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水郡線(水戸~郡山)磐城棚倉駅より徒歩10分の棚倉城(たなぐらじょう、福島県東白川郡棚倉町)は元和8年(1622)常陸国古渡(ふっと)より入封した丹羽長重(にわ・ながしげ、1571~1637)によってこの地に鎮座していた近津神社(馬場都々古別神社)を現在の馬場に遷宮させ、その境内に新たに造られた輪郭式の平城で長重移封後は近江国長浜より入封した内藤信照(ないとう・のぶてる、1592~1665)によって完成されています。<br /><br />丹羽長重の父は織田信長の宿老で五層七重の天守閣を備えた安土城築城の総奉行を務めた築城の名人丹羽長秀(にわ・ながひで、1535~1585)で信長の信頼厚く臣下では初めて佐和山城主となり後に若狭国の支配を任され、長秀の支配地域は約13万5千石程に至ります。<br /><br />天正10年(1582)信長が本能寺の変で倒れると状況が一変、明智光秀を倒した羽柴秀吉に味方し信長没後の織田家の家督を決める清須会議では秀吉方として三法師(信長の嫡孫)を後嗣とすることに賛成します。<br /><br />翌天正11年、賤ヶ岳で柴田勝家を倒した戦いでは軍功により勝家の旧領である越前一国・加賀国能美・江沼郡を秀吉から下賜され、これまでの支配地と合わせて123万石の大大名に躍進しますが、躍進著しい秀吉の風下に立たざるえない立場に置かれてしまいます。<br /><br />天正13年(1585)4月長秀は51歳で死去、ここで若輩の長重が父長秀の遺領123万石を相続することになります。<br /><br />しかしながら、長重が秀吉の越中佐々成政(さっさ・なりまさ、1536~1588)攻略に従軍、その際家臣が軍令違反したとの理由で越前国没収、更に天正15年(1587)の薩摩島津征伐の際にも軍令違反を問われ若狭国没収され遂に加賀国松任4万石城主にまで減封されるに至ります。<br /><br />慶長4年(1600)関ケ原合戦で長重は東軍に属するも同じく東軍方の前田利長(まえだ・としなが)と戦ったことが家康に咎められ、小田原戦役の軍功によって故秀吉から加賀国能美・石川両郡を加増され12万5千石まで復活した所領を全て没収、併せて謹慎の沙汰が下され、京都大徳寺から江戸高輪に移され隠棲生活を送ることになります。<br /><br />冷遇された長重ですが彼の持ち味である腐らず真面目な態度で謹慎を送っている姿に好感を持った家康は将軍秀忠に命じて便宜を図るよう指示、慶長8年(1604)2月、長重は常陸国古渡(ふっと)に1万石を与えられまさかの大名復帰となります。<br /><br />元和元年(1615)の大坂夏の陣でも前年冬の陣に引き続き長重は大坂へ出陣、1万石という小大名のため引き連れたのは500名の将兵ながら藤堂高虎・井伊直孝の軍と共に前線に列し豊臣方に立ち向かいます。<br /><br />元和3年(1617)、先の大坂の陣における奮闘ぶりを評価されて更なる徳川家の信頼を厚くした長重は若輩ながら将軍秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)として他の信長時代から名将として名を馳せていた年配6人と共に任用されています。<br /><br />元和5年(1619)、幕府から江戸崎に1万石の加増を受けた長重はその2年後に更に3万石を加増され棚倉に5万石を以て入封、前藩主は「不敗の名将」の異名を有するも関ケ原合戦では西軍に属していた立花宗茂(たちばな・むねしげ、1567~1643)で合戦後改易、浪人生活を送るも見事大名に復帰し唯一旧領の築後柳川を回復した武将ですが、宗茂居城の赤館城は山城で城域の広がりが乏しく5万石大名にふさわしい城郭を造る必要がありました。<br /><br />寛永元年(1624)、幕府より新城築城の決裁のもと長重は父長秀より伝授されていた築城技術を以て赤館に替わる築城に取り掛かります。<br /><br />築城の立地については赤館から南進の近津明神(ちかつみょうじん)の境内を城域に選定、明神の西側が急勾配の丘となっており防御に優れる地との見立てが長重にあったと思われます。<br /><br />しかしながら築城の為に昔から慣れ親しんでいる明神を移すことに難色を示している住民を説き伏せて当明神を遷宮に導き明神跡地に築城工事が始まります。<br /><br />寛永4年(1627)会津藩主蒲生忠郷(がもう・たださと)が継嗣なく死去、生母が家康の娘であったため改易は免れるも蒲生家を相続した忠郷の弟忠知が60万石から24万石に大減封のうえ伊予松山に転封するに至ります。<br /><br />蒲生氏の旧領については加藤嘉明(かとう・よしあきら、1563~1631)と長重が入封することとなり、加藤嘉明には会津40万石、長重には陸奥国白河・石川・田村・岩瀬4郡のうち10万7千石がそれぞれ封ぜられ、長重は白河を本拠とすることになります。<br /><br />従って元和7年(1621)に入封し築城をめざした棚倉城は未完成のまま長重は移封せざるを得ず、譜代の内藤信照によって完成したとされます。<br /><br />尚白河転封後の長重は幕府より奥州の大名を押さえる堅牢な城にすべくその白河城の城郭大改築の命を受け、寛永6年(1630)着工し寛永9年(1633)に完成させ、ここでも築城の名手ぶりがいかんなく発揮されます。<br /><br />幕府が関東と奥州の境目の要衝の地である白河に外様である丹羽長重を配したのは、長重の築城技術を評価しただけではなく生涯変わらぬ長重の実直さとも言うべき態度が家康・秀忠・家光の歴代将軍の好感を得て信頼に繋がったからこそと言えるかもしれません。<br /><br /><br /><br />本丸跡大手門よりに建てられた棚倉城説明板には次の如く記されています。<br /><br /><br />「 棚 倉 城 跡<br /><br />二代将軍徳川秀忠は、丹羽五郎佐エ門長重に命じて、棚倉に平城を築かせた。<br /><br />長重は案を練り、この地にあった近津神社の神境を最適地とし、宮を現在の馬場都々和気神社に移し、寛永2年、この地に築城をはじめた。<br /><br />寛永4年、長重は白河に移されたが、代わって滋賀県近江山城より内藤豊前守信照が城主となった。<br /><br />阿部美作守正静の代になり、戊辰戦争の兵火にかかり、慶応4年6月24日落城した。この間250年、城主の代わること16代であった。<br /><br />                  棚倉町 棚倉町観光協会 」

