭に当てて考え込んでいる彫像が立っていました。左手は図面らしきものをしっかりと握っています。
この像は1859年にヴィンチェンツォ・ガヤッシにより制作されました。小さな写真なので見づらいでしょうが、ガヤッシの作品には常に登場する蛇が、パッラーディオの右横に置かれた壊れた柱頭脇に頭をのぞかせています。 -
モンテ・デ・ピエタ宮殿と道を1本隔てた場所には、カピタニオ宮殿(またの名をカピタニオのロッジア)の姿が!
バシリカとは全く異なる風貌を持つロッジアですが、こちらもパッラーディオの設計により、1571年から2年にかけて建てられたものです。建物は現在市議会として使用されています。 -
たった3つのアーチしかない細いファサードにもかかわらず、なんという存在感でしょうか? バシリカの設計から20年足らずの間に、パッラーディオは同じ広場に二つ目の作品を制作できる機会に恵まれたわけです。
もう少し近くに寄ってみましょう。 -
ローマ帝国時代の混合様式と呼ばれる巨大なレンガ造りの柱に圧倒されます。バシリカの方は装飾がありませんが、こちらの建物は豊かなスタッコの装飾で溢れていました。赤い柱と白っぽいスタッコのコントラストも見事ですね。
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こちらは、モンテ・デ・ピエタ宮殿との間のコントラ・デル・モンテ通りに面した側のファサードです。スタッコと彫像はロレンツォ・ルビーニによるものです。
このファサードは凱旋門として、1571年10月にあったレパントの海戦(ヴェネツィア軍も参戦して勝利した)を記念して作られたものだそうです。彫像は海軍勝利の女神で、写真には写っていませんが、反対側には平和の女神が立っていました。 -
これから何かイヴェントが始まりそう。大勢の市民でごった返す広場を後にして、南西方向に向かいます。
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見えてきたのは郵便局の建物。イタリアの郵便局は素敵なデザインのものが多く、今までにいくつ撮ったかしら? シエナ、アレッツォ、フェッラーラ・・・思い出しただけでも4つ目。
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途中で見かけたモニュメントです。可愛い! 最近の作品でしょうね。
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イチオシ
ギッタンバッタン・・・シーソーが好きで、よく遊んだっけ・・・
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行く手にヴィチェンツァのドゥオモ カッテドラーレ・サンタ・マリア・アヌンチアータのまあるい後陣が見えて来ましたよ。聖母マリアの受胎告知に捧げられている大聖堂です。
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先の尖がった屋根のクーポラがとにかく大きい。現在のドゥオモは、ロレンツォ・ダ・ボローニャの設計により1482年に工事が始まり、1506年に一応の完成をみました。
しかしながら、クーポラ部分の建設は1501年に始まったものの難工事のため途中で中断。一時しのぎの木造屋根が1540年に架けられましたが、未完成のまま放置されていたのです。
そこに真打登場と相成ります。1557年、クーポラの屋根と北側の扉のやり直し工事がアンドレア・パッラーディオに託されたのでした。 -
パッラーディオの匠の技により1558年から9年にかけて後陣の筒形部分と出っ張り部分が、1564年から5年にかけてドーム部分の工事が行われ、ようやく教会の根幹部分であるクーポラは完成を迎えることが出来たのです。
パッラーディオが手掛けた他の教会建築 ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレやレデントーレなどとの共通点がいくつも見られる16角形の見事なクーポラの原点は、やはりローマのパンテオンだそうですよ。 -
ドゥオモの後陣と向かい合っていたこちらの塔は、19世紀に建てられた社会福祉関連施設パラッツォ・デッレ・オペーレ・ソチアーリの裏側に建物にくっついて建てられていますが、なんとドゥオモの鐘楼なのだそうです。面白ーい!
長い期間かけて、様々な素材を使って作られたのが手に取るようにわかりますね。 -
正式な記録は残っていませんが、最初に建てられたのは920年頃。大聖堂と司教の館の見張り塔という機能を持っていたようで、分厚い下の部分がその頃の建造です。そしてその上に12世紀初期に高さ20mのレンガ造りの塔が建てられました。典型的なロマネスクの鐘楼ですね。いいなあ・・・
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途中で見かけたヴィチェンツァ版ナゾーネ君(水飲み場)。蛇口は龍かな? 鳥かな?