磐城棚倉 父長秀より123万石相続後秀吉より減封、関ケ原合戦後に改易うけるが秀忠推挙で大名復帰した築城名人丹羽長重が手掛けた『棚倉城』訪問

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2016/08/14 - 2016/08/14

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滝山氏照

滝山氏照さん

水郡線(水戸~郡山)磐城棚倉駅より徒歩10分の棚倉城(たなぐらじょう、福島県東白川郡棚倉町)は元和8年(1622)常陸国古渡(ふっと)より入封した丹羽長重(にわ・ながしげ、1571~1637)によってこの地に鎮座していた近津神社(馬場都々古別神社)を現在の馬場に遷宮させ、その境内に新たに造られた輪郭式の平城で長重移封後は近江国長浜より入封した内藤信照(ないとう・のぶてる、1592~1665)によって完成されています。

丹羽長重の父は織田信長の宿老で五層七重の天守閣を備えた安土城築城の総奉行を務めた築城の名人丹羽長秀(にわ・ながひで、1535~1585)で信長の信頼厚く臣下では初めて佐和山城主となり後に若狭国の支配を任され、長秀の支配地域は約13万5千石程に至ります。

天正10年(1582)信長が本能寺の変で倒れると状況が一変、明智光秀を倒した羽柴秀吉に味方し信長没後の織田家の家督を決める清須会議では秀吉方として三法師(信長の嫡孫)を後嗣とすることに賛成します。

翌天正11年、賤ヶ岳で柴田勝家を倒した戦いでは軍功により勝家の旧領である越前一国・加賀国能美・江沼郡を秀吉から下賜され、これまでの支配地と合わせて123万石の大大名に躍進しますが、躍進著しい秀吉の風下に立たざるえない立場に置かれてしまいます。

天正13年(1585)4月長秀は51歳で死去、ここで若輩の長重が父長秀の遺領123万石を相続することになります。

しかしながら、長重が秀吉の越中佐々成政(さっさ・なりまさ、1536~1588)攻略に従軍、その際家臣が軍令違反したとの理由で越前国没収、更に天正15年(1587)の薩摩島津征伐の際にも軍令違反を問われ若狭国没収され遂に加賀国松任4万石城主にまで減封されるに至ります。

慶長4年(1600)関ケ原合戦で長重は東軍に属するも同じく東軍方の前田利長(まえだ・としなが)と戦ったことが家康に咎められ、小田原戦役の軍功によって故秀吉から加賀国能美・石川両郡を加増され12万5千石まで復活した所領を全て没収、併せて謹慎の沙汰が下され、京都大徳寺から江戸高輪に移され隠棲生活を送ることになります。

冷遇された長重ですが彼の持ち味である腐らず真面目な態度で謹慎を送っている姿に好感を持った家康は将軍秀忠に命じて便宜を図るよう指示、慶長8年(1604)2月、長重は常陸国古渡(ふっと)に1万石を与えられまさかの大名復帰となります。

元和元年(1615)の大坂夏の陣でも前年冬の陣に引き続き長重は大坂へ出陣、1万石という小大名のため引き連れたのは500名の将兵ながら藤堂高虎・井伊直孝の軍と共に前線に列し豊臣方に立ち向かいます。

元和3年(1617)、先の大坂の陣における奮闘ぶりを評価されて更なる徳川家の信頼を厚くした長重は若輩ながら将軍秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)として他の信長時代から名将として名を馳せていた年配6人と共に任用されています。

元和5年(1619)、幕府から江戸崎に1万石の加増を受けた長重はその2年後に更に3万石を加増され棚倉に5万石を以て入封、前藩主は「不敗の名将」の異名を有するも関ケ原合戦では西軍に属していた立花宗茂(たちばな・むねしげ、1567~1643)で合戦後改易、浪人生活を送るも見事大名に復帰し唯一旧領の築後柳川を回復した武将ですが、宗茂居城の赤館城は山城で城域の広がりが乏しく5万石大名にふさわしい城郭を造る必要がありました。

寛永元年(1624)、幕府より新城築城の決裁のもと長重は父長秀より伝授されていた築城技術を以て赤館に替わる築城に取り掛かります。

築城の立地については赤館から南進の近津明神(ちかつみょうじん)の境内を城域に選定、明神の西側が急勾配の丘となっており防御に優れる地との見立てが長重にあったと思われます。

しかしながら築城の為に昔から慣れ親しんでいる明神を移すことに難色を示している住民を説き伏せて当明神を遷宮に導き明神跡地に築城工事が始まります。

寛永4年(1627)会津藩主蒲生忠郷(がもう・たださと)が継嗣なく死去、生母が家康の娘であったため改易は免れるも蒲生家を相続した忠郷の弟忠知が60万石から24万石に大減封のうえ伊予松山に転封するに至ります。

蒲生氏の旧領については加藤嘉明(かとう・よしあきら、1563~1631)と長重が入封することとなり、加藤嘉明には会津40万石、長重には陸奥国白河・石川・田村・岩瀬4郡のうち10万7千石がそれぞれ封ぜられ、長重は白河を本拠とすることになります。

従って元和7年(1621)に入封し築城をめざした棚倉城は未完成のまま長重は移封せざるを得ず、譜代の内藤信照によって完成したとされます。

尚白河転封後の長重は幕府より奥州の大名を押さえる堅牢な城にすべくその白河城の城郭大改築の命を受け、寛永6年(1630)着工し寛永9年(1633)に完成させ、ここでも築城の名手ぶりがいかんなく発揮されます。

幕府が関東と奥州の境目の要衝の地である白河に外様である丹羽長重を配したのは、長重の築城技術を評価しただけではなく生涯変わらぬ長重の実直さとも言うべき態度が家康・秀忠・家光の歴代将軍の好感を得て信頼に繋がったからこそと言えるかもしれません。



本丸跡大手門よりに建てられた棚倉城説明板には次の如く記されています。


「 棚 倉 城 跡

二代将軍徳川秀忠は、丹羽五郎佐エ門長重に命じて、棚倉に平城を築かせた。

長重は案を練り、この地にあった近津神社の神境を最適地とし、宮を現在の馬場都々和気神社に移し、寛永2年、この地に築城をはじめた。

寛永4年、長重は白河に移されたが、代わって滋賀県近江山城より内藤豊前守信照が城主となった。

阿部美作守正静の代になり、戊辰戦争の兵火にかかり、慶応4年6月24日落城した。この間250年、城主の代わること16代であった。

                  棚倉町 棚倉町観光協会 」

交通手段
JRローカル

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  • JR磐城棚倉駅

    JR磐城棚倉駅

  • JR磐城棚倉駅土産品<br /><br />駅待合所に配された棚倉町特産物が入ったガラスケースには商品と共に丹羽長重の似顔絵が貼り出されています。

    JR磐城棚倉駅土産品

    駅待合所に配された棚倉町特産物が入ったガラスケースには商品と共に丹羽長重の似顔絵が貼り出されています。

  • 棚倉町観光案内図

    棚倉町観光案内図

  • たなぐら夏祭りポスター<br /><br />訪問日は偶然にも棚倉の夏祭りで駅から棚倉城までの道路は歩行者天国で、様々な出店が並んでおり子供を含め多数の人々が詰めかけていました。