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ドゥオモ前広場の彫像は、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世でした。イタリア中の彫像を多い順に並べたら、確実にガリバルディとトップ争いをしそうです。
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ドゥオモのファサードです。実は第二次大戦時の爆撃で、焼け残ったのはこのファサードだけ。後の建物は全て戦後の再建だということを知りました。
オリジナルは16世紀ドメニコ・ダ・ヴェネツィアによるもので、4層から成り立っています。第1層には5つのアーチがあり、中央アーチがメイン扉になっています。第2層には付け柱と丸窓が、第4層から最上部にかけては全部で5体の彫像が置かれています。第3層の両脇に置かれたピナクルは戦後の1948年に追加されたものだそうです。 -
近くで見ると、大理石の配置が変化に富んでいるのがわかります。特に第2層の菱形は美しいですね。遠くからだと凹凸があるように見えるけれど、実に滑らかです。
では早速中に入りましょう。 -
今回はかろうじて全体の写真を忘れずに撮りましたよ。一廊式で、驚いたことにゴシック様式のヴォールト天井と両側のアーチ内部の縞々以外、目立った装飾はありません。再建されたためなのか、それとも元々そうだったのかは分かりませんが、私好みのこざっぱりした聖堂でした。
奥にパッラーディオ設計の後陣が見えました。階段を10段くらい上った高い位置にありますね。 -
まず最初に目に飛び込んできたのはこちらの立て札。イタリアの歴史的、芸術的遺産の保全云々と書かれています。
説明書きには、2015年4月23日の日付で、1366年にロレンツォ・ヴェネツィアーノにより描かれた祭壇画「聖母の永眠」の復元が終わったことが記されていました。 -
こちらがその復元した多翼祭壇画です。大聖堂右側の聖ジャコモに捧げられた祭壇にあったもので、1356年から72年の間にロレンツォ・ヴェネツィアーノに依頼されました。
中央には聖母の永眠を見守る聖人達。その上にはキリストの磔像が、聖ヘレナと聖カタリナの間にありました。全部で29ある窪みには12使徒を始めとする沢山の聖人の姿が見えます。プラデッラ部分には東方三博士の姿もありましたよ。どういう経緯で修復に至ったのかは分かりませんでしたが、素晴らしい出来ばえの作品を目にすることが出来ました。 -
ドゥオモ内のどこにあったか記憶にありませんが、あまりに美しい少年キリストと手をつないで歩く聖家族が描かれた祭壇画が大変印象に残っています。普段聖母子の影に佇んでいることの多いヨーセフがここではごく普通の父親のように並んで歩いているのが微笑ましい。
世間的には全く注目を集めることのない作品みたい・・・ -
さて次なるものは、「聖骸布(埋葬する死体を包む白布)を読み解くガイド」という説明書きです。初めて見る代物です。???
トリノにはキリストが磔にされた後にその遺体を包んだ聖骸布に関わる博物館が聖ヨハネ大聖堂内にあると聞いています。調べてみたら、こちらはトリノの聖骸布博物館の説明書きと同じものだということがわかりました。しかしなぜこれがここに??? -
聖骸布のパネルが飾られた礼拝堂です。聖骸布は長さ4.4m。幅1.1mの亜麻布で、最初にその存在が確認されたのは1353年。16世紀には保管されていた教会が火事になり、布の一部が焼けてしまいました。三角形⊿の部分が、焼けた箇所を補修した跡だそうです。キリストの顔らしきものも写っているそうですが、はっきりしませんね。
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こちらが聖骸布のパネル拡大版です。聖骸布に捧げられた礼拝堂なのかしら?
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左側4番目の礼拝堂には、古いフレスコが残っていました。爆撃でも残った壁の一部なのでしょうか?