    たなぐら夏祭りポスター

    訪問日は偶然にも棚倉の夏祭りで駅から棚倉城までの道路は歩行者天国で、様々な出店が並んでおり子供を含め多数の人々が詰めかけていました。

  • 棚倉城本丸内堀<br /><br />現在では本丸と本丸を取り囲む内堀しか残されていません。

    棚倉城本丸内堀

    現在では本丸と本丸を取り囲む内堀しか残されていません。

  • 北二門への渡橋<br /><br />今では住宅地と化している北門を経て橋を渡り北二門跡に接近します。<br /><br /><br /><br /><br />

    北二門への渡橋

    今では住宅地と化している北門を経て橋を渡り北二門跡に接近します。




  • 棚倉城本丸・内堀

    棚倉城本丸・内堀

  • 棚倉城本丸内堀

    棚倉城本丸内堀

  • 北二門跡<br /><br />橋を渡り左右に大規模な土塁を控えた北二門跡に接近します。<br /><br /><br /><br />

    北二門跡

    橋を渡り左右に大規模な土塁を控えた北二門跡に接近します。



  • 北二門跡土塁(左側)<br /><br />北二門跡左側に聳える土塁が早速視野に入ります。

    北二門跡土塁(左側)

    北二門跡左側に聳える土塁が早速視野に入ります。

  • 北二門跡土塁(右側)

    北二門跡土塁(右側)

  • 本丸跡(東側)<br /><br />現在は広場となっていますが、訪問日は棚倉町の夏祭りのため臨時駐車場となっています。

    本丸跡(東側)

    現在は広場となっていますが、訪問日は棚倉町の夏祭りのため臨時駐車場となっています。

  • 本丸跡(西側)<br /><br />本丸を取り囲む形で2−3mの高さの土塁が走っています。

    イチオシ

    本丸跡(西側)

    本丸を取り囲む形で2−3mの高さの土塁が走っています。

  • 棚倉城跡説明板

    棚倉城跡説明板

  • 棚倉町城下絵図説明板

    棚倉町城下絵図説明板

  • 櫓門跡標柱

    櫓門跡標柱

  • 本丸跡広場<br /><br />およそ高さ2~3mの土塁から本丸跡広場を展望します。

    本丸跡広場

    およそ高さ2~3mの土塁から本丸跡広場を展望します。

  • 土塁(南側)<br /><br />本丸を取り囲む幅5−6mに及ぶと思われる土塁の規模は見事です。

    土塁(南側)

    本丸を取り囲む幅5−6mに及ぶと思われる土塁の規模は見事です。

  • 内堀<br /><br />南側土塁から内堀を一望します。<br /><br />

    内堀

    南側土塁から内堀を一望します。

  • 隅櫓跡<br /><br />往時の棚倉城図では本丸の四方には二重の隅櫓があったそうですが、現在では南西の隅櫓跡にはあずまやが建てられています。

    隅櫓跡

    往時の棚倉城図では本丸の四方には二重の隅櫓があったそうですが、現在では南西の隅櫓跡にはあずまやが建てられています。

  • 忠霊塔

    忠霊塔

  • 元帥畑俊六終焉の地石碑

    元帥畑俊六終焉の地石碑

  • 北二門に通じる渡橋<br /><br />北側土塁から北二門に通じる渡橋を一望します。本丸への道は大手門からの渡橋と北門からの渡橋しかありません。

    北二門に通じる渡橋

    北側土塁から北二門に通じる渡橋を一望します。本丸への道は大手門からの渡橋と北門からの渡橋しかありません。

  • 土塁(東側)

    土塁(東側)

  • 土塁から展望<br /><br />東側土塁から内堀を見下ろします。

    土塁から展望

    東側土塁から内堀を見下ろします。

  • 大手橋付近広場<br /><br />旧近津明神のご神木であった大けやきの姿が見えます。

    大手橋付近広場

    旧近津明神のご神木であった大けやきの姿が見えます。

  • 旧近津神社ご神木<br /><br />棚倉藩主となった丹羽長重がこの地にあった近津神社を遷宮して棚倉城築城を手掛けた際、残された大けやきは近津神社のご神木で今でも厳然としています。

    旧近津神社ご神木

    棚倉藩主となった丹羽長重がこの地にあった近津神社を遷宮して棚倉城築城を手掛けた際、残された大けやきは近津神社のご神木で今でも厳然としています。

  • ご神木の大けやき<br /><br />傍らの説明板によれば形が優れていたため残されたとのこと、樹齢が約600年と言われています。

    ご神木の大けやき

    傍らの説明板によれば形が優れていたため残されたとのこと、樹齢が約600年と言われています。

  • 内堀風景

    内堀風景

  • 大手橋<br /><br />かつては大手門を経てこの橋を渡り本丸に向かっていました。

    大手橋

    かつては大手門を経てこの橋を渡り本丸に向かっていました。

  • 内堀風景<br /><br />大手橋から内堀を一望します。

    内堀風景

    大手橋から内堀を一望します。

  • 内堀風景

    内堀風景

  • 内堀風景

    内堀風景

  • 亀ケ城阯石柱<br /><br />棚倉城は「亀ケ城」とも称されています。

    亀ケ城阯石柱

    棚倉城は「亀ケ城」とも称されています。

  • 本丸跡広場<br /><br />夏祭りに訪れる車輌の駐車場となっています。

    本丸跡広場

    夏祭りに訪れる車輌の駐車場となっています。

  • 棚倉城大手門跡

    棚倉城大手門跡

  • 棚倉城追手門(大手門)跡説明板

    棚倉城追手門(大手門)跡説明板

  • 学びの門<br /><br />棚倉城跡見学を終えて夏祭り会場を見ながら棚倉駅に向かいます。途中に「学びの門」と称する一角があり、そこには立花宗茂を初代藩主とする歴代棚倉藩主の説明板が並んでいます。

    学びの門

    棚倉城跡見学を終えて夏祭り会場を見ながら棚倉駅に向かいます。途中に「学びの門」と称する一角があり、そこには立花宗茂を初代藩主とする歴代棚倉藩主の説明板が並んでいます。

  • 棚倉藩主初代/立花宗茂<br /><br />「初代藩主 立花氏(1604~1620)<br /><br />棚倉地方は鎌倉時代以降、永い年月の間、白川氏の領土であった。<br />白川氏の領土はもともとは、源頼朝から下総(茨城県)結城氏にあたえられたものだった。後に分家して、福島県白河に拠点を置いた白河結城氏が本家をしのぎ、その勢力圏は南奥州から北関東にまで及んだ。<br /><br />しかし、その白川結城氏も戦国期に入り、常陸太田(茨城県)の佐竹氏の台頭により滅亡した。その間、棚倉は白河結城氏と佐竹氏の最前線の戦場となり、後には南下を目指す伊達氏と佐竹氏がこの地で対立した。<br /><br />そして、天正18年(1590)の豊臣秀吉の全国平定にともなう「奥州仕置」すなわち領地決定により、棚倉は天領となり、戦渦にまきこまれることはなくなった。<br /><br />江戸時代に入り、棚倉の初代の藩主となったのは立花宗茂(たちばなむねしげ)であった。宗茂は築後柳川(福岡県)の城主であったが、関ヶ原の戦いで豊臣方につき改易、浪々の身となった。<br /><br />その後、2代将軍秀忠に取り立てられ、慶長9年(1604)棚倉に領地をあたえられ、のち加封となり、赤館を居城として支配にあたった。<br /><br />元和6年(1620)宗茂は旧領柳川藩11万石にもどった。」

    棚倉藩主初代/立花宗茂

    「初代藩主 立花氏(1604~1620)

    棚倉地方は鎌倉時代以降、永い年月の間、白川氏の領土であった。
    白川氏の領土はもともとは、源頼朝から下総(茨城県)結城氏にあたえられたものだった。後に分家して、福島県白河に拠点を置いた白河結城氏が本家をしのぎ、その勢力圏は南奥州から北関東にまで及んだ。

    しかし、その白川結城氏も戦国期に入り、常陸太田(茨城県)の佐竹氏の台頭により滅亡した。その間、棚倉は白河結城氏と佐竹氏の最前線の戦場となり、後には南下を目指す伊達氏と佐竹氏がこの地で対立した。

    そして、天正18年(1590)の豊臣秀吉の全国平定にともなう「奥州仕置」すなわち領地決定により、棚倉は天領となり、戦渦にまきこまれることはなくなった。

    江戸時代に入り、棚倉の初代の藩主となったのは立花宗茂(たちばなむねしげ)であった。宗茂は築後柳川(福岡県)の城主であったが、関ヶ原の戦いで豊臣方につき改易、浪々の身となった。