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祭壇画は、「マグダラのマリアと聖ルチアと共にいる聖母子」で、バルトロメオ・モンターニャの作品です。
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バルトロメオ・モンターニャ(1450年-1523年)は主にヴィチェンツァとヴェネツィアで活躍した画家で、ジョヴァンニ・ベッリーニの影響を強く受けたと言われています。絵には死を予告する不吉な鳥ツグミが3羽も描かれていて、その後のキリストの運命を示唆しています。
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こちらは思わずにんまりしてしまう、素朴で味わいのある木製の多色彩色パネルですねえ。アントニーノ・ダ・ヴェネツィアの1448年の作品。
人間味溢れる? 朴訥な? 天の父なる神の前で、キリストが聖母に冠を授けている場面です。 -
勢いのある植物と盾が描かれたレリーフです。下に書いてある碑文を調べてみたけれどレリーフと関係あるかどうか分かりませんでした。
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扉の上に描かれているのは最近のフレスコだと思いますが、なぜか私の目には新鮮に映りました。中世には決してみられなかった技法が取り入れられていますね。
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1枚じゃあ中途半端なので、反対側も紹介しますね。同じ画家によるものと思われます。深い悲しみが伝わってきます。
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主祭壇のある後陣に到着しました。アンドレア・パッラーディオ作の重厚感のある後陣です。これだけ床を持ちあげているということは、その下にクリプトがあるのでしょう。
後陣には幾何学模様・・・というよりは円形模様が目立つ豪華な装飾の祭壇が中央にあり、左右の壁には絵画-向かって左側は旧約聖書、右側はコンスタンティヌス帝と聖十字架の伝説を題材にしたもの-が飾られていました。人類を救済へと導く十字架の勝利がそのテーマなのだそう。 -
絵画の上には欄干のある細い通路が設けられていて、欄干の上には左右4体ずつの天使像が立っていました。
ステンドグラスのデザインは現代風で、これはこれでまたデザインを楽しむことが出来ました。 -
手前にある祭壇はキラキラと光る素材で作られていましたが、素材は一体なんでしょう? Civranと書かれていましたが、スパンコールとかビーズの一種ではないかしら? 教会ではあまり見かけませんよね。
アルターピースも、よそではお目にかからないような斬新なもの。一歩間違えれば安っぽくなりそうなでデザインですが、ぎりぎりセーフ? -
長い階段とその欄干が落ち着いた色に塗られていて、煌びやかな後陣を引き立てています。もう一度全体を眺めてから、今度はクリプトに向かいます。
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拍子抜けするほど、がらんとしたクリプトでした。引越しした後のようです。ドゥオモの地下には、ローマ時代の建物や道路の遺跡と現在の建物以前に建てられた6世紀、11世紀頃の聖堂跡が残っていると聞いていたので、勇んでやってきたのですが、現在は公開されていないとのことでした・・・
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目ぼしいものは、教区博物館に運ばれて、ここには殆ど何も残っていないといった雰囲気。
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唯一あったのが、こちらの戴冠した聖母子と聖人達の彫像のある祭壇でした。17世紀初頭に、司教聖ディオニシオ・ドルフィンによって建てられた礼拝堂です。黒いマドンナとして知られている聖母像は、彩色された石製で、こちらもアントニーノ・ダ・ヴェネツィアの作とされています。左右の聖人達は聖ピエトロと聖パオロ。15世紀前半の制作です。先ほど見た「聖母戴冠」もそうでしたが、4頭身のピエトロとパオロは表情を含めどこかユーモラス!
2枚前の写真に写っている、床の一部色が異なる部分が、司教ディオニシオ・ドルフィンの墓だそうです。 -
地上に戻って参りましたよ。こちらは、ヴィチェンツァの名門ティエネ家の礼拝堂で、その先には、聖具室に入る扉がありました。
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扉は開いていたけれど、入っていく勇気がなくて、扉の前から回れ右してしまいました。教会における参拝の常識を知らない者にとっては、少々恐れ多い場所ですね。
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最後は現代風フレスコの受胎告知で、幕を閉じることにしましょう。ドゥオモで印象に残ったのはルネサンス様式の後陣のみ。見落としたものも多かったかもしれませんが、見る目がなかったということにしておきます。
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外に出て参りました。夕日に映えるドゥオモのファサードです。大理石がオレンジ色に輝いてそれはそれは綺麗。もう夜の7時過ぎ。昼からではありますが、精力的に歩いたので疲れました。そろそろ帰ることにしましょう。
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ドゥオモ広場を挟んで、大聖堂とは90度の角度に建つこちらの建物は教区博物館です。中は原始から13世紀までのキリスト教文化、文書類、15世紀から18世紀にかけての絵画、金細工、民族誌コレクションなどの展示があります。
この博物館も共通券で入場可能ですが、今日はもう閉まっていました。こちらも出直すとしますか・・・ -
見覚えのある建物パラッツォ・ポルト・ブレガンツェのあるカステッロ広場まで戻ってきました。やはり3本柱でも迫力がありますね。
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そうそう、この方を忘れたらいけませんね。ドゥオモ広場のヴィットリオ・エマニュエーレ2世とイタリア国内広場の銅像数でトップ争いを演じているジュゼッペ・ガリバルディです。カステッロ広場の反対側に立ち、南の方角を見つめていました。
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ガリバルディ像のある場所から、トーレ・ディ・カステッロを見上げます。軍事目的だけのために作られた塔だから、こちらは余計な装飾一切なしですね。
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門を出てから振り向いた1枚です。この町にはあと4日間滞在するので、またお目にかかれますね。塔も門も西日を一杯に浴びて輝いていました。
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ヴィチェンツァ鉄道駅は、この道ローマ通りをまっすぐ行って突き当たったところにあります。旧市街までゆっくり歩いても10分強。こちらからだと左側に緑の公園が続いていて、散策にはもってこいの道ですよ。さあ、買い物をして帰ろっと。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その85 パドヴァ1で。
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