    その後、2代将軍秀忠に取り立てられ、慶長9年(1604)棚倉に領地をあたえられ、のち加封となり、赤館を居城として支配にあたった。

    元和6年(1620)宗茂は旧領柳川藩11万石にもどった。」

  • 棚倉藩主/丹羽氏<br /><br />「二代藩主 丹羽氏 (1622~1627)<br /><br />立花氏のつぎに棚倉をあたえられたのは丹羽長重(にわながしげ)であった。長重は関ヶ原の戦いでは徳川方についたが、前田利長(まえだとしなが)との争いが原因で改易、のち秀忠に大名に取り立てられていた。<br /><br />寛永元年(1624)長重は築城を幕府に願い出、許されて建設を開始した。それが現在も町の中心に壮大な濠を残す棚倉城の最初である。」

    棚倉藩主/丹羽氏

    「二代藩主 丹羽氏 (1622~1627)

    立花氏のつぎに棚倉をあたえられたのは丹羽長重(にわながしげ)であった。長重は関ヶ原の戦いでは徳川方についたが、前田利長(まえだとしなが)との争いが原因で改易、のち秀忠に大名に取り立てられていた。

    寛永元年(1624)長重は築城を幕府に願い出、許されて建設を開始した。それが現在も町の中心に壮大な濠を残す棚倉城の最初である。」

  • 棚倉藩主/内藤氏<br /><br />「三~五代藩主 内藤氏(1627~1705)<br /><br />丹羽氏に代わって、棚倉藩主となったのは、近江国長浜の領主であった内藤信照であった。<br /><br />・三代藩主:内藤信照(ないとうのぶてる)<br /><br /> 信照の第一の仕事は、丹羽長重がやり残した城郭の完成及び城下町の整備で<br /> あった。また藩としての体制を確立するため、大がかりな検地を行なう一方、  民心を得るため社寺に対し積極的な保護政策を打ち出した。<br /><br />・四代藩主:内藤信良(ないとうのぶよし)<br /><br />       (略)<br /><br />・五代藩主:内藤弌信(ないとうかずのぶ)<br /><br />       (略)<br /><br />内藤氏三代、七十八年にわたる支配によって、棚倉の藩体制が確立されたといえるだろう。」<br />

    棚倉藩主/内藤氏

    「三~五代藩主 内藤氏(1627~1705)

    丹羽氏に代わって、棚倉藩主となったのは、近江国長浜の領主であった内藤信照であった。

    ・三代藩主:内藤信照(ないとうのぶてる)

     信照の第一の仕事は、丹羽長重がやり残した城郭の完成及び城下町の整備で
     あった。また藩としての体制を確立するため、大がかりな検地を行なう一方、  民心を得るため社寺に対し積極的な保護政策を打ち出した。

    ・四代藩主:内藤信良(ないとうのぶよし)

           (略)

    ・五代藩主:内藤弌信(ないとうかずのぶ)

           (略)

    内藤氏三代、七十八年にわたる支配によって、棚倉の藩体制が確立されたといえるだろう。」

  • 棚倉藩主/太田氏<br /><br />「六代藩主 太田氏(1705~1728)<br /><br />太田氏は、江戸城を築城した太田道灌(おおたどうかん)を含む、関東の名門であり、家康が関東に入ってから用いられ、のちに大名に取り立てられた。<br /><br />太田資晴(おおたすけはる)は宝永二年(1705)に駿河田中から棚倉へと国替えとなった。資晴は日蓮宗長久寺を創建し、棚倉城南門を移し山門とした。これが唯一現存する棚倉城の建物となる。<br /><br />享保十三年(1728)資晴は上州館林(群馬県)に移封となった。<br /><br />

    棚倉藩主/太田氏

    「六代藩主 太田氏(1705~1728)

    太田氏は、江戸城を築城した太田道灌(おおたどうかん)を含む、関東の名門であり、家康が関東に入ってから用いられ、のちに大名に取り立てられた。

    太田資晴(おおたすけはる)は宝永二年(1705)に駿河田中から棚倉へと国替えとなった。資晴は日蓮宗長久寺を創建し、棚倉城南門を移し山門とした。これが唯一現存する棚倉城の建物となる。

    享保十三年(1728)資晴は上州館林(群馬県)に移封となった。

  • 棚倉藩主/松平(越智)氏<br /><br />「七代藩主 松平(越智)氏 (1728~1746)<br /><br />太田氏と交代して上州館林から入封したのは、親藩大名松平武元(まつだいらたけちか)であった。<br /><br />元文四年(1739)城付領地二万五千石五十五か所が塙代官支配の天領となり、代替地は遠方となり、城下町としての棚倉は急激にさびれてしまった。<br /><br />延享三年(1746)武元はもとの館林へもどった。蓮家寺にある大仏は、武元が藩主時代に作られたものである。」

    棚倉藩主/松平(越智)氏

    「七代藩主 松平(越智)氏 (1728~1746)

    太田氏と交代して上州館林から入封したのは、親藩大名松平武元(まつだいらたけちか)であった。

    元文四年(1739)城付領地二万五千石五十五か所が塙代官支配の天領となり、代替地は遠方となり、城下町としての棚倉は急激にさびれてしまった。

    延享三年(1746)武元はもとの館林へもどった。蓮家寺にある大仏は、武元が藩主時代に作られたものである。」

  • 棚倉藩主/小笠原氏<br /><br />「八~十代藩主 小笠原氏(1746~1817)<br /><br />礼儀作法の基本とされている小笠原流の分家筋の小笠原長恭(おがさわらながゆき)が松平氏に代わり棚倉に入った。<br /><br />・八代藩主:小笠原長恭(おがさわらながゆき)<br /> 延享三年(1746)七歳で遠州掛川(静岡県)より棚倉城主になる。近江(滋賀県)の二万石と棚倉の四万石で六万石となる。寛延三年(1750)、塙騒動(戸塚)があり、塙代官の依頼で棚倉より兵を出す。<br /><br />・九代藩主:小笠原長尭(おがさわらながたか)<br /><br />         (略)<br /><br />・十代藩主:小笠原長昌(おがさわらながまさ)<br /><br />         (略)          」<br /><br /><br />

    棚倉藩主/小笠原氏

    「八~十代藩主 小笠原氏(1746~1817)

    礼儀作法の基本とされている小笠原流の分家筋の小笠原長恭(おがさわらながゆき)が松平氏に代わり棚倉に入った。

    ・八代藩主:小笠原長恭(おがさわらながゆき)
     延享三年(1746)七歳で遠州掛川(静岡県)より棚倉城主になる。近江(滋賀県)の二万石と棚倉の四万石で六万石となる。寛延三年(1750)、塙騒動(戸塚)があり、塙代官の依頼で棚倉より兵を出す。

    ・九代藩主:小笠原長尭(おがさわらながたか)

             (略)

    ・十代藩主:小笠原長昌(おがさわらながまさ)

             (略)          」


  • 棚倉藩主/井上氏<br /><br />「十一~十二代藩主 井上氏(1817~1836)<br /><br />小笠原氏の次に棚倉の藩主となったのは、井上正甫(いのうえまさもと)であった。<br /><br />・十一代藩主:井上正甫(いのうえまさもと)<br /><br /> 文化十四年(1817)遠江浜松(静岡県)かより六万石で棚倉城主となる。文政三年(1820)幕府の役を致仕(やめ)、病気といって棚倉へ来なかった。棚倉に蛇が多いという伝説はこの頃につくられる。<br /><br />・十二代藩主:井上正春(いのうえまさはる)<br /><br /> 文政三年(1820)城主となる。文政七年(1824)英国船が常陸大津に<br /> 上陸したので、棚倉は海岸に陣屋を設けて警備した。天保五年(1834)社寺<br /> 奉行となる。天保七年(1836)上野館林(群馬県)の城主となる。」<br /> 

    棚倉藩主/井上氏

    「十一~十二代藩主 井上氏(1817~1836)

    小笠原氏の次に棚倉の藩主となったのは、井上正甫(いのうえまさもと)であった。

    ・十一代藩主:井上正甫(いのうえまさもと)

     文化十四年(1817)遠江浜松(静岡県)かより六万石で棚倉城主となる。文政三年(1820)幕府の役を致仕(やめ)、病気といって棚倉へ来なかった。棚倉に蛇が多いという伝説はこの頃につくられる。

    ・十二代藩主:井上正春(いのうえまさはる)

     文政三年(1820)城主となる。文政七年(1824)英国船が常陸大津に
     上陸したので、棚倉は海岸に陣屋を設けて警備した。天保五年(1834)社寺
     奉行となる。天保七年(1836)上野館林(群馬県)の城主となる。」
     

  • 棚倉藩主松平(松井)氏<br /><br />「十三~十六代藩主 松平(松井)氏 (1836~1866)<br /><br />松平氏は仙石事件・竹島事件で国替えとなり、石見浜田から棚倉に入った。<br /><br />・十三代藩主:松平康爵(まつだいらやすたか)<br /> <br /> 天保七年(1836)石見浜田(島根県)より六万四百石で棚倉城主となる。<br /> 山本不動尊へ開運祈願の石灯籠を寄進(寄附)する。<br /><br />・十四代藩主:松平康圭(まつだいらやすかど)<br /><br /> 嘉永七年(1854)兄康爵の養子となり城主となる。藩政改革に意を用い「機<br /> 業(はた織り)」「瓦焼」「梨園」「こんにゃく栽培」「牧場(放牧による)」 など奨励した。  <br /> 文久二年(1862)に亡くなる。<br /><br />・十五代藩主:松平康泰(まつだいらやすひら)<br /> <br /> 文久二年(1862)城主となる。元治元年(1864)天狗党鎮圧のため、<br /> 棚倉と江戸屋敷から兵を出す。その年十六歳で亡くなる。<br /><br />・十六代藩主:松平康英(まつだいらやすひで)<br /><br /> 元治元年(1864)城主となる。慶応元年(1865)老中に就任し、翌年<br /> 武蔵川越に移った。」

    棚倉藩主松平(松井)氏

    「十三~十六代藩主 松平(松井)氏 (1836~1866)

    松平氏は仙石事件・竹島事件で国替えとなり、石見浜田から棚倉に入った。

    ・十三代藩主:松平康爵(まつだいらやすたか)
     
     天保七年(1836)石見浜田(島根県)より六万四百石で棚倉城主となる。
     山本不動尊へ開運祈願の石灯籠を寄進(寄附)する。

    ・十四代藩主:松平康圭(まつだいらやすかど)

     嘉永七年(1854)兄康爵の養子となり城主となる。藩政改革に意を用い「機
     業(はた織り)」「瓦焼」「梨園」「こんにゃく栽培」「牧場(放牧による)」 など奨励した。  
     文久二年(1862)に亡くなる。

    ・十五代藩主:松平康泰(まつだいらやすひら)
     
     文久二年(1862)城主となる。元治元年(1864)天狗党鎮圧のため、
     棚倉と江戸屋敷から兵を出す。その年十六歳で亡くなる。

    ・十六代藩主:松平康英(まつだいらやすひで)

     元治元年(1864)城主となる。慶応元年(1865)老中に就任し、翌年
     武蔵川越に移った。」

  • 棚倉藩主/阿部氏<br /><br />「十七代藩主 阿部氏 (1866~1868)<br /><br />棚倉最後の藩主阿部正静(あべまさきよ)が、白河から移封してきたのは慶応三年(1867)倒幕の嵐吹き荒れる、大政奉還の年であった。翌年には戊辰戦争が始まり、棚倉藩も奥州越列藩同盟に参加、しかし板垣退助率いる官軍に攻撃され、自ら火を放ち、同年六月落城した。九月には会津若松城も開城し、降伏した。<br /><br />明治となり、阿部正功(あべまさこと)が棚倉藩知事に任命される。正功は明治三年に「修道館」という学校を開校し、人材の育成を図った。この学校は、現在の棚倉小学校の前身である。」

    棚倉藩主/阿部氏

    「十七代藩主 阿部氏 (1866~1868)

    棚倉最後の藩主阿部正静(あべまさきよ)が、白河から移封してきたのは慶応三年(1867)倒幕の嵐吹き荒れる、大政奉還の年であった。翌年には戊辰戦争が始まり、棚倉藩も奥州越列藩同盟に参加、しかし板垣退助率いる官軍に攻撃され、自ら火を放ち、同年六月落城した。九月には会津若松城も開城し、降伏した。

    明治となり、阿部正功(あべまさこと)が棚倉藩知事に任命される。正功は明治三年に「修道館」という学校を開校し、人材の育成を図った。この学校は、現在の棚倉小学校の前身である。」

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この旅行記へのコメント (1)

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  • 蔦之丞さん 2016/09/26 09:20:55
    再発見させられました
    滝山氏照様
     おはようございます!
    棚倉には、乗馬クラブに毎週末
    数年通っていましたし
    城跡にも行きましたが、ここまでの歴史を紐解いた事がございません
    勉強になりました

    今度は是非、春の桜を見に来てくださいませ。
                     

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